口は禍の門

あっという間に改ページの時期がやってきてしまいました。今年は「学を絶てば憂いなし」から始まりましたが、この場合の「学」は地位とか名誉に関わる学です。昨年末からの仕分けは「学」のあり方を考えさせる良い機会でした。蛸壺学はやりたい人に勝手にやって頂いて、総合的、包括的な環境研究を進めなければならないと思います。また、このような研究は小さくなければならないのではないかとも思います。小さいと全体を俯瞰できるから。(2010年6月30日)

早くも4月。校内の桜もだいぶひらいてきました。私はソメイヨシノより、もっとピンクの濃い花が好きです。今、自宅では桃の花が咲いていますが、これがいいなと思います。今年の学生は最大時に27人ということになりました。どうすんの、という声も聞こえますが、これを力にしなければいけないと思います。目標は協働して問題解決にあたる姿勢。もちろん、個人が成長することが大切ですが、それによって全体が良くなっていく。これを実現させたい。(2010年4月1日)

今年は年賀状に使う写真を羽村の「まいまいず井戸」にしました。実は正月になってから書いています。武蔵野台地では地下水面が深いために、まず大地をすり鉢状に掘ってから、その底に井戸を掘る。深みに達するためにはその口は広くなければならない。研究という行為も同じ。特に環境問題は地域の問題。一般性や普遍性といった範疇の知識を含む幅広い知識や経験を持った上で個別性を掘り下げていく。これができないと問題に対応することはできない。“つねに、より深きものをめざして”、あれ、どっかで聞いたことが...ちょっと違うか。(2010年1月1日)

2009年12月までの書き込み


複雑なものは複雑なものとしてみること

今日のゼミで学生の発表にコメントしたこと。自然界で起きている現象は様々な要因が積分されて生じている。だから、複雑なものの中からシンプルな関係を取り出そうとしても、悩ましい場合が多い。複雑なものは複雑なものとして見よう。領域全体を一つの見方で説明しようとせずに、地域ごとに説明しても良い。こういう見方が研究室のカラーであり、こういう見方をしなければ環境は理解できないし、問題に対応することはできない。(2010年6月30日)

時代の精神

我々の行動は時代の精神に左右されがちである。しかし、その精神は変わりやすいという側面も持つ。時代の精神が変わったことに気づかず、古い時代を引きずり続けることが大きな過ちにつながる場合もある。相撲業界の状況はどう解釈したら良いのだろうか。一昔前ならば、歌舞伎役者にもあるような“ちょいわる文化”なんてものがあったとしてもおかしくはない。しかし、時代の精神は変わった。昔の慣性を引きずっているのならば、大いに反省して再起してほしい。もちろん、犯罪はそれとしてきっちり法のもとで対処すればよい。ただし、悪者をあぶり出して叩き潰すのではなく、どうしてこうなったのかをシステム全体を俯瞰して検証し、今後そうならないような施策を練ってほしい。それにしても、現在は時代の精神の変わり目なのではないか。9・11テロあたりから雰囲気はあったが、リーマンショックを経て、どうも“変わり目感”はますますはっきりしてきたように感じる。それは環境研究の世界も同じ。92年の環境サミット以降に強化された研究の流れは変わるのではないか。地球温暖化や生物多様性が重要なことに変わりはないが、新しいフェーズに入らなければならないのではないだろうか。G20で財政赤字削減目標については日本は例外とされたという。こんな時代だからこそ、成長とイノベーションに頼らない問題解決方法を社会は選択しなければならないのではないか。研究者は時代の精神が変わることを予見して、研究プロジェクトのあり方を見直さなければならないのではなかろうか。環境分野では、大きなプロジェクトではなく、小さくても地域を包括的に見る研究、強すぎる未来志向ではなく、現在を大切にして良くしていこうという研究が必要だと思います。(2010年6月29日)

楽農報告

今日は外にいるだけで頭がボーっとなるくらい蒸し暑い日でした。暑さ、湿気、汗、泥、蚊、ときたら何をしていてもやる気が失せます。とはいえ、雑草やら虫やらで、夏の畑は放っておけません。今日はジャガイモのメイクィーンの収穫を行いましたが、それはそれはたくさん採れました。これは満足。まだ、インカのめざめ、アンデスレッド、シャドークウィーンが残っていますので、しばらくは楽しめます。ヨトウムシにやられたインゲンの苗のまわりを掘ってみたら、いました。かわいそうですが駆逐。二本立ちにしてあったので、間引いた苗を移植。ダイコンのあとにホウレンソウと三十日ダイコンを播種。小松菜はテーブル一枚分くらいの広さですが、食べきれなかったので、ホウレンソウと三十日ダイコンの区画は小さくする。キュウリ、ナス、ピーマン、シシトウはぼちぼち。人参も間引いたミニニンジンをその場で食すと美味しい。汗だくになりましたが、家に戻り、まったり。実はエアコンは数年、いや五年以上前に壊れて、以来エコな夏を過ごしていたのですが、今年は我慢ならず更新。この間の二酸化炭素放出量はだいぶ減っていたと思います。エアコンの規格は旧機種を購入した15年前とは変わっており、壁内配管は使えなくなっていました。ただし、エネルギー効率は相当良くなっているに違いない、と思いますがどうなんだろうか。個々の家庭ではエネルギー消費量は減っていると思う。二酸化炭素問題における家庭セクターの問題は世帯数の増加。婚活が世界を救う。一方、産業セクター、事業所セクターがどうするのかが重要。長期的には都市計画で涼しい街を創っていければ良い。家庭菜園もそのための実験の一つかも。気温でも計るか。今日はかみさんに怒られながら、ビール飲酒を強行しました。暑いっすから。(2010年6月27日)

谷田武西戸神の湧水

白井の谷田武西戸神の湧水調査の中間結果を報告してきました。20数名もの方々にお集まり頂きましたが、皆さんの関心は非常に高い。いろいろな質問に完璧には答えられないのですが、それは地域を扱っているから。地域に通い、足を使って様々なものを見て、体験する中から環境の認識が生まれてくる。私はまだ体験が少ない。報告会終了後、ある方から“八千代市湧き水マップ”を頂きました。年輩の方でしたが、地域に誇りを持ち、自分の目で確かめながら作られたマップはすばらしい。こういう活動が環境の“気付き”につながり、保全のモチベーションにつながる。おそらく“安心”や“満足”にもつながる。印旛沼につながる新川沿いに自噴井がまだあるなんてすばらしい。おそらく“地形性”の自噴井だと思いますが、こんな議論が地元の方々とできるようになればよい。地形性、何それ、学者言葉じゃないの、なんてことにならないように。私の自宅はマップの左下、凡例の下辺り。自転車でも回れる距離ですので、谷を一本一本詰めて調査する必要もあるなと思う。地域の真ん中に道の駅があり、ビールも飲める。いつか春一番の日に風に押されて新川沿いに印旛沼まで行ってしまったことがあった。帰りは向かい風で疲労困憊したのですが、道の駅でビールを飲んでしまい、さらにヨレヨレになってしまったこともあった。あの辺りです。(2010年6月26日)

生物多様性−何をすべきか

「生物多様性とリモートセンシング技術」というワークショップに参加してきました。様々な立場のひとが一同に介したおもしろいワークショップだったのですが、生物多様性を巡る同床異夢を少し感じました。研究者の生物多様性は研究対象であり、社会と結びつけるとどうしても空間的視野は広くなり、未来志向になる。一方、現場の方は、いまそこにある生態系が問題であり、現実が問題となる。私は現場で個別に考えるという立場をとりたい。今後の生物多様性はいかに価値化するかということに取り組まなければならないと思う。その価値は個別に地域ごとに存在し、今この時点で価値化していかなければならない喫緊の課題だと思うからです。リモートセンシングはうまく使うと、生物多様性に関わる諸状況を可視化できる。すると、“気付き”が生まれる。この気付きは身の回りを取り巻く様々な事柄との“つながり”を意識することにつながる。そうすると、生物多様性の価値化へのフィードバック、さらなる価値付けにつながる。生物多様性を意識する、すなわち人と自然の関係を意識し、良好な関係を保つことを考える、これが未来の安心社会のあり方の議論につながっていくのだと思うのです。(2010年6月25日)

日本の科学者は主要国で最も不幸せ−なぜ

Yahooニュース(毎日配信)を見ていますが、朝日朝刊にもありました。世界の科学者に8項目の労働環境について、満足(1点)から不満(0点)で点数化してもらったとのことです。日本が満足度最下位の項目は、「休日」、「労働時間」、「研究テーマの独立性」、「上司や同僚からの指導」なのですが、大学の研究者、少なくとも自分の分野にはあまり当てはまらないように思う。好きでやっている仕事ですし、一丁前の研究者が指導がないなんて文句言う訳がありませんから。労働環境には無頓着というのが大学人の習性なのではないか(大いに反省すべき点ではあります)。背景には何があるのか。研究者は研究ができれば満足という時代ではなくなってきたのか。一番の根っこには「科学行政」と「研究者の総意」あるいは「研究者が培ってきた信念」の間の乖離がありそう。学術会議、国際学術会議(ICSU)などの組織が研究者の総意として提言したものと、行政(これは素人でもある)が望む成果の間に乖離がある。あるいは無理解がある。その結果、予算と名誉を巡る極端な競争主義に陥り、研究が研究事業になった。一部のエリートは満足するが、一介の研究者、事業の中で育てられた研究者は自分の成果は優れているはずだと身構え、鎧を身につける。評価されれば良いが、そうでなければ心まで病んでしまう。それで、労働環境も気になるようになる。考えすぎだといいのですが。千葉大学では大規模プロジェクトの申請には大学の干渉が入る。研究者の主張と素人受けする主張の間で研究者は悩むことになる。なぜ科学が大切か、ということの認識が行政と現場で異なる。科学論、環境論、こういうものを遠ざけていることが日本の科学者が満足できない根本の理由なのではないだろうか。とはいえ、評価者が素人であるのは現実です。トップレベルの問題は評価者を含めた国民の科学リテラシー不足にあるのではないか。科学者が国民の科学リテラシー醸成にどれだけ努力したかと考えると、まだまだ不足しているかも知れない。(2010年6月24日)

四身一体社会−都市・農村・生物多様性・健全な水循環

土曜日に白井で報告する湧水調査結果の発表資料がようやくできあがり、ほっとしているところです。後は当日まで少しずつ発酵させていくだけ。千葉ニュータウンに関心があるのは、まさに都市と農村が接して存在しているところだから。都市機能をコンパクトに纏め、郊外に良好な農村景観を残し、相互の“交通”が成り立つ社会のモデルになるのではないか。都市計画と農村計画の融合を考えているのですが、実は健全な水循環系と生物多様性も一体としてとらえることができるのではないか。四者は相互に関連性を持つ。印旛沼流域水循環健全化と千葉県生物多様性戦略に関する活動に関わっていますが、実はすべてを包括的にとらえる必要がある。生物多様性は健全な水循環と密接に関わり、人が関わるためには都市計画、農村計画と一体としてとらえなければならない。そこに、どういう社会を築きたいのかという思想が入ってくる。私は一番を目指す社会と二番でもいい社会は共存できるのではないかと考えている。それを達成するためには環境リテラシーの醸成がベースにあり、その知識、経験に基づいて四者の間の折り合いをつけられる社会、こんな社会を考えています。(2010年6月21日)

地球はせまい

今日は午前中は懐かしい応用地学そして水文の先輩、後輩方と銀座で打ち合わせ。その後、昼食をとりましたが、久しぶりに生ビールを堪能しました。かみさんには内緒です。酔っぱらった足で店を出て、有楽町に向かおうとするが、なぜか新橋方向へ。途中で私立校への支援を要求するデモに出会う。確かに国の支援の対象にはなっていない。議論を深めてほしい。新橋のガード下には個性的な店が多い。新橋のサラリーマンは大変なことも多いでしょうが、楽しいこともありそうだなんて感じるのはなんて無責任。新橋にたどり着き、寄り道の元気も失っていましたので、そのまま都営線へ。快速佐倉行きに飛び乗り、うとうとしていたら幸せそうな中国人の親子連れが前の席に座りました。しばらくしたら、“近藤先生ではありませんか”と。石家庄で会ったとのこと。確かにその顔を覚えていました。横浜の理化学研に来ているそうです。浅草で降りていきましたが、人の軌跡は時々すれ違うことがあるのだな。地球はせまくなり、たくさんの世界の間の距離がますます短くなってきた。多様な地域、多様な価値観、多様ないろいろ、が混沌とする状況でやるべきことは何か。もはや普遍性の追求ではなく、多様な世界における折り合いを探索する科学が必要なのではないか。(2010年6月20日)

自分にとって当たり前のことは

夕方、ある雑誌の記事の打ち合わせがありました。減災を目指した記事づくりの議論なのですが、私にとっては当たり前の知識で、人前で話すなんて恥ずかしい、と思うようなことも一般にはおもしろい、大切と感じて頂けることは実はたくさんある。たいした経験もないのに、専門家面することが憚られたりするのですが、知識、経験は出さないと伝わらないのも事実。なんであいつが、と思われようと、発信していくことが大切。恥ずかしいと思う心はなかなか払拭できないのですが、持っているものを出さないのは教授職として職の不履行にもあたるのではないだろうか。性格を変えなければならない。何十年もそう思いながら今に至っているのではありますが。(2010年6月17日)

「一番を目指すの当然」か

蓮舫さんが「2位ではだめか」とした自らの発言を修正、なんて報道されている。産経ニュースより。蓮舫さんがんばれ。一番を目指しても良いが、二番でもいいんです。二番でも国民が幸せな国造りはできるでしょう。デンマークのような国もあるではないですか。一番にならないと不幸になるのでしょうか。一番の国から搾取され、貧困になってしまうのでしょうか。世界に対する正確な分析と、確固たる自らの考え方を持ち、それに基づいた政策で、生活を一番に優先する、そんな政治をしてほしいと思います。(2010年6月17日)

どっこい生きてる

生協に昼飯を買いに行くため、工学系総合棟の北側出口から出て、工学部のゴミ置き場にさしかかったところで、思いもかけない方と対面しました。ヘビヘビ。私はヘビは元来苦手なのですが、人間の領域で生き抜いているヘビに何となく感動して、しばらく見つめ合っていました。シマヘビだと思いますが(アオダイショウかもしれん)、長さは1mほどありますので、今年生まれた赤ちゃんではないでしょう。こんな場所で何を食べて生きているのだろうか。ねずみだろうか。最近、生物多様性に少し関わり、いろいろな動物に会うようになりました。彼らにとってけっして良い環境ではないところで、自分の力でどっこい生きている生物の存在を知ると、世界を見る目が変わってきます。人はまわりを見渡す時に人間社会しか意識しませんが、だんだんわかってくると、そこにオーバーラップして様々な生態系があることが感じられるようになる。どのように彼らと共存するか、考えざるを得なくなってくる。(2010年6月16日)

思想の大切さ

昨日、日本国民や指導者には思想がない、なんて言ってしまいました。思想というと日本ではどうも怪しいものという感覚がある。講義でも思想や人生観について述べると、疑問を呈する学生が必ずいる(もちろん、共感も多い)。しかし、思想は人の生き方、社会のあり方、未来のあり方を考える際の基層にあるもので、これがなければ強い主張はできない。17億円から3000万円に減額された“はやぶさ2”の予算が国民的人気に後押しされて再検討されるらしい。この予算については情緒的な反応ではなく、国家の財政状況、開発コスト、波及効果、様々な検討を経て決められるべきものである。いろいろな考え方があるでしょうが、その背後にはどんな社会にしたいのか、という思想がある。サッカーではカメルーンに勝って、国民は浮かれている。オシムさんは新聞の一面が本田で占められたら日本は危ういと述べていましたが、スポーツ四紙の一面は本田でした。これも思想がないことの現れではないか。チームで必要なことは何だろうかと考える。組織を良くしていくための思想。日銀は成長分野に新貸出制度を適用するというが、成長分野がわかっていれば誰も苦労しない。これはニュートン・デカルト的な単純な因果関係に基づく思想に囚われている姿だと思う。成長を目指すにはどうすればよいか。別の思想もあり得る。いろいろありますが、深い洞察に基づき、確固たる考え方を得て、進む方向を見通す、こんな態度が今ほど必要な時代は無いように思う。(2010年6月16日)

豊かさや貧困の押しつけ

WEBを閲覧していて“あらたにす”の新聞案内人で森まゆみさんの「アイルランドで日本を考える」という文章を見つけました(6月9日版)。アイルランドは経済的にはひどいというが、昔ながらの景観の中で、元気に、楽しく、誇りを持って暮らす人々を見る。真の豊かさとは何だろうと思う。私もアジア、アフリカ、中近東の田舎で、先進国の基準からすると貧しいとされるのだろうが、明るく暮らす人々を見ると、豊かさや貧困について深く考えさせられる。アイルランドの景観を見て、森さんは日本の公共工事についても言及している。これ以上のコンクリートは要らないのではないかと。こんな考えに対する異見もWEBでは紹介されている。例えば、日本が公共工事でコンクリート国家になってしまったのは、住民が望んだという側面もあるのだ、という意見。しかし、近代化によって人と自然の関係が分断されてしまったことが前段階にあると思う。これも欧米的な豊かさを押しつけられたからともいえる。それはまた戦後の日本が国際社会の中で認められたいがため、日本が選択した道でもあった。どうも世界には豊かさや貧困の押しつけがあるように感じる。地域の人々が自らの暮らしのありようを選択できる社会、それが安心な社会なのだと思う。もちろん、国際社会の中でうまくやっていくリテラシーも持たなければならない。多様な価値観を尊重し、共存できる社会が未来社会として望ましい。これを達成するのは経済か、科学技術か。教育の役割も大きいのではないだろうか。そのためには確固たる思想を持つ必要がある。最近の日本国民や指導者たちは思想がないので、ぶれがひどくなっているように感じる。アイルランドに残るケルトの宗教は自然崇拝の多神教ですので、ケルト文化から我々が学べることも多いのではないかな。(2010年6月15日)

はやぶさの帰還

昨日の夜は久々に感動しました。和歌山大による中継を見ており、帰還と最期の瞬間を見ることができました。最期というのも寂しい気もしますが、みごとでした。マスコミは一過性の報道で終わらせないでほしい。ミッションの課題である太陽系の起源は、実は本当の目的の一部に過ぎない。日本の技術の開発可能性と維持可能性が最も重要な課題。プロジェクトを率いた川口さんは、「この瞬間から技術の離散と風化が始まっている」と述べている(Yahooニュース)。今回のミッションを達成したことで、国際社会における日本の信頼性を担保し、日本の“力”をアピールすることがサイエンスの重要な機能の一部なのです。そこには多くの波及効果がある。ここを忘れてはいけないと思う。ただ、これは国際的な競争社会の中で生き残る戦略でもある。一方、そうではない別の価値観に基づく社会を目指すという選択肢も当然あり得る。厳しい経済状況の中で、日本は決断を迫られている。情緒的な反応だけで終わらないように祈ります。(2010年6月14日)

楽農報告

今日は、青梗菜、小松菜、インゲン、ブロッコリ、赤カブ(これでおしまい)、ダイコンを収穫。作物が終わると寂しいので、新たにインゲン、二十日ダイコンを播種。インゲンもカブも美味でしたので、欲が出ました。黒豆が一つしか発芽しないので、追加の種を買いにいったらすでになし。そこで大豆を購入して播種。来年の節分はこれで。虫が増えてきたので木酢液を買ってみる。どこにも殺虫剤の効能は書いていないが(そう思っていました)、猫よけにはなりそう。父から受け継いだ小さな畑ですが、何とか荒れ地にせずに維持しています。最近、農作業が非常に疲れる。昨日のフィールドもなんだか疲れた。身体の状態がよろしくないのかも。やはり、酒を飲んでいないからではないだろうか。私の酒は明るい酒ですから。かみさんを納得させるのは至難の業ですが。(2010年6月13日)

もったいない

今日は学生と高崎川の流量観測に行きました。私の趣味で昼は蕎麦処「五郎右ヱ門」へ(富里にある農家を改造した蕎麦処で、まさに隠れ家)。その後、流観は順調に終え、気になっていた谷津の谷頭を探しに行く。畑の脇を通らせて頂き、ススキ原を超えて、斜面に達する。その先に、谷頭を発見。斜面を降りて、水辺に達し、採水を終える。それにしても、谷津の湿地はきれいだ。蚊はいますが、涼しく爽やか。はびこった竹を整理してやればとても良い景観になる。人の活動する空間に接して、人が手を加えない、手を加えることをやめてしまった空間がある。もったいないなぁと感じる。谷津の機能、価値を明らかにすれば、保全のモチベーションが高まるだろうか。それが人の心をどう変えるか。都市と農村、農業の多面的機能、自然の恵み(生態系サービス)、水循環と水利用、総合的、包括的に見ていきたい。とはいえ、都会人の勝手な主張にならないように気をつけなければならない。(2010年6月12日)

過剰な無菌志向は幸せに繋がるか

数日前の朝日「声」欄で“清潔な”室内砂場とはいかがなものかという意見が寄せられ、その通りと思っていましたが、今日の天声人語でも「過剰な無菌志向」に対する懸念を呈せられていました。子供を無菌で育てたいという親の志向は、一つには科学リテラシーの不足であると同時に、科学の進歩がもたらした冷徹なまでの命の有限性に対する認識が要因としてあると思う。イスラムやキリスト教では死んだら神の元に召される。仏教でしたら輪廻転生。それが近代では死はすべての終わりとなった。まあ、古き時代の宗教観に戻ることはできないので、これは致し方ないとしても、無菌がかえって人を弱くするということの正確な認識は必要だと思う。無菌の状態で生涯を過ごすにはコストがかかる。そのためにはイノベーションが必要で、経済成長が必須である、なんてことの繰り返しではいかんでしょう。環境の中で暮らす、自然と関わりながら暮らす、そのためには若干のリスクも覚悟しなければならない。何でもそうですが、小さな壁、小さなリスクを乗り越えて人は成長していく。ところで、雑菌に対する耐性という点では、我が家は犬屋敷ですので自信があります。(2010年6月11日)

