口は禍の門

令和元年の折り返しを迎えた。あっという間の半年だったが、この間に意識するようになったことは体調が心身ともに確実に下降基調にあるということ。理由の一つは加齢であるが、自分の立ち位置の不安定さも理由になっているのだろうと思う。進む方向は二つ。このまま沈没するか、主張を続けて時代の流れを牽引するか、はたまた敗退するか。しかし、敗退は新しい生き方の発見になるかも知れない。定年まで3年と半年ですので、だんだん怖いものはなくなってくる。恐れを捨ててわがままを貫くか。とはいえ、迷惑は避けねばならない。いや、迷惑何するものぞの精神で行くか。これに対する助言は"苦しんでください"となる。それが人生というものだろう。(2019年6月30日)

新しい年度が始まりました。時間は粛々とその刻みを進めているだけですが、新しい元号も決まり、人の時代は確実に変わっていくだろう。The Times They Are A-Changin' 、ディランのいうように古い人間は若い者にその役割を譲らなければならないか。私は老いてしまったが、まだ役割はあるだろうか。それは決して階層の中で押しつけられた仕事をする役割ではなく、何かを変革する役割。でも、それは若者の仕事だろうか。今の若者もディランの時代の若者と同じ熱さを持っているだろうか。熱さなんていってるのも老いた証だろうか。なんてつぶやきながら、新しい時代をどうしてやろうかと考えている。(2019年4月1日)

新しい年の元旦ですが、地球はいつもと変わる様子もなく、粛々と運行を続けている。人生も無事(事も無し)というのが幸せのひとつの形だと思うが、生きるために稼がなければならず、今年も様々な柵に右往左往しながら暮らしていくことになるのだろう。私は環境の研究者であるので、未来について考える。そのためには哲学、価値、倫理に対する自分の考え方が必要なはずである。予測しなければ人は生き様を決められない訳ではない。未来は科学技術が進歩して、何をやるにも便利な社会ということでなくても良い。貨幣を増殖させるために新たな需要を生み出すことにあくせくしなくても、必要を満たした上で、少しのゆとりがあれば良い。科学の成果も、今でなくとも10年後、100年後に達成するのでも構わないものはたくさんある。人にとって大切なものは何か。それは幸せな暮らしであるはず。便利で格好いい暮らしという訳ではない。哲学、価値、倫理に対する考え方を身につけ、今の時代を創っていくことが我々の勤めだと思う。SDGs、Futuer Earthはすでに発進している。この10年は人類の歴史にとって大きな転換の時期になるはず。(2019年1月1日)

2018年12月までの書き込み


学術と政策

一年の折り返し点の今日は日曜であるが、学術会議の地理教育分科会であった。委員にはなっているが、地理教育全般には疎いので議論の内容は厳しいものがある。その中で学界の活動と政策との関わりに関する話題がでた。考え方が一致しているわけではないが、地理学は昔(戦後)から政策には関わらない姿勢を保っているということがなんとなく伝わってくる。しかし、地理学が持続可能性社会を考える学であるならば、政策に積極的に関与しなければ目的を達成できないのではないか。そのためには、学界だけでなく、省庁や地方行政に地理学者がもっと入り込み、相互に情報交換しながら政策の実現を目指すという手続きが必要。その過程で、他の分野とも議論しながら、共通の目的の達成を目指すということがあってよいと思う。それができてこそ成熟した"学"である。(2019年6月30日)

二つの持続可能性

持続可能性は昨今枕詞のように使われる単語であるが、実は二つある。環境社会学者の関礼子氏の文章を読んでいて気がついた。「資源保全、あるいはサスティナビリティーという概念が政策的に上から降りてくるときに想定されているのは、目的としての保全や持続性であって、結果としての保全を可能にしている資源利用や社会的しくみの「保全」ではない。地域性や地域の特殊性はほとんど考慮されていない」(宮内泰介編「なぜ環境保全はうまくいかないのか」中の関礼子「自然順応的な村の資源保全と『伝統』の位相」)。SDGs、Future Earthの時代になり、理系の科学者諸子も持続可能性を声高に唱えている。しかし、その持続可能性は目的としてのそれであって、現実の諸相の包括的な分析と理解に基づく提案となっているだろうか。理系の研究者は"現在"の中にある持続可能性に対する気づきが不足している。だから、未来志向が強くなる。この世界を時間軸上でとらえると、それは決して右肩上がりの発展が永遠に続く訳ではないことは自明であろう。今の日本の"現在"を認識すると、どのような持続可能性を創りあげたらよいか、明らかになってくるが、それは"現在"をよくする方法でもある。(2019年6月29日)

人の世界と重なる別の世界

昨日、通勤で京成実籾駅前を通過中、ヒナを1羽つれたカルガモが道路を横断する光景に遭遇した。ドラレコに記録成功。なんでこんな雑踏の中にいるのか。ヒナはもっといたのではないか。想像するだけで切なくなる。今日は我孫子市クリーンセンターの視察があった。公にはできないが付近にはある野生動物の存在が報告されている。都市とその周辺には人間ではない生態系が存在し、人間の生活圏と重なっている。カルガモは人に姿をさらすことにより、身の安全を図っているが、人知れずこっそり暮らす動物もいる。この世界は人間だけのものではないのである。人間中心主義でいくか、他の生態系も尊重するか、そういう二元論ではないのだろう。人間以外の生物も幸せに暮らせる世界こそが人間にとっても心地よい世界なのだと思う。(2019年6月28日)

野依博士「本気で怒っている」

日本の教育に危機感と続くが、Yahooニュースから。元は今年の正月の教育新聞電子版の記事。教育は何のためにあるか。野依先生曰く、人が豊かな人生を送るため、国の存立と反映のため、人類文明の持続に資するため。その通りであり、野依先生がおっしゃるとおり、学校教育は社会のためにある。しかし、現状はそうなっていない。ちょうど学術会議の幹事会便りが届いたが、そこに「大学支援フォーラム」(PEAKS: Leader's Forum on Promoting the Evolution of Academia for Knowledge Society)発足の紹介があるが、甘利議員の挨拶の文言によると、大学は金儲けの道具として期待されているようだ。確かに平成の時代に大学は大きく力を落としたが、経済成長への貢献もあるとすると、それは大学の役割のごく一部である。昨日は大学における研究の企画、支援に関する会議があった。評価が主な仕事だが、総合大学における様々な分野からうまくいきそうなものを抽出し、支援するということで、それは文科省の意向に沿うということと同期している。総合大学の教育・研究機能を向上させるためにはどうしたら良いのか(文科省に褒められるためではなく、千葉大としての独自性を発揮するために)。それは異分野間の対話であり、そこには教育も含まれる。強いものに気に入られるための教育ではなく、誇りをもって生きていける力を総合大学としては学生に育んでもらいたい。それは社会、世界を俯瞰し、自身を位置づける力である。しかし、現状は分野の細分化が進み、個々の教員、学生の意識世界は狭量になり、かえって対話を阻害する要因にもなっている。私も怒っている。しかし、怒っているだけではだめだ。提案し、対話を重ねる努力をしなければならないのだよ。(2019年6月26日)

