口は禍の門

2020年も半分が過ぎてしまった。早いものだ。この半年は社会のあり方が激変し、世の中にある様々な矛盾、苦しみがあぶり出されてきた。そんな状況の中、変化に向かう圧力が地下で高まって来ているような予感がする。その圧力が噴火に行くのか、そのまま治まってしまうのか、それはわからない。貨幣の力は巨大だから、貨幣の力を借りたイノベーションで新しい社会が構築できるのだろうか。まだ明確には見えないが、価値の転換が訪れるような気がする。しあわせ、豊かさとは何か。議論し尽くされているようにも思えるが、議論が“わがこと化”されることで、何かしらのムーブメントが生まれそうな予感もする。(2020年6月31日)

今日から会計年度と実際の年が一致、令和2年度、2020年度が本格的に始動しました。このタイミングで吹き荒れる新型コロナ禍ですが、世の中のあり方を自然が問い直しているのではないかなという気もします。その一つは必要と需要の境界をどこに置くか、ということかも知れません。貨幣経済の元では価値を貨幣に置き換えることで世の中は便利になったのですが、それが脆弱なものだったということが明らかになりつつあります。貨幣に換算できない価値を尊重するとともに、必要と需要の境界を見直したらどうだろうか。その時、安心して“暮らす”という必要は必ず満たさなければなりません。その上で、必要を超える需要について考えても良いのではないかなと思います。もちろん、貨幣はあれば便利。暮らしの豊かにするために貨幣を使うことができますが、では豊かさとはなんだろうか。何となく答えはわかっていると思いますが、実現できんものだろうかのう。今年度もいろいろ試みることがあります。(2020年4月1日)

令和も2年目に入ります。令和元年は万葉集が気になり、春には飛鳥に行ってきました。今年は歴史を学び、それぞれの時代の背景を考えたいと思っています。特に、人と自然の関係性は時代ごとにどう変わってきたのか。これからどう変わっていくのか。進歩とは何か。進歩の中で人と自然の関係性はどう変わるのか、どう変えれば良いのか。深すぎて論文は書けないと思いますが、論文よりも気づきを大切にして、それを共有することの方が大切なのではないかなと思っています。(2020年1月1日)

2019年12月までの書き込み


現在と未来

未来はわからない。今の状況を半年前に予測できただろうか。しかし、今の窮状をどうすればよいか、ということを“考えること”はできる。何かを変えなければならないということにも同意できる。だから、現在を良くすること、そこから未来を展望することが我々にできることではないか。現在に責任を待たない未来の議論は勝手にやってくれと言いたい。(2020年6月30日)

勘違い

ある仕事をしているのですが、“あることを指南するトップダウンの講習会に出たため、見栄えは良いが、中身のないものになってしまったことに反省”、という記述があることに気が付いた。さもありなん。みんなが何となくそうせにゃあかん、と思っていることでも、冷静になって考えるとそうでもない、ということが世の中たくさんある。それは違うんじゃないの、ということを発信していくことが重要だな。若者は将来があるので、権威の締め付けが怖いのかも知れない。しかし、シニアは先が見えているので、ウザいやつだと思われても発信した方が良い。すっきりと定年を迎えられるだろう。世の中の勘違いの最たるものは経済のあり方だろう。貨幣経済、資本主義、といったものが人の価値観を支配してしまっている。もう一度、この社会のあり方を見直し、人は自由を取り戻さなければならないのではないか。(2020年6月29日)

哲学・思想と科学者

「国際機関で日本の存在感低下」というニュースを見た(Yahoo、JIJI.COM)。かつては国際機関トップに日本人がいたが、いまはゼロ。外務省関係者によると「最近の国際機関トップは各国の閣僚経験者が多い」という。ということは、日本の政治家のモチベーション、力量が低下しているということを意味している。さもありなんと思う。政治家から哲学や思想が失われ、世界を俯瞰する総合力が劣化しているということだろう。同じことは科学者にもいえる。明確な哲学、思想を持った科学者が少なくなっているように思う。それは外形的な業績評価が厳しくなったことと、研究者が大型プロジェクトによって育成されることが多くなってきたからだと考えている。組織の中で動くことに長けて、プロジェクトが成功したかどうかという理由付けに腐心する中で、科学者の視野が狭くなってきたように感じる。重要だから重要という主張、あるいはあるコミュニティーの中だけで認められる主張があるように思う。それによって国際機関で働くというモチベーションを持ち辛くなったのではないだろうか。だから、経済力と成果が比例する分野でしか競争ができなくなり、苦戦を強いられている。新しい発想により科学を振興するためには哲学、思想を持つ必要がある。そうなれば国際機関で活躍する科学者も出てくるのではないか。メルケルさんは物理学者ではないか。(2020年6月28日)

農耕接触

これはいいね。近藤康太郎氏のコラム「多事奏論」より。農耕生活をレポートする朝日の記者である。コロナ後に本当に必要なのは、萎縮と自粛を超えた人間的つながり、濃厚的接触を取り戻すこと。まずケア、すなわち気にかけなけりゃあかん。次にシェアだろ、と。IT系からすると、オンラインだからシェアがケアだとなるが、オフラインならばケアが先だ。その通りだなと思う。IT系が何か言うと都市的世界の住人はふわっと流されることが多い。しかし、それは決してマジョリティーではないのだ。もっと実世界(オフラインの世界)を感じる力を我々は持たねばあかん。その一つが農耕接触ができる世界なのだと思う。(2020年6月27日)

「死ぬ力」と「生きる力」

最近、「死」について考えることが多くなったが、それはもともと「一日に一回、死を思うべし」という誰かのことばが心に残っていたからである。老いとともに忘却力が身に付き、誰のことばだかは忘れてしまった。今日の朝日朝刊でも佐伯啓思氏が「死生観への郷愁」と題した論考を書いているが、感染症による不条理な死は受け止めざるを得ず、その時、我々は死生観を求めているではないか。そんな時、「無常感」が懐かしく感じられるのだと書いている。ここでやはり鴨長明が出てくるのだ。方丈記は私の中でもマイブームになっているのであるが、平家物語と合わせて読むと一つの生き方がくっきりと顕れ、それは流される生き方でもあるのだが、方丈庵における暮らしが懐かしく感じられるのである。私も62歳を過ぎ、後10年生きるかは全く保証されているわけではない。こんな時に、70歳まで働けと言うひとは確実にやってくる死というものに気が付いていないのだろう。死を意識すれば、現在をどう生きるかということを考えざるを得ない。現在をよく生きる、現在をよくする、ということを考えれば、現在から繋がる未来も良くなる。死を考えないということは現在を考えないということと同じで、苦しい現在が続くだけである。だから、死を考えないということは未来を考えないということとも同じになる。「死ぬ力」、すなわち死を思い遣る力、と「生きる力」は同じではないか。(2020年6月27日)

専門家のあり方

政府の新型コロナ対策の専門家会議が再編されるそうだ。この数ヶ月専門家会議に対しては応援だけでなくクレームも数多くあった。科学者でもある専門家の役割は再確認して、この間にあったことを再考してみたいと思います。専門家はそのことば通り、ある分野の専門家です。その分野については最新の知見を政治、行政に伝えるのが役目です。政治家はそれを受け止めて決断を下すのが役目で、行政はそれを実行することが役目です。この役割分担がうまく機能するためには、まず政治家が総合力を持つ必要がある。しかし、政治に総合力が不足していたことが最大の問題点ではなかっただろうか。行政は政治が判断した結果を実行する能力を持っているはずであるが、霞ヶ関では政治主導が行政の力を削いだといえないだろうか。そして日本が足を引っ張り合う社会になってしまったということがベースにある。専門家がPoelke(2007)の"honest broker"になるためには、専門家と政治、行政との関係性がうまく保たれていなければならないのである。(2020年6月25日)

「死ぬ力」

こんなタイトルだと近藤は危ないやつだと思われそうですが、そんなことはありません。朝日朝刊の「折々のことば」で鷲田さんが中央公論の村上陽一郎氏の記事を引用していましたが、この中央公論は私も購入して読んでいました。改めて引用します。

...我々の社会は、「死」を如何に身近に感じ得るか、という点で、準備が少なすぎるのではないか。...

日本の社会は死を思い遣るということを避けてきたといえます。私も新型コロナウィルスが猛威を振るい始めてから「死」について意識せにゃあかんと思い、山折哲雄の著作を多少読みました。そこに書いてあったと思うのですが、日本の教育では「生きる力」ということが強調されるが、「生」と同時に存在する「死」についてはほとんど教えられていない。では若者は死とどのように向き合っているのだろうか。息子(もう大人ですが)が見ているアニメで、少女が宇宙生命体と闘い、命を落とすという場面があった。シーンではそれなりに死というものが重く受け止められていたが、視聴者側ではどうだろうか。それは劇場型の「死」としてスイッチオフで意識から消え去ってしまうのだろうか。世の中には「死」が満ちあふれている。死は穢れではなく、運命である。「死ぬ力」ということも本来は考えなければならないのではないだろうか。私はこんなことを考えなければならない歳になりました。(2020年6月24日)

HACCP(ハサップ)義務化

こんなニュースをラジオで聞いた。こりゃ調べねばならんが、エライこっちゃではないだろうか。おそらくオリンピックがあり、国際基準で食品を供給する体制を整えるというアイデアは悪くないが、対応できるのは大手の事業者であり、中小の事業者や店舗はコスト増加を招くのではないか。直売所や道の駅で販売されている地元の農家が作った加工品にも適用されるのか。やっていけるか。すでに小規模事業者も対応はしているのか。HACCPに振り回されない地域の業者を守る術を考えなければならんのではないか。種子法や種苗法も勉強せねばいかんし、日本の食の状況について知らねばあかん。(2020年6月15日)

多すぎる課題は問題か

先日、メディア講義に対する工学部のアンケート結果の中に、課題が多すぎてたまらん、という意見を見つけて考え込んでいたが、理学部にも学生から意見が出たそうだ。課題が多すぎて追いつかん、と。課題の量が過大なのだろうか。実はようやく欧米並みに達したのではないか。大学設置基準によると、1単位分の勉強時間は45時間である。この中には講義の時間だけでなく、自習の時間が含まれている。1単位分の8週の講義時間が12時間だとすると、1週あたり4時間ちょいっとは自習をしなければ単位が出ないということになる。平日1日あたり約1時間になりますが、講義を10個登録していたら10時間になりますね。登録講義数の管理は学生の務めですが、たくさん取り過ぎると結構な時間になります。大学生は勉学が本務なので本来なら問題はないと思うのですが、奨学金制度がしっかりしていないので学費を稼ぐためにアルバイトもしなければならない。課題問題は社会の問題でもある。(2020年6月15日)

ポストコロナ社会と地球人間圏科学

新型コロナシフトの生活が続くと精神的に活力が失われてくる感じがする。人は人と話していないと力が出ないのではないか。いつものようにいろいろ出しゃばった発言をしていたらJpGUの緊急セッションで話をすることになった。今、要旨の投稿を終えたので、下記にメモしておく。

