口は禍の門

2007年度も前期が終わりました。そして、私の40代最後の年も半分過ぎましたが、今後の10年は少しずつ方向性は見えてきたように思います。昨年から社会学分野に関心を持ち、“ひと”について考えてきた中で出会ったキーワードが“生活”あるいは“暮らし”ですが、これは今回の参議院選挙の民主党のキャッチコピーにも出てきました(生活が一番)。世の中も“暮らし”志向にだんだん変わってきているのではないか。やはり、皆さん疲れている。自民党の経済発展主義と“ひと”である国民の暮らしが相容れなくなってきたのが今回の参院選ではなかったろうか。心の成熟社会をめざした適応戦略を“生活環境主義”に基づき構築していかなければならないかなと考えています。シンポジウムを開催しましたが、安全・安心総合研究プロジェクトの活動は良い勉強になりました。まさに異分野協働の新しい知識生産です。研究科解体後に唯一残された横の連携組織ですので大事にして行きたい。ウェザーニュースのサイエンスカフェも良かった。自分の考え方を発信できる場を多く持つことが大切です。

2007年7月までの書き込み 2006年度までの書き込み


大失敗、謝罪します

全く面目ないことですが、前期の「災害と空間情報」(後半)の成績入力にミスがありました。学生に指摘されて本日わかりました。10数人の学生は成績が下がってしまいますが、どうかご容赦ください。配布された出席情報とWEBにある成績入力用のファイルに一部齟齬があったことが原因でした。弁解の余地は無いのですが、受講生が多く、採点人数はのべ600名に達し消耗しました。いつだったか、こんなミスが起こるのは組織に対する誇りが失われているからだと書きましたが、今の私がそうかも知れません。今後、気を引き締めます。月曜からは一週間中国ですが、今回は教育プロジェクトです。私は講義を1回行い、中国の大学院生とフィールド巡検をします。10年通った中国ですので、何とか、気を取り直さねば。それにしても迷惑をかけた学生諸氏には深くお詫び申し上げます。空間情報に興味を持たれた方は学部がどこであれ助言、サポートしますので声をかけてください。(2007年10月4日)

組織について

組織についてずっと考えていますが、司馬遼太郎がこんなことを言っていました。<あらためていうまでもなく、組織というのは、ある限定された目標をめざしてナイフのようにするどく、機械のように無駄なく構築された人為的共同体である。>(「ある運命について」、「人間というもの」)。司馬によると新撰組まで日本には組織は無かったそうです。現在、大学の法人としての評価が進んでいますが、まさにこのような組織を対象として行うようにやり方が構築されているように思います。しかし、大学、特に総合大学はそのような組織ではなく、多くの分野が緩く結びついたネットワーク型組織だと思います。ネットワーク型組織が組織であるための条件は、共通の目標を構成員が共有していることなのですが、ここが大学の弱い点だと感じています。教育なのか研究なのか、もちろん両方ですが、現実には教育と研究は両立しがたい。どのような共通意識を持つべきか、まだまだ分野間、あるいはディシプリン間の議論が足りないと思います。これを達成すると千葉大学も組織になります。(2007年10月4日)

沖縄の悲しみ

今日の朝日の天声人語で、「さとうきび畑」(作詞/作曲:寺島尚彦、森山良子の歌が有名)の中の<むかし海の向こうからいくさがやってきた>のフレーズが呼び起こすイメージが美しすぎないか、とありましたが、私はそこには悲しみを感じます。この詞には沖縄のアイデンティティーの主張がそっと込められているように思います。中国と日本の両方に朝貢し、薩摩そして日本に支配された歴史の悲しみがあるように思う。やはり、いくさは海の向こうから勝手にやってきたのではないか。こういう考え方も美しすぎるかも知れませんが。沖縄の唄は私も大好きです。でも、島唄(THE BOOM)を聞いたときは、その美しさと同時に私は沖縄人ではない、という寂しさも感じたこともあります。とはいえ、島唄(THE BOOM)の作者の宮沢さんはやまとんちゅ、沖縄に住む内田勘太郎さん(もと憂歌団)も大阪出身、とけ込んじゃう人もいるのですね。私には無理かも。いろいろな社会を見ていると民族というのは、その一員であることの喜びと悲しみが混在する存在のような気がします。私はいつも考えすぎのようで。(2007年10月3日)