天職だね

日曜朝、NHKの"小さな旅"のあと、"中井貴一のサラメシ"をみるのが楽しみ。今日は南極越冬隊の調理担当のお父さんのお話。お父さんが南極で仕事をしている場面を家族が見て、中学生の娘さん、「天職だね。楽しいそう」。天職に巡り会った人は幸いなり。世の中、自分の仕事が天職といえる人はどれだけいるのだろうか。研究者は天職といっても良いと思うが、楽しいかというと、つらい、苦しいことの方が多い。それは研究者の仕事の大部分が、外形的な成果を挙げること、上の指示に従うこと、になっているから。天職といえる仕事は職人仕事が多いと思う。自分で考え、実践し、辛いけれど壁を乗り越えて"お客様のため"を通じて満足を得る仕事。そう考えると研究者は職人ではなくなっている。もともと(狭義のサイエンスにおける)研究は自分の興味を満たすための仕事であるが、今では(社会というニュアンスの)お客様よりもパトロン(かつての貴族、今は国あるいは企業)に心身ともに支配されているようだ。職人とはちょっと違う感じ。パトロンとの関係が悪くなっていることが研究者という職業の問題点だろう。その最たるものが、意義がよくわからない仕事、上に立つものの幸せのための仕事をしなければならないということ(様々な評価とそのための書類づくり)。これは大学だけではなく、国の研究所でも同じだという(雑談で確認)。研究者という職業が天職になるためには、まずステークホルダーとの関係性(社会の中の科学、社会のための科学)と科学技術行政におけるガバナンスのあり方を見直すこと(何のための科学か、誰のための科学か)、この二つが必要。これは国や社会のあり方を問い直すことにもなる。科学者は哲学者、思想家である必要がある。そうでなければ自分の研究の真の価値を説明することができない。その価値が認められてはじめて研究者という職業が成立する。南極のサラメシから話が広がっちゃいました。天職であるためには、心は支配されてはいかん。(2019年6月23日)

楽しく飲む

今日の千葉大学、千葉県農林総研、JA全農ちばとの打ち合わせは、「三者の風通しを良くして、協働し、千葉県の農業を強くする」という観点からは一歩前進であったと思う。その後、松戸駅前で一杯やったのですが、私は酔っ払って心に溜まっていた諸々の事柄が一気に噴き出してしまい、皆さんにはご迷惑をおかけいたしました。自分の心が病んでいるのか、正当な主張なのか、大人げない行為なのか、よくわからん状況になっていますが、人生も残り少なくなっていることは確実ですので、訳のわからん力に流されないように生きていきたいと思っております。ただし、人様に迷惑をかけてはいかん。楽しく飲むこと、これが一番。(2019年6月19日)

地球惑星科学分野の科学・夢ロードマップ

第3部地球惑星科学分野のロードマップ改訂ができあがったとのことでお披露目がありました。この分野の科学者が考える夢ロードマップという点に関してはおそらくこうなのだろうなと思います。地球惑星科学は持続可能な世界の実現を目指しますが、その過程には環境問題や社会問題の解決が含まれると読みとることができます。しかし、科学技術主義だけでは問題は解けないことについては社会的合意は得られつつあると思います。よって、人文社会系も含む学術の担い手と様々なステークホルダーとの間で合意できる世界のあり方について議論を深める必要があります。持続可能な世界は人類の共通の目標と考えられるので、包括的な視点から、そのあり方について議論することが次の課題です。もちろん、一つの生き方に囚われる必要はなく、包摂的な社会のあり方に関する議論になると思います。この部分がないと、現実の問題の解決に取り組んでいる他分野の科学者から見た夢ロードマップは"幸せな科学者が考える明るい未来"と見えてしまうだろうなと思います。未来を語ることと同時に、複雑多様で様々な利害、思想、価値が錯綜する現実世界の問題を直視した上で、現在と未来の関係を考える必要があります。そのためには学術とステークホルダーの協働、すなわち超学際が必要になりますが、その時、地球惑星科学の役割は相対化されます。それでも目的の達成を共有し、役割を果たし続ける態度が必要なのですが、ここに文理融合の壁があると思います。(2019年6月14日)

基礎研究とは

基礎研究の重要性については皆さん主張なさるが、その中身については深い議論がされているとは思えない。ちょうど「学術の動向」6月号の中で表記のタイトルの玉尾さんの記事を見つけたが、図がないので文章を解読してを作成してみた。科学研究の分類としてStokesの4象限モデルというのがあるそうだ(調べたら書籍で、ペーパーバックが安く買えるので早速アマゾンで注文)。x軸にNon-applied research(1)とapplied research(2)、y軸にnon-basic research(1)とbasic research(2)をとると、4象限に分けられる。第2象限の(1,2)はpure basic research(Bohr)、第1象限の(2,2)はuse-inspired basic research(Pasteyr)、第4象限は(2,1)でpure applied research(Edison)ということになり、第3象限は空欄となるそうだ。このStokesの17年前に物理学者の上田良二が同様な4象限モデルを提唱しているという。上田の4象限は、応用と純正、基礎と抹消で分けられる。応用の対比は純正で、基礎の対比は抹消というのがおもしろい。これをStokesの分類に当てはめると、第1象限が「基礎」、第2象限が「純正」、第3象限が「末梢」、そして第4象限が「応用」となるという。Stokesの分け方とはしっくりこないのだが(赤字は玉尾さんが上田の考え方を4象限に割り当てたものだが、ちょっと違う気がする)、湯川は「純正基礎研究」、トランジスターやレーザーの発明は「応用基礎研究」となるとも述べている。大学の研究の多くは「純正末梢研究」で、会社の研究の多くは「応用末梢研究」であるというのはおもしろい。大学では論文のための研究も増えているだろう。考え方はなんとなくわかった気分になるが、玉尾さんは化学が専門。その意識世界は研究者の世界および高度経済成長の時代に形成されたのではないかと想像できる。現実を俯瞰する環境学の立場からは、Eco-DRRやグリーンインフラはどこに分類されるだろか。玉尾、上田ダイヤグラムは右肩上がりの社会における科学の考え方といってよいと思う。環境学の立場からは、空間、時間の概念を取り入れることにより、定常社会における新しい基礎研究のあり方を示すことができるような気がする。それはこのとは大分異なったものになると思う。少しずつ考えていきたいと思う。(2019年6月13日)

"どこ"と"ため"

イージスアショアの秋田への配備を巡り、防衛省がグーグルアースを使い、さらに使い方を間違ったという問題は、ちょっとびっくりです。地理を勉強してないんかいな、と突っ込みを入れたくなりますが、何とも「のどか」な状況です。こんなことになった背景には、日本が豊かな国になったということがないだろうか(もちろん格差は増大しているが)。適当に仕事をしていれば何とか暮らせる社会の中で、何のための仕事か、ということが忘れられてしまった。だから、降ってきた仕事を適当にこなした結果、こんな事態になった。我々は、まず自分が"どこ"にいるのかを認識し、そこでは何の"ため"に仕事をするか、ということを自覚する必要がある。ただし、"ため"は"どこ"によって異なる。平穏な暮らしのため、家族のため、地域のため、そして組織のため。様々な"ため"がある。この"ため"が矛盾の原因になることもある(大学人が典型)。しかし、"ため"を自覚して生業を選択することにより、それぞれの"どこ"が決まっていく。"どこ"が決まって"ため"が明らかになってくる場合もあるだろう。"どこ"と"ため"がマッチしている。これが幸せの条件の一つではないだろうか。(2019年6月12日)

為政者の視線と研究の現場

朝日夕刊の記事で、「大学教員3割以上を若手に」という見出しが目に付いた。政府の統合イノベーション戦略推進会議というところが纏めた戦略に書いてあるとのこと。早速本文を探して「若手」を検索すると91ページの文書の中に46カ所の「若手」が見つかった。ざっと見てみたが、かっこいいことは書いてあるが、若手の雇用を増やす場合の全体の人事に関する考え方は見つからなかった。大学の定員純増なのか、シニアをクビにするのか。はたまた格付けしてプレッシャーをかけるのか。そもそも若手を増やすことで日本の研究力は高まるのか、どういう考え方に基づいているのかまったくわからん(もし記述があったらご指摘ください)。おそらく研究と教育の現場の実状を知らない偉い人が文章を纏めたのだろう。これで担当者は一時幸せになるのだろうが、研究の現場に視線が向いていない為政者の施策が現場をますます疲弊させないことを祈るのみである。さて、この事態に一言申すにはどうしたらよいか。いくつか機会はあるので追々纏めてみたい。重要なことは、何のための研究か、を考えることである。(2019年6月11日)