 地球人間圏科学の対象が自然と人の関係だとすると、新型コロナ禍はまさに自然であるコロナウィルスと人および人のつくる社会との関係性における問題といえる。新型コロナウィルスとは戦うのか、共生するのか。それは文明のあり方に関わる根幹的な問題でもあり、学術の果たすべき役割がそこにある。
 今回の災禍に際して9年前の出来事を思い出した。原子力発電所の事故が放射性物質の生活世界への放出をもたらした時、人は科学的合理性のみに基づいて行動を決める訳ではないということに気が付いた事象であった。科学的合理性が機能するためには、前提として科学者も含むステークホルダー間で共感(empathy)と理念(社会のあり方)の共有に基づく信頼が必要となる。このことは(狭義の)科学の守備範囲が問題の解決をめざす枠組み(問題の解決を共有するステークホルダーのまとまり)の中では一部に過ぎないということを意味している。ここに超学際を推進すべき理由がある。
 しかし、"あるべき社会"の姿の共有は人が関係性を構築する"世界"の範囲が多様であるため、困難な課題でもある。だから議論が必要なのであるが、具体的な議論はすでに始まっているように見える。新型コロナ禍が顕在化してからも多くの論考が出版されているが、新型コロナ禍はこれらの議論を加速する役割を持ったといえる。
 あるべき社会、言い換えると持続可能な社会の姿の萌芽としては、国土形成計画(国土交通省)、環境基本計画(環境省)等の基本計画、あるいは日本学術会議の提言等があり、その中で理念が語られている。そこには、東京一極集中の是正、都市と農山漁村の相互貢献による共生、地域経済圏の強化による分散型社会、地域循環共生圏、等々の具体的な記述を見いだすことができる。これらはポストコロナ社会のあり方と直結する地球人間圏科学の課題でもある。
 これらの理念は社会で共有され、実践されてはじめて意味を持つが、現在実行中のSDGs、Future Earthはまさにその実践を目指したものといえる。SDGsの目標は"社会の変革"であり、科学者は学術セクターとしてその具体的内容を明らかにし、超学際の枠組みの中で役割を果たす必要がある。学術(科学)が成果(論文)を出せば、(科学者ではない)誰かが社会に役立てるわけではないのである。
 ポストコロナの時代における"社会の変革"の実践のためには学術と市民・行政・政治とのパートナーシップ(SDGsの17番目の目標)の構築が喫緊の課題になるだろう。その実践の中で(狭義の)科学の役割は相対化していかざるを得ないことを新型コロナウィルスは我々に迫っているが、SDGsの目標年の2030年がひとつのマイルストーンであろう。
 21世紀の学術とは何か。1999年のブダペスト宣言を経て、日本では東日本大震災、世界は新型コロナ禍を経験し、思想の段階から実践の段階に至ったといえるのではないだろうか。ISC(国際学術会議)の誕生も一つの契機だと思われる。実践の段階では問題の人間的側面の理解が不可欠である。新型コロナウィルスの科学が粛々と進む中で、人と自然の関係学である地球人間圏科学の役割は地球社会の過去と現在の包括的な分析と、(コロナウィルスの科学も含む)細分化された科学の統合、さらに超学際に基づく、ポストコロナ社会の設計と提案、実践にあると考えられる。

【追記】 要旨は何とか書いたが、今回の新型コロナ禍にはある種の割り切れなさがどうしてもつきまとう。それは、現代社会が命よりも大切なものを作り出してしまったのではないかという疑念である。資本主義の原理でもある貨幣経済では価値を貨幣に変換して蓄積、流通させる。その際に、"生きる"ための"必要"部分も貨幣のフローに依存する社会を生み、フローが止まることにより暮らしの持続性が脅かされる人が出現する。それが社会の中で格差を生み出す。新型コロナ禍の負の側面に関する報道を見聞きしながら、"No one will be left behind"の実現の必要性を改めて思う。

 新型コロナウィルスのサイエンスは日々進んでいるので、すでに始まっているといえるポストコロナ社会について話す予定である。といっても新しいアイデアを出すのではなく(そんな力はない)、すでに底流で始まっている議論を加速し、社会実装するために微力を尽くすということである。後一月あるので、それまでになるべく多くの論考を読んで、包括的な視点を身に付けないとあかんと思う。すでにある論考を見ても、著者の"意識世界"がなんとなくわかる。それを越える意識世界を構築しておかねばならぬ。(020年6月11日)

芸術の役割

私は多趣味で、芸術(といえるほどのものではないが)に人生を助けられたなと想う場面はこれまでに何回もあった。今、歴史のさなかにいるが、科学者も動かざるを得なくなってきて、ある企画が始まったところ。こういうときに、私はどうも素直になれない性格を持っている。いろいろ考えていて、ふと想ったのが科学が役に立つのは平穏時ではないかということ。一方、ハードタイムに役立つのが芸術。日本は欧米と比較して芸術の地位が低いように思われるが、草の根ではそんなことは全くないと思う。科学重視の姿勢は高度経済成長時代の名残ではないだろうか。いやいや危機の時こそ、科学技術の出番だという人もいるだろう。では、その危機とは何か。欧米の映画のように、危機を物語化し過ぎていないか。現実をよく見る必要がある。現実世界に暮らす人が求めているものは何か。科学技術だけがかいでは定常ないし縮退社会で生まれ育った若者から、新しい思想は生まれてこないだろうか。(2020年5月31日)

科学技術は問題を解決できるのか

新型コロナ禍に対応するための最先端の科学技術をニュースでよく見るが、科学技術は開発だけが重要なのではなく、社会への①実装、②維持、③(科学)技術の継承という3つのステップを経て人類の財産となる。ほとんどの技術は開発の段階で消えていく。なぜなら、実装には開発と同等以上のコスト、手間がかかるから。特に、社会では科学的合理性だけでは対応できない問題をクリアしなければならず、そこは科学者、技術者の苦手な部分でもある。社会実装できたとしても、それを維持するのは困難な作業であり、さらに長期的に技術を継承していくことが課題なのである。社会に組み込まれて、長く続く科学技術というのは、案外プリミティブなものなのではないだろうか。あるいは枯れた技術。かっこいい新技術のニュースを見ながら、誰が幸せになるのだろうと考えると、またいじけた考えが浮かんできてしまいました。(2020年5月30日)

メディア講義における気付きの誘導

私はメディア講義をテキストベース・オンデマンド型でやっていますが、毎回課題を出すのでコメント作成に大分時間をとられています。そのコメントは個別に返すのではなく、ホームページで観点ごとに纏めて公開しています。少しは読んでもらっているのか気になっていましたが、ある学生から自分では気付かなかった観点がわかって良かった、との応答がありました。環境の理解のためには見えなかった関係性に気付くことが大切だと思っていたので、少しは学生にとってためになったのだなと解釈し、安心しているところです。勉強をやっていてなかなか深まらなのは、わかることだけを勉強しているから。そこで教員が“気付き”を与えれば、後は自分で深めていくことができる。その点から、今回のコメント公開はよかったのだろう。ふと気付く。私はギターを長年やっているが、うまくならない。それは、できることだけをやっているから。還暦も超えたし、習いに行こうか。(2020年5月27日)

国産回帰

経産省は新型コロナ禍の中で供給不足に陥った医療用マスク、防護服について国内の安定供給体制が重要とする提言を纏めたとのこと(YahooNewsより)。食糧も含めて国産回帰は結構なことだと思う。グローバル市場経済に逆行する行為は、望ましくないという漠とした言説に我々は囚われているが、そんなことはなく、“必要”な部分は自給するという姿勢をこれからの社会では持った方が良い。それが安心を担保する。その上で、形成された需要を満たすために海外からの調達があって良い。その筆頭が食糧である。アメリカやヨーロッパ諸国では多くの国で食糧はほぼ自給率しており、“必要”を越えた余剰部分を輸出している。そして災禍の折は輸出規制を行うが、それは国連憲章に定められた基本的人権でもある。日本は耕地が狭く自給は困難という言説もあるが、それも再検討が必要である。米は自給できる。野菜も可能だと思う。遠くで作って都会に運ぶ社会のあり方を変えれば良い。ただし、牛肉等一部の商品のコストは高くなるだろう。しかし、アメリカは補助金によって輸出コストを下げている。日本もしっかりとした農業政策の元で価格調整をやっても良いのではないか。反対するのは都市の生活しか知らないグローバルエリートなのではないか。都市は農山村漁村に支えられていることを知らないエリートではあかんと思う。(2020年5月26日)

ひとり

緊急事態宣言が解除されたそうで、暮らしもだんだん元通りになっていくのだろう。しかし、自分はこの自粛生活に慣れてしまったのだ。もともと「ひとり」が好きな質であり、先も見えているので縮退生活にはいったところで、ちょうど良い感じだったということ。メディア講義も準備は大変ですが、WEBを使ったテキストベースのコンテンツでは書きたいことが書けるし、学生の反応も少しずつ見えてきたところでおもしろい。「ひとり」は山折哲雄によるともともと大和言葉で、英語のindividual(個人)に相当するとのこと。群れの外側にいて、群れと関わりながら、独自のスタンスを保ち、何となくやってきて、今がある。これは死ぬまで変わらないだろう。とはいえ、普段の暮らしがだんだん戻ってくる。そうすると、いやな仕事もやらなければあかん。特に、哲学のない、お仕着せの評価の仕事などやりたくはない。頭痛は定年まで治まらないだろう。(2020年5月26日)

固定費

緊急事態宣言も解除されそうですが、この数ヶ月で人生が変わってしまった方々がたくさんいることが心苦しい。ニュースの中で出てきて頭に残ってるのが固定費。飲食業などで賃貸料といった商売していなくてもかかる費用。そのためにお金のフローが止まると、収支はマイナスになり、どこかで限界がくる。都会の中小の事業所のストックは少ないのだなということがわかった。印旛沼流域の調査やイベントで郊外に出かけると、東京で修行をして、田舎で店を開いたという話をよく聞く。おそらく店舗を自分で所有し、固定費は最小限に抑えているのではないか。そうなると年商が少なくても、以外と可処分所得は確保できるのではないだろうか。新型コロナ禍で暮らしを見直す人々がたくさん出てくるだろう。それならば、社会の構造事態を変えて、小さな生業でもやっていける新しい社会を創りたいものだ。実は、国土形成計画の中にもアイデアはある。計画の実現を目指すだけなのだが、それも大学人の重要な仕事の一つだろう。(2020年5月25日)

複雑な問題への対応のはじめ

新型コロナ禍後について考え続けているが、こういう複雑な問題について持論を述べるのは容易い。しかし、現状や議論のすべてを理解した上で論考せよと言われてもなかなか難しい。そもそもバックキャストにおけるあるべき未来というのも、包括的な視点から議論されているとはいえないのではないか。やはり、未来を語るには思想、哲学があって良いと思う。しかし、現状に対する認識は疎かになってはいけない。複雑な問題は議論の場をつくらなければならないので、持論を主張してもよいのだと納得する。始まりがなければならない。(2020年5月21日)

ステイファーム

ステイホーム疲れの家族にステイファームで「親子米」作りを体験する催しが津であったそうだ。Yahooニュースより。ファームステイはルーラルツーリズムの中に位置づけられており、ステイファーム自体はステイホームのもじりで新しい用語とはいえないのかなと思うが、まさに農(山漁)村は新型コロナ禍の中で強さを発揮しているのではないだろうか。コロナ後を考えるときのヒントになるかも知れないと思うのです。まず、ステイホームといったって、庭も畑も裏山もあるだろう。小部屋にこもっているわけではないのである。地域の小さなコミュニティーでは、誰がどこにいて、何をやっているかがわかる。これが“うざい”という人もいるだろうが、ウィルスとの接触機会を減らす機能もあるかも知れない。何より、食糧はあるので、ステイホームでも結構長く耐えることができるのではないか。自給経済、交換経済は一般的な経済指標には反映されないが、それこそが農村の強みである。日本は“小さな政府”政策をとっているが、“大きな政府”になって農村の民は役場で兼業すれば盤石である。今は農村といえども通信基盤はある。半農半XのXの部分で都市的世界と繋がることも可能である。そして、Xが小さな事業であれば、実は年収が見かけ上少なくても、可処分所得を増やすことができる場合もある。ダウンシフターズという本や、規模を拓大しない農家の話を知っています。こんな社会をめざしたいと思う。(2020年5月18日)

大学の講義の価値

最近はメディア講義の準備に追われているが、私はもう頭が固くなり、遠隔講義用のシステムの使い方を覚えるのがめんどくさいので、テキストベースで内容を公開することにしている。HTMLだけは若いときからやっているので助かっている。それにしても学生は高い授業料を払っている。その貨幣価値に見合う内容を提供できるだろうか。私は体系が整っている学問は日本では自分で勉強できると思う。だから大学の講義は学生が勉強するきっかけを与えること、講義における瞬間の化学反応により学生が新しい世界、観点に気が付くこと、それが価値なのではないかと勝手に思い込んでいる。だから、口頭の講義では脱線しまくりで、新しいコトを学生に伝えることを喜びとしている。これは年寄りのわがままだろうか。また、昨今は講義資料を売ろうという動きもあるが、私は全部公開している。それはすべての価値を貨幣に置き換えてやりとりするやり方が嫌いだから。新型コロナ禍では貨幣経済の弱点をあぶり出したといえる。暮らしの“必要”まで貨幣に置き換えた都市社会の一部で貨幣が得られなくなって暮らしが破綻してしまう方々が現れている。私は自分のコンテンツに対して対価は求めたくない。もちろん自分のものではないコンテンツも使っているので、そこは尊重しなければならないが、学術の成果は誰のものか、という重要な課題もそこにはある。というわけで、大変なのですが何とか学生に価値を感じてもらいたいと思い、作業を続けているところである。(2020年5月11日)