北緯47度から南緯6度へ

9月20日に日本を発ってまず中国、28日からはインドネシアの調査に出かけ、今朝夜行便で成田に着きました。肌寒い秋の中国東北地方(三江平原)では北緯47度で黒龍江(アムール川)に達し、蒸し暑い常夏のインドネシア(ボゴール)では南緯6度で米の収穫と田植えを同時に見ました。それぞれ水に関する問題を抱えていますが、やはり現地で経験し、地域の特徴を理解しなければその本質はわからないなと思う。環境問題は頭だけで考えてはいけない。また、いろいろな人々の生活を見ました。いつも思うことは先進国に住む我々が見て感じる“貧しさ”と“幸せ”は別物であろうということ。地域の人々の幸不幸は長い期間一緒に暮らさなければとても理解できるものではない(幸不幸を計るなんて、なんとお節介なことだろうか)。とはいえ、こういう理解が進まなければ環境がどうあるべきか、議論はできないのではないか。とはいえ環境がどうあるべきかは地域で決めれば良い。そのためにもステレオタイプではない実質的な地球温暖化の現場検証を進めなければいけないと思う。今回の印象ではインドネシアの方が貧富の差が大きいような気がした。生きるということに関しては気候が関係するからかも知れない。さて、来週は北京、石家庄出張。中国の中でも豊かな地域です。インドネシアでは弟子のノラさんにお世話になった。石家庄では久しぶりに沈君に会うのが楽しみです。(2007年10月2日)

お人好しなんですかね

前期に一年生向けに開講した「災害と空間情報」という科目の学生による授業評価に対してコメントを出さなければならないのですが、「先生がお人好しだとわかった」と書いた学生がいました。確かに私は昔からお人好しと言われては考え込んできました。善良という意味は良いのですが、ひとにあなどられやすい、というのはやはり悩みの種ですね。確かに50年近く生きてきて、初めて人には悪人と馬鹿がいることを知ったこともお人好しと言えば、お人好しなんですが。でも、お人好しもいいじゃないですか。何を言われても受け流す精神力さえあれば。ここが私の課題ですが、明日から一週間、大陸の風に吹かれてきます。その後は、熱帯の風に吹かれてこれからの人生を考えようかな。中国東北地方のはしっこの三江平原に27日まで、その後、インドネシアのボゴールに行ってきます。(2007年9月19日)

宰相の条件と博士の条件

安倍さんは相変わらず叩かれ続けていますが、16日の朝日の耕論−宰相の条件−で、同志社大の浜さんが、「宰相になるための最大のテストはけんかに勝つということ。後継として育まれるような立場に甘んじる人は、宰相になれないのではないか。育成という発想自体、宰相の資質を殺して行くのではないかという気がします。」と述べてます。この宰相の部分は博士と読み替えることができるだろうか。現実問題として学位取得後に研究者として生き残っていくことは難しい。肩肘張ってがんばる者だけが研究者として生き残る。育成などといって教育言説振りかざした指導を理想としていてはオーバードクター育成にしかならないのではないか。とはいえ、もっと産官教を自由に渡り歩ける社会であれば、無駄な苦しみは減ると思いますが。研究の目的はけっして国や大学や分野の威信ではなく、安心して少し豊かで誇りを持って暮らすことができる社会の構築であり、自分とひとが幸せになること、と考えることは決して間違いではないだろう。時流に乗って競争に明け暮れている分野ではそうは考えないかも知れませんが。ところで、宰相を教授と言い換えると耳が痛い。(2007年9月16日)

安倍さんの辞任

突然の辞任でしたが、まあ、ご苦労様と言いたい。もちろん、強いリーダーシップ型組織を目指していたのだからやめてはいけない。しかし、ふつうのひとがリーダーになる時代が来たわけです。様々な圧力、批判にさらされては、ふつうの人は心身を壊してしまいます。これは私にもよくわかる。もうトップダウンではなく、別の組織のあり方を考えても良いのではないか。それはネットワーク型組織。大学が念頭にありますが、総合大学は様々な分野の集合体。それぞれの分野が力を発揮しなければなりません。足の引っ張り合いをやっている場合では無いのです。ネットワーク型組織では調整型のリーダーが必要でしょう。寅さん型リーダー。あっちで話を聞き、まあまあ。こっちで話を聞き、まあまあ。最終的には折り合いがついている。そして、もう一つ重要なことは、組織のメンバーがそれぞれ自分が何をすべきかを理解していること。そうすると、互いの立場が尊重でき、強い組織になっていく。ただし、国の評価の観点がネットワーク型組織評価型になっていない。御上にも毅然とした態度で独自の組織のあり方を主張できる胆力がリーダーに必要になってくるでしょう。ただし、運営費交付金をちらつかせられるとぐらっと来てしまう方が多いのだろうな。(2007年9月13日)