苦しんでください

千葉大学の授業料値上げに関連して英語教育について調べていたら、内田樹の「英語教育について」に出会った。その中にあった平田オリザの言。「日本の今の英語教育の目標は『ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育』」。もちろんユニクロの店長は高い能力が要求される有用な仕事であるが、一人いれば足りる。なるほど、日本の英語教育では、その他多数の若者たちが見えていないということだ。日本の英語教育には何のために学国語を学ぶのかという点の熟慮が欠けている。内田樹流にいうと、目標言語はあるが、目標文化がない。英語教育が経済と競争のために必要という論理に基づいており、格付けにしかなっていない。格付けではやる気が起きないわけである。特に私のような人物は。文科省の一連の報告等を見ていると、その背景にあるのは狭量な都市的世界観であるように感じる。日本全体、および世界を見通す視野が備わっていないように感じるのである。日本独自の生き様をみせてあげましょうという気概が感じられないのである。強者と肩を並べていないと不安でしょうがないという感じがビンビン伝わってくる。ただし、この不安は文部科学行政の上位の担当者の不安にすぎないのだ。世界は広く、様々な選択肢があるのに。やはり、私は野にいて、正しいと信じられることを粛々と実行していくしかないのだが、様々な困難が立ちはだかるだろう。そんな場面では、内田樹流にいうと「苦しんでください」となる。教育や環境といった課題と貨幣経済における競争は両立しないから。わがままといわれることもあるだろう。なんて奴だと思われることもあるだろう。その苦しみを受け入れて粛々と歩んでいくしかないのか。私はそんなに強くはないのだが。(2019年6月10日)

学会の役割

環境社会学会の大会、総会に初めて参加した。社会系は理論的な議論ができないとあかんという意識があり、敷居は高かった。初めて議論の内容を聞いたが、何とかなるかもしれんなと思った。実は会費値上げの情報があったので総会の議論を聞こうと思ったのだが、固定費が収入を上回っており、値上げ以外に道はないとのこと。同じ様な状況にある学会はたくさんある。予算で昔と違うものに事務委託費がある。現在の学会を運営するには不可欠の予算だが、昔はなかった。学会役員が手弁当でいろいろな用務をこなすことができた。それは学会が若く、学会の目的を会員みんなが共有していたということがあると思うが、それよりも社会にゆとりがあったということはないだろうか。学会活動を担う主体はどうしても大学人ということになるが、今は大学人が空しい仕事のため忙しすぎる。その忙しさの元凶を糾弾することはたやすいが、それは日本が右肩下がりの時代に突入したことの現れでもある。では、どうすればよいか。新しいモードの社会に移行するしかなく、それは可能だと思うのだが、なかなか世の中そうはならない。そこにこそ学会の役割があるのではないか。(2019年6月8日)

グローバル教育とは

千葉大学の学費値上げが報道発表された。年間10万円ほどの値上げは庶民にとって大きな負担である。値上げ分は学生の留学に使うというが、その詳細はまだ不明である。海外の都市へ語学研修なんてことだったら理念が疑われる。それよりも国内の地方、農村漁村へ学生を研修に出すとよい。日本は都市的世界の住民が増えてきたが、実は豊かな農村的社会があり、都市的社会を支えている。二つの世界を認識し、生き方を自分で選択できる力を持つことこそ学生が大学で学ぶべきことである。学費値上げを成功に導く戦略はまだ示されていないと思う。そもそもなぜ大学運営予算が足りなくなったか。少子化を背景とする大学大綱化、法人化の流れの中で、評価に関わる無駄な仕事が増えたこと、同時に形成された大学人のエリート指向がより予算を必要とすることになった、という背景がある。文科省に寄り添うだけでなく、千葉大学の将来を真剣に考えないと、滅亡の文字が見えてきそうな気がする。(2019年6月7日)

スーパーマンに憧れて

大学が求めてきた職場の中期評価暫定版報告書を提出したと思ったら、今度は文科省から「平成30年度実施状況報告書」を提出せいとの指令。何のための仕事か、誰が幸せになる仕事か。これ以外にも学内の評価に関わる仕事で、書類を読み込まなければならない仕事が2件。時間がいくらあっても足りん。そいでもって、論文を書けい、英語で書けい、インデックス高いジャーナルじゃなきゃだめ、予算取れい。スーパーマンになりたいものだ。(2019年6月3日)

この世の星

毎週楽しみにしているテレビ番組は、「房総熱血TV」、「NINJA-JA」(放送終了していた!ショック)そして「小さな旅」です(太田和彦の『ふらり旅 新・居酒屋百選』と吉田類の『居酒屋放浪記』も入れておかねばなるまい。ケーブルテレビの契約が変わって旅チャンネルの『太田和彦の日本百名居酒屋』が視聴できなくなったのは痛い)。今日の「小さな旅」は嶺岡。大山千枚田の映像に既視感。まだ行ったことないのに。ストリートビューで見ていました。先日娘が仲間と行ったそうで、美しい写真を送ってきました。近日中に行かねばなるまい。番組では都会からやってきた棚田オーナーの方々。都会の忙しい暮らしの癒やしだとか。そういう方々はたくさんいるはず。これからの社会は都市的世界と農的世界を自在に行き来できることようにしなければあかん。そのためには、人の意識世界を広げること。二つの世界を俯瞰できる視点を人が持つためには様々なアクション、そして教育も必要。私の与生(科学技術によって与えられた生だから)は二つの世界の共存がアクションテーマである。しかし、世の中はそうなっておらず、都市的世界によって牽引されている。昨日は書類作りをしながら高等教育に関するいくつかの文科省の報告に目を通していたが、その中に書かれた未来は第4次産業革命とかSociety5.0という文言に飾られた未来の都市的世界であり、"もうひとつの世界"が顧みられていない。研究にしても論文数とかインデックスのみが取り上げられ、研究することの目的に対する考察はない。委員の先生方が暮らす狭い都市社会の中で、何とか強いものと張り合って(自分の幸せのために)大学をむち打っているように見える。しかし、農的世界を尊重、志向する人々、競争より協調を選ぶ人々、グローバルよりローカルに安心を見出す人々、そんな人々がたくさんいることは確かである。私はそんな人々を「地上の星」と呼びたい(ありがとう中島みゆき)。いつか地上の星はこの世の星となるのだ。(2019年6月2日)

働き方改革とはつらい評価に耐えること

もう6月か。土曜出勤で仕事をしているのですが、パソコンに「入力ミスが多くなった、休憩せよ」と怒られました。ATOKリフレッシュナビというアプリが疲労感スコア81を出してきました。こんなんあったんか。新年度になってからは、大学のこと、職場のこと、学会のこと、学術会議のこと、国や県のこと、研究のこと、教育のこと、その他のこと、多数のやるべきことがどっとやってきていますが、すべて時間をかけて頭でじっくり考えなければならないこと。集中力も途切れ、全体のパフォーマンスは確実に下がっている。頭痛と耳鳴りは相変わらずですが、昨年受診したMRIは何ともなかったので定年になったら解消するでしょう。最近は酒を止められなくなってきましたが、酒は癒やしです。とはいえ、仕事が多いことが問題なのではない。理念がはっきりしない仕事があることが問題なのである。研究は何のために行うのか。教育の目的は何なのか。誰の幸せのための仕事なのか。大学から給料をもらっているのだから、大学のための仕事をするのは当然だろう。しかし、その給料は税金が原資である。社会のための仕事をするのは当たり前。この二つの仕事の間に齟齬があってはならんのだが、どうもおかしい。今日は書類を完成させなければならないのですが、無理っぽくなってきた。あいつは仕事ができないと思われることが普通の人にとっては一番つらいことですが、働き方を改革せねばならん。それはつらい評価に耐えることでもあるのだよ。自信をもって飄々と生きたいものだ。人はワガママというかも知れないけどね。(2019年6月1日)

