口は禍の門

今日が公式には御用納めになります。私の今年の漢字は“迷”。実はここ数年、ずっと“迷い”にはまっている。大学人の本務は何か。研究者の果たすべき社会的責任は何か。研究者ってわがままなものなのですから、そんなことほっといて気ままに生きれば良いのですが。給料頂いて好き勝手なことをやっている幸せ者なのですから、研究者はもっと謙虚にならなければいけません。来年は何か小さなことをたくさんやろうと思う。大きなことではありません。小さいことを積み重ねていこうと思います。(2009年12月28日)

10月になりました。本格的な秋も近く、私にとって一年の中で一番心が軽くなる時期です。政権も変わり、新しい時代への期待も高まってきました。人の生き方がどう変わるだろうか。それとも、変わらないのか。新自由主義、グローバル至上主義、競争至上主義、いちいち挙げているときりがありませんが、こんなものと決別する時が来たのだろうか。後になって昔を振り返って、何であの時は、...なんて思う時代がくるだろうか。(2009年10月1日)。

7月になりました。梅雨空が続きます。今朝は収穫が需要を上回っている近藤ファームの野菜をたくさん持ってきました。自炊している学生に配ろうと思います。個々の野菜について今は十分ある収穫もそのうち終わります。そのとき、近所でも畑をやっている方がいれば物々交換により、長期にわたり多種類の野菜を入手することができるでしょう。恐らく昔の農山村はそうだったと思います。人口減少時代に際して、うまく都市を撤退させ、郊外に畑付住宅を供給することができるようになれば、食糧問題にも貢献できるし、何より心豊かな社会を作ることができるのではないだろうか(2009年7月1日)。

2009年6月までの書き込み


世代交代を感じる時

紅白歌合戦で今年亡くなった方々が何人か紹介されていましたが、番組で取り上げられたのは忌野清志郎さんでした。私などは加藤和彦さんなのではないかと思うのですが。もちろん、私も「僕の好きな先生」世代なのですが、清志郎さんがブレークしていくのはもっと後。恐らくNHKにおいて団塊の世代から次の世代への交代が進行しているのではないか。加藤さんを支持する世代の人口が減っているということでもあるのでしょうが。そのうち、懐メロで私より後の世代の歌が出てくるようになると、老いたことがますます実感されるようになっていくのでしょう。実は、昨日忘年会の後に「フォークソング名曲集」という楽譜ブックを手に入れたのですが、60年〜70年代ソングが収録されており、はまっております。あまりに有名になりすぎた曲でも、あらためて弾いてみると心にしみます。でも、うちの学生たちに曲名を聞いても知らないといわれるだろうな。それでも人は時代を背負って生きていって良いのだと思う。(2009年12月31日)

安心再考

今日、30日から休みに入り、年賀状の準備にかかる予定でしたが、朝一番にパソコンのスイッチを入れたところ、いきなりビープ音、BIOSも立ち上がらずお手上げ状態となる。そこで、ラップトップを使うことにしたのですが、先日Windows7にアップグレードしたばかりで、プリンタのドライバがインストールできない。途方に暮れましたが、実はもう一台ありました。VAIOのPを導入したのですが、届いてみたら画面が小さくて老眼にはつらい。利用を図るため休みの間にラップトップの使い方を一新しようと考えていたのですが、これでプリンタドライバもインストールでき、年賀状の印刷が可能になりました。常々思っていることですが、安心とは複数の選択肢があること。今回は複数のパソコンがあったので、何とかなりました。人生も同じ。父ちゃんの財布がなくなったら、母ちゃんの財布。それもなくなったら爺婆の財布、そのうち父ちゃんの財布が復活、なんて。組織も同じ。複数の分野や考え方を内に抱え、時代ごとに表に出すものを替えて対応する。そのためには異なる分野相互の尊重が必要。一匹狼の場合はフレキシブルに時代に対応していけば良いのですが、まさに百姓です。百姓とは様々な技能を持つ人の意味で、農民という意味ではないのですが、百姓が幸せな社会が安心社会なのではないか。現代は百姓のいない時代。(2009年12月30日)

私的御用納め

今日は10時から4時まで研究室の整理。資源ゴミの束を相当出しましたが、たいして整理されていない。若干作業台の上のフリースペースが増えたか、という程度。デスク周りは全く手が着いていない。後は来年の仕事とします。ずいぶん古い資料も捨てました。あぁ、これは論文になったのに、と思う資料もだいぶありました。しかし、纏めることはもはや不可能でしょう。思い切って諦めることにします。アイデアはまだまだありますが、これからは学生が纏めてくれるでしょう。それで良いと思います。(2009年12月29日)

大学淘汰の時代

来年度の学生の募集を停止する大学が五つもあるそうです。朝日朝刊から。経営が成り立たなくなったというより、将来を見越してということらしいが、“良い”大学とは何か。私の限られた経験によると、“社会で役立つ力を身につける”という観点における中小の私立大学の教育力は評価できると思う(そうではない大学も当然あるでしょうが)。もちろん、その陰には教員の努力がある。現状では有名大学のブランド力が強すぎて、実質的に“良い”大学に人が集まらない点が問題なのではないか。また、“良い”大学がどこにあるかわからないことも。大学の教育力とその成果を将来性も含めて評価する方法が確立すれば、今の大学の序列は大きく変わるのではないかな。研究と教育のバランスが必要。学生の地頭頼みは持続可能ではない。学生がみんな研究者になるわけではないのですぞ。(2009年12月28日)

地元学の目指すところ

農文協の出版ダイジェストから。もとは結城登美雄「地元からの出発」(この本をはやく注文しなければならないな)。「...自分でそれをやろうとしない人間が考えた計画や事業は、たとえそれがどれほどまことしやかで立派に見えても、暮らしの現場を説得することはできないのではないか。たとえ考え方は未熟で計画に手落ちが多くても、そうしようと決めた人々の行動には人を納得させるものがある。...」。「為そうとする人々が為すのであって、そうしようと思わない人々が何人徒党を組んでも、現実と現場は変わらないのではないか」。同感。トップダウンの弊害が明らかになってきた昨今、ボトムアップの価値を改めて主張していかなければならない。環境問題も、大学経営も、いろいろな場面で。(2009年12月25日)

研究の歴史を知るということ

集中講義に来て頂いている先生から伺いましたが、「景観生態学」の受講生が誰一人として「沼田眞」の名前を知らなかったとのこと。千葉大学の学生が知らないなんて、驚きを遙かに通り越してアンビリーバボーです。千葉大学では沼田生態学が継承されていないということ。最近の学生は研究課題について直近のレビューはやりますが、研究の歴史を学ぶ姿勢がなくなっているように感じます。その結果、現象の理解のレベルが数十年前と変わっていない、なんてことも時々起こります。きちんと歴史を振り返って、誰の業績で何がどんなに深まったか、ということを理解すれば、自分の立ち位置が明確になってくると思うのですが。(2009年12月24日)

マニフェスト修正いいじゃない

机上で考えたマニフェストが現場と関わることにより修正を余儀なくされる。だったら、いいではないですか。これまで体験したことのなかった現場に関わることで新しい見方が芽生えてくる。マニフェストにとらわれることなく修正してほしい。修正の理由をきちんと説明した上で、正しい方向を見つけてください。環境を相手にした研究に長らく携わっていると、議論の場で相手の自然観、地球観が見えてしまうことがよくある。私の自然観、地球観は自分の体験によって時間をかけて醸成されてきたもの。現場の体験から出てきたものであれば、これは自分なりに自信を持つことができる。狭い自然観、地球観に基づく考え方はすぐわかる。まあ、民主党は勉強してほしい。現場体験を通じて幅の広い社会観を身につけて頂ければ、良い政治に繋がるのではないかと思う。(2009年12月22日)

アフリカに何を援助すべきか

晩酌をしながらNHKを見ていましたら、アフリカの土地を海外の企業が農地として取得する動きが強まっているという番組がありました。為政者は地域への貢献になると言っていますが、どうやらそんな甘い話ではなさそうです。アグリ企業に雇用されたが、低賃金に不満があったり、土地を追われてしまったり。タンザニアのモロゴロで土地を追われる住民が取材されていましたが、ドドマに通っていた時に必ず通った地域です。ガゼルのステーキが美味しかった記憶があります。タンザニアはアフリカ諸国の中でもうまくいっている国だと思っていましたが、グローバル経済の洗礼を受けて人の心が変わってしまったのだろうか。もう20年前ですが、ドドマ周辺の村ではちゃんとした農具を持っている農家は少なかったように思う。鉄の棒で地面に穴をあけて、種を放り込んで雨を待つという農業だった。もし、鍬、鋤と種を準備できれば生産性は向上できるのではないか。村には共同体が残っていて、互助の精神で暮らしている様子を感じることができた。ちょっとしたセーフティーネットがあれば貧しいながらも安心な生活ができるのではないか。こんなことを思ったものです。アグリ企業がやってきて生産性が向上しても、飢饉の年に国民に食糧がまわるだろうか。番組のエチオピアの例では、企業は生産した食糧はどこにでも輸出できるそうです。それにしても水資源は大丈夫なのだろうか。やはり、土地条件の非公平を認め、普遍性の押しつけではなく、地域の住民の生活を大切にする援助を日本は考えていかなければならないと思う。(2009年12月20日)

地球温暖化問題、何を議論すべきか

COP15は不調に終わったそうですが、当然かなという気もします。地球温暖化問題で何を議論すべきか。まずは非公平があると思う。不公平は倫理的なニュアンスがあるので非公平を使います。土地条件が国、地域によって異なる。珊瑚礁の島でアメリカ大陸と同様の生産性は望めない。一方、珊瑚礁の島で、輸入したポテトチップスやコーラを手に入れて、エアコンの入った部屋でまったりすることが(あるとしたら)幸せなのか。まずは幸せとは何か。この考え方を明確にしない限り、温暖化問題を理解し、解決することはできない。普遍性を追求することによって成り立ってきた近代社会ですが、普遍性とは時間、空間に関わらず成り立つ真理。先進国の幸せを普遍的な幸せと考えることから、土地条件の異なる地域の不幸が生まれるのではないか。普遍性なんて取るに足らないもの。その上にある個別性を直視することにより、非公平を認識し、歴史と土地条件が異なる国々とどのような関係を持つべきか、考えなければならない。地球温暖化問題ではこういった本質的な議論がなされていない。途上国(何が途上かは議論の余地がありますが)の幸せのあり方を途上国の方々はどうか考えてください。同時に先進国の“楽”は“幸せ”なのか、考えてください。まずは、“勝たなければ未来がない”、という現代社会のあり方を見直さなければならない。ここが地球温暖化問題の本質だと思う。(2009年12月20日)

地元学を深める

胡さん、沈君と学生を同伴して県庁の河川環境課を訪問しました。印旛沼流域の環境保全に対する地域の取り組みについて伺いましたが、千葉県人として誇らしくも感じる。胡さん、沈君も大いに感じるところがあったようで、中国の白洋淀の保全にぜひ役立ててほしい。恐らく白洋淀は印旛沼の20年前の状況と同じ。印旛沼流域では2030年にむけた長期計画が年明け早々に策定されますが、その時白洋淀はどうなっているか。日中共同で保全のあり方を考えていきたい。我々は研究が本務の一つであるが、その活動は論文を書くことを主目的とするのではなく、地元と深く関わり、理解を深め、役に立ったという感覚を得ることを目的としたい。夜は研究室の忘年会。遠くから卒業生も集って頂き、教員としてこんなにうれしいことはない。(2009年12月18日)

科学予算にも無駄ある

朝日朝刊から。松井孝典さんの言うことももっとも。「自分の研究資金を減らされることを恐れた研究者が学会全体を巻き込んで感情的に動いている」。この背景には研究資金を獲得したことを成果と認める昨今の風潮もあるだろう。研究者の優秀病と、文部科学行政の評価力の低下も根っこにある。予算が必要ならば科学者はもっと説得力のある説明をしなければならないが、そのためには蛸壺の思想から抜け出さなくてはならない。蛸壺からの発信だから、感情的な発言と捉えられてしまう。行政側も評価力を高めなければ。国民は今回の仕分けで研究者というものがどんなものか学習したのではないか。大学では教育力を高め、行政へ人材を送り出すこと、そして国民の科学リテラシーを高める機能が重要。やはり、一番大切なことはどんな社会を作りたいか、という思想だと思う。これが明らかになって初めて科学の価値が評価できる。(2009年12月18日)

印旛沼巡り

今日は中国から招いた胡さん、沈君と印旛沼周辺の主要施設を回った。改めて、人によりコントロールされた沼の水循環の現状を認識。工学的適応のための施設だけではなく、地域の住民による湧水保全活動の現場も見た。沼とともに歩んだ人生の一端もかいま見た。沼の上空であった空中戦、水上スキーの楽しみ、そして水質の悪化、沼に人生を見た。その老人は、人がバカになった、と言った。それは近代化に伴う人と自然の分断と言い換えることができるかもしれない。この分断を修復すること。これが喫緊の課題だと思う。(2009年12月17日)

国際シンポジウム

若干のシンポジウム疲れは確かにありましたが、終わってみたら結構良かったかなと思う。これだけ多くの分野を包括している研究センターはそんなに多くはない。ここがCEReSの強さだと思う。環境の本質を理解し、問題を解くための様々な立場を共有する。これを主張すればCEReSの存在について文句を言える人はいなくなるはず。今回は卒業生、新彊からデリヌルさん、石家庄から沈君、そして古い友人の胡さんに来ていただいたことは教育者、研究者としては最高だったと思う。十年以上かかっていますが、確実にアジア各地との連携は深まっている。さて、論文の数と、連携の強化、どっちが大切だろうか。(2009年12月16日)

楽農報告

今日は小松菜、大根、ニンジン、ブロッコリをまとめて収穫しておきました。キャベツ、白菜も収穫期を迎えていますが、家庭における消費量が多くないので、しばらく畑においておきます。ホウレン草もあるのですが、うちの畑では緑色が薄い。昨日白井の畑で見たホウレン草は濃い緑をしていました。うちのは窒素が少ないのかも知れない。堆肥を入れて土を作った後は植え付け時に若干の肥料を撒くだけで、追肥はおっくうであまりやっていないのが原因かも知れません。まあ、楽農ですから。地下水の硝酸汚染も研究課題なので地下水にとっては良いのだろうと思っています。そのうちハンドオーガーを借りてきて地下水面まで掘って水質の分析をしてみようかと思いますが、恐らく汚れているでしょう。ところで、最近カリフラワーを食べなくなったので作って見ましたが、どうもブロッコリの方が美味しいかなと思う。芽キャベツは小さな結球が見えてきて、収穫が楽しみ。珍菜は夏と違って、小さいのに花が咲き、また収穫時期を逸しつつあります。なお、空豆、サヤエンドウはいくつかヨトウ虫にやられましたが、順調に育っています。(2009年12月13日)

経験の大切さ

千葉ニュータウン周辺の湧水を地元の有志と回りました。ニュータウンの周辺の農村風景に接することもでき、楽しい一時を過ごしました。都市近郊に湧水がありますが、その水がどこから涵養されているのかを調べることが目的です。現地を見ながらいろいろ質問を受けますが、その一つ一つに答えられるだけの知識と経験を大学人は持たなければならないなと思う。とはいえ、わからないことは実際わからない。多様性の大きな対象を扱っているのですから、経験がもっとも重要で、経験が不足したら大学人といえども何の役にも立たない。これからは現場にいる方々との交流を深めていきたいと思っているのですが、ここで先日敬愛するある研究者とのメールのやりとりの中で覚えたフレーズを備忘録として記しておきます。「〜の現場は科学から離れてますます幼稚に,研究の現場はますます高度に」。現場の方々にも研究は顔負けに勉強している方々もおられることは知っていますが、現場と科学の仲介者がいろいろな分野で少なくなっており、研究は社会からどんどん離れつつも高度になっていく。こういう場面も確かにあるのでしょう。最近そういう研究には少々飽きてきた気がする。やはり、下総台地の風景は私にとって心地よい。台地と谷津の理解を深めたいと思う。(2009年12月12日)

平和のための戦争はあるか

オバマさんのノーベル平和賞受賞演説から思ったこと。正義のための戦争というものは私はないと思うが、あると思うのはヨーロッパ思想、一神教の思想が背後にあるのだと思う。正しいものは神、だから神の教えに反するものは悪となり、それをうち砕くことが正義になる。しかし、罪深いものはあるが、絶対悪というものはない。人を傷つければ必ずそこに苦しみが生まれる。人から傷つけられれば苦しみは増悪となり、永い間消えることはない。心の平和は遠のいていく。文化や価値観の多様性を認めれば、戦争による平和などはとうてい望み得ないということはすぐわかる。オバマさんは現実的な対応として、戦争が平和を維持するために機能を果たしているというが、その陰にあるものをしっかり見極めなければならない。(2009年12月11日)

大学院教育、支援だけではだめ

朝日朝刊から。京大の松沢さんの「希望持ちにくい若手研究者」と題した投書を読んだ。確かに、学位を取得したばかりの若手研究者の就職は厳しい。だから支援は必要というのはもっともだが、なにを支援したらよいのか、明確にしたい。この問題は大学人が政府に訴えてすむ問題ではない。大学人と社会が一体となって大学院修了生のニーズを創っていかなければならない問題であり、なにより大学人側の研究偏重の姿勢を改めなければならないと思う。社会で活躍できるフレキシブルな人材育成が大学院教育で達成されているか、検証し、改善する必要があるでしょう。国に研究職の増加を求めるのであれば、研究の外交としての側面をきちんと訴える必要があるでしょう。それは研究の文化としての側面とは相容れないかもしれません。結局、どういう社会、国を作りたいのか、という思想がベースになければ、単なる陳情にすぎない。研究者の幸せを考えるだけではだめ。(2009年12月9日)

開戦の日とジョン・レノンの命日

今年はどちらの報道も少ないような気がする。日米関係が良くないので開戦に関わる報道は自粛なんてことはあるわけないので、気のせいか。今日は平和を願ったジョンと戦争に翻弄された人々を思いながら、ハッピー・クリスマスを弾きたい。クリスマスは宗教行事というより、北半球中高緯度に住む人間が冬を乗り越える覚悟を決める行事。今日はこの冬で一番寒い朝でした。(2009年12月8日)