地域の持続性と幸せの最大化を

今日は学位をとってカンボジアに帰ったはずの彼が突然やってきました。富山の精米器メーカーに就職が決まったとのこと。その会社はインディカ米用の精米器を開発し、カンボジアに進出し、さらに現地で稲作も試みるとのこと。彼はカンボジア駐在になるのですが、いい話ではないですか。稲作は水と切っても切れない関係がありますので、大学で学んだ専門性もいずれ活かせるでしょう。カンボジアはポルポト時代に緑の革命を強権的に進めて失敗しています。それは、机上の計画を現場の事情、すなわち河川の状況や地形などの土地条件、を無視して現場に押しつけたから。地域の気候、地形、地質を良く知り、地域の水循環に適合した水利用による稲作を推進して欲しい。稲作として収益が上がるのは乾期作ですので、水資源として最初にねらわれるのは地下水だと思います。ここで、専門知識を活かして、地下水資源量の的確な予測をし、地盤沈下やヒ素等の地質由来の物質の影響を最小化すると同時に、地域の持続性と幸せを最大化する水利用、稲作を達成して欲しいと思います。ところで、偶然何気なくブラウザで検索したら、こんなのが出てきました。ぜひともがんばってくれ。応援するぞ。 (2010年6月10日)

鎧をまとって主張する若者

天気が良く、空気が爽やかだと心も落ち着きます。しかし、心臓はパックン状態になりました。車の飛び出しであわやというところでしたが、無事止まることができました。ブレーキ性能の進歩には感謝します。最近、交通事故は減っているようですが、それは車が良くなったことが大いに関係しているように思う。確かにイノベーションが安全を作り出している。一方、車の流れも私が初心者だった1980年代と比べると確実におとなしくなっているように思う。最近は一般道での追い越しは滅多に見られません(70〜80年代は追い越しは当たり前だった)。でも歩行者や自転車の通行マナーは決して良くなっているように思えません。主に学内をそろりと走行しているときなのですが、車の存在が無視されるシーンが多いように感じます。けっして目を合わせないまま車に突進してくる自転車、車の存在を意に介さない歩行者。歩行者が優先なのだからもっともなのですが、何かがあるような気がします。高田渡の「夕暮れ」という歌があります。「...彼の目が/この世の誰とも交わらない/彼はこの場所を選ぶ/そうやってたかだか三十分か一時間...」(詩:黒田三郎)。この時代の、「自分の場所からはみ出してしまった多くのひとびと」とは異なる何かが現在の若者にある。それは不安であるようにも感じる。彼らははみ出したくはない。でも、競争社会の中で、いったん負けてしまうと、否応なくはみ出してしまう社会。鎧をまとって常に自分を守りながら主張していかなければならない。これは近代文明の帰結でもある。科学技術の発展は省力化をもたらす。はみ出してしまった人はどうすればよいのか。そこを政治は考えて欲しいと思いますが、どうどうとはみ出すことができる社会というのも良いだろうなと思う。そういう社会の実現も不可能ではない。それにしても急ブレーキからずいぶん話が飛びました。(2010年6月10日)

人の体験を自分のものにすること

Yahooニュースで御巣鷹荒らしが頻発しているとの記事を見つけました。あの時(1985年8月12日)は北海道、手塩における実習の帰りで、苫小牧から大洗に向かうフェリーの中にいました。テレビの映りがよくなくて、旅客機が落ちたらしいということだけわかり、大変なことが起きたと思ったことを覚えています。多くの方が亡くなり、さらに多くの家族、友人が悲しんだその現場を荒らすなんて信じられないことでしょうが、やってしまった本人は何とも思っていないのではないか。他人の体験を自分のものにすることができない、他人の悲しみを自分のこととして感じることができないだけ。もし捕まって取り調べを受けたら、だんだんその悲しみの深さがわかってくるでしょう。ぜひとも捕まってください。あなたは気がついていないだけ。人の体験を自分のものにすることができれば、いろいろなものから多くを学ぶことができるようになる。他人の体験を受け入れられるようになるには、自分の体験も積み上げていく必要があります。(2010年6月8日)

上機嫌のすすめ

昨日は新書を三冊買い込み、読み進めていますが、そのうちの一冊を今朝トイレの中で読み終えました(失礼)。新聞の休刊日でしたので。武田双雲「上機嫌のすすめ」(平凡社新書)。この上機嫌というのを書評で見つけて気に入り、書店で探して早速購入しました。上機嫌力が生きる力、その通りだと思います。書道家として有名な双雲さんは1975年生まれでまだ若いのですが、書いてあることは立派。ゲーテとも共通する考え方があるように思います。それはストリート体験が創った思想ではないか。路傍に座って書を書く。その過程で、自尊心やプライドといった鎧を脱ぎ捨てることができた。これが平穏な心を得るためのステップに違いない。しかし、昨今の評価社会の中ではこの鎧を強化することによって対応しようとする態度が増えているように思う。これもまた不幸増殖装置の機能のひとつ。武田さんは基礎に「とらわれる心」や「こだわる心」が表現力を磨くことの足かせになると述べている。また、一瞬一瞬を大事にすることで、人生は豊かになるとも。いくら未来に希望があったとしても、「いま」を味わえないのなら、未来に対する希望なんていらない、とすら思っているとのこと。これは環境について考えることと共通点があるように思う。基礎すなわち普遍性で環境を見るのではなく、そこに身を置き、体験して、まわりにあるものを包括的にとらえて、関係性を見つけだすこと。「いま」を良くすることを考えること。それが未来に繋がる。上機嫌力は鍛えることによって強くすることができるそうです。さて、私も修行っと。(2010年6月7日)

高等教育の理念の再確認

最近、酒を極力控えているので寝る前に若干は本を読めるようになりました。酒が入ると眠くなりますから。最近読んだ本について書き留めておきます。農文協現代選書217の「『地域の先生』と創るにぎやか小学校」(我孫子市立我孫子第二小学校編)。こんな小学校だったら先生方はやりがいがあるだろなぁと思う。地域の方々と一緒になって様々な体験を生徒にしてもらう。いろいろな試みを通じて生徒は小さな壁を自分で乗り越えていく。卒業生たちはこんな小学校に誇りを持っているに違いない。すごいのは先生が手を出さず、生徒に自分でやらせること。修学旅行でさえバスで引率せずに、グループごとに自分たちで電車で行かせる。それを先生たちはハラハラドキドキしながらみている。これが生徒たちを成長させる。ちょっと待て。大学はどうか。今の大学は事故やトラブルを極端に恐れる。卒論でも一人で調査には行かせない。教員が引率することを求められる。大学で何かを試みる、そして小さな壁を乗り越える機会がどんどん失われている。背後には評価社会の負の側面があるのではないか。とにかく優秀ということになっていないと評価されないので不安でしょうがない、という教員心理。人や他分野を貶めることによって相対的に自分や自分の分野が優秀になろうとする浅ましい心理。こんなことを書くと怒られてしまいそうですが、大学運営を見ていると確実にあると思います。さて、どうすればよいか。そこで、システム全体を俯瞰すると、決してシステム全体の欠陥ではなく、ごく少数の優秀病患者がシステム全体に影響を与えているようにも見えてくる。その部分ときちんと対話すれば良い。高等教育の理念を再確認しなければならない。(2010年6月6日)

歎異抄を読む

歎異抄の現代語訳(梅原猛)をとりあえず読み終えました。なかなか一度では理解は難しいのですが、絶対他力の考え方が少しわかったような気もします。歎異抄にある有名な成句「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」のパラドックスがずっと気になっていたのですが、やはり難しい。この善人と悪人は第三者からみたものではないか、とも思うのですが、親鸞自身も時の権力から迫害を受けている。自分を迫害した“敵”でも極楽往生できると考える、その境地に達すれば心は平穏になれるのだとは思うが、私はまだまだ修行不足です。自分を苦しめているのは恐らくつまらん自尊心やプライドだと思う。これを捨て去ったときに仏になれる。とはいえ、そんなことは無理。だから、「南無阿弥陀仏」と唱えて極楽浄土における救いを目指すのが真宗なのかなぁ。背景には戦乱があり、平家の栄華と没落を目の当たりにした体験に基づく現実に対する諦観はないだろうか。戦乱を市場経済における闘争に置き換えると、現在と状況は似ているかも知れない。しかし、800年の時の流れを経て、市場経済の中における弱者は当時とは異なり、力を持てるのではないか。やはり、今この時を良くすることを考えなければあかんのではないかと思う。 (2010年6月6日)

楽農報告

痛風発作後で無理はできないのですが、畑は手をかけないとどんどん荒れていきます。まずは、収穫。小松菜、青梗菜、そしてスティックセニョールとダイコンを少々。漬物用に小カブも少々。インゲンがずいぶん育っていた。一握りの収穫。オクラはうまく根付かず、今日も新たに四本の苗を追加。一つは猫に掘り返されたのですけど。あいかわらず猫にやられっぱなしの黒豆の畝を修復。猫を放し飼いにしている方は考えて欲しいのですが、動物愛護を主張なさっているとのこと。動物愛護とは少し違うと思う。人間と動物の生態系が重なった部分で、お互いに譲り合うのが動物愛護。人が飼っている猫や犬は人が責任を持って管理して欲しい。野鳥に種や実を食われるのは致し方なし。野鳥は自分で自分たちの生態系を維持してがんばって生きている。これは尊重しなければならない。エンドウを収穫した後に、夏蒔きの人参を播種。キュウリが不調なのですが、やはり連作障害か。毎年、少しずつ体験によって学んでいこうと思う。(2010年6月6日)

上水道システムの危機−文明社会のシステムを知ること

Yahooニュースで老朽水道管に関する記事を見つけました。大阪市の上水道管総延長5192kmのうち、29%の約1500kmが40年の耐用年数を過ぎているとのこと。老朽水道管の更新は財政難からあまり進まないのが現状との記述も。堺市や神戸市も同様な状況とのこと。やはり、この数年でこの課題に関する記事は確実に増えているように思う。すでに何度も述べているように、これは近代社会の抱える最大級の問題だと思います。近代文明は維持・更新していかなければならないハードウエアによって支えられている。経済成長が見込めた時期には問題はなかった。しかし、今は違う。まずは、便利なシステムがどのように維持されているのか、市民一人一人が知らなければならない。危機は隠したり、無視したりせず、また、未来の危機ではなく現在の危機を直視することにより、我々はどんな社会を築いていったらよいのか、コンセンサスに達することができると思う。(2010年6月6日)

ストレスから智慧へ

昨日から少しおかしかったのですが、とうとう痛風発作の再来となってしまいました。朝一で医者へ。もう診察も特になく、ただただストレスを解放しなさい、気分転換をしなさいと言われ、薬と湿布をもらって帰ってきました。前回計った尿酸値が7.4で高尿酸体質の私としてはいい方。特にメタボでもないのでストレスと判断されたのでしょうか。確かに日常のストレスは大きい。体中に悪い血が巡っているような気分にもなる。しかし、ストレスなんてものは自ら生み出すもの。それで何かを得ようとして本を読んだり、何かに没頭したりする。そうやっているうちに頭の中の知識が身体感覚(6月1日参照)によっていずれ智慧になっていくのだなと思う。しかし、私はもう十分を歳をとった。いつまでもこんなことで良いのだろうかとも思う。ストレスから智慧を生み出さねば。(2010年6月5日)

近代の次にくるもの

朝日のコラム“視点”でビル・エモットさんは鳩山さんに辛口の点数をつけている。そして、次の首相は“経済競争力の向上”の必要性を理解している人がよく、経済活性化のみが日本の地位や安全保障を強めることができると。一方、オピニオン欄の水野さんの記事は「成長戦略は必要なかった」の小見出し。経済成長で問題を解決していくという近代のモデルにもう限界が来ていると。ふたりともエコノミストですが、エモットさんはイギリス人、水野さんはもちろん日本人。この考え方の違いは生まれ育った社会に由来しないだろうか。欧米的なる考え方と、日本的なる考え方。どちらももっともというのが私のスタンスですが、今までは“近代の思想”であり“欧米の思想”でもあるエモットさんの考え方に寄りすぎていた。文部科学副大臣の鈴木さんは「もう近代を卒業したい」と言っているそうですが、こういう発言が日本の中から出てくるのは心強い。(2010年6月4日)

学生指導について想う

今日は地球科学コースの将来構想委員会でした。学生指導について人数が多すぎることによる問題はないかと聞かれて、つい卒論、修論提出時に十分なチェックができないことがあると言ってしまいました。学生も必死に論文作成に取り組んでいるのですが、いつもギリギリ。数が多いと指導教員が確認する前に期限を迎え、提出されてしまう。学生に伝えてはいるのですが、徹底しないことに忸怩たる思いがありました。これに対して、それを言うならば学生を多くとるべきではないとの指摘がありました。その通りです。本音が出てしまいましたが、それは言ってはいけないことでした。意志を持っているものをとらないということには情緒的な迷いがあるのですが、教育・指導が全うできないのであれば致し方ない。CEReSは研究が本務ということになっているので、CEReSの教員については来年は卒論生定員三名を徹底、再来年は二名に制限されるとの方針が出されました。ただ、本務の研究とは何だろうと思う。地球温暖化研究は物理ですので研究ですが、地球温暖化問題を考えると、その最も現実的な解決は教育ということも考えられる。たとえば、途上国には経済成長は容認する一方で、教育の力により成熟社会を目指し、未来の安定人口を達成することにより温暖化を抑制する。問題解決に至る手段は決して(狭義の)研究だけではない。また、卒論、修論は芸術ではない。背後にいる指導教員ではなく、学生本人が評価されるのですが、学生を通して指導教員が評価される。これはよく考えるとおかしい。教員の優秀病の症状の一つでもある。(2010年6月3日)

鳩山さん退陣に想う

鳩山さんにはもっとがんばってほしかった。鳩山さんは、“いい人”であるというのは大方の評価。それを活かすことができなかったのは、民主党の責任であるとともに、欧米的なるものと日本的なるものの違いを峻別していない国民そのものではないだろうか。欧米のリーダーシップはリーダーへの責任丸投げではない。ヨーロッパの歴史が培った確固たる思想的基盤を持っているものである。民主党は鳩山さんを支えなければいけなかった。鳩山さんは“寅さん型リーダーシップ”を発揮しようとしたのだが、調整がうまくいかなかった。寅さんは、あっちに行って話を聞き、こっちに来てうなずき、いろいろ話を聞いているうちに、いつの間にか折り合いがついている。普天間問題についてはアメリカ軍の存在意義について国民の意識を高めてくれた功績は大きいので、うまく寅さん型リーダーシップを発揮してくれれば沖縄やアメリカとの間で折り合いがついた可能性もあったかも知れない。外交にも欧米的と日本的なる思想がある。敵を作って事にあたる態度が当たり前のようになってしまっているが、相手を友と見なす考え方だってある。両者を峻別して“うまくやる”ことが外交なのですが、鳩山さんは友愛側によりすぎたのか。外交は政治のトップ間の関係ですが、国民一人一人が主役の草の根外交もある。草の根外交こそが日本の安全を担保するのかも知れない。それこそ大学の役割。“脅し”の外交から“理解”の外交へ。これは決して甘っちょろい考えではないと思う。(2010年6月3日)

「脅し」から「知識」、そして「理解」へ

今日は国交省河川局で水災害に関する勉強会に出てきましたが、昨日水害について調べていて、良い文章に会いました。2003年の予防時報に掲載された座談会の中で、群馬大の片田さん(ハザードマップで有名)が、災害情報の受け手である住民の情報取得態度をどのように高めるかという議論の中でこう述べています。「災害教育には、『脅し』の災害教育と、『知識』の災害教育と、『理解』の災害教育と、おそらく3段階ぐらいあると思います」。やはり重要なのは「理解」の災害教育。どんなに先端的なシステムによってハザードを予測しても、住民側に受け取る意識がなければ機能しません。これは環境問題、とくに地球温暖化も同じだと思う。今は、「脅し」の段階。だから、5月30日に書いたようなことが行われる。しかし、「知識」は少しずつ蓄積されている。もうすぐ「理解」の段階に移行できるのではないか。その段階では、人は自然との関係を理解し、今を良くすることにより、未来を変えていこうとするのではないか。「脅し」の段階では今と未来が分断されているが、「理解」の段階で今と未来がつながる。(2010年6月2日)

身体感覚−知識から智慧へ

最近読んだ本から。久保田展弘著「仏教の身体感覚」(ちくま新書)。仏教の哲学的側面は大好きなのですが、宗教的側面における儀礼が何となく腑に落ちない気持ちがありました。身体感覚という語に惹かれて手に取りましたが、何となくわかった気がします。法華経の章にこうあります。「人は生と死のぎりぎりの境に追い込まれたとき、教養による思想だけで安堵を得ることができるだろうか。安堵を得るとは身体感覚による納得である。知識ではなく智慧を人生の燈とすることができるとしたら、ここには身体感覚による納得がなければならない」。読経や写経、称名や座禅が知識を智慧とする過程にある。これは環境という対象に対峙したときも同じだと思う。頭で理解していても体験しなければ知識が智慧にならない。普遍性だけでは対象とする環境の全体像が見えないが、その中に身を置き個別の特徴を知ることにより、知識が智慧となって生まれ変わる。智慧とは多様な体験そのものともいえる。(2010年6月1日)

叩く社会からの脱却を

サッカーは残念でした。でも、よくぞイングランド相手に一点を入れました。それにしても岡田さんには同情いたします。よくやっていると思いますが、これまで叩かれっぱなし。鳩山さんも叩かれっぱなし。常々思っているのですが、強いリーダーがチームを、あるいは国を引っ張っていく、というのは欧米的あるいは一神教的な考え方なのではないか。国民と社会のあり方に対する考え方を共有した上でのリーダーシップが欧米のあり方。一見同じように見えるものごとの進め方ですが、深層に日本とは違う考え方があるような気がする。日本は同じ思想に依らなくても良いのではないか。岡田さんがチームサッカーをめざしているように、鳩山さんは寅さん型折り合い政治を目指しても良い。福島さんのように、強い基本思想を打ち出したら良い。それでも日本の安全保障についてこれだけの関心を喚起した鳩山さんの業績は大きい。勝たなければ負けで、負けたら地獄、なんてことを前提としない国造りを目指して欲しい。人を徹底的に叩く社会から抜け出すことが、日本にとっての喫緊の課題ではないか。岡田さんはきっと良い采配を振ってくれるのではないかな。W杯が楽しみになってきました。(2010年5月31日)

地球温暖化問題の啓発

すごく気になっているスポットCMがある。民放連がラジオ、テレビで放送している地球温暖化啓発スポット。温暖化が進んだ未来で、パパは潜水出勤、ママは異常気象の中、ロボットに乗って買い物、娘は砂漠の中を通学。とっても大変。だから、STOP温暖化。これはジョークだろうか。視聴者の皆さんがこのスポットから何を気づけばよいのか。ホームページを閲覧しましたが、地球温暖化防止のため家庭での取り組みを促進する内容、とのことです。このスポットを見て、聴いて、親は子に地球温暖化をどう説明するのだろうか。あなたも砂漠の中を通学するのはいやでしょ、だから、なんて言うのだろうか。まずは情緒的に訴える必要があるということだろうか。その後で、環境リテラシーを身につければ良いと言うことだろうか。環境リテラシーの学びの必要性はだれが啓発するのか(それが大学の役目でもあるが)。このスポットはちょっと変だなと感じ、自分で調べることにより地球温暖化を始め様々な環境問題について深く考えるようになる、という深慮があるのだろうか。そうだとしたら民放連も偉い。(2010年5月30日)

楽農報告

黒豆を播種。昨年はそこそこの収穫があったのですが、煮豆の段階で焦がしてしまい味を堪能することは叶いませんでした。今年は種を二袋購入し、リベンジをはかります。最近、葉ものの食害が目立ってきました。青虫も発見しましたので、BT剤を散布。次の課題は虫除け寒冷紗や自然素材の虫除け。まあ、少しくらいかじられていても味には問題ないですけど。虫とも共生しなければなりません。タマネギを収穫。枯れてしまったオクラですが、新たな苗を移植。やはりオクラを食べたい。蔓ものの葉っぱが少し元気がない。次回は殺菌剤を施すか。エンドウは終わり。よく食べた。春ダイコンは大きくなる前に食べてしまいそう。時期をづらして植えたジャガイモも結局収穫は同時期になりそうです。まあ、旬のものをその時期に食することができれば良いか。(2010年5月30日)

前向きの姿勢を

地球惑星科学連合大会は毎日セッションや会議があり、大学にはご無沙汰でした。この大会の直前に客員教授の石橋さんが亡くなりました。ウェザーニューズの創業者で、とにかく元気で、夢があり、もっともくたばりそうもない方が逝ってしまいました。享年62歳。私もあと10年で達します。残された時間はもう長くないことが自覚される年齢になりました。大学の教員は教育者ではなく研究者として評価されますが、何のために研究するのだろうか。最近はこれが気になってしょうがない。大会でもいろいろな話を聞きながら考えていました。社会のためとよく言いますが、未来志向が強すぎれば、それは自分のため、名誉のためと言っているのとほとんど同じ。論文を書いて職の安全を確保するためか。それはくだらないこと。とはいえ、現実の問題と向き合うと論文を纏めるのは大変。論文はある意味“art”ですから。どうも最近は思考が後ろ向きになりがち。石橋さんは常に前向きだった。この点は学ばせて頂きたい。ご冥福をお祈りします。(2010年5月29日)

環境水

環境について述べましたが、水文科学会ではシンポジウムを企画しており、そのタイトルで使った“環境水”という用語について議論しています。環境の中にあり、水循環の中で繋がっている水、人と相互作用する水の意味で使ってみたいのですが、まだ社会に認知されていないのでいろいろ意見が出ています。タイトルは「環境水の硝酸汚染−総合科学としての水文科学の役割」なのですが、水循環の中で人と相互作用する水というニュアンスを入れたい。雨が降り、土壌水になって地下水にもなり、いずれ河川水になる。その循環の途中でいろいろな使われ方をし、人の役に立ったり、災害を起こしたり。こういう水を環境水と呼んでもいいのではないかなと思うのですが。(2010年5月28日)

人のいない環境

ほぼ一週間にわたった地球惑星科学連合大会も本日の環境災害委員会で打ち止めとしました。よけいなことなのですが、この委員会では以前から気になっていた“環境”の定義について質問しました。環境は人あるいは生態系を取り巻き、相互作用するものの総体であり、環境学は人と自然の関係を主題とする学問分野だと考えているのですが、人のいない環境もあり得るとのこと。これは最近数十年における学問分野のパワーバランスの結果、そうなってしまったのですが、そうなると人と自然の関係を意味する新しい用語を考えなければならないだろうか。(2010年5月28日)

