口は禍の門

2007年になってから急に書き込みが増えたな、と思っている方もおられましょう。世の中、相手を理解しようとせず一方的に批判したり、勝手に勘違いして人を責めたり、悲しいことがたくさんあります。それならば、近藤が何を考えているか、さらけだしてしまいましょう。馬鹿なことをいっていると思われる方もあるでしょう。しかし、必ず共感してくださる方もおられるでしょう。その時々の心のあり方が反映して、自分勝手なことを書き込むこともあるかも知れませんが、教育者・研究者としての近藤の考え方に触れてください。


2006年度はおしまい

何とか、2006年度を終えることができました。いやなことはスパッと忘れて、新年度に望みたいと思います。新しい学生もやってきます。今は何を企画するか、それを考えることが楽しみです。(2007年3月31日)

<社会意識調査>「悪い方向に」教育がトップ 内閣府発表

YAHOOニュースで見ました。確かに全体としてはそうかも知れない。しかし、現場の教員は皆しっかりやっていると思う。現実は、教育を語るべき専門的知識、経験のないトップの方々が、トップダウンの風潮の中で、苦し紛れに下した判断が間違った方向に行っているということなのではないだろうか。この一年間、様々なことが起こった。私も大きな問題を抱えてしまったが、これらの問題で共通するキーワードは“分断”ではないだろうかと考えるようになった。教育の場合は、トップと現場の分断と言えましょうか。都市と地方の分断、人と自然の分断、家庭と学校の分断、等々、分断をキーワードにいろいろな問題が説明可能であるように思う。分断を乗り越えるためには、常に現場を中心に、問題の本質を見抜く眼を持ち、総合的、包括的な見方をすることがますます重要な時代となっているように思う。それは環境の見方とも共通する視点である。しかし、今は「悪い方向」に向かっている時期、雌伏の時、ですね。もちろん、少しずつ声は出していますが、権力に抗するのは普通の人にはなかなか苦しい。(2007年3月31日)

農村計画学会誌25巻4号

学会誌が届いており、今後はもうちょっとまじめに読もうかなと思い、読み始めました(現在、17学会の会員ですが、環境が対象ですので、これはしょうがない)。さっそく重要なキーセンテンスに出会ったので、備忘録として書き留めておきます。

「...自分たちが将来的に自分たちの社会をどのような社会にしていきたいか、という究極の選択肢までもその命題として考えていかなければならないのである。」(青柳さんの総説「地域計画と予防原則およびリスク・コミュニケーション」)

これは常々、講義・講演等で私も言っており、自分でも歳をとって哲学的になってきたな〜などと感じているのですが、確実に同じ主張は増えてきております。

「...情報を多く持つ側からの一方的な情報公開ではなく、情報をわずかしか持たない側からの情報発信が必要である。この相互作用が...」(同じく青柳さんの総説「地域計画と予防原則およびリスク・コミュニケーション」)

これも私が最近始めたとことで、WEB2.0の考え方になりましょうか。現場に役に立つ情報公開はトップダウンだけでなく、ボトムアップの仕組みも持たなければならないと言うこと。

「...この共同研究会は、一定の問題意識と方向性、そして、自由意志を持った個人の集まりであり、サブグループのリーダーはともかく、全体をとりまとめる強力なリーダーは存在しない。それぞれのメンバーは、自由意志に基づいて、共同研究会全体、サブグループとの関わり方を決めている。一見、寄せ集めのように見えるかも知れないが、これこそ、個々人がそれぞれの専門性を無理なく発揮するための工夫である。...」(林さんほか、「共同研究会「撤退の農村計画」−人口減少時代の戦略的農村再構築−」)

これこそ、1月20日に書いたように、現場に関わるフィールド科学の組織のあり方であり、環境学の態度であり、総合大学のとるべき態度なのではないか、と私は考えております。現場、ひと、暮らし、等々に関わっている分野から自然に出てくる態度なのではないか。重要なことは「解決」を共有するという姿勢ですね。(2007年3月27日)

東京海洋大学

息子が海洋大学に何とか合格しました。今日は入学手続きでしたが、ちょっと不安もあり、念のため私もついて行きました。親ばかではないのですが、一度くらい息子の大学を見ておいていいかなということで。こぢんまりとした大学で、非常に良い雰囲気のキャンパスだと感じました。私は個性豊かな人材を育てるには大きな大学は向いていないと思うようになりました。海洋大学は方向性もしっかりしているし、学生数も少ないので一体感があり、よい大学なのではないかな、と感じましたが、息子が通い始めますのでだんだん明らかになってくることでしょう。息子は今のところ研究者になりたいと言っていますが、研究者としての姿勢は親の私から伝えたいと思います。いずれ海洋大の先生につくことになりますが、私は指導については完璧にお任せします(当たり前ですが)。何があっても大人として自分で判断する力を持たなければ、社会では通用しませんから。それを親が認めることも必要です。(2007年3月26日)

山古志の復興−長島忠美さん講演

地理学会の公開シンポジウムで、旧山古志村村長(現衆議院議員)のお話を聞きました。お忙しいので、資料もスライドも無く話をされたのだが、30分間完全に引き込まれてしまいました。実に話がうまい。中越地震後、ヘリコプターで2時間の一時帰村という出来事がありましたが、中島さんは操縦士になるべくゆっくり飛んで、村の様子を皆さんに見せてやってほしいと頼んだとのこと。同じ村でも地域、世帯によって被害の程度は様々で、災害に対する認識は異なる。共通の意識を持ってもらうために皆さんに現場を見ていただいたということです。都市が被災したときにも同じことが言えると思います。例えば、都市型洪水ではマンションの1階と2階以上といったお隣さんでも全く被災意識が異なり、これが「地域力」を弱めている理由にもなっています(「地域力」という言い方は中林さんの資料に基づき、私がここで使わせていただきました)。また、仮設住宅では一度引っ越しをしていただき、同じ地区の方々に集まっていただいたとのこと。被災前でも過疎により一軒一軒の間の距離が長くなり、地域のコミュニティーの力が弱まっていたのですが、同じ地区が集まることで「地域力」の強化につながったそうです。長島さんは東京ではまさに長屋のマンションがあるので、地域力の醸成には本来うってつけではないか、といったことを述べていましたが、これは都市の課題ですね。本来2年で復興させる予定でしたが、これは「こころ」の復興には長い時間をかけられないからだそうです。2年は超えてしまいましたが、着実に復興は進んでいるようです。山古志村は地すべり地帯でもありますが、故郷でもある。現在、復旧のために多額の資金が投入されており、批判もあるのですが、私は山古志を故郷とする人たちがまず幸せになってほしいと思います。それは私たちの幸せでもあるからです。全体の幸せは個人の幸せから。これは環境社会学でいうところの生活環境主義や、グローカリズムの考え方に通じるのではないかな。(2007年3月20日)

国立大、競争原理に悲鳴−交付金見直せば47校危機

(朝日3月18日朝刊)これは経済財政諮問会議の民間議員の提言に対する文科省の試算だそうです。競争原理は今の時代、否定しにくい状況にあります。しかし、競争の際の評価基準については記事のどこを見ても「研究」しか出てきません。大学の使命は研究だけでなく教育もある。教育をどう評価するか、という観点がなぜ出てこないのだろうか。数多くの学生を対象とした講義をきちんとこなし、研究室からは毎年何名かの卒業生・修了生を出すことの意義についてどのように評価されるのだろうか。一方で、教育を対象とした大きな予算がある。教育の評価も大きな予算を取ったかどうかでしか評価されない現状がある。民間の方はこういうところしか見えないのだろうか。教育とは知識を与えることだけではなく、生き方を教えることでもあるだろう。しかし、生き方については私は大学から否定されてしまった。教育についてはもっと真剣に考えてほしい。権力を取り繕うことに教育を利用しないでほしいと切に思います。(2007年3月18日)

気象庁さくらの開花予想でミス

気象庁の手痛いミスでした。気象庁では開花予想は、過去の開花日と気温のデータから予想式を作成し、これに、昨年秋からの気温経過と気温予報をあてはめて求めるとのこと(気象庁ホームページより)。私は各地の気象台の職員がつぼみを観察して、地域ごとに求めるのだと思っていました。開花日の予想式は、「科学知」といえると思います(式自体は経験式ですが)。開花予想の仕事は格段に楽になり、だれでもできる仕事になったと思いますが、単純作業で作業者は何も考える必要がなくなりました。このシステムを維持するには高度な管理機能、すなわち入力データ、計算の正確性、のチェック等が必要なのですが、それが今回うまく機能しなかったということですね。一方、「生活知」、「経験知」を導入すれば「科学知」による予測にミスがあってもすぐにわかるわけです。人間は機械ではないのだから、「科学知」と「生活知(経験知)」の融合により社会を運営するシステムが望ましいのではないかと私は常々思っています。今回もミスが発覚したのは静岡と高松の現場からの声だったとのこと。「生活知(経験知)」が機能したといえますが、こういう仕組みはもっと議論されても良いのではないかと思います。(2007年3月14日)