新型コロナ禍後の生き様

単調な毎日が続き、精神的にも高揚感が失われ、ぼんやりと過ごす時間が長くなっている。常に仕事をしていないと罪悪感を感じる質は好ましいものではないと頭ではわかっているが、心はまだ納得していないようだ。どこかでこの壁を乗り越えなければならん。我々は人類の歴史に残る事象の最中にいるわけだ。コロナ後には社会の仕組みを変えねばあかん。なんて思いながら、ぐーたら過ごしている。しかし、うれしい発見もある。自分はYouTubeで音楽家を探すのが好きなのだが、最近また見つけました。というか名前は知っていたので再発見です。それはハンバート・ハンバート。その曲、その詞は心に染み渡り、懐かしい気分にさせるのだ。「我々は宇宙から来て我々は宇宙に還る/我々の住むこの世は黄昏のせまる世界/我々は海から生まれ我々は土に帰る/我々のこの身体はかりそめの旅の宿」(23時59分より)。何となく新型コロナ禍に対処するための生き様が語られているような気がする。(2020年5月10日)

分断を乗り越えた先

新型コロナウィルスは人の世界の分断を引き起こしているのか。いやいやウィルスは自分の仕事を粛々とこなしているだけ。人が勝手に騒いでいる。感染症の対応を巡っていろいろな意見があるのは当然ですが、自分が正しいのだからおまえは間違っている、自分の安全のためにあなたが行動しなければならない、といった主張はやめてほしいと思います。パチンコ屋にどうしても行ってしまう人にも言い分はあるだろう。今まで社会が自分に寄り添ったことなどなかったのに、自分は社会のために行動しなきゃならんのか、といった主張にも耳を傾け、誠意を持って説得するという態度が必要なのだと思う。そして、新型コロナ禍が収まったら、もう一度社会のあり方を問い直すことができれば良い。それをやらにゃあかんのだと思う。今の日本のあり方、日本人の心を大切にし、統制することの意味を理解した上で、必要な行動を起こす。もちろん、基本的な姿勢を明らかにした上で、諸外国との対話、説明も怠らない。こんな国になれれば良いと思うのだが。(2020年4月30日)

見えない世界

隠遁生活も長引くと何となく落ち着かなくなってくる。私は自動車通勤なので誰にも会わずに研究室に入り、かみさんに作ってもらった弁当を食べ、外に出ることもなくデスクワークを続けてる。最初は落ち着いて仕事ができたが、最近は窓から外を眺めてぼんやりすることも多くなった。研究室は東に面した8階にあるので下総台地の地平線が見える。斜めに見ているせいもあるが、緑豊かな美しい風景である。右に眼をやると千葉の中心地のビル群が盛り上がっている。見ている風景の外観はいつもと変わらないのだが、その下の人間活動が滞っている。それははっきりとは眼には見えない。しかし、世界の見えない部分をあらゆる手段で見なければならない。世界がこのままで良いというわけではないのだから。こういう感覚は福島で味わった。目の前に広がる美しい里山はいつもと変わらないように見える。しかし、人の暮らしが変えられてしまっている。そんなのいやだ、世界は変わらなければならない、という思いは今や世界中に満ちているのではないか。そのためにも見えない世界を見えるようにしなければならない。(2020年4月28日)

世界の狭間

今日の“鶴瓶の家族に乾杯”は福島県伊達郡川俣町。たくさんの懐かしい場所、そして顔に出会うことができた。このところ足が遠ざかっているが、また行きたいなぁと思う。田舎の人は温かい(田舎であることが誇りである)。その暖かさに触れるとホコッとするのだ。しかし、自分はどうもシャイなのだ。鶴瓶のように人に分け隔て無くずんずん入って行ければ良いなぁと思うのだが、いつも考えすぎてしまう。山木屋地区が計画的避難区域になったことで、様々な苦しみ、葛藤を経験したことを知っている。共感、協調だけでなく、批判、対立もあった。それを乗り越えて今があるわけであるが、心の中にしまっておけば良いものはそのままでいい。自分が外者だからといって、気にすることはないとは思う。でも何となく首都圏で暮らす、大学人であることに遠慮があるのだ。でも、わだかまっているのは福島の外の世界との関わりなのではないか。グローバル資本主義、貨幣至上主義、国家間の覇権主義、等々、そんなものに右往左往している世界、それは都市的世界といっても良いが自分が否応なく暮らす世界でもある。そんな世界が農村的世界との間で信頼を築くことができないまま同じ未来を見つめることができずにいる。農村的世界に憧れながら、都市的世界と農村的世界の二つの世界の狭間で漂っているのが自分。この二つの世界の間で折り合いを付けることが、新型コロナ禍後の世界の創造に繋がるのではないか。(2020年4月20日)

花と小父さん

佐倉の印旛沼の湖畔にあるふるさと広場のチューリップの花が刈られてしまったそうだ。新型コロナ禍の中で人が集まってしまうのでやむなくということが報道されている。ヤフコメを見ると、外出する人に対する批判が書き込まれているが、何となくさみしく、いたたまれない気持ちになる。この感覚は以前も感じたことがある。福島の現状を首都圏で話すと、福島にはもう住めないのだよ、住んじゃいけないのだよ、と大真面目に諭してくれる人がいた。その人の認識の中には原子力災害はあるのだろうが、意識世界の中に福島は含まれていなかった。ふるさとにおける人の暮らし、人の心、が考慮されることはなかった。ふるさと広場には4月10日に行った。印旛沼には子供の頃から親しみ、チューリップ祭りは毎年楽しみにしていた行事である。10日のチューリップ広場は十分に花が咲き誇っており、今年も見ることができたという安心感に包まれた。確かに人も出ていたが、野外であり、三密の状況ではなかった。それでも“要請”に従って、人との接触を断たないといけないのか。ニュースを見て、自分ではない人の外形的な行動を批判するという精神的態度はこの社会に何をもたらすか。日本という国、日本人の成り立ちを理解すると、欧米のような厳しい措置はできないと思う。ただし、命が一番大切、と言われると反論はできない。とはいえ、それは近代の日本人が“死”というものに向き合ってこなかったということも意味しているのではないか。新型コロナウィルスは日本人というものを考えさせるきっかけを与えてくれた。(2020年4月19日)

“役に立つ”言説

この言い方ほど昨今の科学者に誤解されやすいものはないだろう。記録しておきたい文章があったので、引用します。朝日朝刊「折々のことば」(鷲田清一)の吉見俊哉の言(刈谷剛彦との対談「大学はもう死んでいる?」から)。

目的に対する手段を提供することで役に立つのと、そもそもの目的、価値を創造するということで役に立つのと、二つあるわけです。

大事なのは「非連続的な社会の変化」に創造的に対応できる知性であり想像力だという。まさに今が変化が進行しているその時だ。科学者の狭い意識世界の中で捉えた社会ではなく、現実の社会の有様を包括的に認識した上で、変化の必然性を理解し、社会の創造に役立てることが、“役に立つ学問(科学、学術)”だと私は考える。役に立つか立たないかで学問の価値を計る風潮があると鷲田さんはいうが、その背後にある実態を深掘りする必要がある。“役に立つ”とされているのは、官僚-大学-研究者のヒエラルキーの中で上位のものが幸せになる指標が重視され、それに研究者も適応してしまっている学問が一つ、もう一つは“儲かる”学問であり、これは研究者も経営者もグローバル資本主義の虜となっている状態を意味しているに過ぎない。真の“役に立つ”学問は人の心を豊かにする学問であり、新型コロナ禍の意味を捉え、自分の生き様を確かめることができる学問である。(2020年4月19日)

日本人の心

ちょっと疲れたかな。確かに自分は今の状況を面白おかしく傍観しているに過ぎないのかも知れない。でも、この状況を理解しようと試み、アカデミアとして何かできないか模索しているつもりではある。とはいえ、責められるとつらいな。しかし、相手の主張は、“自分の安全のために、自分ではない誰かが、自分の納得するやり方で、何とかせよ”、と主張しているようにしか思えないのだ。不安は理解できるが、提案があるのであればそれを発出する先は考えなければならないし、何より人を責めてはいかんと思う。今はエンパシーをみんなが持たないといかん。そして状況を理解するためには、やはり日本人の文明観、人間観、といった側面に入り込まざるを得ないと思う。自民党政権は好きではないが、その対応の背景は何となく理解できる。やはり、日本人の特徴は多様性にあるのではないか。欧米は一神教の精神世界の元で厳しい施策が可能になった側面はあるだろう。これも山折哲雄の言であるが、明治政府は国民国家を形成するためには欧米のキリスト教に相当するものがなければならないと考えた。しかし、仏教はキリスト教の代わりにはならない。だから天皇を国民の上に位置づけた。この精神的基盤は戦後失われつつあり、それが政府の危機対応にも顕れているのではないかな。日本人のリーダーは調整型が良いと思うのだが、ヒーロー型を求める傾向が強まっているのではないか。それは日本人の心が理解されていないところに理由があるかも。それはグローバル化の必然なのか、単に勉強しなくなったからなのか。そこを見据えて、新型コロナ禍に対する政策を理解しつつ、対策に協力できるところはせねばあかんと思うよ。(2020年4月16日)

ただ話を聞いて見守ること

この週末は犬の散歩に数回出たが、後は自宅で籠もって過ごした。自分は新型コロナ禍の影響は大きくないと認識している。なぜなら、自分の安全・安心は自分ではない誰かによって支えられていることを意識しているからであり、自分に対する影響はこの事象の前で相対化して考えなければならないからである。一方、新型コロナ禍に絶望的なまでの悲壮感を持ち、その気持ちを発信してくる友がいる。その気持ちは理解できるのであるが、ここは共感力(エンパシー)を発揮することによって自らの力を高めてほしい。とはいえ、不安を高めている人がいることも確かであり、どのようにサポートするかが大きな課題である。私はこんな時、どうしても文明論、人間観、社会観といった話になってしまうのだが、そんな小難しい話は人はどうでも良いのである。ただ、話を聞いて、見守ることしかできないのだ。(2020年4月12日)

「個」と「ひとり」

山折哲雄によると、「個」を新しいヨーロッパの近代的概念として認めることは非常にいいことだが、その翻訳語を1000年もの歴史がある大和言葉と引き合わせて、その意味を考えるということが必要だった。そうすると、「個」にあたる大和言葉には「ひとり」があるという。この「ひとり」の意味が実は非常に深いのだ。日本人は集団の居心地の良さに慣れきってしまうことで孤立を恐れ、「ひとり」ということを考えようとしない傾向があり、その傾向は近年ますます強まっている。しかし、集団的な世界が現実の世界を動かしているメカニズムだとすれば、「ひとり」は現実を不定するのではなく、現実の世界から自分を「ひとり」の側に引き離して眺める視線も持つ。「二つの世界」があり、それが人生を豊かにするのだ。代表的な「ひとり」が親鸞だという。なるほど、すっと腑に落ちる感じ。自分の目指す生き様は「ひとり」である。とはいえ、まだまだ修行不足で自在に二つの世界を行き来できる状態までは達していないのだが。(2020年4月10日)

パートナーシップの実現

新型コロナ禍から文明や経済のあり方を論じようとしても、学者が面白い社会現象として見る醒めた視線としか捉えられないのだなということを実感。自分や家族に降りかかった危機として捉える態度も必要なのだな。それが共感(エンパシー)なのかもしれん。偉そうに文明を論じることも必要であるが、そこまで考えないのはけしからんということにはならない。家族の安寧を願い、無事(事も無し)に暮らせることこそ平和というものであり、生きる目的でもある。私がノホホンとしていられるのも自分に深刻な影響がないから。しかし、現実はもう少し厳しい。私は新型コロナ禍で格差が拡大してしまうことが心配だ。生業を止めると、暮らしが危機に陥ってしまう方々がたくさんいる。会社でも仕事を休んでマーケットを失ったら回復は難しい。死活問題だろう。こんな時こそSDGsの17番目の目標であるパートナーシップが重要だと思う。SDGsはよくできている。では、何をやったら良いのか。考える時である。(2020年4月9日)

中途半端な日本人

パリ協定にしても、新型コロナ禍にしても、ヨーロッパ社会と日本の対応の違いは人間観が異なるからであろう。山折哲雄によると、ヨーロッパ社会では人間は疑うべき存在、日本では信頼すべき存在。それぞれがつくった社会が契約社会と信頼社会。ヨーロッパ社会における契約社会の形成要因には一神教信仰と契約の精神があった。日本にはないので人間は信頼すべき存在としなければならなかった。それが両社会における組織と個人のあり方を形成している。ヨーロッパ社会は垂直の関係が重要だが、日本では水平的な人間関係を重視する。だから“ロックダウン”ができる(都市の構造の違いも重要であるが)。現在の日本では、“自分ではない誰かが、自分のために的確な指示を出すべきであり、それは自分が納得できなければならない”、といった雰囲気を感じる。ヨーロッパ的でも日本的でもない、中途半端な日本人が形成されているような気がする。(2020年4月8日)

