口は禍の門

2007年度が始まりました。このコーナーもだんだん調子に乗り(調子には二つの意味がありますね)、思ったことを記録する習慣が身に付いてきました。今年度も続けたいと思います。4月1日は桜が満開でした。うちの裏のマラソン道路(習志野市のローカルネタですみません)も数kmにわたって様々な種類の桜が咲いています。人がたくさん繰り出して桜を愛でていますが、こういう日本人の心情はとってもいいなあ、と思います。

2006年度までの書き込み


大学教員は何をすべきか

今日の会議は長かった。法人化後の大学の評価書を作成する委員会ですが、また莫大な仕事を抱えてしまいました。組織に所属する者として当然やるべき仕事なのですが、気が重いのはなぜか。それは、大学教員が何によって評価されるかというコンセンサスができていないからだと思います。例えば、部局として特に優れた業績を挙げよ、という指示がありますが、実はこれは科学の中のある一つの拠り所、パラダイムと言うべきか、に立った考え方に過ぎません。ブレークスルー型科学では優れた業績は簡単に挙げることができるかも知れませんが、ボトムアップ型科学ではアピールが困難です。ボトムアップ型科学は小さな成果を積み上げる必要があり、また個々の課題が極めて深い内容を包含しており、かつ課題は相互に関連性があり、地域性にも支配されて一般的な解釈は困難です。とはいえ、ひとの生活に直接関わる分野でもあります。そして“環境学”があるとすると、それはボトムアップ型科学です。このような科学を“外形的”という基準で、ブレークスルー型思考の評価者を納得させるのは難しい。しかし、環境や災害はもはや我々の暮らしの中で避けて通れない重要な課題になっていますので、いずれ人々の自然観が変わり、ボトムアップ型の環境学が理解される日が来るかも知れません。以上は研究面ですが、教育面も同じような問題を抱えています。それはまたいずれ。(2007年7月31日)

民主党圧勝−生活が一番

今回の参議院選挙ですが、民主党の“生活が一番”というキャッチコピーが心に留まりました。多くの方々が将来に不安を感じている現在、生活を前面に出した民主党に支持が集まったのは自然な成り行きのように感じます。一方の自民党は不祥事もありましたが、“美しい国”創りはやはり生活感に乏しい。競争や格差拡大にうんざりしている国民にはどこか遠くで語られているような響きを持ったのではないだろうか。生活を重視する姿勢は環境社会学の“生活環境主義”とも通じるところがありますが、これは“美しい国”とは相容れないものではないと思います。生活を重視しながらも、誇りを持って国際社会に対峙できる国創りも可能だと思います。そのためには“豊かさ”に対する考え方の転換が必要ですが。それにしても自民党の生活感の無さは二世議員とも関係があるのではないか。今回も地方や農山村の切り捨てが問題にされていますが、中山間地では山で育った一世と山で生まれ里に下りた二世までは故郷意識がありますが、三世になると故郷意識が希薄になり、その結果ターミナルに位置する中山間地がどんどん滅んでいる、という話を聞いたことがあります。首相がめざす“美しい国”も都会の論理でしかないのではないか。地方が見えていないことによって地方が滅びやしないか。やはり現場が重要で、そこにあるのは生活だと思います。一方、同じようなフレーズとして大学では、“教育が一番”といえるのではないか。研究エリートにあこがれてうまく成功した輩が専門家でもないのに教育に言及し、研究志向の中で行われる“教育”が学生と大学を壊している現状はないか。検証は権力が行うことになりますので、なかなか“真実”は出てこないかも知れませんが。(2007年7月30日)

鰻に満足

夜、名古屋に向かう新幹線の中で駅弁の鰻弁当を食べたのですが、これが鰻二段重ねで満足いたしました。庶民ですので、こんなことで十分満足してしまいます(もっとも来年は鰻は高くなるかも)。今、選挙期間中ですが、豊かな暮らしをめざして皆さんはがんばっていると思います。しかし、“豊か”とはそんなにコストをかけなくても実現できるのではないか。豊かな心と、ちょっとしたセーフティーネットがあれば可能なのではないか。トップを強化するか、ボトムを強化するか、といったちょっとした考え方のシフトで良い国を創ることは不可能ではないと思います。もちろん二者択一ではなく、ボトム(生活、暮らし)を強化することでトップ(経済、外交)も良くなる道もあるでしょう。まさに教育が重要な所以です。梅雨明けはまだですが、それにしても連日暑い。しかし、周りに緑と風が吹き抜ける空間と大きな窓があれば、エアコンは無くても我慢できるのではないか。今の建物ではエアコンが無いととても仕事はできません。昨今の風潮からすると倫理的ではないかも知れませんが、私は生活を優先させますので、必要な時にはエアコンをつけて、快適性から少しでもゆとりを得たいと考えています。しかし、真にゆとりある社会になったら、心の豊かさを求める姿勢は環境も改善させる力を持つことになるでしょう。なかなか簡単にはいきませんが、ちょっとしたことでも満足しながら生きていこうと思います。(2007年7月27日)

弱いものいじめ

参院選投票まで一週間となりましたが、政見放送等、選挙に関わる主張では“弱いものいじめ”をしない社会づくりなんていう主張を良く聞くように思います。確かに、“弱者切り捨て”の政策は明らかにあると思いますが、その根本的問題はリーダーシップのあり方にあるのではないだろうか。リーダーとしての資質がない方は、弱いところを切ることでしか業績を挙げられない。しかし、真のリーダーならば、“弱者”を生かす、活用することができる、なんてことは皆さん思っているのでしょうね。それが難しいのはリーダー個人が幅広い知識・経験を持つことが困難だからなのですが、これは意外と意識の問題ではないだろうか。私は20年以上にわたり地理学関連の職場を異動してきましたが、そこでは森羅万象、神社仏閣から宇宙まで語る方々と付き合い、何でも受け入れる態度を醸成することができたかなと思います。地理学のような総合科学はこれからの時代ますます重要になって来るように思います。ただし、学問を芸術にしてしまった傾向があるため、現場の問題には弱くなってしまった。現場では社会学等の分野に追い越されているように思います。ちょっとがんばらねばあかん。いずれにせよ、経済発展、技術革新で問題の解決をはかろうという姿勢は早晩限界を見るのではないか。どうすれば良いのか、提言して行かねばならないと思っています。(2007年7月22日)

法政大学との合同ゼミ

法政大学地理学教室の小寺先生のご尽力で、小寺研−近藤研合同ゼミを開催しました(早稲田からも学生参加)。千葉大学の理学部地球科学科は研究室配属は4年生からであり、CEReSにおける研究課題や手法は学部のカリキュラムにはほとんどありません。一方、法政大学地理学教室は3年生から研究室に入り、今年からはなんと2年生からだそうです。それだけに問題意識、進行具合でどうかな、という懸念はありましたが、まあまあ良く検討したと思います。どの学生も社会に出たら土俵は一緒。千葉大学外のレベルを知ることは自分の到達度を位置づけ、次にやるべきことを考える重要なステップになります。私立大学における教育に非常に興味がありますので、私も勉強になりました。千葉大学は研究志向が強すぎて、学生の立場にたった教育、社会の中で分野を位置づけて行う教育、のあり方がまだまだ弱いと思っています。今後とも続けていきたいと思います。ギボンズ流の“モード2科学”、大熊孝流では“関係性探求型科学”では連携による知識生産が重要ですので。(2007年7月21日)

CEReS修士2年生中間報告会

大学の研究者は放っておくとどんどん蛸壺に入り込んでいく傾向がありますが、今年から千葉大学では大学院自然科学研究科が四つに分断されてしまいました。時流に乗っている分野は良いのかも知れませんが、関係性探求型科学である環境分野にとってやりにくい状況になりました。CEReSに来ている修士課程の大学院生も理学研究科と融合科学研究科に別れてしまいましたが、今回一つに纏めて報告会を開催できたことは非常に良かった。蛸壺に落ち込まない機会をこれからも作っていきたいと思います。(2007年7月20日)

教育、研究、等に関する自己目標設定・評価カード その3

この調査はユニオンからの団交の申し入れのため留め置くという通知が理事名でありました。民間会社でしたら目標設定、実施、達成度評価、修正の繰り返しで業務を進めていくことは当然なのですが、教員個人としては抵抗感がありました(もちろん、プロジェクトは別です)。やはり、大学の教員は個人の信念で教育・研究を推進するのが筋のように思います。教育はロボットではなく、ひとが対象ですから。また、普段の研究はインキュベーション研究ですから。最終的には組織が評価されますが、組織はあくまで個人が発展するための仮の宿なのではないか。そうでないと研究者をめざす若手の夢が無くなります。様々な価値観が混在しているのが大学の特徴なのですが、確かにそのベクトルがバラバラなのも問題です。そこをどう纏めるかがリーダーシップなのですが、表記のカードが上策ではないことは確かです。では、どうすれば良いか。まずは@大学のリーダーがすべての分野を俯瞰する資質と力を持っていること、A教員個人がやっていることが外から見えること、ではないか。Aはホームページはその手段の一つだと思います。自分の仕事を明らかにした上で、さらに教員間、分野間の交流を進めることが大事であると考えています。それにしても、価値観が多様すぎて、自分と異なる価値観は悪であると考える輩がいるのには困ります。(2007年7月20日)