「アカデミック変人」待望論

朝日の広告特集から。今の閉塞した時代を打ち破り、新しい方向性、パラダイムを打ち立てるには大学にも「アカデミック変人」は必要でしょう。特に地方大学では。とはいえ、昔はこんな変人はたくさんいたように思います。それは、右肩上がりの時代。大学で誰が何を研究しようがお構いなく、企業は白紙の学生を欲しがった。幸せな大学人でいられた時代ですね。変人が成果を出さなくても構わなかった。でも、今は違います。研究も教育も“外形的な”成果により、評価される時代。変人も成果を出す変人でなければ、ただの世間知らずの幸せな大学人です。それはしょうがないのですが、特色ある研究成果を出しにくくなってきた時代背景は確かにあります。予想される成果を申請書に書かなければならないのですから。ですから、全身全霊を傾けて何に役立つかわからない研究に没頭するという態度も大学がブレークスルーをするために必要、という考え方もあり得て、それは大学が教員に投資するということになります(時には失敗する)。とはいえ、誰に投資するか。給料が下がり、講義や管理業務の負担が決して平等ではない現在、周囲が「アカデミック変人」を容認することは難しいでしょうね。本当は認める態度が必要なのですけれど。結局、やるべきことをやった上で研究に没頭するという当たり前の議論になり、それはスーパーマンであることを強要させられる、ということになりがちです。(2007年9月12日)

自己中心心性

「地域を考える−小学生が本音で語るとき−」(菅原康子著、農文協)から。20年近く前に出版された本を読んでいます。自己中心心性とは心理学で子どもが自分中心のものの見方をすることだそうです。小学校中学年になると、多くの子どもが自己中心心性から抜け出すとのことです。その契機は、事実を事実として見る、ということで、そのような契機に出会ったとき、子どもの見方、考え方が客観性を持ち、自己中心的な見方から抜け出すことができるという。そして、事実には一つのことで律しきれない多様性がある。そこには限定された設問も正解もないことに気づく。このようにして子どもは成長していくんだなと思います。しかし、大人はどうだろうか。自分が正しいから、ひとは間違っている。自分が思うことが事実である。せっかく抜け出した自己中心心性に戻ってしまっていないだろうか。特に研究者は好き勝手に生きてきた人種で、ニュートン・デカルト的な思考を規範としている研究者にそんな傾向はないだろうか。こんなことを書くと怒られそうですが、真理探究型科学と関係性探求型科学(大熊孝流の言い方)の研究者はそのパラダイムが価値観、考え方に影響を与えていないか。そんな気がしてしょうがないのです。昔の科学者は寺田寅彦はじめ両方の態度を持っていた。しかし、科学の分野が細分化され、深化されてきた現在、研究領域のあり方がその人の価値観、考え方を支配していることはないだろうか。(2007年9月11日)

生きる力

「早朝座禅(山折哲雄著)」を読んでいて文科省用語であるこの言葉が気になり調べました。「生きる力」とは、「...自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、...(中央教育審議会)」とされています。まさにその通りであり、特に大学における卒論、修論、博論の過程においてはこのような態度の修得を目指しているわけです。しかし、すべての学生にこのことを伝えることができるとは限らないことも体験しています。課題は与えられるもの、研究環境や予算も与えられるもの、知識や考え方も与えられるもの、答えまで与えられるもの、と考える若者も時々います。我々教員は「研究」を通じて「生きる力」を学ぶ一歩手前までは導くことができますが、そこから「生きる力」を見いだすのは学生個人の資質にも依ります。資質などというと批判される方もおられるでしょうが、現実には我々教員は完璧ではなく、学生はその能力、態度において平等ではありません。どんな学生でも「生きる力」修得まで導くことができるのが理想で、失敗した教員を指導力不足とするのは、あまりにも現場やひとの心のあり方を無視した考え方ではないか。大学教員は成人の“しつけ”まで責任を負う時代になったのだろうか。(2007年9月9日)