先進国のペットと途上国の子供

これも「東西文明の風土」(安田喜憲著)の最後の方にあったのですが、「発展途上国の子供たちの生活は日本のペット以下の生活を強いられている」、日本のペットはいいものを食べているということ。同様な記述はいろいろなところで出会うことができます。物質的な豊かさを先進国の基準で測るとこういうことになるのかも知れません。しかし、精神的な豊かさとなると全く異なるのではないだろうか。地球市民の幸せを測るには、精神的な豊かさの尺度を持たなければなりません。しかし、普遍的な尺度は存在しません。地域によって異なる尺度を尊重し合い、地域間の関係性を意識し、一方的な不利益が生じないようにすること、このような見方が重要なのではないかと思います。(2007年3月12日)

1998年長江洪水

同じく「東西文明の風土」(安田喜憲著)では、1998年の長江洪水について印象的に記述されており、それが文明論にまで関連づけられています。1月21日の記事でも書いたように、この洪水は北京政府が始めてリアルタイムで報道を許可した災害であったため有名になりましたが、規模としては未曾有のものではなく、むしろ河川管理がうまくいった事例と考えるべきものです。ゆうに15mの高さに水位が達したというポプラの木(113ページの写真)は堤外地にあるため当然のことで、水位が高かったのは堤防がうまく機能したことを意味しています。堤外地でも人が住まざるを得ない中国の社会状況が問題であるわけです。堤防のなかった過去の洪水ではこんなに水位が高くなることは無かったでしょう。広範囲に氾濫した場合でも人は自然堤防で暮らし、命の危険は少なかったのではないだろうか。ただし、氾濫期間が長いため、農業生産に与える影響は大きかったかも知れません。メコンデルタと長江中流域では連続堤ができたのは長江の方が古いのではないだろうか。少なくとも明の時代には堤防はあった。すると、川と人との関係の歴史的変遷が両者で異なってきますが、これは面白い研究になるかも知れません。(2007年3月12日)

地理学は自然と人間の関係の学問

「東西文明の風土」(安田喜憲著)を読みましたが、ちょっとショックなことが書いてありました。浮田典良先生(有名な人文地理学者)が人文地理学総論で、地理学の研究対象はかつては自然と人間の関係であったが、現在では地域である(大意を損なわないように短くしています)、と述べていること。これは原典をチェックしなければなりませんが、少なくとも地理学界の大部分は地理学とは自然と人間の関係を扱う学問分野、と考えていることは間違いないと思います。ひょっとしたら人文地理学が自然を扱うのをやめたということではないかな。改組前の学術会議では第一部に人文地理学研連があり、第四部に地理学研連があり、地理学研連には自然系と人文系が所属しておりました。地理学の周辺にいるもので詳しい事情は知りませんが、地理学の中から社会科学としての人文地理学を目指すグループが離脱したのかも知れません。地理学は人間と自然の関係を扱う総合科学であることは変わり様のない地理学のあり方だと私は思っております。(2007年3月12日)

「不都合な真実」読みました

風邪をひいてしまい、日曜日を安静に過ごしながら読み終わりました。この本は地球温暖化がテーマと思っていましたが、それだけでもないですね。灌漑や森林伐採の問題も一緒に触れられています(ここが誤解を招かないか気になりますが)。写真が講義で役に立ちそうです。本書の最も重要な主題である地球温暖化については私もいろいろ主張していますが、これを機に明確にしておきたいと思います(私は温暖化懐疑論者ではないので)。まず、地球温暖化は実際に生じており、それは人間活動が原因と考えてよいだろうということ。科学的観測からは温暖化の事実は見えているし、様々な状況証拠も現れてきた。同時に人間活動も活発。ただし、これだけでは見かけの関係であり、因果関係を論ずることはできない。「科学的事実」とするためにはメカニズムを明らかにしなければなりませんが、それももう十分出ているのではないだろうか。そうすると「地球は温暖化しており、それは人間活動が原因である」という仮説は科学の立場からはこれを反駁する新しい仮説が出てくるまでは「科学的事実」として認めて良いというのが科学のルールです。次に、地球温暖化は倫理の問題でもあるということが重要だと思います。これはゴアさんが最初に言ったのではなく同様な主張はすでにたくさんあります。地球温暖化には悪い面も良い面もしょうがない面もある。地球温暖化の悪影響とされているものにも隠された事実があるものがある。包括的に影響評価を行い、人間社会をどうしたいのか、我々はどう生きたいのか、を考える。これが温暖化問題を考える要点だと思います。地球温暖化問題はもっともっと社会科学の観点から論じなければなりません。(2007年3月11日)

21世紀に我々は何を残していったらよいのか−内山節

出版ダイジェストに載っていたので孫引きもいいところなのですが、農文協の「昭和の暮らし」の書評の中で良い文章を見つけましたので備忘録として残しておきます。元は内山節「地域の作法から」((農文協刊)です。

これからの百年、21世紀に我々は子や孫に何を残していったらよいのか、と考えたとき、指針となる大切なことは五百年前、千年前でも今と変わらぬことだと(内山節は)述べ、次の五つをあげている。
@自然の恵みを受けながら暮らした
A農業を中心とする一次産業があった
B手仕事の世界、生業があった
C暮らしをつくる労働があった
D何らかの共同性を持ちながら生きた

現代は、変わらないと評価されない、というおかしな世の中になってしまった(特に大学の運営がそうです)。そして常に高度管理型のコストの高い社会をめざすべきだ(そうは言っていないかも知れないけれど、結果としてそうなるということ)、という社会になってしまった。しかし、人が幸せに暮らすということは、そういうことではないような気がする。内山さんの述べる世界こそ安心な世の中で、自然の恵みを受けることは、反面自然に適応した社会があるということで、安全にもつながっていると思う。20年前に訪れたアフリカ(タンザニア)がそんな世界だったと思います。安心な社会ですが、脆弱であることも確か。そこを何とかする叡智があれば、非常に豊かな世界になるはずで、そのような叡智を生み出すことが我々研究者の責務ではないだろうか。(2007年3月8日)

世の中は自然にモード2になるか

今日は我々が推進する大学院GP「地球診断学創成プログラム」の成果に対する学内ヒアリングがありました。成果といっても実質1年の成果で(博士課程修了までは3年かかるのですが)、これで文科省からの予算措置は終わりです。私は「地球表層動態学コース」の代表として成果を発表しました。そこで、陸域の環境はあらゆる要因が積分されて発現するので、モード2的な考え方の教育が重要だと述べました。それに対して、どなたかはわかりませんでしたが、「世の中自然にモード2になっている」とのご意見がありました。しかし、現場をじっくり見るという姿勢(これが地球診断学の考え方です)からは、世の中決してそうなってはいないことは容易にわかります。そもそもモード2はフィールドサイエンスの分野では基本的な考え方であり、たまたまギボンズがモード論という格好の良い概念を提唱したので有名になったのだと思います。真のモード2的な考え方は、問題を共有するのではなく(そして同床異夢を見るのではなく)、解決を共有するという姿勢から生まれてくるもので、その体現には現場に対する真摯な姿勢が必要です。けっして本を読んだからと行って簡単に身に付くものではないと思いますよ。また、モード2では分野間の協働が重要ですが、「自然科学研究科は本来そういう機能を持っている」というご意見にはちょっと驚きました。新年度より研究科は4つに分離されます。千葉大学はモード1の振興を選択したわけです。(2007年3月2日)

ジャガイモを植えました

プランターにジャガイモを植えました。この時期、ホームセンターはどこでも種芋がたくさん売られています。それだけ、菜園づくりを楽しんでいる方がいると思うと、食糧不足の時代がやってきても何とか野菜は都市でも自給できるかどうか、すこし期待が持てます。プランターに一袋398円で買った培養土を半分入れ、種芋を7,8cmの深さに埋めます。これだけ。また、土嚢袋に土を半分くらい入れ、種芋を埋めてみました。これでどれだけ収穫があるか、夏が楽しみです。20年ほど前にアフリカに行ったときは、一応ホテル住まいだったのですが、食事はポテトを主食(頼めばウガリは出てくる。トウモロコシの粉の練り物でこの地域の主食)にビーフ(ただし、固い)、チキン、時々レバーの繰り返しでした。それでも一月ほどの滞在で別に飽きもしなかったので、収穫が上がれば、食糧問題を考える際の良い経験になるかな〜などと考えています。(2007年2月25日)

千葉大学の学生は指示待ちが多い

昨日のパーティーでは、社会人となり人事に関わるようになった卒業生が、千葉大学の学生は指示待ちが多い、といった話をなさっていました。実は、これは昔から言われていることですが、だからでしょうか、学部や専攻の案内には、「自分で考え、行動する学生を育てる」、ということが所々に書いてあります。東京に近く、そんなに難しくない穴場大学として千葉大学にはこういう学生が集まりやすいのでしょうか(私もそうですが)。最近は与えられることが当たり前の世の中になっており、与えられないことは他人の責任といった考え方が強くなっているように思います。権利と義務のバランスが昔と変わってきたように感じるのも世代間ギャップなのだろうか。学生と意見が合わなくなったときに、大学は子供ルールで指導することを強要するが、個々の教員は大人ルールで指導したいと思っている。我々教員は研究者としては教育されてきましたが、教育者としての立場は個々の信念によって成り立っている。いろいろ悩みは多いが、それでも学生には最大限の助言と援助をしたいと思う。私を苦しめるのも学生なら、私を助けてくれるのも学生ですから。(2007年2月23日)