楽農報告

今日は小松菜、キャベツ、白菜、大根、ブロッコリ、珍菜を収穫しました。一家族としては十分な量です。キャベツはヨトウ虫、ナメクジに少し食われていますが、味には関係ない。計画的な収穫が結構大変なのですが、楽しんでいます。こんな畑を持つ住宅の供給を施策として計画的に進めていくことはできないものだろうか。とりあえず寝る場所があり、食ってくことができる社会が安心社会のベースラインなのではないかと思う。成熟社会、人口減少社会における都市のうまい撤退と良好な郊外の構築、これを数十年計画で推進するような施策を政治は出せないものだろうか。(2009年12月6日)

モルジブ、マレ島をどう読むか

茨城大学で開催されたワークショップに出席してきました。講演の内容はホームページのニュース欄に書いてあります。主催は地球変動適応科学研究機関(ICAS)ですが、そのパンフレットに都市化された珊瑚礁の島であるマレ島の写真が使われています。ICASの目標は持続可能な社会なのですが、マレ島をどう解釈したら良いだろうか。地球温暖化による海面上昇の影響を真っ先に受ける島ですが、ジェット機でやってくる先進諸国の観光客を受け入れて国を経営しています。地球温暖化から何を守るか。モルジブでは観光客が入れる島は制限されており、一般国民の生活の場である島とは区別されており、まさに私が受け売りで主張している、コンパクトシティーと郊外(ここでは島の生活)の関係があるとみることもできるかもしれない。緊張のシステム(マレ島)と共貧のシステム(生活の場である島)の両立です。ただし、最近大統領選で一般住民への利益の還元を主張した大統領が選出されたとも聞いています。新政権で国民皆が経済的に豊かになることを目指すと、持続可能性はどうなるか。観光収入をうまく使って、両システムの共存を目指すやりかたが、折り合いの落としどころかもしれない。高炭素放出社会から利益を得ながら、低炭素社会を守る。この折り合いをどうつけるか、注目すべき国です。(2009年12月4日)

科学技術予算に思う

朝日でスパコン予算の仕分けについて野依さんが批判していましたが、どうもわかりにくい。それは、科学と技術、科学の文化的側面と巨利を生む開発が峻別されていないからではないか。これに対して、アメリカ在住の研究者の方の考え方はわかりやすい。技術に対する正確な現状分析に基づいて、ブレークスルーを目指す道筋が明確に述べられていた。これではスパコン予算の挽回は難しいだろう。議論が深まれば、様々な考え方の拠って立つ基盤、思想が明らかになってくる。野依さんの主張の背後にある競争を是とする勝者の社会を目指すのか、そうではない社会を目指すのか。ここの議論が出てくるのではないか。この議論を通じて日本の進む道が見えてくると思う。(2009年12月3日)

不況は地域通貨で

甘いかなとも思いますが、不況の世の中、さらに円高にも見舞われている世の中は地域通貨で何とかならないだろうか。行政の仕事の一部をボランティア活動にまわし、地域通貨を発行する。家庭菜園の野菜といった地域の商品は地域通貨で融通する。多少高くても、地域を支えるという意識によりコストを負担できるサービス、商品を流通させる。そうすると給料が下がっても、地域通貨で野菜や米が融通でき、住むところさえあれば何とかなる社会にならないか。グローバルな波を受けにくい地域経済圏で暮らしの安心が得られる社会。そのためには都市と農村の近接性が重要で、コンパクトな都市機能と良好な農村を混在させる必要がある。困難なことですが、人口減少、成熟社会を迎えている今がこんな社会を作る千載一遇のチャンスと言えるかもしれない。(2009年12月1日)

自分を励ます

人を励ますことは簡単だ。しかし、自分を励ますのは大変。朝日天声人語、詩人の吉野弘さんの一節だそうだ。また、タレスは自分を知ることは難しく、他人に忠告することは容易だと言ったとのこと。昔、佐倉先生があることで悩んでいたときに、つい私は相田みつをの詩を引用して意見してしまったこともありましたが、格好は良いのですが、何のためにもならない。ただ、受け止めればよかったのだな、と今では思う。教員という仕事は学生を励ますのが仕事だが、単なる忠告は学生の役には立たないかもしれない。まずは受け止め、その次が難しいのですが、ただ黙ってやるべきことに向かって歩くことを伝える。まずは自分が落ち込んでいては仕事を全うできない。今日から師走ですが、多くの業務を何とか乗り切って、まったりと読書、研究に没頭したいものだ。そして、健全な精神を取り戻したい。どうも最近心身のバランスが悪い。男の更年期かなと思っています。(2009年12月1日)

留学生教育とは

留学生30万人計画に関する記事を朝日で読みました。仕分けでは留学生教育に関わる競争的資金や、留学生用施設の予算が削られたりして順風満帆というわけではないようですが、その理由は大学人の意識にもあるのではないか。記事の中には“優秀な”とか“英語による”という文言が何回も登場する。これはアメリカ追随型の研究至上主義の表れではないだろうか。優秀で英語ができれば日本に留学することもない。英語でできる研究は場所を選ばず、どこでもできる研究だから。優秀というのは自分に代わって研究をやって論文を書いてくれるということか。私の研究室の留学生はけっして“優秀”ではない(失礼)。それは国の事情や、教育制度の違いによるものであり、学問に対するモチベーション、特に母国の環境問題を何とかしたいという想いはずば抜けている。そして英語はできない。日本に留学したくて一生懸命日本語を勉強したのだから英語は疎かになりましょう。母国語、民族の言葉、日本語、そして英語なのですから。留学生はまず入試の英語で苦労することになるが、何とか入学して頂ければ日本の知識、経験を学ぶことができる。英語しかできない留学生はこれを伝えることができない。日本語で意思疎通のできる留学生は将来日本との架け橋になる貴重な人材なのです。大学人は研究あるいは論文至上主義の意識を見直したほうが良い。(2009年11月30日)

農学的適応と工学的適応

この用語は京大にいた海田能宏先生の著作から学んだのですが、最初は石井米雄先生(京大、上智大名誉教授)が使ったとのこと。土曜日なので部屋の整理をしており、捨てようとした資料を読み返して見つけましたので、備忘録として記録しておきます。岡崎研究所というところの1998年の「海外地域研究の本質」という講演の記録ですが、現在リンクは切れています。再掲すると、自然に大してadaptするadaptationの仕方が二通りある。自然に対する工学的適応とは大地に働きかけて大地を改造していくこと。それに対して、アジアのデルタで見られる浮稲栽培のような自然に対する農学的適応があり、自然は改造はしない。この農学的適応を敷衍すると環境適応という用語も出てくるが、初出はわからない。私も自然に使うようになったように思う。2003年の世界水フォーラムの時、私は農学的適応をagricultural adaptationと訳して使ったら、後の講演で海田先生がagronomic adaptationを使っていて、赤くなったことは思い出です。工学的適応、農学的あるいは環境適応というコンセプトは国の施策にとっても重要な観点だと思う。それは二者択一ではなく共存できるのではないかというのが私の考えです。コンパクトシティーと良好な農村の間の“交通”。異なる生き方を行き来できる社会。できるだろうか。(2009年11月28日)

科学はなぜ大切か

今週は仕分けによって、いろいろなことを考えさせられた一週間でした。科学技術予算に対する仕分けについては、科学技術側が十分な説明責任を果たしてこなかった、果たせなかったことが一番の問題だと思う。文明国家として国民の科学技術リテラシーは必要なのだが、そこの教育、啓蒙が十分でなかった、だから仕分け意見がでてくるとも考えられる。もちろん、仕分け意見ももっともであり、リテラシー不足のため議論が成立しないことを大いに反省しなければならない。というのは官僚の説明がまったく説得力に欠けるから。テレビではそんな場面しか報道していないのかも知れませんので検証は必要ですが、科学技術のあり方に対して確固たる理念があるように見えない。科学技術、特に技術はなぜ重要か。それは勝つことによって幸せを得るという考え方が背後にある。ここが問われて良い。一方、科学の文化的側面を国民が享受するには、それを可能とする安心社会が必要だと思う。勝者の社会と安心社会の両立は可能かどうか。ここの議論を深めなければならないと思う。(2009年11月28日)

一律から個別へ

仕分けは本当に面白い。まさに議論を起こしたことが成果なのですが、やはりいろいろ批判もある。確かに、本当に困っている人がもっと困ってしまうこともありそうです。そういう事例に対しては個別に対処できる仕組みがあればよい。アメリカでは個別に救済できる法律を作ることができるそうです。国際結婚にまつわるトラブルに関する記事で知りました。何でも“一律”から脱却して、“個別”に対処できる時代が望ましいと思うのですが、そのためにも国民の民度、リテラシー、なんていったらよいかよくわかりませんが、そんなものを高める仕組みも必要。それは義務教育の問題とも絡んでくる。個別なんだけれど、いろいろなものが関連しているという感覚。これを国民が持つようになったらこの国は良くなると思う。(2009年11月27日)

流れ星

夜11時頃愛犬“黒丸”の散歩に出ましたら、何十年ぶりで流れ星を見ました。ほんとに久しぶりだったので記録しておきます。最後に見たのはいつだったろうか。オリオンの三ツ星を横切って一瞬流れました。どこかで誰かが亡くなったか。あるいは命が宿ったか。何かの吉兆か、それとも凶兆か。“ハウルの動く城”の一シーンを思い出したりしますが、流れ星というのはなんとも厳かなものだなぁ。その正体は知っていますが、なんだか違うのではないかという気もします。(2009年11月26日)

国のあり方に関する理念

事業仕分けは政治、行政を国民の目線に戻した点に意義があるように思います。ただし、決断のためには国のあり方に関する理念が背景に必要だなと感じています。義務教育も俎上に上っていますが、私が気になる観点は文明の持続可能性です。生徒にいろいろなことを学んでもらう意義は何なのか。それは、“文明社会の野蛮人”にならないようにするためです。我々が享受している様々な技術、設備、施設、制度、等々は誰のどのような努力によって生み出され、維持されているものなのか。どのような仕組みになっているのか。これがわからなくなると文明は衰退に向かうというオルテガ、小林信一の考え方です。この文明論を受け入れると、すでに“日本文明”は衰退に向かっているのではないかという懸念も抱かせます。そうならないように教育を維持していく必要があるのです。仕分け人や文科省はこんな思いを持っているだろうか。(2009年11月26日)

人のための科学

必殺仕分け人の仕事に対して、科学技術分野からも多くの意見が出ています。たとえば、学術会議の有志が提出した「科学技術分野の復権への要望」のなかで、科学技術の大切さ、特に大型プロジェクトの重要性を訴えるための材料としてオバマさんの演説を引用している。本年4月27日、全米科学アカデミーで行った演説で、基礎研究予算を10年で倍増するといったような具体的な強化方針のことです。日本は負けちゃうと。でも、これを聞くと、私はヴァネヴァー・ブッシュを思い出す。 戦争遂行のための科学技術のあり方を提言し、第二次世界大戦におけるアメリカの勝利を導いた人です。アメリカにはこのブッシュ思想を背景とした国益追求の姿勢が必ずある。科学は貴い、だけでは研究者のための研究になってしまう。仕分けではこの観点が表に出てこないのですが、日本人は理想的過ぎるのかも知れない。外交や国益とあまり関係しない、人のための科学は当然あり、その科学の側面にもっと日があたっても良い。もちろん外交重視で戦略的な科学があっても良い。どっちも大切。必要なことは美辞麗句ではなく、考え方の根拠を明らかにすること。(2009年11月25日)

技術の確保と継承の必要性

青森県六ヶ所村の再処理施設で働く外国人研究者の師弟のためのインターナショナルスクールの経費が高すぎると問題になっています。朝日朝刊から。詳細は知らないのですが、なぜ外国人研究者が必要か、という観点が重要だと思います。日本にとって必要な技術が海外の権利に触れるということがあるのかもしれません。となると、外国人研究者の待遇も一定レベルを確保する必要もありましょう。技術を巡る外交と、国産技術の確保による安全保障という観点がこのニュースにないのはジャーナリズムにこの観点がないからか、それとも禁忌なのか。国民のリテラシーとして技術をめぐる情勢、政策は知っておいたほうが良い。(2009年11月23日)

たくらむ教育、たくらまない教育

今日は終日佐倉研究室の整理を奥さんとご長男と一緒にやっていました。いろいろなものが出てきますが、1981年の私のゼミのレジメなんてものもありました。思い出に耽りながら佐倉先生のことを振り返っていますと、「たくらむ教育、たくらまない教育」を思い出しました。2008年2月19日にも述べていますが、教育にはどうもふたつあるということ。一つは、教育しているなんて少しも思っていないのに、いつの間にか、誰かが誰かを教育しているという教育。もう一つは、やたらと教育の目的や方法、技術を問題にして、その方法や技術が目的を達成したかどうかを問うばかりの教育。前者がたくらまない教育、後者がたくらむ教育。原田津著「むらの原理 都市の原理」(農文協)より。佐倉先生はこの「たくらまない教育」の達人だったのではないか。近々こういうことを語り合う場を設けたいと思います。なお、あの佐倉研を一日で整理したと驚いている方、おられると思います。もちろん、一日ではほんの一部しかできません。年度末まで時間をかけてやりぬく予定です。(2009年11月21日)

仕分け、科学技術にはなじまない、か・・・科学の意義

やはり、「事業仕分け」に対して科学技術の立場から提言がなされたとのこと。Yahooニュースより。「短期的な費用対効果のみを求める議論は、長期的視点から推進すべき科学技術にはなじまない」。全文を読んだわけではないのですが、人材の継承、これは技術の継承でもある、についても触れられているようで、主張はもっともだと思います。ただし、巨大科学の意義は実は外交にある。世界最速のスパコンで行った気候予測結果を持って、地球温暖化外交の場でイニシアティブをとる。科学の成果が国威発揚になり、国際社会における高い評価につながり、外交の場で主導権をとる。こういった機能に対する意義が大きい。ここを意識しなければならないと思うのですが、この機能は市場経済、競争を是とする勝者の社会が前提としてある。この前提を崩せば、科学技術に対する仕分けも意味を持ってくる。ただし、民主党もそこまでの覚悟は持っていないでしょう。だから、議論が曖昧になっている。表裏のない社会が理想ではありますが、裏ではちゃんと議論されているのだろうか。失業者の職と、人類の利益と今どちらが大切か、未来のために今何を我慢するのか、しないのか、政治家はこのスタンスを明らかにしなければならないので大変です。科学者は能天気でいいのですが。(2009年11月20日)

輪扁問答

佐倉先生が亡くなり、その業績をどう残そうか、いくつかの企画が出始めています。私はひねくれているので、荘子にある「輪扁問答」、ついこんなことを考えてしまいます。荘子を読んでください。佐倉先生が遺したのものは恐らく言葉では書き表せないものだと思う。多くの卒業生が佐倉先生の送別に集まってくれました。皆さんの思いは共通なのではないか。この部分をなんとか形あるものにして、遺された者たちと共有して記念にしようか。研究業績は学会にお願いしましょう。(2009年11月20日)

ガラパゴス化

大学の研究室の蛸壺化の話の中で、最近はガラパゴス化ということを知りました。相手は尊敬すべき企業の技術者。ガラパゴスでは荒波に揉まれず、狭い範囲で生きながらえ、しかし、進化から取り残される・・・。なるほど、同分野のサロンの中での話は実に楽しく、自分たちは貴い行いをしているのであるという錯覚。研究室はガラパゴス島。不況、低成長の社会の中で人類の利益を主張する姿勢は実に貴いものにも見えるが、暮らしの現実の前では言説に過ぎない。話の中で新卒の方々は、大変知識があり、それなりにディベートにも長けて、賢い、と伺いました。どうも、かっこよさや、脚光を浴びることを求めすぎている、と感じているそうです。これはまさに蛸壺化、いやガラパゴス化した研究室における姿勢ではないか。学生にガラパゴスの環境が身についてしまっているとすると、これは問題です。学生はいずれガラパゴスから旅立つ運命ですので。場面に合う知識を、泥臭く、地味な作業の繰り返しで蓄積、身に付けて成長していくのが技術者。まずは大学でこの姿勢を修得させなければなりません。大学人は社会の動向をきちんと見極めて、学生を育てていく義務があると思う。幸せな大学人の再生産は不幸を生むだけ。(2009年11月19日)

組織を優先

福知山線脱線事故をめぐる情報漏えい問題に際して、JR西日本が「組織を優先」と批判されているが、何を優先させるかは関係ない。非倫理的なことをやっちまったことが問題なわけです。そこを批判すればよい。優先させるものは時代によっても変わってくる。高度経済成長期は組織を優先させても、人の暮らしもそれなりに良くなっていった時代でした。だから、少々辛いことがあってもがんばれた。低成長時代の今は優先させるものが変わっても良い。優先させるものを決めるのは個人でもあり、組織でもありますから、それらの判断はまず尊重しなければならない。尊重を前提で、何を優先させるかを考える。やはり人であり、人の暮らしでありたい。しかし、世界はまだまだ競争至上主義。人を優先させて失うものもあるでしょう。そこをどう折り合いを付けるか。世の中、折り合いが大切と思うが、これはアジア的思想なのだろうか。(2009年11月19日)

仕分けの基準−費用対効果

「事業仕分け」も前半が終了し、問題や限界も顕になってきたようです。仕分け人は「費用対効果」を強調しているように見えますが、それになじまない事業もあるという主張も。「水星探査が国民に利益をもたらすのか」という質問に対して、「人類共通の利益」との回答。どちらも一理ある。ただし、歳出が歳入を大幅に上回っていることは事実。それでもやっておかないと国益を損なう事業ってなんだろう。私は「夢」(サイエンスの文化的、芸術的側面)は先送りしても良いと思う。開発はというと、これも重要だと思う。とはいえ開発競争に勝って、利益を得ること以外幸せへの道はないのか。そうではない生き方はないのか。根本的な生き方、国の運営方針に関する思想を明快にしない限り、答えはでない。ただし、小泉・竹中流の政治を否定したわけですから、残された道は。(2009年11月18日)