ストレスとのつきあい方

会社の経営陣が、自社の力を把握せず、業界全体の中における位置づけも知らず、親会社に気に入られるために、職階の下位に発破をかけると何が起きるか。世の中で起きた事例はたちどころにいくつも挙げることができる。十分反省材料は出ているのだが、大学はそうではないのかなぁ。最近はストレス過剰である。先日、酔った勢いでアマゾンに発注した3枚のCDが届いた。Janis IanとCyndi Lauperのベストアルバム。なんとも懐かしい。心がすっと洗われていくような感じ。もう一枚は、Chantal ChamberlandのアルバムSoiree。この人の歌声は心に落ち着きをもたらす。こうやってストレスを緩和してつきあっていくしかないのだなぁ。定年まで3年と10ヶ月。まだまだやんなきゃならんことはいっぱい。(2019年5月31日)

JpGUの将来

最近吠えてばかりいます。今日もJpGUの"U-08日本地球惑星科学連合の将来に向けた大会参加者からの意見と提言"でやっちまいましたが、恐らく真意は理解して頂いていないと思うので、説明しておこうと思います。まず、JpGUの名称の中に"human"が入らないかという提案をしました。実は2005年のJpGU設立のための委員会で名称について質問したのですが、JpGUに集う学協会により意味が変わるのだ、が答えでした。その後、"地球惑星科学"から"地球環境変化の人間的側面"が想像できるようになったでしょうか。私はまだまだだと思います。人間的側面がテーマのひとつであることが名称からわかれば、関係する諸学会の参加を促すことができ、"(狭義の)地球惑星科学"との協働により環境や社会における問題解決"solution-oriented science"の議論が可能になります。SDGsやFuture Earthはこのことの重要性を語っています。このことはまたセッションで熱く議論された英語問題と関連しています。英語で発表を行うということの背景には普遍性を重要と考える欧米思想があります。しかし、環境問題や社会問題はそれでは解けません。普遍性の上位にある個別性を理解しなければならないからです。科学は問題解決に必要ですが、科学だけでは個別の問題は解けないのです(トランス・サイエンス)。個々の問題に深く入り込み、様々なステークホルダーの立場を理解しなければ合意は形成できない。そのための文理融合の議論を行うために日本語のセッションが必要です。英語セッションは、それらの成果を世界でシェアする場であり、メタ解析や比較研究により、上位の課題にアプローチする場でもあります。日本語セッションは個別学会で行えばよいという考えもあり得ますが、今のJpGUが"share globally"の場を提供できるか、というと否です。環境問題の人間的側面を取り入れた総合的な議論ができる学会であるということを示し、信頼を得ておかなければならないからです。そのために名称に"human"が必要なのです。日本は成熟期に入りました。これからは経済成長を前提とすることはできない。ならば、地球社会に対する進んだ思想を提示すること、それを日本の力にしなければならない。JpGUも守備範囲を広げて、社会の要請に応えられる学会組織にならなければならない。ただし、私も老いました。過去の清算をするためにしばらくは吠えますが、その後は若手に任せたい。 (2019年5月30日)

関係性の分断

先週の環境リスク分科会のシンポジウムでは"福島"を理解するキーフレーズとしてこのことを述べた。この世に関係性の分断が蔓延している。このことがおかしな事件を引き起こし、幸せが奪われる。川崎で起きた事件に対して二階さんはしっかり対応するとのこと。どう対応するのだろうか。刃物の所有を制限したり、道路に柵を作ったりするのでは、社会が息苦しくなるだけである。犯人の心の闇を解き明かさなければならないが、もう口を開くことはない。しかし、確実に言えることは自分の目の前にいる人の先には喜びも悲しみも包含する"世界"が広がっていたということ。犯人の"世界"と人の"世界"が分断され、意識されることがなかった。だから、刃物を人に向けることができた。では、犯人の"世界"はどんなものだったのか、どのようにして形成されたのか、社会のあり方との関係は。もう知る術はないのであるが、我々は想像することができる。想像しなければならない。この社会の問題は何か。人の幸せのためには何が必要か。それを主張し続けることは環境に関わる研究者の役割だろう。(2019年5月29日)

社会と科学-たまたま続き

私はまじめすぎるのかなぁ。社会の中で教育と研究を担う大学の運営には理念が必要だと考えているが、それとは裏腹の近視眼的、狭量な判断はあり得るのだろうか。何のことだかわからないと思いますが、それは想像してください。現在の大学には大きな問題が存在していますが、それは少子化に伴う大学大綱化、法人化の流れの中で醸成されてきた大学人の悪しき精神的習慣があると思います。しかし、科学の担い手であるのならば、世界の流れを睨みながら、新たな目指す方向性を明らかにした上で(それは個性でもあります)、未来における"社会の中の科学"を形成できる人材を育てようという確固たる方針を打ち出すことはできないのだろうか。私は現在国家公務員でもありますが、その仕事は学術の価値を社会の中に位置づけることです。それが大学の運営方針と交わらなくなっている。そうだとすると由々しき問題である。SDGsやFuture Earthはみんなの幸せをめざすものです。ヒエラルキーの上だけが幸せになるのではいかんのである。(2019年5月29日)

社会と科学

最近ずっと研究者批判ばかりやっており、それが自分のストレスの原因にもなっているのですが、どうしようもないですね。昨日の日本学術会議地球惑星科学委員会(予算がないのでJpGUの会場で行われました)では夢ロードマップの話題がありましたが、あれは研究者の世界の中で思い描く夢を語っており、現実の社会との関係は希薄である。もう大幅な修正はしたくないとのことで、余計なことはいいませんでしたが、現在の社会の状況の詳細な分析があれば、中身は相当変わってくるのではないでしょうか。今日のJpGU学協会長会議も型どおりの議事進行で終わってしまいましたが、昨今の学会会員数の低迷は単に日本の経済状況の表れに過ぎず、もしサイエンスを仲間で楽しくやるだけならば特段問題はないはず。社会に対する学会の役割を意識するところで問題が現れるのであるが、肝心の学会と社会の関係については十分な議論と認識が達成されていないように感じる。社員総会ではそのことをさらに強く感じた。JpGUの目的は国際化だろうか。エリートサイエンティストのためのJpGUになってしまっているように思う。ここにも社会の現状に対する分析不足があるように感じる。そんなことを思いながら帰宅したら、朝日夕刊で「日本の科学 基礎研究に危機感」の記事を発見。どうも"基礎"の意味が曲解されているように思う。ノーベル賞受賞者の本庶さんは「応用だけでは大きな問題が生じる」、大隅さんは「(応用研究が重視されている現状を)とても危惧している」と述べているが、応用の意味を誤解していないか。金に結びつく研究だけが応用研究という訳ではない。社会的課題の解決を意識し、協働の枠組みの中で科学の役割を果たす研究も応用研究であり、科学の重要な役割である。研究して論文さえ書いていれば、自分ではないだれかが社会のために役立てるのだ、という考え方を乗り越え、ステークホルダーと一緒に問題の解決を目指し、行動し、その中で科学の役割を果たすという態度が現在の科学界に求められているのである。SDGsがなぜ出てきたか。Future Earthでは科学者がどのような行動をとろうとしているか。それを考えればすぐにわかるはず。ところで、学術会議に金がないのは手続きの問題か、日本の経済状況の反映か、国民の学術に対する意識のあらわれか。我々はじっくり考えてみる必要がある。(2019年5月28日)

不幸の道連れはいらない

チバニアンの雲行きが怪しくなってきた。反対者が土地に賃借権をつけ、審査が困難になっているとのこと(朝日朝刊)。認定がだめになったとして、誰が幸せになるのか。真実はわからないが、何となくイソップ寓話を思い出す。人というものは自分が気に入らない相手をけ落とすためには、自分の命でさえ投げ出すことができる存在。そんなことはあってはならん。なぜ気に入らないのか。研究というものが名誉を追うためのものであるならば、そんなものはやめてしまえ。不幸の道連れはいらんぞ。とはいいながら、やはり真実が気になる。反対者は私の印象だと"自分の発想"に対する思いが人一倍強いように感じる。自分が発想して進めてきた(と思っている)研究が、他の強いグループによって達成されてしまうとしたら、それはさぞかし悔しいことだろうとは思う。私にもそういう経験はある。しかし、現行の科学のルールなのでしょうがない。その上を行く研究を達成するしかない。ただし、この場合の科学は資本主義と親和性の高い科学である。別の科学もあるのではないかという思いもある。(2019年5月26日)