共生共死

新型コロナウィルスにより多くの方々が亡くなっている。自分にとっても人ごとではない。ウィルスと共生するためには“死”についても理解を深めなければならぬと考え、手元にあった「日本人の『死』はどこにいったのか」(山折哲雄・島田裕巳、朝日新書115)を読み始める。一度読んでいるはずであるが、内容は忘れていた。老いたものだ。読み進めると、さっそく気になるフレーズ。共に生きる者はやがて共に死んでいく。だから本当は「共生」よりも「共生共死」と言わなければならないんだと。日本の社会は「生きる力」(これは文科省)と「共生」でずっときている。ちゃうんやないのと。その通りだなぁと思う。このことは勝者と敗者にも通じるのではないか。競争社会の中で勝者になることを奨励されるが、誰も敗者のことを考えない。勝利と敗北も一緒にして勝敗で考えなければならない。社会のことを考えるとは、二つの相反する概念を包摂して考えるということではないか。(2020年4月7日)

在宅勤務ができる仕事とは

新型コロナ禍でネットを介した在宅勤務が広まってきたような感じである。テレワークという言葉もあるが、ここは日本語を使っておこう。通勤せずに在宅勤務ができる仕事とは何だろうか。それはモノの生産に係わらない仕事といっていいだろうか。モノを生産には生産する場に行かなければならないからである。在宅勤務ができる仕事は、必要ではなく、生み出された需要に対応する仕事、といえるかも知れない。だから需要が無くなれば、仕事もなくなる。需要というものがあやふやなものであることを新型コロナ禍は語っていないか。一方、農の営みは生産に係わるが、在宅でなければできないといえる。それは生産の場と暮らしの場が分離できないからである。在宅の仕事は本来ならば“生きる”という必要を満たすことができるものなのではないか。人間として生きるための必要を満たす仕事が再認識されるようになれば、SDGsにおける“社会の変革”に繋がるかも知れない。それは都市・農村関係の再構築になるはずだ。もちろん、社会はそんな単純にはできていないが、ひとつの胎動が始まっているような気もする。(2020年4月7日)

今こそパートナーシップを

いよいよ緊急事態宣言が現実になってきた。大学も学生の入構制限に踏み切った。大学運営の現場も混乱している。新型コロナ対策の最前線では懸命の努力が為されていることだろう。今は現場に敬意を表すること、批判ではなく提案、足を引っ張るのではなく手を差し出す、こういう態度が必要。そんな雰囲気がだんだん醸成されてきたように感じる。新型コロナは災禍であるが、SDGsのパートナーシップを達成するきっかけにもなるかも知れない。(2020年4月6日)

C.W.ニコル逝く

また時代がひとつ去って行った。ニコルさんとは面識があるわけではないが、かなり前から名前は知っていた。大学院の時に「バーナード・リーチの日時計」(角川選書138)という本を読み、世の中にはすごい人がいるのだなと思った記憶がある。手元の本は昭和58(1983)年の第3版ですので、大学院後期の頃だ。なぜこの本を買ったのかは忘れてしまったが、タイトルに惹かれたのかなぁ。その後の黒姫山における活動は時々耳にしており、その生き様には共感していたものだ。単なる田舎暮らしではない、人間が“生きる”ということの意味を問い続けたのか。ご冥福を。(2020年4月4日)

強い農村

来週の仕事の準備をしていましたが、延期通告が来たため、思い切って昼休みに八街方面に行ってきました。というのも立派な桜並木がある場所がずっと気になっていたからです。こんな時に外出すると叱られてしまいそうですが、車移動でゼロ密ですのでご容赦願いたい。わがままかも知れませんが、無知を前提とした統制は気持ち悪いものです。後でGoogleMapで調べると、この地域は鎌倉時代から白井荘塩古郷の名で知られ、塩古八景とも称されているそうです。以前から何か持っていると気になっていた地域でしたが、やはりそうでした。ドローンで空撮しましたが、良い写真が撮れた。今、世の中は新型コロナ禍で大変な状況ですが、農村というものは案外災禍に強いのではないだろうか。土地、家、管理機があれば何とか生きていける。コミュニティーが健在ならば、助け合いもあるだろうし、自給経済と交換経済で最低限の食料は確保できる。兼業ならば財布が一家に複数あることになり、家庭経済は強靱である。何より、景観が素晴らしい。都市と農村の良好な関係が構築できれば、安寧な世の中になろう。(2020年4月3日)

研究者の精神的習慣の変革

総務省の役人が、ある学会連合の討論会で、"国としてのSDGsの推進においてリモートセンシングには期待している"、と述べたそうです。そこでリモセン関係者が会合を持ったのですが、何をやろうか、リモセンは貢献できるはずだ、で話が止まってしまう。具体的な案が出てこないのです。それは普遍性によって問題を解決するという20世紀型の思考に囚われていることが一つの理由。具体的な問題から入っていく必要があり、それがSDGsのやり方だと思うのですが、問題解決より論文生産、予算獲得が重要な目的となってしまった研究者の性なのだろうか。まず、問題を設定すること。それはすでにSDGsやFuture Earthの文書にもたくさん書いてある。次に、その問題の理解を試み、解決について議論する。この段階でPartnership、すなわち他分野やあらゆるセクター、ステークホルダーとの協働が必要になりますが、それこそSDGsの心なのです。論文生産マシンと化した研究者はますます総合的視点に基づく連携から遠ざかっているように思える。昨年12月に改訂された国のSDG実施指針でもPartnershipが抜け落ちているので、連携が苦手なのは日本全体の問題かも知れない。SDGsの達成のためには連携、Partnershipにより問題の解決をステークホルダー間で共有する必要があり、そのフレームの中で科学技術が役割を果たすことが研究者の行動なのです。しかし、問題解決という目的達成の営みの中で、研究者の役割は相対化される。イニシアティブをとり、名誉を獲得することが目的となってしまった研究者には想像をつかないことなのかも知れない。SDGsの心は、"Transforming our world"なのです。世界の変革を目指す前に、研究者の精神的習慣の変革が必要だと思うよ。とはいえ研究者もかわいそうなので、評価基準の検討も同時に行わなければならないのだ。(2020年4月2日)

新型コロナが促すノームの再考

朝日朝刊の記事「疾病と権力の仲」、金沢大の仲正さんへのインタビュー。フーコーはノーム(規範)/ノーマル(正常・普通)という概念を示している。危機に際して権力はノームを作るが、それが定着すれば、人々はそれがノーマルだと思うようになる。ノーマルから逸脱し、異常扱いされるのはいやなので、人は権力から強く促されなくても、自分で自分を無意識に統制するようになる。新型コロナウィルスに対する対応で、まさに今、それが起こりつつある。歳をとると、こういったことは様々な場面で経験してきた。例えば、大学人の意識。昔の大学人は反骨精神があったように思うが、今は上からの統制に従順になっている気がする。このことは幸福論でもある。願望水準理論という用語を聞いたことがあるが、人は豊かになると、幸せを感じるレベルが上がってしまう。だから豊かさと幸せが相関しなくなる。これは統制とは違うが、ノームが変わっていく点は同じ。新型コロナは統制のあり方と、豊かさと幸せの関係の再考を促しているようだ。それにしても統制はやなもんだ。記事にあるように民主主義と相容れないジレンマなのだが、命が旗印になると空気は統制に向かって流れていくのか。(2020年4月2日)

グローバル人材とは

ちばだいプレス(千葉大の広報誌)51号が届きました。冒頭の記事は“国際社会で活躍できるリーダーを目指す”と題した学長と木場弘子さんの対談。書いてあることは格好良いのだが、表面的で深みがなく、一番重要なことに触れていないように思う。確かにグローバル人材には英語は便利な道具で、学生が国際的な研究やビジネスの場で渡り合うことができれば管理者としては鼻高々だろう。しかし、欧米に対するコンプレックスの匂いも感じられてしまう。グローバル人材が真に理解すべきは日本の心、外国の心であり、異なる考え方の背景を知り、合意を形成する力である。例えば、気候正義の背景にある思想は何か、なぜ石炭が悪とされているのか、また、現在を見るべきかそれとも未来を見るべきか、あるいは結果が大切か、それとも過程が大切か、といった課題に対する思想について自らの考え方を提示できなければならぬのだ。気候正義や石炭悪者論の背景には民族としての歴史、思想があり、日本は独自の考え方を主張しても良いはずであるが、世界の空気に流されているのではないか。日本の政治家の態度も代議民主制の限界、小選挙区の弊害、をはじめとする様々な日本の心やシステムに係わる背景や事情に縛られている。こういったことを理解して世界の中で日本の立場を強化できる人材、そのアクションを支えることができる人材がグローバル人材である。そのためには、思想、哲学、信念が必要である。アフガニスタンに命を捧げた中村医師は真のグローバル人材といえるだろう。こんなことを伝える教育を大学ではやらんとあかん、それが大学の使命なのだと思う。(2020年4月1日)

クレームと依存

志村けんが逝ってもうた。一つの時代の終わり。その生き様は納得のいくものだったに違いない。私も志村けんは身をもって警鐘を鳴らしたのであり、小池さんのように功績といっても良いと思う。本人は意識していなかったとは思いますが、功績と言われたことにクレームを付けても、けんさんは気にしないのではないかな。笑っていると思います。新型コロナだけではないが、日本人はクレームが多すぎる。一方で依存体質でもあり、態度がちぐはぐなのである。不要不急とは何か、は自分で考えることで、人に定義してもらうことでもないだろう(損得が絡む場合もありますが、それは別)。日本および世界を俯瞰し、状況を理解し、その中に自分を位置づければ、自ずから社会人としての行動が決まる。日本は良い国になってしまったのだなと思う。鷲田清一が言っているように、日本人は安全・安心を行政に依存しすぎているため、クレームしかやることが無くなってしまった。これからの時代は自分で考え、行動することが求められるのだが、そのことは色々なアクションプランに書き込まれている。まず、自分を取り巻く意識世界を拡大し、全体の状況を理解した上で、自分で考え、行動すること。そのためは様々なアクションが考えられるが、大学人は教育という武器を持っている。これはありがたいチャンスでもある。(2020年3月31日)

逃げれば良い

またやっちまった、説教。学生が社会に出てちゃんとやっていけるとはシニアとしては思えんのだ。もうこれまで通りのことを言う段階ではない。社会で壁にぶち当たったらどうするのか。自分を変えるしかないのだが、それができない時はどうするか。逃げるしかないのだ。逃げるのは都市的社会から。まだ見えていない農村的社会には可能性があるのだと。そんなことを言っても直ちには理解できないだろう。しかし、本当に乗り越えられない壁にぶち当たったときに、ふと思い出してくれればそれで良いと思う。(2020年3月30日)

8050問題に思う

朝日の一面に8050問題という語を発見。調べてみると、90年代に問題となった学校時代のいじめや、バブル崩壊後の失われた10年などを遠因として引きこもりとなった若者がすでに50代に達し、その親も80代となり、親子で社会から孤立した状態になっているという問題である。なぜ、このような状況に陥ってしまうのか。それは一つの生き方しか選びにくい社会、一転びアウト(七転八起ではなく)の社会にあり、貨幣経済、資本主義に基づく都市的社会のあり方の問題ではないだろうか。実は外側にはもっと広い社会、農山漁村的社会を包含する社会があり、そこでは多様な生き方が選択できるの。低収入でも低コスト、そしてこれからはここが重要なのだが、低負荷の生き方ができるはず。そういう生き方は確かにたくさん存在する。まず、このことを知ること。そして、一歩踏み出す勇気があれば、人生は相当変わってくると思う。(2020年3月30日)

近代文明人の再定義

大阪のコロナホテルが苦境に立たされているというニュースを読んだ(Yahoo news)。そういえば、このホテルは何回か利用したことがある。京都で宿を確保できなかったときに新大阪駅に近いあのホテルは便利だった。全体として人の動きが鈍っている時であり、ホテル業界は大変だろうが、その名前で忌避されるなんてことがあったら、日本人が近代文明人ではないということを意味することになる。近代文明人とはウィルスに関する科学的な知見に基づき、合理的に行動することができ、統制も受け入れることができる人間である(近藤による定義)。それが決して好ましいとは思わないので、共感(エンパシー)を持つことができ、明らかにされた知見に基づき、倫理的に行動できる、そんな人間の社会を創りたいと思う。現実には新型コロナウィルスを巡って差別や分断が生じつつあることは確かであろう。それは人間の本質でもあり、人はなかなか近代文明人にはなれないということも意味している。ならば、社会のあり方の変化に伴って、近代文明人の再定義を行わなければならないだろう。(2020年3月29日)

