口は禍の門

いつも悶々としながら日常を過ごし、乗り越えられないまま、いつの間にか年末になる。性格だからしょうがないのだが、このパターンはいつまで続くのだろうか。あと3年で定年を迎えるが、その時はすべての迷いから解き放たれ、新しい世界に向かって羽ばたくことができるだろうか。そのためにはそろそろ離陸準備、いやワープ準備を始めねばなるまい。とはいえ、組織のしがらみの中にいる身としてはなかなか難しいことでもある。雑用、すなわち自分の意思と裏腹の仕事に弱いのである。主張を強くし、実践を伴うようになると、誰かに迷惑をかけることになるが、それは他の多くの人々の幸せになるかも。そう信じることが大切だろうか。人生の残りも少ないので、信じて進み、ダメだったら、こりゃまた失礼しました、ってのもありかなぁと思う年の瀬。(2019年12月31日)

最近、"老いた"が口癖になった。還暦をとうに過ぎて、身体が弱っているが、精神も弱っているようである。その理由に恐らく研究をやりたいという気持ちと、もう様々な事情でできないという諦めの間の葛藤がある。さらに、学生とも世代間格差が大きくなり、おやじの説教は押しつけに過ぎないのではないかという恐れもある。一方で、歳を重ねたのだから若い頃と同じではいかんという思いもある。いろいろな"もの"、"こと"に関わることにより考えることが増えてきた。頭がすでに飽和状態にあり、爆発しそうである。しかし、考えるということがおもしろいのである。世界平和なんてことも我がこととして考えることができる歳になったということ。それも味わい深いのだが、組織は型にはまった大学人を演じることを強要するのだ。(2019年10月1日)

令和元年の後半の初日はブルーマンデーで始まった。しかも雨。大学に向かう車の中でたまたま聴いたのがTHE ALFEEの「今日のつづきが未来になる」。高見沢君の作詞、作曲。「昨日のつづきが今日になり/今日のつづきが明日になる/そんな事の繰り返しが人生という旅」。なかなか良い曲である。「昨日のつづきが現在(イマ)になり/今日のつづきが未来(ミライ)になる/当たり前の素晴らしい一日」と続く。その通りですじゃ、高見沢君。今日をよく生きれば、未来もよくなるのだ。永遠に続く成長など望まなくてもよいのだよ。意味のわからない評価のために、心身をすり減らすことはないのだ。幸せはすぐそこにある。でも、その幸せに気がつくことができない人がいる。そっと教えてあげるのが私たちの仕事であると思う。(2019年7月1日)

2019年6月までの書き込み


現実と現場からの孤立

ジャーナリストの内田道雄の2冊の本を読み終えた。最初に読んだものが、「燃える森に生きる」、次が「サラワクの風」。前者は2000年代の取材で、スマトラのリアウ州における熱帯林の中の暮らしをルポしたもの。副題に「紙と油に消える熱帯林」とあるように、熱帯林の伐採の元凶であるパルプ産業、パームオイル産業と現場の人々の相克を描いたもの。後者は90年代に取材したボルネオの熱帯雨林の現状を報告したもの。ここにも現地の住民と外部の資本との間の相克がある。熱帯雨林は研究の対象としても魅力的で、たくさんの論文がある。現場とは対峙せず、無機質な数字が結論となるもの、環境変化の人間的側面を明らかにするもの、環境変化の現場の住民の暮らしのありさまを記述するもの。そして住民の苦悩をあぶりだすもの。同じ対象を扱っていても、調査者により見えている光景は大分異なる。現場は多様で複雑なものではあるが、それを読み解くのはそんなに難しいことではないのではないか。ステークホルダーのあり方、特にその階層性を理解し、ステークホルダーの意識世界を想像し、複合的視点から現場を捉えるように試みれば、案外見えてくるものだと私は思っている。それがうまくいっていないとすると、研究者の世界が現実と現場から孤立してしまっていることが理由ではないだろうか。(2019年12月31日)

評価の哲学

昨日で御用納めでしたが、東京で会議だったので今日は出勤し、仕事の材料をたくさん持ち帰りました。新年早々の〆切仕事がいくつかあるので、正月は休むなと言われているようなもの。大学人は職場の仕事以外にも、行政や学会など複数の責任母体があるので自業自得とあきらめるざるを得まい。帰宅し、さっそく書類を読み始めるが、ふと気が付く。顔の見えないトップレベルの依頼主の評価に対する基本的な考え方、あるいは指示の背後にある哲学が不明であり、いつの間にか、お上向けの評価と学問としての本質的な評価を切り分け、どう折り合いを付けるか、なんて考えてしまっている。これはお上の方針を了承していないということ、お上を信頼していないということでもある。トップレベルの責任機関であれば、評価は画一的な指標ではなく本質を見極めようとする姿勢が必要である。言いたいことは学問には異なる様式があるということである。それは、一本道の学問と、混沌の中から光を見出そうとする学問である。環境学は後者なのである。評価者は具体的な成果の前に、前提となる考え方、すなわち研究の哲学を読み取ろうとしなければならない。研究の哲学と評価の哲学が相互作用するところに日本の学問の発展がある。いや、そこにしかないのだが、学問の評価が就職の評価と同じになってしまっている。(2019年12月28日)

ローカルな営みからグローバルへ

言っちゃいました。(学術会議の)フューチャー・アースはスマートなんです。大学の現場では、それが研究プログラムなのか、課題解決を目指す活動なのか、とまどいがあります。課題解決が目的ならば、それはローカルな営みになります(そんなスマートではない)。ローカルな営みでも、それらを集めて、メタ解析や比較研究を行うことによって、より上位の概念に進むことができます。それがローカルとグローバルを繋ぐことなんです、と。来年はローカルな営みを重視しようかという流れになったので、少しは機能したのかも知れません。現実には、この世界をどのように見るのか、という哲学の議論が進んでいないことが問題なのだと思います。グローバルというなんとなく格好いい概念に駆動されているエリート・サイエンスではフューチャー・アースは達成できないのではないか。こんなことを言っていると責任が降りかかってくるかも知れません。でも、グローバルとか世界といったことは他の方にお任せしたい。私はローカルな世界に没頭したいと思います。中央の貴族ではなく、地方豪族として役割を全うしたいと思っています。(2019年12月27日)

哲学と現場

午後は台風19号に関するシンポジウムに参加しようと思いましたが、すでに満席とのこと。参加をキャンセルして大学に戻ることにしました。先日のフューチャー・アース日本サミットの後、「崩壊学」という本に関してMLで議論があったとのことですが、特に理由もなくMLに入っていなかったので転送してもらった文書を戻ってから読みました。内容は科学と社会の関係について、大変勉強になるものだったのですが、様々な書籍を引用して、哲学を語る内容は実に抽象的でややこしいものです。ただし、地球環境問題に関わる議論が抽象的になると、そこでは(未来ではなく)現在、(事実ではなく)真実、そして(グローバルではなく)地域といった観点がスポッと抜け落ちてしまうような気がします。哲学的議論より、まず“世界”をどう見るかという議論が必要なのではないかと思います。私は世界は多数の関係性(リンク)を持つ地域で構成されているという見方をとります。地域の事例をたくさん集めると、そこから比較研究、メタ解析が可能となり、環境のあり方、世界のあり方の関わる上位の概念に到達することができます。環境社会学や農村計画学ではワークショップが重要な方法論として確立しています。これはたくさんの地域で構成される世界を前提に、ワークショップでメタ解析を推進し、新たな上位概念を得ようとするものだと思う。一つの世界、物理がドライブするグローバルでは解らないことが多いのである。議論の内容をまだ完全に理解していないかも知れませんが、そこはあしからず。(2019年12月24日)

理工系の“世界”からの提言

今日は学術会議に向う途上、千代田線が止まってしまったのですが、鉄道路線図が頭に入っていないので迂回を失敗。大分時間がかかってしまった。都会はややこしい。遅れて着いた学術会議では地球惑星科学委員会から今期中に発出する提言に関する審議があったが、どうしても第三部(理工系)的な世界を感じてしまう。気候変動やそれに伴う災害、環境問題はいまや世界的な関心を集めている。第一部(人社系)に関わる学会等でも議論が始まり、大きな時代のうねりを感じる昨今であるが、どうしても“意識世界”の分断を感じてしまうのである。未来を語ることは美しいのだが、上から目線になりがちである。気候変動や環境問題に関して現在何が起きているのか、現在誰が何をやるべきなのか、あるいは現在誰が何をやっているのか、という観点が希薄なように感じる。基盤情報としての地球惑星科学の知識、智慧をどのように現場に実装するのか。どこかで人社系と理工系の協働を実現させなければならないと思うのだが、このままで分断はなかなか埋まらないように思う。発言したいなとは思ったのですが、両者の意識の溝は結構深いと思う。うじうじしているうちに時間が過ぎてしまいましたが、ボトムアップの活動を続けていきたいと思う。(2019年12月24日)

空気に流される“世界”

これから年末にかけて会議、シンポジウムが続く。気候変動も重要な課題になるので、いろいろ調べ物をしているところであるが、視野が広がることにより考え方が違ってきたものがいくつかある。現在、気候正義というと反対できない雰囲気があるが、正義というのは欧米思想ではないか。正義には悪がペアとしてくっついている。だから、欧米の物語は正義の勇者が悪を懲らしめるストーリーが多い。しかし、悪にも実は隠された事情がある。日本では寅さん的感覚で、あっちいって話を聞き、こっちでも話を聞いて、何となく折り合いを付けるというやり方がある。気候変動では今は石炭が悪になっているが、どうも過渡的技術として石炭火力もあって良いのではないかと思うようになった。効率の良い日本の石炭火力を海外に輸出できないとなると、そこには外国の効率の悪い火力が入る。それで良いのだろうか。輸出をやめるのであれば、相手国に再生可能エネルギーの導入を促さねばならない(これは竹内純子さんの意見から)。一方、再生可能エネルギーの実装にも困難はありそうである。ここは深く勉強しないと解らないところであるが、根本的に考えなければならないのは、我々がどのような社会をめざすかである。現在の都市型社会の持続発展を目指すのであれば、再生可能エネルギーの実装は難しいのかも知れない。しかし、力強い地域が集まった豊かな小国を目指すのであれば、地域循環型のエネルギー利用システムとして再生可能エネルギーは十分活用できるのではないか。グレタさんはがんばったけれど、世界が気候正義の空気に流されているような感じがする。実は、山本七平「空気の研究」を読みかけているところ。空気に流されるのは日本人だけではないようだ。(2019年12月17日)

外からの視線と内なる視線

今日は落ち着かない。それは17年以上一緒に暮らした黒丸が逝ってしまったから。黒丸と散歩した距離は恐らく日本列島の長さを超えるだろう。黒丸が寝たきりになって1年半、私も運動をしなくなってすっかり身体が衰えた。黒丸がいなくなった悲しみは私自身、それから家族が共有している。1匹の黒柴の命が尽きたことはこの世の中でひっそりと進行し、悲しみが外の世界と共有されることはないのであろう。それで良いのであるが、失われた命が災害によるものであったらと、ふと思う。月末に台風19号に関するシンポジウムが学術会議で開催されるのであるが、千葉県人としてはなぜ台風15号と、台風21号に伴う豪雨も入らないのかなと思う。それは台風19号の被害が広く、大きかったからであるが、それは外から災害を見る視線ではないかな。命が失われる、資産が失われるということの悲しみは災害の規模に関わらず同じである。それは内なる視線である。黒丸の死は内なる視線で見つめれば良い。では災害は。二つの視線を意識することが大切なのではないか。被災を人間的側面で捉える内なる視線。こういう災害学が必要なのではないか。(2019年12月11日)

人間というものの悲しさ

中村医師の遺体がふるさとに帰っていったという。中村さんの死は悲しみそのものであるが、同時に殺害された同行者の家族、友人にも悲しみが満ちあふれている。さらに、中村さんらを銃撃した人間もなんて悲しい存在なのだろうか。同じ悲しみはそこかしこにあふれている。悪人として断罪される人間のもつ悲しみを何とかしなければ、悲しみの連鎖は断ち切れないだろう。(2019年12月9日)

気候工学について想う-その2

気候工学が気になったので、天気に掲載された杉山他(2011)「気候工学(ジオエンジニアリング)」を見つけ出して、ざっと読んでみました。私の懸念はそこに概ね書かれており、ひとつの可能性としては気候工学は思考実験の対象になり得るかなとは思いますが、ひとつ強く思うのは、人の意識世界です。ひとは関係性を持つ範囲の中でその考え方を醸成していくわけですが、その意識世界の外側は必ず存在し、他のひとと交わらない部分が世界の大部分を占めていると考えられます。地球に関わる決断をなそうという場合は、まず世界というものを包括的に理解する必要があります。ひとつの意識世界で考えられたことが、ほかの世界と理念を共有し、共感を得られるわけではありません。となると、地球の将来を考えるためには、(狭義の理学的な)科学的合理性だけではなく、あらゆるステークホルダーの参加により地球のあり方を考える必要がありますが、それがSDGsではないのでしょうか。SDGsの達成こそ、人類の未来に課せられた試金石なのだと思う。(2019年12月9日)