池田卓先生ご苦労様でした

池田さん、長い間お世話になりました。銀塩写真の歴史がそのまま池田さんの人生であり、写真からリモートセンシングへ、銀塩からデジタルへ、時代の流れに人生を位置付けることができるとはすばらしいと思います。振り返って私の人生はどう歴史に位置付けることができるのか、できないのか、誠に怪しい。ディズニーの原画の保存に尽力されたことは、大変感動しました。私もディズニーは大好きです。特にディスニーの音楽は私の人生において極めて重要な癒しになっています。それにしても大学はこの貴重な財産の価値をわかっているのだろうか。金銭的価値ではなく、文化的価値を大事にすることは基本的な大学の機能だと思います。(2007年2月22日)

教育とは

昨日は今年度最後のゼミでしたが、そこで、学生から“近藤にとって教育とは何だ”、という質問を受けました。教育とは、と問われれば、それは私にとって仕事です。何を教育するかと問われれば、一番重要なことは環境の見方になるでしょう。ホームページの所々に書いてありますが、多様性・関連性・空間性・歴史性を認識するセンスになります。この中でも重要なものが関連性で、それは環境を構成する様々な要素は互いに関連しあっているという見方です(その前に、多様性を認めるという立場が重要です)。これは生き方にも繋がります。自分がここに居ることもいろいろなことが関連しあった結果です。様々な“お陰”によって自分があるということを意識し、責任を果たしていくこと、これを伝えたい。また、これが社会に出たとき、様々な困難に立ち向かう際の力になります。近藤研では研究を通して生き方を学ぶ、これが私の教育の仕方、とありたいものです。(2007年2月21日)

グローバリズムも欧米のローカルな思想

「ローカルな思想を創る」を読み終わりました。非常に得るところが多かった本ですが、特に私が講義で使っている世界観、すなわち世界には地域がたくさんあり、地域は相互に関係している。そして地域が集まって世界を形成している。世界を同時に幸せにする方法はない。地域研究が重要で、グローバルは地域研究を位置づけるためのフレームワークだ。こんな考え方は間違っていなかったかな、と思います。

「...世界に普遍思想があるのではなくて、地域地域に営みとともにある思想があって、世界にはいろんな思想が展開している。しかもその思想は研究者が頭で考えた思想ではなくて、そこに暮らしていなければ発見できないような思想。こういう思想を評価できる社会を作りたいと思っています。」(内山節)
「...だから僕はローカルなもののネットワークを組んでそれをつないでいくことのなかに世界を考えたいと思うのです。...」(鬼頭秀一)
「...地球規模の問題を解決しようとしても、それぞれの地域で自然と人間の関係が良好でなければならないというローカルな問題にぶつかってしまう。ローカルな自然と人間の調和を基礎にしないと、問題は解決しないと思うのです。...」(内山節)

グローバリズムといえども欧米、特に北米のローカルな思想に過ぎません。我々は新しい考え方をもっともっと発信していかなければなりません。この本の内容は10年前に行われた「掛川セミナー」で議論されたことをまとめたもの、その後の進展をフォローしなければなりませんね。(2007年2月12日)

小技術、中技術、大技術

さらに引き続き農文協の「ローカルな思想を創る」を読んでいますが、大熊孝さんが技術の三段階について述べています。もとは、鈴木哲さんの論文に出てきたもので、1月24日紹介の大熊さんの本でも使われていました。さて、小技術、中技術とはそれぞれ個人、コミュニティーによって対応することができる技術で、大技術とは現在の工学的手法。大技術には河川管理を対象にすると、ダムや可動堰などの高コストのハードウエアがあります。大技術によって我々は共同作業から解放され、生活は楽になりました。しかし、自然との関わりは失われ、安全は得られたが、想定外の災害時における被害ポテンシャルは高まるばかりです。ハードウエアはいずれ老朽化する。災害はある程度は受容し、コミュニティーで対応できる小技術、中技術の再検討を行う時期ではないだろうか。小技術、中技術というと私は「農村水文学」を思い出します。京都大学東南アジア研究所の「東南アジア研究」に収められた論文で、コモンズの「バングラデシュ農村開発実践研究」(海田能宏編著)にも再掲されています。バングラディシュは現在活動中のデルタの上に載る国で、河道はしょっちゅう変遷し、農地が奪われます。河道を固定するためにとった手法がドラム缶を延ばした鉄板を堤防に農民自らが張ることにより侵食を止める方法。ODAでしたらすぐ強固な堤防ということになり、建設後の管理も大変になるでしょうが、これは住民自らが維持管理でき、意外と効果がある手法です。もちろん大洪水がやってきたらひとたまりもないでしょうが、大技術と中小技術のどちらが望ましいか。豊かさとは何か、持続可能性といった観点からはいい勝負になるのではないでしょうか。(2007年2月11日)

稲作中心の日本文化論批判

引き続き農文協の「ローカルな思想を創る」を読んでいますが、木村茂光さんは「中世農民像の転換」の節の中で稲作農耕民中心の日本文化論に対して疑問を呈しています。日本の文化は米によって作られたという説は甘美な響きを持つので、私もそうかなと思ってきました。今、本棚を探すと富山和子著「日本の米−環境と文化はかく作られた」、「水と緑の国、日本」がそんなことを説いています。しかし、木村さんは稲作民=農耕民という考え方は柳田国男の民俗学の影響によって形成されてきたと考えています。中世から近世への転換期には綿、近世から近代は絹が大きな役割を果たしている。年貢の研究からも決して米だけでなく多様な物品が流通していたとのこと。確かに、日本にどこでも水田の光景が見られるようになるのは土木技術が進展した近世以降であるし、新田開発が進んだのは吉宗の18世紀以降です。戦後の緑の革命、すなわち多収量品種の導入と圃場整備の進展が現在の広大な水田景観を作り出したとも言えるでしょう。ただし、高度経済成長によってだいぶ失われてしまいましたが。一国の文化というものは決して一つの考え方で括ることができるものではなく、多様な文化が共存していると考えた方が良いのではないか。柳田国男も山の民について語っているではないか。(2007年2月11日)

「自然の無事」、「村の無事」、「私の無事」−「関係」の重要性

農文協の「ローカルな思想を創る」を読んでいますが、内山節さんの「近代的人間観からの自由」からの引用。「自然保護」という思想は自然と人間を分かち、人間の外にある自然という意味を感じる。しかし、農村の暮らしからは客観的な対象としての自然というよりも、「関係」を保つ存在として自然があるように思える。ここから表記の考え方が出てくるのですが、自然の無事は村の無事、村の無事は私の無事、私の無事は自然の無事であり、「関係」により無事が生まれてくる。この一年、私は自分の生き方について考えてきたのですが、まず自分が幸せになろう、すると家族も学生も幸せになる。そして「関係」を通じて組織も幸せになっていくだろう。こんな風に今は考えています。これは、「グローカリズム」の考え方において、まず地域が幸せになろう、すると世界が幸せになる、という考え方にも影響されています。当初はそんな自分勝手な甘い考え方は許されないのではないか、という思いも強かったのですが、様々な考え方に触れることによって、だんだん確信が生まれてきました。そこからは自分を取り巻くすべてを尊重するという考え方も当然出てきます。すると幸せが生まれてくる。ただ、内山さんも述べているように、「関係を共有していない人々」にとってはとるに足らないことかもしれません。その際は、1月6日の記事のBの態度で臨みましょう。(2007年2月11日)

全国エネルギーシンポジウム

午後は近所の東邦大学で開催された表記のシンポジウムで話を聞いてきました。エネルギー問題は講義でもやっているので、なるべく多くの情報を得ておこうと思って参加しました。勉強になったことは、EPT(エネルギー・ペイバック・タイム)を知ったこと。これは太陽光発電で、製造から廃棄までに投入されるエネルギーがシステムの運用によって得られるエネルギーと同じになる時間です。Sharpの星加さん、ありがとうございました。屋根に設置するパネルではEPTはだいたい1〜2年で、思ったより短いですね。パネル自体の寿命は20年程度なので、これはいいじゃんと思ったわけです。講義では太陽光発電のEPR(Energy Profit Ratio)はまあまあだが、電力輸送に対するコストが高いのでどうかな、と話をしていました。しかし、エネルギーを使うところで作って消費する。これは地産地消、地域水循環、等々の考え方とも通じるナイスなアイデアではないか。では、さっそくうちでも、といきたいところですが、やっぱりまだまだ高いですね。(2007年2月10日)

本がたくさん届いた

アマゾンは便利なので、ついまとめ買いしてしまいます。何回か注文しているうちに同じ本を買ってしまったという落ちもつきました。今回購入したのは、「環境社会学(第1巻と3巻)」、「環境社会学の理論と実践」、「環境問題の社会理論」、「水と人の環境史」、「コモンズの社会学」、「里川の可能性」、「大洪水の記憶」。最近、社会学系が増えてきましたが、近藤が何を考えているかがわかるでしょう。著者で気になっている方々は、鳥越皓之さん、井上真さん、嘉田由紀子さんです。嘉田滋賀県知事は遠い親戚らしい。まだ面識はないが、専門分野に共通性があるので、いずれ会ってみたいですね。(2007年2月10日)