One Global, Many Worlds

連合大会の環境リモートセンシングセッションは無事終わりました。国際セッションにも関わらず、席はかなり埋まり、まずまずの首尾だったのではないかと思います。6件の口頭発表と8件のポスターセッションがありましたが、それぞれテーマは異なり、人によっては寄せ集めといった印象を持つかもしれません。そこで、最後の締めのまとめとして用意したのが表記のフレーズでした。なぜか、PCの画面が表示されず纏めを果たせませんでしたが、ここで再掲しておきたいと思います。グローバルは一つ、世界はたくさん。環境リモートセンシングのターゲットは環境問題。環境問題は地域における人と自然の関係に関わる問題。人にとって地域とは世界そのものです。ですから、この世にはたくさんの世界がある。その一つ一つについて問題の理解と解決を試み、その成果を積み上げていく、そしてたくさんの世界の関係性を明らかにするのが地球環境研究。グローバルを指向する研究は地球を物理や普遍性で理解しようとするが、地域を対象とする研究は包括的な視点から問題に取り組み、様々な要素の間の関係性を探ろうとする。個別性の理解が問題の理解、解決に繋がる。リモートセンシングはその広域性と、繰り返し観測による歴史性の把握により環境理解の主要なツールとなる。個別の成果を積み上げて世界を理解しよう、ということを主張したかったわけです。(2010年5月24日)

堆肥稲作−都市と農村の新たな関係の可能性−

昨日、戸神の谷津で大量の堆肥が休耕田に積まれている現場を見ましたが、どうも気になる。ディズニーランドから出た残渣で作った堆肥を市民に配った後、余った分を農家にお願いして谷津に積んでいるそうです。まず硝酸汚染が頭をよぎりますが、現代農業の三月号には堆肥稲作の特集があった。堆肥だけでも十分米はつくれるだけでなく、味もよいそうです。肥料も高騰している昨今、余っている堆肥を使えないか。とはいえ、農家にとって新しい栽培法の導入は敷居が高いのだろうなとも思う。そこで、考える。ディズニーランドだけでなく、大手のスーパーや飲食産業で、きちんと管理された堆肥作りを進め、それを都市近郊の谷津に入れる。水管理をうまくやることにより硝酸汚染を押さえる。これをエコ米として売り出す。都市と農村の新たな関係の可能性があるのではないか。こんなことが“見試し”としてできればおもしろい。休耕田を市民が借りて、新しい稲作ができないだろうか。(2010年5月22日)

楽農報告

明日は朝から学会で畑に出られないので、今日は出勤前に収穫をやっておく。小松菜と赤カブは現ロットは終わり。白カブは終了ですが、ダイコンが大きくなってきた。ダイコンにカセイを追肥。ブロッコリは少しずつとれる。エンドウは大量に収穫。青梗菜は急に大きくなった。間引きをかねてベビーリーフとして収穫。去年9月に植えたタマネギは形は悪いのですが、少しずつ収穫。ナスに支柱を立てる。ネコにやられた落花生を修復。ざるいっぱいの収穫があったところで、楽農はやめ。さて出勤。(2010年5月22日)

都市と農村の狭間で

千葉ニュータウン、谷田武西の湧水の流量観測に行って来ました。都市的景観と農村景観が接しながら独立してそこにある。谷津の中にいると、そこがニュータウンの近傍とは思えませんが、幹線道路を走る車の音、電車の走行音で、都市が近いことがわかる。オオタカの声が聞こえる。ヒバリの鳴き声は本当に懐かしい。オオルリの鳴き声、これはめずらしいとのこと。カワセミもいたそうな。シュレーゲルカエルの鳴き声、ザブンと水音はウシガエルらしい。羽の赤い弱々しいトンボ(ニホンカワトンボ?)、蚊(今日は刺されなかった。断酒のせいか)、ヤゴ、ザリガニ、沢ガニ、毛虫、様々な生物と出会う(ヘビヘビと出会わなくて良かった)。ハンノキ林も美しい。ところどころに、ナガミヒナゲシの群落、美しいキショウブも外来種だそうな。でも、がんばって生きている。一方でゴミの不法投棄の目立つこと。谷津もそこここで埋め立てられ、悲鳴をあげているような気もする。人間以外の様々な生態系の存在を知ることで、人の意識は変わらんものかと思う。(2010年5月21日)

記憶に留めたいシーン−スナック杏

今日は朝からしとしと雨の中、ハンドルを握っています。赤信号で止まり、ふと横を見ると、深紅のバラが目に飛び込んできました。スナック杏、花見川にあるこの店の存在自体は何年も前から知っていますが、こんなに印象的なシーンに出会ったのは初めて。焦茶色の板壁に深緑の葉と深紅の、それも大輪のバラの花が雨の向こうで映える。ちょっと古ぼけた扉の向こうには、薄暗い空間にカウンター、そして椅子が数人分、この場合、流れている曲はシャンソンのような気がする。入ったことはありませんが、そうに違いないと思う。そこにいるのは、マダム・ジーナ。いや、ジーナだったら海が見えなければあかんか。飲み物はバーボンかスコッチ。個人的にはコニャックではないな。どうでもいいのですが、信号が青に変わり、現実世界の通勤に戻る。雨もまたよし。(2010年5月20日)

CO2削減偏重の陰

朝日朝刊から。東大の井上さんは現場に深く入り込むタイプの研究者で、その著作からはたくさん学ばせて頂いています。その投稿記事で重要なことを知りました。アブラヤシ農園を森林と見なす動きが欧州連合(EU)であったということ。アブラヤシ農園の持続的な管理がなされれば、CO2収支はゼロになるから。もしこれが認められれば、熱帯林の開発が一気に進むことは容易に想像がつきます。なぜ、EUが。高谷さんが書いているように(2009年7月8日参照)、欧米人(というか先進国の人)にとって有用な森林とは経済的な価値を生む森林。一方、森の民は様々な恵みを森から得ている。こういう価値、生態系サービスといってよいだろう、は欧米的な価値とは異なる。もちろん、欧米人の中に生態系サービスをきちんと評価している方も多いが(だから、前記の動きがリークされた)、欧米思想と湿潤熱帯アジアの森の思想の根本的な違いとしてあるのではないかと思う。10月には生物多様性条約のCOP10が名古屋で開催されるが、こういうことが議論されるのだと思う(されなければダメ)。CO2削減偏重の陰でなにが失われ、誰にどんな利害が生じるのか、複眼的な思考に基づいて冷静に検討していきたい、という井上さん。そのとおりだと思います。(2010年5月19日)

ムダとは何か

「ムダ調」というコーナーがめざましテレビ(フジテレビ)にあります(正確には≪ココ調〜みんなで仕分けるめざましムダ調〜≫)。久喜駅前の広場には「ときの塔」という利根川水位表示塔が建っている。これが取り上げられていましたが、さてムダだろうか。ムダと判断した人に、たとえば「カスリーン台風を知っていますか」、「あなたの立っている土地はどのようにして形成されたか知っていますか」、「あなたの安全がどんなコストや努力で保たれているか知っていますか」、こんな質問をしてみたら何と答えるだろうか。災害を減らすには、災害の履歴や土地の性質、そして安全を担保するためのコストのかかる施設があること、こんなことを知っておかなければならない。行政の義務としての広報の努力の一端と考えられないだろうか。もちろん、「災害リテラシーを住民がしっかり身につけていた」としたら、ムダというか時代遅れではありますが(そうありたいものだ)。八王子では、植木の植栽された人の入れない小さな公園が取り上げられていました。でも、都市の中の空間や緑地がどのような機能を持つか、皆さんは気づいているだろうか。防火帯、風の通り道、気候緩和作用、アメニティー効果、いろいろ考えられます。多くの人が緑地の恵み(生態系サービス)に気がついていないとしたら、我々は多くのものを失ってしまうような気がする。我々は自然と関わり合いながら暮らしていかなければならない。こんなことを発信するのも研究者の仕事でもあると思う。(2010年5月19日)

ゲーテの箴言再掲−自分を過小評価するな

人間の忘却力というのは、長所でもある。でも、せっかく知った箴言を忘れてしまうのはもったいない。記憶というのは頭の片隅で眠っているがあるきっかけで再生される。昨日、ゲーテの箴言を思い出しましたので、備忘録として再掲しておきます。他人の批判ばかりしているということは、ゲーテに言わせるとこういうこと。「自分が無気力になり非生産的になると、人のことを気にし、人をねたむほかには、することがなくなる」。ゲーテは言う。「人間のことを考えるな。事柄を考えよ」。自分の態度や行動を決定するのに対人関係に心を奪われてはならない。「敵があるからといって、私は自分の価値を低く考える必要があるか」、「自分を実際以上に考えることと、真価以下に見積もることは、ともに大きなあやまりである」。講談社現代新書、「いきいきと生きよ(手塚富雄)」から。今回は、正しく自己評価をするということを肝に銘じておきたい。そろそろ学生も就活疲れが見え始めましたが、自分の価値を過小評価する必要はない。視野を広げ、自分の態度、行動を全体の中に位置づけてみる。すると、行うべきことが見えてくるかも知れない。(2010年5月17日)

笑いは良い遺伝子をオンにする

WEBでニュースを検索していて偶然到達しました。去年の11月13日の産経新聞のニュース。タイトルは『「心」を変えて人は進化する チンパンジーとの差極小』。ヒトとチンパンジーのゲノムを解読した結果、その差は3.9%に過ぎなかった。ヒトにあるが、チンパンジーにはないという遺伝子も発見されていない。では、ヒトとチンパンジーの差は何か。それは遺伝子スイッチ。遺伝子はオン・オフの機能を持ち、それは環境によっても変化する。著者の村上さんは「心と遺伝子は相互作用する」という仮説を打ち出しているそうな。たとえば、“笑い”という陽性刺激が糖尿病患者の食事後の血糖値の上昇を押さえ、その際、オン・オフする遺伝子を発見したとのこと。心の持ち方が遺伝子のオン・オフを変える。笑いだけでなく、感動、感謝、イキイキ、ワクワクそして敬虔な祈りまで良い遺伝子をオンにするという。仮説ですが、良い仮説は信じるのがヒト。とにかくイキイキと生きることが大事なんだな。ゲーテは偉かった(2009年3月31日参照)。もし、科学がヒトに感動を与えたら、良い遺伝子をオンにするだろうか。スポーツで感動したら心にも良いということ。悩んだり、落ち込んだりしてはいけませんな。感動するためには他者を尊重する態度が必要。明るく、前向きに生きなければ。この記事のもとは「最強の生物 クマムシの謎に迫る」でした。これもすごい。良い遺伝子がオンになっただろうか。(2010年5月16日)

楽農報告

今日はサツマイモを植える。猫の被害に遭わないように、畝の間にはネコブロック用のねぶしをニョキニョキ立てる。一畳分もない広さですが、小松菜、カブはこの二週間ほど十分な量が収穫されている。オクラの苗はほぼ全滅。その場所にはポットで発芽させた枝豆を移植。一週間に一度しかできないので、畑の整備にたっぷり半日はかかる。しかし、土や作物と触れていると学ぶことも多い。季節を感じることができるし、気候の年ごとの違いもよくわかる。特に初春は寒かったので、作物が敏感に応答しているのがよくわかる。建物の際に青梗菜を蒔いてありますが、光条件によって背丈がだいぶ違っている。気候変動や環境を対象にした仕事をしていますが、こういう現場感覚こそ大切だと思う。(2010年5月16日)

外来種との共生

どの季節が好きと問われたら、必ず秋から冬が好きと答えていました。秋の落ち着いた雰囲気と、だんだん枯れていき、モノトーンの世界へ移っていく風情が好きだったのですが、どうも最近は春が良い。青空と白い雲、新緑と花の彩り、何より気温がちょうど良い。この心情の変化は何だろうか。老いたということだろうか。まあ、そんなにまじめに考えることではないのですが、通勤途中で見かける雑草の花がきれいです。世の中には雑草などないという考えももっとも。ただ、ナガミヒナゲシは気にかかる。あの橙色の花は本当に美しい。しかし、急激に分布範囲を拡大している外来種です。先日、千葉県生物多様性センターでデータベースを見せて頂いたときに、外来種の多さにはびっくりしました。気がついていないだけだったんだ。路傍で見かける美しい花々にも外来種は多いのか。この際、本気で草花、樹木の名前を覚えようと思っています。外来種が入ってくるのも自然なんだ、という考えもありますが、その拡大はすさまじい。近代文明を手に入れた人間はもはや自然とは立場が違う。そんな人間との共生を考えるときに、放っておくのが自然なのではなく、管理をしても良い。里山のように。外来種があまりに卓越している場所では、間引いても良いのだろうなと思う。そのためには、リテラシーが必要。身近な自然の知識。現在の教育は普遍性偏重で、身近な自然や土地に関する科学、知識が軽んぜられているように思う。知ることにより、どうしたら良いか、という考えが生まれる。まず、現場に身を置き、対象を知ること、ここから始まる。(2010年5月15日)

技術と利用の関係

Yahooニュースから。超高速の光ブロードバンドが整備されれば利活用のレベルが上がるだろうか。やはりサービスや使いやすいアプリケーションの充実がキーか。ソフトバンクの孫さんとジャーナリストの佐々木さんの議論。これは普遍性と個別性、ディシプリン学者とフィールド学者、の確執(というほどでもないが)と同じ。技術が進歩すれば利用は増える、イノベーションで問題は解決できる、と考えるのが前者で、後者は解くべき問題から解決策を考えるとクリアすべき様々な課題が見えてしまう。同じ根っこがいろいろなところにある。どちらが正しい、ではなく、どちらももっとも。現場を見ながら両者の折り合いをつけるのが上策ではないだろうか。どちらかに賭けるのは下策。こんな当たり前の議論が世の中では難しい。おれの言う方が正しい、なんてやり方が無駄を生んでいる。(2010年5月14日)

HTC Appleを特許侵害で逆提訴−競争、それとも闘争

こんなニュースがまた気になってしまう。 Yahooニュースから。これは自社が正しいかどうか、を巡る闘いだろうか。実は、自社が正しいということになるかどうか、を争う闘いではないか。この記事の争いがそうとは限りませんが、そういう争いは確かにあると思う。勝つことのみが価値を持つ社会。負けてもともとどころか、負けたら命さえも維持が難しくなる社会。枠組み、すなわちルールを設定し(それが公平かどうかは別問題)、その中で論理だけでなく、パワーバランスでも勝負する。相手が折れることが勝負に勝つことであり、正義である。これは競争ではなく、闘争ではないだろうか。闘争の過程で不幸が増殖されていく。それでも世界はこれを是としてきた。新自由主義(neoliberalism)の世界ですが、リーマンショック以降も世界は変わらないのか。もう世界の草の根の民は新しい世界を探し始めているのではないか。こんな争いは古い時代の慣性であることを願うばかりですが、どうすれば良いかはまた難問。(2010年5月13日)

自殺原因「生活苦」が大幅増−何とかならんのか

Yahooニュースで見た時事通信の記事。動機として「うつ病」が多かったが、生活苦や失業も目立ったとのこと。うつの原因が生活苦や失業ということもあるでしょうから生活苦は深刻な問題です。その原因は、お金がないと日々の暮らしも脅かされる経済至上主義の社会になってしまったこと、敗者に対する配慮のない競争至上主義の蔓延にあるのではないか。新しい社会のあり方を考えなければならないと心底思う。「これからの環境科学は社会の設計までを視野に入れ、具体的な社会の構築に貢献する科学分野に発展する必要がある」、という環境研の大垣さんの話にもあるように(5月7日参照)、我々研究者はもっと社会のことを考えなければならない。私案の一つは(何回も述べていますが)、農を機軸とした物々交換経済あるいは地域通貨による地域経済圏。その実現のためには良好な農村環境を残し、都市とのこれまた良好な関係を築き、兼業により両者をつなぐ。農村は自然の恵み、生態系サービスをうまく利用した低コスト社会で、年収が低くても暮らしは維持できる社会。こんなことを考えながら地元千葉の水循環と生態系を研究し、その機能を価値化していくことに貢献できればと思う。(2010年5月13日)

代表的な論文とは−環境学の悲劇

先ほどもついつい評価の話をしてしまいましたが、現代社会のストレスの最大要因は評価でしょうね。締め切りを過ぎてあわてて代表的な論文5編を提出しました。外部評価に備えて対象期間である2002年以降の論文で代表的な5編を各人が提出し、論文集を作成するというものです。さて、代表的な論文とは何だろうか。すべての論文は重要な成果です。代表的な論文を定義できるのはディシプリン学、普遍性を追求する科学なのではないだろうか。解くべき共通の課題が明確で、大勢が課題の解決を目指して競争している分野で、解決までのマイルストーンが見えている分野(だから、多くの研究予算の申請用紙には「どんな成果が得られるか」なんて項目がある」)。しかし、環境や地域研究では代表的というものは定義し難い。すべての課題が地域にとっては重要で、深い問題。そう簡単に調査にもいけない。でも、少しだけ認識を深めれば、それは貴重な知識、経験になる。小さな成果をたくさん積み重ねて、認識を深めて行くことにより、ようやく問題が見えてくるような分野。やはり科学には異なるモードの分野が確実にある。この認識が共有されていないことが、環境学における最大の悲劇ではないだろうか。(2010年5月12日)

痛風報告

先週末から予兆があり、月曜日は気づかれないように我慢。火曜は仕事があるので痛みに耐えて出勤。今日は限界を感じて病院へ行き、湿布と薬をもらってやっと落ち着きました。炎症を抑える薬と、胃の荒れを押さえる薬、それから尿酸値を下げる薬。けっこう効いたようで、痛みがとれてきました。実は高尿酸値は体質で、以前は値を下げる薬を服用していたのですが、三週間に一度病院へ行くのがおっくうで、ここ数年はさぼっていました。いつか来るとは思っていたので自業自得です。痛風は薬さえ飲んでいれば大丈夫と思っていたので、今回は飲み続けることを覚悟していたら、最近はそうでもないらしい。薬物治療よりも、リラックスすること、運動をすることを勧められました。偉くなったら薬は飲まなくても良い、なんて言われましたが、若く見えるので出世競争のストレスに晒されていると思われたのかも知れない。幸いこれ以上の出世は頼まれてもお断りですので、この点は良いのですが、やはり評価を気にすることが最大のストレスでしょう。評価者による自分とは異なるスタンダードを受け入れて、それを満たすようにがんばらざるを得ないのがストレス。そして、自分で自分に満足できないのがさらなるストレス。自分のスタンダードはきちんと主張し、さらに自分の願望水準を下げる、これがストレスをなくす最良の方法ですが、評価に晒されてもびくともしない強さを持たなければなりませんので、やはりこれもストレス。ストレスから逃れるのは大変です。(2010年5月12日)

複雑なシステムと持続可能性

SONYのVAIOの起動が不安定になったので、修理に出していましたが、結局症状は再現できず、マザーボードと電源スイッチの無償交換で返ってきました。再セットアップして使い始めたら、やはり起動が不安定。今回は本体の問題ではないと考え、いろいろ試したところ、USBに問題があることが判明。USBハブの先にいくつかの周辺機器をつないでいるのですが、ハブをはずすと安定して起動する。面倒くさいですが、これからはシャットダウンしたらハブを外すことでとりあえず問題は解決。それにしても修理にはずいぶん手間をとらせてしまった。我々はこんな複雑なシステムに依存して暮らしている。順調に使えている分には便利で快適ですが、ひとたび問題が発生すると原因の特定は困難。復旧に時間がかかる。複雑なシステムに依存した暮らしは持続可能だろうか。もっと単純なシステムを我々は使った方が良いのではないか。自分にはわからない複雑なシステムに依存することは、安心を他人に依存することでもある。とはいえ、パソコンはすでに充分に成熟した技術ともいえる。地球が滅びない限り、技術の継承が途絶えることはないだろう。パソコンなどには依存せん、と言い切ってしまえば良いのですが、パソコンとは何とか折り合いながらつきあっていくしかない。ものごと何でも折り合いが大切。(2010年5月10日)

楽農報告

暖かくなってくると仕事も増えてきます。今日は、ズッキーニとナスの苗と落花生の畝を追加。春大根、カブ、枝豆の間引き。収穫は小松菜、ブロッコリ、カブを二種、タマネギ、サヤエンドウ、それからアスパラをほんの二本。猫にやられた畝を修復するが、表面はでこぼこ、小松菜と落花生の種はすっ飛んでおり、どうにかならんものかと思う。ゴーヤとキュウリに支柱を立てる。オクラの苗が枯れそう。何とかがんばって欲しい。ジャガイモを芽かき。連休に植えたカボチャと冬瓜の畝の端に間引いた枝豆を移植。しばらく収穫が続きそうですが、これからは虫の季節。虫や猫とどう共生するかが、課題。(2010年5月9日)

谷津の機能の可視化

佐倉市の手繰川流域にある畦田谷津を案内して頂きました。まず驚いたのはその景観の美しさ。この季節は薄紫の藤の花があちこちで咲き誇り、景色に色合いを添えている。様々な保全活動をご紹介頂きましたが、野鳥に関心がある人、植物に関心がある人、それぞれ保全の観点が異なるのが面白い。様々な折り合いを経ながら守られている現場を見ました。こんな谷津を埋め立てて霊園を建設することが決まっている。これは悩ましい経緯があり、しょうがないのですが、その影響を最小限に押さえるためにはどうしたらよいか。これまた悩ましい。格好の良い提案ができれば良いのですが、現場の問題は頭で学んだ一般性だけでは対応できない。地域の方々と協働して学びながら考えていかなければなりません。谷津を埋め立てるなんてとんでもない、と言うことは簡単ですが、谷津を守ろうという機運をもりたてることが先決。里山や谷津の機能を調べ、それを広めて価値化していくことが大切。時間はかかりますが、今からでも経験を積み上げていかなければならないな、との思いを深くしました。(2010年5月8日)

水道管,3万8000キロが耐用年数超え,更新進まず

Yahooニュースで見つけた毎日新聞の記事。この長さの水道管を更新するコストはいかほどになるだろうか。自治体が負担可能だろうか。水道システムは持続可能か。近いうちに、水道システムが壊れ、長期にわたり水が来なくなる地域が出現するのではないか。定量的な解析を始めねばと思います。やはり、身近な水である地下水を利用しなければならない。安心は代わりがあること。河川だけに頼らず、地下水を組み合わせて上手に水を使う。そのためには、地下水を汚してはならない。身近な水なので、人と自然の分断の修復にも繋がる。ここから、何かが変わる。とても大切なことだと思う。(2010年5月7日)