食料不足は収入不足

Yahooニュースに「全米15%世帯が食料不足=不況直撃、子供の飢えも急増」という記事がありました。現在、地球全体のバルクとしては食糧不足問題はないと思います。あるのは食糧の偏在と、貧困。食糧の偏在は本来市場経済、自由貿易が解決するはずでした。しかし、それがもたらした貧困が、そこに食料があるのに買えない食料不足問題を引き起こしている。あの豊かなはずのアメリカで。オバマさんのお辞儀の角度が深すぎることを問題にしている場合ではないのですが。最近、「食糧安全保障分野の地球観測衛星利用委員会」委員になったのですが、そこで何を議論すべきだろうか。“食糧予測”の技術的側面だけ問題にするのか、予測ができたら、その成果をどう利用するのかまで踏み込むのか。“食料予測図”ができたら、次は公平な分配について検討ということになればよいのですが、いかに儲けるか、となってしまうと食料の偏在問題や、あるのに買えない問題にまったく対処できなくなってしまう。そこまで踏み込まないのが科学技術だ、なんてならないか。なるわけないか。杞憂でしょう。(2009年11月17日)

技術の継承は?−GXロケット廃止

私もYahooニュースで読んで気分でコメントしているだけですが、さて、これでいいのだろうか。技術というのは継承していかなければならない。そのために、開発という行為も必要となる場合がある。政策には思想が必要だと思いますが、技術立国という思想はやめた、という判断なのでしょうか。技術立国は競争社会を容認する立場でもあるので、そうではない安心社会に移行する思想を民主党は持っているということだろうか。それを打ち出して頂ければ、多少の不自由は国民として甘受する覚悟はありますよ。思想がないのならば、国を危うくするだけ。ロケットという技術をどうするか、という議論は仕分けの背後にあるのだろうか。とはいえ、歳入より歳出が多いのだから夢は語れません。(2009年11月17日)

リーダーシップ

オバマさんの演説の冒頭にはリーダーシップという言葉が複数回でてきます。大きな組織のリーダーには当然強いリーダーシップが必要だと思いますが、実はこれは欧米思想なのではないだろうか。老子では「敢えて天下の先に為らず」、「太上は下之有るを知るのみ」(君主はおるだけ)、なんて箴言があります。もちろん戦国時代は覇者の時代であったが、強いだけでは統治できないことは古代中国の民も知っていた。外交に日本流の"寅さん型リーダーシップ”を発揮することはできないものだろうか。私としては鳩山さんには欧米型でないリーダーシップを発揮してほしい。おそらく、それがアフガンはじめ、世界の平和への近道なのではないか。また、それがひょっとして、日本人として世界に貢献する唯一の道なのでは。老荘の思想には学ぶべきことが多いと思います。しかし、勝つことを至上命題と考えている我々は、まず負けることに耐える力が必要でしょう。そして、負けながら勝つ(山本周五郎から)、こういう態度を身につけることができたら、楽になるのではないか。私はまだまだ修行が足りない。(2009年11月15日)

千の風

佐倉先生の出棺のそのときは、横殴りの暴風でしたが、霊柩車がでた後はとたんに穏やかになりました。佐倉先生の最後の別れの挨拶だったのではないだろうか。水文屋として見事なものでした。佐倉先生の霊はこれからしばらく地上をさまよった後に、永遠の命の流れに合流して、佐倉保夫という意識はなくなっていく。手塚治虫の「火の鳥」の一シーンですが、こんなことがあるような気がしてならない。いずれ何年か、何十年か後に私の命とも合流することになるでしょう。死はそれまでのしばしの別れということにすぎない。(2009年11月14日)

佐倉保夫先生を悼む

佐倉先生に最初にお会いしたのが1980年4月、筑波大学の博士課程に進学し、同じゼミの先生としての出会いでした。その翌年、私のフィールドである市原を案内したときに千葉大の正門前を通過した、これが佐倉先生と千葉大の出会いでした。その直後、佐倉先生は千葉大学に赴任され、私も縁あって千葉大に職を得て、以来、同じ水文分野で仕事をしてきました。病気のことを知ったのは今年のまだ寒いころだったと思う。入院されて半年、あまりに早い旅立ちだった。でも、苦しむ時間が少なくてよかったのかもしれない。近代医学の進歩で人はなかなか死ねなくなった。生かされることのほうが苦しい。生まるるも偶然、死ぬるも偶然。人の世は諸行無常、川の水の流るるごとく生々流転。静かにご冥福を祈りたい。ただ、佐倉先生が引き継いで、そして積み上げてきたものが行き場を失ってしまった。伝統の力は強い。しかし、こんなにも脆く、はかないものでもある。ここを何とかしなければいけないと思う。(2009年11月12日)

個別性に対する配慮のなさ

教員会議で、「ハラスメント問題への部局での対応について」という組織担当理事名の文書が配布されました。議論した結果を議事録に残さなければならないそうです。担当理事には申し訳ないが、参考にはなりますが、ほとんど役には立たない。それは“問題”には個別性があり、普遍性に頼るだけでは理解さえ難しいから。個別性を理解し、双方の考え方を聴き、折り合いを付ける能力、専門性が必要なのだが、残念ながら千葉大学にはこのような力を持つ専門家はいない。学生相談室は上層部と直結し、当の教員の知らぬ間に、ことが進められ、いつの間にか教員は悪者になっている。人が苦しむのは、どうすればよかったのか、がまったく示されない時。権力と権威を峻別し、徹底的に現場に入り込み、個別性に対する深い理解に基づき、折り合いを図る力を持つ。こんな専門家がいれば大学は良くなる。(2009年11月11日)

「食糧自給率41%」は低いのか?

Yahooニュースで見つけました。贅沢と浪費の日本、に表記のタイトルが続きます。実は私も少し前まで41%は低すぎると思っていました。しかし、この数字はカロリーベース。取引額や重量ベースですと日本の自給率はもっと高い。この記事では自給率計算の分母が“消費”量であり“摂取”量ではないことが明らかにされています。分母に残飯や贅沢品も含まれているので、“贅沢と浪費”と書かれているわけです。日本でお米は自給できる。野菜も取引額ベースで70%を越えているようです。野菜は地域のものですので。となると、日本では贅沢言わなければ量的不足による食糧危機は考えにくい。あるとすれば市場経済の欠陥としての供給困難です。さて、食糧危機は当面はないとしても、それでも日本の農は守らなければなりません。農業の持つ多面的機能が人に恵みを与えてくれるからです。この多面的機能は日本では抽象的な議論しかないのですが、ヨーロッパではしっかり議論されて農政に組み込まれているようです。今、農家への戸別所得補償が議論されていますが、欧米ではとっくに実施されている。さらに、EUでは戸別に補償するために環境要件をつけている。ここがすごいと思うのですが、農の環境に対する影響、効果がきちんと評価、理解されている。日本では農の価値について、環境の理解に基づく大人の議論ができるだろうか。我々研究者は農業の多面的機能についてもっともっと深く調べなければなりません。そして広めていかねば。欧米の戸別所得補償については現代農業最新号に記事がありました。(2009年11月9日)

楽農報告

昨日、聖護院大根を初めて収穫しましたが、丸々太った真っ白な大根は圧巻です。ふろふき大根で食しましたが、淡白で上品な味わいでした。今日は家族は皆出かけているので昼は自分でうどんを作って食べたのですが、小松菜の間引きをして鍋に突っ込んだらうまいこと。急遽、小松菜とほうれん草の区画を増やして種まき。ホームセンターで玉ねぎの苗を見つけて、これも植える。落花生を収穫しましたが、今年は実の入りが少ない。土のせいだろうか。秋になると虫も少なくなって楽なのですが、キャベツのひとつに虫食いがある。そこでBT剤を散布。無農薬にはこだわりません。収穫した跡は、耕して堆肥を入れておく。こうやって一日が暮れていきました。(2009年11月8日)

科研費公募停止も

朝日の朝刊で見つけました。わが国の財政状況のもとでは科研費でさえ聖域ではなく、検討の対象になるようです。これはしょうがないことでしょうね。科学は貴いものだから予算削減はけしからん、なんて主張をするつもりは毛頭ありません。これを機にいろいろなことの見直しができればよい。科研費が削減されることになったら、実は大きな問題が出てくるように思う。現在、運営費交付金の削減のあおりを受けて、卒論、修論、博論に関わる学生指導の予算が実質的にほとんどなくなっています。教員は競争的資金を獲得し、学生と協働することにより教育の機会と研究の成果を得ています。欧米では当たり前のことですが、日本では時々、学生を研究に使うな、という現場に対する無知をさらけ出すような権力者からの主張が出ることもあります。それはさておいて、卒論、修論、博論の実施過程で学生は“生きる力”を身に付けるのだと思います。受身の姿勢だけでは進めないことを体感すること。その体制を維持することがだんだん困難になってきている。予算削減、おおいに結構ですが、重要かつ必要な部分はきちんと手当てしなければなりません、大学において学生に伝えるのは知識だけでなく、経験と実績です。これを担保する予算は削ってはいけない。(2009年11月5日)

121橋が崩落寸前−技能の時代の再来か

朝日朝刊から。施設、設備の老朽化の問題はすでに何回か取り上げました。物を使い続けるためにはメンテナンスと更新が必要。お金のあった時に造ったものが老朽化したが、補修、更新の予算がない。さてどうする、という問題ですが、改めて強調したいのは、この問題はお金の問題だけでなく、技術者の不足が深刻な問題であるということ。大学への進学率が高まり、専門教育は行われているはずだが、学んだ知識を役立てる場がない。本当はあるはずなのに。技術者を大切にしてこなかったことへの報いが始まっているといえるだろう。各地域で診断、補修が可能な施設、設備こそ、分相応の持ち物です。そのためには人の持つ技能を生かすことが必要。技能の時代の到来を予感させますが、実は昔は人はみな技能を持っていた。科学技術が進歩し、ベルトコンベアのような効率的な生産方式がとられるようになって、人は単純作業を行うための部品になってしまった。職人が滅び、“文明社会の野蛮人”(これも何回も取り上げています)が増えた。人の技能により維持できる社会が我々の分相応社会であり、安心社会のあり方なのではないだろうか。(2009年11月4日)

楽農報告

やはり秋は収穫の季節であることを実感。大根、落花生、ししとう、ほうれん草を収穫しましたが、人参も収穫期に入っています。聖護院大根もだいぶ大きくなり、十分おでんに使えます。来春のソラマメ、エンドウも植え付けを終え、後は待つのみ。白菜、キャベツも順調。小豆も採れつつあり、お汁粉までもう一息。黒豆も実をたっぷりつけており、枝豆の誘惑を断ち切るのに苦労する。忘れていましたが、サトイモも収穫。楽農なので、畝がきれいでないのが玉に瑕ですが、野菜の味には関係ない。農をやりながら暮らしについて考える。たとえ年収が三百万円でもとにかく暮らしていくことはできるだろう。問題は教育と医療、ここをがっちりガードすれば安心な暮らしやすい社会をつくることはできるのではないだろうか。(2009年11月1日)

高校生が地球科学に求めるもの

オープンキャンパスに出ました。紹介スライドの説明を行ったのですが、親も含めて10人くらいの方々に説明をする機会を得ました。地球科学科には現在、表層、内部そして環境リモートセンシングの三分野があるのですが、リモートセンシングに興味がある高校生に手を挙げてもらったら三名いました。秋のオープンキャンパスは参加者は少ないのですが、その中で三人とは高率です。その中身については突っ込みませんでしたが、興味のあるところです。気象に興味があるのか、環境問題に興味があるのか。気象については地球科学科にCEReSの教員が参加することにより、問題はなくなりましたが、環境問題に興味があるとしたら。21世紀も10年が過ぎ、環境問題の解決を本気で指向しなければならない時代になりましたが、解決の中で(狭義の)理学の役割は相対化しつつある。これからの時代、どんな理学が望ましいのか。学生と一緒に考えて行きたい。(2009年10月31日)

取水中止の影響?サケ・アユ遡上が3倍に

Yahoo Newsから。JR東日本は不正取水のため、信濃川からの発電用取水を停止されています。その結果、信濃川に生態系回復の兆しが見えたら、都市と地方の関係がどうなるか、という問いかけを7月25日に呈しました。どうやら生態系回復の兆しは見えてきたようです。これが取水停止の影響かどうかは、より詳しい解析が必要、と国交省信濃川河川事務所はコメントしているというが、サイエンスもその腕を試されているといえるでしょう。取水中止とサケ・アユの回復は、見掛けの関係が発見されたところ。水位・流量のデータは揃っているだろうから、両者に因果関係があるという仮説は支持されるのではないか。むしろ、この仮説を反駁するほうが難しいのではないか。取水を再開すれば、サケ・アユが減ることは確実。流れが無くなってしまうのですから。その状況を地元は容認できるだろうか。今回の件で、我々はいろいろなことを知った。知ることが価値、信濃川の生態系の価値を再認識させることに繋がる。都市のために地方は我慢してくれ、という主張はもはや容認できず、両者の間でどう折り合いを付けるかという問題になるでしょう。(2009年10月28日)

普通の暮らしとは

サステナというフリージャーナルが届きました。地球温暖化や低炭素社会に関する記事を読んでいると、やはり未来志向が強すぎるなと感じます。危機的な気候変動という言葉が出てきますが、何が危機なのか、という議論がまだ十分深められていない。少しずつ主張は聞く様になりましたが、危機から原因を探るベクトルがもっと強くてよい。そうすれば今現在の問題点が見えてくる。今現在の人の苦しみの原因を知り、ではどうしたらよいかという議論、それが実は地球規模の問題解決に繋がるという議論がなかなか出てこない。石原都知事は温暖化防止について、「景気後退で自殺者が出るかもしれないけれど、それよりも大きな被害によって人類がどうなるかということをきちんと考えなくてはいけない」、そういうことが大事だと発言なさったそうです。そうだろうか。今生きている人の幸せを優先させてはいけないのだろうか。今が未来に続く、今何をやるかが未来を変える、という見方ではいけないのだろうか。温暖化時代を迎えて必要なアクションの一つに価値観の変更、というのがあるが、これができていないのが現在を直視することを避ける理由なのではないか。そこには、幸せとは何か、そして普通の暮らしとは何か、というコンセンサスを得ることが極めて困難な課題がある。生活環境主義における大切にすべき生活とは何か、という問題と同じ。恐らく、人それぞれの生業によって維持できて、そこから満足を得ることができる生活と言えるだろうか。人それぞれで、絶対的な基準などはない。人から強制されるものでもない。ただし、欲やねたみといった感情によって簡単に壊れてしまうもろい概念でもある。さて、普通の暮らしとは、どんなものだろうか。こんな議論自体も、人類のためにそんなこと言っている場合ではないのである、という議論によって潰されてしまいそうですが、実はそれが一番怖い。(2009年10月27日)

研究者の安心と研究者の価値

沙漠研究誌の最新号が届き、連名の論文がひとつ掲載されました。この論文で2009年の論文数はやっと二編。ほっとする反面、これでいいのかとも思う。研究者の価値は論文数ではない、などと思いながらも、やはり数はあるにこしたことはない。最近、研究活動に使える時間が極端に減っており、論文を出さずに時がたつとだんだん不安も大きくなる。おかしいと思いつつも、おかしいと主張するには最低限の論文数を確保しておかないと主張が強くならない。研究者の価値とは何だろう。研究を進める過程でモンゴル草原の植生と気候に関する知識と経験は確かに深まってきたと思う。それを発信することで、研究者の価値が高まるのではないだろうか。(2009年10月26日)

負けながら勝つ

農家の戸別保障については賛否両論がありますが、私は大いに結構と思います。大規模経営への流れを阻害するといいますが、何のための大規模経営か。もし、少数の大規模農家の成功が、小農の経営を圧迫するようだと、極端な言い方ですが、国土の荒廃に繋がることを懸念します。農には国土保全の機能があるから。欧米では少数の農家で、食糧自給を達成し、輸出余力まである背景には、粗放な農法で大量の生産ができる土地条件がある。それは収奪的といっても良く、持続可能性は疑わしいのではないか。広大な土地と大規模農機の投入による効率化、時には収奪的な水利用を背景とした産業としての農業に立ち向かって、グローバル経済の中で勝とうとしているわけですが、実は勝つ必要などないのではないか。勝たないと負けるから、勝たざるを得ない、という感覚は机上の議論から出てくるもので、負けながらも大切なものを守るという戦略もありえるのではないかな、と考えています。小農を潰しても雇用がなければ不幸を増産するだけ。農を組み込んだ雇用創生が一億2千万の日本人全てがそれなりの幸せを得るひとつの方法ではないかと思います。(2009年10月25日)

「研究」と「研究事業」

この二つは相当違う。応用地質(50巻4号)の巻頭言で東大の六川先生が書かれていることにはまったく同意します。省庁から発出される大規模予算は「研究事業」であり、事業であるから失敗はありえない。優れた研究かどうかというより、優れた研究ということになったかどうか、ということが重要となってしまう。「研究事業」をとったことが業績となり、その結果、効果は(時として)あまり問題ではなくなる。こんな勘違いは早くなくしたい。もちろん、立派な研究事業もありますので、念のため。最も深刻なのは「研究事業」の中で育てられた若き研究者。事業で培われた感覚が、その後の進路を狭くしていることはないか。ここが心配です。研究というのは外交のリソースという側面もある。たとえば地球温暖化問題で代表がイニシアティブをとり、それを研究が裏打ちする。そんな研究があっても良いと思うし、それに国が多くの予算をつけるのは当然です。ただし、そのことを十分理解する必要があります。私くらいの年代だと十分承知しているのですが、若い方もたまには視点を遠方に移して、広い視野から研究課題を見つめてください。(2009年10月21日)