新潟中越沖地震

台風がすぎたと思ったら、大地震。徐々に被害の実態が明らかになってきていますが、柏崎は3年前の中越地震では液状化の被害がたくさん出ています。今回の被害地も沖積低地の微地形で説明できるだろうか。能生とか名立という地名もニュースに登場しますが、地すべり地です。頸城の地すべりは今回は動いたのだろうか。一方、柏崎原発が運転停止になりました。復旧まで時間がかかりそうですが、これが夏まで続き、電力の需要に応えられなくなれば、それはそれで良いのではないか。原発が止まって夏の電力需要が何とか賄われたとしても、その影で必死に努力をしている方々の姿は一般には見えない。我々の将来のあり方を考えるきっかけにするために、しばらく原発には休んで頂き、ゆっくり対策を練って欲しい。地震等の自然災害には適応するしかない。もはや経済の成長により問題解決は図れないのではないか。自然とうまくつきあいながら、少し豊かな暮らしを実現する戦略を我々は持たなければなりません。(2007年7月16日)

留学生受け入れ−複眼的な理念と戦略を

朝日の朝刊から。一橋大の先生の投稿です。留学生受け入れに基本理念がない。これは私も常々感じていたことです。理念がないからたまたま現在多く受け入れられるところが組織の中で鼻息が荒くなっていく、あるいは分野によっては留学希望者が多くても学生指導が困難になっていく(今年は博士課程1名の経費はわずか5万数千円です)。いろいろな問題が生じてきています。いずれ理念がない総合大学では分野間のバランスに大きな問題が生じ、時代の変遷に対応できなくなるのではないか。さらに、大学教員は研究志向が強く、“優秀な研究者養成”といった美辞が力を持ち、本当の需要に応えられなくなるのではないだろうか。正直申して、研究者の重要は極めて少ない。また、アジア各国で基礎研究で飯が食える国は多くはない。一方、留学生の多くは勉学のモチベーションは高く、具体的な解くべき課題を持っている方が多い。彼ら、彼女らの期待に応えなければならない。ピュアサイエンスは重要ですが、問題解決に直ちに結びつくとは限らない。大学院、特に博士過程のあり方を問い直さなければならないのではないだろうか(7月5日の記事に関連)。多くの方々が主張しているが、なかなか大きな潮流にはならないフィールド科学、個別性の科学、モード2科学、関係性探求型科学、...これを実現する教育のシステムを作らなければならないと切に思います。(2007年7月16日)

九十九里浜巡検

台風が近づいていましたが、日帰り千葉巡検を実施しました。今回の目的は、@九十九里浜の海岸侵食の現状を体験すること、A元禄津波の供養塔を探し、300年前の津波に思いを馳せること、B南白亀川の元禄津波遡上地域の現場を見ること、でした。九十九里浜の侵食は私にとってはショッキングな光景でしたが、学生はどう感じただろうか。原風景の記憶がないとなかなかその意味を理解することは難しい。ここに教育の意義があると思う。元禄津波供養塔は本須賀の百人塚を見つけることができました。時間をかけないとすべて回ることは難しいですね。災害は忘れないことが重要です。南白亀川は元禄津波遡上地であるとともに、地盤沈下地帯でもありますが、思った通りでした。川の水位が周りの地盤より高いこと。台風接近中で海水が遡上していることもありましたが、治水安全度は高く無いことは明らかです。今日は台風も近づいており、県内の数カ所の観測所では河川の水位も高まって安全ではない状態が続いています。我々はそれをどう認識して社会の無事につなげていくか。少なくとも現場主義、この立場に立脚しなければならないことだけは確かです。(2007年7月14日)

教育、研究、等に関する自己目標設定・評価カード その2

結局、自分は自己目標で何を書くかというと、こんなもんですかね(7月13日版)。もう少し考えますが、いずれ“目標”と“達成”を張り合う時代が来るのでしょうか。その前に、今の世の中のあり方に対してリバウンドが必ずあると思います。

【教育】 学部新入生向けの災害教育を実施する(これはすでに「災害と空間情報」を開講中。これは学部段階でやっておきたい講義の一つでした)。大学院では“RS技術は現場の知識・経験があるとさらに生かすことができること”を伝えるために、災害、環境変動の現場検証に関する講義を実施する(これも分担で実施中)。
【研究】 衛星データの継続観測の特性を生かした「衛星環境変動学」の確立を図る(そのための二時期画像閲覧システムを構築しています。画像解析を伴わなくとも判読から得られる情報は極めて有用であることを示したい)。
【管理・運営】 はて、何を書けば良いか。大学の仕事はいやな顔をせずに精を出すといったところでしょうか。割り振られた仕事は義務ですので、自己目標ではないと思いますが。自分から進んで委員会に参加するということはふつうは無いですね。ただし権力志向の輩だったらあり得るか。私は権力は大嫌い。
【社会貢献・国際交流】 中国・インドネシアを対象とした水循環・環境研究を継続して実施する(今年は中国、インドネシアに帰った卒業生と一緒に仕事ができることになり、楽しみにしているところです)。また、科学の成果の社会への還元に尽力する、といったところか。すでにSPP、市民講座等たくさんやりました。来月もまたあります(ちょっとやりすぎて疲れ気味です)。
【支援業務】 これも何を書けば良いか。共同利用研究を推進すると書いておけば良いか。別に目標ではなく、我々の義務ですので、こんなところに書くことではありませんが。学内共同利用に関する支援との事例出しもあります。私は計算機システムを解放して他部局の方々にご利用頂いておりますが、予算の裏付けもありませんので、いつまで続けられるかはわかりません。

教育項目の記入例に「毎回の授業における小テストの実施などにより個々の学生の理解度を把握し、きめ細やかな教育を実践する」とありますが、これは現場経験の無い事務の方が書いたのでしょうか。格好いいのですが、現場でこれをやったら大変です。これも「教育言説」の類でしょう(6月2日参照)。我々は格好いい表現には十分注意しなければいけません。今年の学部講義は前半後半でそれぞれ200人近くの学生がやってきました。きめ細やかな教育は困難ですが、私はWEBで講義資料や追加情報を伝えています。しかし、これも著作権やデジタルデバイドの問題があり、そう単純なことでは無いのです。(2007年7月13日)

教育、研究、等に関する自己目標設定・評価カード

千葉大学では表記のカードに自己目標を記入して提出することになりました。後で自己評価するのだそうです。なぜ、こんなことが必要なのだろうか。@大学経営者が教員を信用していない、A教員の視野が研究に偏りがち、B仕事をしないと見られている教員がいる、C大学経営者が業績を作る必要がある、等々、複数の理由があると思います。こんな施策が出てくることは社会心理学的にうまく説明できるのではないだろうか。そして、うまいやり方では無いということになりやしないか。なぜなら経営者は評価せず、あくまで自己啓発に使うということ。これは責任丸投げ、単なる業績作りです。また、評価の基準はない。大学憲章といったものはあるが、個人の信念が一方的に不正と決めつけられてしまってはかなわない。大学は軍隊ではない。とはいえ、組織として言っていることと、やっていることが乖離しないように、時々自己評価することもやはり必要なのでしょう。自分は大学人としてやるべきことをやる、ただこれだけです(実は昨年の試行段階では私は“やるべきことをやる、やった”、と書いて出しましたが、だれも評価しないのでそのままです)。成果で見てくれ、と言いたいですが、明示しなければ何もやっていないことと同じ世の中。雑用ばかり増えますけど、文句ばかり言ってないで、どうすればよいか、という案を出さねば。(2007年7月12日)

保護者の理不尽なクレーム、専門家による支援検討−文科省

また出ました。Yahooニュースから。何回も主張しているように同様な仕組みを大学にもほしい。権力を使った圧力に対抗できる第三者による支援機関を切に望みます。(2007年7月9日)