俺は悪魔だ。地獄に住んでりゃ誰でも悪魔になるさ。

今朝大学に向かう車中、ラジオで聞いた言葉。レオ様の映画の台詞からです。確かに、周りの環境によってひとは変わってしまう。これは環境決定論ですが、一方で地獄の中でも悪魔の心を持たない生き方も可能かも知れない。大学も競争社会の中で、分野間の競争に陥り、足の引っ張り合いのような雰囲気もあります。これは地獄で悪魔でしょうね。ある分野が勝ったとしても総合大学としての組織の力は弱まります。競争社会の中でも、人を貶めることにより相対的に自分が高まりに立つのではなく、自分が高まることにより相対的に上位に位置するという生き方も当然ある。少なくともこのやり方でないと、各分野の相互尊重と協調による総合大学としての発展は無いでしょう。今、中期計画の達成状況の報告書の作成を進めていますが、小さいが着実な成果、地道な努力、積み上げ型の仕事、といった成果を書くようにはなっていない。やるべきことをきちんとやっているという仕事は評価されにくい。なんとか、こういった仕事を評価する仕組みはできないものだろうか。(2007年9月8日)

台地の風景

病院から大学に向かうときは天戸台というところを通ります。ここは台地上に畑が広く残り、斜面林と古い集落、そして崖端から望む花見川の低地が心を和ませます(花見川低地を望むにはもう少し南の諏訪神社からの光景がすばらしい)。花見川は新しい川ですが、この道は御成街道と呼ばれる徳川家康ゆかりの道で、道ばたに道祖神や一里塚のような歴史を感じさせるものがあちこちにあります。私はこういう台地の風景が大好きなのです。台地は私が生まれ育った地形だからでしょう。修士課程が終わった時に、博士課程では台地の研究をやりたいとボスに相談したら、修士論文で概ね博士論文の骨組みはできたのだからもう少し続けなさい、と指導されたことを思い出しました(その結果、今があるわけですが)。それから25年、そろそろ台地の研究に進もうか。台地の水循環、地形の形成、やるべきことはたくさんあります。しかし、この研究は関係性探求型科学、個別性科学、であり今の組織、時代にはそぐわない。経験の積み重ねが必要な分野だから。しかし、私の人生も残りは多くない。様々な事件が起こった昨今、それは生き方を変えよと言われているような気もします。(2007年9月5日)

デリヌルさんの帰国

3年と4ヶ月私の研究室で過ごしたデリヌル アジさんが今日中国に帰国しました。あまり個人的なことを書くことはよろしくないかも知れませんが、やはり彼女の努力をここに残しておきたいと思います。彼女は新彊師範大学で観光地理学を教えていましたが、新彊の環境に対して何かやらなければならない、というモチベーションが高まり、ご主人と子供を残し、私費留学生として私のところにやってきました。もともと文化系ですのでリモートセンシングや地理情報システム(GIS)にはなじみがなく、当初は苦労したと思いますが、がんばって身につけることができました。その甲斐あって新彊師範大学ではこれからGISの講義を開設することになったそうです。一年目はこんな感じで技術を身につけることに費やし、二年目に研究を本格化させましたが、私費留学生生ですので資金面では大変苦労をしました。三年目にようやく奨学金を頂くことができ、安心して研究に没頭できるとおもった矢先、今度は持病が悪化して入院することになってしまいました。それでも病院のベッドで作業を続け、最後は学位論文を仕上げることができました。デリヌルさんは本当にがんばった。博士の学位に値する仕事ができたと思います。最近、博士課程のあり方についていろいろ考えさせられることが多いのですが、やはり博士課程の学生の力は研究課題に対する情熱だと思います。この力があってはじめて教員の様々な支援が生きてきます。さて、月末にはインドネシアに帰った学生と研究打ち合わせにボゴールに行きます。来月には中国に帰った学生に会いに石家庄に行き、いろいろ相談してくる予定です。ちょうどオマーンで職を得たインド人の学生から論文が送られてきました。だんだん卒業生の研究の輪が広がっていく、こんなうれしいことはありませんね。(2007年9月3日)