幸福度の指標

環境科学会誌をめくっていたら、「主観的幸福度指標と環境水準の関係性」という技術資料を見つけました。経済学の世界では幸福に関する研究があるということは発見でした。結果は、浮遊粒子状物質(PM10)と二酸化硫黄(SO2)排出量と幸福度指標の間に相関があるということでした。国単位の解析なのですが、国の発展段階は異なる。日本でも昭和30年代はノスタルジックに語られることが多いのですが、実は大気も水も相当汚れていた。ところが、それを国の発展の証として肯定的に捉える精神は確かにあったと思います。子どもたちは排ガスのにおいに豊かな未来を感じ取った。自分の経験もありますので、確からしいと思うのですが、今はもちろん排ガスの臭いなんて忌み嫌われる対象です。この資料にも書いてありますが、幸福という概念の正体については一定のコンセンサスはない。でも、時代ごとにコンセンサスを創っていく必要もあるのではないかとも思う。今、民主党が国を変えようとしてがんばっていますが、その根底には幸福に対する国民の考え方の変化が必要なのではないか。(2009年10月20日)

うつの時代

こんな題の本がたくさんありそうな気がします。あの加藤さんがうつ病だなんて。うつは個人の問題だろうか。どうも社会的要因の方が強いのではないだろうか。こんな議論は掃いて捨てるほどあるとは思います。天才ゆえに、創造的であることが求められる。創造性を失ったと感じたときに...。研究者は優秀でなければならない。論文が書けなくなったときに...(優秀の尺度は論文の数ですから)。どうすればよいか。結論は多面的な評価。人の評価軸はひとつではない。どこかに必ず評価できる点がある。そんなことはキレイ事。仕事ができなければ“そこ”にいる価値はない。いやいや、仕事についてもっと考えてみよう。一つの仕事は様々な要素から成り立っている。評価の対象はそのごく一部。ここに問題があるような気がする。仕事を多面的にとらえ、個人の役割を再考してみよう。価値が見えるようになれば、うつも減るのではないか。こんな流れから最も遠いのが大学ですが。(2009年10月19日)

加藤和彦氏逝く

ああ、またひとり逝ってしまった。ザ・フォーク・クルセダーズは小学校の時からのファンでした。“帰ってきたヨッパライ”は1968年だから私は小学校5年生。高根公団、今の北習志野のレコード店まで父に連れて行ってもらってシングル版を買ってもらった記憶があります。別に新しい曲でなくてもいい。歳をとった加藤さんに昔の歌を唄って欲しかった。人は時代を背負って生きていいのだと思う。枯れてもいいではないか。天才はそれができずに自死を選んだというのだろうか。加藤さんの歌がどれだけ多くの人々を勇気づけたことか。それに気づいてほしかった。(2009年10月18日)

地球環境問題は地域の問題

地球研ニュースを読んでいますが、『地球環境問題は「存在」するのか?』のタイトルで、第三回コロキウムの報告がありました。「地球環境問題は地球規模の課題である」との前提を問うてみた結果、環境問題の本質は地域の問題なのではないか、との認識に至ったという記述があります。しかし、このことは社会学の分野では90年代から認識されていたことではないだろうか。地球環境問題といえども、問題として現れるのは地域における人と自然の関係に関わる問題として現れる。Global Changeに対する世界の潮流と、フィールドで経験する個別だが深い問題との乖離に悩んでいたフィールド屋の出した結論です。環境社会学の教科書で同様な主張に出会うと思います。私自身について言えば、90年代後半に中国の水問題に関わり始めたときに、水問題は地球環境問題との位置づけを行った。それは、世界で同様な背景の下で同時多発している問題であること、そしてヴァーチャルウォーター(当時は穀物に注目してグリーンウォーターと言っていた)を通じて地域間の関連性が生まれること、よって水問題は地球環境問題であるという立場をとっていた。もちろん、その理解・解決には地域の個別性へのアプローチが必要になる。地域の問題にも地球規模の視点は欠かせないというが、それは地球という時間・空間フレームワークの中に個々の地域を位置づけて、それぞれの関係性を見抜く視点であると思います。地域を見る目、そして位置づける目が醸成されれば、環境は良くなるのではないかと思います。(2009年10月17日)

大学評価−後退、それとも前進

(財)大学基準協会の“じゅあ”というニュースレターを読み、認証評価の体制が平成23年から簡素化されることを知りました。機関評価のみを行い、分野別評価はやめるとのこと。これは後退ではないと書いてあるが、総合大学ならば、その枠だけを評価しても、実質的な評価にはならないのではないか。むしろ、分野別評価体制を強化、変更し、全国一律、分野ごとの評価にしたらどうだろうか。全国の理学系、工学系、医学系、その他、ごとにまとめて評価する。理学部だったら物理や化学といった科目ごとに実施する。その際、パブリックコメントも頂き、社会が理学部に、また各分野に何を求めているのか、を同時に意見聴取する。反論が必要ならきちんと議論する。これこそ外部評価で、実質的な教育を担える体勢つくりに貢献できるのではないか。大学の序列化に繋がるとのご意見もあると思うが、それは論文至高主義に基づく評価軸の一つに過ぎない。様々な評価軸を持ち込むところに価値が出るように思う。今の評価は一方的で、結果に対して議論の余地がほとんどない。これでは評価はふりかかった災いでしかない。(2009年10月15日)

羽田のハブ化発言−怒り笑い

前原さんの羽田ハブ化発言で、森田さんは怒ったり笑ったり大変ですな。ハブ空港を持つということは国家としては大切なことだと思う。ハブ空港があれば、ヒトもモノも集まるし、経済効果も期待できるでしょう。でも、それは従来型の発展、成長モデルが前提。死ぬほど働いて、競争に勝って、物質的に豊かな暮らしを求める姿勢。そうではない発展、成長モデルは考えられないだろうか。必ず誰かが負けるので、敗者にならないためにがんばる社会と、みんながそこそこに豊かで幸せな社会、どちらが良いか、あるいは持続的だろうか。それとも皆が豊かで幸せな社会は構築可能なのだろうか。敗者が見えないだけの社会ではなく。(2009年10月13日)

楽農報告

先日の台風では作物がだいぶ傷んでしまった。ナスは突然萎びてしまい、葉っぱも元気がない。これで秋取りは終わりになるかもしれない。カブや大根もだいぶ葉を痛めつけられて、生き残るか心配。まだ間に合いますので急遽カブの種をポット播きして、苗の交代要員確保。ソラマメとエンドウの種もポット巻き。予定地に石灰や堆肥を入れて、土の準備。小豆は収穫が始まった。お汁粉一杯が目標だが、これは達成できそう。緑肥用の菜の花をあちこちに蒔く。来年の春が楽しみになる。畑を美しく保つのはなかなか大変。でも、作業後の満足感は大きい。最近、考えているのは堆肥つくり。これまで雑草や残渣は穴を掘って埋めていたが、赤土がでると土が悪くなると考え、堆肥つくりを試みる予定。炭素の固定に貢献できるか。(2009年10月12日)

あじさいの唄−権力と教育−

ビックコミックオリジナルに連載の“あじさいの唄”は大好きなマンガの一つです。最新号の話は、教育関係のお偉いさんが母親のいない栗太郎の心を傷つけますが、お偉いさんはそれに気付きもせず、栗太郎の先生まで責めるのですが、そんなこととは関係なく栗太郎はすくすくと育っている、といった内容です(詳しくは本誌を)。こんなお偉いさんは私も何人も知っているのですが、マンガにまで登場するということは、現実に現場のわからない教育分野の権力者が多い、それとも権力に対するステレオタイプ、どちらだろうか。マンガが世を映す鏡だとすると、現場の事情や人の心がわからない教育分野の権力者が増えているということなのでしょうか。(2009年10月11日)

欧米型リーダーシップへの期待

オバマさんがノーベル平和賞を受賞するそうです。まずは、おめでとう、といいます。ただし、オバマさんはこれからの人、十分な実績のないうちに期待に対して賞が授与されるということで良いのだろうか、という思いも確かにある。やはり背景には一神教を背景とするヨーロッパ思想があるのかなと感じます。神の創る最も優れた文明へ、蒙昧な民を圧倒的なリーダーシップで導く、欧米型リーダーへの期待です。でも、平和は強いリーダーシップが生み出すものだろうか。世界の各地にあるはずの草の根の活動が作り出す、ささやかな幸せの総体として世界平和があるのではないだろうか。些細な活動を探し出して賞賛するような仕組みはないのだろうか。ノーベル賞は政治、外交であり、ヨーロッパ思想によるものなのだなと改めて思う。とはいえ、人種の壁を乗り越えてアメリカ大統領になり、様々な施策を進める姿には私には気付かない強い思いを抱く方々もいるに違いない。(2009年10月10日)

相手との関係性を意識するということ

東京ビックサイトで開催されている印刷総合機材展には4時間以上かかって到着し、CEReSの展示ブースのお立番に入る。ところが我々の展示内容は少し的外れ。お客さんも来ないが、それは当たり前。改めてポスターを眺めると、やはり研究志向が強すぎて、これではおもしろくはないなと自分でも思う。研究者という人種は自分のやっていることが誰でも重要だと考えるはずだ、と思う習性がある。相手が印刷業界であることを意識した内容づくりをやるべきだった。自分に関心がないなと思う集団の中でも、相手の関心を考えながらアピールする態度が“関係性を持って生きる”ために重要だと思う。(2009年10月8日)

フロー依存型システムの破綻

台風の最中、東京ビックサイトに向かった。総武線、京葉線は止まっているので、京成線で五反田まで行き、大崎からりんかい線に乗ることにした。たまたま船橋で座れたので、混雑の中、申し訳なく思いながら押上に着いたところで直通の羽田行きは運休。押上で乗り換えることになったが、超満員電車に乗る気になれず何本かやり過ごす。車両が各駅におり、スムーズに運行できない模様。そのうち、しばらく電車はこないとのアナウンス。普段は順調なフローで、大量の人の輸送ができるが、フロー依存のシステムは、いったん乱れるとすぐに機能しなくなる。ストック、ここでは車両や路線数、を大きくすればよいが、今度は効率的ではなくなる。都市的生き方ではフロー依存にならざるを得ず、乱れが生じるととたんに大混乱を引き起こす。フロー依存型システムの代表は宇宙船であるが、そこでシステムが乱れたら死である。都市社会はフロー依存で成り立っており、それはどうも幸せのシステムではないように思う。その後、半蔵門線から渋谷を経由して、りんかい線の国際展示場駅に至る。(2009年10月8日)

真理の探究から協働の時代へ−科学のあり方−

筑波大学で開催された統合的流域管理に関する国際シンポジウムに主席してきました。人の暮らしの場である流域における問題を解決するためには、様々なセクター、専門家の方々が協働する必要があることが強調されましたが、サイエンスの現場もいよいよこの段階に来たかと思いを深くしました。もちろん、萌芽は昔からあり、90年代のモード論(ギボンズ)もその一つ。また、日本の社会学が公害問題を経験して、環境社会学に発展していく段階で到達した考え方も同じだと思います。IGBP/SSCで、“科学は実用段階に入った、芸術にはカネは出せん”、なんて議長声明が出たのも90年代半ばでした。一方で、科学の細分化も進んでおり、“真理の探究”という行為をことのほか神聖視する分野もある。さて、科学は何に貢献すべきでしょうか。シンポジウムでもう一つ協調されたことは、教育の重要性です。問題の解決の共有(問題を共有ではない)を目指すと、議論すること自体が重要な意味を持ち、教育は最も大切な行為となると考えています。知ることが価値や意識を生みますから。最近、教育に使う時間も増えていますが、世界と同じ方向を向いているかなと思うと安心します。世界なんて大げさな、と思われるかもしれませんが、UNESCO共催のシンポジウムですから少しは影響力もあるかと思います。UNESCO/IHPの会議にも最近ご無沙汰で海外のメンバーの顔がわからなくなってきました。復活の時期かもしれない。(2009年10月6日)

中川昭一さんを悼む

人は必ず死ぬものですが、突然の訃報には驚きました。政界における活躍の背後には我々の知らない様々な出来事があったのだと思います。まったく余計なことですが、彼は幸せだっただろうか。高い志を持つことに意義があり、それが報われなかったことは不幸とは関係ないという考えもあると思います。しかし、体調を崩してからはどう感じていただろうか。議論だけでなく、誹謗中傷も確実にあった。こんな体験をした人には再起してほしかった。人は負けてはいけないのだろうか(負けるという表現にはまだまだ議論の余地がありますが)。負けてもその先に幸せがあるのならば、長期的には世界を変える力になりえるのではないか。全体の幸せの下に個々の幸せがあるのではなく、個々の幸せが積み重なって全体の幸せになる。グローバルとローカル、都市と地方、といった問題も基層は同じであるように思う。最近、この思いを強くしていますが、この考え方を実現するには大きなパラダイム転換が必要。市場経済のもたらす富(それは一部を富ませるに過ぎないことがわかったわけですが)の誘惑に負けない強い力を持つにはどうしたらよいか。(2009年10月5日)

GLPシンポジウム

GLPとはGlobal Land Projectの略で、世界陸域研究計画と訳せましょうか。ICSU傘下の国際プロジェクトで、“人”にとって極めて重要な課題を扱う計画ですが、イマイチ知名度が低いのは、課題の本質が、いわゆるモード2サイエンスだからでしょうか。世界を普遍性で理解しようとしてもうまくいかない分野、それが陸域です。地域における人と自然の関係に関する研究を積み上げていかなければならない。だから地道で目立たない。フレームワークを協調しようとしても抽象的になってしまい、どうも物理頭にはうまく伝わらない。それでも、今このときを生きる“人”にとって最も重要な課題といえる。今日のシンポジウムは終わってみたら、なかなか良かったといっていいかなと思いました。学術会議行動で開催された「陸域生態系変動と当地利用変化の統合研究をめざして」と題されたシンポジウムに参加し、李さんと孫さんには会場係をお願いしました。(2009年10月3日)

日本の農政一考

農政は国の重要課題のひとつですが、前政権の政策について、”机上の計画で立案された”との批判が「農地集積加速化事業」に関する朝日の記事にありました。机上の計画の何が問題か、というと時間と空間が無視されることだと思う。その結果、穀物輸出国と我が国の違いが顧みられなくなる。産業としての農業、すなわち儲ける農業しか考えられなくなる。農業はボードゲームではないので現場が苦しむことになる。YouTubeではオーストラリアやアメリカの巨大な圃場における播種や収穫の様子を見ることができるが、これを見ると日本はかないっこないと思う。何とか国産品のブランドを確立させることはできないだろうか。日本では米の自給率は90%を越えている。野菜も70%程度。野菜はその気になれば国内で自給することはできる。好き嫌いさえしなければ日本では食糧問題はそう深刻に捉えなくてもよいだろう。とはいえ、農家をどのように支えたらよいか。所得保障も有効な方法だと思う。マスコミは欧米の事情をもっと伝えてほしい。そして、良好な農村景観の価値をひろく伝えること、これこそが研究者の役割だと思う。(2009年10月1日)

大人数講義のあり方

249名の受講者があった前期の講義「災害と空間情報」の学生評価の結果が届きました。今回は声が小さい、私語が多いという訴えが多かった。私はマイクに口をつけるのはどうも嫌いです。声自体は思いっきり出しており、いつも講義が終わるとのどがガラガラになっていますが、それでも大教室の後ろには届かないらしい。一方、私語が極めて多かった。これも後ろまで声が届かない原因です。時々、講義をとめて注意しているのですが、これがまったく効かない。注意されていることさえ気がつかない。こういう状況をどうしたら良いのだろうか。私語に関する教育社会学上の研究成果、なんてものも話しながら注意を促すのだが、届かない。これは学生のお客様意識が原因なのではないだろうか。講義のテレビ化といってもよい。教員は学生に質の高い講義を提供する義務がある。学生はそれを受ける権利があるのだが、講義を妨害する権利は当然ない。関係性を理解しないと人の迷惑になっていることに気がつかない。どうも権利というものの意味を取り違えているような気がする。私語をする学生は周囲との関係性を意識しない人間。災害も周囲との関係性を意識しないと防いだり、対応することはできない。人は関係性の中で生きていくもの。どうかこれを意識してください。この講義は今年で終えるつもり。来年は少人数のセミナー形式で開講する予定。(2009年9月30日)

天下り禁止一考

このところよく耳にしますが、その報道のあり方に疑問を感じます。まず、官僚=公務員ではない。官僚は公務員のほんの一部であり、大多数の真摯に職務に励んでいる公務員に対して失礼。抜け道とされる公募案でも、要求された業務を遂行する能力が公に認められるのであれば公益にかなっている。天下った方にも有能な方は実際におられます。マスコミはもっと運用面に対して突っ込みを入れて欲しい。天下りがなぜ問題なのか。それはこれまでの官僚が職業ではなく、地位であったから。だから出世競争に敗れた官僚は去らなければならなかった。役職を地位から本来の能力に基づく職務形態に戻すことができれば、天下りは少なくなるだろうし、残ったとしてもプラスの効果を生むようになる。マスコミの報道に流されないようなリテラシーを国民は持つべき(ほとんどの方はわかっていると思いますが)。災害も環境も同じで、リテラシー、基礎的知識を持つことが安全・安心社会の構築に繋がる。ここに勉強する意義、教育の価値がある。(2009年9月29日)

楽農報告

今まで毎日収穫していましたが、少し間を置くようにしました。その方が実が大きくなります。当たり前ですが、収穫が楽しくてつい小さな実まで採ってしまっていました。日曜日ごとに何かを植えないと気がすまなくなっており、今日は大根を追加蒔きしました。黒豆も小豆も実がたくさん付き始め、この冬が楽しみになってきます。聖護院大根が順調で、間引いた葉を浅漬けにするととても美味しい。畑の一部をハーブ園に改造中。畑をやっていると虫や動物との関係性を意識せざるを得ない。この感覚は人生においてとても重要なことではないだろうか。鳩山内閣に提案ですが、炭素放出量を減らすために都市の機能を中心地にコンパクトにまとめ、エネルギー利用効率を上げるとともに、良好な郊外を形成し、住宅には菜園設置を義務付ける、といった政策で温暖化対策と良質な生活の実現ができないだろうか。生態系サービス活用内閣なんてよろしいと思うのですが。(2009年9月27日)