気候工学について想う

今日は環境社会学会のシンポジウム「気候変動と専門家」を聴講してきました。意外に感じたことは環境社会学で気候工学を取り上げており、それが決して否定的に捉えられているわけではないということ。気候工学については私自身の勉強不足は認めざるを得ないのですが、そんなことが可能だとは今のところ思えないのです。それは、気候システム自体がまだよく解っていないことは、気候分野ではまだまだ論文競争が繰り広げられている状況からして明らかであり、定量的な影響評価はできないだろうと思うことが理由のひとつ。もう一つは一定の分解能でしか表現できないモデルで表される物理的な気候システムの応答と、人の暮らしの現場のスケールにおける複雑性、多様性の違いにもっと思いをはせるべきだと思うからです。地球の熱収支を変えるということは、単純なモデルの中では可能でしょうが、影響は地域性に応じて、地域ごとに異なる影響として現れます。その影響をまず予測し、それに対する対策をすべての地球市民が公平に負担を分け合って達成することは可能でしょうか。根本には人の地球観、世界観、自然観、社会観等の違いがあり、この部分を議論しなければ気候工学の可能性は議論できないと思います。シンポジウムの議論を聞いていると、まだまだ理工系と人社系の間の分断があるように思います。お互いがまだ解らんということですが、それを克服するフレームワークがトランスディシプリナリティーなのではなかったか。それには文理“連携”も含まれます。気候変動について“包括的”な議論を行うことができる枠組み作りをしなければあかんと思います。ところで、今日は開戦の日であるとともに、ジョン・レノンの命日。年ごとに話題が少なくなっているような気がします。(2019年12月8日)

マジョリティーとマイノリティー

どうも最近心身の状態の低迷期にはいっており、集中力を欠いた状態が続いている。理由はだいたいわかっており、人とはそんなに強いものではないので、しょうがないと割り切っているつもりである。先日、ラジオで聞き、頭に残っていることを書き留めておきたい。ジャーナリストの堀潤氏の取材によると、香港でデモをしている若者たちは、自分たちがマジョリティーなのかマイノリティーなのかよくわからないのだそうだ。しかし、区議会選挙で自分たちはマジョリティーであることが明らかになったわけである。渦中にいる時はなかなか自身の立場を冷静に判断することができないものである。私は社会における科学や科学者の役割について主張を強めているのであるが、それが理系の研究者一般の価値観や大学の管理運営のヒエラルキーから外れてしまっていることが、自分が感じる立場の不安定さにつながっているような気がする。しかし、自分がちょっと違うなぁと感じるマジョリティー(と私が思う)側の方々は、単に権力を持っているだけの"ストロング"・マイノリティーなのかも知れない。サイレント・マジョリティーはちゃんと自分の主張を聞いてくださっている。そんな気がするこの頃なのである。ただし、マジョリティーであることが分かってしまったら、その時が実は正念場である。次の行動が試されるわけであるから。(2019年12月1日)

事情学のすすめ

SDGsもずいぶん社会に浸透してきており、この調子で2030年の達成を目指したい。ただし、都会目線のSDGsには少し注意した方が良いと思います。世の中いろいろな問題があるが、実は様々な事情がある。その事情を深掘りして理解しないと真のSDGs達成は難しい。単純な言説はそのまま受け入れるのではなく、見えていない事情を探索する姿勢が必要だ。(2019年11月6日)

二地域居住の現実性

昨今は災害の話題が尽きないが、今朝もラジオで江戸川区の水害ハザードマップの話題。"ここにいてはダメです"、という江戸川区の水害・洪水・高潮ハザードマップであるが、ホームページには江戸川区の現状がわかりやすく説明されている。では、住民はどうしたらよいか。ふと思う。二地域居住は国土形成計画にも出てくる日本の政策でもあるが、いよいよ現実味を帯びてきたのではないか。普段から郊外にクラインガルテン、ダーチャのような別荘を持ち、都市と農村を行き来する習慣ができていれば、予測されたハザードに対応することができるだろう。社会もハザードに合わせて休業する習慣を持てれば、安心してハザードをやり過ごすことができる。二地域居住によって都市的世界観と農村的世界観が包摂されれば、新しい社会を生み出す原動力になるかも知れない。楽しい妄想であるが、実現させたいものだ。(2019年11月5日)

地域は地域が守る

台風19号では情報処理が追いつかず、氾濫情報がでなかったことが問題になっている(朝日朝刊より)。では、情報システムを強化すれば良いのだろうか。そういうことではないと思う。正確な情報が伝われば、(自分の安全・安心を他者に委託している)人は合理的に行動する訳ではないからである。ハザード情報を得たときに、自分で判断する力を付けることが重要である。避難指示を待つ必要はないのである。トップダウンの機能を強化するよりも、現場の情報を尊重し、優先順位を高めて、現場のある地域に伝達することを旨とするシステム作りが重要ではないかと思う。こう言うと、地域の予算不足、人材不足といった問題が必ず指摘されると思われる。上位の既得権益(予算の額や、執行の決定権など)を脅かすことにもなるので、強い反発が予想される。しかし、地域が強くなることこそが、災害に強くなるということである。高度管理型社会で、絶対失敗しない(ということになっている)上位下達システムを作っても、地域の安全は担保されない。地域は地域が守るという意識から、もう一度出発してはいかがだろうか。(2019年11月4日)

地域で暮らすということの意味

台風19号で堤防が決壊した河川の半数で浸水想定図がないことが指摘され、専門家も作成の対象を広げているというニュース(朝日朝刊から)。住民が的確に避難できなくなる可能性もあるということであるが、このことは住民が"自然と分断されている"ことを意味している。かつての社会では地域コミュニティーは地域の自然の営みの恵みと災いを経験知として身につけており、世代にわたって継承されてきた。今ではハザードから自分や家族を守る経験知や生活知が失われ、行政が"守り"を肩代わりさせられている。行政に安全を1か0で判断するように求め、失敗したら責め立てる。それではいかん。人は自分たちが暮らす地域の自然の営みを知らなければならない。それは地域の伝承や地形にちゃんと記憶されている。水害は川のそばで起きる、斜面災害は斜面の近くで起きる。水は低きにつき、流れには慣性がある、といった基本的な認識を持つこと。そうすると自然の営みに人が関わると災害になるということが実感できる。人と自然の関係性を理解していれば、防災や減災を達成することが可能になるのだよ。もう、"家に住む"ではなく"地域で暮らす"ということを真剣に考えようよ。そのための情報はちゃんと整備されているのですよ。(2019年11月3日)

トップダウン型の劣化

大学入学共通テストで予定していた英語の民間検定試験の導入見送りとのことであるが、その背景には何があるのだろうか。入試業務の現場と職階の上位にいる責任ある政策決定者が分断されていたことは確実。なぜ、分断が生じたか。トップは誠実に現場に対応してきたといえるだろうか。現場とは試験担当者と受験生を含む当事者である。トップは何のために仕事をしていたのか。自分の地位、名誉のためと言われてもしょうがないと思うが、外形的でないと評価されない文科省の習慣、表面的な批判社会が背景にあろう。職階のヒエラルキーに対応した実力が上位のものに備わっていないということもありそうである。これはトップダウン型のガバナンスの劣化といって良いだろう。もともと日本は"和を以て貴しとなす"の国。文科省だけではない。大学や民間企業においても様々な機能不全があちこちで顕れてきた現在、変革を本気で考えなければならない時が来たようである。強いものにしがみついて安心するのではなく、批判を過度に恐れるのではなく、個性と誇りが尊重される社会をつくりたいものだ。そうすると実力も身についてくるのだよ。(2019年11月2日)

情報化社会の盲点

情報化が進めば仕事は楽になると大方は思っているのではないか。しかし、実際はどうか。技術的には可能なことも、システムに情報が適切に供給されないと機能することはない。目的の異なる情報システムに個別に情報を入力する手間は並大抵のことではない。令和元年度教育研究活動評価の申告をしなければならないのであるが、本来は大学が個人情報を統合的に管理していれば数値的な項目の入力は自動的に行われ、人は創造的な成果のみ記入すれば良いはずである。現状を振り返るとそんな統合システムを構築することはひとの能力を超えているのではないかと思われる。となると情報システムはひとを楽にするシステムではない、ということになる。もし、そんなシステムができたとしても、それはちょっと怖い世界を想像させる。ひとの評価はひとに向き合い、十分話し合うことでしかできない。そこに信頼関係が生じれば、組織は良くなっていく。今のシステムでは信頼関係は生じない。だから、組織は衰退していく。(2019年10月31日)

連続する災害から考えたこと

今日は印旛沼流域環境・体験フェアの予定でしたが、昨日の大雨で準備ができず中止となってしまいました。大雨による氾濫も各地で発生していますが、私も西印旛沼周辺の状況を見てきました。その状況や、報道されている各地の状況から今後検討しなければならない事項について考えてみました。

①上流下流問題
 洪水時には支流は水門を閉じ、ポンプによって本流に排水するが、本流の危険度が増してきたときはポンプを止めるというルールがあるそうだ。しかし、担当者がポンプを止めずに避難した事例が埼玉であった。ポンプを止めれば支流側は内水氾濫の可能性が高まるわけであるので(実際に内水氾濫した)、苦渋の判断である。ルール通りに運用した場合、下流を守るために上流が犠牲になるということであるが、このことが地域で了解されているわけではない。今まで顕在化することは少なかったが、今後大規模な氾濫が頻発するようになると、地域における深刻な課題となると思われる。

②外部不経済の顕在化
 茂原の氾濫で気になったことは、この地域が地盤沈下地域であることである。九十九里地域では観測開始以来の積算沈下量が最大で1mに達している。治水安全度に対する影響は常に言われてきたが、定量化されてはいない。地盤沈下の原因は天然ガス鹹水の揚水であるが、地域の大切な産業でもある。地域が外部不経済を意識したときに、どのような折り合いをつけることができるだろうか。

③低地で暮らすということ
 各地で低地の氾濫が発生したが、都市域や都市の周縁部で被災している。低地に住む理由は何か、低地に住むということの意味を人は諒解して暮らしているのか。私は二つの検討課題があると思う。1) 土地条件と災害の関係が十分周知できていない。2)都市への集住を促す政策や社会の状況。1)は人の心理に関係するのだろう。情報は常に発信しているのだが、受け取る側が認識しないと伝わらない。災害を経ないと人の意識は変わらないものだろうか。ハザードマップの普及や、地理総合の必修化など、少しずつ進んでいくと思われる。ただし、"ふるさと"を慕い、諒解し、水害に適応して暮らすありかたは尊重しなければならない。2)は地方消滅論に代表されるように、人を都市に集住させ、経済成長を促すという政策があるかも知れない。これは農村的世界のあり方が視野に入っていない点に問題があると思う。私は国土のいろいろな場所に分散して暮らすことができる社会が今後の日本の一つのあり方と考えている。農村を強くしたい。

④短期的視点と長期的視点
 災害対策を行う場合、緊急時や復興時の対応と、長期的な対応は区別して取り組まなければならないと思う。今、目の前にある暮らしを回復するための対応と、将来にわたって安全・安心な地域をつくる対応では利害関係が変わることもある。現在が回復した後に、現在をベースにして、どのような未来を展望できるか、これが問われている。時代を読み、複合的な視点から国土の安全・安心に取り組まなければならない。

⑤被災と無事の境界
 自分の目では被災地域のほんの一部を見たに過ぎないが、水害は被災と無事の境界が明瞭であることを実感する。津波と同じである。この境界を人がどのように越えることができるのかが問われていると思う。以前は被災と無事の間の意識の分断が問題になった時期もあったが、少しずつ変わっているのかもしれない。助け合い、ボランティアの活動が昔より増えてきたような気がする。それは新しい社会の萌芽なのかもしれない。阪神大震災のボランティア、東日本大震災の寄り添い。ある出来事をきっかけにしてひとの心は変わっていくものなのだと思う。災害の記憶は失ってはいけない。

 ここに書いた内容は今の段階で感じたこと、思ったこと。今後の認識の深化に伴い、変わっていくかもしれません。(2019年10月26日)

価値の判断

今日は本部の会議があった。その中で、広報に関する事項があった。もっと積極的に広報しようね、でもちゃんとチェックして"可否の判断"をしようね、ということ。このことは何も問題は無いのですが、語呂で、"価値の判断"もあっていいかなぁと思いました。理学や工学では研究成果の広報の可否の判断において価値の判断は簡単だと思われます。しかし、環境学ではどうか。ある地域で、こんなことが分かりましたという成果は、大学にとって決してキャッチーな内容と認められることは現状ではないだろう。しかし、地域研究を集積し、メタ解析や比較研究をすることによって上位の認識を得た、上位の概念に到達したというニュースはキャッチーな記事として取り上げられるだろうか。研究の方法論や、成果の価値の捉え方について総合大学で議論できれば千葉大学は少し進化できるのではないだろうか。(2019年10月25日)