サイエンスカフェ開催

幕張の(株)ウェザーニュースで、夕方のひととき、一般の方々対象のサイエンスカフェを開催しました。テーマは地球温暖化。高村先生が温暖化のメカニズム、私が温暖化の影響評価の話題を提供しました。とはいえ、いたずらに危機感を煽るのは大学人として避けたい。そこで、私の主張は、温暖化防止のために我々が倫理的な生活をしてCO2放出量を減らすのは原則正しいが問題解決には極めて迂遠である。影響が懸念される地域で実際に起こっている問題は温暖化以前の社会的な問題であることがある。ここを理解することなく、現場の方々の安心はない、ということをいくつかの例を挙げて解説しました。フィールドサイエンスでは実に多様な問題に対処しなければならない。個々の問題は個別性が強いが、根は深い。ニュートン・デカルト型科学によるわかりやすい説明にいつも負けてしまうのが悔しいが、結局少しずつ主張を積み上げていくしかない。(2007年7月5日)

大学と企業−博士号の数にこだわるな

朝日朝刊から。国策で急増した博士取得者の就職先がないことに発した、長谷川先生の意見です。企業の需要には修士が応えているのだから、博士の数にこだわることをやめるか、あるいは今までの博士を修士に代わる技術者として送り出すこと。同感です。現実に今の日本に研究者の需要は極めて少ない(これが競争を激化させ、分野間のバランスを壊し、日本の科学の不安要因になっていると思います)。一方で、専門的知識・技術を持つ人材は不足している。この状況を打開することなしに、大学の教育機関としての社会的機能発揮はない。不幸を量産するだけではあまりに切ない。一方で、大学教授の中には学生の資質と関係なしに博士課程進学を勧める人がいることにも痛烈な批判をしている。これは極めて耳が痛いが、学生の数により分野の将来が決まる法人化後の大学のやり方に問題があると思う。学生、それも20代半ばの大人が進学したいと希望した場合、あえて拒む理由はありません。それとも、評価をして他の道を勧めることが正しいのか。今だ悩んでいますが、博士課程でも積極的に企業や現場との関係を深めること、その機会を作ることを目指した研究室の活動を心がけるようにしています。(2007年7月5日)

どういう生き方を選択すべきか

7月。あっという間に一年の半分がすぎてしまいました。今週はサイエンスカフェがありますので、資料の準備を進めているのですが、テーマは地球温暖化で、私は影響の話をするつもり。その冒頭で私たちが守りたいのは“暮らし”ですが、守るべき暮らしには、@地域の安心で楽しく、少し豊かでそして誇りを持った暮らし、と、A安全で快適ですが、高コストの高度管理型社会、がある。どちらかを選択すべきか、両立できるのか、これを明らかにすることから温暖化の影響を考えるべきであると述べるつもりです。日本人の地球に優しいと信じている行為が、世界各地で生じつつある問題解決には極めて迂遠な策にならないために。このような考え方はだんだん浸透してきたように思います。今朝の朝日朝刊の記事にも同様の趣旨の考え方が述べられていました。しかし、一般にわかりやすく説明することはまた難しい。やはり、研究も大事ですが、教育・啓蒙がもっと重要と考えるこの頃です。独善にならないためにも、いろいろな場所で話して 、意見を聞かなければなりません。それにしても、今年の前期は十分やったと自分をほめてやりたいと思います。あと一つ、千葉県の教員研修が8月に残されています。それまでは、研究はおあずけです。(2007年7月2日)

仕事とストレス

安全・安心シンポジウム最終回が終わりました。今回のテーマは「日常生活からの安全安心」。私も先生方の講演に聴き入りました。というのは、今週は恥ずかしながら痛風を再発させて、血液検査を行ったのですが。今朝、結果を聞きに診察室に入るといきなり、“だるくないですか、ものが黄色く見えないですか”、と訊かれ面食らったところです。たしかに、だるい。肝機能がずいぶん低下していました。世の中の大酒飲みほどは飲んでおらず、先週は若干多かったかな、という程度。酒よりもストレスが原因ではないだろうか。シンポジウム最後の講演の鈴木先生も心筋梗塞の経験があり、それはストレスが原因だったろうということでした。それで、ストレスマーカーの研究に進んだのだと思います。私もストレスにはこの1年数ヶ月悩まされ続けてきましたが、これで身体を壊してしまったら、ますますストレスが増加してしまう。世の中には悪者と馬鹿がいることを知った1年数ヶ月でありましたが、自滅はつまらないですからね。だから、私も研究課題として“どう生きるか”、ということを考え始めました。環境問題の解決は最後は生き方ですから。(2007年6月30日)

科研費申請しないとペナルティー?

昨日の朝日に載っていました。宇都宮大学では科研費を二年以上申請しない教員には研究費の削減というペナルティーを課すという。報道されていない部分があるかも知れませんが、これだけで判断すると愚策としか言いようがありません。何で、大学の経営に関わる偉い方々がこんなことしか考えられないのか。それは、法人化後、経営陣が少数の仲良しグループになってしまって、一般の教員と分断されていることが原因ではないか。また、経営陣といえども業績主義に締め付けられており、“外形的な”(文科省用語です)施策を性急に打ち出さざるを得ないのか。いずれにせよ、研究は成果で評価すべき。予算を必要としない分野もありますし、お金よりも時間が必要な場合もあります。さて、私はどうやって調査の時間をひねりだそうか。大学経営者に学問分野を総括的に俯瞰的に眺めて施策を実施する器量のある方がいなくなったと言うことでしょうね。どんな施策が打ち出されても、それが現場感覚とずれていれば、我々は従うことはできませんよ。大学は軍隊ではありませんし、まずは学生を守らなければなりませんので。(2007年6月29日)

学校に競争原理やめた?

大学の運営費交付金に競争原理を導入と言っていた経済財政諮問会議がいきなりやめたそうです(朝日朝刊)。現時点では当然だと思いますが、あまりの現場軽視に日本の将来がますます不安です。世の中、偉い人が頭で考えた通りになるのならとっくに良くなっています。現場において様々な問題と対峙しながら実直に職務をこなしているものの立場に気がついて欲しいと思います。大学は教育と研究が主業務ですが、教育の負担が一部に偏っていないか。研究を錦の御旗にして教育をさぼっていないか。うまく評価する仕組みが大学に必要です(今はないということ)。かっこいい研究成果や大プロジェクト獲得でしか評価しないとなると大学は滅びますよ。その前に学生があまりにもかわいそうです。ただ今、のべ500人分の小テスト採点中。(2007年6月25日)

全国測量技術大会2007ブース出展と白木君おめでとう

去年に引き続き、パシフィコ横浜で開催された全国測量技術大会(20〜22日)にブースを出展しました。去年はポスターを画鋲で留めただけで、あまりかっこよくなかったので、今年はイレパネにポスターを入れて並べたところ、非常に格好良くなりました。また、ホームページのIWS(ImageWebServer)のデモも行い、なかなか良いブースに仕上がりました。学生フォーラムでは白木君がベストプレゼン賞を獲得(なお、次点は郭君だったそうな)、去年の酒井君のベストポスター賞に引き続き、2年連続の入賞、こんなうれしいことはありません。20日の夜は中華街でしこたま飲んでしまいました。となると欲が出て来年も入賞をめざそうなどという思いが芽生えていますが、欲かいてがんばりましょう。多くの方に近藤研究室の存在を知っていただいたことが、学生の就職に良い効果を生めばよいのだが。(2007年6月22日)

大学の問題と解決能力

昨今、研究に関わる問題が山積していますが、今回は論文の書き方に関する手痛いミス。こんなところに書くのも問題でしょうが、大学を学生にとっても教員にとっても良い場所にするためには次のことを考えなければならないと思います。問題の背後にある事情を理解し、良い職場を構築するために役立てること。ある論文の筆頭著者の国は非常に競争が厳しいと聴いており、業績に対する強いプレッシャーがあったのではないだろうか。また、やる気のある人材ほど、研究の世界のやり方がわかってくると自主的に業績作りを始めますが、研究発表のルールはきちんと組織で教え込まないといけない。卒論のデータの使用も問題にもなっていますが、それは指導教員の裁量でかまわないと思います。アイデア・予算(教員)と実作業(学生)のどちらを重視するかという点は卒論クラスではプライオリティーは前者優先で良い。また、外国人では時々階級意識を感じることがあり、卒論ならいいと考えたのかも知れません。ここに書いたことは推測です。言いたいことは、個人をたたいて決着、では組織は良くならないこと。背後にある事情を酌み取って、次に生かす。これができる組織が持続可能な組織です。(2007年6月21日)