温暖化、警告明らか

とっておいた2月3日朝日朝刊の表記の記事を読み返しています。科学的にはまだまだ明らかとは言いにくいでしょうが、心情的には確かに明らかなように思えます。記事の中にも様々な影響が列挙されていますが、だから短絡的に温暖化を悪と捉えることにはまだ抵抗があります。人類が最も恐れなくてはならないのは寒冷化、次の氷期への突入ですからね。いつも言っているのですが、温暖化を止めて何を守ろうとしているのかを明らかにし、悪影響とされているものの陰に隠れているものを見つけることが重要だと思います。守ろうとしているのはよく考えると高度に管理された都市社会、ということもあると思います。何よりも大切なのは生業だと思います。記事の中でも漁業や農業について言及しています。しかし、社会的公平性を同時に考えなくてはならないと思います。生業の変化も、実は温暖化以前に都市社会の発展のために不本意にも変えざるを得なかった方々はたくさんいます。私はそういう人々、社会のことを先に考えたい。(2007年2月9日)

Google Mapsを超えられるか

本日、ImageWebServerというソフトウエアが納品されました。これはGoogle MapsやGoogle Earthと同じで、大容量の画像でも独自の圧縮アルゴリズムでインターネットでも軽々と公開できるシステムです。何度か問題にぶち当たりましたが、半日かけてとりあえずセットアップを行うことができました。今回購入したライセンスはファイルサイズ、接続数に制限のないフルセットですので、Googleを超えることも夢ではありません。これから様々な画像情報を公開するシステムを作っていきたい。しかし、情報システムは勝手に作るだけではトップダウンでしかすぎず、情報を必要としているボトムのユーザーには届きにくい。市民からボトムアップでニーズや新しい情報を頂く仕組みも考えていきたい。(株)ウェザーニュースと「安全・安心コンテンツ」の構築を目指した交流を続けていますので、近日中にプロトタイプを公開したいと思います。詳しくはホームページを注目してください。(2007年2月9日)

脱「脱ダム」

田中康夫前長野県知事が中止を決めた浅川ダムが、村井知事になって「穴あき」ダムとして復活するそうです。地図を見てみましたが、浅川の下流域は長野市の都市域の北半分にかかっていますね。都市を守るために、工学的手法で対応することは施策としてあり得ると思います。とはいえ、その根拠についてはいろいろな意見があり、私も俄にはわかりません。ただ、ダムか脱ダムか二元論ではなく、守るべき財産、命があって、それらを工学的手法で守ることを地域が納得するならばダムを造れば良いと思います。必要なところには造る、必要でないところには造らない。重要な観点はどこまで未来を考慮するか。現在を問題にするならばダムを造るのが一番手っ取り早いかも知れません。しかし、施設の維持管理には多くのコストがかかりますし、箱物はいずれ老朽化します。高コストの高度管理社会を子孫に託すか、それとも自然に適応した低コストの生活に移行するか。未来に対する考え方でダムに対する考え方はだいぶ異なってくるように思います。(2007年2月8日)

橋の長寿命化促進、100年へ予防修繕 国土交通省、新年度から補助金

Yahoo(産経新聞)から。1月24日の記事でも書きましたが、社会資本の老朽化がだんだん顕在化してきたようです。平成17年度の国土交通白書にも「社会資本の老朽化に伴う課題」という節があります。アメリカでは1970年代から1980年代に老朽化問題が起こり、経済的・社会的に大きな損失を被りました。かつてタンザニアのダルエスサラームで Shimizu Road というのを見たことがあります。清水建設が建設した道路ですが、維持管理がなされないため穴ぼこだらけでした。日本でもこれから老朽化問題はどんどん出てくるでしょうが、アメリカの70、80年代と異なるのは、資源がなくなりつつあるときに顕在化してきた問題であるということ。長期的には石油の高コスト化はどんどん進むでしょう。非鉄金属、レアメタル等も争奪戦の模様を呈してきています。建材やコンクリートの原料の砂や石灰岩もいつまでもとれるわけではありません。何より経済が常に右肩上がりであるわけでもありません。我々はどのような未来を構築すべきか。冷静に、かつ包括的な視点から考える時期が来ています。(2007年2月5日)

怠けのすすめ−篭山京

今日は日曜日、週末から読み始めた農文協の人間選書一冊を読み終わりました。タイトルに惹かれて購入しましたが、著者が1960年代頃にヨーロッパ諸国を訪ね、人々の生き方について考察したものです。その中には感動する文章がたくさんありました。最後に日本の話題がひとつありますが、北海道開拓の話には読んでいて涙しました。これらの著者の経験の到達点として「生活第一主義」(本書中の言葉)が出てきたのではないかと感じています。1910年生まれの筆者はすでに第一線を退かれていると思いますが、90年代になって日本の社会学から出てきた「生活環境主義」の萌芽的なものを感じます。ここに書きたいことはたくさんあったのですが、最終章からひとつ引用したいと思います。

「...生活は元来「働くこと」と「暮らすこと」とから成り立っている。...「働くこと」を先に持ってくると、なんのために働くのかということが問題とならざるを得ない。...」

千葉大学は「つねに、より高きものをめざして」をホームページに掲げてあるが、まさに「働くこと」第一主義で突き進んでいるように感じます。高きものとは今のところビックプロジェクトと同義で、何のためにという観点が曖昧のままです。そこで、「暮らすこと」を先に持ってくると(すなわち、生活第一主義や生活環境主義に則ると)、まず職員、学生が幸せになること、を目指すことになるのではないか。

「自分を大切にすること、とりわけ自分の考えを大切にすること、国のためや社会のためではなくて自分のために行動するという生き方が、実は連帯を産み、スイスの永世中立を築いているということを、考えてみてもよくはないか。」(37ページ)

第一章『「ひとり」と連帯』の章、スイスを題材とした文章からの引用ですが、総合大学の運営の仕方として解釈することができるように思います。法人化後、総合大学内部は分野間の競争に陥り、連帯より分裂の道を歩んでいるように感じます。そうではなく、個々の研究者・教育者の考え方を尊重し、ネットワーク型組織として発展を目指すやり方を本書は暗に示唆しているようにも思います。詳しくは本書を読んでください。ネットワーク型組織については1月20日の記事を参考にしてください。(2007年2月4日)

もっともらしいことが正しいことかな

今日、朝のNHKの天気予報で、アムール川がオホーツク海の流氷の源という話題がありました。川の水は淡水なので、凍りやすいというのが理由です。一方、衛星観測によると氷はオホーツク海北西部、まさにオホーツクの町の沿岸から発生が始まるので、大陸からの季節風が冷たいことが主要な理由、という説もあります。とはいえ、アムール説はもっともらしく、視聴者のほとんどはそう思うでしょう(もちろん、二者択一ではないと思います)。世の中もっともらしいことが真実とされて、様々な施策の根拠となっていることがたくさんあります。これはデカルト・ニュートン的科学を信奉している現代社会のパラダイムです。しかし、環境や人間社会は単純なディシプリンでは理解できない対象です。現象の理解が間違っているために、施策が間違った例も多いことでしょう。新しいパラダイムが必要な時代にさしかかっていると思うのは私だけではないようです。ただし、アムール説は仮説であり、それを反駁する新しい仮説を出せば良いとの考え方もあります。しかし、一般の方々はアムールにロマンを感じており(私もそう)、何となく甘美な仮説というのは反駁しても新しい考え方が広まるまでに多くの時間がかかります。我々研究者は啓蒙、普及にももっと時間をかけなければいけないということでもあります。(2007年2月4日)

やさしさとは

最近考えていること。自分はそれなりにやさしい人間だと思ってきましたが、本当にそうだったろうか。やさしさには強さが伴わないと、やさしさたり得ないのではないか。強さがないやさしさでは何も守れないではないか。(2007年2月3日)

文明社会の野蛮人

この言葉は気に入っていて、私も「文明野蛮人」として記事で利用したことがあるのですが、告白すると孫引きでした。そこで、きちんと勉強しようと思い、オルテガの「大衆の反逆」(寺田和夫訳、中央公論新書)を購入しました。今日アマゾンから届きましたが(便利なのでアマゾンはつい使ってしまいます)、哲学書はそう簡単に読破はできません。とにかく、文明野蛮人のキーワードを探しましたがなかなか見つかりませんね。今のところ、下記の文章を見つけました。

「...大衆的人間は、自分が利用している文明を、自然発生的であり、独りでに生じたものだと思っている。...」(108ページ)
「...いわば、科学者を原始人に、現代の野蛮人に変えてしまうのである。...」(135ページ)

文明社会の野蛮人の意味は、「我々の生活は科学技術の恩恵を受けて成り立っているが、その背景を知らず、誰のどのような努力、援助、犠牲、投資、等の上に成り立っているかに気がついていない人」、こんな風に理解していました。これを敷衍すると、「自分の生活が誰のどんな努力、援助、犠牲、投資、等で維持されているか気がついていない人」ということになります。気がついていないことに、気がつくこと、これこそが安全・安心な社会の構築に必要なのだよ、ということを言いたいわけです。オルテガについては読破してからまた報告したいと思いますが、ネットで調べていたら、「文明社会の野蛮人」はオルテガではなく小林信一さんがオルテガを援用する形で議論した、との情報も見つけました(広島大学の成定先生のホームページ)。これも調べなければなりません。やることが増えてきましたねぇ。(2007年1月31日)