大学人の役割って

つくば市は規定上日帰り圏なのであるが、学会で議論しなければならないことがあるので理由書を書いて宿泊で申請した。しかし、真面目に書きすぎて宿泊が認められず、出張を取り下げた。それは、理由として学会運営と書いてしまったからであるが、学会運営は大学人の重要な役目ではないだろうか。新しく生産された知識を査読論文としてオーソライズするのが学会の役割である。論文数は大学人の評価基準で最も重要とされている。それでも学会運営を業務として出張できない。校費ではなく、使途指定なしの委任経理金で申請したのに。何となく腑に落ちないなぁ。(2019年10月25日)

乗り越えなければならない壁の高さ

先日、"あしながファミリー"について書きましたが、読み残していた前号から。今年度で大学を卒業し、社会人となる濱崎君。いろいろな経験を積んできた濱崎君ですが、「自分の中で整理しきれなかったことを、誰かに話すだけでこんなに楽になるんだ」。その通り、弱音だってはいていい。強く見せることなどないと思います。最近の学生は(という表現が習慣になってしまいましたが)、相談になかなかこない。個人の中で閉じてしまっており、外の世界のスタンダードを知ろうとしない。それが、研究や就職活動の不調とも関係しているのではないだろうか。話をしに来て欲しい。乗り越えなければならない壁を避けているうちに、壁がどんどん高くなってしまうぞ。小さな壁を乗り越える習慣がある学生は成長するが、それができない学生もおり、学生の二極化につながっているように見える。これは指導の問題ではなく、社会の問題であろう。日本はいい国になりすぎた。定常社会を迎えるに際して、社会の変革はどうしても必要である。放っておくと壁はどんどん高くなる。(2019年10月24日)

大学教員の役割

今秋も2年連続で卒論の配属希望者がおらず、少し気を遣っていただきましたが、私は構いません。永らく環境に関わり、様々な経験を積んできました。そこから生まれてきた、学生に伝えたいと強く思うことはあるのですが、理学の学生にとっては全く意識したことのない世界の話であり、晴天の霹靂なのではないだろうか。今の時代の"楽"の背後にある様々な事情を理解し、問題の解決に際して"自分もプレイヤーの一人である"という感覚を持ち、"専門分野で貢献できた"という実感を掴んでほしいと思うのですが、無理強いはできません。私も定年まで残り少ないので、そろそろ教育という生業も現場から離れて上位のレベルで機能してもいいのではないかと考えています。これも大学教員の一つのあり方ではないだろうか。その役割は年齢とともに変わって良い、いや変わらなければならないと思っています。(2019年10月23日)

幸せと平和に勝るものなし

「国民の幸せと世界の平和を常に願い、...」、新天皇のことば、とてもよいと思います。これに対して「世の中は複雑なんだよ」と心の中で舌打ちしている輩もいるのだろうか。グレタさんが言われちゃったように。もし、そんな輩がいるとしたら"力"を背景に、貨幣の増殖を目指し、そのために現場の真実を無視し、永遠の経済成長を妄想する方々であり、幸せや平和には無頓着な方々と言っちゃいましょう。幸せと平和に勝るものなし。でも、それを意識することも難しい。(2019年10月23日)

何のために大学へ

東日本大震災の時に、応用地学談話会の名目で、あしなが育英会に寄付をしてからずっとニュースレターを送っていただいている。その161号に会長の講演録がありますが、その中の文章を書き留めておきたい。前段の「コンプレックスはかわいい相棒だ」の部分も 心を打つのですが今回はその次の文章。

もうひとつ、「通っている大学の偏差値に囚われる必要はない」ということも伝えておきたい。卒業するとき、「私はこの問題を研究し、この知識を会得するために大学に行ったんだ」と胸を張って言えたら上々だ。どんな有名大学を出たって、これが言えない人間は山ほどいる。

国立大学出だから頭がよくて、社会で活躍できるわけではない。人間として学ぶべきことを身につけているかどうか、が問題なのである。何かを知りたい、自分で解きたいという強い思いが重要で、大学ではそれを実現する態度、習慣を身につけるのである。それが社会人として生きる力となる。私はこれこそが大学に行く目的だと考えているが、現在の大学では教員の強い思いを学生にダイレクトに伝えることが困難になっている。これも時代だと思うが、学びに対する学生の精神的態度が変わってきており、強い指導が困難になっている。その結果、少なからぬ学生から大学の存在がスルーされているように見える。学生にとって大学は消費するだけの存在になっている。もちろん、すべての学生がそうであるわけではないが、大学の存在意義を問い直す時期がやってきたと考えている。(2019年10月22日)

人生予定論

このところ心身ともに不調であり、気分が沈んだ状態が続いている。まあ、こういう性格であり、いつものことだからあまり心配しないでください。そんな状況でも底辺のギリギリのところで留まることができるという特徴を兼ね備えています。自分はなんとなく人生というのは最初から予定されており、自分ではどうしようもないものであるのですが、最後は良くなるのだという根拠のない信念があります。だから、災厄が起きても、何とかなる、しょうがない、というのが私の人生観となり、ギリギリのところで踏みとどまれるのだと思っている。私の人生を予定しているものは何だろうか。一神教の世界は自分には合わないので“神”とはあまり言いたくないのであるが、宇宙を支配する大きな意思というものはあるような気がする。それは“火の鳥”だろうか。手塚と同じ宇宙観を持っているとするとうれしいのだが、手塚の影響か。こんなことを言っていると、ばかばかしいと思われるかも知れませんが、こういう考え方が人生を少しでも楽にするのではないかと思います。(2019年10月21日)

災害のイメージ

台風19号による水害も、想定された場所で、想定された通りに発生したといえるようである。沖積低地は川が作った地形である。川の領域で暮らすということの諒解を形成する前に居住してしまったということが被災の悲壮感を高めている。川とともに暮らすということを諒解し、平穏時から氾濫に対する準備を行い、洪水時には粛々と対応し、氾濫を許してしまったら、しょうがないなとあきらめ、さあ次がんばろう、ということにならないものだろうか。報道も悲壮感を高める要因になっているように感じる。今の時代、人の気に障ることを言ったら徹底的にたたかれる。そうではなく、災害のイメージが形成される背景を理解し、未来に向けてもっと前向きな議論ができないものだろうか。まず議論を始めること。そうすれば低地に居住するということの背景に何があるかがわかる。恐らくそれは資本主義を背景に、都市域に人を集住させるように機能する政策があるのではないか。人が分散して、安全な場所で暮らすことができる社会もあってよい。災害のイメージも変わってくるはずである。(2019年10月15日)

家に住み、土地に暮らす

この二つの営みが分断されている。低地に暮らすということの諒解がないまま、家に住んでいることが災害の素因になっている。もちろん、個人的なものから社会のあり方まで様々な事情が背景にある。それを斟酌しながらも、長期的な視点で暮らしのあり方を問い直す必要がありそうだ。災害研究と計画学、社会学の協働を実現させなければならない。 (2019年10月14日)

災害の多発ーどうすればよいか

台風19号が過ぎた。今日は以前から予約していた車の定期点検のため近所のホンダで一服しながらこれを書いているが、各地の被災、受苦が同じ時間軸で生じていることが信じられない思いである。災害に多少とも関わっている研究者として、何をなすべきかについて発信しなければならないと常々考えている。それは、土地利用のあり方である。今回各地で浸水被害が生じたが、その根本的理由は川の領域に人が住んでいるからである。水害の危険性と常に隣り合わせなのであるが、そのことに対する諒解をどのように形成するかという課題である。その前に、なぜ川の領域に住まなければならないのか、という点を考察する必要がある。それは資本主義のもとで進む都市化であろう。東京の多摩川では東京大都市圏に吸引される人々の住宅や施設を川の脇につくらなければならなかった。地方では、少子高齢化、過疎、市町村の合併といった事情により低地の都市域に移住せざるを得ない事情があるだろう。すでに安全な土地は利用しつくされており、川の領域に住まざるを得ない、それを治水技術が後押しするが、それの限界も見えてきた。では、どうするか。具体的な土地利用計画の提案が必要なのであるが、この課題は社会と科学技術の関係の見直しであり、社会自体の組み替えになるのではないか。災害の頻発、SDGsの実現、機は熟してきたように思う。(2019年10月13日)

地形と水の正しい認識

台風19号が近づいているが、ネットでも災害関係の記事が多い。「土地の高さと川の水位だけではダメ!地形と水の流れを確認し、命を守れ」という橋本淳司氏。Yahooニュースから。地形と水の流れの関係を確認せよという指摘は全く正しい。災害に備える基本は誘因(ハザード)の理解だけではなく、素因に相当する土地の性質と少しの物理(水は低きにつく)を知り、災害を予見しておくことである。ただし、文章中にちょっと気になる点があったので、指摘しておきたい。「扇状地とは、狭い山間地を流れる川が平坦な土地に出た時、その流れが弱まることにより、運ばれてきた土砂が扇状に堆積してできた土地」。これは一般的に言われていることでもあるが、実はちょっと違う。山地から流れ出た川はそのままの勾配で扇状地に流れ出す。日本では山地から運び出される土砂が多いので、時々破堤し、様々な方向に土砂を供給する。その結果、長い年月の間に扇状の地形が形成されるというわけで、扇状地の洪水は大量の砂礫を含むことが特徴である。橋本氏は2015年の鬼怒川氾濫について「狭い範囲の流域に雨が降り続いた結果、土石流が川のように流れ出し、扇状地につくられた住宅に水が流れ込んだ」と述べている。被災地の常総市の地形は台地と低地で構成され、低地で氾濫が生じた。自然にできた砂丘を堤防代わりにしているところで越流し、その下流では破堤があったのだが、土石流ではなく、扇状地でもない。鬼怒川が氾濫を繰り返した時代の自然堤防が扇の形に見える場所もあるのだが、山麓に形成される扇状地とは成因が異なる。重要なことは川は平野を造るという川の生業を忘れてはいないということ。学者が小難しいことを言っていると思われるかもしれないが、地形の成因を知ることは、その場所で生じるハザードを予見することにつながる。だから、地形を正しく認識することが必要だと思う。(2019年10月12日)

判決と現実

東日本大震災の津波で犠牲になった大川小学校児童の遺族が市と県に損害賠償を求めた訴訟で、最高裁は市と県の上告を棄却し、大川小の事前防災不備が確定した(朝日朝刊より)。二審でも学校側には「地域住民よりはるかに高いレベルの知識や経験が求められる」との指摘があり、最高裁は「子どもの命を預かる学校に厳しい注意義務や防災対策を求める」こととなった。そこに否定すべき内容はないのであるが、現実には厳しい事情があるのではないか。行政は学校において判決の実践を可能にする施策を打ち出さなければならない。そのための仕組みはいろいろ考えられるが、実現のためには予算、人材のサポートが不可欠である。ぜひとも国は優先課題として取り組んでほしい。一方、現実を直視して、できることを考えなければならない。まず、住民の側も防災、減災をわがこと化してとらえる姿勢も必要だろう。学校に丸投げではなく、共に協力して考え、動く仕組みが必要である。また、小学校の教員はほとんどが文系であり、自然の仕組みに関する教育が難しいという現状も指摘されている。教員が総合力を持ち、地域の学校として教育に邁進できる体制をつくらなければならない。何よりも教員が誇りをもって安心して働ける学校でなければならない。とはいえ、このようなことを指摘することは実は簡単である。実現しなければ意味はないが、それは社会の仕組みの変革とも関わる。SDGsでは社会の変革を目指している。このことの意味は大きく、深く、人類に課せられたチャレンジなのだと思う。(2019年10月12日)

現場で感じる研究者の使命

三匹獅子舞を堪能した後、お世話になっている源勝さんのお宅で昼食を頂く。ご一緒させて頂いたのは双葉から来た方々。原発事故でふるさとを追われ、中間貯蔵施設で土地を奪われ、地区が分断された方々。中間貯蔵施設予定地には彼岸花があったのだが、それをここ山木屋に移植した。双葉と山木屋の交流は胸を打つものがあるが、いろいろお話を伺っていると胸に秘めた悔しさが伝わってくる。老いた私にできることは何か。それは原子力災害の意味を世界に向かって問い続けること。その役割は少しずつ果たしているといえるだろうか。主張の目的は最終的には現在の社会システムの組み替えになる。それはSDGsやFuture Earthの達成そのものでもある。研究者の使命は重いのだよ。彼岸花の満開はこれから。いずれこの彼岸花を株分けしてもらおうと思う。(2019年10月6日)