国費留学生の優先配置を行う特別プログラム

表記のプログラムの申請に、ほんのちょっと意見を述べたりしています。基本的には大学院生に英語で講義を行うことになるのですが、実はここの部分に非常に疑問を感じています。英語で伝えやすいのは“真理探求型科学”(大熊孝先生よりの借用)の成果です。現場で現実に生じている問題を扱う“関係性探求型科学”では日本語を使った方が良い。もちろん、講義くらいは何とかなりますが、その後、学生が自分で日本の知識・経験を学ぶことができなくなることが私は残念でなりません。せっかく日本に膨大な知恵が蓄積されているのに、そのすべてを英語で伝えきることはできません。日本に留学するために、一生懸命日本語を勉強した留学生がたくさんいます。さらに、英語が強要されると、彼ら彼女らは民族の言葉、国の言葉、日本語、英語、と四カ国語を学ばなければならなくなります。自分の国の問題を解決したい気持ちを持って日本をめざす留学生に英語が壁となっている場合があることを知って欲しい。実際に英語が壁で日本留学をあきらめた学生がいます。日本語は使いこなせるのに。大学の教員は研究のことしか考えていませんが、研究で身を立てることができる国はアジアの中でも多くはありません。研究以前に解決すべき問題は山積しています。大学はもっと現場で起きている問題に目を向けるべきです。日本は鹿鳴館の時代に戻ってしまったか。(2007年6月19日)

グローバルCOE採択、千葉大はなし

今回のCOEは千葉大は採択なしだったようです。どんなに良いアイデアがあっても、学内選考を通過しないと申請もできないし、申請できることになっても大学の研究企画推進室による干渉が入ります。別グループと統合の指示がでたり、分野の素人の考え方を取り入れなければならない。それでうまくいった場合はお偉方の業績になるが、不採択の場合は責任は一切なし。これでは企画する意欲は出てきません。個々の研究者、グループの意見を尊重しながら、モチベーションを高めるやり方はないのだろうか。(2007年6月16日)

安全安心な人間環境の創出−地球を救え!

連続シンポジウムの初回が終わりました。参加者は45名+、ご高齢の方も多かった。おもしろい話ができただろうか。重要なことをわかりやすく伝える話術の習得にはまだまだ修行が足りないなとは思いますが、まあまあ興味深い話はできたのではないかな。地球温暖化に関わるとされている問題に対処するためには、倫理的な生活をして二酸化炭素の放出を減らす、というのは正しいが、極めて迂遠であるというのが私の主張でした。現場をよく見ると、現在解決しなければならない問題が山積しており、それの解決なくして安全・安心はないと思う。環境問題には対立が伴う。地域対グローバルの。対立は大嫌いなのですが。(2007年6月16日)

<学校法律相談>教員支援の弁護士配置 東京・港区

Yahooで読みました。このコーナーでも何回か大学教員を守る仕組みが必要と述べていますが、こんな仕組みを千葉大学でも作れないだろうか。大学では問題が起こると、大学が警察と裁判所を兼ねてしまい、真の問題は解決されないまま、権力者以外のみんなが不幸になるだけで終わってしまうことがあります。大学は教育・指導に対して基本的考え方を明らかにし、経験は教員の間で共有する仕組みが必要です。とはいえ、教員でもモンスターペアレントの例外ではないことが問題ですが。(2007年6月12日)

サイエンス・パートナーシップ・プログラム(SPP)を終えて

県立船橋高校のSPPが終わりました。「空から見た環境変化」と題して、地形図、空中写真、リモートセンシングを使って環境変化、特に災害に力点を置いて講義と演習を実施しました。企画と三日分のコンテンツづくりは実際大変な作業で、ある程度の満足感もあったのですが、いろいろ考えるべき課題も残しました。やはり、わかりやすく説明するということはそんなに簡単なことではないこと。これからさらに切磋琢磨する予定ですが、やはり教えること、わかってもらえることは楽しい。地震学者の今村明恒も研究だけでなく、啓蒙活動にも力を入れたそうです (武村雅之著、「手記で読む関東大震災」、古今書院より)。サイエンスは自己満足ではいけません。 (2007年6月10日)

綸言汗の如し

天声人語で良い言葉を知りました。王が口にした言葉は、汗が体に戻らないように取り消せない。指導者の発言には責任が伴うということ。昨今の指導者、経営者は責任を意識しない発言が多い。何かやれ、やることはお前たちが考えろ、とばかりで基本的なスタンスも示さない。責任まるなげで、いいとこ取り。これでは現場はたまったもんじゃないです。(2007年6月8日)

のびすぎたトマトは

この春に植えたトマトは元気に育ちましたが、芽かきをしなかったため、何本もの枝が伸びすぎて、とうとう折れてしまいました。仕事を抱えすぎると、折れてしまうということをトマトは身をもって教えてくれたのか。ほったらかしのナスは実をいくつも付け始めましたが、お前は強いのか。(2007年6月7日)

トップサイドと現場サイドと

久しぶりに小学校教員をしている従姉妹に会いました。話が教育改革に及ぶと、□×△#!!!.やはり現場は大変らしい。教育再生会議のメンバーには現場の方もおられるのに、何で立場がトップサイドになると現場のことがわからなくなるのだろうか。私はいつも考えすぎだと言われるのですが、これはデカルト・ニュートンタイプの思考に則り欧米化を推し進めてきた戦後教育の“成果”ではないか。原理がわかればすべてわかる、方針が正しいのだから運営はうまくいくはずだ、という考え方。トップは厳しいことを言うけれど(それが権威を取り繕うことにもなっていますが)、それは責任を現場に転嫁しているにすぎないと思います。現場志向が定着すれば、世の中もっと良くなるのではないかな。これぞ、安心社会の構築への道程です。高コストの管理社会、競争せざるを得ない社会を変えることができるかも知れませんが、アメリカ志向の方々を満足させる社会にはならないかも知れません。(2007年6月4日)

コンクリート護岸も海岸

コア科目「災害と空間情報」の前半の最後は海岸侵食の話をしました。まず浜が30年間で100mも侵食され、今ではコンクリート護岸になってしまった(あの延々と続く砂浜で有名だった)九十九里平野、吉崎浜の写真を紹介し、印象を尋ねました。その項目は、1.普通の光景だと思った、2.良い景観とはいえないと思った、3.驚いた!この変化は何? 。2番が一番多かったのには少し安心しました。3番も少数おりましたが、九十九里浜の原風景を知っているということでしょう。少なかったとはいえ、1番も何人かいましたが、都会に住んでいれば、海岸はコンクリートは当たり前です。原風景を知り、その機能を知れば、問題を感じることができますが、何も知らなければふつうの光景。モルジブのコンクリート護岸もふつうの光景になってしまたのならば、珊瑚礁の島はコンクリートで守れば良い、なんて暴論も出てきそう。でも、何か違うということに気がついて欲しい。原風景と、自然海岸の機能を伝えて行くしかない。(2007年6月4日)

日本の環境に対する認識はムードが先行

県立船橋高校でSPPの第一日目を実施しました。はじめに「不都合な真実」をモチベーションとして、環境問題に関する講義を行いました。そのスタンスはいつものように、温暖化の影響とされている問題の本質を捉え、真の問題点を見つけようということ(ハリケーンカトリーナの話題から、沖積低地の災害に結びつけ、午後は地形図と空中写真を使った実習を行いました)。ちょうど昨日の朝日の「協調と心地よさと−変わる日本の環境思想」という記事の中で、東大の鬼頭秀一先生は、『92年の地球サミット以降、国際的には「環境的正義」の議論が成熟してきたが、日本では環境を政治的争点として受容せず、ムードが先行する』と述べておられました。宮本憲一さんも国の環境政策を記事の中で批判しています。記事で取り上げられている「日々の幸せ 犠牲にしない」ロハス的な生活は私も重要だと思い、これこそ安心への第一歩だと思います。しかし、環境問題を現場で捉えるとどうしても対立が見えてくる。ここを議論しない限り、社会的存在としての人の安心は達成できないと思う。とはいえ、受益圏・受苦圏、社会的ジレンマ、といった課題は一つ一つの問題の根が深すぎてなかなか難しいことも事実。(2007年6月3日)

学校に競争原理−教育再生会議2次報告書提出

朝日朝刊から。今日は教育関係の記事が多い。国力低下を想定しなければならない時代なので、厳しいのは当然ですが、厳しいことを言っているとどうなるか。ここで、「教育言説」ということを思い出しました。孫引きですが、「教育に関する一定のまとまりをもった論述で、聖性が付与されて人々を幻惑させる力をもち、教育に関する認識や価値判断の基本枠組みとなり、実践の動機づけや指針として機能するもの」(今津孝次郎・樋田大二郎編『教育言説をどう読むか――教育を語ることばのしくみとはたらき』(新曜社一九九七年)で、ソキウスからの引用)。昨今の状況下で理想的な意見を掲げる輩が登場すると(そういう輩は雑用が得意なので出世しやすい)、それが現場感覚から離れていたものだとしても、反駁には多大な労力を必要とするため、教員は積極的に関わるのをやめてしまう。その結果、大学の力は低下する。こんなことを言っててもしょうがないけれど、個人でできることとして、まず世の中のニーズをしっかり見極め、教育で伝えられることをきっちり伝える。これが大事だと思います。今年新規開設した講義は自転車操業で準備に忙殺されましたが、400人に私の考え方を伝えることができます(1単位を2回で、まず200人)。来週の小テストの採点が大変です。(2007年6月2日)