四つの科学

環境科学会誌で国環研の大垣さんのコラムを読みました。その中で“四つの科学”が気になりました。それは、1999年のブダペスト宣言で四つの項目ごとに纏められたものです。@知識のための科学、A平和のための科学、B開発のための科学、C社会のなかの科学と社会のための科学。昨今の科学を取り巻く議論を見ていると、@とBが峻別されていない、AとCがあまり意識されていない、ように感じます。Cが意識されていないというと反論もあるかも知れませんが、私は現在の社会のための科学を重視したい。未来志向が強すぎると、現在が見えなくなる。現在を良くすることによって未来を良くできる。なぜなら、現在の問題に対峙すると“統合知”の必要性が見えてくる(個別知ではなく)。問題の解決を共有する場ができる。これが未来に繋がる。大垣さんは、「環境科学」にこれらの宣言の内容がよく似合うと言っています。「先端性のみを追求して結果的に大きな貢献をすることもあり得るが、個別分野での先端性の追求は環境科学の本質ではない」。大学の中期目標や予算獲得競争では“先端的な”という表現がよく出てきますが、それは環境科学の本質ではない。「環境科学の研究は、常に社会の中の科学と社会のための科学を意識し、科学的な内部検証が行われるような体系になっている必要がある」。社会のことを考えると価値観が入ってくる。それは科学ではない、という方もおられるかも知れませんが、価値観から独立した科学的行為も難しいものです。「社会の設計までを視野に入れ、具体的な社会の構築に貢献する科学分野に発展する必要がある」。そのためには、“知の統合”を推進する必要がある。日本の科学技術政策の中には“知の統合”が良く登場するが、未だ不十分か、逆行しているところもある。千葉大学は自然科学研究科を解体してから“知の統合”から遠ざかってしまったように感じます。これからの社会、持続可能な社会を作っていくためには知を統合し、協働によって新しい社会を設計して行かなければならんな、と思う。(2010年5月7日)

願望水準の自己点検

何となくゴールデンウィークが終わりました。畑や庭やらでやることは多かったが、リフレッシュになっただろうか。常に仕事のことが気になり、やろうと思うがやる気になれず、それでまた気分が滅入る。病気ですね。現代病、文明病だろうか。職業病でもある。それでも本は二冊読んだ。「砂漠化ってなんだろう」(根本正之著)。現場で活動なさってきた方の言葉は重い。「地元学をはじめよう」(吉本哲郎著)。うんうん、と納得しながら読む。安心社会への大いなる潮流はすでに草の根にある。あとはこれがどこで吹き出すか、それとも経済や外交の現実の前でつぶれてしまうのか。普天間の問題をどう乗り越えるかは、我々にとって大きな岐路なのではないか。どんな国、社会を目指すか。ここが問われている。畑はだいぶ作物で覆われてきた。小松菜が大きく育ち、おいしい。サヤエンドウもとれ始める。カブももう少し。まだ小粒だが、タマネギも使ってみた。十分幸せなのだが、どうも不調。自分の願望水準についてきちんと見直さなければならないなと思う。(2010年5月5日)

大学、こんなこと言われてていいの

朝日朝刊から。就活の早期化は学業の妨げには確実になっているのだが、民放連会長の広瀬さんはこう言う。「大学が、学生に専門性がしっかりと身につく教育をしているのなら、企業側もそういう人材をとりたい。でも、それができていない。今の日本の大学は、企業が求める人材、国際社会で諸外国と伍していくために必要な人材を育てる場所になりきれていない」と。広瀬さんは大学の機能について大いなる誤解をしている。大学は就職予備校ではなく、生涯にわたり役に立つ知識、経験を得る場所です。大学で学ぶ学問諸分野の専門性が直接就職に結びつく分野は多くはない。それでも、問題の理解と解決のための考え方は、会社でも役に立つものであるはず。とはいえ、大学にも批判されるべき点は多々あるでしょう。それを認めつつもあえて言いたいことは、就活問題は大学や企業を含む社会全体の問題であるということ。システム全体を俯瞰し、問題点を見つけだし、協力して問題解決をはかる。この視点を大学で学んでほしいと思う。問題を何かのせいにして、批判することによって解決をはかる時代ではない。(2010年5月3日)

仕分けから始めよう−大切な議論

研究法人に対する「仕分け」があいまいであったと報道されています。朝日朝刊から。土台の議論がないのですからしょうがないでしょう。科学技術振興機構(JST)に対しては「この法人より国が戦略を持っていないことが問題」と総括されたことは、その通りだと思います。しかし、根本的な問題は「科学とは何か」、「科学の機能とは何か」に対する基本的な考え方を前提にした議論でなかったことが大問題なのだと思う。だから、文科省は科研費の成果を経済発展と結びつけたり、仕分け側はJSTと日本学術振興会(学振)の一本化の可能性を問うたりする。両者の扱う科学は別物である。JSTが扱うのは、国の外交のリソース、国の威信に関わる成果、経済的見返りを期待する科学。学振側は研究者の信念に駆動された科学を扱う。両者は異なるものなのですが、だからといって後者は好奇心言説(研究者の好奇心に駆動された科学的行為は尊いもので、将来何かの役に立つかも知れない、とかいった主張)に依存するだけではだめ。後者でも研究者の社会に対する責任をきちんと主張すべきだと思うのです。今回の仕分けでは3D景観シミュレーション施設の廃止が気になりました。これは農村景観の持つ価値を可視化させるものだと思います。国土形成に対する基本的な考え方を与えるものであるはず。こんな大規模施設になってしまったのは、むしろ予算の審査者側のリテラシーのなさにある。同じ紙面の社説では「農業の未来」と題して農業の環境保全機能について言及しているではないか。ヨーロッパで実施されている「環境支払い」への呼び水となる事業だったかもしれない。この試みは日本でもあったのですが、現代農業5月号で宇根豊さんは農民側の機運の高まりに繋がらなかった、と述べています。時期尚早だったか。研究というものは成果を公表することで機運の醸成に結びつける機能もある。国土の未来に関わる議論が「仕分け」できちんとなされたかどうか。仕分けはそれなりの機能を発揮したと思うが、本当に大切な議論に結びつけなければ、単に重要なものを壊しただけで終わってしまうことになりかねない。(2010年4月30日)

技術の進歩と安心社会

生物学者の福岡さんはiPadをいち早く手に入れたそうだ。朝日、オピニオン欄から。もはやメディアはアーカイブではなく、接して反応を起こす動的なものとしてある。これからの世代はこのメディアを使いこなし、新しい流れを作っていくのだろう。そういう社会は便利には違いないが、万人にとって居心地の良い社会になるだろうか。複雑なシステムを維持するために緊張を持続させなければならない。技術を巡る競争、資源を巡る競争、マーケットにおける競争、便利の陰にこんなに競争がある。新しい機器は人間社会全体にメリットをもたらすだろうか。システム全体を俯瞰することができなくなったら、文明社会の野蛮人であり、文明は衰退に向かう。私も完全に旧世代になってしまい、緊張のシステムの中では安心を感じることができなくなってしまったようだ。もちろん技術の進歩はすばらしい。しかし、高度な技術に流されず、個人で維持可能なシステムの中に身を置く選択肢があっても良い。両者の間を行き来できる社会が安心社会の一つの姿ではなかろうか。そのためには精神面における成熟社会になる必要がある。(2010年4月29日)

日本の大いなる無駄

JR西日本の尼崎事故の被害者支援に関する番組を見ました。支援者がアメリカに視察にいくのですが、アメリカでは専門家が支援にあたっている現場を知る。日本では被害者はJR西日本社員と対峙しなければならない。どちらも不幸だ。不幸増殖装置がここにもある。日本は専門家が力を発揮できる機会が少ない。このミスマッチはあらゆる分野にある。専門性があるのに、それを発揮できる職に就けない。専門性がないのに課題の担当になってしまう。ここに日本の大いなる無駄があるのではないか。仕分けはここを見てほしい。専門性を身につける場のひとつが大学であるのだが、やはり社会や現場とのリンクが足りないように感じる。(2010年4月29日)

新卒偏重は囚人のジレンマ

すなわち、他の企業が新卒を囲い込む社会では、自社も新卒採用にこだわるのが合理的となる。朝日ザ・コラム欄より。牧人のジレンマというのもあったが、要は社会的ジレンマ論で新卒採用の志向性が説明できる。会社が協調すれば効率的な就活ができるのだが、疑心暗鬼が芽生えると協調は崩れる。3月30日に私は「無難社会の悪弊」なんて書きましたが、こんな悪弊は絶てないものだろうか。一人一人は問題だと考えているのに、組織となると動けなくなる。新卒にこだわらず職種に適した人材を採用するという機運が盛り上がれば、状況は改善するだろう。その機運を盛り上げる活動は会社側だけでなく、大学も考えなければなりません。インターンシップも手段の一つだと思いますが、送り出す学生に社会で役に立つフレキシブルな知識、技術、考え方を身につけさせるのが大学の役目。また、新たなマーケットの必要性を醸成するのも大学の役目だと思います。こんな風に取り組んでいかないと、学生の就活問題は解決しない。(2010年4月28日)

世界と地球とは違う

朝日CM天気図より。天野さんはいつも良いことを言うなぁ。世界には国境という赤い線が勝手に引かれているが、地球にはそんな線はないのだ。世界を理解することと、地球を理解することも違うだろう。世界を理解するためには、人と自然の関係、地域と地域の関係、国と国の関係、などなど様々な関係を見なければならない。国境がありますから。地球を理解することは地球の物理を知ること。両者はともに"問題”を解こうとするが、前者は現在を重視し、後者は未来を重視する。しかし、未来予測は検証不可能であり、検証は”未来の現在”に対して未来になされることになる。地球温暖化問題は現在を重視するが、地球温暖化研究は未来を指向する。この二つの立場は対立するものではなく、共存すべきものである。ただし、未来志向は解りやすいが、現在起きている問題は世界の中に埋もれて見えにくい。問題は地域における人と自然の関係だから。様々な要因が重なり合って問題になっているから。それでも、地域の問題を一つ一つ発見し、理解し、折り合いをつけていく行為は大切だと思う。(2010年4月28日)

しばしの別れ

20年来の友人の通夜でした。享年51歳。いろいろつらいこともあったと思います。2年前の結婚式ではあんなに幸せそうだったのに、今はそんなところで眠っているのですか。楽になってください。導師様は故郷の石川からやってきた浄土宗の僧侶。読経の中で光明攝取和讃を歌って頂きました。うちのお寺も浄土宗で、先日のお彼岸に教えて頂いたばかりでした。浄土宗は何となく心が安まる気がします。現代科学は死をすべての終わりにしてしまいましたが、仏教ではしばしの別れ。極楽浄土で会いましょう。(2010年4月26日)

人のこの世はながくして
かわらぬ春とおもいしに
無情の風はへだてなく
はかなき夢となりにけり

あつき涙のまごころを
みたまの前にささげつつ
ありしあの日のおもいでに
おもかげしのぶもかなしけれ

されどほとけのみひかりに
攝取されゆく身にあれば
おもいわずらうこともなく
とこしえかけてやすらかん
なむあみだぶつ あみだぶつ
なむあみだぶつ あみだぶつ
(浄土宗吉水流和讃)
YesかNoか

仕分けを見ていると、YesかNoで答えよ、という指示が出ることがある。説明は要りませんと。数字で見ている仕分け人にとってはクリアーであるでしょうが、現場ではYesかNoかではすまない状況は大いにあると思う。数字で見るということは単純な因果関係で解釈しようとする姿勢であり、ひとつの思想でもある。それは判断から心を排除する行為であり、まさに科学が目指してきた態度といえます。しかし、現場では心を排除するわけにはいかない。心を捨てることができる人が優秀な人なのだろうか。だとしたら、私は全く優秀ではないが、それはそれでうれしい。(2010年4月26日)

市場化テストは誰を幸せにするか

内閣府による国立大学法人の市場化テストで千葉大学は三位だそうだ。清掃事業等で競争入札が進んでいるか、なんてことが評価されたらしい。三位とはまずまずの結果ですが、誰が幸せになるのだろうか。褒められた大学の執行部は幸せかも知れない。税金を節約したので国民は幸せになったのか。このような調査では個別性が顧みられることは少ない。競争入札による業者の負担増大、利益率低下も当然あるでしょう。業者の規模により影響は異なり、弱い業者にとっては大変だと思います。カネに換算されないサービスが失われることもあるでしょう。順位の高低に一喜一憂するのではなく、適切に予算が使われているか、個々の大学について個別にじっくり調べる姿勢が必要だと思います。順位をつけてしまうのが正しい統治のやり方なのだろうか。悪いことするやつがいるからしょうがないのでしょうか。いろいろな考え方があることはわかりますが、何となく腑に落ちない面もある。(2010年4月26日)

森の思想による国際社会作り

朝の番組で徳之島が紹介されていました。長寿の島、出生率が高い島。その理由は心のすこやかさにあるようです。こんな島に米軍基地を持って来てほしくないなと思います。国際社会ってやつは常に敵を作っていないとやっていけないのだろうか。日本周辺に仮想敵国を想定しようとは思わない。「人の心は温かいのさ」、これは拓郎の「どうしてこんなに悲しいんだろう」の一節。温かい心を持つ人々との草の根交流がますます大事。武力では平和は買えない。オバマさんは戦争が平和を維持するために機能を果たしているというが(ノーベル平和賞演説)、それは沙漠の思想だと思う。森の思想による国際社会作りができないものか。世界一のお人好し国家でも良い。平和の尊さを発信できる国家を鳩山さんには目指して欲しい。(2010年4月26日)

生きた知識、経験

今日は八街周辺の下総台地を学生と歩いてきました。いつもは採水や流量観測地点の地点間の移動なのですが、今日は流路に沿って歩いてみる。すると今まで見えなかった微少な地形、農業施設や美しい農村景観、様々なものが見えてくる。自然と人の関わりが見えてくる。新しいアイデアもわいてくる。こうやって地域に対する理解は深まっていきますが、論文として纏めるには遙か遠い道だなぁ、とも思う。論文など目的としない問題解決を目指した取り組みができないものだろうか。学生にとっても、社会で役立つ生きた知識、経験になるのではないか。(2010年4月24日)

重複か競争か

仕分け第二弾では研究機関も俎上にあがっているが、研究機関の重複と競争について議論されているようです。重複は無駄なのか、競争が成果を生むのか。ここでも協働の科学、個別性に向き合い成果を積み上げて認識を深めていく科学が置き去りにされているように感じる。環境問題では様々な地域、様々な分野の人たちが同じ課題を囲んで議論することが大切であり、普遍性では問題は解決しようがない。そういう問題を扱っている研究機関も仕分けのリストの中にある。一つの問題を巡って、国の立場、地方の立場、独法の立場、大学の立場、様々な立場がある。これらの立場を理解して俯瞰しないと、問題の理解さえおぼつかない。こういう多様性を損なう方向へ仕分けが作用したならば、日本の力を削ぐことになると思う。重複が無駄な分野は確かにあるし、競争より協働が大切な分野もある。異なる科学を峻別する力、科学リテラシーと環境リテラシーを仕分け人や国民が持っているか、が試されている。(2010年4月22日)

願望水準理論

あぁ、ここにあった。農村計画学会誌28巻3号の浅野さんの総説「幸福、価値の変換、農村計画の新たな計画」。日本人の所得は1958年から2000年の調査で増大しているが、幸福度指数は横ばいか、最近は低下傾向にある。この説明として心理学の基礎理論の一つである「願望水準理論」を使っている。個人の幸福感は、その個人が有する願望がどの程度実現されるかによって決まる。だから、願望水準がシフトすると所得は同じでも幸福感は低下する。我々の身の回りを見渡すと、この考え方は実に様々な現象を説明しているように見える。そうすると、イノベーションによって問題解決をしよう、そのためには経済成長が必要、という考え方に基づく経済活動は多くの場合、願望水準を高めるように作用するだろう。すると、幸福感は下がる。不幸増殖装置の機能がここにもある。この考え方は反駁できるだろうか。科学は夢をベースに語られることが多いが、これも願望水準のシフトと考えることもできる。一方、地球温暖化のように未来が大変な状況になることを前提に語られる科学もある。これも願望水準のシフトを引き起こすのではないか。幸福は無事にあり。変わらないものの中に幸福がある。未来に対しては、現在を良くすることによって未来を良くしよう。こんな科学もあって良い。幸福度については、http://www1.eur.nl/fsw/happiness/を参照してください。(2010年4月22日)

しあわせって何だっけ何だっけ

最近、幸福論がはやっていますが、私の頭の中ではいつもこのフレーズが飛び交っています。今日の朝日のCM天気図で天野さんも使っていました。キッコーマンのポン酢しょうゆのCMで明石家さんまさんが歌っていたのですが、幸せとはポン酢しょうゆのあること。実は「しあわせって何だっけ」という歌がある。関口菊日出・伊藤アキラ作詞、高橋千佳子作曲。しあわせとはいろんなこと。ポンと生まれたシャボン玉、白いドレスとハネムーン、.....。WEBですぐヒットしますから探してください。Youtubeで探したら、広末涼子と丸大豆醤油バージョンもあったんですね。そういえばあった。私はポン酢醤油が頭にこびりついているのですが、うまい醤油のあることバージョンとか、いろいろありました。それにしても、この歌詞はじっくり読むと実に奥深い。(2010年4月21日)

環境リテラシーと安心

アイスランドが火山島であることは常識や基本リテラシーとはいえないのだろうか。帰宅時にはいつもJ−WAVEのJAM THE WORLDを聞いているのですが、ナビゲーターの野中さんが、「アイスランドって火山島なんですね」、と言ってました。大西洋中央海嶺が海面上に顔を出したところがアイスランドで、火山活動が活発ということは中学や高校でも学んでいて、誰でも知っていると思っていたのはちょっとした勘違いだったかも知れない。火山灰で空の交通網が機能麻痺し、それによって莫大な経済損失を被ったなんて報道されている背景には、科学技術の機能のさせ方に対するある考え方があるのではないか。科学技術は時間と空間に関わりなく機能するものであるべきと考え、それが機能する場の多様性をなるべく排除しようとした、と考えられないだろうか。だから、火山噴火は単なる偶発的なイベントに過ぎなくなる。ハザードという認識も弱いように感じる。今回はハザードがディザスターになったわけですが、火山を良く知り、噴火に対応できるシステムが安心なシステムではないだろうか。火山噴火は滅多に起こらないから、それに備えるにはコストが高くつく、という考え方もあるだろう。それなら、火山が噴火したらその間は休めるような社会作りができればよい。とはいえ、地表面の様々な特徴、資源、富、は地球上に偏在しており、決して公平には分布していない。“豊か”な暮らしは有利な地域から始まり、“豊かさ”を求める活動は、詰まるところは競争になってしまうのだろうか。少なくとも我々は自分たちの住む地球のことをもっと良く知ったほうが良い。環境リテラシーを普及させることが、ハザードに対応できる安心社会の構築に繋がるのではないか。地理や地学の知識が世の中に充分広まっていないことは確実であるが、それを普及させる機運の盛り上がりを作っていかなければならないと思います。(2010年4月20日)

優等生シンドローム

朝日の記事で佐藤優さんが使っていました。私はよく優秀病という言葉を使いますが、同系列の言葉と考えて良いでしょう。優等生シンドロームの特徴は、自身を外から俯瞰して、自分の立ち位置を確認することができない。また、自分のスタンダードで行動し、外の世界のスタンダードを意識できないことだと思います。だから突然、大きな壁にぶち当たってしまう。学生の皆さんはこれから自分の進もうとしている世界の大きさ、スタンダードを意識し、自分が今どこにいるのかを確認するように常に心がけてください。(2010年4月19日)

楽農報告

晴れた暖かい日曜日は貴重な昨今の天候ですが、犬洗いを済ませてから畑の作業に取りかかる。今日はキュウリ、ナス、ピーマンの苗を買ってきて植え付け。八つ頭の種芋を見つけて、これも植える。去年買った種が余っているので、オクラ、シシトウを直播きしてみる。発芽したらめっけものということで。コカブの種も使いきる。後は成長を楽しみに待つのみ。昨日、成木の山の中で鹿柵を設置している現場を見ましたが、うちでは猫柵が必要。愛犬の黒丸をつれて散歩に出るときは、マーキングは犬の権利、なんて思うのですが、畑をトイレにするのは猫の権利か、さて。(2010年4月18日)

流した汗と心の糧

41年ぶりの遅い雪だそうだ。朝起きたら、あたりは銀世界。今日は青梅の先の山に行かなければならないのだが、意を決して出かける。幸い気温があがり、里までは難なく到着。桜やツツジがあちこちで咲いており、成木の里は美しい。学生がお世話になる山林の地主さんのお宅は実に立派。玄関の前の自噴井からは水がほとばしる。お茶を頂き、しばし林業についてお話を頂く。100年住宅を人が求めるようになれば林業は生業として成り立つのではないか。我が家は2×4の30年住宅。15年を経て外回りの改修をしたばかりだが、あとどのくらい持つか。お宅を辞して山に向かう。やはり林道終点では積雪10cmの冬景色。それでも、雪の間には新緑が光り、雪で覆われた崖錐の中から蛙の声も聞こえる。尾根まであがる道にはたくさんの動物の足跡。そこは野生の世界であることを実感。この間に学生は作業を進めているが、こんな研究は実験室や準備された計画の中で進める研究に比べたら労多くして...というやつに違いない。しかし、現象認識は確実に一歩進んでおり、汗を流して得た成果は必ず心の糧になると信じたい。(2010年4月17日)

科学者は科学の価値を語れ

ちょうど科学の価値について述べたばかりでしたが、朝日のオピニオン欄で編集委員の尾関さんによる「科学VS.仕分け もっと理系知に胸を張れ」と題した寄稿がありました。表現はけっこうオブラートに包まれているように感じますが、科学者は情緒的な言葉ではなく、きちんと論理的な表現で科学の価値を語れ、ということ。まず、決まり文句を捨てること、堂々と知的世界への貢献に胸をはるべきとの主張ですが、さて、競争に適応した科学者は応えることができるか。地位、名誉、資金を脇にやり、社会や現場を念頭に置いて考える必要がある。文系の議論で理系の知を求める機運が高まっていると尾関さんは指摘しているが、その通りで、暮らしの現場で理系の知が求められていることを肌身に感じる。例えば、地域の方々と、里山の保全について考える現場ではまさに研究者としての知識、経験が試される。千葉大の広井さんの著作(これも早く読まねば)をひいて、「社会科学が自然科学の思考の枠組みに転換を迫っている」というが、当の理系の科学者がそれに気がついているかどうか。昨今の科学は競争により高度化されているには違いないが、社会や暮らしの現場からはどんどん離れているように感じる。一方、宇宙開発や加速器のような巨大科学は競争の限界が見えて、協働に向かっているようにも思う。科学が蛸壺から抜け出して、役に立つ、価値を持つためには、やはり競争より協働ではないだろうか。自然科学の思考の枠組みは転換を迫られている。自然科学の価値ある価値とは何なのか、考える必要がある。(2010年4月15日)