人とコロナウィルスの関係

コロナウィルスと人は数万年に及ぶ古い付き合いがあるのだと思う。新型が発生すると人は犠牲を払いながらも集団免疫を獲得し、無事な時代が戻る。これを何回も繰り返してきたのだろう。今、新型コロナウィルスの災禍を人は歴史上初めて医療技術と統制で切り抜けようとしているのか。今日のナショナルジオグラフィクスの記事によると、3月13日に発表されたイギリスの“厳しい制限を採用しない”という政策は集団免疫の獲得を狙ったものだという。その後、この政策は少し後退して他人と一定の「社会的距離」を保つ対策を導入し、すべてのパブ、レストラン、ジム、映画館を閉鎖することになった。イギリスはすでに「終わった国」であるが「豊かさ」を感じることができる国でもある(2019年8月2日参照)。集団免疫の達成は犠牲も伴うが、近代化以前の社会では連綿と繋がる命の脈の中で人の死は相対化して受け入れることができた。死者とともに生きる社会であった。「成長パラノイア」から脱却した後の、“死を受け入れることができる社会”は科学技術が先導する20世紀型社会から脱却した、成熟した新しいフェーズの近代文明国家といっても良いのではないか。イギリスにその予兆を見たのかも知れない。死を受け入れることは、生がより輝く社会の構築に繋がるのではないか。そして、死に対するリスクも案外減らせることができるのではないか。“死を受け入れる”というと批判が飛んできそうな気がしますが、表面的ではない日本人の死生観に係わる深い意味があります。(2020年3月25日)

癒やしの音色

YouTubeでカリンバの演奏を見て物欲が刺激され、Amazonで購入してしまいました。カリンバは30年以上前にタンザニアで買ってきたことがあります。その時は音階など無く、ランダムにかき鳴らしてアフリカンミュージックの雰囲気に浸っていたのですが、今回のは違います。21音カリンバで、鍵盤(?)にA~Gの打刻があり、その通りに弾くと曲を奏でることができる。そう簡単にはうまくなりませんが、♯や♭のない曲だったら何とかできそう。届いて2日ですが、YouTubeでは1曲完成させるのに3ヶ月というコメントもあったので(もちろん和音も含めて)、結構良い成績かもしれん。時々和音がうまくいったりすると実に心地よい。癒やしの力では音楽にかなうものはない。(2020年3月24日)

大なるものの終焉

オリンピックも先行き不透明になってきた。これだけ大きな企画が延期または中止になったら人の生業に対する影響は極めて深刻になるだろう。一昔前、“大きいことは良いことだ”というキャッチコピーがあったが、今や大きなことがリスクになる時代になった。大企業の収益が一気に下落したり、破綻が起きる時代になった。大きなものに依存する生業は脆いものだ。大きさだけでなく、確実なものを掴んで末永く安寧が得られる時代を創っていかなければならない。Small is beautiful が現実味を帯びてきた。まず必要を確実に満たすこと、その上で需要を満たすことを考えてもよい。必要と需要が分離していることが問題なのだ。今起きてることの意味を考え、未来のあり方を考えなければならぬ。(2020年3月23日)

地域の暮らしの安寧と理想

三連休で休み癖がついてしまいましたが、今日は出勤して出版原稿の修正をしています。日本地球惑星科学連合の出版企画で福島のことについて書いていますが、空間線量率を示した図に地名を記入してほしいとの指示がありました。本来ならば本文中で引用した地名は地図に記入することが作法なのですが、曖昧にしていました。それは、私たちの調査の結果が地域の方々に理解だけではなく不安も与えることになったからです。その思いはもうすぐ川俣町ホームページに掲載される予定とのことです。科学者は科学的事実を示すことが役割で、それが善いことと信じて行動していますが、それだけではないということが福島の経験です。科学的合理性だけではなく、共感、理念を共有することが必要なのです。地域に放射能は残ります。帰還した方々にとっては圧倒的に不利益です。科学が安全を保証しても、安心を得るのは難しいのです。科学的合理性に基づき、よかれと思って地域の暮らしのあり方に介入する離れた地域の方々(科学者)もいます。それでも生まれ育った“ふるさと”を離れたくないのです。この世において、ただ一つの善というものは存在しません。たくさんの善がある。どんなに不利益(科学的には身体的というよりも、心に対するもの)を被ろうとも、その地に居たいという思いを尊重しなければなりません。それは他人が勝手に想像するような悲惨なものでもないのです。地域の暮らしの復活を応援することこそ、近代文明人。でも地域の暮らしの安寧は守らなければならない。だから、地名は曖昧にするのである。(2020年3月22日)

視野にない世界

昨日、3つの願いのトリレンマについて書いたが、何か強いものに押し流されながらも、本質的なものを求める別の“(意識)世界”があるという思いが強まる。シェルのグループには見えていない世界があり、実はそれが世界のメジャーな部分を構成していると思うのである。その世界は農山漁村的世界であり、あるいは共感(エンパシー)により成り立っている世界である。シェルも、シナリオはジェットストリームであり、その“下”には様々なローカルがあるのだという。そこにはジェットストリームが世界の動向を決め、ローカルはそれに押し流される存在という世界観がある。この世界観こそ思い込みに過ぎないのではないか。シナリオのような世界は底流としてあるかもしれないが、実は力強いたくさんのローカルが関係性を持ちながら世界を構成しており、ローカルには個々の人間の思いが込められている。こんな世界観による未来を考える時期が来たのではないかと思う。ローカルのアイデンティティーを保ちながら世界とつながるローカルにより構成される世界。新型コロナウィルスがひとつのきっかけになりそうである。(2020年3月21日)

シェル・グローバルシナリオ2025-3つの願いのトリレンマ

安井至先生のHPを古い方から読み返していた時にシナリオプランニングという言葉を知り、シェルのグローバル・シナリオを知りました。なるほどと思い、2005年にシェルの角和昌浩氏の書かれた解説「シナリオプランニングの実践と理論 第四回『シェル・グローバルシナリオ2025』をめぐって」を読んでみました(ぜひ原文を読んでください)。シェルによると生活者は「効率的な経済活動」、「安全・安心」、「連帯感と公平」の3つの願いを充足させたいと願っているが、それは不可能だという。どれか2つを充足させると、残りの一つが満たされなくなる。よって、3つの願いを頂点に持つ三角形モデルで、各辺がシナリオ、辺に対する頂点が満たされない願いとなる。3つのシナリオはそれぞれ「Low Trust Globalization」、「Open Doors」、「Flags」と名付けられた。詳細は省略。なんとなく解るような気がするが、グローバル資本主義を是とする社会観、世界観から抜け出せていない様に思える。現実は少し違う、あるいはもう変わってしまっているのではないか。世界は案外流動的である。この考え方が提唱されたのが2005年。その後、2008年に世界はリーマンショックを経験し、2015年にはSDGsとパリ協定が採択された。2019年には気候サミットでグレタさんが活躍している。企業はESG投資を無視できなくなってきた。シェルによるこのシナリオは大分修正を余儀なくされているのではないだろうか。新型コロナウィルスが世界の経済システムに深刻な打撃を与えている中で、ますますその思いを強くしている。(2020年3月20日)

生き様を見つけるための環境教育

環境教育は自分の中で重みが増している課題であるので、「統合的環境教育推進の基盤となる理念・価値の共有化に向けて」をざっとですが読み切りました。第一部の序文の中で関礼子先生がこんなことを述べていました。「『地球のために』なされる環境教育を、『自分が生きるために』なされる環境教育に引き戻すこと、行動を律するための環境教育から、環境を含めて自らの生き方=ライフスタイルをつくりあげていくような、能動的な環境教育の可能性を探ることを構想していく」。環境教育の目的の一つは、関係性に気づくこと、だと考えていたが、それは“世界”を理解し、自分の“生き様”を見つけること、である。ここで、“世界”とは自然だけではなく政治、経済、宗教、民族、等々あらゆるリンクを含む関係性で構成されている範囲で、それこそ人類にとっての“環境”そのものである。これで環境教育のあり方に関する納得が得られました。(2020年3月19日)

ヒューマニティー・クライシスと西欧思想

午前中はSkype for Bussinessを使った会議(学術会議環境リスク分科会)だったのですが、はじめて自分で使ったSkypeは結構快適でした。そこで環境教育が話題になり、学術会議の記録「統合的環境教育推進の基盤となる理念・価値の共有化に向けて」を教えて頂きました。113ページあるのですが、読み始めたら止まらなくなっています。その中でハッと気が付いたこと。34ページの岡田さんの担当章から、「今日のヒューマニティ-・クライシスを、西欧合理主義の二元論や、キリスト教の人間による自然支配論のせいにして済んだ時代は過ぎた」。人間自身が持っている「生命の欲望」が、等しく我々自身の生命を痛めつけているのである、と。私は社会のあり方を論じる時に、アンチ西欧主義を振りかざすことが多いのですが、もっと根本的な問題があった。確かに資本主義、貨幣経済、グローバル市場主義の負の側面を論じる時に人間の持つ煩悩が頭に浮かんでいた。それは人間らしさでもあるのだが、ヒューマニティー・クライシスの根源にあるものである。煩悩を乗り越えることは困難ではあるが、SDGs、FEにおける"transformation"なのだと思う。岡田さんは言う。1990年代の「失われた10年」を「失われたものの大切さに気づいた10年」ととらえたい(33ページ)。困難も見方を変えると案外乗り越えることができるのかもしれない。(2020年3月18日)

当たり前でない当たり前のこと

体調が悪かったら医者に行くのは当たり前である。それは日本が国民皆保険制を達成しているから。しかし、個人の責任と財力で保険を購入するアメリカではどうか。新型コロナウィルスはアメリカでも猛威を振るっているが、体調が悪くても医者に行けない人々がたくさんいるのではないか。帰宅途中で聞いたラジオでの話。当たり前と思っていることでも、当たり前ではないことは世の中にはたくさんある。そのことを自覚し、理解を試みる態度を身につけねばあかんな。(2020年3月16日)

近代文明のパラダイム変化

今日は阿武隈の山村に災禍をもたらした放射性物質のフォールアウトから満9年。FUKUSHIMAは日本人、いや世界の民が近代文明人ではないことを証明した。近代文明人とは文明の利器の仕組み、コストを知り、リスクとベネフィットを分断させない人々である。では新型コロナウィルスには近代文明人ならばどう対処するだろうか。近代文明が創り出したグローバル社会がもたらした災禍である。ベネフィットを享受してきた近代文明人だから、暮らしを統制し、合理的に準備された対応プロトコルのもとで災禍の去るのを待つことを甘受すべきだろうか。それも誤りではないが、そのような統制は「火の鳥」(手塚治虫)で描かれたような核戦争後に世界が少数の都市国家に分断されたような状況で機能するものではないか。ウィルスに対する科学的知識も蓄積されている状況では一定数の犠牲を容認しながら、人類が耐性を持つことができる人々も近代文明人といえるのではないか。当然、死の悲しみを容認するなんてとんでもないという意見が出てくるが、死を一巻の終わりにしたのは近代文明そのものである。精神的成熟に基づく近代文明社会というのもあり得るのではないかという気がする。それは近代以前への回帰、人と自然の関係性が良好だった時代への回帰という見方もできるが、回帰したときに、より上位の位置に人類が到達するという考え方もできそうな気がする。それは近代文明のパラダイムの変化になると思われるが、煩悩から抜け出せない人間の本質がそれを許すかどうかは怪しい。(2020年3月15日)

二つの信頼

今日は雨の土曜であり、自宅で読書や考え事をしている(歳をとったので土曜も休むようにしています)。ふと気が付いたのですが、先日(11日)に自分はお人好しだと書きました。一方、問題の解決は諒解であり、それには信頼が基本だ、そのために共感(empathy、共感基準)と理念(原則基準)を共有する必要があるといつも主張しています。さて、お人好しの信頼は無条件の信頼なのですが、問題の解決における信頼では、相手が信頼に足るということを納得することが前提にあるという違いに気が付きました。前者が日本人的な発想、あるいは仏教的な背景を持つとすると、後者は欧米的な考え方なのかも知れません。欧米人は決してお人好しではないのですが、いったん信頼が担保されると絆は強くなる。それは一神教の考え方なのではないか、そんなことを考えています。問題の解決というのはお互いの思想の基盤を理解すること。これがグローバル社会構築の前提にあると同時に、ローカル社会の尊重にもつながる。(2020年3月14日)