微力であるが無力ではない

学術会議環境リスク分科会では日本の公害問題を総括する作業を進めている。福島の原子力災害も公害と同じ構造を持つので、私が担当となり今日のシンポジウムで話をさせていただいた。ただし、自分の研究成果を話すだけでは独りよがりになる。自分の関連分野だけでも数百の論文があるが、それを纏めて一つの考え方を提示することなどできない。そこで、自分の経験に基づき、自分が原子力災害をどのように理解したのか、という点について話をした。それは福島で起きたことに対して様々な考え方があるのはなぜか、という問いに対する答えでもある。問題の解決とは諒解にすぎず、それは科学的合理性を越えた領域でこそ達成できるものである。福島の問題は階層構造を持ち、トップレベルでは近代文明や資本主義のあり方にも関わってくる。短い時間ですべてを伝えることは難しかったかもしれない。しかし、微力ではあるが無力ではない。このことを肝に銘じて、ある種の方々には煙たがられる存在を続けていきたいと思う。(2019年5月25日)

大学人の役割

今日は弁護士の訪問あり。ある件に関する意見聴取なのであるが、今回は自分の立場は中立をとった。自分が若ければ、一緒になって地域を守るために戦うという選択もあっただろうが、年を経て様々な関係性が見えている。それぞれの立場と、その先にある重い世界も見えるのである。だから、ひとつの立場に自分を置くことができなくなってくる。それは大いなる矛盾でもあるのだが、それを正すには時空を越えた糸の絡まりを解す必要がある。今回の自分の立場はPielk(2007)のHonest Broker of Policy Alternative(複数の政策の誠実な仲介者)になるだろうか。この立場はもっともらしいが、自己保身にもつながりやすい。いい人になりたいという欲求が人にはあるから。しかし、深く考え抜いた思想、哲学があるのならば、Issue Advocate(論点主義者)であっても良い。ただし、それは自己満足にはなるだろうが、問題の解決に対しては非力であることも多いだろう。問題が地域の問題であろうと、問題には階層性があり、近代文明、資本主義の問題とも関係性がある。大学人としてできることは、つまらん成果主義に陥らずに、自分の考えを主張し続けること、それだけかもしれない。だから、常に自分の主張をより広い世界の中に位置づけるための経験、勉強に励まねばならんな、と思う。(2019年5月24日)

「志」と「理念」

朝日の連載「幸せのかたち」から心に留まったフレーズ。経営コンサルの小宮さんの話。強い会社とは何か。多くの社員が語ったのが、「働く目的がしっかりしているのが強い会社」ということ。目的がしっかりしていれば、たとえ状況が厳しくとも働き続けられる、と。では、大学はどうだろうか。目的はしっかりしているだろうか。大学、特に総合大学で教員として働く目的は各人ごとに多様である。その目的の多様性、階層性が理解され、大学存在の目的として位置づけられているだろうか。ここは大いに議論すべき論点である。職階が上位にあろうとも、"意識世界"が相応の広がりをもつとは限らないからである。またコラムでは「会社が危機にあるほど、会社が事業を通じてどんな社会貢献をしていくかという『理念』がよりどころとなる」、という。総合大学の教員は共通の「理念」を共有しているだろうか。これは明らかに否である。現在のゆがんだ研究評価のあり方も否の要因のひとつであろう。個々の教員はそれぞれ尊重すべき理念を持つ。それを包摂するフレームが明示されていないため、個々の研究者、研究分野の間で対立さえ生じかねないのが現状である。個々の理念を包摂するフレームがあれば、対立から強調に変わることができるはずである。このコラムの締めくくりは「『志』と『理念』が幸せな職場の必要条件」、となっている。一方的な「志」と「理念」に振り回されるのではなく包摂的な「志」、「理念」の中に個々人のそれを埋め込むことができればと思う。包摂的な考え方はすでに示されているのだから。その一つはブダペスト宣言であり、SDGsでありFuture Earthの概念である。(2019年5月24日)

大学人の役割-価値の創造

今日は月曜日。大学管理の仕事を本格始動させなければならない。自分とは異なる価値観に駆動される仕事というのはモチベーションがあがらないものだ。しかし、組織人ですのでやらねばならないのです。我ながらわがままだと思うが、これが人を老いさせる。ふと思う。昨日彼の地で起きていることに対して、ひとつの正しさ、ひとつの価値観しかないのなら文明国家ではないと妄語したが、実は日本はもはや文明国家ではないのではないか。改めて思う。古い価値観に囚われている場合ではない。大学人こそ、新しい価値観を創り出さなければならない。それができるのが大学人であり、それこそが役割ではないのか。私は学術の世界に属している。学術が誰の幸せのためのものなのか。深く考察して、発信していかなければならない。とはいえ、強力な文部科学ガバナンスのせいか、古い価値感に囚われてしまっている大学人も多い。それは自己防衛でもある。ここをどう打ち破るか、それが大学の将来を決める。(2019年5月20日)

ひとつの正しさしかない社会

朝日朝刊ではウイグルの問題を大きく取り上げている。彼の地で何が起きているのか。ある卒業生は帰省したきり戻ってこなかった。学生には不安、あきらめ、...。真実はわからないが、ただひとつ確実にいえることは、正しさはひとつではないということ。“私が正しいので、違う考え方のあなたは間違っている”という論理でひとの人生は変えられない。人生というものはかけがえのないもので、他人の勝手な評価で生き方を強要できるものではない。文明国家とは何か。様々な異なる考え方も包摂できる存在である。ひとつの正しさ、ひとつの価値観しかないのであれば文明国家ではない。(2019年5月19日)

エンゲージメント

この言葉は環境問題や地域づくりに関する研究のコンテクストでよく聞くのだが、意味はよく理解していなかった。朝日朝刊のコラム「経済気象台」で「従業員エンゲージメント」という用法を知ったが、著者によると「信頼関係を前提に、前向きに企業に貢献しようとする従業員の意欲」ということ。ビジネス分野でよく使われているらしい。環境研究や地域研究の分野ではエンゲージメントとは「問題の解決をステークホルダーと共有して、協働して達成を目指す態度」ということになろうか。研究者はステークホルダーと共感を共有し、同じ理念を持ち、科学的合理性を問題解決に役立てるということになる。研究して、論文をかけば、(自分ではない)誰かが成果を社会のために役立てるということではないのである。ただし、共感、理念、合理性を共有するフレームは複数存在する。これらのフレームをどのように包摂するのかという点が問題解決の要点である。すなわち、問題にも階層性がある。(2019年5月18日)

ソーシャリスト

朝日朝刊「政治季評」から。早稲田の豊永さんの寄稿はいつも参考にさせて頂いている。今日は「ソーシャリスト・テスト」。「あなたは、貧困は社会的不正義だと思いますか?」と問いでイエスならばソーシャリストというわけで、私はどちらかというとソーシャリストの部類に属することになりそうだ。ただし、この問いは「世界はひとつ」という都市的世界観が前提にあると思う。世界の大半を構成する農的世界を視野に入れると、そもそも貧困とは何か、という問いがまず前面に立ちはだかる。外形的なものの背後にある農的世界の豊かさが隠れ見えてくる。こうなると問題は資本主義という我々の生き方を制約す習慣のあり方に変わってくるのではないか。となると、私はやはりソーシャリストになるのだろう。で、改めてネットでソーシャリストの意味を調べると、「個人主義的な自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想、運動、体制」とある(Wikipedia)。なるほど、そういうことか。(2019年5月16日)