初夏の香り

学内を歩いていたら、突然懐かしい香りに出会いました。工学系総合研究棟のうらの空き地に群生するシロツメクサのにおい。子供の頃、よく利根川の河川敷に連れて行ってもらいましたが、その時に記憶にやきついた初夏の香りです。あれから40年が過ぎ、今年もあっという間に6月。どうも疲れが抜けないこの頃ですが、時々ふと周りの景色がきれいだなと思います。まだまだ心の状態は大丈夫だなと確認できる一瞬です。(2007年6月1日)

弱者は切り捨て、か

全国共同利用施設への風当たりも強くなっていますが、国立大学付置研究所・センター長会議では、“弱いところを捨てる”ということまで言われているそうです。経済諮問会議の意見とのこと。ある政府に対する答申の中にありましたが、国力の低下ということを前提にして今後の国のあり方が議論される時代ですので、厳しいのはしょうがないのですが、何を持って弱者とするのだろうか。おそらく、大きなプロジェクトをとったとか、マスコミ等、公に対する露出度の大きなところが強者なのではないか。昨今、政策や研究に関わる施策はトップ近傍の仲良しグループの中で決まってしまうような様相を呈してきました。我々にできることは常に自分の考え方を主張し続けることでしかありません。しかし、こういうときに環境に関わる分野は弱い(ここでは、環境を人と自然の関わりという本来の意味で使っています)。経験蓄積型、そして関係性探求型の科学で、派手では無いから。それでもひとの安心のために最も重要な分野ですので、主張し続けなければなりません。(2007年5月31日)

「チューリップ 活動35周年で幕」に思う

朝日の夕刊ですが、デビューから35年で活動を終えるとのこと。35年という時間は十分長い時間であり、この時間の長さに私も驚いているところです。中学生の頃、フォーク少年だった私はラジオで聴いていた“ミツヤフォークメイツ”という番組の公開録音に応募して、何回かコンサートに出かけました(当時はかぐや姫が目当てでした)。その時にデビューしたてのチューリップに出会い、エレキギターを使ったその音楽の迫力にびっくり仰天したことがあります。とはいえ、私はアコースティック派をいまだ保っていますが。あれから35年も経ってしまったのか。リーダーの財津和夫はもうすぐ還暦だそうですが、これからはまた新しい音楽をめざしていくのでしょう。昨今の異常とも思える世の中、大学運営に振り回されて、私も新しいものを欲する気持ちが心の中で非常に強くなってきています。本当に大切なことを自信を持ってやりたい。うわべの評価に対応するだけの無駄な時間を過ごしたくない。私は環境学を志したいと思っていますが、現場の問題に対峙した時に偽善者にはなりたくありませんからね。(2007年5月29日)

競争に心やむ学生も

先のコラムに関連して、取ってあった切り抜きを思い出しました。ちょっと前の日経の記事です。科学技術立国への道程で、競争に疲れ、心病む学生が増えているという記事でした。本来、研究に没頭できる大学院時代は楽しいはずです。でも自分の大学院生時代の経験からすると、不安の主な理由は、業績への圧力、社会から取り残される感覚、だと思います。しかし、昨今の状況の背後には大学教員の過度の研究志向があるのではないだろうか。私は研究においても社会との関係、社会へのフィードバックを重視したい。社会の幅広い分野の中に、自分のやっていることが明瞭に位置付けられるという意識が、学生の不安を和らげるのではないだろうか。だから、学生には研究室の中だけのつきあいではなく、積極的に学会で発表をしてもらって、いろいろな方々と交流することが大切だと思います。“自分”を認める“他者”の存在が重要です。(2007年5月27日)

ヘリコプター・ペアレント

日経の記事ですが、面白い言葉を知りました。子供の周囲を“旋回”しながら世話を焼き続ける親への対応に大学が手を焼くという内容です。その親は私と同世代か、上の団塊の世代です。それなりの苦労を積んできた世代だと思うのですが、子供のことになると盲目になってしまうのか。世話を焼くくらいならいいのですが、自分の子供は優秀であるという思いこみから、大学の教育に圧力を加える輩が一番困ります。こんな親に対する対応策を大学は全く持っておらず、運の悪い教員が悪者にされてしまいます。これは大学崩壊へ繋がります。(2007年5月27日)

優秀な留学生獲得図る

これは朝日の26日夕刊の記事から。東北大学が縁のある魯迅にちなんだ賞を創設し、優秀な中国人研究者の取り込みを図っているという内容です。それは別にどうでも良いのですが、“優秀な”というのはどういうことなのだろうか。“優秀でない”留学生もいるから“優秀な”留学生があるということか。そもそも大学は教育機関でもあり、最初から“優秀な”学生を取り込むとはどういうことか。記事を読むとやはり研究が出てきます。ここにも大学人の研究者志向、御上志向とエリート意識が現れているように思います。留学生は誰でも立派です。国を離れて将来を夢見て一人でがんばっている留学生に最初から優秀かどうかなど関係ない。大学において“優秀な成果”を挙げてもらって次のステップに進んでもらうのが我々大学人の仕事です。ここでも教育が忘れられている。とはいえがんばった留学生と大学の思惑が一致すれば何も言うことはないのだけれどね。(2007年5月26日)

モルジブの真実

私は地球温暖化については、影響とされていることを単純な論理で理解したつもりになるのではなく、問題の背景を理解して、真の問題点を明らかにする態度がまず必要であるとの立場から、最近は文章を書いたり、講演活動をしています。これがないと問題が顕在化している地域の人々は幸せにはなりませんし、現象理解を誤ると対策も誤ることになります。二宮書店の「地理月報496号」では、都市化が極端に進行しているモルジブを取り上げ、温暖化から守ろうとしているものは何か、という問いかけを行いました。環境問題はディシプリン科学(原理がわかればすべてわかるという科学)とは異なり、起こっていることすべてを把握することは困難です。常に問いかけと、検証を繰り返していかなければならないのですが、連合大会の「人間環境と災害リスク」セッションでいい話を聞きました。菅浩伸さんの講演で「環礁立国の地盤問題:モルディブ共和国で発生した礁崩壊」というものです。要は珊瑚礁の島の土地の性質を忘れて開発が行われ、それが自らの生存基盤を侵していることになっているということ。同じようなことは太平洋の島々でもあり、建築用資材を珊瑚礁の固い部分(生活基盤で最も重要な土地資源)から調達している事例を伺うことができました。温暖化による海面上昇から守ろうとしているのは、やはりマネーか。そういう方々は自ら投資して護岸を作ることもできる。実際、日本は護岸設置で貢献したとされており、スマトラ沖地震の際には有効に機能したとのこと(景観としてはだいなしですが)。一方で、伝統的な生活をしている珊瑚礁の住民もいるだろう。その人たちのために温暖化は止めなければならないという考えは強烈な説得性を持つ。しかし、開発(観光開発やアブラヤシのプランテーションがあると思います)によって地域の生活は変わっていることは確実だろう。温暖化問題はどこに行くのか。考えるべき課題は多い。(2007年5月23日)

サイエンスと人間−日本地球惑星科学連合2007大会評議会にて

いつものことで、代理で昨日の評議会に出てきました。そこでの出来事ですが、学術会議報告で河野先生が学会の評価について、学術大会とジャーナルで評価すべき、すなわちサイエンスを強調したのに対して、岡部先生が応用的側面、人間的側面の重要性をすかさず主張なさったのは非常に印象に残りました。大多数の地球惑星科学関連分野の学生は土木、建設あるいは環境コンサル系か、まったく関連のない分野に就職します。ここを見ないで、サイエンスをいくら強調しても幸せな大学人にしか見えません。もちろん、基礎科学と応用科学がうまくバランスしながら、“折り合いをつけながら”やっていくことになるのだと思います。基礎を充実させながら、応用分野を開拓、市場を開拓していくことは可能だと思いますが、研究者はこの点について今までは努力不足だったのではないか。人材が活躍できる場を作り、そこに人材を送り込むことが分野だけでなく社会の幸せになればこんなにうれしいことはない。行政における災害関連専門家などは可能性は高いのではないだろうか。(2007年5月23日)