ふるさとの共有

前回山木屋に来たのは3月だったので、半年ぶり。最近は1年に2回のペースになってしまった。さみしいが時とともに役割は変わってくるので、しょうがないことでもある。今日は山木屋乙二地区にある八坂神社のお祭り。川俣町無形文化財でもある三匹獅子舞を見に来た。古い歴史があり、原発事故後途絶えていたが、2017年から復活している。獅子舞は迫力のあるものであったが、獅子を舞う子供が地区にいなくなり、継承が難しくなっているという。でも、大丈夫だろう。近隣に移住した子供たちにとっても山木屋が故郷であるという意識は確実に継承されている。世の中は変わりつつある。山村の暮らしの安心が脚光を浴びる日が必ず来る。それにしても地域のコミュニティーというのはいいものだと思う。原発事故を通して様々な葛藤を見てきた。人と人の関係に関するつらいことがあったことも知っているが、それでもふるさとを共有する人々が集まって語り、祈り、踊り、飲むことは素晴らしいことだと思う。(2019年10月6日)

変わらないものの中の安心

久しぶりに福島にいる。土曜なので早めに千葉を出て、夕方には福島に到着するようにしたのは目的がある。福島餃子とラーメンのうまい店を再訪することである。まず、福島駅東口からほど遠くない年季の入ったビルの1階にある"餃子会館"。そこには頑固そうな親父さんと奥さんが以前と同じ様相で店を切り盛りしている。餃子は円盤餃子ではないのだが、その場で包みながら焼いた餃子が一皿6個で、ニンニクはタレの小皿にのって出てくるのが特徴。早速、生ビールと餃子を注文。ここの餃子はジューシーで、数ある福島餃子の中で一番うまいと思う。二杯目は栄泉のコップ酒を注文。燗を付けてもらうが、アルミのチロリに酒を注ぎ、湯を注いだ中華鍋に入れて温める。コップに注がれ出てきた燗酒が何ともうまい。至福のひとときである。餃子会館はラーメンも絶品なのだが、ここはあえてすぐ近くの"丸信食堂"に移動。ここのラーメンは喜多方であろうか。ネギがたくさんのったシンプルな醤油味がうまいのである。福島の街は昔のままだった。昔と同じ人がいて、同じものが出てくる。これこそ安心というものではないだろうか。安心とは変わらないものの中にある。(2019年10月5日)

金のかからない研究

今朝のNHKニュースで、これからノーベル賞は出なくなるだろう、予算がないので、という特集をやっていた。日本にお金がないのはそういう時代になったのだから自明である。だからこそ、金のあまりかからない研究分野に注力して、世界トップを狙うという考え方があっても良いと思うが、こんな考え方はメジャーでは無いようである。ノーベル賞のような世界が賞賛する名誉を追い求めるのは高度経済成長の慣性から抜け出せない人の哀れな習慣に過ぎないのではないか。人と自然の関係性に関わる認識は金がなくても深める事ができ、この国のあり方に対する思想的基盤を提供し、世界のお手本になることができる。しかし、メジャーではないからといって弱いということではない。草の根の潮流は確かに感じることができる。大学こそ、社会の底層を流れる潮流を湧昇させ、ムーブメントにしていくことができる存在なのだが。(2019年10月4日)

環境保全に関わる営みの共有

今日は行政と東京湾岸の企業が締結している「環境の保全に関する細目協定」改定の基本方針に関する事前説明だったのですが、うっかり講義とダブルブッキングしてしまいました。たまたま講義が亥鼻キャンパスでしたので、時間をずらして頂き、私が県庁に出向くことができました。5年前に続く改定ですが、この間、大気環境、水環境は大分良くなり、いくつかの事項が現状に合わなくなってきたので文言を変えたり、新たに厳しい基準を設ける必要が出てきたものについては数値目標を変更する、といった説明を頂きました。ここで思います。研究者はこういった現場における努力をどれだけ知っているだろうか。科学的合理性に基づいて、あーせい、こーせいということは簡単です。あるいは、悲惨な未来を想定して、大変だとアピールすることも簡単です。では、今、誰が何をやったら良いのかということは意識世界の狭い研究者は言わないし、分からない。実践者は現場の市民であり、行政なのだということを改めて実感。一方で、現場に密着して問題の解決を図ろうという研究者もいるのであるが、研究者の間でも分断が進んでいるといえるかもしれないs。環境保全に関わる営みを共有するにはどうしたら良いだろうか。研究者の意識世界を広げれば良いのであるが、それを阻んでいるのが研究の評価主義、エリート主義なのではないか。(2019年10月3日)

真の評価とは

また今年も自己評価書を書かなければならない時期がやってきた。指定された項目について、与えられた基準に基づき、実績を数値化して合計点を出す。最高学府である大学がこんなことを続けているとは、何とも情けない。なぜなら、評点に対する思想、哲学がなく、一律に点数が割り当てられるということは、背後にある大学人の様々な営み、努力、犠牲、事情といったものが捨象されることを意味する。これは評価とは正反対の行為である。大学の活力が削がれるわけである。真の評価とは、個人あるいは組織に寄り添い、時間をかけて見続ける中で分かってくるものである。それは現実的には実施困難なことでもあるので、大学を復活させるには、まず評価自体をやめる必要があるのではないか。ただし、大学が社会からの信頼を得ていることが前提であるが、社会が正しく評価を行う力を持っているとは限らない。だからこそ、大学人には社会を変えることが求められているのだ。 (2019年10月3日)

地球温暖化問題の本質

スウェーデンのグレタさんの行動力、発信力は素晴らしい。「あなた方が話すことは、お金のことや永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり」とはその通り。資本主義の実体を理解し、地球温暖化問題の本質を見抜いている。まだ、16歳。これからいろいろなことを学びながら大人になってほしい。目に見えるものだけが世界ではない。見えないかもしれないが、様々な方法で低炭素社会を目指す動きが世界にはたくさんある。小さいかも知れないが、いずれ大きくなるうねりを見つけて欲しい。低炭素社会とは何か。それは単にCO2の放出が少ない社会という意味だけではない。気候変動だけが問題なわけではなく、考え方の中に持続可能社会のあり方が含まれているのだ。低炭素社会を科学技術で達成するか(グレタさんは無理と考えているようであるが、私もそう思う)、暮らしのあり方で達成するか、様々な考え方がある。強さを誇示しなければ不安でたまらない世界か、信頼の元で安心して暮らせる世界か、どちらが良いか。未来に対する人類の選択なのである。だから、世界をしっかり見て、聞いて、感じて、考え、主張を続けてほしい。(2019年9月26日)

壮大な無駄遣い

浜岡原発のオフサイトセンターを訪問した。立派な施設であるが、日本にとって必要な施設か、壮大な無駄使いか。それは我々がどのような社会をめざすのか、によって変わってくる。 原子力発電の仕組みを皆が知り、そのベネフィットとリスクを理解し、両者を分断させない社会であれば、コストのかかる高度管理型の設備があっても良い。しかし、ベネフィットのみを受け、リスクには無頓着なままであるならば、原子力発電はやめた方が良い。それは都市と地方のあり方とも関係する。都市のベネフィットが地方のリスクになってはいけない。緊張のシステムで社会を作り上げるのか(それは日本人が真の近代文明人であることが前提である)、あるいは共貧のシステムによる社会を目指すのか、さらには両者を共存させる社会の仕組みはあり得るのか。確実に言えることはリスクとベネフィットを分断させている日本人が未だ近代文明人とは言えないことである。となると、原発とセットでオフサイトセンターも壮大な無駄遣いと言えるのではないか。(2019年9月25日)

公害の現実のわがこと化

新潟で学会があったので、新潟水俣病資料館を訪問した。公害の現場で当時の有様を想う行為が、かつて確実に存在した歴史をわがこと化するために必要だと思うので。一番印象に残るのは、被災者の語る言葉です。想像を絶する辛苦を経験してきたはずなのに、日本人はやさしいなと思う。その受容的な態度は和辻哲朗の言うところのモンスーンの民のものであろうか。現実を諒解した者が語り部としての役割を果たしている。そこには農産漁村の精神があるのかもしれない。かつて日本人は先祖から自分、そして子孫につながる時間の中で命をとらえてきた。二度と過ちを繰り返さないことが担保され、安穏な暮らしを子孫に残すことができれば自分の辛苦も諒解できる精神的風土があるのである。しかし、この時間と魂のつながりは近代化、都市化の中で絶たれつつある。悲惨な公害が都市的世界の中で起きれば、怒り、恨みは永遠に持続することになるだろう。都会では他人を許せる関係性が分断されているから。しかし、許せなければ苦しみからは解放されない。公害の原因者は二度と公害を繰り返さない思いを強くしなければならない。その先にある社会のあり方を我々は考えなければならないのであるが、グローバル社会からの様々な圧力は抗しがたい力を持っている。どうしたらよいか。地域の力を強化し、同時に地域と地域、地域と世界との関係性を構築することが一歩なのではないかと思う。(2019年9月21日)

権威主義は「違い」を嫌う

先日開催された水文・水資源学会大会を巡って、MLに「分野の細分化と分野内の等質化が進んでいるように見える」と投げてしまいました。学際性が弱まっているではないかという主張なのですが、だいそれたことを発信してしまいました。敬老の日の今日、部屋を整理していたら、後で読もうとしまってあった新聞を発見。8月22日の朝日朝刊、豊永郁子さんの政治季評でタイトルは「「違い」を嫌う権威主義者」。トランプ大統領を支持しているのは実は権威主義者であり、権威主義者とは「一つであること、同じであること」を求め、「違い」を嫌い、多様性が苦手な者。それがトランプ大統領と支持者の考え方、行為を説明できるという。冒頭で述べた研究分野の状況は権威主義と通じるところがあるだろうか。等質の分野の中にいる研究者が学際を意識しないのは当然である。研究者の権威主義はエリートを生み出しますが、等質の集団の本質は案外弱いものです。環境を扱う研究者はエリートの側にいてはだめで、あらゆる違いを見つける努力をしなければいけません。(2019年9月16日)

専門家と一門家

久々に「折々のことば」(鷲田清一)から。芸に関する話ですが、三波春夫曰く、「あらゆることを勉強して一つのものを完成したというのが、本当の専門家だ」と。これを受けて、作家の荻野アンナが「いまは「千門家」じゃなく「一門家」になっているんですね」と。鷲田は専門家の「栄養」不足とスコープの狭さを改めて思うのであるが、これは研究者にも通じるところがある。特に環境をやっているという研究者は、環境が人と自然が相互作用する外界であることを十分認識し、あらゆることを調べて、"ひと"の本質の理解に基づく環境研究を進めてもらいたいものだと思う。(2019年9月15日)

新しい価値の創造-その2-

今日は千葉県環境審議会総会が10時から予定されていたのですが、台風15号の直撃を受け、参集が厳しい状況になっていたところ、7時半頃中止の連絡が来ました。生活環境部の担当者は大変だったなと思いますが、感謝です。メールという文明の利器がその価値を発揮したと言えます。今、電車は京成、JRすべて止まっており、人の移動は完璧に断たれています。県の職員も出勤不能な状況になっているのですが、このような状況の中、千葉県の河川や災害の担当者は昨晩から徹夜で警戒に当たっていると思います。もちろん、消防や警察も。そんな社会を支える縁の下の力持ちのことを忘れてはいけないと改めて思う。ハザード襲来は予測されているのだから、仕事は休んだほうが良い、なんて主張も結局誰かの苦労の上に成り立っている。今は自宅で天気の様子見をしていますが、会議が中止になっても後の調整が難しくなってしまうだろう。会社を休むと誰かのクレームが飛んでくるかも知れない。もっとゆったりと生きることができる社会に向けて変革を進めるために、新しい価値の創造が必要だと改めて思う。(2019年9月9日)

新しい価値の創造

朝日朝刊一面に「AI支配、大半が『無用者階級』に」という記事。AIとバイオテクノロジーの力で一握りのエリート層が、大半の人類をユースレスクラスとして支配するかも、というヘブライ大学のハラリ氏の警告であるが、さて、それはあり得るだろうか。ハラリ氏はイスラエルの民であるが、背後に沙漠の思想、唯一神の思想はないだろうか。それは資本主義の考え方とも通じる。人はそんなに愚かで無知蒙昧の民ではない。社会が暴走を始めたときに、草の根の民は新しい価値の創造に向かうはず。その一つがSDGsなのではないか。今日は学術会議のシンポジウム「Future Earthと学校教育」に参加してきた。ESDは今の社会の現実の課題を認識する学びであり、教育の目的はこれまでの自己実現から協働、共生、共創へと変遷しており、それは地域からの発信であるが地球規模へのブリッジである。こんな風に聞いてきましたが、まさに新しい価値の創造である。保守的な政治に対抗してESDは闘えるか、という質問もあったが、それが未来を創るのであれば、闘わざるを得ないのではないだろうか。何もせずに「無用者階級」に墜ちていくことを教育は阻止できる。 (2019年9月8日)