カネとカチ

何のために研究をするのか。昨今は威勢の良い議論ばかりが飛び交っており、この点の議論が曖昧になっているように思う。競争が必要な研究はカネを求めて競争するのだと言えばよい。正確には金と地位ですが、そういう研究もあって良い。一方、価値を生む研究は競争より協働が大切ということもある。なぜなら問題は現場で起きており、問題の理解と解決には現場との信頼関係の醸成がなによりも優先されるから。水俣病研究と水俣病問題の関係を考えればすぐわかる。こういう研究を否定できる者もいるのだろうか。いるとしたら自分の価値観の外に出ることのできない哀れなディシプリン学者。例えば、田んぼが生み出す赤トンボを価値化する研究なんて協働からしか生まれない。価値観は人の心の中にあるものですから。今年から新しく始まった大学の中期計画期間に対応して、新しいプロジェクトを企画しなければならない。どうしても素人受けするかっこいい企画、普遍性を追求する企画に流される傾向はある。トップがそう考えるから。これも素人である評価者に対する一種の適応ですが、これでいいのか心の中にわだかまりが生じる。まあ、両方の研究を楽しめればいいのですが、カネも時間も足りなすぎ。評価者向きの研究と、大切な価値を生む研究をどう折り合いをつけようか。教員会議の報告で大学の方針の一端がかいま見えたので考えました。(2010年4月14日)

みんなが行く方向が正しいとは限らない

今日は新年度ゼミの最初の日、夕方アルコールが入るので電車で来ましたが、車内の神谷バーの広告が目に留まりました。確かに、日本では“正しいとされる方向”にみんながザッと流れたと思ったら、ドーンと揺り戻しがあったり、忙しい世の中です。ぶれる、ということは悪いことではないのですが、ザッと流れたときに権力や押しつけが登場すると人心が荒廃する。結局、変わらないものの中に持続可能性がある。神谷バーの電氣ブランがそうかも知れない。このキャッチコピーで一番言いたいことは、変わらない、ことの大切さではないでしょうか。実は、うちのホームページのフォルダを見ていたら、2000年のCEReSの外部評価の結果に対する私の意見が出てきました。十分な議論がされなかったので、勝手に書いて、しばらくホームページにおいてあったのですが、これを読み返すと自分の考え方は全く変わってないどころか、確信になって来ているように思います。頑固になったということかも知れません。今はリンクされていない、変わらない意見をここにおいておきます。(2010年4月12日)

機能の価値化

現代農業5月号、宇根豊さんによると赤トンボの99%は田んぼで生まれているそうだ。うちの庭でも赤トンボを見たことがあったが、昨秋はどうだったろうか。赤トンボは秋の訪れを感じさせる季節の風物詩で、心が豊かになります。こんな赤トンボも田んぼの生産物にならないだろうか、というのが宇根さんの考えですが、生産物ではなく機能である、なんて反駁されて農家は黙らされてしまうという。実に多くの労働が赤トンボを支えつつ、地域の環境を形成しているのだが。だったら、機能を価値化すればよい。価値化といっても経済的な価値だけでなく“豊さ”につながる価値。大学が地域を研究するということは、様々な機能を可視化し、価値化することに意味があるのではないだろうか。(2010年4月11日)

楽農報告

今日は暖かい。枝豆を直播きしてみる。ジャガイモはようやく芽が出てきました。収穫を考えて時間差で植えたのですが、結局同じになってしまった。これも天候のせい。春大根、カブ、ニンジン、小松菜は順調なのですが、猫に掘り返されて畝がきたなくなってしまう。修復直後に掘り返されたので、石を投げてやったら、おもちゃと勘違いしてじゃれている。猫とも共存するしかないか。タマネギは葉っぱが大きくなってきたので、土の中を見てみたら玉はまだ小さい。これから光合成して太っていくのか、と納得。数年間、畑をやっていると年ごとの天候の違いがよくわかる。(2010年4月11日)

法律か、現実か

大学基準協会のニュースレターJUAAを読んでいます。その中で、筑波大の清水さんがこんなことを書いている。博士課程に関して、「満期退学者が長期間経過後に論文を提出して課程博士の学位を取得することは、関係法令の解釈からみても容認することはできない」。長期間とは何年だろうか。千葉大学では3年なのですが、これは問題だろうか。確かに法令上はそう解釈すべきかも知れない。しかし、そうせざるを得ない社会的な理由、学生ごとの個別の理由、がある。私は法律の解釈云々よりも、現実を見た対応ができないものかと思う。個別性に対応することができる力こそが人間力だと思う。法律を修正すれば良いのですが、2009年11月27日に書いたようにアメリカでは個別性に対応できるようです。では、日本も。(2010年4月10日)

視点を変えよう

お忙しいのに旧応用地学講座卒業生の川上さん(82S)に、講演をお願いしてしまいました。会社ではどんな業務があるか、技術者としてどんな知識やスキルが必要か、を学生が知り、そして学生がいろいろな関係性を見つけるためにお願いしたのですが、参加した学生が少なかったのがちょっと残念。話題が『ホンジュラス共和国首都圏地すべり防止計画基本設計』だったのですが、“ホンジュラス”や“地すべり”のキーワードから自分とは関係ないと思った方はいなかっただろうか。いろいろな関係性があるのですよ。就活真っ最中ですが、面接では、自分のやりたいことができますか、なんて質問がくると聞いたことがある。自分中心の見方から、相手そして会社や社会の立場に視点を変えて、何が求められているか、自分は応えることができるのか、応えようと思うのか、を考えれば面接で的確な答え方ができるのではないか。こういう企画はこれからもやりたいと思う。積極的に情報を取りにいく態度、そこから世界を広げていく態度、これが「生きる力」の一部だと思う。一年の半分は海外勤務という川上さん、日本における貴重な時間を割いて頂き、ありがとうございました。(2010年4月9日)

大学の役割

今日は地球科学科の対面式でした。高校を卒業したばかりの新入生が自己紹介をするのですが、やりたいことがない、まず遊ぶ、といったことを堂々と主張する学生がずいぶんいました。四年後の就活ではこんなことを言う学生はいないと思いますが、それが大学教育の成果、というのは冗談です。世界や社会を俯瞰して、自分の方向性を早く見定めた人が先に達成する。これは世の常。高校時代から考えて大学を選んでも良い。そういう学生ももちろんいますが、一方で我々がキャリアパスをきちんと示しているだろうか。研究職もいいが、それだけでは学生は失望するだけ。大学人も社会を俯瞰して、その中で大学の役割をはっきりさせないとあかんな、というのが今日の感想でした。(2010年4月7日)

人は人を殺していいか

中国で日本人死刑囚の刑が執行されました。中国は死刑がなければ統治はできないほどの人口を抱えているということだろうか。しかし、中国の13分の1の人口の日本でも死刑は行われている。1億でも死刑なしに統治は不可能ということか。だったら、人口はもっと少ない方が良い。高齢化社会を乗り越えなければならないが、少子化も結構。人は人を殺してはいけない。ただ、それだけ。では、動物は殺してもかまわないか。難しい問題ですが、動物の命を食として頂くことの意味は殺人とは違うと思う。とにかく、人は人を殺してはいけない。(2010年4月6日)

科学の分業化

先日のノーベル賞学者と中学生の対談の記事が朝日にありました。野依さんの「まねするな」については2010年3月22日に書きました。益川さんの「おおざっぱにつかむ」はいいですね。「いまの科学は分業化が進んでいるので、自分を見失いかねない。どうなっているのかをおおざっぱにつかむことが大切だ」と。このことは環境分野でもきわめて大切。まず環境を大ざっぱにつかむ。包括的に見るってことですね。その中に何があるかを見極める。諸要素の間の関係性を探求していくことによって問題の本質に到達できる。そこから解決が始まる。研究者を目指す若者は分業化された専門分野を世界と勘違いしないようにしてください。社会の中における自分の立ち位置を大ざっぱでいいから理解しておくこと。小柴さんの「楽しむ」も良い。「楽しい」は受動。「楽しむ」は能動。自分から働きかけなければ楽しめない。「楽しく」ができれば人生は豊かになるだろう。(2010年4月6日)

カリキュラム見直し、参考基準大枠固まる

日本学術会議が大学におけるカリキュラムの検討を進めているとのことです。これが指導要領のようなものだったら、理念はいいけど、実施困難となるかもしれない。なぜなら問題のひとつは教員の強い研究志向と、それによって行われる人事にあるから。教員は自分の専門と関連する教えやすいものを教える傾向があります。参考基準が教員の視野を広げる役割を果たしたら、それはよし。ただし、体系の確立した分野は力を付けるかも知れないが、環境学のように従来の考え方では体系そのものを定義しにくい分野の考え方は伝えにくいかも知れない。一長一短、いろいろな問題がありますね。一番の問題は頭で考える姿勢が複数世代にわたって受け継がれている点。基礎(普遍性)がわかれば応用はできるという考え方。環境学などは体験から入って、関連性を通じて視野を広げていく方向がよいと思うのだが、参考基準にはこんな考え方は入っているだろうか。これを実現するためには初等中等教育のカリキュラムとの連携をとる必要がある。以前こんなことを聞いたことがある。高校の教科書で都市を教えるのに、指導要領では、その例として世界の大都市から一つ示せばいいとされたと。本当に教えたいのは世界の都市の共通点ではなく、多様性なのですが。大学の講義は自由度が高いので、自分で努力する余地はある。しかし、少数派ですと限界がありますね。(2010年4月5日)

地質学とGeology

気になる一言。先日の地球科学コースの花見の席で、ある先生から「うちの学生は近藤色に染まりすぎ」と言われました。まあ、研究室なので当然なのですが、その心は、もっとScienceをやってほしいと言うことだと思います。私の課題は自然と人間の関係ですので、人間的側面「Human Dimension」を重視しています。その先生の言いたいことは、自然のメカニズム、普遍性を探求してほしいということでしょう。では、地球科学は人間的側面を扱わないのか。私が兼務・兼担する理学部・理学研究科・地球科学コースでは一年生の輪読で、「Essentials of Geology」(Lutgers and Tarbuck)という洋書を使っています。その中には、「The relationship between people and the natural environment is an important focus of geology」とあります。人間との関わりがGeologyにおいても重要な課題。私は地理関係の教科書として、「Introducing Physical Geography」(A.Strahler)を輪読に使いたいと思っていますが、実はこの二つの教科書の目次は相当かぶっています。後者は第四版から第五版の改訂で、地質関連項目のいくつかの章を略し、地質学と自然地理学の棲み分けを図っているように見えます。GeologyとPhysical Geographyの扱う主な領域は、それぞれ地下深部から地殻表層、大気から地殻表層であり、実は共通部分が多い。地理学はもともと人と自然の関係学です。人間との関連性は両者を隔てる大きな壁ではないようです。日本語の地質学は英語のGeologyとは異なるかも知れない。日本語の地質学と応用地質学、さらに自然地理学の一部を合わせた分野がGeologyということもできるかも知れない。となると、地球科学は何だろうか。人間を除外するという意図があるだろうか。重要な課題です。(2010年4月3日)

法人化後の教育・学生支援の現状、成果、課題、今後改善すべき点

3月末締め切りの文科省のパブリックコメント募集。出そうと思っていたのですが、発言内容の根拠を調べようと思っているうちに、結局遅れてしまった。調べているうちに文科省もいろいろ施策を打ち出していることがわかってきたこともあります。もったいないのでドラフトを掲載しておきます。ただし、検証前のドラフトであり、気分で書いている面もあるので結構問題発言もあるとは思います。議論に繋がれば良い。(2010年4月3日)

本務は研究センター、教育は理学研究科を兼務する環境分野の教員の立場と経験から大学における教育の現状と課題について述べたい。

■社会・学生のニーズと大学教育の乖離
・法人化後の「競争原理」導入により論文数至上主義が強化され、分野間の競争が生じ、人事選考において論文数が絶対的な基準となった。その結果、分野ごとの教員数の偏りが生じ、大学教員の研究志向と学生および社会のニーズとのミスマッチが生じている。特に応用分野においてカリキュラムの維持に支障をきたすようになったことは深刻な問題である。
・いわゆるポスドク問題も、競争的資金によるビックプロジェクトすなわち研究事業の中で育てられた学生が、強い研究志向性を醸成され、広く社会との交流をもてなかったことの必然的な結果ではないだろうか。
・欧米では起業のために学位をとり、業務で活躍するものも多い。これらの人材は、科学の研究を行いながら、社会の流れを読みとる力も同時に備えているのである。真理の探求という行為を至上のものととらえ、狭い研究分野に自らを押し込めるのではなく、社会のニーズを捉えることのできる人材の育成を日本の大学に求めたい。

■どうすればよいか
・学科、専攻における教育目標について、広く社会一般から意見をくみ取る仕組みはどうだろうか。研究志向性の強い組織内部からの変革は困難である。大学で育成する人材が活躍する現場からの評価基準が必要である。明確な教育目標を掲げ、今回のような多数からのパブリックコメントを頂くのも一つの方法である。
・博士課程の学生が社会で受け入れられる仕組みが必要である。具体的施策には議論の余地があるが、民間企業の負担を軽減させながら、学生のOJTを実施する仕組み、学生参加で企業との共同研究を推進できる仕組み、等が考えられる。
・教育問題の基層には大学人の優秀病がある。少なくとも環境分野では問題を解決するには競争ではなく協働が必要である。優秀であることばかり気にするようでは、問題解決能力を醸成することはできない。文明社会の維持には教育は不可欠である。学生が安心して大学院、特に博士課程に進み、活躍できる仕組みの構築を今後の文部科学行政に求めたい。

人間は信じたいことを信じるんだなぁ

今日はエイプリル・フール。いつもは朝一番で家族に偽情報を発信していたのですが、今年は忘れておりました。地球防衛家のヒトビト(朝日夕刊)のお父さんはがんばってましたが、なかなかお母さんは信じない。でも、「日本の美女」の取材が来たという話に、お母さんはグラッとくる。人間は信じたいことを信じるんだなぁ、となる。私は“べき”という言葉は好きではないのですが、誰かが“〜すべき”なんて言っているときは、その人の持つ様々な背景を考える。すると、その人の信じたいことがわかる。しかし、他の人には別の信念がある。異なる主張の間の折り合いが解決なのですが、最近はこれを忘れた議論も多いように感じる。トップダウンの指令ではトップの信念が見えれば良いのですが、それが曖昧な場合もある。それは権力と権威、責任が乖離しているということでしょう。今年度は学生が多い。指導が大変ですね、という声も聞こえますが、私はいろいろな方々にお世話になろうと思う。すると、自分の信じる思いだけではうまく行かない。折り合いの中から最適解を探す、そんなサイエンスをやりたいと思う。(2010年4月1日)

ワークライフシナジー

ワーク・ライフバランス社長の小室さんのオピニオン(朝日朝刊)でこの言葉が目に留まりました。私生活のなかの気づきから企画につなげていく、ということですが、そもそも仕事と暮らしを峻別しなければならなくなったことが現代の不幸なのかも知れない。私の仕事の対象である環境はまさに普段の生活の中の気づきがアイデアの源でもある。仕事と暮らしが同化し、暮らしと仕事が相互作用するようになる。こういう状況が充実感を生み出すのだろう。そんなことをいっても、仕事を暮らしに優先させざるを得ない状況もある。やはり、今の政治に求めたいのは暮らしのセーフティーネット。これがあればワークライフシナジーを達成できる。(2010年3月31日)

私が変わる、世界が変わる

朝日CM天気図から。あまりテレビを見ないので、この資生堂のCMはまだ見ていないのですが、天野祐吉さんがこんなことを言ってました。この世界を変えるのはどこかのえらい人ではなく「私」である。「私」の変わりようが、「世界」を変えることにつながっていく。これぞ、草の根では多くの方が思っている、目指すべき社会への基本的な考え方だと思う。「地球」と「私」の間のギャップに悩んだ日本の社会学が、地域をよくすれば世界はよくなるんだ、と考えたグローカリズム。ひとりひとりを救うことによって社会全体を救おうとする仏教の教え。基本的な思想はアジアの民の中にある。だから、このCMは6社が相乗りするという。私が変わる、××が変わる。でも、小さな変化は見えにくい。こんな時代に求められるリーダーは全体を俯瞰することができて、折り合いをつけられるリーダー。フーテンの寅さん型リーダー。いろいろな小さな変化を見つけて、調整できるリーダー。最近、印旛沼流域における様々な活動に関わっていますが、実に多くのNPO、グループが地域を良くしようとがんばっている。地域のがんばりを俯瞰して、それらを調整しながら広めて繋げていく活動も大切。やはりCMは大事。大学はそんな役目を果たせるかな、と思いますが、まずは自分が当事者にならなければと思います。(2010年3月31日)

なぜ新卒か−無難社会の悪弊

どこかで読みました。文科省だったかな、卒業後3年は新卒並採用をするように民間にお願いするそうです。この新卒ってのが前から気になっていました。そもそも、なぜ新卒なのだろうか。卒業して数年いろいろな経験を積むことがよしとされずに、浪人や留年は認められてしまう。人事担当者に理由を聞いてみたい。恐らく明確な返答は得られないのではないか。新卒採用が慣習化しており、新卒採用しておれば無難。上司も問われれば新卒優先としておけば無難。無難社会の悪弊なのではないだろうか。白紙の学生を受け入れた高度成長時代の慣習が時代の変化に対応できずに生き残っているといえるかも知れない。先週の朝日GLOBE紙では人工臓器に関する日本の後れに関する記事が気になった。これも無難社会、責任をとりたくない社会、言説がだめ監督者の権威付けの理由にされる社会の顕れなのでしょう。何か日本はだめになってきたなという感覚が露わになってきたような気もする。ただし、どんな不況でも優秀な人材は採用するという経営者の発言を聞いたこともある。こういう会社は底力があるに違いない。大学人は学生に社会で機能する力を付けさせる。これを粛々と遂行して行くのみ。(2010年3月30日)

貧しさとは

中国ギョウザ事件が思わぬ展開を見せています。逮捕された呂容疑者の故郷という河北省の南障城鎮。テレビで報道されているようですが、うちのかみさんからは貧困を通り越して悲惨という表現も飛び出してきます。私はあの辺りは何度も行ったことがあり、太行山地の中の村の様子は良く知っています。ただし、貧困を感じたことはあまりありませんし、本当に貧困かどうかはよく調べないとわかりません。中国は食糧自給はほぼ達成していますので、国民が飢えることがあったらそれは政治行政の問題です。医療、教育に問題はあると思いますが、健康でさえあれば人として基本的な生活はできるのではないだろうか。できないとしたらそれは市場経済、新自由主義の問題であり、成長による幸せ感のシフトの問題かも知れない。テレビに映し出された村の様子は都市の生活と比較したら貧しいかも知れないが、それを不幸と結びつけるのはあまりに失礼だと思います。私の家は戦後入植した開拓農家ですので、小学校低学年頃までは確かに外見は貧しかった。周辺に団地がどんどん建設されている時期でしたので、都市的生活者との比較から我が家も貧困と見られていたかも知れません。しかし、それは不幸ではなかったことは断言できます。中国の10億人超の国民の幸せを担保するためには、経済成長は唯一の手段ではない。新しい、生き方、思想に基づく国造りが必要だと思いますが、それは古の人々の智慧の中にすでにある。(2010年3月29日)

新卒になりたくて・・・希望留年

これも朝日朝刊から。教員として実に悩ましい問題で、その理由も理解できます。考えなければならない点は、大学で学んだ専門知識が就職企業でどれだけ生かすことができるのか、という点だと思う。大学で学んだ分野と関係のない分野に就職する学生が多ければ、大学と社会のミスマッチではないか。学生には自身のやりたいことが大学ではできればよい、という考え方もあるかも知れない。しかし、特に理工系では、きちんと研究をやってほしい教員とやりたいことができればよい学生との間で要求のミスマッチが生じてしまう。予算配分、評価基準がそれを許容するようになっていないから。これが時々大問題を起こす。研究を通じて社会で役に立つ知識、経験、技術を身につけ、それが生かされるという状況、それは自己実現でもあり、そんな社会を作り上げたい。そのためには、マーケットを作り上げなければならないが、環境技術あるいはエコテクノロジーは長期的視野から持続可能社会を作るための必須分野だと思う。エコテクノロジーは読み始めた栗原康著、共生の生態学から。これについてはまたいずれ。(2010年3月29日)

国立大順位付け、現場が不満

朝日朝刊から。当たり前でしょう。再三述べていますが、評価システムが、やるべきことをきちんとやっていること、を評価するようになっていない。評価の低い大学は法人化以前からやるべきことをきちんとやっていたという見方もできる(だから、評価のポイントである"新しい"ことをやる必要がなかった)。高い評価を得た大学は、その予算力に裏打ちされた企画力で目立つ花火を打ち上げることができた、ということかも知れない。この評価で誰が幸せになったか。役人、高評価大学の執行部、一部のエリート教授といったところだろう。根本には何を大切と考えるか、どのような社会を作りたいか、といった基本思想の欠如があるように思う。欧米の競争主義の中には、その歴史の中で培われた思想による裏付けがある。思想を欠いた競争至上主義から抜け出さなければ日本の未来は危ういのではないか。(2010年3月29日)

ゲームの勝敗

国立大、初の順位付けということでリストが公開されました。こんな数字を作るためにどれだけの貴重な時間とコストが費やされただろうか。求めに応じて様々な資料を提出してきましたが、大学がやるべきことをやったということがどう評価されたのか、評価されなかったのか、わかりません。新しいことや目立つことをやったということが高評価に結びつきました。そもそも、何が改善すべき問題だったのか、という点でさえ十分議論されていなかったように思う。評価がゲーム化しており、ゲームの順位に一喜一憂しているような感じ。ゲームに勝っても所詮ヴァーチャルな世界。ところがそれに気づきもしない。こんな状況に大学はあるのではないだろうか。さて、Gの評価が終わったら、その結果を今度はNonGが検証したらどうだろうか。IPCCも検証されることになりましたので。(2010年3月25日)