不言実行

朝日の天声人語で、気候変動サミットに関連して、“大排出国の米国、中国は牽制し合い、大した約束をしていない”、とありました。実態はどうだろうか。環境研究150号、明日香壽川氏の「中国の温暖化対策国際枠組み『参加』問題を考える」によると、中国では、実現可能な温暖化対策についてはかなり進んでいるようだ。国内の現状を鑑みると国際社会に対して色よい返事はできない。しかし、温暖化対策は将来のために待ったなしで取り組まなければならない。中国は良い意味でしたたか。自国の経済を守りながら、やるべきことはやっている。我々は実態を知らずに言説に踊らされてはならない。天声人語では“イニシアティブ”という用語から話題に入っていっているが、国際社会で褒められること、なんて勘違いをしてはいけない。世界だけでなく国民に対してもイニシアティブを発揮し、国益を最大化する点で折り合いをはかるのが政治。政治としての温暖化問題は実に難しい課題ですが、中国はうまくやっているように思う。鳩山さんのお手並み拝見。(2009年9月24日)

八ツ場ダム その四

八ツ場ダムについてここまで書いたら治水についても書かなければなりません。確かにダムによる洪水抑制効果は限定的です。未曾有の豪雨が吾妻川上流域で発生しない限り、さして機能しないでしょう。だからやめて良いというのは拙速で、同時に流域全体の総合治水対策について議論を深めなければなりません。総合治水対策が建設大臣に対して答申されたのが1977年、いまだ十分な施策がなされていません。それは住民や地域との対立を引き起こす可能性があるというのが理由の一つだと思います。ある地域の強化が他の地域の脆弱化に繋がることは洪水対策では良くあります。土地利用規制は個人の痛みを伴います。浸水を許す治水のあり方も、洪水に対する脆弱性が高い地域に住む当事者にとっては我慢ならぬことでしょう。だからといって議論は避けることはもはやできません。総合治水対策の理念を国民と共有するためのアクションを直ちに始めなければなりません。(2009年9月23日)

八ツ場ダム その三

八ツ場ダム建設中止の理由に水需要の減少があげられている。確かに90年代以降需要は減少しているが、それは節水対策と、水道管の漏水対策の効果が大きいという。ここで気になるのは水道システム。水道管の老朽化が進んで、更新が困難な自治体も出てきているという現況もあり、高い有収率を維持することは将来にわたって可能だろうか。有収率が下がれば、水需要は増える。そこで気になるのは身近な水源である地下水。暮らしに必要な水をなるべく汚さずに将来の世代のために保全していくべき。ただし、これが汚れつつある。千葉県は広域水道の依存率が確か30%台であったように思うが、ますますもって身近な水を大切にしなければならないと思う。(2009年9月23日)

八ツ場ダム その二

国交大臣が現場を訪問したこともあり、報道が多くなっていますが、どうも重要な観点が抜けているように思う。9月5日に書いたように、“地域の住民の総不幸量を最小化すること”に関する議論、検討は当然最優先で進めなければなりませんが、ダムを取り巻く歴史的な観点の変化にもっと注目すべき。それは、都市と地方の関係に変化が現れてきているということ。かつては東京の利水・治水のために、地方が犠牲になることが是認された時代があった。この考え方が通用しなくなっていると考えたほうが良い。信濃川からの不正取水で発電が止まったJR東日本の問題も同じ観点で見ることができる。都市と地方の自立と共生(ともいき)に関する議論を深める時がきたのだと思います。(2009年9月23日)

画一化が分断を生む

自宅の裏に、通称マラソン道路(ハミングロード)と呼ばれている遊歩道があり、愛犬の散歩で毎日利用しています。桜が植栽されており、春はピンクに染まります。一部の区間では近隣の住民が花や樹を植えて、非常に良い雰囲気を醸し出していました。ところが、再整備が始まり、住民が植えた草木が全て撤去されてしまい、今はとても寂しい状況になっています。市は画一的なグリーンベルトを作るということで、管理には便利かもしれません。しかし、画一的にすることで、人とマラソン道路が分断されてしまうことを危惧しています。再整備が行われたことで、住民は自分たちで管理するモチベーションを奪われてしまう。住民とマラソン道路の交通(哲学の用語としての交通)が、市と住民とマラソン道路の三角関係となり、住民とマラソン道路の間の交通が弱まってしまう。現在、町内会では組ごとに順番で清掃を行っています。トップダウンで再整備が行われることで、清掃も市のほうでやってね、という機運が高まるかも知れない。これは最悪のシナリオですが、管理は地元に任せて、若干の資金を提供するほうが、市としてもはるかに安上がりで税金の節約になるし、住民も満足するのではないだろうか。民主党だったらどう考えるか。(2009年9月17日)

マリー・トラバース氏を悼む

このニュースは絶対聞きたくなかった。PPM(ピーター・ポール&マリー)は青春時代の憧れだった。こんなに悲しい気持ちは初めて。10年ちょっと前かな、来日したときに聴きに行きたいと思ったのだが、チケットの買い方がわからなくて、そのうちうやむやになっちゃいました。あの時、行っておけばよかった。当時はまだWEBがなく、NiftyServeでPPMの、なんつうんだっけ、セッションでチャットをしていた時代でした。それにしても学生に聞いても誰もPPMを知らない。世代が異なるのですから当然なのですが。こうやって、私も歳をとっていくのだな。マリーさんのご冥福をお祈りします。(2009年9月16日)

八ツ場ダム

この問題は関連する分野の研究者として考え方を示さなければならないなと思っていました。受益者・受苦者(が時間的、空間的に離れている)問題は社会学でも解決を見ていない困難な問題なのですが、観点は歴史、現場かなと思います。計画ができた当時は、恐らく日本の発展にとってよかれと思って始めたわけで、計画自体が無駄であったという見方は適切ではないと思う。その後の時代の変遷の中でダムの役割が変わってきたわけです。だから中止すべきというのは短絡で、すでに周辺整備は相当進んでいる。ここに至るまでの地域の住民の苦しみはいかほどのものだっただろうか。川辺川ダムに関して熊本の蒲島知事が県民の「総幸福量」による決断という考え方を示していました。ダム建設を進めた場合、やめた場合の国民の総幸福量と総不幸量、そして地域の住民の総幸福量と総不幸量はどれだけの量になるだろうか。納税者ではあるが、遠隔地に住む受益者である我々の総幸福量と、地域で苦しんでいる住民の総不幸量は比較にならないほど後者が大きいのではないか。これは絶対的な基準はないので主観的にならざるを得ませんが、議論を深めて国民のコンセンサスを得れば、それが総幸福量、総不幸量の評価になる。地域の住民の総不幸量を最小化すること。この基準でダム建設の是非、および今後の施策を議論してみてはどうだろうか。ただし、議論自体が住民の負担になってしまわないかが心配ですが。ところで、現在建設中の湯西川ダムも千葉県は暫定水利権を持っている。湯西川では問題は起きていないのだろうか。勉強不足です。(2009年9月15日)

楽農報告

楽農を目指してやってきましたが、やはりそう簡単なことではないようです。農業はうまく行っている間はそこそこにうまくいくのですが、ひとたび何かが発生したときの対応がプロとアマでは違う。ズッキーニを失敗した後に植えたキュウリがどうも調子が良くないのは土のせいか。殺菌剤を撒いてみましたが、なかなか回復しない。トマトも病気で勢いがない。アブラムシ、カメムシの発生、害獣の侵入(野良猫ですが)、いろいろあります。土つくりも大切なことが実感として理解。この週末はニンニク、白菜、キャベツを植えました。キャベツはリベンジで、今回は青虫対策をしっかりやろうと思う。少し遅いが、人参も蒔いてみた。聖護院大根の畑の日当たりが悪いので、新たに種まき。オクラ、シシトウは最終段階のようです。これまで残渣、雑草は穴を掘って埋めていたが、赤土が出るので土が悪くなる。畑の隅を堆肥場にして、堆肥作りをやってみようと思う。(2009年9月13日)

環境とは−北野大氏の場合

環境科学会で北野大氏の講演を聴く機会がありました。その冒頭、環境の定義に関する話がありましたが、従来の定義は変わりつつあり、現在の定義は下記のような物だという話がありました。

人間と自然の総体(人間の外側に対置されるものではない)

いくつか列挙された従来の定義の中に、広辞苑に書かれているものがありました。

人間または生物をとりまき、それと相互作用を及ぼしあうものとして見た外界(第六版から引用)

北野さんは人間も含めて環境だといいたいのだと思いますが、相互作用という中に人間中心を脱却した考え方はあったのではないかな、とも思います。いずれにせよ、重要なことは人間が環境を構成する要素の一つであるということです。これは十分社会や学界に置けるコンセンサスを得ていると考えてよいのではないでしょうか。それでも、人間のいない環境もあると主張する方々(研究者ですが)は、“環境”を取り巻く歴史に対する認識がないとともに、ディシプリンの世界の蛸壺にはまり込んでしまっているのではないかな。(2009年9月11日)

地位と職業

堺屋太一さんの著作の広告の中に、"地位ではなく職業としての公務員”というフレーズが目に留まりました。当然、公務員は職業の一つに過ぎず、あらゆる職業に貴賎はないわけです。しかし、これが時々忘れられることもある。もちろん、官僚が公務員の代表ではなく、ほとんどの官僚は真摯に職責を果たしている。職業を地位と勘違いするのは実は一般大衆と当事者側の双方にある。大学の教授なんてのは代表的な例。行政の委員会における発言は重みを持ち、権威を取り繕うために無理な発言をしたりすることはないでしょうか。一方、一般大衆は教授というと偉い、それから金持ちと思ってませんか。教授だって普通の人です。あらゆる職業は等しい価値を持つ。この認識が安心社会への要件の一つではないか。(2009年9月9日)

婚活はエコ活

民主党の鳩山さんが2020年の温室効果ガスの放出量を1990年比で25%削減することを明言したことで、産業界が猛反発しているそうな。先ごろ公開された2007年の日本のCO2排出量では、産業部門は1990年の基準年比で2.3%の減少になっています。確かに、ちゃんとやってるやんけ、ということができます(対前年度比では2.8%の増加ですが)。家庭部門は基準年比で41.2%の増加ですが、これでは家庭部門にしわ寄せがきそうです。でもエコは結構普及しているのでは、と思ったら増加は電力消費量の増加、世帯数の増加によるという。恐らく単身世帯が増えているのではないか。ということは、婚活により世帯数を減らせば、電力やエネルギー消費量が減り、地球温暖化問題にも貢献できるというわけです。官製婚活も国家プロジェクトとして意味があるかも(もちろん、冗談です)。一番増えているのは業務その他部門で、業務床面積の増加、それに伴う空調・照明設備の増加、オフィスOA化の進展による電力消費量の増加、だという。これは都市的働き方を見直す必要性を示唆しているのではないか。民主党はこの点を議論して欲しい。CO2排出量は地球環境研究センターニュース、Vol.20,No.3から。(2009年9月8日)

博士課程の定員削減は必要か

朝日朝刊から。いろいろな意見がありますが、まず博士の学位の意味を考えたい。博士号は研究者への切符ではあるが、それは博士の価値の一部に過ぎない。博士は技術士や気象予報士などと同じ、専門家であることの証と考えればよい。専門家が活躍できる場は、教育、行政、企業、たくさんある。けっして大学や研究所だけではない。専門的知識を活かし、仕事の中で経験を深め、自分が役に立っているという実感、すなわち自己実現が目標であり、生業として研究にこだわる必要はない(こだわるのであれば研究職を巡る競争に参加することを意識してください)。専門家が尊敬されて、社会で活躍できる体制、意識作りこそが大切ですが、これは我々教員側の仕事として何とかしたい。結論として、専門家が力を発揮できる社会でありたい。だから、博士の定員を無理に減らす必要はないと思います。ただし、博士が幸せになる社会と意識づくりを同時に進めなければいけないと考えています。(2009年9月7日)

生物多様性、聞いたことないが6割以上

朝日天声人語から。内閣府の調査によると、生物多様性という言葉を「聞いたこともない」という人が6割以上にのぼるそうです。新聞やニュースに関心がないということでしょうか。確かに生物多様性の重要性についてはよくわからん、という人がいてもおかしくはないのですが。生物多様性を重要だと考える背景には、人や動植物を含めた地球社会が無事であることはどういうことか、という考え方があると思う。多様であることは強さであるというのも重要な一つの考え方ですが、さらに多様な生態系の存在に気付くということは、環境、すなわち我々の周りを取り巻くものの総体、の価値に気付くということ。そこから、環境の保全のあり方や、どのような環境が望ましいかという考え方が生まれてくる。それが、地球の未来に繋がる。もう少し勉強して欲しいと思う反面、ここをアピールするのが研究者の役目でもあると思う。(2009年9月1日)

モード1からモード2へ

民主党は圧勝でしたが、これからが大変。様々な財源をどうするか。研究者としての立場からは、研究予算の使い方は改善の余地があると思う。大プロジェクト主義が無駄を生んでいないか。大プロジェクト主義は背景にモード1的な思想があるように思う。まず、科学のあり方について十分理解していただきたい。科学には“役に立つ”という側面が確実にある。これは一般市民の期待でもあるが、その意味するところは実に広い。政策、外交に役に立つ、から、暮らしの安全・安心に役に立つ、まで。どれも科学の目的であるし、予算の大きさで個別科学の価値は評価できない。一方、問題解決を共有するなかで科学の役割の相対化というジレンマがある。人の暮らし、安心に直結するが、論文は書けないかもしれない。それでも、価値が損なわれるわけではない。いい機会なのでお上には科学と社会のあり方に関する議論を十分深めて欲しい。科学するという行為に関する理解が深まれば、その評価軸が獲得した予算ではなく、成果に移り、適正な予算措置ができるようになるのではないだろうか。予算の枠に研究計画をあわせるのではなく、研究の目的を評価し、予算は必要額が配分されるような仕組みはできないか。無駄はなくなる。モード1からモード2へ。今の時代、問題だけを共有して強いところが勝つという状況から、問題の解決の共有を目指して、科学も一セクターとして協働するという態度が求められているように思う。これを新しい時代の流れにしたいものです。(2009年8月31日)

楽農報告

週末は秋野菜の開始を急ぎました。キュウリの後に、大根を播種。秋蒔きのジャガイモを見つけて、植え付け。ただし、春にメイクイーンを採った場所ですので、連作障害が出るかどうか。しっかり天地返しをして、堆肥を入れて種芋を放り込む。カリフラワー、芽キャベツの苗がまったく生長しないことに困っていたのですが、とにかく植え付け。ちょっと前の現代農業に、こういう苗は強いという記事を見つけて、少し安心。聖護院大根の種を蒔き、玉ねぎのかわいい玉を植えつける。地這のキュウリは収穫が始まる。オクラは順調、シシトウは最盛期を過ぎたようだ。少し茂りすぎかもしれない。キャベツが鳥に突付かれたようなので、一つ収穫。スーパーでラディッシュが小玉5つで198円という価格を見てびっくり。さっそく種を蒔く。なす、ピーマンは順調。葉物はきれいに作るのが難しい。青梗菜が孔だらけでなかなかかみさんに使ってもらえない。珍菜、ブロッコリ(茎を食べるやつ)は収穫のタイミングをはずして、もったいないことをしたが、味は最高。人参に大きく美しい芋虫がたくさん付いている。命を頂くのが気が引ける。長野でもらったヒマワリが大きく成長して、なかなかいい感じです。農のある暮らしは人の心を豊かにすると思う。民主党にはがんばって欲しい。(2009年8月30日)

悪循環は避けよう

最近、成人年齢に関する記述が増えていますが、今日も朝日に記事がありました。成人18歳派は少数派ではないのですが、反対派のほうがまだ多いようです。反対の理由としては二十歳はまだ未熟という意見が大勢だと思いますが、これは理由というよりも、乗り越えなければればならない課題なのではないか。二十歳で未熟なのはずっと子どもルールで教育・指導してきた結果であり、断ち切らなければならない悪循環です。私の、もう20年を越えた教員経験によると、未熟な若者は、小さな壁を乗り越えてこなかったように感じる。小さな壁を避けているうちに、乗り越えなければならない壁が高くなりすぎる。ここは成人年齢を18歳にして、大学では大人ルールで教育・指導を行うようにしたい。大学でつまずいてもやり直しはできる。社会でつまずいたら、挽回は大変。大学人の専門性、責任も重要になるが、だから子どもルールで、という考えがあるとしたら、大学人として情けないし、日本の将来は危うい。(2009年8月29日)

酒と責任

学生が泥酔して救急車で搬送されたという報告がありました。学科長の謝罪、研究科長の遺憾の意の表明がありましたが、なんとも割り切れない思いです。大人である大学生の生活について教員組織はどこまで介入し、責任を持つべきか。大人ルールと子どもルールの間で揺れ動く大学を何度も批判していますが、大人ルールで対処すべきではないか。成人が20歳ということも態度が曖昧になる理由の一つですが、子どもルールの適用は学生、教職員双方にとって幸せをもたらさない。将来に禍根を残すように思います。とはいえ、学内という公の場で起きた出来事ですので、大学が何らかの規範を示さなければならない。研究所、企業だったらどう判断されるのか、諸外国ではどのように対処しているか。自分を含めて大学人はもっと勉強せねばならんなと思う。あるいは、専門家を招聘し、議論のうえ規範を明確にすることも必要か(酒だけでなく、学生に対する指導全般について)。ところで、これが学外の居酒屋だったら扱いは異なるのだろうか。(2009年8月27日)

権力の勘違いと専門性の不在

学生と教員の関係に関するある問題を耳にしてしまいました。 これは特殊なことではなく、どこの大学でも抱える、恐らく時代を背景とした普通の問題なのですが、大学の問題解決能力について“研究者”の限界を改めて感じてしまう。学生相談室は学生に対して開かれているものですから、学生が相談に行くことを妨げるものではありません。相談室担当(大学の教員であり、研究者でもある)はまず学生の主張を受け止めて、同時に教員側の考え方も聞き、(職務に対して持つべき)専門性を活かして折り合いをはかる、というのが本来の機能だと思います。しかし、学生から相談を受けた担当者が大学上層部と直結してしまい、そこから当該の教員ではなく、その周辺に指示がいってしまう。なぜ、学生、教員双方に大人ルールで対処することができないのか。役職を得たことが権力を得たと思う勘違いがあるのではないか。我々もその勘違いを容認して、権力があると思い込んでしまう性がある。研究者にはその研究分野の専門性しかないことを認識すべき。研究以外の特定の重要な任務に対して、ある分野の研究業績があるというだけで専門性があると考えるのがおかしいことは誰でもわかるはず。大学の役職者は学生と教員の双方に責任がある。大学運営には専門性を活かした人材活用、活かせる人材の確保が必要だと思う。(2009年8月26日)