東日本大震災から9年

とうとう10年目に突入した震災であるが(震災はまだ続いている)、悶々と考え続けていることがある。それはもはや悶々ではなく、確信といっても良いかも知れない。考えていることはこの社会のあり方であり、結論は都市的世界と農的世界の共存である。この9年の間にSDGsやパリ協定が登場し、社会をどう変革するかということが世界共通の課題となった。理念はできた。あとはどう発信し、実装するかである。(2020年3月11日)

元研究者による老害

なるほど、こういうこともあるのだな。ある会議で学びました。定年退職した研究者が地域活動の分野に入ってくると、その一方的な態度が市民の機会を奪ってしまうこともある。慎重にね、と。私は元研究者や元技術者が地域の活動に参加する新しい市民科学を創りたいと思い、ディシプリン研究者の批判をすることも多いのすが、現場では見極めが必要なんだな。新しい市民科学は専門家と市民の協働が前提であり、目的の達成を共有しなければならない。この部分の見極めが甘かったなと反省。ただし、自分はお人好しを自負しているので、なかなか見極めるのが難しい。(2020年3月11日)

分断の修復

少し余裕ができたので「東南アジア研究」のチェックを始める。J-stageで論文を探しながら読むのに先日導入したiPadは便利である。そんな中、ひとつの論文を見つけた。「韓国軍のベトナム派兵をめぐる記憶の比較研究-ベトナムの非公定記憶を記憶する韓国NGO-」(東南アジア研究、2020年48巻3号、伊藤正子著)。韓国がベトナムに派兵したのは朴政権においてアメリカからの軍事、経済援助を期待してのこと。南北の最前線に近いハミ村ではその前日、韓国軍は北の猛攻を受け、大きな被害を出したらしい。その緊張の中、韓国軍はハミ村で村民を虐殺したが、その状況は極めて悲惨なものであった。戦後、その模様を碑に刻み、記憶に残そうとしたが、地域とベトナム・韓国両政府の相克により、碑文は隠されることになる。その背景には南北に分断されなかったベトナムの事情があり、国民全体の福利向上には経済成長の手段しかなかったという背景がある。しかし、怒り、苦しみ、憎しみが消えたわけではない。韓国のNGOによる草の根活動がそのもつれをほぐしていくことになった。うまく要約できたかは解らないが、日本と韓国の関係を考える際の貴重な経験を提供している。国対国ではなく、人間対人間のふれあいこそがもつれた糸をほぐすきっかけを創り出す。(2020年3月10日)

分断と弱さ

新型コロナウィルスの影響で事業、イベント等が続々と中止、延期になっているため、何となくゆとりが出ているところです(大変な状況になっている方々には申し訳ないのですが)。本質的な考察や仕事ができる状況ですが、特に今年は講義資料の準備がしっかりできそうです。ちょうど今、来年度の普遍教育(千葉大の教養科目)のシラバスを入力したところです。シラバス通りにやったからといって、教育効果が高まるというエビデンスはないのですけれどね(内田樹曰く)。結局、脱線を繰り返すことになるでしょう。さて、気になるのは感染者が入院している病院の医療関係者や、対策に携わっている方々、その子供に対する差別ともとれる態度に関する報道。もちろん、ごくごく一部に過ぎないのだと思いますが、マスコミを通じた影響力は大きい。日本の全体的な状況に対して誤った認識を導く可能性もあろう。背後にあるのはエンパシー(共感)の欠如、社会を構成する一員としての自らの存在の認識不足、といえる。近代文明の恩恵を受けながら、近代文明のリスクに無論着な“文明社会の野蛮人”という見方も可能だろう。ただし、こんなことを書くのもバッシングの一つである。人というのは弱いものであり、その弱さが人を傷付けることもある。危機の時にこそ、包摂的な態度が必要である。分断は進んでいるのか、見極める必要があるのだが、それがなかなかわからない。多くの人とふれあわないとわからないので、最終的には信じることが重要になるのだろう。日本はお人好し社会で良い。お人好しでなければ、未来は切り開けないのではないか。(2020年3月10日)

還暦過ぎの気持ち

週末はいろいろやろうと考えていたが、天気が悪く、書斎で悶々としているところ。どうも心身が不安定なのは年齢のせいか。わがままな大学教員を永らくやってきて還暦を過ぎた自分は“心は時代遅れの若者、身体は爺さん”である。特に私の場合、主張がわがままなのか、使命なのか、よくわからん。主張が結構通ってしまっているところも良いのか悪いのか、わがままを増長している。そのくせ行動が中途半端だと心が苛まれる。これも天気のせいか。桜が咲けば気持ちも晴れるか。(2020年3月8日)

小さくてもやっていける社会

事業継続計画(BCP)について記述しましたが、統計がありました。平成30年における実施率は大企業で81.4%、中堅企業で46.5%、中小企業では15%ということ(みずほ総研、2016)。やはり、中小企業では少ない。新型コロナウィルスの影響による倒産、廃業、解雇のニュースも耳にするようになってきましたが、小規模の事業所は厳しい状況になっているようです。多くの中小企業が自転車操業の状態にあり、“必要”を超える“(つくられた)需要”に経営を依存している状況が想像できます。もっと、堅固な生業の基盤、本質的なものに寄り添う生業を創りあげることはできないのだろうか。多角的な経営を行い、不況時は給料を下げてでも雇用を確保し、なんとか乗り切ることができる体制。それを拒んでいるのが貨幣の増殖を目的とする資本主義経済であり、緊張のシステムで運営される高コストな都市的世界なのではないだろうか。この状況を乗り切るためには地方を核とする地域経済の強化が必要ではないだろうか。それは家族やコミュニティーの力が発揮できるシステムでもある。地方では力強いコミュニティーと自分の家、農地、管理機があれば何とかやっていけるのではないか。そこでは地域で循環する経済の力と自給経済、交換経済の力を最大限に発揮することができる。田舎では収入額に差があっても、可処分所得は案外変わらないもの。もちろん、どっちかという話ではない。都市的世界と農的世界の両方を理解し、諒解し、相互に行き来できる習慣を持つ人の社会。これだけ通信が発展した現在、実現は可能なのではないだろうか。(2020年3月7日)

危機の時の大学の役割

新型コロナウィルスの影響は企業活動に影響を与え、暮らしにも深刻な陰を落としている。昨今の事故や災害の頻発を契機として企業は事業継続計画(BCP)の策定を進めていると思われるが、どれだけの企業がBCPを持っていただろうか。また、こんな時に大学のBCPはどうあるべきか。学務や運営については様々な策が考えられるだろうが、一番重要な機能は感染症の猛威を前にして、“基本的な考え方”を提示することではないだろうか。科学的合理性をベースに、エンパシーを発揮して、基本的な考え方を発信すること。それはどう生きるのかということであり、価値の領域に踏み込むことにもなるだろうが、個人の行動を支える規範となるものである。それが信頼につながるが、それこそが大学にとって重要なことである。今の日本は“緊張のシステム”で運営されている。このシステムでは危機が想定された段階で統制による人々の行動規制もあり得るだろう。しかし、グローバル経済のもとでは、この統制が不利益を生じる場合もある。リスクとベネフィットをどのようなフレームでバランスさせるかが大きな課題となるが、具体的なアクションは政治の領域である。大学としては生き様とも関わる“基本的な考え方”を提示しなければならんのではないか。それは未来へもつながる考え方である。私は“共貧のシステム”で運営される社会も考えてよいと思う。それはローカルな社会になるが、二つのシステムを共存させたいと考えている。その実現に向けた原動力は教育の力であり、そこにこそ大学の役割がある。緊急時には“緊張のシステム”の作法で対応せざるを得ないが、未来に向けて二つのシステムの共存を可能にしたい。実は社会の底流でこの考え方は大きな力を蓄えつつあるように思う。SDGsもその一つであるが、今回の事象が社会の組み替え(transformation)の契機となるのではないか。(2020年3月6日)

農的世界の記憶

勝手に論文を送ってくるAKADEMIAというサイトがあるのだが、ちょっと前に「ホワイトカラー農民の出現-タイ南部のアブラヤシ栽培と人々の生活世界-」(藤田渡、2018)というタイトルが届いていました。気になって削除せずにいましたが、今日はいよいよ読んでしまいました。「東南アジア研究」ですのでいつでも読めるのですが、読んだらおもしろい。タイはアブラヤシ生産は伸ばしているが、マレーシアとインドネシアが圧倒的な生産量を誇っているので、3%を維持しているとのこと。最近、スマトラ島リアウのアブラヤシを調べていましたが、タイにはまた異なる生業の形態がある。同じ作物を生産していても地域により事情は大きく異なるものだ。この事情を知らなければ環境問題の本質に踏み込むことはできない。外形的な成果を飾り立てるデスクトップリモートセンシングはいずれ学問としての限界を迎えるだろう。多くの地域でもそうなのであるが、タイ南部の農業もここ50年ほどで大きな変貌を遂げている。ここでは自給的な「充足経済」から「ホワイトカラー」的な農業へ変わってきた。しかし、それが今後も維持できるとは限らないことに気が付いている人もいる。かつての自給的農業の記憶がある世代は、その回復を志向する考え方も芽生えているという。それは持続可能が不確かな資本主義的な農業に対する備えでもある。都市的世界と農的世界の共存という考え方は人々の共通の思いなのだと思うが、だからこそ、若い世代にも農的世界の記憶を伝えたいと思う。それがシニアの役割なのではないか。若者にとっては余計なお世話かも知れないが、知らないことが理由なのでは残念だと思うのである。(2020年3月4日)

時代が求めるリーダーとは

格好いいことをぶち上げるだけで、後はやってね、というのはリーダーシップだろうか。リーダーは集団全体に目配せし、様々な関係性や事情を酌み、指示が効率的に機能するようにあらかじめ根回しするのが仕事ではないだろうか。経済成長の時代だったら金で解決することもできただろう。しかし、今は定常あるいは縮退社会。この時代のリーダーは調整型でないといかんのではないか。あらゆるリソースを組み合わせて、最適解を導かなければならない。もちろん、一人ではできない。だから専門家の助けが必要なのだが、専門家は機能したのだろうか。専門家も評価システムの弊害で、社会との関連が薄まっていないか。様々な分野でこの国の機能が弱まっているのではないか。そんな気がする。判断が正しいかどうかは今後の検証を待たなければならないが、学校の現場、子育ての現場は大わらわだろう。新型コロナウィルスへの対応について。(2020年3月1日)

国立大は未来のための教育を行っているか

一人あたりGDPがシンガポールに抜かれたのは2007年で、2018年現在では日本の1.6倍になっているそうだ。GDPが豊かさの唯一のインデックスではないので、それは良いのだが、大学教育ではさらに大きく差を付けられているようだ。朝日朝刊「多事奏論」の山脇さんの記事。シンガポール国立大学は名門であるが、前学長のタン氏によると、大学ランキングなんぞに基づいて思考し、戦略を立てることはないとのこと。然り。なによりも大学運営の理念が良い。ここに記録しておきたい。

①1年生の成績は、ほぼ度外視。就職などの際に採用側が見る成績評価(GPA)に繰り入れない。それによって、学生が不得意科目を履修するように奨励。将来それが役に立つこともありうるから。
②一般教養科目で、質問の仕方、論文の書き方など「学び方を学ぶ」講義を導入。
③医学部で米デューク第と連携。そこではレクチャー方式の講義はなく、すべてグループで課題解決に取り組む授業を行う。米エール大と組み、リベラルアーツ(教養)教育にも注力。
④起業家養成のため、米国などの大学に留学しながら現地の企業でインターンとして働く1年間のプログラムを設けている。すでに多くの起業家が誕生。

我が千葉大学はどうだろうか。①についてはGPAは学生選抜の指標として使われているのではないか。頼っていると言っても良いかも知れない。楽ですからね。②、③は個別の取り組みとしてはあるかも知れないが、統一的なカリキュラムとしてはないのではないか。アクティブ・ラーニングを取り入れる動きはあるが、③の実現になるか。④に関連して千葉大学は全員留学の取り組みを始めたが、その理念と現実の乖離は大きい。タン氏は「教育とは未来のためにある」と述べた。日本でも大学運営者は表向きにはそう言うだろう。しかし、具体化された取り組みは少ないように思える。あるとしても大学の外からは見えにくいのかも知れない。シンガポール国立大学の取り組みで感心したのは、卒業生が、大学入学から20年間は大学に戻ることができ、新たなスキルを学ぶことができる制度を作ったこと。これこそが「人を育て、未来を創る大学」だ。経験を積んだ社会人OBに授業を公開し、批評して頂くことで大学の授業も良くなるだろう。日本の大学はシンガポール国立大学を見習わなければならないと思うよ。ところで、最近は“講義”でなく、“授業”を使うが何でだろ。講義の方が良いと思うのだが。(2020年2月29日)