朝青龍の帰国

朝青龍が帰国しましたが、あの表情は本当につらそうです。私は批判にめげず、がんばって欲しいと思う。相撲もビジネスですが、そのマーケットが代わりつつあるのではないか。協会側は地方のお年寄り(こういう言い方が正しいかわかりませんが)の持つ規範に則って運営したい、という思いがあるのではないか。それはまっとうな姿勢だが、将来の協会の規模を小さくせざるを得なくなると思う。一方、相撲を野球やサッカーと同じスポーツとして捉える立場も増えている。勝負に対する選手(力士)の姿勢、勝利したときの感動、敗退してもまたはい上がってくる姿、こういうシーンを見て我々は生きる力を頂いている。この場合のマーケットは広く、世界に繋がる。この立場からは、朝青龍の振る舞いをどう捉えたら良いか。一喝しておけば良いのではないか。問題になったモンゴルにおけるサッカーですが、どういう背景があったのか。愛国心、ひとに対するサービス精神、...朝青龍はモンゴルのために闘っているとしても、それは批判されることではない。ひとには見えない内面を理解せずに、単純に責めることはできません。さて、マーケットといえば、大学のマーケットは何でしょう。ここもまた真剣に考えなければなりません。また、モンゴルに行きたい。ゲルで一夏過ごしたいですね。(2007年8月30日)

簡単化と複雑化

今届いた名古屋大学の21世紀COE-SELISニュースレターの中に、「真鍋淑郎先生との100日間」(堀さん)という記事があり、真鍋先生の言葉がありました。モデリングに関して「地球のすべてをシミュレートするのではなく、大事な要素だけを取り出して必要に応じて簡単化と複雑化を行い、物事の本質に向かうべきだ」。簡単化が重要で、これは従前から先生が主張しておられることですが、私自身、このことが伝えにくいことを実感しています。私の場合、地下水シミュレーションですが、学生(に限らずひと)は、現実を完璧にモデル化しようとする、するとデータが無いからできなくなり、解決策の無い問題に悩むことになる。現実を可能な限り忠実にモデル化して、内捜検定を繰り返し、パラメータを最適化した上で予測を行うのは、まあ、行政が行うシミュレーションといって良いでしょう。実際には境界条件、場の条件はわからない場合が多い。そういう場合でも簡単なモデルの結果の比較から、こう考えざるを得ない、という結論を導き出すことが可能であり、サイエンスの手法と考えて良いと私は思います。見栄えは良くないかも知れませんが。現象の本質を見極める視点を何とか学生に伝えたいと思っているのですが、外形的な格好良さに惹かれる気持ちをどう乗り越えるか、ですね。(2007年8月29日)

外形的ないたわり

この“外形的”というのは文科省の評価用用語で、目に見えてわかりやすい成果じゃないと評価できないよ、ということです。私はあまり好きな言葉ではないのですが、ひとをいたわるときには“外形的”というのは重要かも知れません。今、母とかみさんが交代で夜間の付き添い看護をしていますが、これは大変です。私も一度やろうとしたのですが、やはり難しい。大変な苦労をかみさんに押しつけているのですが、いたわる心はあるのだよと心の中で思っても、そんなことは伝わりません。目に見える努力をしなければならないのですが、私の性格上なかなか難しい。よかれと思ってやった、言ったことでも、怒られたりしています。外形的に行動できないのは未熟だからでしょうか。あいにく、本日、未熟者。中島みゆきの詞は心に染みます。(2007年8月28日)

いいひと

今朝も病院へ行きましたが、毎日毎日入り口前で車や通行者の誘導をなさっている警備員の方がいます。まさに誇りをもって仕事を遂行しているということが伝わってきて、いつも落ち込んでいる私を晴れ晴れとした気分にしてくれます。まさに“いい人”なのです。こういう振る舞いができるようになりたい。以前、自分を苦しめるのは他人の情けにすがろうとするから、と書きましたが、もうひとつあり、それは“自分はいい人である”、という思いこみなのです。自分は正しいのになぜ悪者になってしまうのか、と考え、落ち込んでしまうわけです。いっそ自分は悪者である、と認めてしまえば楽になるのか。いやいや、さらに落ち込むに違いない。さて、どうやって乗り越えるか。自分を磨くしかないのですが。昨夜は父を病院に託す決断をしました。実につらい。そういう私も、人生とっくに後半。人生の最後をどう締めくくるのか、そろそろ準備を始めなければならない歳です。(2007年8月26日)