防災の日

今日は大正関東大震災の記憶を繋ぎ、災害に備える心構えを確認する日なのだが、朝日朝刊では記事が無いようである。自然災害は日常茶飯になっており、現在も災害は進行中ですので記事としての目新しさはないということだろう。もはや、災害に備えることは当たり前となっているので、その先を考えないといけない段階にあるということでもある。では、どうすれば良いのか。研究者の立場からまずやるべきことは「人と自然の関係性の回復」であるが、それは教育が重要な手段になるだろう。もうひとつは自然の機能を活かしながら、安全・安心を確保する土地利用のあり方を提案することである。それは未来の都市計画、農村計画を描くことであるが、安全は諒解に過ぎない場合もあり得る。また、このことは日本の社会のあり方を問うことにもなる。土地は決して公平に与えられているわけではないので、不公平を社会で分担する社会になれば良い。それはどのような社会か。未来を語るためには哲学や価値が必要なのだ。研究者も視野を広くして、次世代のために協働する時代になったのだ。(2019年9月1日)

戦後74年

今日は終戦記念日。あるいは敗戦記念日。戦後74年経つのだが、まだまだ太平洋戦争は歴史にはなっていない。政治的には終わっている。しかし、戦争によって大きな傷を負った人々にとっては終わっていないのだろう。それは日本の公害の歴史を振り返ればわかる。日本の4大公害病で合意が形成されたのはイタイイタイ病だけで、そのほかの公害病は未だ係争中である。イタイイタイ病でも当事者たちにとっては合意形成は単なる諒解に過ぎず、それは苦渋の選択であったに違いない。同じ事は原子力災害についても同様である。賠償金が支払われて、避難解除されて、表向きは解決だが、被災者たちが失ったものはあまりにも大きい。受苦に対して、関係性を持つ我々はどのように報いたら良いのか。答えはない、あるいはひとつではない。考え続けることが必要である。(2019年8月15日)

地上の星-再来

引き続き、羽生・佐々木・福永編著「やま・かわ・うみの知をつなぐ-東北における在来知と環境教育の現在」(東海大学出版部)を読み始める。これも大分前に購入したもの。「はじめに」の章でこの本の元になったプロジェクトの紹介があったので、WEBで検索していたところ、福島で少しのつながりを持てた方々のページに到達。まずは懐かしいという感情が溢れてくる。原子力災害はまだ継続中であるが、あの苦難の時期を乗り越えて、強く明るく生きる姿がそこに描かれている。このように感じるのはよそ者の勝手な感想であり、彼ら、彼女らにしてみれば無我夢中でやってきたということなのだと思う。しかし、その生き様は確実に私の心に深く染みこみ、力を与えてくれるのである。くさい表現であるが、まさにそうなのである。都市的世界の住人の意識世界の中に、彼ら、彼女らの生き方を投影したいと思う。もちろん、都市的世界と農村的世界は一部で確実に(哲学的意味における)交通を始めている。彼ら、彼女らは地上の星である。いつか、この世界の主役に躍り出る日がやってくる。その時が、持続可能な世界が達成される時である。(2019年8月13日)

事例を100集めれば普遍性がわかる

痛風で動きが鈍くなっているお陰で、宮内編の2冊の環境社会学の本を読み切った。この本に収録されている事例は日本全国にわたり、扱う内容も多岐にわたる。しかし、事例をたくさん集めて議論すると、様々な知見が生まれてくる。これこそが社会学の方法論なのである。もうだいぶ前になるが、その時、私はこの方法論の重要性に気が付いていなかった。環境社会学から大きなプロジェクトが提案されたのだが、様々な事例を持ち寄り、ワークショップを何度も開催して議論を深めるという手法が何となく他の花形研究と比較して物足りないような気がしたのであった。率先して評価すれば良かったと思うが、今は支持者の一人として考え方の普及に努めている。これと関係して、数年前然るお方から、"事例を100集めても普遍性はわからない"、と言われたことを思い出した。そういうガチガチのニュートン・デカルト主義者が(理系)科学者の大勢を占めている現状ではさもありなんですが、私はタイトルのように思うのです。それは事例を集めて比較、メタ解析し、上位の概念を導き出すという手法。だから事例研究こそ大切。この方法論こそが、現実に真摯に向き合い、今をよくすることで、未来をよくする考え方なのではないかと思う。環境学は今を生きる人々の顔が見える研究である。しかし、地球環境といってしまうと、未来は意識できるが、人の顔が見えなくなるような気がする。顔が見えれば背後にある多様で複雑な事情がわかる。そこに踏み込まなければ環境はわからんのだよ。地球環境もよくならんのだよ。(2019年8月13日)

科学的知見とはなんじゃ

痛風の薬は飲んでいるのですが、また発症してしまいました。そこでFE会議の後は家で静養しながら、買い溜めてしまった本を読んでいます。最近は社会学に関わる本が多いのですが、宮内泰介編「なぜ環境保全はうまくいかないのか」、「どうすれば環境保全はうまくいくのか」の二冊は非常に参考になります。環境保全に関心があるのならば、まずいろいろな場所における、いろいろな分野の様々な経験をとにかく知ることが大切だと思います。頭の中にデータベースを構築することが、問題の理解力、解決力を醸成するのだと思います。がんばって読んでいますが、文中で「科学的知見」という語の意味が気になりました。科学者が関わる様々な議論の場で、「科学的知見あるいは科学的エビデンスに基づいて」という表現はよく使われます。しかし、このことの意味については実はコンセンサスはないのではないか。前出の本の中では、モニタリングの成果を計画にフィードバック、ということが書かれていましたが、それは問題の解決を共有するフレーム内では機能すると思います。しかし、環境アセスメントのように相手との間で緊張関係がある場では、科学的知見を強調すると、モニタリングの結果はスルーされやすくなるという経験を持っています。論文が科学的知見をオーソライズしたものなので、論文の結論に従うべきという考え方に押し切られてしまいます。提示された論文を読み解き、考え方や仮説を検証するのに時間がかかってしまうので、忸怩たる思いは残りますが、妥協してしまったわけです。このことは2年前の学術会議環境リスク分科会の新期の課題洗い出しの時にも提案したことがありました。出版論文の数が増え続けている現在、論文の中にはある政策上の考え方を補強するための研究成果であるものも確実に出てきている。研究というのはすべて価値、哲学が背景にあると私は思っているので、それは別に悪いことではないと思うのですが、だからこそ科学者は論文出版の事実だけでなく、内容と背後にある思想まで踏み込んで評価する力を身につけなければならないと思うのです。(2019年8月12日)

ボランティアの意味

今日は長崎原爆の日。多くの若者が74年前に命を奪われた日ですが、今を生きる若者たちが汗を流す印旛沼支流神崎川で行われているナガエツルノゲイトウ駆除作戦に顔を出してきました。私は情けないことに踵に痛風の予兆があり、作業は遠慮させていただきました。今回もIVUSA(国際ボランティア学生協会)の若者の働きがすばらしかった。今まで知らなかったのですが、今回のイベントで参加者は2万2千円を払ってボランティア活動をしているのです。何が彼ら、彼女らを駆動しているのだろうか。リーダー(この方はおっさんです)に聞いてもよくわからないとのこと。おそらく、過酷な作業の後の達成感、仲間ができるということが皆さんの成果になっているのだと思います。小さな壁を乗り越えてた経験、そして仲間としての絆が生まれることが、社会人となった時の皆さんの力になっていくのだと思います。心に大きな感動を頂いて帰宅しましたが、少し無理しすぎたみたい。踵が晴れて本格的な痛風発作になったようです。(2019年8月9日)

現在と未来の関係

昨日に引き続き、学術会議「Future Earthの推進と連携に関する委員会」に出席。その中で、「『地球温暖化』および『地球環境変化』に関する緊急メッセージ」を出すという案が合意されました。しかし、今後の議論で詰めていかなければならない観点があると思います。それは、"誰が今、何をするのか"、ということ。我々は未来の危機を煽るばかりでなく、現在やるべきことを学術コミュニティーとしてはっきり述べなければあかんと思います。この委員会メンバーは地球科学系の科学者が多く(外からもそう思われています)、その習性として未来志向が強いのですが、現場では今やるべきことに真摯に取り組んでいる他分野の科学者がたくさんいます。たとえば、大規模事業所からの放出を如何に減らすか、プラスチックの焼却を如何に減らすか、このようなCO2放出抑制の根幹に関わる課題に対して、全身全霊で取り組んでいる現場の研究者を知らなければなりません。未来を変えるためのバックスキャッターという考え方は正しいのですが、現在をよりよくするという現在の取り組みが見逃されると、FE研究者は美しい未来を語るエリート科学者にすぎなくなってしまいます。(2019年8月8日)

科学者と現実の間

Future Earth(FE)に関するシンポジウムに参加してきました。FEは何が目的なのか、何をやるべきなのか、という問いに対しては私の中でずっと悶々としています。FEで解こうとしている問題とは何なのか、その問題の解決とは何なのか、科学者の役割は何なのか、これらは社会に対する科学の役割に関する根本的な問いかけであると思います。科学者が強調する危機に対して、科学者の役割は予測することなのか。①予測すれば、人は合理的に行動するのか。②科学は社会の守護神なのか。この問いの私なりの答えは"否"ですが、①に対しては、環境問題に対する人間的側面の考慮が必要、②に対しては、様々なステークホルダー間の協働や連携が必要なのだ、と答えたいと思います。科学者と現実の間にはまだまだ大きな谷が存在しているように思う。そんな中、高村さんが、"今の問題にどう対応するか"、という点を強調していたように思う。彼女はおそらくわかっているのだと思うが、やんわりと指摘したのではないだろうか。未来を語るには哲学が必要なのだよ。同時に、現在を時間軸の上で解釈し、現在の有様を語らなければならない。そこで解くべき問題を指摘するのも科学者の役割なのである。そのためにも、今の都市的世界の暮らし、経済成長は未来永劫続くのか、という疑問を持ち続けることが大切なのだ。その上で未来を語りたい。(2019年8月7日)

わがこと化

今日は広島について考えなくてはならない日である。74年前の今日、広島の市街は地獄と化した。その苦しみはまだ続いている。あの地獄のありさま、その後の苦しみは私は体験していない。しかし、それを想像しなければならない。自分とつながる関係性を意識し、当事者の一人として現実を想像する力が人間にはあるはずである。しかし、現代社会で、その力が衰えている。それが昨今世界中を席巻するいやな雰囲気につながっている。わがこと化を阻むもの。それは、社会が歴史の中で創り上げてきたものの中にあるのではないか。豊かな社会の背後における人の心の劣化。関係性を認識する力の劣化。いろいろな要因が絡まって、解釈を難しくしているのだが、それは研究者に任せて、まずは世界のいろいろな苦しみを“わがこと化”して考えて見よう。そうすれば、世界は少し良くなるはず。(2019年8月6日)

無欲の勝利

渋野日向子、全英女子オープン優勝、すごいこっちゃ、だそうです(樋口久子氏談)。渋野の優勝に対して“無欲の勝利”と報道されています(例えば、スポニチ)。さもありなん。無欲こそが強さだ、と私も吠えたい。昨今は無欲であると仕事をさぼっているような雰囲気。欲かいて、あれもできます、これもできますと書類に書いて、自分の首を絞めてパフォーマンスを落とす。うまくいっても幸せになるのは評価者。無欲で生きられる社会こそ、幸せな社会である。(2019年8月6日)

文系と理系の壁

これも朝日朝刊「論の芽」というコラム。大学生の丹伊田さんは文系の学部に進んだ後、理系の分野に興味を持ったが、受けられる授業がないという。いろいろな事を学ばなければならないことに気が付いたことは立派。ただし、授業がなければ勉強できないのだろうか。日本は勉強しようという意思があれば、書籍をはじめ、材料はたくさんあり、簡単に手に入る。日本は母国語で科学ができる数少ない国の一つなのである。だから、図書館や書店にいって出会った本をたくさん読んでください。その過程で、人を知ったら会いに行ってください。文理の壁など個人は易々と越えることができるのです。壁を造っているのは研究者である大学人ではないか。評価が厳しくなり、論文を生産しない安心できない昨今、自身の研究分野に閉じこもるのは自己防衛でもあります。でも、それは短期的には防衛に成功するかも知れないが、変わりゆく日本や世界の中で、自分の首を絞めることになるのではないかな。自分どころか、学生や若手研究者の将来に責任を持たないという態度でもある。実は文理の壁などたやすく越えられるのだ。それは地理学という学問。人と自然の関係を理解するには文系、理系などと言ってられないのである。ただし、地理学が機能するためには、課題の単なる理解から課題解決型の学問に変身しなければならないのだよ。これも今後の重要な課題かなぁ。(2019年8月6日)