大学衰退の遠因

朝日夕刊で柏崎刈羽原発に関する連載が始まったが、その中で出会った文章。「大学の研究環境が厳しさを増すなかで、社会に広く目を向けられる若手をどう育てるか。私に残された時間はそう長くない」。新潟大名誉教授の立石さんの言ですが、これが今の大学の抱える大きな問題だと思う。評価主義、エリート主義の中で運営される研究室の中で、教員と学生の思想の均質化が進む。これから社会に出て行かなければならない学生が、狭量な研究者の論理で染まってしまう。実は、このことは平成8年(1996年)の大学審議会の報告でふれられている。しかし、以降20年以上にわたり大学の根本的課題が解決されていないのである。これが大学の衰退につながっていると思うのだが。まだ、間に合うと思うので、なにかしらの行動は続けていきたいと思うのである。(2019年5月15日)

研究の成果を公表する目的

朝日朝刊に「高騰する論文購読料」という記事。現場では論文購読料だけでなく、投稿料の高騰も研究者の世界をゆがめているという厳然たる事実がある。この問題に対して、エルゼビア社の上席役員フォンヒンデンブルク氏は「価値があるから年180万件の投稿」があるのだという。ただし、それがどんな価値であるかについては触れていない。それは価値というよりも、研究者と評価者たちの世界の悪しき習慣の落とし胤としてのニーズなのだろう。この状況のもとでドイツ大学長会議では、エルゼビア社との契約を打ち切ったとのこと。同時にドイツでは教授たちが出す研究出版物の数を制限する取り組みを進めているという。これはすごいことであるが、その根本的な思想が交渉担当者のヒブラー氏の言葉からうかがわれる。「研究成果を公表する目的は何か、と問い続けることが大切だ」。そこには科学と社会の関係性に対する思想があると思う。すなわち、資本主義や古いヨーロッパ思想から踏みだし、“社会の中の科学、社会のための科学”の推進のために科学の成果である論文を機能させようという意思であるはずである。それはヨーロッパ型のTransdisciplinarity(超学際)の考え方に通じる。日本からの発信としては野依さんが、「論文を指標にして研究者の評価を行う論文万能主義に(日本の学問の主体性と自己決定権が失われつつある事態の)根本的な原因がある」と述べている。この記事では、評価のあり方の見直しに向けて、学術界そのものが変わらなければならないと締めくくられる。研究は金、地位、名誉のための研究であってはならず、研究者の意識改革、特に社会との接点を持つこと、が必要である。一方、評価者は研究の内容(論文数や指標ではなく)を吟味し、社会との関係性についてよく検討すること。研究によって誰が、どのように幸せになるのか、という点に対する考え方を研究者は持ち、評価者も考えること。その上で、社会が認めれば知識のための研究もあってよいのである。世の中は確実に変わりつつある。それを信じて文句を垂れ続けるのだ。(2019年5月9日)

評価とは化かし合い

いや、本当にそうだなぁと思う。文科省による職場の中間評価結果に対する対策の理事への説明に同席した(ややこしい)。見栄えの良い数字や資料を出して、褒め合うのは“チェーホフの手帖”にあった話(ある控えめな男の話)を彷彿とさせる。これで上位の評価者を化かすことができるのだろうか。環境研究の本質は外形とは別のところにあるのではないのか。私も残り時間が少ないので、発言は控えようと思っていたが、振られると本音がつい出てしまう。環境という課題に対しては本質的な議論をしたいので、この際はっきり書いておこう。まず、“診断型”(地球環境研究)というのはすでに古い。診断した結果の意味するところを明らかにできなければ、SDGsやFutuer Earthに対応できない。すなわち、Solution-oriented Scienceにはならない。“診断”といっておけばリモートセンシング科学者にとってこんな楽なことはないということはわかる。自分の世界に閉じこもることができるから。でも、それじゃ、あかん。環境に関わる課題解決は協働がなければ達成できないのである。日本の地球観測グランドデザインの部分では、エリートグループに関わっているといって悦に入ってるだけではだめ。日本の衛星計画に言及するならば、地球観測の目的を明示し、日本としての戦略、海外との共同の戦略を明示すべき。また、最終目的達成までの道筋の中に研究者の役割をしっかり位置づけるべき。格好いい文言だけではだめなのである。地球を観測することによって、誰が幸せになるのか、どう幸せになるのか。ゆりかごの中にいる研究者は、ゆりかごがいつまでもあると思わない方が良い。SDGsやFutuer Earthに向けて研究者をまとめ上げるのは意外と難しいものだという実感も強くなっているが、こちらも戦略を考えねば。(2019年5月7日)

縁と研究

連休最終日は仲間を募って、侵略的外来水草であるナガエツルノゲイトウ調査の下調べを行った。ナガエは水域で拡大するだけでなく、田んぼに入り込み、農作業を妨げる。ドローンを持って八千代の水田地帯をうろちょろしていると、前県議の石井さんとばったり出会う。石井さんは県議になるときに、長くやるものではないと言ってしまったので、今回の県議選には出なかったそうだ。石井さんは農家でもあり、我々の調査を認めてくれる方であり、残念だったなと思う。思えば、ここ桑納川でナガエの調査を始めた当初もばったり出会い、励ましてくださった。そして、今回調査の見直しと拡大を検討する段階でまたばったり出会う。これは縁だなと思う。私は縁を大切にして暮らしていきたいと思う。環境が人と自然の関係である以上、ステークホルダーである人との縁が最も重要な研究の駆動力なのである。(2019年5月6日)

スーパーマンかわがままか

久しぶりにかみさんの田舎に出かけた。自分も含めて、人は老いていくものだなとしみじみ思う。ただし、季節は良く、長野の自然は最高である。帰りがてら、浅間山南麓にあるチーズの店による。久々チーズがたっぷりのったピザを味わった。ピザはシンプルなチーズ味に限る。いろいろ買い込んでしまいましたが、そこから見える雄大な風景がなんとも心を和ませる。もう都会には帰りたくないと思う。農村的世界と都市的世界を行き来できる精神的習慣を持つべし、というのが私の主張であるが、都市的世界の習慣が人のしがらみとなる。このしがらみを断ち切るには、スーパーマンになるか、わがままになるか、どちらかしかないのだろうか。(2019年5月5日)

財務省対文科省ーどちらかに理はあるか

朝日朝刊から。日本の大学は生産性が低いので、「選択と集中」をせい、という財務省。それを「極端な比較だ」として反論する文科省。どちらも大切なことに気がついていない。科学は何のため、誰のためのものなのか。それを担う研究者にはどんな精神的態度が必要か。財務も文科も西欧文明をかっこいいものとして、何とか仲間に入りたい。だから研究者よ、もっと仕事せい、仕事しないと予算つけないよ、ということ。トップ10%論文数を指標にすることには、西欧文明を是とする思想がすでに含まれているのだよ。日本は西欧的なものとは違う思想、文明を目指してもよいのではないか。いや、目指さなきゃあかん。それが、新しい令和の時代を創り出す。英語のScienceは日本語の科学を越える広く深い意味を包含する。その定義には日本の智慧も入っているのに。(2019年5月2日)

令和を迎えて

普通の朝を迎えましたが、世は令和に変わっています。令和は命令の令がやだな、と思っていたのですが、今は結構いいじゃんと思っています。そこで、先月の出張の帰りに飛鳥を訪れ、万葉がマイブームになっているところですが、万葉集の中に、こんな歌を見つけました。

「世間を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあれば」(山上憶良)

万葉の時代もいろいろ辛いことがあったに違いありません。しかし、仕事をしながら、恋をし、草木を愛で、ものおもいに更けながら毎日を過ごすことが実は幸せというものだったのだと思います。昨日、生きづらさについて書きましたが、平成から令和という節目を契機に、いろいろな生業が尊重され、選択できる社会になれば、人は暮らしを楽しみ、充実した人生を送ることができるに違いない。それこそが日本という国の底力になると思う。(2019年5月1日)