優秀な人材

私はこの言葉が大嫌いである。優秀な人材を選抜することで、可能性を排除していることにもなる。今の基準で優秀でも、未来の基準は変わっているかも知れない。時代が変われば優秀の意味も変わる。先の大学入試改革に関する記事で芦田さんも「学校教育での児童・生徒・学生は、主体や人物としては未完成だ」と述べているが、その通りである。だから教育の意味がある。文部科学行政では人事でも入試でも「完成された人物」を求めている様に見える。それによって誰が幸せになるのか。優秀な学生が入れば、研究をやってもらえる教員が幸せになり、外形的な成果が出れば、文部科学官僚が幸せになるが、その視線は社会や大衆には向いていない。こんな縦社会のしがらみに日本は絡め取られてしまっている。ここに“社会の変革”(SDGsやFuture Earthのtransformation)の必要性がある。(2020年2月27日)

堕した大学教育

朝日朝刊で「究極に公平な入試とは」という寄稿を読んだ(人間環境大学の芦田さん)。その中にこんな文章があった。「従来の教育が批判されるとすれば、入試のあり方ではなく、断片的な知識の切り売りに堕している大学教育だろう」。私も入試制度の改革には批判的であり、何よりも大学教育を変えなければならないと考えている。大学入試はセンター試験で十分である。よくできた問題だと思う。そこをいじるよりも、大学教育の過程できちんと評価を行い、場合によっては大学に行かない人生の選択があっても良いと思う。ただし、社会が大学をやめた学生を受容しない状況では不幸を生むだけである。入試改革、大学改革は社会の変革と同時に進めなければならない。そこに、この問題の難しさがある。今日から集中講義「リモートセンシング入門」が予定されていたが、残念ながら新型コロナウィルスの件で中止の決断をした。3年生の、いわば消化試合ともいえる講義なので、総合力を培うためにアクティブ・ラーニングの手法で進めようと考えて、準備していたところであった。リモートセンシング技術は個別の要素を学んだところで、学生が活用することは難しい。応用課題である環境、すなわち人と自然の関係性が理解できなければ、活用することはできないのである。リモートセンシングで見えたことの意味を探究しなければならない。そのためには環境を理解することができなければならない。堕したと言われたくない思いで準備していたが、開講できたとしても思いは伝わっただろうか。それにしても前日の、それも入試で学生の入構ができない状況で中止を発信したのだが、学生にはすっと伝わって、了解されたのかどうか。研究室にいても誰も文句を言いに来ないこともさみしい。(2020年2月27日)

新型コロナウィルスを巡るエンパシー

正月にエンパシーについて書いた。ブレイディーみかこ氏によると“他者の立場を想像して、理解しようとする自発的で知的な作業”。この言葉を通勤途中のラジオで聞いた。ニッポン放送の番組で垣花正と中瀬ゆかりの対談の中で出てきました。コンテクストは聞き逃したのですが、恐らく新型コロナウィルスだったのかなぁ。ちょうど出勤前に見たワイドショーで、ウィルス検査が受けられないという視聴者の不満を取り上げていたのですが、これこそ大衆と行政の双方にエンパシーが欠如している状況ではなかろうか。新型コロナウィルスに関しては、世の中がグローバル社会に対応した緊張のシステムで運営されていないことがますます明らかになってきている状況 ですので、もはや社会自体を組み替えないといかんのではないだろうか。ただし、高度管理型社会の緊張のシステムへの移行を推進するのではなく、緊張のシステムと共貧のシステムを共存させ、人が相互に行き来できる精神的習慣を持つことができる社会。従来からの私の主張ですが、この考え方を推し進める良い機会なのかも知れない。(2020年2月27日)

新型コロナウィルスの醸し出す空気

明日から始まる集中講義を中止にしてしまいました。20人程度が教室に集まって、3日間議論を繰り広げる予定でしたが、来週実施予定の別の演習が中止になり、また、政府の基本方針を読んで考えが揺らいでしまいました。恐らくこれから感染者がどんどん増えてくると、致死率は下がり、普通のインフルエンザと変わらなくなるかも知れません。でも、未来は分からないもの。未知が恐怖を生み出すわけですが、初期段階では予防原則に基づき慎重な行動をした方が良いと自分を納得させます。18日に書いたように、低レベルリスクに対する科学者としての態度は持っていたつもりですが、自分が決断すべきことで、“もし”を考えるとやはりブレてしまいました。あぁ、情けなや。本音の部分には、集中講義をやらなくて済めば楽ということもあることは否定できません。やはり、未来はわからないのだ。だから、現在を見て最良の判断をすれば良い。ただし、それが最良だったかは解らない。決断したということが重要で、それを単に受け入れるだけで良い。そこから新しい局面がスタートする。とはいえ、やはり“空気”に流されていることを自覚する。(2020年2月26日)

ステーキの焼き方

かみさんがいないので、アメリカ産の肉を買ってきてステーキを焼く。先日YouTubeでステーキ肉は弱火でじっくり焼くのが良いとする動画をみた。やってみたが、あまりうまくない。安い肉のせいかなと思い、2枚目はこれまでの通り、強火で片面を焼き、ひっくり返して蒸らすやり方で焼いたらうまい。同じ肉とは思えない。肉は焼き方だ。この肉は375gで892円だったのだが安いなぁ。国産牛が売れなくなるなぁ。日本の畜産業は守りたいと思うが、価格にはなかなかかなわない。貨幣経済をどう乗り越えたら良いのか。煩悩を断ちきるしかないのだろうか。(2020年2月24日)

緊張のシステムと共貧のシステム

一昨日は職場の共同利用研究会、昨日は“超学際”をテーマにした研究会でした。新型コロナウィルスの影響で共同利用研究会では懇親会が中止となり、研究会では2名がネットを通じた参加となった。Skypeと比較してZoomは安定している。いいものができたものだ。知的刺激を受けながら楽しく過ごした研究会の後の懇親会では2名が急遽キャンセル。それは所属する部局でトップダウンの指示があったからですが、私自身は指示に従うということが苦手な、わがままな昭和の研究者です。研究会では“緊張のシステム”と“共貧のシステム”という話をしました。311の時に思い立ち、それ以降、私の考え方の基盤となっています(ホームページを探すといろんなところに出てきます)。18日に書いたように新型コロナウィルスは、近代文明社会でもあるグローバル社会におけるリスクです。その社会を動かしているシステムに不具合が生じると、一気にシステムが不調をきたします。だから、緊張のシステムとして高度に管理された社会では一定の統制の元でリスクを回避しなければならないのですが、今回の経過を見ていると、地球社会は緊張のシステムで運営されていないことがよく解ります。とはいえ、緊張のシステムを守るための統制が機能したら、それはそれで恐ろしい社会でもあるので、共貧のシステムを尊重することも大切だと思います。それは緊張のシステムである都市的社会と共貧のシステムである農村的社会を分断させるやり方ではなく、どちらも尊重し、双方を自由に行き来できる精神的習慣を持つことが大切、という主張なのです。この考え方は今回の事象をみても、進むべき方向なのではなかという思いをますます強くします。実現は簡単なことではないのですが、ひとつの方法は教育あるいはESDなのかなと思います。(2020年2月22日)

グローバル社会の功罪と社会の変革

新型コロナウィルスが猛威を振るっており、それに伴い世の中には自粛ムードが漂ってきたような気がする。コロナウィルスにとっては迷惑な話でしょうが、誰でもグローバルに移動し、活躍できる社会のあり方の帰結であるわけです。グローバル社会には功罪があり、今回は罪の部分が目立っていますが、功罪は受け入れてバランスをとる必要があります。グローバル社会が良いのであれば、人の行動は自分で管理しながら、ある程度のリスクは受け入れる態度が必要ではないだろうか。科学(medical science)と社会を融合させ、"うまくやる"必要がある。そうでなければ、地域というものを重視する社会のあり方を考えるべきではないだろうか。私は地域、あるいはローカルを尊重しながら、グローバルな社会とも交流できる態度を人が持てば良いと考えている。グローバルとローカル、それは都市的社会と農村的社会といっても良いかも知れない。両者を自由に行き来できる態度と社会のあり方こそがSDGsやFuture Earthがめざす社会のあり方で、それが "transformation" なのではないか。SDGsでは、"to transform our world"の部分である。今、文明社会のあり方が問われているのである。(2020年2月18日)

文明とは何か

「馬鹿で弱い奴は死んじまうっていう、思い込みだろうな」。朝日天声人語より。直木賞に選ばれた歴史小説「熱源」で著者の川越宗一氏がアイヌ集落の長に語らせたもの。そうかも知れないが、これは文明というより(グローバル)資本主義とは何か、といったほうが良いように思う。あるいは新自由主義といったもの。昨年の8月2日に引用した山人さんの「成長パラノイア」、すなわち「経済が右肩上がりに成長しなければならないと偏執すること」も同様な背景を持つものだろう。我々は時代を読まなければならない。永遠に続く経済成長(貨幣の増殖)はなく、地球の大きさは有限である。定常あるいは縮退社会の中で「馬鹿で弱くたって、優しさがあれば暮らして行ける」ということが文明ではないのか。(2020年2月17日)

“科学者”の態度

しばらく書き込んでいませんでしたが、それはやることが多すぎて心に余裕が失われていたことを意味しています。今日はメモしておきたいことがあったので、久しぶりにキーボードを打っています。うちの職場の共同利用報告会が20日に開催されるのですが、その後の情報交換会(懇親会)をどうするか、ということ。理由はコロナウィルスの猛威です。話し合った結果、取りやめになりました。私は、極めてリスクが低い事象であるので、情報交換会開催のベネフィットを勘案して、開催したらどうかと提案しました。せいぜい40数人の催しですからね。しかし、万一発症者が出た場合、開催者が社会的な指弾を受けるのは目に見えている。大学が記者会見を行う事態にまで発展することが懸念される、ということで中止となりました。仲間と飲みに行けるので、中止は構わないのですが、科学者としてはどうなんやろか、という思いが消えません。リスクはゼロにはなりませんが、参加者からのコロナウィルス感染の可能性は十分低いと思われます。コロナウィルスはもともとローカルなものですが、その広域化はグローバルな人の移動を可能にした近代文明がもたらしたものでもあるわけです。近代文明のベネフィットを享受しながら、低リスク事象には過度な対応をしないということ(正しく恐れること)が近代文明人ではないかなと思うわけです。低リスクの事象にどう対応すべきかという課題には社会的なコンセンサスはまだないと思われます。それは社会のあり方でもあり、そこで社会における科学の役割も問われているはずです。しかし、科学者の集まりで“足を引っ張る社会”のことを過度に恐れるのはどうなのだろうか。科学者としての矜持は何なのだろうか。私は合意形成には科学的合理性だけではだめで、共感と理念が必要ということは常々申しているところですが、世間の評判やお上の仕打ちを気にすることは共感や理念を共有しているということではないと思います。気になることは、リスク論を主張しても大学は聞いてくれない、というあきらめが聞こえたことです。大学はそれほど劣化してしまったのか。科学者も支配-被支配のエラルキーに完全に埋め込まれてしまったのか。大学の研究者である意味は何なのか。コロナウィルスは考えさせてくれますが、私が研究者として幸せな人生を送ったということなのかなぁ。今の研究者はお上を気にしないと生き残れないのか。そうだとしたら、そんな世の中を変えなければあきまへん。(2020年2月17日)

“科学者”の苦悩

フクシマに関連して、また“科学者”の冷たい言葉を聞いてしまった。原発事故後、“人文系”の研究者が原子力について語り出したのがおかしいと(言外の意味を含めて)。でも、それは当たり前です。解くべき課題が出現したときに、必要とあれば勉強するのが研究者だから。邦訳したIAEA(2006)の報告書(キルナの山内正敏先生のご尽力によるもの)は200部以上、福島に届けましたが、それを読み込んで自身の諒解を創りあげた(研究者ではない)方々はたくさんいました。チームを組んで問題に対峙した研究者もいます(まさに超学際です)。自身の意識世界の中でしか語れないとしたら、それは悲しい“科学者”の性ですが、背景には評価社会の負の側面がある。自分の研究を極めながらも、幅広い視野を持ち、世界の中に自身を位置づけ、暮らしていける社会を創らなければならないが、そのためにも人の考え方について議論を深める必要がある。そうすることで“科学者”を苦悩から解放することができるのではないか。来月には地球研と共催で、この課題を議論する研究会を開催する予定です。(2020年1月28日)