逆釣り鐘型

朝日朝刊「声」欄から教職OBの福川さんの投書。現役の中学の先生に教育現場の現状について聞いたところ、定期試験の成績分布が逆釣り鐘型になっているという。つまり、中学生が高学力群と低学力群に二極化しているという。福川さんは二極化の原因は経済格差にあるのではないかと考えている。私もそうだろうなと思うが、これから検証していかなければならない課題であろう。さらに二極化が社会のあり方をどう変えるのか、しっかり予想して対策をしなければならない。学生の二極化は大学でも感じるところである。ただし、大学は入試を経て、基礎的な学力はあることが認められて入学している。大学における二極化は学力だけではなく、社会の中で生きていく考え方にも二極化が進んでいることを意味しているのかも知れない。それは恐らく日本が"良い国になった"ということと関連していると思われる。日本は暮らしのベースにある安全、安心が外注できる社会。こんな良い社会の中で、生きていく力をどう学生に伝えるのか、大学人に課せられた重要な課題である。(2019年8月6日)

博士号の価値

朝日夕刊、「凄腕しごとにん」から。「善玉」ハッカーの北原君は千葉大の博士課程修了。物理学からネットワーク業界への転身だったが、「博士号の価値を社会に示したかったから」という。心から応援したい。博士課程には「高学歴ワーキングプア」という深刻な問題があるが、それは「大学教員のポスト数が限れ、当人も専門分野からなかなか踏み出せないためだ」と記者は書く。しかし、北原君は「博士号の真の価値は、専門性ではなく、専門性を極める勉強の仕方を知っていることにこそある」という。だから、北原君は技術者としても成功し、自分の人生を獲得することができた。翻って、同じ千葉大学の博士課程の学生は、勉強の仕方を知っているといえるだろうか。もちろん千葉大学には限らないことであるが、昨今は学生に博士学位を出すことがしんどい世の中になった。アイデアはあるのだが、実現する時間と金がない。学生に精神を吹聴することはできるが、学生が受け止めてくれるかは学生次第である。限られた3年という期間で博士論文を仕上げるためにはプロジェクトに参加することが最も手っ取り早い。だからプロジェクト出身の若手研究者は増えている。そんな研究者は学生時代に"(社会で生き抜くための)勉強の仕方"を学ぶという態度を身につけることができただろうか。競争的資金によるプロジェクトは失敗はあり得ない。申請の段階で研究計画どころか、成果まで書かなければならない。後は、粛々と研究事業を推進し、満期になったら成功したということになったという作文に労力を使う。チャレンジングな部分が少ないプロジェクトから学生は何を学んでいるのだろうか。研究リーダーにはアイデアの着想に至った経緯が貴重な体験となっているはずであり、学生に伝えるべき事柄もあると思う。ただし、一本道の成功体験だけしかないとすると、学生には何が伝わるのだろうか。このことが記者のいう「当人も専門分野からなかなか踏み出せない」理由になり、高学歴ワーキングプアを生み出す要因になっていないか。若者には苦労をさせなければならない。同時に、若者に優しくなければならない。シニアのエリート研究者の意識世界が、若者の未来を摘み取っているとは言えないだろうか。かなり穿った見方ですが、真実の一端はあると思います。さて、シニア研究者はどうしたら良いのか。(2019年8月5日)

ホタル:未来に対する意味づけ

印旛沼流域圏交流会を兼ねてNPO富里のホタルのホタルを楽しむ会に参加しました。自分の61年の人生の中で、光るホタルを間近で見るのは実は初めてでした。谷津は自分の原体験としてあるのですが、自宅が台地上でしたので、そこではホタルが飛ぶことはありませんでした。ヘイケボタルの淡い光が明滅しながら暗闇のあちこちを通りすぎていく幻想的な光景は、命の存在というものを確かに感じさせてくれます。それはなんともはかないものなのですが、人の心に与える力は大きいのはないか。生後11ヶ月の赤ちゃんがホタルを見たことを覚えていたそうです。お父さんがホタルを手にとって、赤ちゃんのほっぺにそっと触れさせたことを大きくなっても覚えていた。ホタルの光には何か大きな力が宿っているのかも知れない。このホタルを鑑賞しに大勢の親子連れが来ていました。ボランティアでホタルの保全活動しているNPOの方々は、自然と人間の相互交流の機会を通じて、未来に対する大きな意味づけをしているのではないか。(2019年8月4日)

撤回、"最近の若者は"

午前中は印旛沼流域の企画で、KJ法によって里山保全に対する考え方を纏めるという集いに参加しました。私も意見を提出しましたが、どうしても抽象的な表現になってしまい、反省。終了後、各グループの代表が出てきた考え方を纏めるのですが、その役目は若者ということになるわけです。参加して頂いたIVUSA(国際ボランティア学生協会)の若者は大学の学部生なのですが、堂々と皆さんの考え方をとりまとめ、発表しておりました。たいしたもんだと思います。"最近の若者は"、が口癖になってしまった老人としては自分が情けなくもうれしい限りです。日本の将来もまだまだ捨てたものではありません。(2019年8月3日)

成長パラノイア

朝日朝刊のコラム「経済気象台」から。「経済成長の果て」と題する山人さんの寄稿で「成長パラノイア」という語を見つけました。川北稔大阪大名誉教授の命名とのこと。EU離脱を巡り混乱するイギリスは「豊かな国」か、「終わった国」か、二つの考え方がせめぎ合う。そのギャップは、「経済が右肩上がりに成長しなければならないと偏執すること」にある。「成長が止まりGDPが他国に抜かれても国民は豊かであり不幸になったわけではない」と。この「成長パラノイア」と名付けられた考え方は世の中の底流として脈々と流れを保っているものだと思います。7月30日に引用した元木先生の記事にこんな話がありました。千葉(2018)の引用ですが、明治政府には国のあり方について二つの選択肢があった。それは、プロシャ型の軍事的「大国化」と、オランダ、デンマーク、スイスのような「小国」の文化的豊かさへの道だった。日本は前者を選択したわけです。今、文明の転換点において後者の選択を考える時期が到達しているのではないだろうか。山人さん曰く、日本は十分豊かなのだが、それを見えなくしているのが、成長パラノイアであり、行きすぎた成長と選別のためである。山人さんはこう締めくくる。「経済成長がもたらした豊かさを英国民が享受している一方で、日本国民が今なお脅迫観念に追い立てられているのだとしたら、それは間違ったビジョンと政策の責任だ」と。社会や地球の未来を考える研究者は、このような議論と無関係ではないはず。(2019年8月2日)

文明の転換の実践

引き続き、「地理」7月号の元木靖先生の記事「地理学の研究と文明論」から。これは安田喜憲著「文明の精神」の書評から発展した寄稿であるが、通底する思想は、「普遍性よりは特殊性を重視する科学」、「人々はグローバルよりローカル」、「物よりも精神に文明の価値」を探し始めたという安田先生の指摘にあると思います。現在は文明の転換期にあるのではないかという指摘であるが、実は世の中には多くの同様の主張、思想がすでにある。サイレント・マジョリティーが同じ考え方を共有しているのではないか。非常に心強い。ただし、文明批判は必要だが、それを実践に結びつけなければならない。政治参加も重要だが、我々にできることは行政に参加することだろう。地理学評論5月号にも戸所会長による「知識情報社会への手何を妨げる日本の地域システムと地理学界への期待」という会長講演が掲載されている。行政の委員会に参加された経験が綴られているが、国や県の委員会で意見を表明するとともに、様々な機会を活用して主張することが第一歩なのだと思う。サイレント・マジョリティーの力はある日突如として現れるのではないか。文明の転換を実践しなければならない。(2019年7月30日)

国力とは何か

月刊「地理」7月号の森川洋先生の「東京一極集中は日本を救うだろうか」を読みました。これは市川宏雄著「東京一極集中が日本を救う」(ディスカバー携書)に対する反駁なのですが(早速注文しました)、森川先生基本的な考え方は下記に集約されているように思います。「市川氏の主張は国際的な経済競争に重点を置くもので、地方を含めた国民の生活、国民の幸せに対する配慮は乏しいようにみえる」。このことは市川氏の意識世界の範囲が都市的世界の中に留まっていることを意味しているのではないだろうか。都市的世界の外側に存在する農村的社会の存在自体と価値が認識されていないのである。これは現代社会における大きな課題だと思う。世界を構成する地域の幅広いスペクトラムの両端に都市的世界と農村的世界があり、世界の大半は農村的世界から成り立っている。私は人が二つの世界を行き来できる精神的習慣を持つことこそ、"安全・安心で、楽しく、誇りを持って、少し豊かに暮らせる社会"のあり方だと考えている。世界をどう認識するか、それは人の意識世界を拡大させることであり、地理学の役目でもある。これが達成されれば、国力の定義も"国の経済力"から"国民の幸福や誇りを包含する総合的な力"といったものに変わってくるかも知れない。(2019年7月29日)

時代の雰囲気

公害を総括する仕事をしており、著者らからドラフトもあがってきているところで、少し焦りも出てきたところです。この課題に対して以前から気になっている観点があります。過去の公害について原因企業の不作為や、不適切な対応、等は過失として捉えられ、大衆からは悪として糾弾されることも多いのですが、原因企業の意思決定者は悪だったのだろうか。そこには、①時代背景(社会的背景と必要な科学技術の未達成)、②ステークホルダーの認識(階層性や個別性)、③人の意識世界(日頃から関係性を持ち、考え方を構成する範囲)の構成、等々に関する様々な事情があったのではないかと思います。日本最初の公害と言われている足尾鉱毒事件の当時、日本は戦争遂行中であり、四大公害病の時代は日本は高度成長期の最中で、国力最優先という時代背景があった。人権に対する意識も、まだまだ未熟な段階にあった。戦争の"担当者"や、国や企業の経済成長の"担当者"の意識世界は狭い範囲に留まり、受苦圏の出来事については"わがこと化"は困難であった。それはステークホルダーの階層性や、ステークホルダーが空間的に分離され、個別化しやすい傾向とも関わる。そのため、"受苦"が上位にあるステークホルダー群の中で意識されることは少なかった。そこには時代の雰囲気とも呼べる様々な事情があったのではないかと思います。原因企業や行政を一方的に悪と位置づけるのではなく、公害発生当時の行為の理由を"なぜ?"と問い、歴史軸の中で位置づけて包括的に解釈することが大切だと思う。そうすることによって、現在は昔とは違う、時代は変わったのだ、という意識を強化し、受苦を繰り返さない社会を創ることができるのだと思う。悪を闇に葬るのではなく、加害者の苦しみも斟酌し、皆が過去を諒解できる社会。お人好しに過ぎるだろうか。(2019年7月29日)

「構造的解決」と「個人的解決」

先のシンポジウムで環境社会学会からの報告を担当した篠木さんのメモから。社会的ジレンマの解決策として先行研究で示されているのが表記の二つであるという。「構造的解決」とは、個人の行為選択状況の構造(利得構造)を変更することで協力行動を促進する方法であり、「個人的解決」とは、行為選択の構造は社会的ジレンマのままであるが、個人の状況認知や価値観を変更することで協力行動を促進する方法。これは様々な局面で使えそうである。印旛沼の場合を考えると、構造的選択は税金を使って工学的な水質浄化方法を実装すること。個人的解決とは、流域で様々な活動を行い、価値を発見することにより個人の行動を促していくという方法になるだろうか。この二つの方法は相補的に使っていく必要がある。また、この考え方は地球温暖化対策にも関連するだろうか。緩和策は構造的解決、適応策は個人的解決。ぴったりマッチするわけではないが、同じような基本的考え方はあるように思う。(2019年7月28日)

非意図的流出

今回のシンポジウムで、この表現が心に留まりました。意図的にプラスチックを捨てるうつけ者もいるでしょうが、しょうがなく流出させてしまうこともあります。生業に関わる流出で非意図的もあり得ると思います。例えば、ゴミ拾いをしているとペットボトルに尿が入っていることがままあるそうです。想像するに、入庫、出庫を厳密に管理されているドライバーが、トラックを離れることもままならずボトルに排出して捨ててしまうこともあるかも知れないとのこと。その場合、ドライバーを責めるのではなく、そうさせてしまうシステムを改善するようにしなければあきまへん。社会システムについては主催学会は専門家ですので、こういう議論はお家芸なのですが、こういう見方はとても好ましいなぁと思います。ある行為の背後にある事情に気が付くということも、普段からの社会に対する洞察が元になっているのだと思います。(2019年7月18日)