海と森と山と

今日は卒論の資料収集に富山町(現南房総市)まで往復しました。なだらかな房総の山々、緑が濃い照葉樹、光る海を見て本当に心が安まりました。やはり、部屋にこもっていては精神が萎縮するばかりです。館山道開通で本当に近くなりました。今年は千葉県に関する卒論を進めています。涼しくなったらばんばん行って、心を解放させたい。(2007年8月24日)

博士問題

今日も朝日に博士号を取得した人材の就職難に関する記事がありました。まったく深刻な問題です。これまでにも何回か書いていますが、第一の理由は研究者の研究志向の強さでしょう。これが悪いといっているわけではなく、研究に対するスピリッツがきちんと学生に伝わっていれば学生もどんな困難でも乗り越えられると思います。しかし、現実はそうは甘くはない。生活をしなければならない。研究と生活を両立させるなければならない。どうしたらよいか。まず科学の成果を如何に社会に返すか、科学に価値があることを如何に社会に伝えるか、我々は真剣に考えなければなりません。そして、学生の価値をアピールしなければなりません。本来は産学教がもっと交流できれば良い。まずは自分ができるか。ここが肝心なのですが。(2007年8月23日)

助けられるということ

私は人付き合いが良くない性分なので、なるべく人の助けを借りずに自分でやることをモットーとしてきました(本当は陰ながら助けられているのですけれどね)。しかし、“助けられる”ということは実はとても大切なことなのではないかと今は感じています。助けられたことがある人が、人を助けることができるのではないだろうか。競争社会の中で、“自分が、自分が”と言っていないと取り残されるような風潮もありますが、人のために尽くすということが安心や幸せに繋がるのではないか。人生は最後が良ければ良い。“人”というのは私にとって当面は、家族、仲間、そして学生です。人のため、という人生を考えたい。今朝も病院に寄ってきましたが、今日の父は話すこともつらそうでした。この父には本当に助けられました。父を助けたいけれど既に難しい。うちの子供たちは社会に出るまであと10年。子供のために私もあと10年はがんばろう。命は繋がっております。先日のNHKスペシャルでフィンランドにも輪廻転生という考え方があることを知りました。輪廻転生を信じると苦しみを乗り越えることができるような気がします。仏教ですね。(2007年8月22日)

バックキャスティング

朝日朝刊から。2050年に炭素排出量を半減するためには現在どうすれば良いか、というコンテクストの中で出てきた言葉です(こう考えると半減は難しいようです)。このように望ましい未来を想定して、そうなるためには現在どうすれば良いかを考える、という思考法は、未来を展望する三つの方法(@過去に学ぶ、A現在の境界条件で未来をシミュレートする、そしてB想定した未来に到達するため現在を変える)の一つで、以前からいわれていることでもあります。私は恩師である榧根勇先生が昔から言っていることの受け売りで、講義等でよく使っていますが、昔はこの三番目の考え方はメジャーではなかった。多様な価値観のもとでは望ましい未来など想定できないから。世の中まあまあうまくいっていると思われている時代はそうなのでしょう。しかし、エネルギー問題、地球環境問題、等いろいろな問題が顕在化してきた現在、三番目の考え方はいよいよ現実味を増して来たのかも知れません。(2007年8月19日)

明日が来ることが楽しみ

24時間テレビで萩本欽一さんが、球団を始めてから明日が来ることが楽しみになった、と言っていました。うらやましい。私もそうありたい。今の私は明日が来ることがなんだかつらい。何かを見つけなければ、何かを変えなければと日々悶々としています。今日の父は副作用が苦しそうでした。私は自分のことであれば、人生最後の瞬間が良ければ、途中の苦しさは我慢できると思っているのですが、苦しんでいる父をみているとつらい。最後に良くなるためにどうすれば良いのか、模索ばかりでなかなか見えてきません。(2007年8月19日)

弱音(その2)

病院に行く道すがら、母が道いく幸せそうな方々に文句を言うのを思わずたしなめてしまったが、ひどく傷つけてしまったようです。見知らぬ方々が背後にどんな問題を抱えているかもわからず、それを知らずに批判めいたことをいう態度に我慢がならなかったのですが、母に悪いことをしたと思っています。母は人生の後半は無事な暮らしに到達できたのですが、前半はつらい時代があったことは私も知っています。人というのは弱音を吐いてもいい。昨日書いたばっかりではないか。人の弱音を受け止める態度も必要だと反省しています。(2007年8月18日)