大寒

今日は大寒なのだが、何となく春のような雰囲気だ。こんな日は、千葉の冬はいいもんだとしみじみ思う。晴れ渡った青空の下、空気はひんやりしているが、日差しは暖かい。こんな時はのんびり日向ぼっこでもしながら本を読んで過ごしたいものだ。それが無事(こともなし)ということで、幸せということだと思う。とはいえ、“こと”はたくさん存在し、とても無事といえる状況にはない。歳をとったせいか、安穏な暮らしを求める欲求は日増しに高まっている。それを妨げる仕組みに対しては何とかしてやろうという下心はあるのだが。(2020年1月20日)

人類を愛する人間嫌い

朝日朝刊「日曜に想う」(福島申二)から。この言葉はポストガルのフェルナンド・ペソアの書物に出てくるという。また、米国のエリック・ホッファーはこう言っているそうだ。「人類を全体として愛することのほうが、隣人を愛することよりも容易である」。これは自分でもよく感じることである。自分の行為を美しい言葉で飾っても、いやな奴はいやなものである。もともと人付き合いは苦手な質なので、なかなか心底「人間好き」にはなれないのだと思ってる。でも、好きなのかも知れない、と複雑な思いなのである。いやな奴にも事情はある。それをどう理解し、かつ自分を保つことができるか。そこが大切なのだろう。(2020年1月19日)

妖精さん

最近よく聞く言葉である。朝日朝刊の記事。働かない中高年のことであるが、世の中には「妖精さん」(と見なされている方々)がたくさんいるようだ。若い人にありがちな見方であると思うが、それは現代社会を時間軸でとらえていないということではないだろうか。歴史と空間の中で現在を理解すれば「妖精さん」の見方も変わってくるし、「妖精さん」の力を発揮できる職場に変えることもできるのではないか。さて、私は「妖精さん」だろうか。論文数や獲得予算至上主義の大学の世界ではそうなっちゃうかもしれないなぁと思う。しかし、現代社会における大学の位置づけや社会に対する考え方は持っていると思う。私が「妖精さん」だとすると、そう思う方々はおそらく時代錯誤の渦中にいると言ってやりたいなぁ。いるかどうかは解らないが。そんな私の思いは結構伝わっているのかもしれない。だから、最近の仕事の質は昔と完全に変わってきた。国立大学人は大学だけでなく、社会と雇用契約を結んでいるのである。これを忘れると「妖精さん」になってしまうのだろう。(2020年1月19日)

選抜のあり方と社会の変革

最後のセンター試験が始まった。大学で学ぶ力は自分で考える力である。だから、大学入学時に考える力を試さなければならないのか(だから新テストが必要なのか)。それとも、大学で考える力を養わなければならないのか。しかし、現実では考えることが習慣づけられていない若者が増えている。その結果、大学における指導のあり方が子ども相手になってしまっている。一番良い方向は社会が多様な人を受け入れるように変わることである。大学をドロップアウトしても受け入れられる場所がある社会。しかし、現在の社会はそうなっていない。だから新テストが必要なのか。ただし、少子化は進んでいる。大学全入時代では新テストになっても同じではないか。上位の大学は改善されるかもしれないが。負のスパイラルを断ち切るにはどうすればよいか。やはり、社会を変えることだろうか。困難なことではあるが、SDGsの目標でもあると思う。(2020年1月18日)

書評の重要性

ある会議で京都にいる。研究評価では、理系は論文、文系は本が重要という考え方は共有されていると思うが、本の場合には書評が重んじられるのだそうだ。言われてみるとその通りだなと思う。環境社会学会では書評が重要な位置づけにあるなと感じていたが、そういうわけだったのか。本は勝手に書ける。でもきちんとした書評があるかどうかでその主張の価値がオーソライズされる。(2020年1月16日)

平家物語から学ぶ

連休は子供らの引っ越しで大忙しであった。少しは仕事もせにゃあかんと資料をたくさん持ち帰ったが、あまりできなかった。というのも注文していた「平家物語」(木村耕一による新意訳)が届いたので、一気に読んでしまったこともある。小学生でも読めると思われるルビ付き、平易な文章であるが、登場人物の心情がきめ細かく描写されている。なぜ人は争わなければならないのか。永く続く平安はどうすれば実現できるのか。自分なりに、おおいに教訓を得たところである。あらためて思うが、自分は中央の貴族よりも、地方豪族(現代だったら一市民でよし)として生きるのが性に合っている。(2020年1月13日)

大学の機能

こんな発言を聞いた。「Hインデックスがゼロということだ。大学教授としてやっていけるのか」。すなわち、英語の論文がないということ。インデックスの数値で競争することを是とする態度、英語で発信しなければ価値がないとする考え方。完全に否定するわけではないが、大学の機能は個人がエリートになることだけではないだろう。こんなことでは大学と社会の分断が大きくなるばかりだ。日本は定常ないし縮退社会に入った。この段階では、大学人は「社会の中の科学、社会のための科学」の実現を目指さなければあかんと考えている。まず分野ごとの考え方を尊重し、科学と社会のあり方の向上を考えること。成長を夢見るだけの社会に流されていると、大学だけではなく、日本が滅ぶぞ。大学の機能も時代とともに変わるということを認識せにゃあかん。(2020年1月10日)

年寄りのうざさ

若い頃は年寄り先生が一生懸命自身の主張をぶつけてくるのを、うざいなぁ、と思っていたが、今の自分がそうなっている。職場の賀詞交換会の〆の挨拶で、これからは地域の時代だ、なんて主張してしまった。こんなめでたい席では、皆さんにはどうでも良いことかも知れません。でも、言いたくなってしまうんだよな。それは、いつも考え続けているからだろうか。年寄り先生の話も、ずっと考え続けてきたことなのだったと思う。考え続けていると、確実に思考は深まっていく。そうすると、確認したくなってしまうのだ。だから、年寄りはうざくなる。(2020年1月8日)

科学知の分断

学会誌を眺めていてふと思う。ある分野では社会実装の段階にあるものが、別の分野では発見とされることがある。これは分野間の断絶ともいえ、既存の知識に基づき新しい知識が生まれるというプロセスの機能不全が生じている。一方、同じ分野でも古い研究が忘れられ、繰り返しが起こることもある。科学知のスパイラルがあるのかどうかをシニアは吟味する必要がある。昨今は論文数だけでなく、分野の細分化も進み、分野の数も増えてきた。シャープな分野の中にいると、論文は書けるかも知れないが、その分野が衰退すれば専門家といえどもただの人になる。だから、その分野集団では、その分野が重要ということになったか、優れていることになったか、という作業に明け暮れるようになる。これが現在の科学の姿ではないだろうか。科学は衰退に向かっているのか。(2020年1月6日)

結び合う社会のなかの“人”と近代社会のなかの“人々”

あっという間に正月休みが終わってしまった。たくさん仕事を持ち帰ったのだが、あまりできなかった。“自分”の仕事は多少できたが、“人々”のための仕事が手につかなかった。この“人々”というのはここでは顔の見えない集団の中の人々ということ。できなかったのは集団のひとりとしての仕事で、自分がやらなければ誰かがやる仕事。内山節によると、共同体の結び合う社会のなかには“人々”は存在しない。顔が見え、名前を知っているので、何があっても個別に対応できる。人間を集合的に、数量でとらえる社会の中で“人々”が発生したという。その社会が国民国家を生み出した近代社会である。近代社会のイメージの中に個々の人間は埋没し、顔が見えなくなる。このイメージの中に人々を包み込んでいくために“進歩”という概念が必要だった。もう“進歩”など気にせずに、人が個として充実して生きることができる社会にしたいものじゃ。参考文献は内山節「新・幸福論-近現代の次に来るもの」(新潮選書)。(2020年1月5日)

気候変動対策と哲学

正月は平家物語を読みたいと思っていたのだが、年末に書店で見つけることができず、Honyaclubで発注。新年の楽しみとする。その代わりではないのだが、読みかけていた「気候変動政策の社会学」(長谷川・品田編)をようやく読み切った。環境社会学が気候変動に取り組んでいないなんて、とんでもない。すばらしい仕事をしている。気候変動(日本で“地球温暖化”が浸透しているのは環境省の縄張り政策によるという)対策に対して世界、そして日本がどういう状況にあるのかがよくわかった。日本という国は現状の中で折り合いを付けようとする社会であり、私もその考え方は共有しているのであるが、気候変動という世界的な課題に対しては、世界と日本の状況の十分な分析を前提として、うまくやる、という姿勢が必要だ。しかし、それが日本の不得手なところでもある。その理由は日本人の意識世界が狭くなっているところにあると思う。世界の中で肩肘を張って満足するだけではなく、日本のやり方を堂々と世界で説明できるようじゃないとダメだな。ハザードの脅威を騒ぎ立てるだけではもっとダメなのだが、根本にある、この世界をどうしたいのかという哲学のなさ、あるいは勘違い、が最も問題なのだと思う。とはいえ、哲学は巷のあちこちに顔を出しているので、それを育てていく活動が今年の課題である。(2020年1月4日)

あきらめる人生と、食らいつく人生

元旦の朝日朝刊にあった西武とSOGOの広告はすごい。逆転して読むと状況は一変する。下の文章は広告にあった文章を下から上に並べ替えたもの。ひまな方は下からも読んでください。

土俵際、もはや絶体絶命。
わたしはただ、為す術もなく押し込まれる。
勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。
しかし、そんな考え方は馬鹿げている。
今こそ自分を貫くときだ。
誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え。
小さな者でも大きな相手に立ち向かえ。
それでも人々は無責任に言うだろう。
どうせ奇跡なんて起こらない。
わたしは、その言葉を信じない。
大逆転は起こりうる。

あきらめる人生と、食らいつく人生。その先は同じかも知れない。しかし、あきらめない人生にのみチャンスがやってくる。今年も大相撲では炎鵬を応援したい。いつか最後が必ずやってくるに違いないが、それまでの生き様が多くの人生を励ますことになるのだろう。(2020年1月1日)

人の迷惑

先の対談の中で福岡伸一氏がこんなことを言っている。ジャレド・ダイアモンド氏と話したとき、こういうことを聞いたそうだ。どの民族にも例えば「殺すな、盗むな、うそをつくな」という戒めは共通してあるけれど、「他人に迷惑をかけるな」という戒めを重視する民族は日本人だけである、と。この欄の2019年最後の書き込みで「主張を強くし、実践を伴うようになると、誰かに迷惑をかけることになる」と書いたが、それは均質な社会に身を置いたことで形成された習慣といえるだろうか。日本的なありさまだと思うが、欧米では信を通すということと、責任をとるということが同一ということなのではないか。日本は責任が曖昧になる社会なので、主張に実行が伴わなくなる。自分にもそれが身についてしまっているのかと改めて思う。さて、どうすべ。(2020年1月1日) 

エンパシー(empathy)

私は諒解形成には共感、理念、合理性の3点が必要と主張しているのであるが、このうちの共感はシンパシー(sympathy)と英訳してきた。元日の朝日朝刊、ブレイディーみかこ氏と福岡伸一氏の対談の中で、エンパシー(empathy)という言葉が出てきた。みかこ氏によるとエンパシーは“他者の立場を想像して、理解しようとする自発的で知的な作業”。私の共感は福島で帰還を志す人々の姿勢に感動したこと、阿武隈の土地を回復するという共通の目的を持ったことから生まれてきたもので、エンパシーと言って良いと思う。土地を追われた人が“かわいそう”といった感情ではなく、阿武隈の土地を愛でる心をむしろ“うらやましい”と感じ、同じ方向を見つめることができた。これがエンパシーというものだろう。これからは共感にはempathyの英訳を使うことにする。(2020年1月1日)

新年のご挨拶

とうとう2020年がやってきました。子供の頃は21世紀なんてずっと先のことだと思っていましたが、すでに1/5が過ぎてしまいました。今年も年賀状は書きませんでしたが、ご無礼をどうかご容赦ください。毎年、正月のゆったりした気分の中で書きたいと思っているのですが、正月といえども頭が切り替えられない状況が続いています。時間が無いというわけではないのでしょうが、これはまさに性格であり、自業自得であり、個性なのかも知れません。他人というのは恋しくもあり、煩わしくもあり、不思議な存在です。それでも自分は人間が好きなのだと思います。矛盾した気持ちの中でまた2020年を過ごしていくことになると思います。(2020年1月1日)


2019年12月までの書き込み