問題解決と人生

台風が心配でしたが、午後から環境三学会合同シンポジウム「プラスチック依存社会からの転換」に参加してきました。この環境法政策学会、環境経済・政策学会、環境社会学会の合同シンポジウムは毎年参加していますが、環境問題を理工系とは異なる視点から捉えることができるので、自分の視野拡大にとても役立っています。今回はプラスチックが課題でしたが、学術会議環境リスク分科会でも議論している課題であること、地球環境問題や温暖化とも関わるため、私にとっても重要な課題になっています。先日の東急財団環境研究助成でもプラスチック関係の課題が3件採択されましたが、どちらかというと"診断"に相当する内容でした。"治療"に踏み込まないと問題は解決しないのですが、今回の内容はどちらかというと"治療"に近い内容だったと思います。"問題の解決を共有する"ためには様々な分野の協働が必要なのですが、現実に対応できるのは人社系であり、(多くの)理工系は成果を参照されるだけの存在(参照されれば良いのですが)になっているような気もします。今回のシンポジウムの主催が人社系ですのでそう感じるのかも知れませんが、この課題に真摯に、総合的に取り組んでいる理工系研究者もいることは知っていますので、"治療"に向けて協働を期待したいと思います。そもそも国際的にはプラスチック問題は2015年に鼻にストローが刺さったウミガメの動画が公開され、2016年のダボス会議でデータが出てきたことで一気に広まったのですが、日本では2018年のG7における海洋プラスチック憲章に日本とアメリカが署名しなかったことで一気に批判が高まったことが理由らしいです。それで、G20では政府は取り組みを強化する姿勢に転じました。ある著名な研究者がこんなことを言ったそうです。世界は正義で動くのに、日本は利益で動く。表現はうろ覚えですが、今の日本の姿勢をよく言い当てています。日本が世界で尊敬される国になるためには、人社系、理工系の研究者の学際、国や自治体の行政の現場および市民との協働が必要なのですが、今回のシンポジウムではこの協働がある程度は実現していることがわかりました。理工系にも頑張っている研究者はいますが、この課題に飛びつく研究者は論文を書くことを目的にしてはいかんと思います。問題解決への歩みというのは人生そのものだから。(2019年7月28日)

研究者の説明責任とは

今日は成績や学会の仕事等、やることがたくさんあるので出勤していますが、結局中期計画の評価に関わる仕事をやっている。文科省対応をしながらふと思う。やっている仕事は組織の説明責任を果たすための仕事ですが、説明の相手は誰なのか。2017年11月17日にメモした早稲田の富永先生の記事を再掲。

アカウンタビリティーというのは元々サッチャー政権におけるキーワードで、個人や組織が与えられた職務をきちんと履行していることを上位者の求めに応じていつでも説明できることであった。となると、政治家の説明責任が問われる状況は、少し奇異だという。政治家には説明責任よりもっと広い説明が求められる。政治家は上位者の指示とは関係なく、自分で重要な事柄を判断し、積極的に説明する義務があるのだ。

我々は上位者から与えられた職務を履行しているのだろうか。そう考えると業務も理解しやすいが、それは研究者の役割を矮小化するものである。研究の内容は研究者自身の能動的な行為として実施しているものである。文科省に与えられたものではない。そもそも税金で実施される研究のパトロンは文科省ではなく、国民である。だから、研究者には説明責任よりもっと広い説明を社会に向かって発するという義務がある。研究者、ここでは大学人は自分の立場を勘違いしているのだ。文科省も自分の権限を勘違いしている。研究者の使命を社会に対する責任説明の観点から捉えると、我々は自分の業務、すなわち研究という行為に真摯に取り組むことができるようになるだろう。それを阻んでいるのが現在の評価システムであり、日本の研究力低下を招いていると考えると非常にわかりやすい。(2019年7月27日)

後悔しないけど反省

今日は晴天で暑い。夕方一杯やるために車は置いていくのだが、最近駅までの15分の歩行がきついのである。そこで、自宅近くからバスでJR津田沼駅に向かう。駅ナカ商店街でつい見てしまったのが、鰻弁当。値ははりますが購入決断。実は、土用丑の日に鰻を食べてはいかんと日頃主張している。それは土用に一気に鰻の需要が高まることがシラスウナギの乱獲を促しているという事実があるから。一年を通じて均等に食べれば鰻資源に与えるインパクトはずっと小さいという。これは鰻の専門家に伺った話。とはいえ、鰻はうまいので心の弱い私は誘惑には勝てないのです。個人に我慢を強いるのではなく、社会全体として鰻の消費のあり方を考える運動を進めていく必要がありましょう。鰻弁当は後悔はしないのですが、言行不一致ですので反省はせねばあきまへん。(2019年7月26日)

後悔と反省

帰宅途中の車内で聞いたラジオで1980年のモスクワ大会ボイコットの話題がありました。当時参加できなかった選手に、東京2020で聖火ランナーとして活躍してもらおうという運動があるとのこと。あの時私は筑波大学院生になったばかりで、寮にいたところ、体育専門学群の学生がアンケートをとりにやってきました。その時、私はボイコットして当然、と答えたのですが、後から思うに、スポーツに関わる活動ですのでボイコットを支持しない方がよかったなとずっと後悔しています。スポーツと政治は切り離さにゃあかん。これも外交だなどと、格好つけなくても良い。生き方としてスポーツと政治は別なんや、という精神でいきたい。改めて反省。ボイコットで悔しい思いをしたアスリートがたくさんいる。私は日本はお人好し国家で良いと思っている。それが世界の国とは違う尊敬される特別な国、日本を形作ってきたと思う。しかし、最近はだんだん普通の国に変わって行くのを見ることが悲しい。けんかしない国でありたい。(2019年7月25日)

若手芸人がのびのびと挑戦することができる社会

よしもとの件の報道が多いのでどうしても目についてしまいますが、いろいろな意見が出ています。様々な考え方の違いは社会の有り様、人の精神的習慣といったものを時間軸で捉えるとわかるような気がします。芸人というのは芸で勝負し、実力でのし上がっていくもの、というのは古い人間が考える本来の姿だと思いますが、今は昔の話になってしまったようです。古き良き時代では挫折しても、新しい生業を得て暮らしていくことができた。現在は、一度ラインから外れると一気に底辺まで落ちてしまうセイフティーネットが脆弱な時代。それがいざというときの若手芸人の態度に表れているように感じます。芸人が小粒になったと評するのは若手にとっては酷なことです。社会が変わったのですから。若手芸人がのびのびと挑戦することができる社会が案外よい社会なのかも知れない。芸人と研究者は似ています。芸人も研究者もサラリーマン化が進んでいます。どちらも会社、研究機関といった組織ではなく、社会が評価を下すのが本来とは思いますが、社会にゆとりがなくなってきたのですね。日本全体の世相の変化があちこちで同根の出来事を起こしているように見えます。ところで、若手とシニアの境は。ちょうど私くらいの年齢であるように感じます。(2019年7月24日)

日本社会の共通課題

よしもとの社長さんの会見に関するニュースを見ていると、トップのあり方に関して、日本社会における共通の課題の存在が見えてくる。トップというのは組織の運営に対して責任を持つ者である。運営を行うためには、理念を明らかにし、共感を獲得し、合理的な計画を提示して、実行する必要がある(19日参照)。そこが見えないのである。下々は誰のために仕事をするのか。給料をもらって家族を養うことが一義的な目的であるが、そこに仕事の意義が感じられないと、仕事と暮らしが分離されていることになる。トップの幸せのための仕事、ということになりかねない。家族のため我慢をすることが美徳になってしまっているが、それは勘違いであろう。それでもいいやんけ、という人もいるかも知れないが、それは経済が順調だった時代の慣性であろう。定常社会、縮退社会では誰でも誇りを持って仕事をして、それで家族を養うことができる社会でなければあかんと思うよ。トップが強くなりすぎ、社会や会社の構成員に対する責任を意識できなくなっているのが現状だが、実はそれは心理学的な要因によって権力があるように見えているだけ。そんな権力は市民やコミュニティーの力に対しては案外弱いものだ。ただし、人というのは感情に流されやすいもの。それは良いことでもあるのだが、現実の課題に対応するためにはコミュニティーが筋の通った考え方を持つ必要がある。改めて、理念、共感、合理の三つの基準に則して、仕事のあり方を考えねばならんと思ってる。頭の中には千葉大学の教育プログラムENGINEがあるのだが。(2019年7月22日)

涙のわけ

宮迫さんの涙は悲しみの涙か、悔しさの涙か。心の中はわからないので、勝手な捉え方、ご容赦願いたいと思います。芸人とは何だろうか。事務所に雇われるサラリーマンなのか。事務所が強くなりすぎているのではないか。芸人は芸術家でもあり、わがままに生きるのが本筋。そんな時代は終わったのかなぁ。何かやっちまったら、ぱっと生き方を変えるという振る舞いは格好いいと思うが、それができない世の中になっていることも問題なのではないか。芸人は、自分の思うところを実現することが目標という点で研究者とよく似ている。しかし、昨今の研究者はサラリーマン化が進み、トップダウンの命令に盲目に従う習慣ができてしまっているようだ。研究者が夢をきちんと定義し、戦略的に実現をめざし、それでも拠ん所ない事態に陥ってしまったら、パッと生き方を変える、そんなことができる社会になれば、日本の研究力は増すだろう(組織の運営については考えなければならんが)。そうすれば涙など流す必要もなくなる。などと威勢の良いことを言っているが、わしも老いたか。若者の感性は尊重しなければあかん。古い感覚だと、涙を流すお笑い芸人は終わりだな、と思うのだが、若者の世代は案外受け入れるかも知れん。 (2019年7月21日)

失敗が許されないスーパーマン

「雨上がり決死隊」の宮迫さんが芸能界引退の意向、というニュースが気になる。彼のやったことは非難されるべきことではあるが、生業を捨てるほどの巨悪を働いたのか。単に心が弱かったということだけだったのではないか。恐らく嘘をついたということに対する自責の念が強いのではなかろうか。普通の人だったら誰でも起こりえることが、社会からの大きな非難を受け、人生を変えざるを得なくなる。誰もが加害者になり得る件で、その行為が徹底的に糾弾される場面に我々は慣れっこになってしまっている。もう少し弱者に対して寛容であっても良いのではないかと思うのであるが、大衆に自分を晒す生業ではやめざるを得ないのだろうか。一方、様々な人生を選択できる柔軟性をこの社会はもっと持たなあかんと思う。人生において失敗は付き物である。一度の失敗を一巻の終わりにしない社会を創っていきたいものである。誰もが失敗が許されないスーパーマンになるのではなく。 (2019年7月19日)

時代を創る"くささ"

東急財団の環境研究助成金贈呈式で挨拶をせにゃならなくなった。そこでしゃべったのが下記。私は原稿は作らず、頭の中で考え続けたことを、その場で一気に話すことにしています(実は原稿作成が面倒くさいだけ)。完璧に覚えていないのですが、こんなことを言ったと思います。

おめでとうございます。みなさんの研究がうまくいくことを心から願っています。同時にお願いですが、様々な異なる課題に取り組むみなさんの間で是非とも交流をしてください。というのは、今の多摩川流域は過去から現在に至る間の様々な人の営み、自然の営みが重なり合ってできあがっています。必ずいろいろな関係性が見つかると思います。それは流域の理解につながり、"新しいふるさと"を生み出すことになります。私のノスタルジーかもしれませんが、かつての"ふるさと"では、大人は人と自然の営みの理解に基づき災いを避ける智慧を持ち、それを子どもに伝えるという役割を担っていました。知の循環ができており、それが地域の強さにつながったと思います。みなさんの研究成果が多摩川流域で世代を超えて循環することにより、多摩川流域は新しい時代の"ふるさと"となり、強い地域になると思います。

今風に言うと、レジリアントな地域の創造となります。我ながら"くさい"と思いますが、この"くささ"こそ右肩下がりの時代で、新しい社会を創っていくために必要なのではなかろうかと思っています。(2019年7月18日)

理念、共感、合理性に基づく行動

終わりの始まりではないか。千葉大学の新しい教育プラン"ENGINE"の説明会があったが、トップダウンの命令で、現場に大きな負担を与えることは確実である。最も重要なことは理念が明らかでない点である。このプランが大学の教育・研究機能を向上させるというコンセンサスがないまま教員が命令に服従するというのは軍隊の論理である。大学は軍隊ではない。また、大学、特に総合大学は会社とは異なり、個々の教員が社会のあらゆる分野で専門家としての機能を果たす人の集合体である。大学が組織であるとすると、教員が共有する目的は"社会をよくする"という点にある。まさに、"社会の中で、社会のための教育・研究"を実行する場なのである。そう考えると、現在の大学は個々人の理念が矮小化し、方向性も多様で、全体をまとめ上げる理念も失われているという問題も見えてくる。大学の経営陣はまず社会における大学の役割、総合大学の機能をしっかり考えてほしい。プレス先行で、後は良きに計らえでは組織が潰れることは、すでに多くの事例が示しているではないか。まず理念を明らかにし、共感を獲得し、合理的な計画を提示する。この順番が守られないと組織はなくなる。(2019年7月17日)