弱音

弱音を吐かずにじっと耐える姿は格好いい。まさに高倉健ですね。しかし、生きていたいのだけれど生きるのがつらくなったときは弱音を吐いてもいいのではないか。弱音を吐いて、へたって、へたって、どん底に落ちると、ひとのやさしさが身に染みてわかるに違いない。これまでは一人で生きていけることが理想だと思っていたが、ひょっとしたら違うかも知れない。それにしても、人生50年を生きてしまった。これからは余生なのか与生なのか。林住期(五木寛之)では自分のことを考える時期であったように記憶しているが、月給をもらっている以上組織のことも考えなければならない。何よりも家族と学生を守らなければならない。なぜ“自分”と違う考えは悪にされてしまうのだろうか。信念はあるつもりだったが、心が弱ってくると不安ばかりが先に立つ。(2007年8月17日)

へたってはいけない

今朝も母を病院に送りましたが、6時前だというのに街は通勤者で活気にあふれています。あたりまえですが、生業を維持するために皆さんがんばっている。彼らを見るとへたっている場合ではないとつくづく思います。私といえば、9時過ぎに大学に行き、だらだらと仕事をして、8時にお寺の鐘が鳴ると帰る準備を始めています。仕事時間は満たしていますが、最近悩みばかり多くて仕事にむらが多い。自分だけの問題ならばどうなっても良いのですが、家族や学生に迷惑をかけてはいけない。鈍感力があるんだか、無いんだか。鈍感ですと楽ですが、どんでん返しもあるということ。肝に銘じないといけません。(2007年8月16日)

終戦記念日を迎えて

62回目の終戦記念日となりました。命が無条件に奪われる危険性が一応無くなってから62年ということです。今朝も父を見舞いに病院に行ってきましたが、まだ副作用は出ていないようでほっとしました。父は戦時中のことはあまり語らないのですが、機銃掃射を受けた話は時々聞きます。羽田で作業をしていたらグラマンがやってきて機銃掃射を受けた。友人が被弾したので運ぼうとしたら身体が二つに裂けてしまった。先日放映された「はだしのゲン」の話をしたときも、空襲を受けた後の状況はあんなものではなかったとのこと。体験していない戦争を自分のものとして意識することは難しい。自分は相手の気持ちがわからないまま人を傷つけていることもあるのだろうか。自分の思いは自分だけのものであることを痛感しています。昨年以降、こんなに病院通いすることになるとは思いもよらなかった。病院には喜び、悲しみが満ちあふれています。病院は命を守ってくれる場所、そして命を送る場所にもなっています。終戦記念日は戦争による命の危険が無くなってから62年ということですが、今は戦争以外の危険も満ちあふれている。人類の歴史の中で少なくとも近世以前は生活の中に命の危険は満ちあふれていました。徳川綱吉の生類哀れみの令は人民を苦しめたことになっていますが、実は武士による無用の殺生を戒めたものであったと聞いたことがあります。以降、人々は日常の生活の中で命を狙われることは一応無くなったわけですが、最近では精神的な苦しみが大きくなってきたのではないか。それにしても、医師や看護師の多忙ぶりには脱帽します。私も治療ができるのであれば試みようと思いたって、予約をしたら一ヶ月以上も先になりました。それだけ世の中苦しんでいる方が多いということだろうな。(2007年8月15日)

お盆休みにて

とうとう今年もお盆がやってきました。本当に暑いのですが、トンボも見かけますし、蜩も鳴いていますので秋は確実に近づいてきているようです。今日は父が二回目の化学療法のために入院しました。父は私よりもずっと人間力があり、多くの人を助ける力を持っています。できることなら私が換わりたいくらいです。自分は大学にいる価値があるのか。私には自分の学生を幸せにする力がないのではないか。ずっと自問自答してきましたが、ますます自信がなくなっています。つらいのですが、それは他人の情けにすがろうとするからです。こんなことを書いているのもそういうこと。はだしのゲンを見て、少し元気づけられましたが、今の時代でも生きのびることがつらいのは同じ。大学をやめたら自分に何ができるだろうか。何もないのではないか。自分の価値は何だろう。学生のために一生懸命に研究環境の整備に努力したつもりですが、コミュニケーションが足りなかったろうか。まったく袋小路で出口が見えません。何とか自分に価値を見いだしたい。そんなことを考えながら悶々としています。(2007年8月13日)