イノベーション25

まったくノンポリでこんなことが進んでいることをあまり意識してませんでした。今日の新聞で高市担当大臣の話がありましたので、改めて勉強しました。確かにイノベーションは大切だと思います。しかし、イノベーションの成果を使いこなす精神面に関する深い検討がもっともっと必要なのではないだろうか。これこそ教育の目的の一つ。イノベーションが成功しても、高コストの競争社会によって維持しなければならない社会は“無事”な社会とはいえないのではないか。昨日、学生の(内面)世界が狭くなったのでは、と書きましたが、ひょっとしたら日本の達成した豊かさの代償ではないか。大人も同じです。同じ紙面で御手洗ビジョンに対する批判もありましたが、1月29日に書いたように、財界人の視点しかない。一部の運良く成功した方々が、自分の世界しか見えず、他人も自分と同じようにやるべきである、という社会は安心な社会ではない。視野を広く保ち、包括的に世界や環境を捉えようとすると新しい側面が見えてくる。関係性探求型科学(小熊孝)がこれからの社会に求められている科学ではないだろうか。オルテガのいうように“文明野蛮人”(命名は小林信一)は文明を衰退に向かわせます。イノベーションの成果を使いこなすためには、こんな議論が必要だと思います。とはいえ、どういう日本を作りたいかという思いはひとそれぞれ。思いを遂げるためには他人を動かさなければならない。自分勝手にならないためにはどうすればよいのだろうか。難問です。(2007年5月23日)

学生の意識する世界の広さは

普遍教育(千葉大学の新入生向け科目)で「災害と空間情報」と題した防災教育をやっています。約180名の受講者で大教室でやっているせいか、とにかく雑談が多い。ついつい説教をしてしまいますが、説教していることにも気がつかない。講義には流れというものがあって、いったんつまずくと、以降、学生に伝える情報量が落ちてしまいます。だから適当なところで説教も切り上げざるを得ないのですが。おそらく一部の学生にとって講義はテレビと同じなのではないだろうか。自分とは無関係に一方的に情報が与えられるもの。関心が無ければ聴かなくても良いのですが、雑談が周囲に迷惑を及ぼしていることにも気がつかない。これは“関係性”の喪失と考えても良いのではないか。各個人の内面的な世界が狭くなった。学生が意識する世界を広げること、そして我々は多くの関係性や関連性のもとで暮らしているということ、を伝えるのが講義の目的なのだが。特に災害は人と自然の関係の学問ですので。とはいえ、しっかり講義を聴いている学生の存在もだんだん明らかになってきました。こんなにうれしいことはありません。(2007年5月22日)

強すぎる研究者志向

朝日新聞でポスドクに関する記事がありました。博士の学位を取っても、なかなか就職が決まらない。大問題です。政府、大学、企業どれも言い分はあるのですが、やはり私は大学の教員の強すぎる研究者志向は問題かなと思います。より応用に近い分野は少し違うかなという気もしますが、大学院の案内を見ても、“優れた研究者育成”なんて文言がすぐ出てくる。政策により博士課程の定員は増えていますが、研究者ポストはそんなにはありません。大学院では研究者になるというより研究者マインドの醸成を打ち出し、同時に教員は社会と大学が乖離しないように様々なセクターと情報交換を絶やさない態度が必要だと思います。“サイエンス”は錦の御旗ではない。社会と乖離しながら“真理の探求”ができるのは全く幸せな人種なのですよ。サイエンス・エリートが恋しくてたまらない方々は学生のために何ができるのだろうか。(2007年5月21日)

地球惑星科学連合大会「環境リモートセンシング」セッション

表記のセッションを無事終えることができました。皆様のご協力に感謝いたします。冒頭と最後に述べましたが、“環境リモートセンシング”という分野があるとすると、それは“関係性探求型科学”(大熊孝流にいうと)、あるいはモード2科学(ご存じギボンズ)です。様々な分野の発表がありましたが、それらの発表は個別に存在するだけではなく、関連性を探求するという姿勢が重要だと挨拶の中で述べました。例えば、岩淵さんのGPSの話題では近年の進歩に本当に驚きました。都市の集中豪雨のモニタリング、予測にGPSによるリアルタイム可降水量情報が使えそうです。これは白木君の発表にあった都市の環境解析に関連します。また、渡辺君のアマモ場の話は異色の話題でしたが、直木君らの雪氷変動から発想する海水準変動と関連させて考えるとまた違った世界が開けてくる。このような考え方がどれだけ伝わったか、まだまだ努力不足ですが、主張は続けていきたいと思います。(2007年5月19日)

論文を書くということ

今日のゼミでは他大学から講師をお招きして、いろいろなお話を頂きました。白さん、遠いところを千葉まできて頂き、本当にありがとうございました。おもしろいお話を聴くことができ、私にとっても、学生にとってもためになりました。それにしても私のことを“よいしょ”しすぎですよ。でも、昔の論文を読んでいただき、それが少しでも役立っているということは、大学の教員をやっていてこんなにうれしいことはありません。自分のアイデアが伝わっているということ、それは論文を書いたからです。最近、雑用におぼれてなかなか自分で論文執筆ができませんが、研究者はアイデアや主張を論文を通じて公開する、というルールを自分なりに再確認しておきたいと思います。(2007年5月16日)

Not four years, but forty years

教員に配布される「じゅあ」という大学基準協会のニュースレターの中で見つけました。スタンフォード大の教育理念だそうです。「大学はあなたの4年間のためにあるのではなく、40年間のためにある」ということ。御意。4月3日の記事にも書いたように、大学教員は学生に生き方を教えたいと思っている。でも生き方を身につけるには、小さな壁を乗り越えていかなければならない。その過程で問題が発生すると、教員が一方的に悪になる。これでは、生き方を伝えられない。大学教授だって、ふつうの人間ですから。でも、何とかしたい。自分自身の弱い部分が最近とみに目立ってきて、もがいているこの頃です。「じゅあ」の記事は名古屋経済大学のキャリアセンター長によるものですが、「なぜ働くのか」というテーマに答えを求めていくことがキャリア教育の役割、というお考えです。でも、「暮らし」を先に持ってくると、「なぜ働くのか」という問いは自明ではないのか。「暮らし」が無事であることが一番大切。そして「暮らし」から出発することで、より大きなゴールに達することができるのではないだろうか。そのひとつが環境問題。地球の無事は個人の無事から。(2007年5月14日)

おかずだけでなく、ごはんも競争で獲得(大学の研究資金)

これも朝日に載っていました。大学の研究費獲得の競争原理導入は、外部資金については当然だと思います。しかし、運営費交付金、すなわち校費が減ることによりインキュベーション研究(ものになるかわからないが、やってみないとわからない研究)ができなくなっていることは確か。競争的資金の申請書には必ず“期待される成果”という欄があります。競争的資金というのは誰でも道筋がわかっている研究で、資金力、マンパワーで解決できる問題の支援に使われる資金なのです。それは旧帝大がやれば良い。だからこそ、インキュベーション研究の機会が必要であり、校費はよい資金源なのですが、独創の芽はこんなところでもつみ取られています(成果を出さなければ文句言う資格はありませんが)。でも、実際には校費が年々減っていくことに関しては、ずっと前から研究費とは乖離した問題になっています。すでに乏しい大学校費で研究を実施することは困難な状況になっており、ほとんどの教員は科研費等の競争的資金で研究を行っています。運営費交付金が減ることの最大の問題は教育へしわ寄せが行くということだと思います。卒論・修論・博論といった教員個人が責任を負う論文指導は、その資金は校費はあてになりませんので、教員が探してこなければなりません。一方で、競争的資金は教育に使ってはいけない、ということが千葉大学の建前になっています(どこでもそうだと思いますが、ちゃんと守ると学生指導が経済的に破綻する。学生と教員、WIN-WINの関係がBESTではないか)。学生の論文指導では、優れた研究成果というよりも、その過程で学生が手法、考え方を学ぶという教育効果が重要だと思います。しかし、世の中は研究志向が強すぎ、教育に対する配慮が欠けていると思う。朝日の記事は大変ありがたい記事ですが、もっともっと現場を見て、真の問題を明らかにして欲しい。がんばって。(2007年5月14日)

教育学者のいない教育再生会議

今日の朝日の記事です。4月23日でも少し触れていますが、専門家のいない場で何が議論できるのか。専門家の価値はそんなに低いか。最近感じることは、研究も教育もサービス業になってしまった、ということ。権力を持っている少人数の集団の気に入るような内容でなければ認められない。文書は外形的、すなわち見ればすぐにわかる様に書け、小学3年生でもわかるように説明しろ。自分たちは勉強はしないので、お前らがわかるように説明しなければあかんよ、という気持ちはわからないでもないが、権力には責任、権威には努力が伴うということを忘れてもらっては困る。このような状況の中で個々の教員はそれぞれの研究と教育を守っていかなければならない。大学の先生のほとんどはがんばっていると思います。しかし、専門家として我々は何を発信しているのか、と問われると悩ましい。わざわざ作られ、与えられる日々の雑務に追われるばかりで、何となく変だなと感じつつも、自分の研究室の運営で精一杯。でも研究室は信念を持って運営していきたい。自分の責任の下にある学生たちに私から伝えることができることを最大限伝え、社会に送り出すこと。この積み重ねが誇るべき我々の仕事。しかし、個人の信念と大学の信念は異なる場合もあるし、トップダウンの傾向を強めつつある大学の信念が明らかになっているわけでもない。忸怩たる思いを抱きながらなんとかやっているこの頃です。それにしても専門家というのは、もっと尊重されても良い。教育学者だけでなく、様々な分野の技術者、人にない経験、知識を持っている人。このような意識を醸成していくのが大学の役目であり、それは大学の地位向上にも繋がっていくのだと思う。この観点からは大学は確かに努力不足であったと思う。(2007年5月12日)