やさしさとあまさ

学生が謝恩会を催してくれました。教員冥利に尽きる一時ですが、さて私は学生に伝えるべきことをちゃんと伝えただろうか。学生は理解してくれただろうか。自分で言うのも何ですが、私はやさしいと言われることもあります。しかし、実はあまいだけ。なんてことを思いながら今年度も終わっていく。まあ、将来、近藤があんなことを言っていたな、と思い出す時がくれば、それでよしということでしょう。(2010年3月24日)

吉野川可動堰中止

YAHOOニュースに「吉野川第十堰、国交相が『可動化中止』明言」のヘッドライン。ちょっと感動ものですね。10年間長かった。私もこの運動はちょっと本で読んで、講義でも話しているが、この10年間で何が変わったか。恐らく住民の意識ではないだろうか。川とはどういうものなのか、地域の皆さんが知るようになった。川と人の関係を良好にするためにはどうすればよいか、みんなで考えた。その結果、川と人の分断が修復された。その代わり、地域は流域全体で川との良いつきあい方をしていかなければいけないことになった。これからがまた大変だと思うが、人と川の無事な関係をどうか我々に見せてください。想像も含めて書いていますが、いかがでしょうか。(2010年3月24日)

現場と実験室

しばらく放っておいた石弘之のアフリカ環境報告を読み切る。アフリカには様々な問題が山積しており、その決定的な解決策は見えない。一つの問題に様々な要因が絡み合って、問題の理解さえ難しい。調理に火力が必要な小麦の援助が森林の伐採と関係しているかも知れないという認識は新鮮でした。ウガリ(トウモロコシ粉の湯がき)はお湯だけでできますから。ため息をつきながら次の本を手に取る。だいぶ前に買っておいた福岡伸一の「生物と無生物の間」。頭は関係性探求型科学から真理探究型科学への大転換となり、混沌とした環境問題の現場からシャープな実験室内の世界へ入っていく。うわさに聞く真理探究型科学の競争の現場をかいま見ることができます。一位以外は価値のない世界。現状では真理探究型科学が研究者の世界ではメジャーであり、科学政策や研究者の評価もこの分野の価値観で決められていく。観客としてはこちらの科学の競争をみていた方が楽しめるかもしれない。でも、環境問題の現場も大切。関係性探求型科学ももっとアピールする必要がある。しかし、こちらの科学は明確な解を示すことが難しい分野、小さいかもしれないが深い問題を扱っている分野。真理探究型科学と同じ評価基準を与えられることが環境問題の理解と解決を遠ざけていると思う。(2010年3月22日)

楽農報告

来週は休めないので畑作業を進める。堆肥を買いに行ったホームセンターでイチゴとブロッコリの苗を見つけ、移植。人参の種をばらまく。足りなくなったので買いに行ったホームセンターで大根と枝豆の種を購入。春大根は畝に直播き。枝豆はポットに蒔く。空いている土地に堆肥をいれ、鍬を入れる。なぜか今日はやたら疲れる。腰も痛くなり、退散。(2010年3月22日)

まずまねをしよう

ノーベル賞受賞者の野依さんが、中学生に講演したそうです。朝日朝刊から。その中で、「(ノーベル賞をとるためには)...絶対にしてはいけないことは他人のまねをすること」とありました。もっともですが、研究の過程では、公開されている成果の"まね”をまずやってみる必要もある。相手と同じ認識レベルに達した上で、その先を行く新しい認識を探すこと。これが研究です。研究というのは先人の成果に新しい成果を積み上げる行為ですから。そうやって認識は深まっていく。野依さんがやっちゃいかんと言っているのは、他人の成果をあたかも自分がやったように見せかけること。これは犯罪でもあり、研究者だったら信用を失います。一見耳に聞こえの良いフレーズはその真の意味を理解しないと言説となり、かえって人を苦しめることになる。ただし、真理探究型科学と関係性探求型科学では認識が異なる可能性もありますので要注意。私の言っているのは典型的な関係性探求型科学の環境学。これから卒論を始めようとしている学生諸君、新しいすばらしい成果を出さなければいけない、なんて力むことはありません。まず先人の研究成果を理解してください。そしてまねをすることによって、手法や考え方を学ぶ。それによって自分が次に何を積み上げたらよいか、あるいは深めることができるか、見えてきます。そうしたら、それをやればよい。少しの積み重ねでいいのです。(2010年3月22日)

如何に生きるべきか、を考える

お彼岸の中日。母と墓参りに行った。浄土宗の寺ですが、読経が終わった後、唄を歌うという。”いまささぐ”と”光明攝取和讃”。阿弥陀様の前で歌いました。いいですね。仏教とは本来宗教ではなく哲学です。いかに生きるべきかを考えた。葬式仏教になったのは江戸時代以降、幕府のガバナンスの一貫としてであった。それまでは今の大学に相当するものが寺であり、如何に生きるかが、学問の課題であった。現在、地球温暖化をはじめ、様々な課題が我々の前に立ちはだかっています。これらの問題を解決する策は、イノベーションや成長というよりも、如何に生きるかという哲学を明らかにすることではないだろうか。そして、様々な生き方を尊重すること。科学が人の明るい未来を切り開くものであれば、そこには哲学、すなわち価値観や思想が入っていなければならない。(2010年3月21日)

覚悟と責任

四日前から目の周りが腫れてしまって、いよいよ花粉症かと思っていましたら、霰粒腫(さんりゅうしゅ)と診察されました。ホームページで調べると、高齢になって再発を繰り返すと悪性腫瘍化する、なんてことも書いてあり、また不安要因が増えました。眼に関しては私は緑内障の疑いがあるのですが、今年一月の人間ドックでは指摘はありませんでした。かかりつけの眼科なので、言われるままに眼底検査を受けたらやはり引っかかりました。女医さんの言うに、人によって判断が違うのよね。まだ心配するほどではないということだと思いますが、自分の情報が蓄積されているとわからないこともわかるようになる。時系列情報は大切。人間ドックも続けているので要注意事項の種はいくつかあることは知っています。いずれ芽を出す可能性はあるのですが、そんなことは心配しないで今現在を楽しく誇りを持って暮らすことが大切だと思う。もちろん病気に備えながら、今を活き活きと生きる。ところが言うは易し、行うは難し。楽しく誇りを持って生きるとは、自分の評価基準で生きるということ。現実は他人が決めた評価基準を押しつけられる。またここに話が来てしまいました。結局は覚悟と責任ということになるのだろう。(2010年3月20日)

日本のカントリーリスク

朝日経済気象台より。これは途上国の問題というわけではない。インドネシアが看護士、介護福祉士の日本への派遣を次年度はやめるというが、これは日本のカントリーリスクを他国が意識し始めたということ。私は島国の豊かさがもたらした結末だと思うが、そんなこと言っている場合ではない。私に何ができるか。それは学生、特に留学生が学んで帰れるものを持たなければならないと思う。最近、研究のターゲットをリモートセンシングだけでなく現場に向けている。それはデスクトップで学べる技術はすでに充分にあり、最も必要なのは現場を観察し、理解する力だと思うから。自然観、世界観、価値観をベースに(ここは私の主張)、地域に役に立つ科学技術を作り上げていかなければならない。日本人にも、留学生にも日本の経験、知識、技術を身につけて頂き、地域、世界で役立てて欲しいと思う。これが日本のカントリーリスクの回避に繋がる。(2020年3月18日)

物欲にうち勝つ

気に入っているギアの一つにポメラがあります。ちょっとした時間に文章を打つのにまことに使い勝手がよい。トイレの中でも作文できます。昼間生協でこのポメラの新製品を見てしまい、それがずっと気になっています。デザインが一新されているし、液晶が大きい。欲しい。作文が楽になるだろうな。はたと思う。これは幸せを追求しながら、たどり着いたと思ったら幸せはさらに遠くに行ってしまう現代社会の構造そのものではないか。老眼鏡は必要ですが、今のポメラを壊れるまで使おうと思います。(2010年3月17日)

力とは何か

私には力がないそうである。では、力とは何か。大きな予算をとり、人を配置して研究を進める能力だろうか。人に便宜を与える力か。そんな風に思っている若者がいたとしたら、つまらんことだと思う。大きな研究事業を経験した若者がそう思うこともあろうが、その若者の幸せには結びつかないと思う。力とはやるべきことがやれること。そのやるべきことは他人の評価基準ではなく自分の評価基準によるべきこと。もうひとつ大切なことは、広い視野の中に自分を位置づけ、本質的な力を見極めるということ。若者はそうやって見極めたものを目指してください。なお、いっちまったな、と思った方がいたとしたら気にすることはありません。考える題材を与えてくれてありがとう。(2010年3月17日)

総合科学技術会議「形骸化」

ここ数年形骸化が指摘され、改革に乗り出しているそうな。朝日朝刊より。私は研究者の研究事業疲れが背景にあるように思う。研究と開発が峻別されておらず、とにかく大きな予算を獲得した者、分野、組織が優秀であるという評価を与えられる。優秀と認められ、予算をとっても、いかに優れた成果をあげたことになったか、という作業に翻弄される。これは疲れます。一方、予算を採択する側にも優秀病はないだろうか。自分たちの出した方針は優れているはずだという意識。申請者側では、大きな研究プロジェクトの公募が出ると、審査員は誰で、非公式に打診しなければならない、その考え方にあわせた作文が必要だとか、といった動きが始まる。両者の方向性が一致し、虚構を作り出していく。さてあり得るだろうか。いい機会ですので、こんなことを想像させないような改革を行って欲しい。ところで、議長でもある鳩山さんは幸福度調査を始めるとのこと。総合科学技術会議でも国民の幸福そして幸せにつながる科学技術のあり方を議論してほしい。そうは思うが、そのような科学技術は総合科学技術会議が所掌するものではないだろう。この会議は国の威信、覇権を担保し、外交の舞台でイニシアティブをとる、そんな科学技術を振興するためにあり、そして、それだけが科学技術ではないのである。科学技術と科学、学問というものに対する理解が政治家、有識者に不足していることが最大の問題なのだと思う。(2010年3月17日)

若手とは何か−世代間共同参画社会の提案−

何歳までを若手と呼ぶのだろうか。WEBで調べても20代から40代まで幅は広い。私は50代だが、いまだ若手と呼ばれることがある。私の世代は若い頃から将来を担う若手とおだてられて様々な雑務を担ってきたが、中堅となると今度は若手尊重で予算申請からもはずされることも多い世代。世の中にはいわゆる35歳条項という縛りがあるが、その根拠は何だろうか。日本では課程博士は27歳で修了する。その後、8年間ですからそろそろ若手を卒業してもいいんじゃない、という説明ももっともである。しかし、世界に目を向けてみよう。兵役が2年あればそれだけ遅れる。アジア諸国では自国の学位だけではなく諸外国の学位を取ることがキャリア形成の条件になっている国もある。そのような国では30代半ばでようやく社会に出ることになる。社会に出るときは、すでにチャンスはないなんて。そもそも若手という枠をはめることが不幸増殖装置の機能の一部ではないか。人が生き方を自分で決められ、年齢の型をはめられない社会が幸せな社会の条件の一つではないだろうか。男女共同参画社会という考え方があるが、世代間共同参画社会という考え方もあっても良いかなと思う。ただし、熟年がプライドを捨てる必要もあるし、若手の責任も大きくなる。(2010年3月16日)

勉強の有用感

朝日教育欄から。東大とベネッセの都立高校を対象とした共同研究。普通科より専門高校の生徒の方が勉強意欲が高い。それは、勉強が自分の将来に役立つという有用感が大きいからだという。これは大学でも同じではなかろうか。卒業年度で、自分がやりたいことを自覚しており、それを実現する知識、技術が身に付いている、こうなっていれば自分が何に役に立つかは容易に想像できるはず。将来に対する自信を持てる。ベネッセの松田さんは記事の中で、専門教育にこそ日本が今抱える教育課題へのヒントがあるように思える、と述べている。人口減少、成熟社会を迎えた今こそ、大学は自らの行う専門教育の価値を問い直さねばならない時期だと思う。それは学部によって異なる、理学には真理の探求こそが至高の行為で、それを目指す研究の過程で学生は生きる力を身につけるんだ、という主張もあるでしょう。それは、今という時代背景を考えるとちょっと悩ましい。私はどうどうと何に役に立つか、具体的に発信することが大切だと思う。(2010年3月15日)

楽農報告

最近体重が増えている。春に備えて畑を耕しておかねばと思うが、きつい。何とか畳数枚分ではあるが、堆肥を入れて耕す。つい待ちきれなくなって小松菜を一区画播種する。というのも、最後の小松菜とほうれん草を収穫したばかりだから。放っておいた芽キャベツもすべて収穫し、畑が寂しくなった。ただし、早めに蒔いたカブが発芽している。エンドウとそら豆も何とか育っている。菜の花ももうすぐ黄色い花を見せてくれるだろう。そろそろ春の繁忙期、といってもホームセンターにはまだ苗はあまり出回っていませんが、無計画、だから楽しい楽農本番の時期が近づいてきました。今年は花も植えたい。(2010年3月14日)

首相発言「揺らぎは宇宙の真理」

ごもっとも。鳩山さんは発言の「ぶれ」を批判されがちですが、そもそも、ぶれちゃだめなものと、ぶれていいもの、の両方がある。ぶれちゃだめなのは明らかな悪に立ち向かうとき。一方、現場に関わることは状況によってぶれたってかまわない。江戸時代に工事を行うときに最初から厳密な設計ができない場合、少しずつ試しながら修正する「見試し」というやり方がある。現場の問題は様々な要因が積分されて現れている。こうだ、と決めつけて対応するよりも、少しずつ修正し、話し合いながら良い方向に向かっていくやり方だってある。“ぶれを許さない”が不幸増殖装置の機能の一部になっているのではないか。正しくぶれることも大切。(2010年3月12日)

幸福と幸せ

ちょっと気になって広辞苑(第六版)で調べました。幸福とは、心が満ち足りていること。幸せは仕合わせとも書き、めぐりあわせ、機会、天運という意味がある。なりゆき、なんて意味もある。なるほど、仏教でいう、そのまんまでいいんだよ、というのは幸せ。幸福の“心が満ち足りる”には自己実現なんてニュアンスもあるだろうか。自己実現を広辞苑で調べると、「自分の中にひそむ可能性を自分で見つけ、十分に発揮していくこと」。そうすると幸福を掴むためにはがんばらなくちゃ、なんてことになると今と状況があまり変わらなくなってしまう、なんてことはないだろうか。そういえば、うちの愚息は小さい頃、よく“しわよせ〜”っていっていたな。もちろん、幸せのことです。(2010年3月12日)

幸せとはふつうであること

政府の幸福度調査を受けて、朝日に“幸せ”に関する記事があった。幸福度を定量化するためには、まず幸福度を定義しなければならない。定義といっても幸福度の指標を選び、その他の関係ありそうな指標との間の見かけの関係を求めることになるだろう。これ自体は興味深いことであるが、そもそも幸福、幸せって何だろうか。幸せがあるということは不幸もあるということ。一生懸命不幸の谷を埋めていたら、いつの間にか幸せの山もなくなっていた。なんだ、そのまんまでいいんじゃないか。というのはシッタカブッタ。仏教の教えだと思います。ふつうが一番。ではふつうって何。まず暮らしが無事であること。とにかく暮らしていけること。デンマークはこうして世界一幸せな国になった。経済的にはトップクラスではないけれど、あがったり下がったりも少ない。日本では幸せの山に登らなければならない、とがんばるのだが、不幸の谷も深めている。みんながふつうになれば、みんなが幸せになる。(2010年3月12日)

シーンに無くてはならないもの

夕食をとりながらテレビを見ていて新しいプチトヨタ、パッソのCMを見た。桜満開のハナ女子大学ですが、あるものを探してしまう。そこに無くてはならないもの。どこかに小さく写っているのではないか。ハナ肇の銅像(何のことかわからんだろうなぁ)。ハナさんを思い出したのでスターダストを弾く。あのナット・キング・コールの歌が有名なやつ。シャボン玉ホリデーのエンディングでザ・ピーナッツにひじ鉄を食らうハナさん(古い!)。その時にザ・ピーナッツが歌う曲。あるフレーズやシーン、音楽が何かと一緒になって記憶されている。それを見る、聞くと思い出すものってありませんか。(2010年3月11日)

現場とトップの関係

スカイマークの機長が、体調不良で声を出せない客室乗務員(CA)を交代させようとしたところ、会長と社長が認めず、機長を交代させて運行したという。この場合、機長の判断は航空法に則っており、安全を確保するための職務を履行したということ。CAは保安要員で、いざというときに大声で乗客を誘導しなければならない。折しも、朝日折り込みのGLOBE誌(8日)の公務員に関する記事で、パイロット、ノーベル物理学賞受賞者、平和賞受賞者の寓話があった。結論だけ述べると、大切なことは操縦のプロであるパイロットにやる気を持たせつつ乗客の求めに応じて飛ぶことができるか、ということ。すなわち、現場における職責、専門性を尊重し、組織の機能を発揮させるように持っていくことがトップの役割。大学はどうだろうか。評価のための数字だけを求められて、なんとかせよと命が下る。根本となる思想、考え方が示されないから現場は疲弊するだけ。数字があれば良い、中身は知んよ、という態度だったら組織は危うい。日本全体がこんな感じになっている。トップの機能不全、これは不幸増殖装置の機能の一つではないだろうか。(2010年3月10日)

津波避難、3.8%どまり

各所で報道されていますが、災害情報システムによる情報は伝わったのか、それとも情報が安心を与えてしまったのだろうか。避難は最終的には自分の判断。情報はどのように使われたのか。今の時代、命よりも大事なものはない、と言いきりたいが生活が成り立たない苦しさは容易に想像することができる。何より命が大事と思うことができる社会が災害に強い社会なのだと思う。なんて考え過ぎかも知れませんが、もし人が自然の仕組みを知らなくなったことが避難しなかった理由だとしたら...。人が人たるは自然の仕組みを理解し、対応することができるリテラシーを持っていること。ハードウエアを含むシステムで安全を確保しようとすることは人を機械や部品として扱うことに近い。だから、バックグランドの知識を持った上でシステムは道具として使いこなさなければならない。やはり教育の使命はやはり大きい。(2010年3月9日)

献体登録、20年で倍、は家族関係の薄さか

朝日朝刊から。それもあるだろうが、私はそれだけとは思わない。何かの役に立ちたいという故人の思いなのではないか。人は誰かの役に立つことによって、自分自身の存在を確認する。この世から去る前に役に立ちたいという思いを尊重したいと思います。(2010年3月9日)

田中正先生最終講義

田中正先生は私にとって常に先生でありました。東京教育大学・筑波大学と教員生活37年と伺ったのですが、私が筑波大の博士課程に入学したのは30年前です。となると当時、田中先生は就職7年目ということになる。私の7年目は都立大の助手ですが、正直言って若造だったなと思う。田中先生も実は若造だったのか(失礼)。田中先生とは結構いろいろなところに行っています。スリランカは出張中にサリン事件が起きた時でしたが、当時私は若かった。地元の食べ物を食べたかったのですが、首都のキャンディーに滞在中は結構ホテルでクラブサンドウィッチという昼食がありました。つまらんなと思ったことが思い出です。街の食堂で食べたカレーの中に入っていためずらしい具は、今から思うとゴキブリでした。私の中国、華北との関わりは10年以上続いていますが、これも最初は田中先生との視察旅行でした。1997年の7月に千葉大のグループが華北を訪問したのですが、私は9月に田中先生、嶋田先生(現熊本大学)と平原を巡りました。当時丸一日かけて移動した距離が、今では高速道路で数時間でいけるようになっていることは驚きです。今年で終わるインドネシアの調査も、田中先生の学生のカスジ君が私の学生のノラさんの上司ということがきっかけのひとつであることにも縁を感じます。田中先生は筑波大学の北京事務所担当ということでまだしばらく筑波大に残るということですので、縁はまだまだ続くと思います。これからもお元気で、ご活躍ください。(2010年3月8日)

環境学における“気づき”の重要性

引き続き、石弘之氏の「キリマンジャロの雪が消えていく」を読み始めました。様々な問題に鋭く切り込んでいく内容はとてもおもしろい。問題の現場にいた著者の現実感は圧倒的な迫力がある。ただ、私の専門に近い分野では、ちょっと短絡的かな、なぜあのことにふれないのかな、と感じる部分もある。しかし、私の詳しくない分野では多くのことに気づかされる。この“気づき”こそが環境問題の理解、解決にとって重要なことなのだと思う。様々な側面に気づくことにより、問題の全体像が見えてくる。そして、どこが問題か、どうすれば良いのか、という考えが生まれてくる。部分を世界だと勘違いしているサイエンティストには人と自然の関係である環境を理解することは難しい。とはいえ、個人が包括的な視点を得ることもなかなか難しい。環境学はやはりモード2科学であり、関係性探求型科学。お互いを尊重しながら議論を深め、協働していく。問題の解決を共有するコミュニティーの中で、世界を広げ、解決能力を総体として持つ、そんな分野なのだと思う。(2010年3月7日)

共感が勇気を生む

加賀さんの「幸福論」読み終えました。共感できるところがたくさんある。そして、共感が勇気に繋がっていくのだと思う。この本はかなり売れると思うが、それはみんながそうだろうなと思っていることをズバリ書いているから。人々は共感し、納得することで勇気を得る。ただし、加賀さんはすでに80代、暮らしには困らないだろう。まだ現役で暮らしを守らなければならない人々にとっては元気を頂いても現実は悩ましいこともあろう。これからは幸福論にも、この社会をどう変えていけば良いのか、という具体的な提案が求められると思う。(2010年3月7日)

この時期絶対佳いもの

昨日は暖かかったのですが、啓蟄の今日はちょっと寒い。少し寝坊してゆっくり大学に出かけますが、この時期、佳きかな、と思うものがある。それは梅、特に紅梅が佳い。桜より梅が好きです。梅林も好きですが、くすんだ風景の中にポツン、ポツンとある紅や桃色がまた佳い。桃の花も佳いのですが、このあたりでは梅。通勤途中で数カ所、紅梅を見ることができますが、ほっとする風景です。願わくば梅の下にてもの思ふその如月の啓蟄のころ...西行もびっくり。(2010年3月6日)