教員定期評価

今日の午後、表記の委員会が開催されました。私も評価される教員のひとりですが、今回の評価は大学の教員として最低限のレベルにあるかどうかが評価されるものです。だから、それほど神経質になる必要はないのですが、どうも評価というと、どれだけ優秀か、という視点に研究者は傾きがちです。でも、優秀であることの評価は評価者の主観によらざるを得ない。なぜなら、何が大切か、何を評価されるべきか、という観点は人それぞれだから。また、優秀であることを評価する者は評価される者より優秀でなければならないが、そんな人材はまずいない(マーフィーの法則にあったように思います)。特に大学人は優秀病にかかった方が多く、その世界観は狭いので、評価はどうしても主観的かつ偏ったものになり勝ち。優秀かどうかではなく、優秀であるということになったかどうか、という判断になる。今回の評価は最低基準をクリアしているかどうか、ですので判断は客観的になるはず。その前に、最低基準の設定が問題になりますが、そこは最低基準ですので大きな困難はありません。無事、評価は終わりましたが、こういう形式を整えることが今の時代の要求なのでしょうか。こんなことをやるよりも、すべての教員に対して、研究目標、教育目標、管理・運営に関わる姿勢、を文章化し、その際、数値目標は一切省き(すぐ論文競争を始める方がおりますので)、それを公表して社会からの評価を仰げばよいと思うのですが。(2009年8月26日)

新型インフルエンザへの文科省の対応

新型インフルエンザが流行している折、手洗い・うがいを励行するようにとのお達しがありました。しかし、文科省型の新しい建物には水道はトイレと給湯室にしかありません。居住スペースからは水やガスを排除するという方針なのですが、今の建物に移ってから確実に手洗い・うがいの回数は減りました。数十mくらい歩けよ、との声も聞こえそうですが、普段の生活では結構大変なことでもあります。とはいえ、致し方ないでしょう。手洗い・うがいは人が行動すればできることですが、水回り、ガス管に事故があれば大変なことになりますからね。コストがかかる部分は切り詰めるという時代、うっとうしくても人が努力すべきことは努力すべき時代なのでしょう。しかし、水回り、ガス管の点検は本来きちんとやらなければならないことなのですが、そのコストを削減し、人間側に負担を押し付けるという姿勢は、実は大変大きな意味を含んでいるのではないだろうか。都市文明の中で我々は生きていますが、そのハードウエアの維持・管理は限界に近づき、人の行動で解決できる部分は人が動く。これは文明のあり方における大きなパラダイムシフトだと思いますが、あまり意識されていないかもしれません。(2009年8月26日)

科学と人の価値観

たまった情報を整理しようと、地球環境研究センターニュースVol.20,No.4を読んでいましたが、「政治と科学のはざまで」というインタビュー記事の中に、「政策と科学の境界は「価値」?」という節がありました。その中で、「自然科学者にとっては、価値が入るところが一つのラインになると思います。」という記述を見つけました(江守さんの発言)。これが自然系の研究者の大勢を占める考え方だと思いますが、私は科学といえども価値から逃れることはできないと考えています。地球をモデルによって理解しようとする立場には「自然は単純」という世界観があり、現地調査を重視する立場には「自然は複雑」という世界観がある。この世界観のあり方は人の持つ価値観に繋がるのではないかと思うのです。世界観あるいは自然観の違いが、何が大切か、という価値観となってすでに現れているのではないか。8月6日に書いたように、地球温暖化に深く関わる研究者の地球温暖化⇒危機というベクトルは単純な地球観が背後にある。一方、地域の問題に深く関わる研究者は、危機⇒原因というベクトルを重視し、様々な関係性の探索の中から複雑な地球と人間社会を見てしまう。この二つの立場の違いは、未来重視の問題解決と、現在の生活の向上を未来につなげようとする姿勢、の違いとなって現れる。環境学が科学だとしたら、科学には価値観はすでに含まれており、議論を深める必要があると思います。仮説ですのでご意見ください。(2009年8月24日)

楽農報告

最近、畑に出る時間が取れなくて、難儀していますが、ようやくまとまった時間が取れました。まず、キュウリの棚を撤去。今年はキュウリには恵まれました。出張中にたくさん実ったオクラとシシトウを一気に収穫。ラディッシュもいい感じに育っています。普通菜と青梗菜も十分使えます。ただし、きれいに育てることは難しい。珍菜とブロッコリは収穫時期を逸してしまい、花が咲いてしまいました。出張前に収穫したメロンを食べましたが、甘さ控えめで美味しい。ミニトマトも最初の収穫ができましたが、虫に食われた実が多いのが残念。というより、虫と分け合ったと考えるのがよろしい。空いたスペースを耕して秋野菜に備える。小さな畑ですが、夏はけっこう食材を賄える。農を生活に組み込んだ安心社会の構築ができそうな気がするのだが。(2009年8月23日)

個人の世界の広がり

水文・水資源学会金沢大会が終わりました。何とか総会も乗り切り、総務委員長の任期も残り一年となりましたが、これからの一年はこの学問分野の活性化や、水文学を志す若者が幸せになるような施策を打って出なければならないと思っています。そんなことやらずに無難に任期を終えればよいのかもしれませんが、どうも時代の変わり目にあるような気がして、今きちんとやるべきことをやっておかねばならないように感じています。少し、大風呂敷を広げすぎ、具体策を練らなければならないのですが、決して皆さん同じ意見ではないこともわかっています。それは、各人が見ている世界が違うから。研究を重視する方、その中でも国際的活動を重視する方、国内向けの研究も重視する方、一方、現場を重視する方、現在起きている問題に真摯に取り組んでいる方、様々な世界で人は生きている。すべての方々を納得させる施策は難しいことも確か。包括的な視野を持ち、あれかこれか、ではなく、あれもこれも、そして協働によりたくさんの問題を解決していく水文学を構築していくことはできるだろうか。一番の問題は研究者個人の評価軸を変える必要がありそうだ、ということ。ここは体制に対する挑戦かもしれません。(2009年8月22日)

移動速度と仕事の質

今日はこれから金沢まで行きますが、越後湯沢で新幹線から在来線特急に乗り換え、東京−金沢間は約4時間。え、なんで飛行機じゃないのという声も聞こえましたが、飛行時間は短くとも総所要時間はそんなに変わりません。狭い飛行機の席に座るよりも、ゆったりと特急の席に座り、ほろ酔い気分で旅するほうがいいとは思いませんか。そんなに急いで旅をすることはありません。そのうち、航空燃料が高騰して、チケット代が高くなったら、またゆったりと旅する時代が来るでしょうか。どんなに移動が早くなっても、仕事ができるとは限らない。昔の偉人は、移動に何ヶ月かけてもきっちり仕事をこなしていた。今はこんなに頻繁に海外に出かけているのに、やった仕事の小さいこと。やった仕事は増えても、仕事の質は向上したとは限らないのではないかな。(2009年8月18日)

お盆休みにて

家庭セクターの活動で少し休んでいました。いろいろなことがありましたが、まず長野に行きました。標高約700mなのですが、涼しい。平地より4℃ほど低くなるはずですが、この4℃が効いている。平地の千葉でも今年は比較的涼しく、快適なのですが、作柄が心配。長野に行く途中の甘楽サービスエリアで犬のうんこを踏んでしまいました。運が付いた、などとおめでたいことを言ってしまいましたが、あれはもっと怒るべきでした。サービスエリアで犬を良く見かけるのですが、うんこを人の動線上に放置するとは。ほんとに信じられませんな。帰ったら迷い犬を発見。情けなくもかわいい柴犬なのですが、かみさんががんばって飼い主を探り当てる。夜も一緒に犬と寝ているという親爺さんが夜を徹して探していたそうな。犬はかわいいですからな。そういえば、長野からの帰りは燃費計が18km/lを超えました。家族四人でエアコンをつけて走っていたにも関わらず。ハイブリッドではないただの1500ccですが、エコカーはすごい。一人で走ったら、給油なしで本州の端まで到達しそうです。高速料金は若干安くなっていましたが、関越道では東松山を越えないと1000円にはならないとは知りませんでした。それでもいつもの半額なのでよいのですが。(2009年8月17日)

農業の多様性

朝日朝刊の広告特集で、東京農大の門間さんが、農業の多様化について言及していました。「世界と競争できる農家、地域を支える農家、農業を楽しむ農家、...」、いろいろな農業があっていいし、実際ある。これが現場あるいは地域における感覚なのですが、日本の政策では儲ける農業しか頭にないように感じる。それは産業としての農業。そこしか見ていない。多様な農業には様々な機能がある。我々研究者はそこを明らかにすべき。その結果、農業の価値が高まると新しい社会が見えてくるのではないか。同じ紙面で石破農水相が「学者のようなことばかりで現場をわかっていない」と批判されていました。これにはいろいろな意味があるのですが、ここでは現場である地域の事情をもっと知った上で国民の安心のための農業を考えよう、ということにしたいと思います。学者は業績ばかり気にしていないで、自分で鍬を持ってみよう。とはいえ、農はなかなか難しい。今日は出勤前にキャベツ、ブロッコリの青虫駆除をしましたが、もう待ったなしです。まあ、虫に食われた野菜も悪くはないですが。虫とともに生きることも大切。ここから新しい社会のあり方が見えてくるかも知れない。(2009年8月12日)

災害の疑似体験

一年生対象の普遍コア科目「災害と空間情報」の246人分のレポートの採点がようやく終わりました。まず全体を読むのに丸三日、基準を決めて採点に二日を要しました。実に大変だったけれど、私も勉強になりました。というのは、課題の三番目、「B災害発生前(事前)、災害発生中、災害発生後(事後)に分けて、立場(被災地の住民、行政担当、消防・警察、等)を明らかにした上で、疑似体験した経過をシナリオの様式で纏めてください。」、これを通じて講義の手ごたえを得ることができたことと、学生の様々な体験、考え方を知ることができました。最近のいくつかの大災害では、自身が被災、体験した学生も数名おり、シナリオを読むうちに思わず涙する力作もありました。面白いのは(といっては失礼ですが)、結婚後のストーリーを書いた学生が多く、夫が死んでしまったり、自身が亡くなってしまったり、大変なことが起きてしまいました。シナリオで疑似体験というのは、書き進めていくうちに臨場感がでてきて、災害の経験を自身のものにする方法として良かったのではないかな。ただし、採点は本当に大変でした。(2009年8月11日)

大学の教員の仕事

詳しくは述べられませんが、若手の意識を察することができる出来事がありました。そこで一言。大学では自分の欲する研究を行うことはできるけれど、それだけが仕事ではありません。大学の管理、運営に関する仕事、そしてこれが一番重要なのですが、教育に関する仕事があります。その他に学会の業務もあり、これらの仕事をこなしていると研究に没頭できる時間はそんなには残りません。もし、自分の研究を重視したいのならば、技術者制度が確立している海外の研究機関で働くのが良い。そんな日本の大学はおかしいんじゃないの、という見方もできると思いますが、それは管理、運営の部分で、教育は本務です。研究者は科学の成果をわかりやすく社会に発信していかなければならない。講義は情報発信スキルの良い訓練になります。また、環境問題を課題にすると、教育・啓蒙活動がもっとも解決にアプローチするのに近い、なんてこともある。論文は書けませんけれどね。(2009年8月10日)

人の生き様

今日は星の王子さまミュージアムに行ってきました。ますますサン・テグジュペリが好きになりましたが、私の感じた彼の人生と、彼が経験した彼の人生には相当大きな乖離があるはず。苦労の連続だったし、最後は撃墜されて、恐怖の中で地中海に吸い込まれていったと思う。自分の死後、こんなに世界で愛されていることを彼はどう思っているのだろうか。もちろん、満足しているに違いない。人は自分の生き様によって人を感動させたいと、心の片隅で必ず思っている。では、研究者の生き様って何だろう。自分の好きなことをやることか。真理が探求できればいいのか。それは違うと思う。研究者は“感動”という言葉が大好きですし、それは“役に立つ”ということを心のどこかで意識しているからに違いない。それは時に見栄を刺激して、真理の探究の尊さを過剰なまでに強調したりする。研究者、特に理学系の研究者は科学の“役に立つ”という側面について真正面から向き合ったほうが良いと思う。何のためのサイエンスか、誰のためのサイエンスか。時代が求めているか。(2009年8月9日)

世界の広がり

今日はCEReSの将来にも関わる重要な委員会があったのですが、どうも議論がかみ合わない。それは各委員の持つ世界の範囲が異なるから。小さな世界にいる方は、その世界の事情しかわからないが、シャープな主張ができる。その世界を超えた意見はノイズでしかない。大きな世界にいる方は、様々な小さな世界を俯瞰して適切な戦略を選ぶことができる。しかし、ラウド・マイノリティーはサイレント・マジョリティーに打ち勝つのが世の常。これだけですと何のことを言っているのだか、良くわからないでしょうが、リモートセンシングは何のためにあるのか、誰のための環境リモートセンシングか。コンセンサスを作るのは難しい。自分にとって心せねばならないことは主張が異なるからといって、単なるクレーマーになってはいけないということ。様々な機会を生かして、自分の主張を続けて行きたいと思います。(2009年8月7日)

フローか、ストックか

今朝、NHKでローン破綻がこれまで考えられなかった所得層まで拡大しているという番組があった。景気回復もまだまだ先の話のようだ。それにしても、なぜ企業の業績が乱高下するのか。会社経営も人の暮らしもある日突然立ち行かなくなる。これはフローを重視する社会構造が原因ではないか。キャッシュフローが途絶えると突然、破綻。なぜ、大きなストックすなわち内部留保、貯金を前提とした安定なフローによる経営ができないのか。ストック重視の経営ですが、これがなされないのは恐らく市場経済における経営のセオリーに反するとされているからではないか。資金を眠らせておくわけにはいかないということ。成長を前提とした市場ではこれでよかったかもしれない。緊張のシステム(栗原康による)がうまく機能していたといえるかも知れない。しかし、緊張のシステムは安定のシステムではない。安心を担保することは困難。では、新エネルギーによる共栄のシステムはどうか。これは考えにくい。となると、共貧のシステムに移行せざるを得ないかも知れない。共貧のシステムは不幸のシステムとは違う。人の叡智によって安心のシステムに創りあげていくことは可能だと思う。そのためには社会のあり方についてこれまでと違ったコンセンサスが必要になってくる。過去の慣性にとらわれず、新しい社会について大いに議論すべき時が今だと思う。緊張、共栄、共貧のシステムについては栗原康著「有限の生態学」を参考にしてください。(2009年8月7日)

地球温暖化に対峙する態度

東北大の明日香さんらが編集した「地球温暖化問題懐疑論へのコメントver3」を読みました。これで懐疑論がどんなものかわかりましたが、もはや温暖化自体はまぎれようもない事実であり、メカニズムのコンセンサスもできている。ここに書かれた主張はその通りだと思います。ただし第4章「温暖化対策の優先順位」の部分は私と少し考え方が違うようです。著者らのスタンスは地球温暖化⇒危機であり、この矢印の方向の因果関係を重視しているように思える。私は逆で危機からその要因を探った場合、様々な要因が抽出でき、地球温暖化の重要性は相対化すると考える。私はまず現在の問題の解決を望みたい。現在は未来に繋がる。だから、まず現在を良くすることを考えたい。サンゴ礁の島ではなぜサンゴを傷めて、高潮の危険性の高いラグーンに人が進出しなければならないのか。ここをまず考えたい。恐らく暮らしに市場経済が入り込んだからではないか。このように考えないと地球温暖化から守りたいのは市場経済、都市的生活といったことになってしまう。人の生活が良くなれば(経済的にという意味ではない)、世界も良くなると考える。グローカリズム、生活環境主義の考え方に繋がるように思う。ただし、生活環境主義における生活はどういうレベルの生活を想定しているのか、という難しい課題に突き当たってしまうのが問題です。中庸な生活とは何か。地球温暖化問題は人の心、価値観を研究対象としなければ解けない問題なのではないだろうか。(2009年8月6日)

企業が望む学生−特に博士

午後ある尊敬する技術者と話をする機会がありました。そこで、いつもながら企業はどのような学生を望むか、という質問をしました。回答は、まずフレキシブルであれ。どんな仕事でも引き受けてこなす能力。自分の専門の枠の中に留まるのではなく、枠を広げていける人材ということですね。博士課程の学生に対しては、学位は問題を解決するための基本的考え方を身に付けていることの証と考える。だから、マネジメントの力がポスドクにはあるはずと。私もまったく同感です。社会が求めているのは専門性を生かした仕事というよりは、その専門性ゆえに身についている問題解決能力、マネジメント能力なんですね。博士課程の学生はここを十分意識して欲しい。就職のための面接で、この会社で研究はできますか、などと軽い質問はしないように。会社が自分のために予算と時間を割いて研究をやらせてくれるか、なんて質問はよほど会社に貢献できる自信がなければやめておいたほうが良い。それがいやだからポスドクというのであれば、一つ前に書いたように、研究職のマーケットを十分リサーチして、自分の将来のフィージビリティーを意識しておくこと。常に複数の生き方を準備しておくことが幸せに繋がる。(2009年8月5日)