釜無川、信玄堤

キララの学校の帰り道では、釜無川を見ることにしました。白州から一般道を南下し、まず御勅使川をめざします。予想通り砂防堰堤が段々に設置され、流送土砂の多さを語っています。御勅使川沿いの水防林も見ようかと思ったのですが、まあGoogleでいいかということで通過。御勅使川の先を左折し、釜無川を目指します。橋の左岸に信玄堤公園があります。かつて御勅使川の洪水が釜無川に合流後、釜無川左岸にあたり破堤を引き起こしたため、御勅使川の流路を北に変え、高岩に当たるようにして水勢を弱め、甲府盆地を洪水から守った治水施設です。堤防はいわゆる“霞堤”の形が見え、洪水を河道内に留めるのではなく、溢水も許し、その後速やかに水を河道に返す施設です。洪水を忌避するのではなく、共生する近世の知恵です。我々は何を学んだらよいか。(2007年5月4日)

白州、キララの学校

3日の夜は山梨県白州にある季節学校「キララの学校」で地球温暖化の話をしました。白州の風景は新緑と雪の残る鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳、蕩々と水を流す水路、水を張って池のようになった水田、...私の力ではその美しさを描写することは全く難しい。さて、話はいつもの温暖化の影響の話でした。温暖化の影響とされているものも、包括的に総合的に眺めてみると、いろいろな側面が見えてくる。我々はそれらを理解した上で、どのように生きたいかを考えようよ、ということ。人が豊かな生活を望むのは当然のこと。でも、“少し豊か”の“少し”ということを考えてみたらいかがだろうか。“少し”だけど、“すごく”豊かな光景を農村の中に見たような気もしますが、これも包括的総合的にみるといろいろなものが見えてくるのだろうな。そういう世界を知りたいと思います。水路には水が蕩々と流れ、田植えの準備が進んでいます。もし農村が疲弊してこのシステムが維持できなくなったら、農業の衰退も早いだろう。今後の日本は都市中心の発展をめざしており、農村は疲弊するばかりだ。ちょっと考えすぎですが。最近思考がマイナスになってきたかな。帰りには野菜をどっさり頂きました。サンチュをたくさん頂いたので、今晩は焼き肉になりました。帰り道で馬肉を仕入れ、大変おいしく頂きました。秋山校長、皆様方ありがとうございました。(2007年5月4日)

全体と個

今日は午後、筑波大学で打ち合わせがあるので、早めに出て、勝手知ったる陸域環境研究センター(旧水理実験センター)のセンター長室をお借りして仕事をしていました。大学の中期計画の実績報告書を纏めているのですが、いろいろな項目について、きちんと実施されている、と書かなければならない。しかし、現場では問題は起こっている。そんな個別の問題はこの報告書に書くことはなじまない。結局、真の問題は隠されていってしまう。環境問題、社会問題、すべてそうだと思いますが、個々の問題の解決こそ、全体の改善につながる重要な手続きだと思う。全体と個、どちらを中心に据えるか、世の中二つのパラダイムのせめぎ合いですが、個の立場はまだまだ弱い。それにしても、つくばの自然はいいですね。キジをみました。昔はウサギを見たこともありましたが、今でもどっかにいるのだろうな。学内にですよ。(2007年4月26日)

相田みつを詩集を買いました

最近よく相田みつをの言葉を引用するのですが、実はきちんと詩集は読んでいませんでした。そこで、帰りに書店に寄って探したら、いっぱい出版されているのですね。とりあえず二冊購入しました。これをかみさんに見せたところ、女々しくて、説教くさくて好みではないとのこと。これは、かみさんが幸せだということでしょう。どんな文章も万人に効くオールラウンドのものは無いのではないか。たまたま私が相田さんの文が心に染みる状況にあったということ。読んでみると、やはり底流に仏教があるような気がします。金子みすずや宮沢賢治のように。仏教は宗教ではなく、哲学ですので、ますます仏教を勉強したくなってきますが、定年後の楽しみということで。後15年、長いな。(2007年4月25日)

しあわせはいつもじぶんのこころがきめる

昨日の記事を見ても、最近文句が多くなってきたなと思う。文句を言っても癒されるわけでもなく、かえって沈みがちになる。そんなとき、偶然か「しあわせは〜」が目に飛び込んだ。19日に相田みつをの詩を引用しましたが、写真立ての中にもう一枚重なって入っていました。相田さんのことはよく知らないのですが、その書(というか、カード)はいくつか持っています。市川真間に相田みつをギャラリーがあり、そこで買ってきたものです。著作でこんなにも人を元気づけることができるとはなんてすばらしいことだろうか。教育者・研究者であるはずの私はいったい何ができるのだろうか。(2007年4月24日)

国立大学の大学院の同大学出身者を最大3割程度に

なんとも、現場のことを知らない勝手な素案をだすなあ。教育再生会議というのは。Yahooニュースで見てすぐに書き込んでいます。●地方の学生はどうするのか(まったく東京中心の考え方だな)、●研究者志向が強すぎる(研究者だけでなく、社会に役立つ人材を送り出すのも大学院の役目)、●学生の気持ちがわかっていない(誰も彼も研究者をめざしているわけではない。自分のやりたいことに時間をかけて取り組みたい学生も増えてきた)。何よりも、教育予算がほとんどない中で、教員が大学院教育にどんな努力をはらっているかか、有識者はわかってはいないだろう。まだまだ、いろいろな問題があると思います。現場を知らない有識者は日本を壊すのではないか。それにしても、こんな考え方には裏があるように思えてしょうがない。地方大学潰し?あるいは全く何も考えていないのか。(2007年4月23日)

異なる考え方との接し方

また、いやな事件が起こりました。長崎市長が銃撃され亡くなってしまいました。同時にアメリカでも乱射事件、イラクでも爆発。自分とは異なる考え方に接したとき、自分の思い通りにならなかったときになぜ暴力に訴えてしまうか。暴力だけではない、対話を拒否され陰湿な圧力を加えられた経験は私にもあります。憎しみが生まれてしまったら、消し去ることは容易ではないことは知っています。でも、異なる考え方と出会ったときは、1月6日の記事に書いたように、違いを認め、その理由について一緒に考える(石弘之編「環境学の技法」(東京大学出版会)の中の第6章、井上真さんの「越境するフィールド研究の可能性」からの引用)、こうありたいものだなあ、と思う。でも、相手が同じ態度ではないときはどうしたらよいか。そういうときは、「...黙ってあるくことだな...」。これは相田みつをの「道」という詩。でもなかなか難しい。そういうときは、「...ぐちをこぼしたっていいがな...」、これは「ぐち」という詩。結局、「...にんげんだもの」(このフレーズはいくつかの詩に登場しています)となるのだな。でも暴力やいじめは絶対にいけません。(2007年4月19日)

野菜が増えました

今日はプランターを買ってきて、新たに、なす、ピーマン、カリフラワーを植えました。また、庭の片隅を区切って小さな畑を造成しました。何を植えるかは一週間かけて考えます。野菜が育つのを見ると本当に心が和みます。特に男爵いもは芽かきをしてもぐんぐん伸びてきますが、何か生き方を教えられているような気もします。まあ、小玉をたくさん楽しむことにしましょう。この時期、ホームセンターはたくさんの野菜の苗が売られています。うちの周辺ももはや田舎とはいえないほど都市化が進んできましたが、やはりひとは緑には惹かれるのでしょう。今後、どのような都市を造っていけば良いのか。近くに高層マンション群の建設が計画され、反対運動も起きていますが、便利になれば住みたい人が集まってきます。わがままは言えないと思いますし、なかなか難しい問題です。(2007年4月15日)