リサイクル下水、飲むしかない…干ばつ豪、08年から

これもYahoo、元は読売新聞。干ばつに見舞われているオーストラリアで、クインズランド州政府は28日、下水を飲料用にリサイクル処理した水を同州の一部で2008年から使用すると発表したとの記事です。オーストラリアでは下水利用への関心が高まっているが、住民の抵抗感も強いとのこと。日本人にも抵抗はあるだろうな。しかし、すでに下水の再利用を行っている国があることをご存じですか。シンガポールです。この国はマレーシアのジョホール川の水を導水しています。昔、会議の巡検でボート遊びをしたことがありますが、南国リゾートだったな。いろいろあって、マレーシアが水の値段を100倍に上げることを要求したことからシンガポールは下水の再利用を始めたわけです。一昨年、処理工場の見学をして、ニューウォーターと名付けられたペットボトル入りの水を貰ってきたのですが、ごめんなさい、飲みませんでした。でも、再生水を使うということは、都市生活者が排水の水質に気を遣うということでとても良いことなのではないかな。確か、丹保憲仁先生がそんなことを言っておりました(例えば、「水文大循環と地域水代謝」、技法堂出版)。これからの水利用は地域の循環系の中から取り出せる水を使う。それが都市の規模を決めていく。小規模の都市であれば農地との混在も可能で、物質循環も成り立つのではないだろうか。なお、香港、マカオは大陸の珠江から水を引いており、類似の問題があります。香港では湾を閉め切ったダムを見たことがあります。(2007年1月29日)

パイプで輸送「夢のゴミ収集」、次々廃止…廃墟化恐れ

Yahooで読みましたが、元は読売新聞の記事。地下に張り巡らせた輸送管でごみを収集する「管路収集」の廃止が相次いでいるそうです。これも科学技術主義に基づき、推進した施策で、当初は夢のシステムと思われましたが、時代が変わってしまったわけです。維持管理および更新のコストの問題、ゴミに対する考え方の変化、等々いろいろな理由をあげることができそうです。我々はどんな社会を創ろうとしているのか。どう生きるのが幸せなのか、今みんなが考えている。高コスト社会の限界も感じ、時代の変わり目の予感もするこのごろですが、世間では科学技術主義、経済成長への期待はまだまだ高い。昨日の朝NHKで御手洗経団連会長が出演した番組がありましたが、やはり成長重視なんだそうです。今、御手洗ビジョンをざっと眺めてみましたが、生活者の視点が欠けているような気がする。いろいろな問題に対する考え方も一面的で現実の社会の多様性が取り込まれていないような気もします。財界人の世界はやはり財界だけなのだろうか。人の考え方はすぐには変わりませんが、ハードはだんだん老朽化し、コストもかかる。維持管理の限界により人の考え方を変えざるを得ないという日がいずれくるような気がします。(2007年1月29日)

いつもとれたて!ベランダ菜園−都市で農業−

NHK趣味のガーデニング21の表記の本を買いました。今年はまずプランターで野菜栽培を試みたいと思います。なぜこんなことを始めたか。私は日本の食糧安全保障についてはあまり楽観はしておらず、将来突然食糧危機がやってくる可能性は高いのではないかと考えています。その時は野菜くらいは自給しなければなりません(米の自給率は90%を超えています)。実は都市で野菜を自給した例があるのです。それはキューバの首都ハバナ。ソ連邦崩壊とアメリカの経済封鎖でキューバは食糧が不足します。それで始めたのが都市農業。詳しくは、吉田太郎著「200万都市が有機野菜で自給できるわけ−都市農業大国キューバ・リポート」(築地書館)。社会の体制が異なるため、日本ですぐに可能かどうかはわかりませんが、まず自分がやってみることで、小さな満足と幸せを得たいと思います。(2007年1月28日)

手記で読む関東大震災−シリーズ日本の歴史災害5(その2)

この本を読み終わりました。大きな自然災害の経験はない私ですが、災害時の状況を想像し、今後の研究に生かしていきたい。この本の中で重要な記述がたくさんありましたが、いくつか紹介したいと思います。

・地震に伴い、地盤沈下が発生しましたが、今村明恒はそのメカニズムについて述べている。私は太平洋戦争時の地下水揚水量の減少に伴い、沈下が沈静化したことから和達清夫が地盤沈下地下水説を唱えたと認識していました。
・地震動の大きさと地盤の関係について正確な記述がある。特に、家屋の全壊・半壊地域を地図上にプロットすると、往古の旧河道に対応することを述べている点はすごい。
・震災後の都市復興のあり方について、提言を行っている。イタリア、メッシーナ地震の後に、道路の拡幅、高層建築の禁止、公園の設置、等の施策が実施されているのを見た印象が強かったみたい。しかし、現在の東京においてその提言、地震の教訓が生かされているであろうか。否ですね。徳川幕府はきちんと対策はとっていたそうですよ。

 まだまだありますが、この本を読んでください。(2007年1月27日)

いじめ

最近、「社会学」という分野のおもしろさに気がつき、本を買ったり、ネットサーフィンしています。最近出会ったのが、ソキウスというページ(http://socius.jp、野村一夫)。その中から、「いじめ」の節でこんなことが書いてありました。これも森田・清水「新訂版 いじめ−教室の病い」(金子書房)からの引用ですが、いじめの場面において学級集団は「加害者」「被害者」「観衆」「傍観者」の四層構造をなし、いじめの過程で重要な役割を果たすのが、「観衆」と「傍観者」であり、抑止力にも助長することにもなるということ。これを大人の世界へ敷衍すると、「加害者」は権力者であり、「観衆」は事情を知る少数の人、「傍観者」は事情を知らない大多数の人々。いじめを抑止するには、「観衆」を増やし、抑止力となってもらうということか。しかし、「加害者」は権力者であり、司法の力を借りるしかないか。もう少し深く考えなくてはなりませんが、大人の世界のいじめの加害者は1月6日のBの態度ができていないことに起因すると思います。いじめという現象と科学のパラダイムの転換、同根のものがあるように思いますが、考え過ぎか。また近日中に論考したいと思います。(2007年1月26日)

近代化のコスト−技術にも自治がある

農文協の人間選書を何冊か購入し、以前から持っていたものと併せて本棚の整理をしていて久しぶりにこの本をめくっています。大熊孝著「ローカルな思想を作る@技術にも自治がある−治水技術の伝統と近代」。この序にいい話があります。それは、信濃川左支川の渋海川にある頭首工(農業用水取水用の堰)の話です。この脇にある岩塚小学校の校歌の二番でこんなことが謳われています。

「青田をうるおす川瀬の水も/時にはあふれて里人たちの/たわまぬ力を鍛えてくれる/われらも進んで仕事にあたる/心とからだを作ろう共に」

渋海川頭首工は可動堰で、これにより近隣の農業従事者はたくさんのメリットを受けました。これは評価すべきです。しかし、景観を壊し、上の校歌にも謳われている人と川の交流を断ち切り、生態系も壊しています。また、建設は補助金で行われましたが、維持に多くのコストがかかる。いずれ老朽化し、改築が必要となったときに、費用は地元が負担できるのか。日本は科学技術主義に則り、工学的適応による国づくりを進めてきたが、これは将来も維持可能だろうか。我々は近代化のコストについて今考える必要があるのではないか。(2007年1月24日)

40代最後の誕生日を迎えました

子供の頃は自分が40歳になるなんて、想像もできませんでしたが、その40代も後1年を残すのみとなってしまいました。2006年は私にとって良い年ではなかった。つらい年でしたが、その代わりいろいろなことを考えました。やはり自分の研究課題は環境であり、環境は自然と人間の関わりであるということ。様々な問題も、人間中心に考えるべきであると考えておりましたら、生活環境主義に出会いました。地域社会における生活者の立場から環境問題に取り組む考え方です。この立場に則り、かつ現場の状況を包括的に捉えようとすると、ディシプリン研究者やデスクトップ研究者の見方とは異なる環境問題の側面が見えてきます。今、参考文献をたくさん注文中です。また近日中に報告したいと思います。(2007年1月23日)

手記で読む関東大震災−シリーズ日本の歴史災害5

表記の本を読んでいます(武村雅之著、古今書院)。その中の第四章今村明恒の章を読んでいて下記の文章を見つけました。

「...津波で数十万人の人々が亡くなるという未曾有の被害を出した平成16年(2004年)12月のスマトラ島沖地震では、現地にいたほとんどの日本人が津波の襲来を察知できなかった中で、津波に関する教育を受けていたイギリス人の少女が、津波の襲来を察知して多くの人々を高台に避難させ命を救ったという。...」

私のところにも地震のすぐ後に、イギリス地理学会発信のメールが回覧されてきていました。少女は中学生で、プーケットに来る二週間前に地理の講義で津波について学び、突然潮が引いた後には津波が襲ってくるということを理解していたのです。上記の文章は地震学者今村明恒(1870-1948)が国民に対する地震の知識普及にも人一倍尽力したというコンテクストで出てくるものです。いくら研究者がわかっていても市民がわかっていなければ科学は何の役にも立たないのです。先日、水害と土地条件に関する投稿論文で査読者から、“論文で主張していることは常識である”、とのコメントを頂きました。その常識が一般市民に伝わっていないことを問題にしているのですが...科学が芸術である時代は終わりました。(2007年1月22日)