大学院生支援へ−実質的給与を−雑感

朝日朝刊から。基礎科学力強化委員会発のニュース。大学院生、特に博士課程の学生を支援すること自体は悪いことではない。ただ、記事の中には博士課程の大学院生とその将来を取り巻く現況をどうするかということに関する記述はなかった。ここが一番重要な点ではないか。社会における博士の価値を高める、そして社会で博士が活躍できる場を拡大させることこそ最高の大学院生支援です。大学における研究至上主義、論文至上主義によりシャープな専門分野に特化した研究者をいくら送り出しても、社会に需要がなければ不幸を増産するだけ。研究という行為のあり方、科学のあり方、こういった認識を深めていかなければ現状分析さえできない。だから、若者は幸せにならないし、日本の基礎科学力強化には繋がらない。ではどうすればよいか。原則的なことをいうと、国民の科学リテラシーを高める、そして専門的知識、技術を尊重する態度を醸成していかなければならない。具体的には、大学、学会、等がきちんと議論をして、発言していくことが大切だと思っています。それでは、問題先送りと同じと言われそうですが、大学院生には専門分野の研究だけでなく、自分の力を社会に生かす方法、自分の分野のマーケットリサーチ、社会が望んでいること、等をリサーチしておくことを勧めておきたい。私も何とかしたいと思っています。(2009年8月5日)

ハザードマップをどう活かすか

朝日に知人である牛山さん(静岡大学)の記事が載っていました。ハザードマップの整備は進んでいるが、それを読み解ける人材が少ない。その通りで、そこに現代日本の大問題があると思います。三年前に始めた1年生向け講義「災害と空間情報」は、地形図や空中写真から土地の性質を知ることにより、ハザードマップの理解を深め、活かすことを目的としていました。ただし、200人超の講義となってしまい、とにかく受講者が多すぎて初期の目的は十分達成できませんでした。そこで、来年は少人数セミナーに衣替えをする予定でいます。土地の成因、性質を知ることにより災害に対する脆弱性、可能性を予め知る。それを減災に繋げるとともに、よりよい町や村のあり方に対する思考を深め、人口減少・低成長時代の安心社会構築への戦略としたい、なんて考えています。同時に地理学的知識、経験を修めた人材の行政や教育分野への進出を促したい。さて、200人超のレポート、そろそろ本腰を入れて採点に取り掛からなければならない時期が来ました。レポートは採点は大変ですが、課題に対する学生の意識がよくわかって面白い。(2009年8月4日)

楽農報告

楽農ですので、いろいろ問題は出てきます。珍菜が虫と猫にやられて壊滅状態なのですが、生き残った苗を生かすとともに、新たに種を蒔いてみました。うまく育てば収穫期間を延ばせます。青梗菜も虫にやられているのですが、スプレー式農薬で対処し、新たに三列種を蒔く。小豆は平地でよかったのですが、畝を作ってしまい、苗もひょろひょろで力強さに欠けています。なんとかたくましく育ってほしい。シシトウは十分な収穫で、毎日楽しんでいますが、オクラは苗の数のわりには収穫が少ない。今後に期待。今日はキュウリがたくさん取れましたが、終わりも近い。地這のキュウリ苗はイマイチ元気がないのが心配。土のせいか。メロンはひとつだけこぶし大になってきました。落花生は密植させすぎたみたい。土を盛って、畝を拡大。ナスは順調に採れています。夏休みに入った娘が野菜を使った料理に取り組んでいます。これは思わぬ収穫。モンシロチョウが飛んできた。お前、生き残ったか、と声をかける。虫ともうまく折り合いを付けた農を目指したいものです。何とか収穫は続いていますが、もっともっと学んで工夫すべき点がある。農は深いと思う。(2009年8月2日)

研究とは何か−その後の考察

科学が真理の探究だとすると、それは研究者の好奇心を駆動力とする行為で、その成果は芸術と同じ価値をもつ。芸術家は自らの活動について国の援助を受け、その活動に介入を許すことは退廃と捉える方も多いだろう。ところが、大学の研究者は自らの活動に対して国が援助すべきと考える一方、研究については純粋に知的活動なのだからその内容に対して国が介入するべきではないと考えてきた。旧国研や企業の研究者は与えられた課題に対して成果を出さねばならないのですが、最近は大学の研究者も同様になってきたように感じます。それは予算獲得という行為のプライオリティーが高まり、国が決めた課題に応募し、予算を獲得し、成果を纏める。プロジェクト獲得こそが研究者、組織の権威を高める手段となった結果、研究のモチベーションがあいまいになっているように思います。うまくマッチングすればよいのですが、どうもこのような態度が日本の底力を損なっているように思います。特に環境分野において、地球や自然と人の関係をどう捉えるかという、地球観、自然観、環境観が矮小化しているように思う。普遍性で問題を解決する欧米思想に囚われると環境の複雑性、多様性に関する認識があまくなり、論文は書けるかもしれないが、現実に起きている個別の問題を発見し、理解し、解決する能力が損なわれる。自分の関わる分野ですと、政治問題である地球温暖化問題とサイエンスの関係がどうもおかしくなっているように感じる。それは、科学のもうひとつの側面である“〜に役に立つ”という部分の〜が変わってきているのではないか。〜は人か、社会か、国か。少しずつ検証してみたい。(2009年7月31日)

研究と本務の関係

最近ますます悩みが深くなってきた。研究は何のために行うのだろうか。自身の世界観、自然観を明らかにし、仮説を検証し、満足を得るために行う。これは誰もが疑わない研究者の姿だと思います。しかし、給料をもらっている組織人としてはどうだろうか。今、「先端学術研究人材養成事業」という申請書を書いていますが、こういうのがポッと出てくる。そして研究センターだから出さざるを得ない、ということになる。そもそも最先端を定義できる科学とは普遍性探求型科学で、誰もが目標を明確に意識し、それを目指して切磋琢磨している分野。環境は地域における人と自然の関係。小さな、でも深い成果を積み重ねることによって世界が見えてくる。それぞれの研究が最先端といってよい。様々な要素の間の関連性を大切にする関連性探求型科学であり、問題の解決には一番近い科学。でも、役人にこういう世界観が意識されることはあまりない。それは戦後教育の成果であるとともに、科学の成果は外交上の戦略資源であるから。外交では何が明らかになったというよりも、どんなコンセンサスが得られ、その誘導にどれだけイニシアチブを発揮できたかが重要。そのための研究を税金から給料を頂いている我々は実施しなければならないのだろうか。このような姿勢を学生に伝えなければならないのだろうか。いやいや、これは学生には絶対伝えたくない姿勢です(その事実は伝えますが)。学生に伝えたいか、これが基準ですね。気が少し楽になりました。研究の成果は広く社会全般に役に立たなければならない。つまらない競争を勝ち抜くためだけの科学ではだめだと思う。(2009年7月30日)

成人年齢18歳に引き下げが適当-法制審議会報告書

YAHOOニュースから。法制審議会の民法青年年齢部会(なんてのがあるんだ、へ〜)が現在20歳となっている民法の成人年齢を18歳に引き下げるのが適当、という最終報告書をまとめたそうです。私は大賛成です。これにより、大学における学生への対処が「子どもルール」と「大人ルール」の間をふらふらすることがなくなることを期待します。教員と学生が大人として向かい合う、当たり前のことが実現してお互い厳しくなる面もありますが、双方が幸せになるでしょう。とはいえ、いつ実現するかは不透明とのこと。 (2009年7月29日)

何かがおかしい

昨日目を通したユニオンのニュースレターで、どうも気になる記事があった。それには、“最近相次いで大学教授である友人・知人が亡くなった。彼らは競争的環境の中で大きな資金を獲得して研究を推進するリーダー的存在だった、...何かがおかしい”、なんてことが書いてあったように思います。死んでしまった彼らは幸せだったのだろうか。死ぬほど努力する価値があったのだろうか(死因については予断ですが)。皆さん、大学も含めて世の中、何かがおかしい、と感じている。私は今、ある予算申請書を作成中ですが、読むのは役人だから、もっとわかりやすく、というコメントを頂いている。千葉大学の前の執行部は提案書について小学生でもわかるように書け、といっていた。そこには一定レベルのもっともらしさがあるので、なかなか逆らえない。それにしても評価者はそんなに無知なのだろうか。いや、無知で良いのだろうか。研究の申請書は提案者の世界観の提示でもある。異なる世界観はまず尊重して、その上で議論や評価を進めなければならないが、無知では勤まらない。ひとつの世界観に固執する、すなわち蛸壺に入っている人には異なる世界観をわかりやすく説明することは実際、困難であることも確か。そもそも、わかりやすく、という指示の中にすでに世界観が入っているのではないか。たとえば、地球温暖化が災害を引き起こす、という言説はわかりやすい。だから、災害を防ぐには地球温暖化を止めればよい。これもひとつの単純な世界観であるが、ここに研究予算がつく。しかし、“災害を防ぐにはどうしたらよいか”、を出発点とすると災害に至る複数の道筋が見えてくる。災害という切実な問題に対処するには地球温暖化だけに集中するわけには行かなくなる。これも包括的な視点による異なる世界観。災害は様々な要因が積分されて出現しているということ、これはわかりにくいかもしれない。でも、わかっていただければ、恐らく低コストで災害に対処することができる。わかりやすく、という言説が何かをおかしくしているのではないか。 (2009年7月28日)

楽農報告

一週間留守にしてキュウリは終わっているかと思ったら、まだまだ収穫できる。シシトウも本格的収穫期に入る。オクラはイマイチ実のつきが悪いが、少しずつ収穫できている。小豆を移植。周囲からは遅いと言われているのですが、本や雑誌ではまさに今。この冬にお汁粉を一杯食すことが目標です。秋取りの地這キュウリを移植。青梗菜も芽が出てきた。種類が増えると畑仕事も一日仕事ですが、いろいろなことを考える。畑の生物多様性を高めて、少しは虫に食われても安定した収穫をあげることはできないだろうか、などと考え始める。(2009年7月26日)

都市と地方

朝日夕刊に、不正取水で信濃川で発電ができなくなったJR東日本が再稼動へ向けておわび行脚しているという記事があった。火力発電所をフル稼働させてこの夏の需要に対応するというが、CO2の放出は増えている。何とか夏を乗り越えられそうだというが、もし首都圏の在来線の運行に支障がでたら、さてどうなるだろうか。都市が地方に優先されて再び取水が認められるだろうか。現在、信濃川では水量は戻っているが、失われた生態系や生業はそう簡単には戻らない。しかし、回復への兆しが見えてきたら、再びもとの水なし川に戻すことには大きな抵抗が出るだろう。都市の利便性が地方の犠牲の上に成り立っていたのだが、そうせざるを得なかった時代はとうの昔に過ぎ去ったのではないか。都市の利便性とその代償は都市の中で完結させることはできないだろうか。それが無理でも、都市と地方の良好な関係について考える機運が高まってきているように思う。(2009年7月25日)

統合的流域管理に思う-その2

カウンターパートに身を任せて、フィールドエクスカーションに出ていますが、今日はJatiluhurダムの管理事務所で話を聞いた。このダムはジャカルタに流下するチタラム川にあり、バンドンの下流に大きな三つのダムがあることは知っていましたが、その最下流のメインダムでした。このダム群がジャカルタ地域の水の90%をまかなっているというのですが、87%が潅漑に使われるとのこと。インドネシアでは日本のように利水が農水省系と国交省系に分断されていないことに感心(追記:水道は厚生労働省だっけ。発電は経済産業省か。)。水路のメンテナンスは農民自身も行うとのこと。日本では圃場整備で大規模潅漑施設ができた地域は農民と水が分断されている。施設の老朽化も進んでいるので配水の持続性については日本における大きな問題になるのではないかと考えています。流域の水資源管理についてはある意味、日本よりインドネシアが進んでいるとも見なすことができるのではないか。空港でチキンうどんとビンタンを飲みながら書いています。(2009年7月24日)

千葉大学を中心とする関連性

今日はバンドンのLIPI(Indonesian Institute of Sciences)のResearch Center for Geotechnologyを訪問。会議室に集まった面々の中に、千葉大学の卒業生、学位取得者が四人いる。この関係性を大切にしていかねばと思う。(2009年7月22日)

統合的流域管理を成功させるには

ボゴールにて。ほとんどの講演がインドネシア語で、よくわからないのですが、この国の流域にはこの国の人の暮らしがある。少数の先進国(好きな言葉ではないですが)の規範では豊かとはいえない暮らしがある。流域の住人にとっての統合的流域管理とは何か。流域における暮らしを守ることだとすると、幸せとは何か、という規範が必要。しかし、幸せに対する考え方に一意性はない。政治・行政そして研究セクターと人の暮らしが分断していなければ、様々な幸せを認め、うまくやることができるだろうか。一方、流域の外の人々と流域との関わりがある。流域の外にいる人は市場経済で流域と関わっている。統合的流域管理を成功させるためには、市場主義経済にこころを持ち込む必要があるか。流域の中にも市場経済の恩恵を受けて暮らしている人もいる。異なる考えの尊重と合意形成、我々はまだまだ学ぶべきことが多い。(2009年7月21日)

統合的流域管理に想う

現在の水文学の重要な課題に統合的流域管理がある。流域における水利用や土地利用を包括的にとらえ、様々なセクターの間で折り合いをつけることが解の一つだと思うが、解はユニークには決まらない。セクター間での対話自体が解のひとつであり、研究自体は重要だが主要な目的ではなくなる。研究者、特に自然系の科学者の役割は、流域で起きる諸事象を明らかにし、それらの関連性を明らかにすること。その成果が流域管理のために役に立てばよい。個々の研究者の役割は相対化されるが、それでよい。統合的流域管理はまさにモード2であり、異分野協働による新しい知識生産である。ボゴールにおけるワークショップにて。(2009年7月21日)

楽農報告

キュウリは勢いがなくなってきたように感じるが、相変わらず収穫は抜群。けっこう見落としも多く、取り残しのキュウリが巨大化する。大きいのは漬け物で食べ、小さいものは塩かマヨネーズで食べるとまだまだおいしい。最近は風が強い。オクラやシシトウに支柱をたてる。どうも種まき病のようで、空いている部分を四角く盛って、今日は人参、ラディッシュ、チンゲンサイの種をまく。丹波の黒豆を5株移植。ホームセンターでちょっと大きくなったナスの苗が安かったので、ふつう菜を収穫した後に、3本植えておく。たくさん植えた野菜を8月いっぱいで収穫して、秋まきの野菜に移行する予定。(2009年7月19日)

農業の集約化

今日も朝日に農地の集約化に関する意見があった。朝日の論調は基本的に大規模営農主義だと思うが、小農では農業の未来はないのだろうか。ところが、アメリカでもだいぶ前から小規模農業を守る動きがある。1998年の農務省のレポート「行動の時」では、大規模偏重農政の見直しが開始され、小規模農業の持つ多様な価値を追求する、とある(現代農業、2009年1月号)。それは開拓以来の収奪型農業の限界が近づいてきたことを意味している。そのような流れの中でも、日本の農政は「やる気のある農民」に大規模経営を奨励し、競争力のある農業を、ということらしい。世界では緑の革命の功罪も検証され、新しい農業が模索されている昨今、日本の農業政策には包括的な視点が欠けているような気がする。政治・行政は相変わらず経済的に勝つことだけを夢みている。現場の状況をもっと見えるようにしなければいけないと思う。多様な農業があってよい。そのような感覚は都市と農村の関わりの中から生まれてくるのではないだろうか。研究者は農業の多面的機能について研究を深める必要がある。(2009年7月19日)

トムラウシで遭難

もう30年以上前の1976年の夏。層雲峡から黒岳に入り、旭岳、白雲、忠別、化雲、そしてトムラウシから天人峡に下りました。初日が悪天候でポールを折られ、高さが半減したテントで寝ていたところ、肉をキツネに奪われ、食糧不足のまま縦走する事態に。毎晩順番で飯盒のお焦げを引っかいて食べましたが、男は腹が空くからといって多めに食べさせてくれた女性の優しさは今でも忘れずにいます。それでも夏の大雪山系は天国のようでした。青空と雪渓とエゾコザクラの赤の風景は一生忘れられないシーン。なきウサギも顔をだしてくれました。あの夏の大雪でなぜ。正当な手続きで原因を明らかにしてほしい。すでに旅行会社やガイドを責める報道があるが、それだけでは真実は明らかにならないだろう。悪天候では1973年の夏を思い出す。有峰湖から太郎兵衛平に上がり、横殴りの風雨の中、黒部五郎を巻いて三俣蓮華から双六を経て新穂高温泉に下った。当初予定していたルートは忘れてしまったが、思えば顧問の先生は的確な判断でルート変更をしたのだと思う。あれは黒部五郎と三俣蓮華の間だったと思うが、ひとりが倒れ込んだことを覚えている。それでも若かったせいか悲壮感もなく縦走を続けることができた。当時はワンゲル部で日々のトレーニングとともに、山の勉強は怠らなかった。今も目の前に横山厚夫著「イラスト登山入門」がある(我らの世代では懐かしい本じゃないかな)。今回の遭難者には心から哀悼の意を表します。運が悪かったのだと思うが(私は人生において偶然性を尊重したい)、やはり遭難の素因を明らかにして後の世に役立ててほしい。PS:ポメラで書いていますが、実に快適です。(2009年7月17日)

批判・評価は本人の前で

学生の就職を妨害するために、誹謗中傷の葉書が内定先に送りつけられるという事件が起きました。犯人(犯罪なので犯人です)は特定されていないが、檄が学内に張られている。なんてつまらないこと。私も誹謗中傷に加えて権力を使った嫌がらせにあった経験があるが、陰で行われる卑劣な行為に心身とも参った経験があります。人の批判や評価は本人の面前でやろう。陰でこそこそやるのはあなたの弱さです。来月は教員の定期評価が行われ、私も該当しています。これは正式な手続きですが、評価に際して該当者は退室することになっている。評価の議論は本人を含めて行ったらどうか。本人抜きでやるのは、評価に自信がないことの現れ。きちんと議論できる態度こそ大人であり、大学の教員なのではないかな。(2009年7月17日)