評価の物差しを他者から押しつけられる不幸

昨日、「評価の物差しを他者にゆだねる不幸」(加賀乙彦)について書きました。現実にはそれだけでなく、「評価の物差しを他者から押しつけられる不幸」もありましょう。今日、東京の会議に出かける前に事務室に寄ったら、ちょっとお時間良いですか、と。組織の中期計画の評価では卓越した研究成果を何件かあげなさいとの指示があったのですが、自己評価が高すぎると通知があったそうな。人にストレスを与える理由は、誰が、どんな考え方に基づいて判断を下しているかがわからないこと。これは評価される側の尊厳を無視して、何かの部品として扱うことと同じ。評価者が被評価者の上位にあるという悲しい勘違い。これが日本を不幸増殖装置として機能させることになる。大学において何が卓越した成果なのか、卓越した成果とは何か。これは研究、教育、大学運営に対する確固たる考え方、思想をベースにしないと説明不可能です。今の私は普遍性探求型科学よりも関係性探求型科学を重視する。モード1科学よりもモード2科学と言っても良い。この立場では現場における小さな問題の理解、解決を積み上げる行為を重視する。どれも大事。自分の成果には優劣などない。だから、私自身の研究は挙げませんでした。競争より協調あるいは協働。これが科学を価値あるものにする。もちろん、この科学は関係性探求型科学。理由など説明しない、オレの言うとおりにやれ、なんてことがまかり通る時代は過去のものだと思うのですが。(2010年3月5日)

部下よ「困難に打ち勝つ力を持て」

朝日の生活欄から。この上司の期待第1位に対して、若手が成長したいと思っている力の順位は、@アイデアや工夫を生み出す力、A業務に関する知識や技術、B仕事のおもしろさを感じる力の順で、上司の期待1位は5位とのこと。熟年と若手の間の考え方の違いはおもしろいのですが、実は若手の望みを達成する方法が上司の期待、ということではないですか。@は勉強して得た知識、現場から得た経験が頭の中でビビッとつながること、Aは努力して学ばねばなりません。Bは努力した結果としておもしろくなるということ。みんな困難です。この困難に打ち勝てば、若手の希望はみんな叶う。結局自分でゲットするか、与えられるのを待つか、という姿勢の違いでしかないのかな。(2010年3月5日)

科学への信頼回復問う

朝日朝刊の記事。クライメートゲート事件(あのメール流出の件)、IPCCの問題(報告書のミステイク)をきっかけとして欧米では科学への信頼感が揺らいでいるという。科学者と一般大衆との間のコミュニケーションに課題がある様であるが、この問題の根は非常に深く、文明のあり方の根幹に関わる問題ではないだろうか。トヨタリコール問題とも関連がある。それは科学や技術が複雑になりすぎ、あるいは多様になりすぎ、科学者だけでなく大衆側にも理解のための努力が必要になった。大衆は果実を享受するだけでは文明社会の野蛮人(オルテガ、小林信夫)でしかない。科学が明らかにしたもの、達成したものを、その背景、経過を含めて正しく理解することが、文明社会の持続性につながる。文明社会の野蛮人化を避ける対策(それは教育、アウトリーチだろうか)とともに、複雑から単純へと文明の基盤構造を変えていく必要もあると思う。(2010年3月5日)

コドモの自尊心

加賀さんの幸福論を読んでいますが、他者との比較で自分の価値を確認しているのが「コドモの自尊心」の持ち主。これが自分を傷つけていく。さらに、読み進めると「他者を意識しすぎる不幸」、「評価の物差しを他者にゆだねる不幸」と続いていきます。大学においても個人評価、組織評価、大学評価、はまさに自らの評価を他者にゆだねてしまっているように見える。議論の機会が少なく、結果を押しつけられますから。大学人は理念を忘れて、業績があったことになったかどうか、成果を上げたことになったかどうか、こんなことばかりに時間を費やし、自らを傷つけていく。どうどうと自己主張し、議論を交わし、お互いの理解を深めていくことにより、自分の価値を確認する。こんな「オトナの自尊心」を回復しなければならないなと思う。(2010年3月4日)

人は幸せにも慣れてしまう

加賀乙彦「不幸な国の幸福論」を読み始めていますが、その中で気になったフレーズ。折しも、「鳩山首相が先月28日、菅副総理や仙谷国家戦略相と会談し、新しい成長戦略をまとめるにあたって、国民の『幸福度』を調査することを確認した」、とのニュース(Yahooから)。加賀さんは、「そもそも『これこれの条件を満たせば幸せになれる』といった考え方自体が大いなる勘違いであり、幸せの足かせになる」と述べています。幸福度を調査して、成長にどのように結びつけるのか、深慮が必要でしょう。幸福度については長年にわたり各国を対象に調査している機関があります。平均所得の伸びに対して幸福度はあまり変わっていないどころか、最近は下降傾向であるという。どこで読んだのか失念してしまったのですが、幸福を研究する経済学によると、所得に対する幸福度の関係がある段階でシフトするという。だから、物質的に豊かになっても幸福度は変わらない。すなわち、人は幸せに慣れてしまう。さて、幸福度をどのように成長に結びつけるのか。何の成長なのか。民主党はどのような考え方を示してくれるか。期待して待ちましょう。(2010年3月3日)

科学技術者と科学者

チリ地震による津波の到来が観測そして予測され、防災に役に立っている。なんてすごいことだろうと思う。科学が社会の役に立っている。では、このシステムを構築したのは科学者か、それとも技術者だろうか。それは科学技術者だと思う。ほとんどの科学者は社会の役に立ちたいと思っており、そのための技術開発には労を惜しまない。やはり、科学技術者で良いと思う。世の中には科学技術者と科学者がいる。科学者も"真理の探究"だけにそれほどこだわる必要はない。社会の役に立つことを意識して良い。だったら、科学技術者だけでも良いかも知れない。(2010年2月28日)

浅川マキforever

ラジオでちあきなおみの"かもめ"を聴いた。早速、YouTubeで聴き直し。いいですね。ちあきさんのはベースラインがいい。本家の浅川マキの"かもめ"も聴いてみる。最高ですね。そこで、浅川さんの曲をいくつか聴き進んでいくうちに、精神にビビビッとくる。もちろん浅川さんの歌は知っており、先月お亡くなりになったことも。なんで浅川さんの歌をもっと聴いておかなかったのだろう。70年代は私の青春時代ですが、あの頃は浅川さんを聴くほど大人ではなかったということか。ようやくたどり着いたときに浅川さんはいない。ちあきなおみさんもどうしているのだろう。最近ブルースが気になっている。昔を思いながら70年代の歌を検索していたら、なぜかリピート山中に出会う。関西の芸人さんの様ですが、この人もいい。何曲か聴いていくうちに何となく生き方が伝わってくるような気がする。それにしても"ヨーデル焼き肉食べ放題"はナイス。元気を頂いたような気がします。ついでに"はげの歌"を発見し、子供たちに教えたら誰でも知っているとのこと。時代に追い越されていました。(2010年2月27日)

新しい「緑の革命」を

朝日夕刊で、「隠れた飢餓」という言葉を知った。「多様性ふまえた『緑の革命』を」と題した国際生物多様性センターのアタクラ次長の話。多様な食事がなくなり、カロリーはとれるが微量栄養素が不足するということ。20世紀の緑の革命は単品種大量生産だった。新しい緑の革命は生物多様性の価値を認識した本当の緑の革命であるべきという主張。昨日は富里方面へ調査にいきましたが、いつも立ち寄る人参の集荷場には箱詰めされた人参が次々運び込まれていた。定番野菜を安く都市に供給するにはモノカルチャーも仕方がないかも知れない。多様な食材を供給するために、まずは多品種少量生産を機能させる方法を考えたい。小規模農家の育成、これは法律改正で可能になっている。それと直売所。家庭菜園で採れた野菜も直売所に出荷できればなお良い。週末農業で少額でも良いから利益が出る農業。これを実現するには都市と農村の関係を良好に保たなければならない。ダーチャ、クラインガルテンが普及すればよい。ソ連邦崩壊の時、食糧危機が起こらなかった一因はダーチャの存在にあるという。市場経済の中で難民になってしまったら、しばらく郊外で暮らすことが可能になれば、安心を達成できるだろう。これを可能にする社会の仕組み作りも同時に必要。半農半Xが普通の生き方になり、時に良好な郊外、農村で暮らすことにより人間以外の生態系の存在を意識するようになる。人と自然の関係が良くなり、生物多様性の価値を認識できるということは、人間である自分自身の価値を認め、環境の中に位置づけること。ここから安心が生まれてくるのではないか。(2010年2月25日)

トヨタリコール問題と文明のあり方

トヨタのリコール問題に関して横国大の小林さんがこう述べている。「...安全のためにいろいろな機能をつけると、逆にその機能が働かなくなったときに壊滅的になる。シンプルな方が望ましく、人間とどう適合するかも重要だ...」。今回の件はメーカー、ユーザーの両面で"文明社会の野蛮人(オルテガ、小林信夫)"化を進行させる仕組みに陥っていることを暗示していないか。自動車というシステムについてすべてをメーカーに託し、そのシステムの挙動についてはユーザーは全く関知できなくなっている。文明社会の野蛮人化を避けるためには、システムを単純にして、ユーザーがその仕組みから挙動を理解し、何か起こったときに様々な対処法をとっさに考えることができるような構造が、実は安全・安心に繋がる。背後にはハイテク信仰、イノベーションによる発展志向、そして経済至上主義もあるかも知れない。文明社会の野蛮人化が進んでいるからハイテクが必要になるという側面もあろう。トヨタの件は文明自体を考え直さなければならない一大事件なのか。昨日はラジオでカセットボンベの不適切な扱いによる事故が増えているというニュースを聞いた。ボンベがどういう性質を持っているかわからなくなっているということは、これも"文明社会の野蛮人"化の兆候ではないだろうか。ボンベを火のそばに置いたら危ないに決まっている、なんてことが常識ではなくなっている。少しずつ文明は衰退に向かっているのか。なんちって、考え過ぎかも。(2010年2月25日)

「職業指導」全大学で

朝日朝刊から。今日はこの記事が気になります。大学の指導過程に職業指導を盛り込むことが2011年度から義務化されるとのことです。誰が何を"教える"のだろうか。実学分野は別として大学の"研究者"に職業指導はできるのだろうか。教員に対する職業指導訓練も必要ではないか。実施が義務となっても細分化したディシプリン学者の教員組織からは実効的な方針は出てくるだろうか。研究者の追求する"真理"は社会の中では微力です。真理はベースにあり、その上にある複雑多様な個別性に対応することが現場における仕事なのですから。学生に社会で生かせる知識、経験を与えて、活躍してもらうことは教員冥利につきる仕事だと思う。そのためには教員自身、私も含めて社会との交流を深めておかなければならないと思う。(2010年2月24日)

個人を責めるか、システム全体の問題を探すか

千葉大でアカハラ懲戒(朝日朝刊から)。もちろんアカハラなどとんでもないことですが、大学は双方の意見を聞いて調整能力をきちんと発揮しただろうか。大学が警察と裁判所を兼ねたうえでの、言説に囚われた判断でなかったことを祈ります。問題が起きた時は個人を責めるのではなく、問題の背景を含めたシステム全体の機能を検証しなければならない。懲戒処分された教員は30歳代。最も厳しい競争にされされている世代。競争的資金による研究事業プロジェクトで育てられてきた若手であれば“研究成果が優れているか”というよりも、“研究成果が優れているということになったかどうか”、という思考に陥ってはいないか。強すぎる研究志向が学生に対する態度として現れるということはないだろうか。かつて海外で活躍する若手に、学生指導について尋ねた時に、学生を使って研究ができる、という返事を聞いたことがある。論文数至上主義に囚われた教員の姿勢と教育・指導との乖離はもはや社会全体の問題ではないか。私がこんな発言をすることが問題だと感じたならば、私を責めるのではなく、大学システム全体を俯瞰して問題の理解に努めてほしい。折しも文部科学省は国立大学法人のあり方についてパブリックコメントを求め始めた。発言するいい機会かも知れない。(2010年2月23日)

楽農報告

すでにフライングしてアンデスレッドとインカのめざめ(じゃがいも)を植えてあるのですが、今日はメイクイーンを二畝植えました。ホームセンターに種芋を買いに行ったついでに、一月に蒔けるカブの種も買ってきましたので、来週蒔くことにして、畑に堆肥を入れる。残渣から堆肥を製造する器具が欲しかったのですが、ホームセンターで補助金制度があるとの張り紙。帰ってから習志野市役所のホームページを見たら昨年三月で終わっていました。実に残念。今日は最後の大根とブロッコリを収穫し、だんだん畑も寂しくなってきましたが、春の畑シーズンも間近に迫っています。今年は虫対策を学ぼうと思う。(2010年2月21日)

自然を使うことの意義

佐賀のがばいばあちゃん、テレビでやっていましたが、その中のシーンに川の上流から流れてくるものを引っかけてとるというシーンがある。時は昭和33年、この年は私の生まれ年でありますが、昭広少年とばあちゃんの住む地域にはすでに水道が普及していたということだろうか。歴史的な研究(と私が思う)「水と人の環境史−琵琶湖報告書」(鳥越・嘉田編)には、村に水道がやってきて、人と川が分断された様子が記録されている。川を人が使っていた時代は人は決して川を汚さなかった。水が蛇口から得られるものになってから、川は汚れていった。下水が普及すると、汚した水の行き先も人は意識しなくなる。環境とは人と自然の関係であるから、環境を良くするためには人が自然を使うことが大切なのではないだろうか。使うことにより人と自然の関係を良好に保つ。自然の恵みを積極的に使う暮らしが、地球温暖化問題をはじめ、様々な問題を解決する糸口ではないか。(2010年2月20日)

サイエンスの価値を外部化しよう

朝日の耕論欄で災害の専門家の河田さんが、「1990年代以降、自然的問題と社会的問題が絡み合う形で巨大災害が増えている」と述べている。変動帯にあるハイチのポルトープランスにおける地震の被害の大きさは、安定大陸にあり大地震の経験のない旧宗主国フランスの災害に対する考え方を引き継いでいることにあるのではないかという。ヨーロッパ思想では時間と空間に関係なく成り立つ普遍性に基づき国を作ってきた。しかし、現実世界では普遍性をベースに、その上にある個別性、地域の個性に基づく国づくり、災害対策が必要である。異なる地域性を理解することから自分の地域の理解を深め、地域にあった対策や生き方を選択する態度が減災に結びつくのである。この考え方をベースにして、今年度は学生に土地条件を発信するWEBシステムを構築してもらったが、卒論発表会ではその理念が理解されなかったようです。実はこの事実こそが大きな解決すべき課題であり、研究の価値の大きさを再確認したともいえる。サイエンスはその知り得た知識、経験が社会のものになってこそ価値を生む。蛸壺のサイエンスは勝手にやっているサイエンスです。サイエンスの価値は外部化しなければならない。(2010年2月19日)

卒論発表会の攻防

この時期、いつも思うことがある。教員は指導者か評価者か。卒論発表会では一年間の成果を発表させて、それを教員が評価するのですが、学生を通した教員間の攻防ってあるのかなと思う。こんなことを感じるのは精神が病んでいると思いますが、かつてがんばらない学生の評価を巡って、ある教授から誹謗中傷や嫌がらせを受けた。その時、研究者の優秀病に気がついた。自分が優秀であることを担保するために自分が関わる学生も優秀と評価されなければ気がすまない病気。研究者の世界はなんと狭いのだろうと思った。もう一つは研究に対する考え方の攻防、まさにモード1科学とモード2科学の違い。モード1科学者には外の世界が見えにくいのだろうか。否定というのはまず考え方の違いを尊重したうえでやってもらいたい。もっとも考え方を伝えられなかったということはモード2の失敗なのかもしれない。それでも私はモード2的なセンスを学生に伝えたいと思う。そうすれば無理解を理解して質問にもうまく対応することができる。これが社会で無事に生きていくための力なのだと思う。(2010年2月16日)

現実と理想

サステナ誌の最終号で大阪大の先生がグローバリズムについて述べている。「そもそも『グローバリズム』は、地球を一つの共同体と考え、多様な共生を主張する社会思想実践として創造された」が、今や「市場経済原理主義システムを全地球的に展開する文化・経済戦略となっている」。我々の目指すのは前者であり、これは未来を真摯に考える者たちの共通の思いだと思う。先日行われた千葉大の大学改革シンポジウムでは、「グローバルな競争社会で生き残る人材」なんて講演があった。私は聴講できなかったので、無責任な発言になりますが、グローバルを巡る二つの立場が峻別されていないのかも知れない。後者のグローバリズムはもはや時代遅れではないのか。大学は法人化後、過剰なまでの競争の波に飲み込まれ、右往左往している間にその本来の機能を失っているように思う。とはいえ、後者の立場も不況の前では、現実なのかもしれない。先の講演は企業人によるものでした。しかし、大学人だから理想を述べることができる。現実を見極めながらも、理想を主張し続けるのが大学人ではないだろうか。現実がわからない理想主義者ではだめですが。(2010年2月14日)

里山の価値

白井で開催された第二回北総里山フェスタに参加しました。150席がほぼ埋まり、地域における関心度はたいしたものだと思います。最近少しだけ関わっている谷田武西の里山ですが、地域の活動としてのその全貌の大きさがだんだんわかってきました。さて、パネルディスカッションにおける議論について思うところを若干述べたいと思います。まず、世界に里山はあるか。私は欧米には少ないと思います。里山たるべきはその精神性に求めたい。つまり、八百万の神を認めるか。澤山の泉には水神様が奉られていますが、草木や岩石、動物にも神を認め、人と自然の無事な関係を願う精神性が里山たるべきものだと思います。アジア各地の森の民との共通性がここにあります。欧米の一神教と牧畜、麦作の民にとって森は魑魅魍魎の棲むところです。カントリーサイドは近郊林で、里山とは区別したい。この里山の価値を可視化するために地域通貨による地域経済圏の創出が有効なのではないかと常々考えています。不況の最中、精神論だけで人は動けない。里山保全の活動に地域通貨を発行する。里の野菜を地域通貨で買えるようにする。福祉や行政サービスに関わるボランティア活動に行政は地域通貨を発行する。電機大脇の道路はゴミが散乱していますが、片づけボランティアに地域通貨を発行しても良い。様々な活動に地域通貨で見える価値を与え、若干のコストを負担することが地域の為になるという意識を育てる。こんな活動を通じて、ある時、里山の生態系の価値にふと気づく。どうでしょうか。(2010年2月13日)

科学技術か、科学・技術か

総合科学技術会議が科学技術の表記を科学・技術に改めるそうだ。科学と技術は別概念だという。もっともだが、科学と技術を分けたときの科学は、本来文化的な側面を持つ知の営みなのではないだろうか。基礎研究の軽視が問題だという指摘もあるが、それは文化国家としての国づくりを目指すというよりも、技術あるいは開発のための基礎研究軽視という意味あいが強いと感じる。だったら科学技術でよい。科学と技術ではなくて、科学技術と科学があるのではないか。国家の覇権を争い、物質的な豊かさを目指す科学技術と、人の社会の文化的側面を担う科学の二つがあるように思う。(2010年2月9日)

IPCC報告書、低地が実際より多い

朝日朝刊から。IPCC第四次評価報告書に記載されたオランダの国土の海面より低い部分が実際より多く記載されていたそうです。平均海面以下の26%に河川のはんらんの影響を受ける29%が編集過程で足されたのではないかということです。低地の定義の問題もありますが、さてさて。IPCCは政治の場であるからか、それとも沖積低地の成因、性質そして人の暮らしを包括的に理解している担当研究者がいなかったのか、いくつか理由は考えられます。最近、こんなIPCCに関する話題が多いのですが、一番大事なことは人の暮らしの場である大地の性質を人が知り、ステレオタイプによる判断を極力避けることができるリテラシーを持つということだ思う。教育はどんどん大切になってくる。(2010年2月9日)

大学教授のステレオタイプ

今日は少しは時間があったので、潮木守一著「職業としての大学人」を読み終えました。参考になる点、頷ける点は大いにあったのですが、品格を落としていると感じる点がある。それは教授のステレオタイプに基づく議論展開です。平日の午前中からテニスに興じる教授が何度も出てくるが、それを一般化して根拠としている点はどうも大学人の議論の展開とは思えない。また、社会全体の変化を前提に大学がどうあるべきか、という議論にもなっておらず、欧米追随の姿勢から抜け出せていないように感じる。実際の大学教授は現場を抱えている。現場の問題を説き明かすと同時に、世界の状況を俯瞰した上で、あるべき方向性を示す著作は出てこないものだろうか。と思っていたら「大学教授という仕事」という本の広告を新聞で見ました。これも読まねばなるまい。結局、コマーシャリズムに踊らされているだけかも知れない。(2010年2月7日)

それで?

朝日朝刊のオピニオン欄から。奈良県知事の荒井さんの記事で、「中国に抜かれる それで?」というタイトル。この「それで?」というのがいいですね。「グローバル社会の競争で負ける それで?」、「論文競争で負ける それで?」、なんていろいろな使い方ができる。それで、といわれてよく考えると何でもなかったりする。たいへんだ、なんて思う人は蛸壺の中にいるだけ。中国との関係では荒井さんは地方レベルの付き合いの大切さを述べている。国家間の覇権争いとは全く別の、お互いに学ぶことができる関係がそこにはある。研究者同士の付き合いも同じ。論文競争をしても得るところは少ないが、協働すればお互いの得るところは大きい。(2010年2月7日)

幸福論

朝日夕刊で加賀乙彦さんの記事があった。最近「幸福論」を出版したそうですが、これは手に入れなければなるまい。「勝ち組」「負け組」に対する考え方−我々は不幸増殖装置の一部として役割を果たすようになっているのではないか、自分の評価を他人に委ねることにより傷つきやすくなること、他人と意見をぶつけ合いながら人間関係の中で「個」を培っていくことの大切さ、等々の主張は昨今少しずつ力をつけてきた考え方と通じるところがあるように思う。年初に書いた藤原新也さんの主張、哲学者内山節の著作、などいろいろなところで目に耳にする。これが世の中の一つの流れだとすると、この考え方に身を委ねて行くことも一つの方向であり、決断です。(2010年2月6日)

社会学の時代なの?