近年続発する災害

二宮書店地理月報497号を読んでいます。今回は気象災害特集。その中に近年続発する洪水として1998年長江洪水も挙げられています。1998年は中国水利部で洪水対策にあたられていた李紀人先生をCEReS客員教授としてお招きすることになっていましたので、この洪水については詳しく調べることができました。1998年洪水はその後、いろいろな場面で引用されることが多くなるのですが、なぜそんなに有名になったのか。パールバックの「大地」にも描かれているように洪水と旱魃は華北の典型的な災害です。華北の民は数年おきに発生する洪水、旱魃の被害に長年苦しめられてきました。その中で、1998年の洪水が未曾有の規模だったかというと、実はそうではなかった。最近になって頻発するようになったわけでもなかった。この洪水が中国が初めて海外向けに中継を許可した災害であったために、ニュースが世界を駆けめぐり、挙げ句の果て地球温暖化とも絡めて語られるようなことも起こっているわけです。長江の本堤が切れたのは九江の一カ所のみで、そのほかは堤外地(堤防と河川の間、長江中流では本堤と小堤の二重構造になっている)に水を導入し本来の遊水池として機能させたことにより、そこに住み着いていた人々が被災した、いわば人口問題であったわけです。犠牲者も数字のほとんどは洪水ではなく、土砂災害です。この洪水はむしろ河川管理がうまくいった事例とも言えると思います。(2007年1月21日)

禁じられた稲−カンボジア現代史紀行−

今日は家でゆっくりしています(センター試験関係者の先生方すみません)。そこで、昔読んだ本を眺めているのですが、表記の本を紹介します(連合出版)。著者は清野真巳子さん、新聞記者とのことです。私は衛星データを使って東南アジアの農事暦の研究を行ったことがあります(2004年の岩崎君の卒論です)。その時、メコンデルタではベトナムにおける雨期を避けた乾期の二期作地域の範囲がカンボジアとの国境によく一致することに驚きました。ベトナムでは緑の革命により乾期作が増え(東南アジアはもともと雨期の一期作です)、米の収量が上がりました。カンボジアでも緑の革命を目指した時期がかつてありました。それがポルポトの時代です。浮き稲、すなわち伝統的な農法は禁止され、強引に緑の革命が進められたわけです。結果としてはそれは失敗に終わり、カンボジアの稲作は近代化には遅れをとってしまいました。浮き稲はモンスーン気候に適応した伝統的農法で、現在でも農民は高収量品種の栽培だけでなく浮き稲の栽培も行っているそうです(恐らく保険の意味がある)。この本で印象的だったことは、その種籾はどう見ても一種類ではなかった、という記述です(清野さんが日本人の技術者から聞き取った話)。恐らく複数の種類が混ざっており、旱魃の年には乾燥に強い種が出芽し、洪水が早く来た年には水に強い種が出芽するのでしょう。緑の革命による高収量品種はモノカルチャーですので、そうはいきません。環境に適応した農業、農学的適応の姿をここに認めることができます。私も20年前にアフリカで同じような光景を見たことがあります。雨期の直前に乾いた大地に鉄の棒で小さな穴をあけ、そこに種を置いていくのですが、そこには何種類もの種が含まれていました。その年の雨の状況に最も適した種が芽生えるのでしょう。さて、未来の農業はどうあるべきか。環境適応、農学的適応、工学的適応、...どうやって維持するか。いろいろ考えるべき課題が見えてきます。少なくとも工学的適応である緑の革命のさらなる推進のみが持続可能な未来を保証するわけではないことはだんだん明らかになりつつあるようです。(2007年1月21日)

地球環境問題の現場検証−インドネシアに見る社会と環境のダイナミズム−

先の記事で池田寛二さんの文章の引用をしましたが、この機会に表記の書籍(池田寛二編、八千代出版)の紹介をしたいと思います。この本は環境社会学からの発信であり、環境社会学は現場に深く入り込んで問題の本質を見極めようとする分野です。このような立場からは巷にあふれる地球環境問題に対する従来の常套的な取り上げ方に違和感を覚えざるを得なくなります。デスクトップ環境学者(これは私の造語)が単純な因果関係に基づき研究の意義付けを行っていることに私も違和感を感じることも多かったのですが、この本ではインドネシアにおける調査事実に基づき、見事にその矛盾点を喝破しています。“環境学”は事例の積み重ねにより理解を深めて行くタイプの学問ですので、ここでは個々の事例の紹介はやめておきましょう。環境に関わっている方々は是非とも読んでほしい本の一つです。(2007年1月21日)

地球環境問題のステレオタイプ

今日はセンター入試ですが、家にいます。昔は試験監督をやっていましたが、各学部で人がいるのに助っ人を頼むのはいかがなものか、という相手側の自己批判からここ数年は声がかかっていません。ところが、“研究センターの人間は入試業務をやらないのはけしからん”という批判が最近出てきました。事情を知らないと、御上といえども勝手なことしか言えないものです。ところで、1997年はインドネシアで大火災がありました。この原因について地球環境問題をかじったことのある人ならば、@エルニーニョとA焼き畑が原因であると考えていないでしょうか。しかし、地球環境問題の現場検証を行っている環境社会学の分野では、上記の見解は否定されており、最大の原因は油ヤシのプランテーション開発であると認められています。そして背後には、国際経済、南北問題、等々の複雑な事情があります。このように、問題の実態について深い洞察がないと、その後の対策を間違ってしまうことになり、深刻な問題であるほど後世への悪影響が大きいということになります。森林火災の話題は、講座環境社会学第5巻、アジアと世界−地域社会からの視点−の中の第2章、池田寛二さんの章からの引用です。詳しくはこちらを読んでください。(2007年1月20日)

総合大学の組織

また鳥越皓之著、「環境社会学」から発想した話題です。第15章政策と実践の「社会組織・社会運動」の節に組織の型に関する記述がありました。環境分野で見られる社会運動には組織的拘束力の弱いネットワーク型の組織が多いということ。この組織型は活動や運動をするときには明らかに非効率なのですが、参加者に主体性が認められていることが特色です。一方、ピラミッド型組織は上下関係が強い、命令権の強い組織です。大学の法人化はまさにピラミッド型の組織を目指しているといえます。しかし、総合大学の研究・教育組織は多様な分野の多様な考え方を持つ研究者の集団です。本質的にネットワーク型組織なのではないでしょうか。もちろん、縦の関係は大学運営にも重要ですが、ネットワーク型組織でも不可能ではありません。ネットワーク型組織で指示命令を徹底させる際は、“メンバーは状況を理解し、指示命令が当然だと自分たちの判断で受け入れている(同書からの引用)”、という特徴を持たなければなりません。そうでなければ軍隊と同じになってしまいます。総合大学はネットワーク型組織として運営せざるを得ないと思いますが、そのリーダーシップについてはまだまだ試行錯誤の時代が続くのかも知れません。(2007年1月20日)

大学教員に「個人評価」を:実績点検→情報公開→自己改善

日本経済新聞200年1月15日朝刊の記事です。著者は岡山大学学長の千葉喬三さんで、書いてあることはまあ誰でもそうだと思っていることだと思います。実際、大学教員は評価をしてもらいたいと思っている、といっても過言ではないでしょう。問題は評価のされ方です。1月6日の記事で書いたように、@、Aの態度で評価されたらマイナス評価でも納得できず、心身共にダメージは大きすぎる。Bの態度で評価すべきですが、評価者にその器量がない、というのが日本の多くの大学の現状だと思います。教育、研究あるいは運営でも一貫した考え方が示されていないと評価のしようがないではないか。例えば、教育は子供ルールで行うのか、大人ルールで行うのか。多様な考え方があると思いますが、これまで方針について考えてこなかったから、問題が生じたときに権力のない一般教員が苦しむことになる。法人化後3年、まだまだ試行錯誤の状況は続き、教員にとっては冬の時代が続くのでしょうか。(2007年1月15日)

生存と生活ー環境社会学:生活者の立場から考える−

鳥越皓之著、「環境社会学」(東京大学出版会)を読んでいます。まだ読み終わっていないのですが、気になる記述を見つけましたので、感動が醒めないうちにアップしておきたいと思います。71ページを見てください。

「あなた方は生活(life)についてほとんど議論をしないで、生存(survival)について多くを語りすぎています。生活の可能性がなくなったときに、生存の可能性(生き残れるかということ)が始まるということを忘れないでおくことが大変重要なのです。.....」

これは1987年にブラジルで開かれた『地球の未来を守るために』という環境と開発に関する世界委員会における、傍聴していたブラジルの方からの発言だそうです。豊かな国に住む我々は、例えば「都市化によってオオタカの生存が危ぶまれる」と同じコンテクストで、アマゾンの住民の生存について語っていたということに気づかされました。生存について議論する前に、そこに暮らす人々の幸せな生活をどうしたら維持できるのか、という観点から議論すべきであった。地球環境研究ではすぐに「生存」というキーワードが出てくるが、まず生活レベルから議論すべきではないのか。最近、環境社会学に関する勉強を進めていますが、「生活環境主義」、「グローカリズム」等々、「環境」を口にする者にとって学ぶべき点がきわめて多いと感じています。(2007年1月9日)