地球温暖化−賢い人間は前提にできないのか

朝日科学欄の「温暖化バトル」というコラムで、「懐疑論は本当か」、という副題がついています。気温の上昇傾向は観測事実としてコンセンサスが得られており、様々な状況証拠も出てきている現在、もはや温暖化自体は疑う余地はないと思います。「『人類にとって問題なのは寒冷化。温暖化はいいこと』との批判がある」、との記述がありましたが、これが懐疑論だろうか。前半は完璧に正しい。人類は、人口問題、資源問題、食糧問題、水問題に直面している。寒冷化が怖いのは自明。しかし、後半はまったく別の主張です。記者が勝手に付け加えたのか、研究者もそう考えているのか。地球温暖化は人類挙げて取り組まなければならない重要課題であり、悪いことだけでなく、いいことも含めて客観的かつ総合的な立場から理解に努めなければならない。特に研究者は。「14の研究機関によるプロジェクトチームによると、被害額今世紀末に年17兆円、排出を半減させても11兆円のコストがかかる」といった記述を無条件に信じると、ほとんどの方は大変だ、と思うでしょう。ここで注意しなければならないのは、結論に至るための仮定です。人は愚かなものという仮定はないだろうか。多くの研究は、現在行われている行為を変えないで、気温だけ変えた場合にこうなるというものが多いのではないか。現実には農家は工夫によってすでに現れている温暖化に対処しつつある。人の生業に関することであれば、人は全知全能を傾けて対応しようとする。それを考えないのは研究者だけです。人の生業が問題だというのなら、温暖化以前に社会の構造変化によって変えざるを得ない人々がいた。高度経済成長期の農山村漁村や、最近では派遣切りの問題がそうでしょう。ここを考えずに地球温暖化の負の側面の予測ばかり強調していては、今苦しんでいる人々を救うことができない。現在より未来が大事だというのか。現在に続くのが未来なのだが。人は英知により人の暮らしを守っていくことができるはず。まず守るべきは、人の普段の暮らし。経済的に勝つことでも、国の威信でもない。(2009年7月17日)

新しいガジェット

キングジムのポメラを買いました。キーボードの使い勝手はなかなかのもので、画面のレスポンスも十分。搭載されているATOKの変換効率はさすが。ただ、老眼にはフォントがちょっと小さい。大きさは電子辞書とほぼ同じ。若干厚いのが玉にきずですが、これは致し方ないか。もし、キーボードを広げた大きさで製品化したら、さらなる機能を追加できるだろう。となると、いつかあったWindowsCEと同じになる。モバイルPCは使う機能も限られているので、こんなマシンが再登場してもおかしくないと思う。このポメラはきっとこれからも進化していくと思う。こういう新しいガジェットを楽しむのは、贅沢か、それとも現代社会の些細な楽しみか。まずは使いこなすことで価値が出てくるでしょう。(2009年7月16日)

脳死は人の死

改正臓器移植法が成立しましたが、人により様々な思いはあると思う。私は自分の家族に置き換えて考えると、情緒的に脳死は死とは認められないだろうと思う。臓器移植により助かる命があることは認めざるを得ませんが、同時にある死の側にいるわけですから。私は人の身体がパーツに分けられてしまうところに受け入れがたさを感じる。近代の人の不幸はテーラー・フォードシステム以降、人が生産の場におけるパーツになってしまったところにあるのではないか。一方、自分の家族が臓器移植によってのみ助かる状況になったらどうするか。自信はないのですが、今は生死の偶然性を大切にしたいと思う。生を得ることはまさに偶然、同時に死も偶然。これが生命の本質ではないか。それにしても、二分間で採決が行われ、その間も与野党に関わらず眠っていた国会議員が多かった、とは本当だろうか。ラジオで聞きましたが、これも考えさせられる。(2009年7月14日)

科学とは何か

最近、科学とは何か、についてよく考えることが多いのですが、今朝たまたま手に取った「科学の現在を問う」(村上陽一郎著)にこうありました。科学はその成立の過程で、この世界に起こる現象の説明や記述から、「こころ」に関する用語を徹底的に排除する知的活動、となっていった。この本は以前読んだことがあるはずですが、すっかり忘れていました。最近は安全・安心の科学といった使い方もするが、現在では「こころ」も科学の範疇に入ったということなのでしょう。安心は「こころ」の状態ですから。読み進めていくと、恐らく旧来の科学に対する批判がでてくるのだと思いますが、そうすると現代は旧来型の科学を信奉する科学者とニュータイプの科学者がせめぎあう時代。昨日、恩師の文章を転送して頂いたのですが、そこに三十年近く前の「物理帝国主義」と、当時新しい学であった「水文学」との論争の一端が綴られていました。実はせめぎあいは20世紀を通じてあった。恩師の「新しい学」の模索は続きましたが、その文章の後半にはやはり「心」が出てきます。近代科学に続く「新しい学」の模索はすでに終わり、育てる時代がきたように思います。それは「ひと、暮らし、こころ」を重視する科学ではないか。(2009年7月14日)

ひとつではない生き方

自分が生きる道はひとつと決めて、退路を断って全身全霊で打ち込むのがよいか、それとも、いくつかの選択肢を持って生きるのがよいか。私は後者で良いと思います。絶対的に重要なものなどないと考えたほうが良い。研究という行為は至高なものでもなんでもなく、多くの場合は自己満足。そういう人生は最高なのだが(まさに幸せな大学人)、満足が得られるのは研究だけではない。大学院をやめることに決めた学生が挨拶に来ました。今後のことが心配でしたが、彼は自分の生きる道をもうひとつ持っていた。私も安心しました。充実した人生を送ってほしいと思います。昨今はPD問題(博士の就職難)も深刻ですが、人生の選択肢を複数持つことが大切だと思う。自分の幸せはここにしかない、などと思いつめないほうが良い。 (2009年7月13日)

楽農報告

キャベツ、茎ブロッコリの青虫による食害がすごいので、BT剤を導入。メロンの蔓枯れ病は手遅れとは思うが、殺菌剤を散布。私は無農薬には特にこだわるつもりはないのですが、除草剤だけはいやですね。実がつかないズッキーニはあきらめ、その後にはまた秋取りのキュウリを植える予定。苗はすでに双葉になっている。オクラ、シシトウも収穫開始。ミニ大根も十分成長しました。新たに、珍菜を播種。空いたスペースにラディッシュも蒔く。ふつう菜も美味しそうになってきたので、さらに新しい区画を作成。期限の過ぎたほうれん草の種があったので、ばら撒き。ちょっと早いので、うまくいかないかもしれない。ブロッコリの種をポット蒔き。そして今日もキュウリ収穫。一日に数本食べているが追いつかない。忘れていました。もらったイチジクの苗を庭に植えました。 (2009年7月12日)

上から目線

朝日の耕論で議論されていました。いろいろな見方ができますが、私は「上から目線」というのは極端な言い方をすると、「自分が正しい、だからお前が間違っている」という姿勢のように感じます。これは普遍性により統治するという欧米的発想でもあると思います。現実は「私は正しい、でもあなたの言うことももっとも」。様々な考え方がある。その間で折り合いを付けるというのが調整型リーダーの役割になるのだと思う。現実を俯瞰的に捉える調整型リーダーであれば「上から目線」といった態度はなくなると思います。(2009年7月12日)

人の輪

千葉県中央博で開催されたシンポジウムに行ってきました。その後は、懇親会にも出席させて頂きましたが、今回の驚きは人の輪。高校の同級生が講演したのですが(といっても三十数年ぶりにお互いを認識)、県の方々にも高校の同窓生がたくさんおりました。私の講義を聴いてくれた千葉大学の学生、先生方、卒業生、共同研究をやってる学生、ちょっとした知り合いの方々、と会場で出会う。こういう人の輪は大切だと思う。人は関係性の中で生きているわけですが、研究という行為も、異分野協働による新しい知識生産(すなわちモード2)、のやり方を強化すべき時期がやってきたように感じます。(2009年7月12日)

刈った草は燃やすのが良いか、埋めるのが良いか

午後は職場の環境整備、すなわち草取り、でしたが、相変わらず刈り取った草をビニール袋に入れて可燃ごみとして出している。せっかく炭素を固定したのだから、埋めればよいのではないかと思っていたのですが、そうするとメタンが出るという。メタンは温室効果が高いので、燃やしたほうが良いのでは、という考え方も。さっそく、WEBで調べると、全量燃やすよりは堆肥化したほうが良い、とか、堆肥化の過程でメタン発生を減らす研究、とかいろいろあって、定量的な解は難しいようです。それでも、埋めるか、堆肥化したほうがいいだろうな、と思う。(2009年7月10日)

現代社会の規範、か

風が強い。キュウリの蔓が支柱から外れてしまいましたが、収穫は今日もたっぷりできました。出勤のため家を出たところで、資源ごみとして回収されるペットボトルの袋が飛ばされて道に散乱している状況を発見。車を止めて、片付けようとしたら後ろから来た車が乗り越えて、レジ袋はずたずた、ペットボトルがさらに散乱。実に空しい。片付けようとしていたことくらい想像できないのか、少しくらい待てないのか、などと思ってもしょうがない。恐らくこれが現代社会の規範だから。自分の責任でないことには一切手は出さない、ごみが散乱しても責任者が悪い、ということでしょう。ごみ集積場は地域のコミュニティーの協働で維持・管理されているものですが、班が違えば関係ないということでしょうか。地域の中で関係性を意識しながら暮らすことができれば、良い社会になるなと思うのですが、なかなかそうもいかない。こんな現代社会の規範を変えるような努力をしていかなければならないと思いますが、言うは易く、行なうは難し。(2009年7月10日)

温室ガス、先進国80%削減明記

ラクイラ・サミットではこうなったそうです。といっても、2050年の話で、その頃には石油生産量の減退で、化石燃料からのCO2放出量は相当減っているでしょう。石油ピーク説によると、総CO2放出量は2050年にはピーク時の2/3くらいになっています(石井吉徳先生の著作やHPに詳しい)。ただ、こういう宣言が選択されることにより、地球温暖化を気分で語る傾向が強くなったら問題です。まずは排出量が多く、固定排出源が多い産業セクターにきちんと対応して頂きたいと思います。政権交代したらガソリン税の暫定税率が下がるかもしれませんが、ガソリン税をなくすことよりも、税の使い道を考えたらどうだろうか。炭素税として、固定排出減の対策に使うとか。グリーン・エナジーについてはしっかりした政策で対応して欲しい。人口減少時代の都市や農村のあり方、風の道のような自然の恵みを受けられる良好な都市の構築、場合によっては都市の撤退戦略、重要なのは農業のあり方、などなど考えることはたくさんある。自然や社会の仕組みを知り、きちんと自分で考えることができてこそ、近代社会に生きる人です。これができなければ文明は衰退する。(2009年7月9日)

何のために勉強するか

鼻づまりで眠っていられなくなり、朝早く起きて本を読んでいます。「多文明共存時代の農業」(高谷好一著)をもう少しで読み終わりますが、その中から。熱帯多雨林の中に現地の方々と一緒に入ると、彼らは木の名前や効用を次から次へと教えてくれる。森全体について豊富な知識を持っている。だから、価値を見出すことができる。すなわち、“知る”という行為が“価値”を生み出す。ここに勉強をする意義がある。一方、先進国の人は森について何も知らない。だから、価値がないと考える。無価値なものを価値あるものに変えるために、熱帯雨林を切り開き、広大なプランテーションに変えた。先進国の人々はカネという価値を得たが、現地の人々にはその富は配分されなかったという。先進国の人の暮らし、現地の人の暮らし、両者の関係性を知る。すると、どう生きるべきかのヒントが得られる。だから、勉強する価値がある。(2009年7月8日)

ランチメイト症候群

昨日の朝日夕刊で便所飯という言葉をはじめて知りました。ちょっと驚きましたが、都市伝説かもしれません。一人でランチをとることは別に格好悪いことではありません。一人でいることは望ましくないなんて、そんなことはありません。一人で何でもできるなんて楽でいいじゃないですか。一人で生きていくことに自信が出てきたら、そのときこそいろいろな人や社会と関係を持つことができるようになる。いろいろな人との関連性を意識しながら暮らす。人生が豊かになると思います。(2009年7月7日)

大学教育悪くなっている

朝日朝刊から。筑波大学のアンケート調査によると国立大学の法人化後、教育が悪くなっているとの回答が過半数を超えたという。この結果は大学人としては看過してはいけない課題です。なぜか、を考えなければいけない。私は経営側の「競争原理の導入」と大学人の「優秀病」に根源があると思う。その結果、大学に「教育」の蔭が薄くなった。学生に何を伝えるか、ではなく論文を書ける“優秀な”人材を得ることを重視したために、カリキュラム構成が難しくなっていることはないか。教員個々人の専門からカリキュラムを捉えるので、総合性、一貫性に欠けることはないか。また、教育にまで競争原理が持ち込まれましたが(大型教育プロジェクト)、本来は文科省がスタートアップの資金を提供し、大学が発展させていくという趣旨だったはず。資金獲得の統計値として大学には貢献しましたが...。たまたま資金の恩恵を受けた学生は幸運でしたが、学生の間では不公平感もあるかもしれない。では、どうしたらよいだろうか。まずは教員一人一人が教育目標をしっかり立てて、公開し、議論を進めていくしかないのではないか。私は総体としての学生ではなく、学生個人を重視して教育を考えようと思う。(2009年7月6日)

若いときはチャンスが見えない

朝日の仕事力の欄から。国谷裕子さんのコラム。asahi.comにも載っているので、若者には読んでもらいたい。「私も、もっと教えて欲しいと甘えた気持ちの新人だった」、「鍛えてくれる職場はやはり人を伸ばす」。そのとき手に入れたものに全力を投球すると、後になって必ず何かを得ていたことに気付く。自分のやりたいことは誰かが決めてくれるのではなく、出会ったものにまず没頭することから生まれてくる。出会いは運であり、宿命、因縁でもある。そのとき出会ったものを大切にしよう。(2009年7月6日)

楽農報告

今日は、黒豆、小豆、秋どりの地這キュウリ、芽キャベツの種をポット蒔き。ズッキーニは密植しすぎたようで、葉をだいぶ間引き。まだ花は咲いているので、もう少し収穫を期待。メロンは雄花と雌花がよくわからん。一つでも収穫できればいいか。トマトがなかったので、苗を2本買ってきて植える。空いている土地に堆肥を入れて土作り。枝豆の収穫開始。この茶豆は味が濃くて実にうまい。キュウリは需要以上の収穫。今日一日でキュウリを何本かじったろうか。作物が増えてくると、畑仕事も一日仕事。緑で覆われた畑を見ていると心が和む。(2009年7月5日)

論文優先、公表2週間後−現場はスーパーマンでなければならないのか

朝日朝刊から。大阪府立公衆衛生研究所でタミフルの耐性ウィルスが発見されたが、公表より論文投稿を優先させていたという。直ちに公表すればよかったとは思うが、この研究所では職員の業績を論文で評価しているならば(これは府の職員でありながら、府とは独立の“研究者の世界”の掟にも従わなければならないことを意味する)、論文を優先させたことは致し方ないと思う。これは究極の選択であり、究極の選択を父であり母である個人ないしグループにさせるトップにこそガバナンスの問題があると思う。人類の安全のために現場の研究者は常にスーパーマン、聖人であれ、ということならば、かえって人類は危うい。大阪府立であるならば、まず府の業務を優先させることで“職の安全”が担保されることが必要ではないだろうか。それが人類の安全につながる。研究とは何のための研究だろうか。科学の文化的側面を担う研究者はいくらでも論文競争をやっても良い。勝手にやれば良い。人の安全、安心のための研究を進める方々につまらない蛸壺の原理を押しつけてはならない。(2009年7月5日)

大きいことはいいことだ...の背後

「多文明共存時代の農業」(高谷好一、農文協)を読み進めていますが、インカ帝国の農民の社会には良くまとまった共同体があり、農業生産に携わっていた。そんな強い共同体を取りまとめる皇帝には役割がなければならないが、最も重要なことは明確な世界観を人々に示すことにあったという。詳しくは本書で。翻って、大学あるいは研究者の共同体を取りまとめるマネージャークラスは明確な世界観を示しているか。昨夕は学術会議、学術振興会への大型研究の提案について議論しましたが、文科省の共同研究拠点に認定されたことに対する責務との雰囲気もある。大型研究、すなわち多額の予算を投入することで研究が効率的になる分野には、それを支持する世界観があり、大型化が効率に繋がらない分野にも独自の世界観がある。異なる世界観の間で優劣はなく、予算額で研究の優劣を考えてしまう研究者の態度も改めなければならい。主張や提案の背後には必ず、基本的な考え方、世界観があるが、それが常に意識されているとは限らない。科学行政の為政者と研究者の双方が幸せになるために、思想あるいは科学史、科学論、はたまた文明論といった分野がもっと表に出てきてよいと思う。(2009年7月3日)

エコカー一考−その2

今朝、車にガソリンを入れました。前回は6月3日でしたから、ほぼ一月。この間の走行距離が467.7kmで、入れたガソリンが33.3リットル。平均燃費は14.0km/l。燃費計は15.0km/lでしたので、若干過大評価か。123円/lで入れたので、職場までの片道の経費は98.4円になります。通勤時間は最近は約30分。 電車では片道250円ですので、2.5倍。時間は約1時間ですので2倍。2年前まで燃費6km/lだったことを思うと、家庭部門からの炭素放出は少しずつ減少しているということ。それでいい。次はハイブリッド。いつのことか。(2009年7月2日)

エコカー一考

最近、車の燃費が良く15km/lをキープしています。確かに道を行く車が少なくなっているように感じますが、その理由は景気低迷か、あるいはエコ感覚か。番組は忘れましたが、プリウスと普通のエコカーを比較すると、都市域では渋滞時にモーターだけで走るプリウスの燃費がいいが、エンジンで走る郊外では普通のエコカーとの差は小さくなるそうです。なるほど。ホンダのインサイトは郊外ではリーズナブルというわけだ。ハイブリッドカーは売れ行き好調というので、家庭部門のCO2排出は少しずつ少なくなっていくでしょう。問題は産業部門。固定排出源が多いという産業部門にもっと有効な低炭素政策を打ち出すことはできないのであろうか。風力や太陽光発電に至っては政策の失敗は明らか。庶民のエコ感覚に訴える前に、やるべきこと、やることはたくさんあるように思うのですが、旧来の成長モデルに対する呪縛はまだまだ根強い。(2009年7月1日)


2009年6月までの書き込み