平成最後の日に思う

世の中は連休中ですが、平成最後の日は出勤となりました。思えば31年、あっという間でした。平成の期間は私のキャリアとほぼ一致します。大学人として好き勝手に過ごすうちに、還暦を越えてしまいました。この間、いろいろありましたが、個人的にはうまくやってきたといえそうです。しかし、世の中は災害の頻発と社会の変化が大きく人の暮らしや心を変えた時代であったように思います。雲仙普賢岳の噴火では教室の客人が帰らぬ人となりました。阪神大震災では為すすべもなくおろおろ過ごしました。その後の水害では情報発信に努めました。東日本大震災では現場に身を置くことにより、この社会のあり方について考えるようになりました。それは自分の思考を深めた様に思います。一方、平成の間に社会はだんだん生きづらい世の中になって来たように思います。多くの方がそれを指摘しています。それは、生き方が型にはめられる社会になったからといえるかもしれません。ある価値観にとらわれて、多様な生き方を選択しにくい社会が生きづらいという感覚を生んでいます。でも、世の中の雰囲気は以外と簡単に変わるもの。その潮流はすでにあります。ただ、それを難しくしているのが資本主義や古いヨーロッパ史観ではないかと思います。価値を貨幣に変換し、その増殖を目的とする社会。継続的な成長を指向する社会なのですが、そうではない社会もありえると思います。それを令和で実現させたいと思います。(2019年4月30日)

「迷わず、好きな道を信じて極めよう」、でよいのか。

いつも勝手に送られてくるTechnologist'sという雑誌の巻頭に、新潟大学副学長の川端さんの表記のタイトルのオピニオンがありました。川端さんによれば、大学の危機はメディアの騒ぎすぎで、運営費交付金が減らされても、外部資金をとればよい。若手のポストは根こそぎなくなっているわけではない。若手は研究に没頭する”スーパーポスドク”として「テンパって」生きる道もある、という。主張はかっこいいし、一見もっともなようにも聞こえる。研究者の個性の多様性を尊重せい、というのは同感であるが、かけ声だけでなく、その先を考えなければならないと思います。研究者にも人間としての普通の暮らしを望む権利がある。スーパーマンが好まれる社会ではあるが、普通の人に対する視点も必要です。現在の社会の仕組みでは、すべての人が勝つわけではない。特に研究者の世界では確実にポストは減っており、夢を成就できない若者もいるのである。川端さんはもともと物理屋であったが、現在は”大学経営”が研究テーマだという。ならば、私はもっと広い視野を持ち、社会全体を見ながら、その中に研究者を位置づけることを研究テーマにしようと思う。それは研究者としてだけではなく、様々な生き方を可能にする社会をめざすことでもある。(2019年4月26日)

大学改革は失敗だけど

同じく朝日朝刊から。ノーベル賞学者の梶田さんらが「大学の危機乗り越えよう」というシンポジウムを開催したという記事。国の予算の抑制や度重なる改革で日本の大学は疲れ果て、深刻な危機を迎えているという認識が発端。これは教員ならば誰もが感じていることだろう。もはや、大学改革は失敗と明言してよい状況ではないかな。ただし、私は単に予算増やせ、ではダメだと思う。時間軸の中で日本がどの位置にいるかを認識し、この時代に行うべき研究のあり方を大学人がきっちり述べなくてはあかん。どんな研究か。それはもう世界が示しているのではないでしょうか。大学改革は失敗だけど、そこから学んで、新しい時代の研究のあり方を示さなければあかん。(2019年4月14日)

哲学を語ろう

朝日「声」欄から。大学院生の小林君、いいこと言いますね。タイトルは「『何を成し遂げたか』で選ぶべし」。小林君は政治家が選挙のたびに掲げる「マニフェスト」に対して責任とってないじゃないか、という。だから政治家は何をしてきたかで選ぶべきではないかということ。これはマニフェストが単なるリスト、有権者向けのメニューになってしまっていることが問題なのだろう。マニフェストの背後にあるはずの実績が見えないということであるが、私は実績の前に政治家には哲学、思想を語って欲しい。どのような社会を構築したいか、その理由は何か、その考え方に基づき投票すればよいのではないか。そうすれば若手でも立候補できる。もちろん、政治家も発信はしているのだろう。しかし、選挙公報には抽象的なことは書きにくいと思う。市民側が政治家の哲学を理解する力を持てば、良い政治家を発見することができるのではないか。大学の中期計画もマニフェストのようなものである。単なるリストになっており、その背後にある哲学がわかりにくい。言説に流されているのではないかと思われる面も多々ある。財務省-文科省-大学-教員というヒエラルキーにおけるガバナンスの中で、なかなか議論の機会がないのが問題であり、これが大学の衰退の原因になっているのではないだろうか。哲学を語ろう。 (2019年4月14日)

多様な関係性の中で生きる-さらにさらに

五輪相が辞任。失言がきっかけですが、なんで失言をしてしまうのか。それは彼の意識世界が政治家の世界の中だけに留まっており、その外側と関係性を構築することができていない、やろうと思わなかった、そんなこと想像もしなかったからなのだと思う。人の意識世界が広がると、人々の意識世界が交わるようになる。すると様々な関係性が見えてくる。背後にある様々な事情も見えてくる。その上で考えればよりよい社会構築へ向かう道筋が見えてくる。政治家こそ率先して意識世界を広げなければならないのに。(2019年4月10日)

多様な関係性の中で生きる-さらに

文科省もいい加減にして欲しいと思います。すでに計画が決まり、採択されて実施中の事業を途中で打ち切るという。その理由が金がないからだという。こんな判断があり得るのか、理解に苦しむ。なぜなら、事業には若手研究者も参加しており、彼ら、彼女らの暮らしの原資の喪失でもあるから。事業打ち切りが人の心身に何を及ぼすのか、想像することもできないのだろうか。これも文部省の担当者の方々の意識世界があまりに狭いことを明示している。自分の幸せはわかるが、人の幸せは見えない、わからない、関係ない、ということだろうか。世の中の様々な営みが要素に細分されて、その個々の要素の間の関係性が意識されなくなっている。これでは日本の科学、教育そして社会の未来が見通せない。(2019年4月9日)

多様な関係性の中で生きる

国交副大臣の忖度発言にはあきれて口が塞がりません。なぜ、あんな発言をしてしまうのか。それは政治家の意識世界が狭いから。自身と関係性を築いている範囲で、考え方を形成し、実践する、その範囲があまりに狭い。その外側には広い世界が広がっており、そここそが政治家の活躍する場なのですが、この方は土俵を間違えているということになります。政治家こそが多様な関係性の中で生きる姿勢を身につけ、意識世界を広げて行かなければならないと思います。それを阻むものは何だろうか。地位、名誉、金、でしょうか。それが大切な社会とはどんな社会か。資本主義の功罪の罪の部分でしょうか。政治家も社会のあり方に対する哲学を語ってほしいと思います。(2019年4月9日)

多様な生き方

昨日は人のパワハラでしたが、今日は自分のパワハラ。新年度のゼミが始まりましたが、一番気になることは学生の研究に対する姿勢が変わらないこと。自分がどこにいて、そこでは何をやるべきなのか、意識していない。改善しながら、少しずつ己を高めていくという態度が身についていないのです。それでゼミで少しパワハラ気味な発言をしてしまう訳です。こういう時、大学は教員が犠牲になれ、という。入学させたのだから、とことん面倒みろと。でも、教員評価の基準は緩めないよ、というのが現状。とはいえ、私は学生の頑張らない生き方もありだと思うのです。ただし、そうなると大学は頑張らない学生のいる場所ではなくなります。世の中には多様な生き方がある。それらを尊重し、可能にする社会こそが目指すべき社会だと思うのです。しかし、現実は生き方を選べない(選びにくい)社会になっている。若い学生は、そんな社会の犠牲者ともいえる。(2019年4月8日)