「知の深化」と「知の探索」

朝日朝刊「経済気象台」から。コラムのタイトルは「知の越境」。昨今の企業は得意分野にこだわり、知の深化ばかりに傾注するが、それはサクセストラップだと著者はいう。これは成果基準のみで評価される研究者も同じ。論文が書ける狭い分野に拘泥し、外の世界を見ようとしない。狭い分野が重要ということになったかどうか、という議論に終始する。その分野が学術の世界で強いと、世界との関係性を絶ったまま、独自の深化を遂げていく。研究ポピュリズムといってもよいが、それを成り立たせている大衆にも問題がある。これが日本の研究力の低下につながるのだが、私としては研究力の低下よりも、問題解決能力の低下のほうが心配である。しかし、「知の越境」を試み、問題解決を試みている研究分野もあるのだ。「知の越境」はエリート化した研究者に必要な行為であるが、解くべき問題を眼前にして、やすやすと越えていく分野もあるのだ。そういう分野こそ、地上の星として輝いてほしいものだ。そのためのアクションをやっていきたい。(2019年7月17日)

休日雑感

朝、少し自転車で走りたくなった。気持ちよく走っているうちに東京湾に到達。自宅から30分かからず海岸まで行ける。そういえば、今日は海の日だった。と、その時、雨が。雨の中を走っているうちにまた晴れ間が出て、濡れた着物も乾く。何とか帰宅し、畑の整備。この時期、雑草の成長は早く、休日に作業ができないと、あっという間にはびこる。すっかり草に覆われた畑をきれいにするのに連休中の二日を使ってしまったが、まだとり切れていない。雑草とのつき合いの仕方を考え直さねばあかん。一方、やらねばならない仕事も山積しているだが、休日にそれをこなす気分にはなれない。還暦を過ぎ、生き方についてこだわりも出てきた。シャープな研究者として生きる道はとうに捨てている。自分が参加する学術分野も変わってきた。従来の分野との関係もあり、かなり広い分野との関わりを持っているといえるだろうか。世の中は問題解決を目指す流れが強くなってきたが、個々の分野間のつながりが弱いことが気になる。広い宇宙を漂いながら、いろいろなものがうごめく地球を眺めているような気分である。自分はこのまま宇宙を漂いつづけ、どこにも漂着しないのではないかという気がする。(2019年7月15日)

成果基準、貢献基準、未来基準

先日、評価に関して一言書いたが(7月7日)、若手研究者の評価の際には、もう一つ付け加えて、「成果」、「貢献」、「未来」の三つの基準を考えたい。成果基準は業績の数字ではなく、内容を問うこと。貢献は研究コミュニティーや組織における役割を重視する。そして、未来基準は、社会のあり方に対する明確な考え方を持っているかを問うのである。環境に関わる研究者は、人と自然の関係に対する明確な哲学をもっていなければならないから。成果基準だけの評価だと、ほんの一握りのエリートだけが成功し、残りは路頭に迷うことになる。そんな研究者の世界はだんだん世間から乖離していくことになる。一方、人口減少でポストが少なくなる時代を迎えているので、シニアの研究者のあり方も考えなければならない。研究はミドルまでに任せて、シニアは科学の成果の活用を考えてはどうか。それには教育も含むので、中学や高校で授業の補助を行っても良い。月給を下げて若者の雇用に充てるが、月給の低下は副業で補填できるようにする。これからの日本は誰でも多様な仕事に関わることができる精神的習慣を醸成する必要がある。元大学教授が鍬を握っても良いのである。そうすれば経済的な縮退社会でも十分やっていける。金がなくても豊かで、誇りをもって、安心して暮らせる社会は構築できるのだ。(2019年7月14日)

惑星探査と地球観測

探査機「はやぶさ2」の小惑星リュウグウへの着陸はずっと気にしていたが、着陸成功のニュースが流れたときは思わず喝采した。知的好奇心を刺激する“知識のための科学”の快挙である。これが何の役に立つか、なんて議論は全く不要であるのだが、技術で世界を先導するという外交上の意義は認めておきたいと思う。一方、地球観測はどうだろうか。日本が先導する地球観測衛星もたくさんあるのだが、はやぶさほど知的好奇心を刺激するわけではないだろう。それは背後に地球環境問題を抱えており、観測結果がなぜ重要か、という説明が必要になるからだと思う。また、地球環境に対するしっかりした哲学を持っていないとその重要性を共有できず、その哲学も決して統一されているわけではない、という問題があり、さらに研究者が哲学に対する議論に踏み込むことを躊躇しているという現状も問題なのだと思う。地球観測は学術分野の中で少し分が悪いように感じるのはこのような理由があるからだと考えている。地球観測分野の研究者こそ、SDGsやFuture Earthに関する議論にしっかり参加する必要があると思うよ。(2019年7月12日)

科学者と社会、備忘録

自分の主張を形成する元となった記述が何だったのか、忘却の彼方にすっ飛んでいってしまうことが多くなった。たまたま、科学者と社会について書いたので、記憶にある出典からメモ書きをしておきます。梶谷真司著「考えるとはどういうことか」幻冬舎新書から。

「なぜ『何のために』と問うのか?」の節から:「いつかどこかで何かの役に立つかもしれない」という無責任な教養主義に逃げるべきではない。

これは科学者の態度に通じる。自分のやっていることが重要だと考えるのならば、きちんと主張してパトロンから予算を頂けば良いし、「何のために」と考えることが「思考の可能性を試すうえでも、なかなかのチャレンジ」(梶谷さん曰く)なのである。(2019年7月11日)

科学者と社会、男と女

私は科学者と社会との関係についてこのような主張をしています。「論文を書きさえすれば、あなたではない誰かが社会のために役立ててくれるわけではない」。これは私が読んだたくさんの文章に中で見つけたことでもあるのですが、時が経つと出典がわからなくなります。今日、また新しくフレーズを見つけたので、ここに引用しておきます。「この会議(1999年の世界科学会議)が開かれた背景には、21世紀の科学のあり方として、20世紀型の知識の生産に重点を置き、知識の活用は使う側にまかせるという姿勢では、科学に対する社会の信頼と支持は得られない、という強い危機感があった」。出典は有本建男「ブダペスト宣言から10年-社会における、社会のための科学」2009年2月9日。これを引用しているのが、井野瀬久美惠「『大きな物語』の終焉と科学」、学術の動向2018年3月号の「科学と社会」の連載から。井野瀬さんが引用したのは、有本さんの記事のこの部分。「(ブダペスト宣言は)歴史的に価値中立、研究自体が原則であった科学研究活動に、社会との関係において、価値の判断と価値の創造という新しい視座の必要性を求めていると思う」。価値の視座はもはや研究において不可欠のものとなった。研究者は知識の活用まで責任を負わなければならない。とはいえ、多くの研究者は社会、すなわちステークホルダーとどのように出会い、付き合ったら良いのか、そこがわからなくて戸惑っているようだ。まるで昨今の男女の関係のようだ。(2019年7月10日)

「寄り添う」から「寄り合う」へ

朝日朝刊「折々のことば」から。腑に落ちた感じです。最近は福島に行く機会も少なくなり、なんとなく申し訳ない気持ちでいたのですが、それは「自分」が「寄り添う」ということに拘りすぎていたのではないか。みんなで「寄り合う」のがいい。大きな目的の中で、人は少し役立てば良い。大切なことは「忘れないこと」なのだろう。少し心が楽になった気がします。(2019年7月8日)

成果主義と貢献主義

今朝の朝日GLOBEのテーマは評価だったが、いい言葉を見つけた。立命館大の高橋さんは、今後、日本の人事評価がめざすべきは「貢献主義」だという。その通りやな、と思う。大学の人事評価における成果主義は論文数、獲得予算額といった数値指標で表され、評価の哲学、何のため、誰のための評価か、という点は曖昧になる。時に監督官庁や職階の上位のものの幸せのための評価という雰囲気が漂うことも多い。これが貢献主義になれば、評価者、被評価者も評価の哲学を明確にせざるを得なくなる。これこそが組織を強くしていく道である。成果主義は等質化へのバイアスを含むが、貢献主義は個性の発揮につながるだろう。 実は昨日は評価に関わる委員会があったのだが、そこでこう言い切った。これまでの評価は優秀だけが基準であったが、低成長時代に入ったこれからは連携する力が重要だ。それは社会的要請に応えるということにつながる。大意はこうでした。これからは貢献主義を前面に押し立てて、主張していこう。それにしても、若者の置かれている状況は厳しいものがある。枠を広げると同時に、納得でき、可能性を尊重する評価を行い、場合によっては新しい人生にシフトできる仕組みを作ることが必要だ。シニアの立場も変わっていかざるを得まい。ただし、いきなり地獄ではなく、多様な生き方を選べる制度、精神的習慣も同時に作っていかねばならない。(2019年7月7日)

科学と生け花

地球惑星科学分野の科学・夢ロードマップの改訂版が公開され、WEBで感想を受け付けているので、思ったことを入力しました。さて、地球惑星科学分野の方々は、どう思われるだろうか。うるさいやつだと思われて無視されるだろうか。これは成長、それとも単なる加齢によるわがまま?

 環境問題、社会問題に関わるようになり、様々な分野とも交流してきた経験に基づいて若干の感想を述べたいと思います。 地惑ロードマップは未来志向を基調とする作り込みになっていますが、それは人文社会系(ざっくりした表現ですが)の視点からは、"現在"の認識がおろそかになっているように見えると思います。人文社会系も同じ目標(持続可能な世界)を共有していますが、現実の問題を理解、解決することが未来につながるという姿勢が強いと思います。現在をよくすることにより未来を展望するという姿勢において持続可能性は目標というより実践になっています。 この二つの立場には社会観、世界観、地球観等に大きな違いがあり、これが文理融合を阻む大きな要因になっているように思えます。地惑ロードマップの中にも"人文・社会科学等との連携"という文言がありますが、具体的な連携のための対話を始めなければならない段階がきたか、と感じています。 折しも、SDGs、Future Earthが始動しています。それは、複雑多様で様々な利害、思想、価値等が錯綜する現実世界の存在を前提とした持続可能性のあり方を考えるということだと思います。そのために学術とステークホルダーの協働、すなわち超学際が必要になるのですが、その時、地球惑星科学の役割は相対化されます。それでも目的の達成を共有し、役割を果たし続ける態度が必要なのですが、ここに超学際実現の壁が見えてきます。 リアリズムとドリームをどう折り合いをつけるのか。地惑ロードマップはこんなことを感じさせます。

私は歳を経て様々な分野と関わるようになり、それに伴って視野は拡大してきたように思います。それは価値観の変化となって顕れます。変わってしまった自分から自分が所属していた科学者の世界を眺めると、ずいぶん狭いところにいるなぁと感じてしまいます。同じ時代、同じ空間に生きながら、まったく異なる世界がいくつも存在していることに気づく。同じ科学者族でも異なる価値観、哲学を持って、同じ目標を目指している世界も見える。ひょっとしたら自分は一線を越えてしまったのではないかと思う。自分の居場所を変えた方が良いのではないかと。いや、これらの世界を統合することも仕事なのではないか。個々の科学の分野は剣山(花を生ける時に使うやつ)の針である。たくさんある針を束ねることを考えねばならないが、針は尖っていて、刺されると痛いものです。でも、花が生けられると、全体として一つの生け花になる。その時、共通の目標が達成される。なお、科学の「剣山モデル」は学術の動向2017年12月号の塚原さんの論考から。 (2019年7月3日)

「理解のない共感」と「共感のない理解」

購読している雑誌「地理」は全部読まにゃあかんと思い、ためてしまったバックナンバーを順次読み進めているところですが、4月号の熊谷圭知さんの「『南洋』の新しい地誌を描くために」でいいフレーズを知ることができました。「理解ある共感」が全うなのですが、タイトルの二つの場合があり得る。「理解のない共感」とは主観的な思いこみ。「共感のない理解」とは支配のための理解。環境問題や社会問題に関わっていると往々にしてこの二つの場合に出くわす。ステークホルダーとの関係が分断されているのが前者、上からの一方的な目線が後者といえるだろう。我々はうわべの事実だけでなく、背後にある真実を見通す視力と習慣を持たねばならぬ。(2019年7月2日)

Simon&Garfunkel

この名前を若者は知っているだろうか。最近、なぜか無性に聴きたくてたまらなくなり、先日酔っ払った勢いでAmazonで発注したCDが2枚届きました。「Wednesday Morning, 3AM」と「Parsley, Sage, Rosemary and Thyme」。持っているCDはS&Gのオムニバス1枚だけでしたが、届いたCDに収録されているほぼすべての曲を知っていました。中学生の頃はラジオしかありませんでしたので、曲を知るということは大変なことだったのだよ。40年くらい前に買ったS&Gの楽譜がかなり忠実なコピーで私の宝物になっていますが、一生懸命曲を聴いて、覚えたこともありました。人は時代を背負って生きていく。改めて老いを感じますが、それを誇りとして生きていきたいと思います。(2019年7月1日)


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