千葉県総合教育センター「地図と衛星データから見た地球環境・地域環境講座」開催

ここ数年続けていますが、表記の研修事業を開催しました。環境や災害は現場の実情を知り、考えることが必要ですので、その機会を初等・中等教育の現場に生かすことができればいいかなと考えてやっています。そのためには、参加者が帰ってから教材として使える話題とコンテンツを提供するという点を重視しています。なかなかうまくいきませんが。少しでも教材化ができればいいのですが、無理かな。今の時代、教育や啓蒙活動は大学では本質的な評価はされないのですが、自分の仕事をこういう方向にシフトできればと思っているこの頃です。自分の持っているものを伝えることは楽しい。(2007年8月3日)

海外の優秀な学生を採りにいく

朝日朝刊の記事で、東大の小宮山学長による東大運営の話です。東大は優秀な学生を採りにいっても良い。しかし、私は優秀かどうかなどはどうでも良い。モチベーションがしっかりしていれば受け入れたい。留学生は先進国の学生ばかりではない。また、一国内でも様々な格差がある。日本で学ぶために必死でお金を貯めて、日本語を勉強してきた彼、彼女らに何とか力を付けてもらい、次のステップに進む踏み台にしてもらいたい、と私は思います。もうひとつ、東大では「知の構造化センター」をつくったという話題がありましたが、こういうことは千葉大学も推進すべきことと思っています。個々のディシプリン科学を超えたものを作り上げないと地方大学の将来は厳しい。(2007年8月4日)

学生の研究旅費

野外科学では主要な研究手法は野外調査であり、費用がかかります。だから、卒論、修論、博論のための調査旅費をどう工面するかというのが指導教員の大きな悩みの種です。そこで、野外調査が必要な課題はプロジェクト研究の課題と関連させて、科研費等の競争的資金を使っているのですが、これは千葉大学では禁止されています(理事から念を押されたことがあります)。研究補助は予算を獲得してポスドクや非常勤研究員として行うべきであるというわけです。一方、学長と学生の懇談会で院生から旅費に対する要望が出て、その結果、出張という手続きが可能であることが確認されたようです(当然競争的資金の利用が前提です)。これまでも科研費では学生の帯同が制度上可能なので、学生をプロジェクト研究に参加させるなという主張の根拠は曖昧であり、大学の方針が一貫していないことを意味しています。私は学生は研究プロジェクトの一員として責任を負うことにより、多くを学び成長することができると考えます。もちろん学生個人の希望を尊重したテーマ設定も可能であり、その際にも可能な限りのサポートはしています(ただし、解くべきテーマが重要であることを主張できることが前提です)。大学の経営者は個別に理想論を述べる前に、現場を知り、一貫した方針を持って欲しいと思います。ちなみに昨年までは卒論、修論指導に対する予算配分はなく(本務地が研究センターだからだと思われます)、博士課程は年間約18万円でしたが、今年は卒論生\10,710-、修論生\35,532-、博士\50,780-です。競争的資金を使わなければこれですべて賄わなくてはなりません。確かに少ないけれど、その分教員は予算獲得をがんばります。教育も競争の時代がやってきたようです。ちょっと腑に落ちない点もありますが。(2007年8月1日)

二十世紀最後の10年プロジェクト

8月になりました。まだ若干の行事と採点が残っていますが、少しずつ研究モードに復帰していかなければなりません。さて、雑用の合間にコンピューターに仕事をさせて作成したホームページがほぼ形を整えてきました。ここから入ってください。NASAが公開している1990年頃と2000年頃の衛星画像(TM)のモザイク画像を同時に同じ場所(Windowモード)、あるいは連続させて(Screenモード)表示することができます。これを眺めていると様々な変化が見えてきます。海岸侵食、河道の変遷、森林伐採、都市化、農地開発、等々。そしてその背後にあるひとの生活、社会的問題を想像していますが、これをベースにしてアジアの環境問題に取りかかっていきたいと考えています。“問題は地域におけるひとと自然の関係として顕れる”(環境社会学の本にありましたが出展は調査中)に則り、小さな成果を積み上げていきたい。まさに、地球環境問題の現場検証(これは池田寛二先生の本の題名)を推進したいと考えています。(2007年8月1日)