これは朝日朝刊21面の記事のタイトルです。私もこの数年間社会学という分野が大切だなと思い、いろいろ情報収集に励んでいます。社会学研究者の手法である「地道な社会調査を通じた実証分析」から得られた認識は圧倒的な重みを持って私にのしかかってくる。特に環境を対象とする環境社会学は、環境を研究するサイエンスとその対象が重なるため、その主張の相違に大いに戸惑い迷うことになる。しかし、現場中心の認識と演繹的思考による認識では現実感が全く異なる。このところ地球温暖化問題に対する科学者の主張で未来志向が強まりつつあるのは、実はサイエンティストの関心外である現実、現場を遠ざけるということなのだろうか。こんなことを書くと私も批判されそうであるが、環境の正確な実態認識に基づき、現在を良くすることにより、未来を良くする、という考え方に誤りなどないと思う。(2010年2月6日)

研究課題のわがこと化

修士課程の発表会がありました。良い発表をする学生はその研究課題が“わがこと化”できている。だから、“本気度”も高まる。プレゼンテーションのルールが守られていなかったり、論理構成があいまいな学生はやはり本気度が高くないと感じる。毎年思っているのだが、次回こそは学生の本気度をもっともっと高めるように努力しようと思う。また、質問にうまく答えられないのも“本気度”で説明できる。質問には誤解に基づく質問も多い。それは自分の主張をうまく伝えられなかったということですが、“本気度”が高ければそんな質問は予想できる。うまくいなすことができるはず。それができるということは研究という行為の中でうまく論理構成ができるということでもある。(2010年2月2日)

だから生きている

この一週間は実に忙しかった。学位審査8名、タウンミーティング、講義、様々な事務処理、等々。入管にも行った。締め切りを過ぎた仕事も。やりきれなかった仕事は持ち帰っているのだが、どうしてもやる気にならない。身体を動かしていないと、心が沈むので、まず堆肥を買い込んできて、畑の土作り、そして、まだ早いのですがジャガイモを二畝植える。アンデスレッドとインカのめざめ。新しい作物を植えると、また畑が楽しくなってくる。その後、アコギ・マガジンでカントリー・ブルースのレッスン。高田渡の原点でもある音楽だと思うが、改めて感動。YouTubeで古い音楽を検索し、しばし堪能。CDも集めなくてはなるまい。こんなことをやっている間に夜のとばりが降りる。本務の仕事は進んでいないので、また心が沈みそうになる。でも、こんなことをやっているから生きていられるのかも知れない。(2010年1月31日)

博士学位審査雑感

自分の学生の博士学位審査はいつも胃が痛くなる。自信を持ってOKを出せれば良いのだけれども、私からすると学生はまだまだ未熟。もっと身につけて欲しいことがたくさんある。いつも悩みながら合格にする。学位論文を書くことは手続きであり、その手続きを履行して、論文ができあがれば基本的には認めるのが私の基本方針。しかし、最近は博士論文のレベルに関する議論が出てきた。質の悪い博士論文があると。審査ですからレベルが低くとも、合格ラインをクリアしていれば良いわけです。レベルの高い論文って何だろう。なぜレベルが高くなければならないのか。背後にはやはり研究者の優秀病があるように思う。学生はまだ若い。研究者のつまらない見栄のために学生の人生を変えてはいけない。私が指導した博士学位取得者は8人いますが、7人が大学、研究所の研究職に就きました。もちろん民間会社だって良い。私のやり方は今のところ成功していると思う。やたら厳しくて、研究が芸術化している分野、内部だけでお互いに褒めあう分野はいずれ滅ぶ。そうではなく、幅広い分野で活躍できる人材を育てたい。(2010年1月27日)

IPCCは科学者の集まり

勘違いでしょうか。私はIPCCは政治家の集まりだと思っていました。政府間パネルですからね。氷河融解の件に関する朝日のコラムから(1月22日も参照のこと)。2035年までに消失する可能性が非常に高い、と書いたインドの研究者も私と同じ勘違いをしていたのか。政治的に中立という表現も出てくるが、未来予測では真に中立な立場をとることは難しい。価値観から独立しているはずの科学でも、研究者個人の知識、経験が生み出す価値観に支配される。都市生活者は都市の生活が思想のベースになる。農村生活者は人と自然の関係について都市生活者とは異なった世界観を持つだろう。温暖化は確実に起きている。温暖化への対処はまず現在の暮らしをよくすること。現在が良くなることで、未来を良くする。こう考えたい。これは望ましい未来を想像して、そうなるように現在を変えていくということでもあることを強調したい。その未来は新自由主義がかつて目指した世界ではなく、人と自然の関係が無事である世界。自然の恵み(好きではないが生態系サービスともいう)を享受して、楽しく、少し豊かに、そして誇りを持って暮らせる世界。都市と農山漁村、そして自然の折り合い社会。こういう世界を目指す科学があるはずと常々思っているのですが。(2010年1月26日)

徳川綱吉の遺志

朝日書評欄で綱吉の「生類哀れみの令」に関する記述がありました(小柳さんの「もういちど読む山川日本史」五味・鳥海編の書評から)。私もどこかで読んで時々話の種にしているのですが備忘録として再掲しておきます。「法の対象は動物だけでなく人間の社会的弱者にも及んでいたため、殺伐とした戦国の遺風を儒教・仏教により払拭することを政治的に反映させようとした政策」。綱吉以後、武士が試し切りと称して庶民を殺めることがなくなり、意味もなく人が殺されることはなくなった。今、かみさんが韓流歴史ドラマにはまっているのですが、あの時代(高句麗、新羅、百済、扶余といった国が出てきます)は人はいとも簡単に死んだ。人々は勇敢であったが、それを支える宗教観、死生観がそれを支えていたのではないかと思う。現代では人は死を恐れる。それは綱吉以降、人が理不尽に殺されなくなったことも関係していると思う。科学の進歩と共に、人間はますます機械に近づき、死はすべての終わりとして認識されるようになったことも大きい。これが幸せなのかどうかはわからないが、一方で最近は理不尽な死、殺人、事故死、自殺、等が増えていることは確かなように思う。綱吉の遺志を再び現代によみがえらせないとあかんなと思う。(2010年1月24日)

人生の正念場

今日は父の三回忌で近しい親類が寺に集まり法要と会食のひとときを過ごしました。自分を含めて誰も気がつかなかったのですが、今日は私の誕生日でした。52という自分の歳が負担にも感じられ、心から抹殺していたこともありましょう。先日招いた宋さんの話によると中国科学院の定年は60歳であり、56になると学生をとることができなくなるという。私もその歳に近づいているわけですが、さて、私は何をやってきたか、残された時間で何をやるのか。時代に流されるのか、時代を切り開くことができるのか、いよいよ正念場が近づいて来たのかなと思います。(2010年1月23日)

ヒマラヤの氷河「消失時期誤り」

IPCCが認める、と続きます。朝日朝刊から。「2035年までに消失する可能性が非常に高い」、とした時期が尚早だったと。ただし、「氷河から流れ出る水や冠雪が減る傾向は今世紀いっぱい加速し、水不足につながる」、という記述は適切とのこと。観点は二つあると思う。まず、IPCCは政治であるということ。だから合意形成のためにきわどい表現を使うこともあり得ると思う。「可能性が非常に高い」、なのですから。一方、科学者が「2035年までに消失する」という予断に対して科学的認識の現状を伝えようと努力する行為は正しい。すなわち、どっちももっとも。まず、政治と科学、地球温暖化問題と地球温暖化研究を峻別する態度を持たなければいけない、ということだと思う。もう一つは、「氷河から流れ出る水が減少」とある点。積雪が少なくなれば春の融雪出水は少なくなるかもしれない。しかし、永年氷からの融氷水は夏期に増えるのではないか。実際、OBのデリヌルさん(現新彊師範大学)の学位論文では近年の河川流量は増えていることを明らかにした。新彊で扇頂部から取水した開水路による灌漑が増えているのは河川流量の増加を示しているのではないか。融け続ける氷河は末期には崩壊により一気に消滅する。その時、水資源にも大きな打撃があることは十分予想できる。こういう現場科学の認識をもっと温暖化の議論に取り入れなければならないと思うが、普遍的な認識を求める欧米思想がネックになっているような気もします。現場で起きているのは場所と時間により大きく異なる現象なのですから。(2010年1月22日)

友遠方より来る

「また楽しからずや」、は孔子ですが、私の場合は、「またありがたきかな」。中国科学院地理科学与資源研究所から宋さんに来て頂いています。絶対忙しいはずなのに、快く来て頂いたことに感謝します。地理研で進めている関連プロジェクトについて伺い、協働のあり方について議論をさせて頂きました。今の中国の研究所は経済的には豊かで、アイデアは直ちに実行することができる。日本としては、その知識、経験の蓄積に基づき、新しいアイデアを出さなければならない。日本としては難しい局面になってきましたが、まだいけると思う。そのリソースは現場の経験であり、それによって培われた自然観です。これがあればまだまだいける。少しおこがましいですが、最近は歳をとったせいか、科学者も含めて人の思想の変遷が何となく見えてきたような気がする。異なる考え方も背景を考えると理解できるし、次の時代に何をなすべきか、見えてきたような気もしないではない。対話が重要。その中で自分の考え方を確認しながら、進むべき道が明らかになってくるように思う。(2010年1月21日)

食べていければ

朝日朝刊から。生産性本部の調査によると、昨春の新入社員の47%が「食べていけるだけの収入があれば十分」と考えているそうだ。年功序列的賃金体系を望む割合も最高。結構と思いますが、それで暮らしていける社会であるためには、各人に確固たる思想が必要だと思う。どんな社会観、歴史観、世界観、そしてこれが大切だと思うのですが、自然観に基づいているか知りたい。これがないと格差社会を助長する一因となってしまう。ほどほどに豊かで、安心な社会は理想ですが、その前提は思想であり、それを形成するものは教育だと思う。知的基盤社会の本当の意味はこんなところにある。(2010年1月19日)

考え方の順番−応用から基礎へ−

ビックコミックの山口六平太を読んでいて気がつきました。大日自動車では就職試験で面接を先にやってから学力試験という順番にしたそうです。まず人を見てから学力を計る。なるほど、当たり前と思っていた順番もよく考えるとそうでもないことがある。地表動態学概論(旧自然地理学概論)という講義を事情があってやっていますが、専門につなげるための基礎という位置づけです。急に始めることになったので、基礎というより内容は応用です。実は基礎をやってから応用という順番の根拠は演繹科学の思想に基づくもので、野外で起きている現象を理解し、対処するための方法としてはどうも有効ではない。環境問題はむしろ問題側からそれを解くための基礎を探索した方が良い。あらゆる要因が重なり合ってできあがっているのが環境であり、複数の要因を見抜く視点が必要になる。やはり応用を先に持ってきて正解だったのではないかと思う。ただし、学生は学問分野を包括的に俯瞰する視点をまだ持っていないだろう。そこをどう伝えるか、ここが肝心なところだと思う。質問してください。(2010年1月18日)

湧水調査の目的

この二日間は白井で湧水調査を行いました。千葉ニュータウンの都市景観のすぐ背後に、農村、里山や元里山の景観が広がり、人の領域と人以外の動植物の領域が折り合いを模索している。この折り合いの均衡点を見つけるためにはまず自然の仕組みや生態系を知り、広く伝える必要がある。知ることにより価値が生まれ、環境を保全し、いろいろな生態系と共生していく方法が見えてくる。今回は湧水の涵養域を特定することが目的です。湧水という対象は小さいかもしれないが、それを維持している仕組みは複雑で多様、かつ脆弱であるが湧水が維持している生態系も多種多様です。この仕組みを知ると、保全へのモチベーションが生まれてくる。湧水を知る、こういう対象を扱う科学の重要性をもっと主張していきたい。(2010年1月17日)

最近の若者と大人

朝日に成人式で注意されたことを批判する若者の投書がありました。また、昨日だったかセンター試験の神経質なリスニングテストのあり方を批判する投書もありました。詳細は紙面を参照してほしいのですが、この二つは共通する背景があるように思う。若い世代は周囲からサービスや配慮を受けることを当然と考え、プチ評論家になっている。大人はその評価を受け止めることができず、結果として若者から壁を奪っている。壁を乗り越えた経験の乏しい若者は、社会人になってから大きな壁を乗り越えられずに苦しむことになる。こんな悪循環ははやく断ち切らなければならないと思う。言説に流される権力者など打ち捨てて、若者に生き方を伝えなければならない(格好付けすぎですが)。もちろん、強制することではないので発信を続けていくことが大切なのだと思う。(2010年1月17日)

大学の仕事、学生に伝えること

今日の朝日の一面は「大学就職内定最低」。73.1%だそうだ。「就職超氷河期」といっても良さそう。一方、21面では「『世界水準の大学』目標に」の見出し。各国の大学は世界の有力研究者を招くのにしのぎを削っておると。この二つの記事の間に、現在の大学が抱える問題が見えているような気がする。研究はますます高度化し、教育は...。近代化は省力化から始まっている。不況では人が余るのは当然。それでも人材がいれば採用すると言ってくれる企業がある。社会で活躍できる人材の育成が今の時代の大学の仕事であり、本務だと思う。論文を書ける研究者の育成は、その次でいい。最近研究室の学生が増えてきた。私は社会で使える知識とスキルを伝えたい。明日は千葉ニュータウンで湧水調査、流量観測を地元の方々と実施します。水文観測や環境調査法を基本リテラシーとして皆さんに学んでいただきたい。なお、実際の氷河期では“緑のサハラ”のように低緯度で快適な環境も出現している。少し視点を引いて世界を遠くから眺めてみると、きっとチャンスが見つかると思う。(2010年1月15日)

胃痛の原因

人間ドックで胃カメラを飲みました。最近4年ほど続けていますが、初年度と二年目はいきなり“朝、海苔を食べましたか”と言われました。出血の後が斑点状に残っていたのですが、“医者が海苔はないだろ”、とも思います。昨年は胃の下部は出血がありましたが、上部はきれいでした。今年は、一昨年並だそうです。ただ、今回の出血跡は斑点状ではなく、流れているものが多かった。長年同じ病院で人間ドックを受けていると、情報が蓄積されていて何か変わったことがあるとすぐにわかって良いですね。最近朝早く目が覚めるのは胃が痛くなるからなのですが、毎朝、胃の中で血が流れているのか。人は頭と体と心から成り立っており、頭でわかっても心がついてこないで体に影響が出ることがあります。はよ楽になりたいですね。なんでも“楽しい”と思えば“楽”になると思うのですが、“楽”をよしとしない感性も心の中にある。それがいかんのですが、まだまだ修行が足りないようです。(2010年1月14日)

大学人の責任

ハラスメントについて議論せよとの指示がまたあったとのことで、先月配られたハラスメントのパンフレットが教員会議で提示されました。そこにはハラスメントの事例がたくさん書いてあるのですが、ほとんど当たり前のことで何の役にも立ちません。しかし、様々な解釈ができてしまう事例も含まれている。たとえば、「『実験優先だ』と言って就職活動をさせない」はどう考えたらよいか。この実験が正規科目だとしたら、教育者としての大学人の責任として実験優先は当たり前です。好意的に解釈すると、学生が就職活動を行うのは“大人である”学生の個人的事情であるから、学生の判断に任せ、実験に出席しなかったことは教員としてきちんと評価せよ、ということか。しかし、なかなかそうもいかない。人生では究極の選択に迫られることが何回もある。それでも選択し、その結果の責任はその人が負うのが大人です。学生の実験欠席を認めるということは学生が責任を負うことを回避させ、結果として学生の成長を阻害しているととらえることもできる。人は齢を重ねることにより大人になるのではなく、小さな壁を乗り越えていくことによって大人になるのだから。こういう問題は個別に対応できる力が大学人には必要。パンフレットを作らざるを得ない本当の事情は何か。(2010年1月13日)

研究という行為の目的

朝日土曜版のbe on Satuadayの「この人、その言葉」(磯田さん)から。今日は昭和天皇の言葉で、「学者はなんのためというような目前の利害だけを問題にして研究をしているものではない」。これは研究者に都合良く解釈されやすい御言葉なのではないかな。人が好奇心をエネルギーにして真理の探究に邁進できるのは、それを可能にする経済的支援があるから。18、19世紀の科学者たちはパトロン獲得に奔走したうえで、自身の欲求を満たした。18世紀の彼らは科学者ではなかったが、現代になって科学者と呼ばれることになった。当時は哲学者であり、真理の探究の基盤には一神教の思想があった。科学者は19世紀になって現れますが、近代の科学は、科学技術として発展し、常に技術と共にあったのだが、豊かになった社会のもとで政府がパトロンの代わりを務めることができるようになった。だから、“真理の探究”の価値がことさら強調されるようになった。しかし、低成長時代、成熟社会の時代を迎えて、研究者は何をなすべきか。まず、その本務に還らなければいけない。旧国研であれば科学の外交リソースとしての側面を重視し、大学人であれば教育に力を注がなければならない。真理の探究の価値を認めて頂きたいのならば、国民の科学リテラシーを向上させる努力を怠ることはできない。給料もらっているのですから。(2010年1月9日)

環境研究と現場

今日は印旛沼流域水循環健全化会議に一市民として参加しました。懇親会までもお誘いいただき、本当に感謝しています。私も印旛沼流域の研究を実施していますが、現場とのコネクションがなければ勝手にやっている研究です。地域との連携がない環境研究はありません。多くの方々と知り合うことができて、私たちの研究も価値を得ることができます。そうありたいとがんばりたい。また、協働の中から成果を得たい。その成果は論文でなくてもいいのです。これが、問題の解決の共有、モード2科学だと思います。(狭義の)研究者の世界のおきてとは相入れませんが。今後ともよろしくお願い申しあげます。(2010年1月7日)

公益資本主義と強欲資本主義

富士ゼロックス小林節太郎記念基金リポート2009、原丈人と小林陽太郎の対談から。資本主義自体は間違っていないが、リーマンショックまでのアメリカの強欲資本主義は人を幸せにしてこなかった。そこで、利益の一部を企業に関わる人と地域社会、環境、さらに地球全体に還元する公益資本主義で企業活動をする。すると、社員のモチベーションの向上に繋がると共に、中長期的な利益に繋がっていく。なるほど。我々は資本主義を否定して、森の生活に戻ることはできない。最新の技術を駆使しながら、新しい豊かさを追求する。アメリカや中国でも今までと違った豊かさを追求し始めている人は出てきている。もう、強欲なグローバル社会における競争で生き残るためには、なんてことを議論するのは時代遅れになりつつあるのかも知れない。そうありたいと思う。今日は久々の休肝日で、夜はたまった資料を読んでいます。昨日は飲み過ぎて、駅で一時意識を失っていました。(2010年1月5日)

仕事の理念

これからは職場(CEReS)の長は理事やら他部局の方やら、学外の方々が集まって決めるそうです。トップダウンにおいてトップの考え方、理念がわからない(ない?)ことが世の中の不安の要因になっていると思うのですが、もちろんこれは悪いトップダウン。実際は長がどこから来ようと、そんなことはたいした問題ではない。重要なことはCEReSのミッションの理念の共有。とはいえ、研究者の集団ですので統一された理念というものはなかなかコンセンサスが難しい。でも、真理の探究だったら理学部でやればいいし、技術は工学部でやればいい。CEReSでは何をやるか。それは先の国際シンポジウムでも主張した“問題の解決の共有”。異なる領域の研究者が協働して、問題の解決を共有する。これを主張すれば反駁できる人はいない。理念なのですから。仕事としての論文はそれぞれの分野で書けば良い。地球温暖化、生物多様性、何でも良いのですが、問題としての側面を理解し、解決を共有する。これがCEReSのミッションなのだと信じています。このような場には特別なリーダーシップはなくても良い。それぞれのメンバーが役割を自覚し、自ずから協働が実現できるから。理想的すぎるかなと思いますが、社会学の分野や地域ではすでに多くの実践がある。(2010年1月4日)

ヴァーチャルからライブへ

再び藤原新也さんの記事からですが、ネット社会で相互監視システムが張り巡らされて、同調圧力が強まる中、今後のコミュニケーションはどうなるか、という問題提起に対する一つの解が、「ライブ感」だという。マドンナやAKB48の人と接するライブやイベントが一つの顕れかもしれないと。研究の世界でしたら、現場回帰ということになるだろうか。コンピューターの創り出すヴァーチャルな世界で進んでいる分野から、現場重視の泥臭い分野への回帰。これは期待でもあるが、すでに草の根では大きなうねりになっているのではないだろうか。例えば、地球温暖化や気候変動への対応について、地球物理学者と環境社会学者が議論したらどうなるだろうか。環境社会学の持つ圧倒的な現実感の前で、気候学者はどういう議論を展開するのだろうか。恐らく議論は“人の生き方”に向かって行き、収束することはないのかも知れない。(2010年1月3日)

いい人病とコミュニケーション

朝日朝刊で藤原新也さんが最近の若者の風潮として「いい人への過剰反応」があると言っている。これは若者だけではなく、大人世界の問題でもあるというが、その通りだと思う。私は研究者の“優秀病”については発言を繰り返しているが、大学人には“いい人病”も感染しやすいと思う。論文を生産できることが、管理能力があると見なされ、特定の役職、特に学生指導に対して責任を負っても、問題が起きたときに対処の方法がわからず、“いい人”を演じることしかできなくなる。言説に流されやすくなり、問題の解決どころか、理解さえできない。研究能力がある自分を“いい人”であるはず、と思うと異なる考え方を受け入れて折り合いを付けることができなくなる。こんなことも、“あると思います”。そういえば、このフレーズ、あの芸人は最近見ないな。それはどうでもいいのですが、藤原さんの言うに、「相手の言葉や行為を受け止め、たとえ軋轢が生じても自らの思い、考えを投げ返すという、本当の意味のコミュニケーションが希薄だ」。勇気がいることですが、このコミュニケーションが大切だと思う。(2010年1月3日)

学を絶てば憂いなし

今年はこれで始めましょう。老子からこの言葉を選びました。いろいろな深い意味はあるのですが、学を絶てば栄誉や屈辱など感じないですむということ。昨年は科学技術予算が仕分けされて、いろいろ苦言・提言が出ていますが、何のための予算かという点が気分で語られており、科学技術の真の必要性について議論が深められていないように感じた。このままでは研究者が栄誉を得るために予算が必要ということにもなりかねない。ここで、渡植彦太郎の「学問が民衆知をこわす」を思い出す(農文協人間選書108)。科学技術の進歩は実は社会の持続可能性を損なったのではないか。その代わり、人は便利で快適な生活を手に入れた。これを維持していくには緊張のシステムに移行するしかない。しかし、民衆知を駆使し、貧しいながらも持続可能な社会、共貧のシステムへの回帰も選択肢としてあるのではないか。こういうことを考えるサイエンスだってある。(2010年1月1日)


2009年12月までの書き込み