結果と真実

マスコミは結果は伝えるけれども、真実を正しく伝えるかどうかは怪しいメディアです。また、気になる出来事がありました。高崎経済大学の件です。私は“ひと”が関わる出来事は、深い個別の事情があり、包括的な理解なくしては安易に語ってはいけないことだと思います。もし、ハラスメントによって命が失われたのならば犯罪ですので、正当な第三者による判断を仰ぐべきです。懲戒免職ということは大学が警察官と裁判官を兼ねてしまったのではないか。教員を守る仕組みはなかったのだろうか。裁判でも検事と弁護士があるように。この出来事を表面的に捉えないで、その根にあるものを理解する姿勢が今後の大学に必要だと思います。真の教育を放棄しないためにも、権力と権威が乖離しないためにも。個々の問題の根が深いのは環境問題も同じです。個別の問題を扱っても、多くの人に賞賛されるわけでもないし、論文が量産されるわけでもない。しかし、その価値は極めて高い。この価値を認める流れは社会学や人類学といった分野にあるように思うことはこれまで何度も書いてきました。(2007年4月14日)

合唱と年齢

今日は娘の入っている地域の合唱団の発表会に出かけてきました。非常に濃密なプログラムで疲れたろうと思いますが、よく頑張りました。でも、今回を最後に卒業する生徒さんがいて、次からは団員が少なくなってしまうそうです。一方、大学の合唱団は部員がたくさんいて、それも男性が多いそうです。このギャップはなんだろうか。中学、高校生くらいだと男は合唱というのは恥ずかしいのかも知れない。歳が行き、大学生になると文化的なものに対する感性が磨かれ、男でも恥ずかしくなくなる、まあ大人になるということかな。(2007年4月14日)

組織と誇り

園芸学部で新入生の書類を紛失したとのニュースが出てしまいました。担当者はさぞかしお辛いだろうなと拝察いたしますが、一担当者のミスとしてかたづけてはいけないように思います。こういうことは組織に所属する誇りが失われているときに起こりやすいのではないだろうか。大学の経営がうまくいっていないというシグナルなのではないか。大学の経営陣はここのところをよく考えて欲しいと思います。自分も気を引き締めねば。(2007年4月10日)

新学期の講義が始まります

来週から講義が始まります。息子の大学は今日から開始だそうで、昨日の日曜日は受講計画を楽しそうに練っていました。希望に胸ふくらませて。私はというと、新入生向けの新規開講の講義に備えて、資料の準備に追われています。新入生にとって大学における初めての講義であり、息子の様子を見ているとこりゃおもろい講義にしないとあかんな、と思っています。先日の地球科学科のガイダンスでもわかりましたが、大半は地学(地学Uですか)を高校で履修していない。おそらく地理もそうだろう。物理、化学、数学は勉強して、原理に関する知識はあるに違いない。しかし、一般性がわかっても、わかるわけではないのが、環境や、これから私が講義する災害です。今まで教えられたパラダイム(などといっても新入生にはピンと来ないだろうが)と異なる見方、考え方を伝えたい、そして将来、日本を安全・安心で楽しく、少し豊かで、誇りを持てる国にすることにちょっとでも役立てれば良いかなと考えています。(2007年4月9日)

安心して、楽しく、少し豊かに、そして誇りを持って暮らす

これも農村計画学会で、明治大の小田切さんの講演から。農村地域再生の方途の中で述べられたことですが、いや、その通りですね。今は安全・安心が政策や研究予算要求のキーワードになっていますが、何となく物足りなさを感じていました。「楽しく」、「少し豊か」、「誇り」、これこそ心の中に引っかかっていたことで、すっきりしました。仏教ですと人生はつらく、苦しいものというのが前提ですが、それは仏教が振興してきた時代背景に依存しているのではないか。現代では「楽しさ」を求めても良いのではないか。そして、「少し豊か」の「少し」が重要ですね。現代人の多くがめざしている豊かさは非常に高コストの都市的豊かさのように思います。環境に適応することができればもっと低コストの社会ができるのではないか。アンケート調査によると農村では月数万円の追加所得があれば満足できるそうです。補助金ではなく社会の仕組みによってこのくらい何とかまかなえないだろうか。最後に「誇り」。人間が心豊かに生きていくということは誇りを持つ、ということが一番重要です。改めて、認識しました。私自身の問題も「誇り」を見失っていることからきているのではないだろうか。今年一年かけて何とか取り戻したい。そのために、私の仕事である教育・研究面でも新たなボトムアップ、積み上げを始めたいと考えています。(2007年4月7日)

農村計画学会に行ってきました

シンポジウム「農村から見た国土形成計画」を聞いてきました。1950年の国土総合開発法に基づく全国総合開発計画は第5回に相当する1998年の「21世紀の国土のグランドデザイン」で終わり(すでに開発という語は消えています)、現在は国土形成計画が検討されているとのこと(こういうことをちゃんと知っていないと環境学はできないね)。しかし、その内容が都市を中心に構成されており、農村(地方)が置き去りにされているという危機感から開催されたシンポジウムです。国土形成計画の様々な問題点、農村の現状に関する報告を聞きましたが、この計画はやはりデスクワークで作られているのかな、という印象を持ちました。現場を知るためには現場に行かなければならない。行かないと何をすべきかが見えない。原理がわかれば何でもわかるという戦後教育の成果(?)がここにも現れているのだろうか。欧米追従型の現政権の姿勢が強く表れているようですが、そうでない別の生き方は日本人は選択することはできないのだろうか。追求すべき豊かさは物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさではないのか。都心では年間何十万円もかかる賃貸家庭菜園が人気だという(小田急のアグリス成城のニュースがありました)。都市と農村の良い関係を作っていくことが日本人の幸せにつながるのではないか。この考え方に根拠をつけていかなければならないと思っています。(2007年4月7日)

災害地もふるさと

今年度は普遍教育(千葉大学の教養教育)で、「災害と空間情報」を開講します。講義資料の準備に追われていますが、富山県の「胡桃地すべり」を材料にしようと思い、資料を集めつつある中で、いい報告に巡り会いました。花岡ほか、「激甚な地すべりが地域社会に与えた影響−1964年胡桃地すべりを事例として−」。ネットで探したので、原典はわかりませんが、土研の方なので土木系の雑誌でしょう。胡桃地すべりは1964年7月16日に70haに及ぶ範囲が3時間ほどですべり、村が壊滅した大災害でした。しかし、人的被害が皆無だったのはなぜか。それは、「集落としての互助意識」、「地すべりを知っている」ということ。これは現在の都市化が進む地域の災害における大きな課題ですね。アンケート調査による結果ですが、集団移転したにもかかわらず、多くの方が現在でも「ふるさと」と思い、精神的な集落としての機能を有しているとのこと。災害地をどうするか、という問題は経済的な観点のみから判断してはいけません。昨年訪れた山古志もそうです。土地に長年住んできた人々のこころを大切にすることが、都市に住む我々の幸せにもつながるのではないかな、と思っています。(2007年4月4日)

大人と大学の責任

千葉大学にとって考えさせられる事件が起こりました。卒業生が犯罪を起こした容疑で追われているという事件です(まだ、拘束されていませんので)。卒業学部まで報道されていますので、社会は大学に対してどういう思いを抱いているか、当然想像がつきます。もちろん大人の起こした事件ですので、大学に責任はありません。しかし、多くの教員は釈然としない感情を持っているのではないでしょうか。大学では卒業研究という過程を通して学生と密接に交流する期間があります。多くの教員は研究を通して生き方を伝えたいと思っているでしょう。しかし、何か問題が起こると有無を言わさず教員が悪とされてしまいます。個々の問題はそれぞれ個別の背景があり、それを理解しなければ解決や指導はできないにもかかわらず。法人化後、学生はお客様になってしまい、機嫌を損ねることなく卒業していただくことが大学の使命になったような雰囲気です。今は何かことが起こったときに教員を守る仕組みがありません。これを持つことが千葉大学が将来とも発展していく要なのではないだろうか。誰か一人が幸せになるのではなく、みんなが幸せになるやり方はあると思います。特に教育とはずっと後になって効果が見えてくるものです。長期的な展望を持ちつつ大学人の使命を果たしていくことを考えたい。(2007年4月3日)

2007年度のはじめにあたり

四十代最後の一年となりましたが、今年度は自分の方向を少しずつ変えていきたいと思います。この一年いろいろなことを考えて、やはり人間が中心にこない環境研究はあり得ないのではないか、と考えるようになりました。もちろん、一般に使われている「環境」という用語は、今では「自然」とほとんど同義で使われるようになっておりますので、環境研究でも人間的側面が弱い研究があっても良いとは思います。しかし、私は、「地球環境問題といっても、具体的な問題は地域における自然と人間の関係として現れる」という環境社会学的な立場に興味を持つようになりました。今年度の研究は地域から積み重ねていきたいと思います。もう一つ、組織人すなわち大学人としてはどうか。それはやるべきことを粛々とやる、それだけです。毎年、何遍かの論文を出し、何名かの学生の学位を出すという仕事を粛々と進めることが大学人として一番大事なことだと思います。決して、大きな予算を取ることが成果だと勘違いしないよう、そして理不尽な要求がきたら勇気を持って意見を述べる、これが大事だと思います。(2007年4月2日)