最近読んだ本ー人と森の環境学−国産材と外材の価格差はわずか

最近職場で10分読書を心がけています。車通勤ですし、夜は酒を飲んでしまうし、夜読書に集中すると今度は目が冴えますので不眠が怖いですしね。さて、前のコラムは井上真ほか「人と森の環境学」(東京大学出版会)の第5章「地域住民と森林」(井上真)を読んでいて、引用文献を持っているじゃん、ということになり読み返したものです。今回は別の話題なのですが、それは国産材と外材の価格差はわずかであることを知ったということ(p162、外材輸入は良いことか?、白石則彦)。私は日本の林業は低価格の外材の輸入により、経済的に成り立たなくなって衰退した、と講義では教えてきました。しかし、国産材と外材の価格差は住宅一棟分にして数万円にすぎないそうです。むしろ、国産材の生産・加工・流通の各過程の小規模化、分散性が問題ということです。確かに、今は住宅の建築は工期が短い。外材を利用すると均質で規格化された材料を必要な時に直ちに揃えられるということが、日本の林業衰退の重要な要因なのですね。まさに、スーパーやコンビニの競争と同じ。でも、やりようによっては日本の林業はまだ立ち直ることができるということにもなります。ここではステレオタイプで環境を見てはいけないということを自戒を込めて強調しておきたいと思います。(2007年1月6日)

フィールド研究の態度と総合大学運営

昨晩、何気なく本を読んでいて、ある文章を再発見しました。というのは以前読んでいたのですが、この間の心境の変化で非常に強いインパクトを得たので。石弘之編「環境学の技法」(東京大学出版会)の中の第6章、井上真さんの「越境するフィールド研究の可能性」からの引用です。

...カキ(牡蛎)に対する嗜好を例にして説明してみよう(井上、1997)。A氏は生ガキが好きである。ある日、カキは生のままより火で炙った方が美味しいというB氏と出会いカルチャーショックを受ける。この後のA氏の態度は次の3つのどれかであろう。@A氏を嘲(あざけ)る。AB氏の嗜好を受容するが、異質なものとして認識するにとどまる。BB氏の違いを認め、さらにその原因についてB氏と一緒に考える。その結果、...(後は読んでくださいね)

「これはフィールド研究の心構え」という節の中で書かれているもので、Bこそがフィールド研究に必要とされる態度だと主張しています。フィールド研究は総合的、包括的、学際的な視点が必要な分野ですが、これはまさに総合大学の運営に必要な視点なのではないかな。大学では論文数が多くて、雑用ができる人が出世していくので、ディシプリン研究者(これも上記の本からの引用)が上層部に集まってきます。すると、@ないしAの態度により大学の運営が行われがちになる。単科大学であればこれでも何とかなるかもしれないが、総合大学ではBの態度が必要だと私は考えます。千葉大学では古在学長は「第2モード科学」を標榜しておられるので、基本理念としては私も大賛成である。しかし、実際はその通り運営されているのか。今後検証されていくことになりましょう。(2007年1月6日)

2007年になりました

しばらくこのコーナーの存在自体も忘れていました。2007年が始まり、それは私にとって最後の40代の年でもありますので、またいろいろ考えたことを掲載していきたいと思います。それにしても2006年はあっという間だった。想定外のことが次々と起き、多くのことにブレーキがかかった一年でもあった。しかし、それは私だけでなく日本全体で起こっていることのような気がする。ひとつはリーダーシップの欠如。強いリーダーシップが必要な世の中になったにも関わらず、そのような人材を育てる努力をしてこなかったために、リーダーも下々もどちらも苦しくなっているのが現在ではないか。もうひとつは世界観、自然観の入れ替わり期にあるということ。デカルト・ニュートン的な世界から、非デカルト・ニュートン的な世界に入れ替わる時期にあるのではないか。第2モード科学とか、新しい知、人間知とか生活知とか(ここはいずれきちんとまとめたいと考えています)、そういった考え方は昔からあるが、いよいよ主流を占める時期が来たのではないか。私もそうなるように努力したいと思います。(2007年1月5日)


ここに不整合面があります。2007年より新しい堆積(蓄積)を始めますのでよろしくお願いいたします。

池田先生ご退職おめでとうございます

筑波大学の池田宏先生(地形学)が今年度一杯で退職される(大学は法人化されたので退官ではなくなった)。ゲーテのように、”今を生きる”ことをモットーとしているように見える池田先生には”おめでとう”でいいだろう。これからもいろいろなことを企画してくれるに違いない。私としては地形に関わる知識ベースを構築して欲しいと思う。その最初の成果は古今書院から出版された「地形を見る目」であるが、池田先生の持つ知識・経験は無尽蔵である。知識・経験を集大成することによって高みに達するボトムアップ科学の実力を是非とも見せてください。記念の野外実験の二日目は参加するつもりでしたが、二日酔いになってしまいました。残念でした。(3月5日)

国立大学法人化1年(その2)

先の日経の記事に、”大学院で専攻した分野に就職できない”という述べられていた。確かにそれは現実であるが、問題点は二つあるように思える。一つは学問分野や社会の状況には波があるということ。だから、その波に合わせて専攻分野の拡大縮小もあり得るはずなのだが、それが極めて難しいということである。もう一つは分野がマーケット拡大の努力を怠ってきたということがあるだろう。例えば、昨年は災害が頻発したが、災害に対応する行政組織の実力がまちまちであることも明らかにしてくれた。災害復興費に比べたら、専門職を一つ作った方が遙かに安上がりである。そこに卒業生を送り込むこともできるはずなのだが。(3月3日)

国立大学法人化1年(その1)

国立大学法人の最初の1年が過ぎようとしているが、最近、大学に関する記事をよく目にするようになった。先日も、日経の記事(大学激動)が目に入ったが、ある方が教育に関して、”ある時期に徹底的な教え込みから、自主的な知識獲得に切り替える必要がある”と述べていた。まさにその通りであり、その時期の最終期限は修士課程から社会あるいは博士課程に進む時期であろう。社会に出て、正社員になったら否応なく切り替えざるを得ないが、博士課程が問題である。院生数拡大で、博士課程の学生は”来て欲しい”存在になってしまったからである。与えられることに慣れてしまった学生に、自分で獲得するセンスを身につけさせることは教授側にも金八先生並みの能力が必要とされる。さらに、与えられることしか知らない学生はスタンダードがわからなくなるのが最大の問題点である。理想の前になかなか現実は難しいのである。(3月3日)

総合学習は継続...やはりチャンス

中山文部科学大臣は20日のNHK番組で、総合学習は継続するが、活用方法を見直すとの考えを示したそうだ。となると、ひとつ下に書いたように、地理学はじめ、ボトムアップ型科学分野が復権するチャンスが来たと言えるだろう。さて、どうするか。

ゆとり教育、生活科、総合的学習見直し...でもチャンスも到来している?

あまりにも朝令暮改な政策は世の中の批判を浴びているが、これらの政策の理念は明確であり、我々地理学徒の望む方向でもあった。ただ、問題は現場において指導する能力を持つ教師がいなかった、ということは世の指摘の通りであるが、これはまた教師を養成している大学の怠慢でもあったと思う。一方、団塊の世代の教師の定年退職が始まり、今後、教師の採用が増えるという。まさに今勉学に励んでいる学生、これから大学に入ってくる学生が教師となって巣立っていく機会が増えるのである。これは大学における教育の成果を世に出す絶好の機会ではないか。総合的な視点とはどういうことなのか、世の中はどのような仕組みによって動いているのか、キッチリと教育することによって世の大問題を解決する糸口、というより唯一の突破口になるのではないだろうか。(2005年2月19日)

日本の科学研究「効率悪い」…学術会議が指摘

2月18日付けのニュースですが、これは背景をキチンと考える必要があるのではないか。研究資金と研究者数を投入した「資源」として計算する一方、論文の出版数、引用回数、特許出願件数などを「成果」ととらえて評価したとのことですが大きな問題が二つあるように思えます。まず、資金や研究者数を資源としていますが、上場した企業が市場から資金を得たが、その運用が判らず、非効率的な金の使い方が原因で会社を潰す、といったことを連想させます。資金の獲得自体は成果ではない。成果にしてしまうから非効率になるのである。上場しない長寿企業は金の使い方がうまいそうですよ(プレジデント誌の記事より)。また、論文数はいいとしても、サイテーションインデックスを重視するのは、理由なき欧米追従の姿勢を顕にするだけで、日本としてどうするかという思想はそこにはない。特許に関しては、役人や学者の素人考えに過ぎないだろう。特許をとることより、事業化することのほうが大変であり、そのためには下記のようなばかばかしい事態も起こるのである。日本の特徴、特に日本語をうまく活用して、国際社会でうまくやっていく戦略はあるのだが、結局、日本の自信のなさがこんな状況を作り出しているのでしょう。(2005年2月18日)

一太郎販売停止か!?

今日の朝刊(2005.2.2)には驚きました。一太郎が松下の特許を侵害しているというもの。見たところ大した技術には見えず、これによって松下が大きな損害を被るとも思えない。もちろん、技術的背景を知らずにこんなことは言ってはいけないことであり、これはすばらしい技術で、松下のプライオリティーが明確で、これによって松下が多大な損害を被る、と考えたから提訴に踏み切ったのだろう。とはいえ、やはりそうとは思えない。今後、雑誌等で話題になり、詳細は明らかになると思われるが、これだけでもジャストシステムの打撃は甚大で、優秀な国産技術が潰されかねないことに憂慮する。松下が単なる企業の特許戦略で行っているとすると、あまりにも志がないと言わざるを得ない。私企業は儲けなければならないことは宿命であるが、いわばマイクロソフトと戦っている日本のベンチャー企業を相手につぶし合いは日本の将来にとって良いことであるはずがない。こうやって、日本は競争力を失っていく。(2005年2月2日)

朝日新聞2005年1月30日朝刊 「緑のダム」生まれるか

最近、東大の蔵治さんらの編による「緑のダム」(築地書館)の書評をしたばかりですが、緑のダム論争は旬を迎えているようです。今回の記事の内容は今までと特に変わったところは無いのですが、国交省の池内さんの談によるという「...定説にならないと、(政策的には)使いづらい」という部分が気になります。「定説」の出現を期待する背後には、デカルト的、ニュートン的な、一般性で現象が説明できる、という考えが無いだろうか。フィールド科学の対象は、場の条件の多様性が、一般性による解釈を難しくしているのである。この記事の中にも”適切に間伐した人工林”、”荒れた人工林”、”手入れの悪いヒノキ林”、といった場の説明があるが、これでは不十分だと思う。地形、地質、気候、樹種、植栽密度、林齢、崩壊履歴、斜面方向、枝打ち、下草刈り、等々、可能な限りあらゆる要素を加味し、すなわち地域性を十分考慮に入れた上で、一般性を論じなければならない。だから、”定説”待ちというのは、日本全国を一律の基準で管理してきた官庁の悪しき勘違いといえるだろう。たまたま、同じページに宇井純さんのコラム(私と環境、「公害患者に学んだ科学者の責務」)があったが、「...地球規模の環境問題の根元は局地の公害の集積...」、「地球環境問題は完全に客観化してモデルとして扱えるとする人も多く、...」とある。扱っている話題はそれぞれ別で偶然であろうが、これに類する発言が少しずつ増えているように思う。デカルト、ニュートン的な自然観に対するカントやゲーテ的な自然観が勢いを盛り返しつつある予感がする。緑のダムを巡る課題も個別性の集積を経た上で、一般性に到達することができるだろうか。(2005年1月30日)

水循環とは

水循環って何だろう。私が水文学の勉強を始めた頃は、河川流域にいろいろな素過程が描かれたポンチ絵で水循環をイメージしたものだ。そこには、山があり、川があり、人がいて、森や畑もあり、工場や都会もあり、それぞれ複雑に絡まりあっているというイメージであった。しかし、最近の水循環は少し違う。大気中の水蒸気循環が重要なプロセスであり、地表面との相互作用もあるが、概して単純な世界観が展開されているように思う。なのに、洪水や旱魃といった水問題まで解こうとしている。確かに降水量が増減すれば旱魃や洪水に繋がりそうだと思うのは当然であろう。しかし、降水量が変化したらどうすればよいのか、という問題はきわめて地域的なものである。地域によっては洪水が災害であるかどうかも疑わしい。旱魃も人間要因のほうが重要である場合も多い。世界は階層的に捉えなければいけない。グローバルで重要な現象とローカルで重要な現象は違うのである。また、グローバルで要求される精度とローカルで必要な精度は異なるだろう。科学の成果を地域に還そうとするならば階層的な見方が重要だと思う。

朝日新聞2004年11月30日朝刊 「落第」2大学、一転救済 「21世紀COEプログラム」中間評価

確かに、評価は難しい、特に異分野は。だから、評価の結果が最低ランクとされても、異なる観点があるのではないか、という気もします。しかし、プログラム申請の段階で、各大学は「ブンガク」と「ブツリ」のどっちを重視するか(もちろん比喩です)、という究極の選択をすでに行ったうえで申請しているのです。採択されなかった分野や、学内から出て行かなかった分野で悔しく思っている方々はたくさんいるでしょう。だから、真剣に評価して、評価の結果には責任を持ってほしいですね。一昔前だったら、誰かが幸せになっても、自分もそれなりに幸せだったから、どうでもよいことでした。しかし、今は誰かが幸せになったら、その分誰かが不幸せになるという構図に変わってきています。ここは、トップの方々や評価者はその職責を果たしてもらいたいと思います。それにしても、最近は評価されるためには、”素人の主観に訴える”、ことが重要になってきたような雰囲気なのは日本の将来の不安材料です。

朝日新聞2004年11月30日朝刊 東海地震 予知情報変更 8割盛らず

「地域の最前線で防災対応する市町村の態勢整備が遅れている...」。こういう記事を時々眼にしますが、その裏に重要な問題は隠れてはいないだろうか。それは、教育の問題。高校までの理科や社会では物理、化学が重視され、多様な環境を扱う地学や地理には十分な時間が割り当てられていません。自然や環境のことを学生時代に学んでいない方々が災害担当になって、自然への対し方、災害に対する意識が薄れているなんてことはないだろうか。人の命や財産を守る知識を与える教科はもっともっと重視されてよいと思います。

朝日新聞2004年11月14日朝刊 日本の衛星はどこに

中越地震は大変な災害になりました。災害は宇宙利用でも期待されている分野のひとつですので、地震発生後ずっと気になっていたのですが朝日新聞に記事が出ました。災害時の対応でもっとも重要なことはデータ提供の迅速性でしょう。実は24日にIKONOSが撮影に成功していたのですが、その数日後にデータ購入を促すDMが届きました(ちょうど、崖崩れに巻き込まれた母子の救出が行われている最中でした)。それで、当日に画像が現地に届いていたかどうか、非常に気になっていたのですが、どうやら内閣府には届いていたようです。でも、現地に届いたかは私はまだ確認していません。24日に現地に写真があれば、状況把握に役立ったのではないだろうか。実際はどうだったのだろうか。それにしても、日本の偵察衛星は何をやっていたのか。ちゃんと機能しているのだろうか。まだまだ衛星以外の部分で、衛星利用の仕組みができていないのではないだろうか。
民間会社は利益を出さなければいけないので、なかなか難しいのでしょうが(IKONOSは民間の衛星です)、私が経営者だったらどうするか。まず、直ちに画像(プリントでよい)を持たせて社員を現地に送り、説明に当たってもらう。関係機関には役に立ったら購入して頂けるよう裏側でお願いしておく。同時に大々的にマスコミに発表し、衛星データの有効性をアピールする。世論が盛り上がって、どこの自治体でも緊急時には衛星画像を入手するという仕組みが出来上がれば災害対策にも役立ち、ビジネスにもつながるというものだろう。そのためには、画像の価値をもっともっと会社が知ることが必要でしょう。

朝日新聞2004年9月26日朝刊 研究ランク付け適正か

こんな記事がありました。ちょうど日曜日だったので、声欄に投書でもしようと思い、5百字でまとめてみました。

「科学技術研究のランク付けは”重複排し、無駄削る狙い”(9月26日朝刊)。無駄は良くないが、重複はどうだろうか。研究では目的に至る道は最初からわかっているわけではない。異なる考え方のもとで、同じ目的を目指す重複研究は、日本が世界に先駆けて成果を出す近道とも考えられる。もっとも総合科学技術会議が目指すのが、解決への道筋がわかっている課題を圧倒的な予算で達成するトップダウン型の研究のみであれば、重複は無駄かも知れない。しかし、科学の世界はもっと広い。莫大な予算で一般性を追求しても、社会の役に立つとは限らない。例えば、近い将来、降水量が増加するという予測が得られたとしたら、具体的にどうすればよいのか。これには現地における経験、実績に基づくボトムアップ型の研究成果が必須となる。環境に適応し、共生している地域も結構あるからである。しかし、多様で複雑な地域の環境を扱う科学の分野は十分な注目を得ているとは言えない。特に、教育面では高校における地学や地理は危機的状況にある。トップダウン型だけではなく、ボトムアップ型のフィールド研究、教育も日本が世界に貢献するために支援が必要な分野であることを強調したい。」

なんてこと書いてみましたが、今回は10億円以上の研究課題が対象とのこと。これは上に書いたように、後は予算さえ投入すれば世界に対するアピールに使える成果が出る分野が対象ということなのだろう。こういう予算はどこかを見れば、何のために行う研究なのか、ということは書いてあるのだろうか。国として何を大事と思うか、ということが基本なので、この点をはっきりさせておきたいと思う。環境に関わるフィールド科学は少ない予算で、重要な成果を挙げることができる分野なので、不況のときほど重視してほしいと思うのだが...

朝日新聞2004年9月26日朝刊 生き残り競う大学

「現代的教育ニーズ取り組み支援プログラム」の採択結果のお知らせ。うちも出したのだけれどはずれてしまったものです。でも、教育というのはこんなにお金をかけなくてもできるもの、というのは甘い考えでしょうか。大学教員が講義をしっかりやって、しっかり評価していれば何の問題もないはず。評価して、基準に達していない者は単位を取れない、ただそれだけのことが機能していないということなのでしょう。理科離れ対策とも書いてありますが、その原因のひとつは大学教員の過度の研究重視、過度の英語論文重視、あたりにあるのではないだろうか。