事実と真実-再来

なんと北大の総長がパワーハラスメント、というニュース(朝日朝刊)。報道では調査委員会が立ち上がったという内容だけで、その理由は書かれていない。こんな報道があるだろうか。ゴシップ誌ではないのだから、背景まで含めて報道をお願いしたい。しょうがないので仮説を立てる。学長は文科省の大学評価の中で良い点数をとりたい。それは大学のためを思ってのことです。指標による評価ですので点数がつきますが、その評価手法に哲学がない、また現場の事情が配慮されていない。だから研究教育の現場には不満が生じる。そんな背景の中で思わず何かが起こってしまった。これは仮説であり、今後検証が進められなければなりません。人や組織を動かすということは、哲学、あるいは明確な理由がなければなりません。事実だけではなく、真実に踏み込んで現場を理解しなければ良い組織、人の幸せは生まれないのではないだろうか。その時に必要なことは、対象を周辺まで含めて包括的に、かつ時間軸を取り入れて俯瞰する視点だと思う。(2019年4月7日)

原風景、原体験共有の意味

第8回印旛沼流域圏交流会が桜満開の大和田機場で開催されました。第2部の司会を急遽やることになり、ドキドキでしたが皆さんと交流の場を持とうと思い、ちょいと考えました。数名の座席を前に用意し、座ってもらいます。テーマを決めて、各人に最大3分間で話してもらいます。それを白板に書いておきます。終わったら会場からも発言を求めます。こうして皆さんの思いを集約するとある対象に対する様々な見方が見えてきます。とはいうもののファシリテートの経験がなかったので、ダメダメでしたがいくつか見えてきたものがあります。一つは原体験、原風景が印旛沼流域における活動のモチベーションとなっている方が多かったということです。子供たちにも同じ経験を共有させる試みが流域内で行われており、成果を挙げています。我々年寄り世代の原風景、原体験が単なるノスタルジーと言われないために、活動を継続し、成果を積み重ねて行く必要があるとしみじみ感じました。それは恐らく論理化、理論化できると思いますが、それがより良い社会を構築する原動力になるはずです。(2019年4月6日)

少子高齢化時代の災害と社会のあり方

学術会議の公開シンポジウム「繰り返される災害-少子高齢化の進む地域で生き抜くということ-」が終わりました。私は総合討論の司会だったのですが、広範かつ深いテーマですので、うまく纏めることはできなかったなと反省。会場からも少子高齢化に踏み込んでないのではないかとのご指摘も頂いたのですが、さてどうすれば良かったのか。少子高齢化に伴う様々な問題が昨今は顕在化していますが、その対応は技術と制度だけではないだろうと思います。この社会をどうしたいのか、という生き様、哲学を持つ必要があると思います。そのためには、現在の社会のあり方が包括的な視点から理解されていなければなりません。この理解があると個々の主張の背景に、都市的世界があったり、農村的世界があったり、あるいは両方を包摂する視点があることが見えてくる。さらに、時間軸の上で社会のあり方と人と自然の関係性のあり方の変遷が見えてくる。そうすると未来社会のあり方に対する哲学が生まれ、それが行動につながる。こういう議論はシンポジウムよりワークショップを積み重ねていく必要があると思いますが、様々な関係者と分野を取り込んでいくことが目前の課題ではないだろうか。(2019年4月5日)

今日ちゃんとしない

通勤中のラジオから。中村竜太郎氏はストレスフリーを目指しているそうで、その秘訣は“今日ちゃんとしない”こと。ここだけ聞いて、そやなと納得。昨今、“ちゃんとやれい”、の号令が雨あられと降り注ぐ。ここは逆らってちゃんとしないことがストレスを緩和する策。とはいっても竜太郎さんはフリーですので、ちゃんとしないことの結果は自分で責任を負うことになる。では、大学人は何なのだろう。大学から給料をもらっているが、その仕事は大学だけに留まらない。フリーみたいなもんです。でも、いろんな仕事をしていると、最も根幹的な部分で組織の論理と、社会の論理、そして自分の生き方が齟齬をきたすことがある。そんな時、どう行動するか。これは悩ましい問題です。ですから、私は大学人の給料を半減して、かつ副業を持つことを基本的生き方にすればよいと思います。おまえはできるかも知れないが、私はダメという大学人もいるだろう。そうしたら大学の講義を歩合制にすれば良い。中等教育の非常勤講師も大学人ができるようにすれば、教諭の忙しさ問題も解決できるかも知れない。自分の研究成果を社会で試すことも容易になるだろう。ただし、金、地位、名誉とは一線を画さなければいかんと思います。注意すべき相手は資本主義かも知れません。こんなことを妄想していますが、以外といけるのではないだろうか。(2019年4月4日)

身の丈にあった望み

Yahooを見ていたらおすすめコンテンツに、「寂聴さんが語る、いきいき生きる10の秘訣」というタイトルを見つけましたので、早速よりみち。まあ、ふつうのことばかりでしたが、一つだけ心に留まりました。「自分の身の丈にあった望みをいだくことですね。そうすれば欲求不満にならない」(人生問答 切に生きる)。その通りやなと思う。昨今はとにかく上をめざせ、目標をたくさん立てて達成せよ、なんてことばかり。それを指示するのは上の階層。誰が幸せになるのか。それに踊らされて心身をすり減らすのはもうやめたいものです。身の丈にあった望みを達成することが、まわりも充足させる、そんな風になりたいものです。(2019年4月3日)

「正しさ」より「楽しさ」

昨日の朝日朝刊「折々のことば」(鷲田清一)でこれを見つけました。「地域での活動の入口には、『正しさ』ではなく『楽しさ』が必要なのです」(山崎亮)。ある大きな目的を達成するために協働が必要。ただし、「正しさ」だけでは人はなかなか動かない。これはしようがありません。そこに、「楽しさ」があると人が集い、話すこと、体験することにより理解が生まれ、目的の達成が共有される。私たちはこの方法論自体は共有していると思うのですが、「楽しさ」を醸し出すのが難しいのかなと改めて思っています。基本は一杯やること(お酒です)だと思うのですが、これは親父感覚でダメなので、若者が感じる「楽しさ」を理解せにゃあかんなぁと思っています。大学のゼミ運営でも、放っとくとどんどん個人が分断されていきますので、楽しさから遠ざかるばかり。私は背中を見せる教育を目指しているのですが、最近私の動きが鈍かった。今年度は自分が動くことを目標にしたいと思います。そうすると研究室が楽しくなる。それは学生と教員が目的の達成を共有するということ。(2019年4月2日)

壁を越えられない、越えない

学部の新入生の対面式がありました。そこである教員からの言葉。詳細は省きますが、要は、最近の学生は壁にぶち当たると逃げてしまう。臆せずチャレンジせよ、ということ。確かに壁を乗り越えられない学生が増えてきたことは実感している。小さな壁を乗り越えないから、壁はだんだん高くなり、最後はどうしようもなくなる。その後の態度は誠実と不誠実に分かれる。不誠実な態度は教員の心にも傷を付ける。一方、最近は“乗り越えない”学生も出てきた。真面目ではあるのだが、答えを与えられることが当たり前になっており、“考える”や“行動する”という行為の仕方がわからない。こういう学生は現行の教育ガバナンスの中で、教員を傷つけることもあり得る。私はもう先が見えてきたので、個人対個人の教育は少しずつ撤退し、別の立場から教育を考えたい。現在の状況を生み出した社会的背景まで視野に入れて考えたいのである。それは環境を良くする、社会を良くする行為にもなると考えている。(2019年4月2日)

金がなくても研究はできる

今年も科研費はダメでした。申請書が十分練れていなかったことが原因だと思います。忙しかったなんて言えないのですが、申請の時期はやるべきことが多すぎた。従来の研究を超えた新しい方法論を入れたつもりでしたので、時代が追いつくのが遅かったということにしておこうと思います。うちのセンターからは4件の採択があり、とりあえず安心。というのは科研費が取れないということは分野の中で認められていないからだ、という意見が文科省からでて、大学の執行部も科研費獲得を重視する厳しい目があったからです。しかし、科研費が取れないということはそんな単純なことではなく、リモートセンシングという手法を中心に環境という多様な対象を研究する分野の特徴だといえます。いい作文をすれば採択されるのはディシプリン科学の分野であり、独創的な研究、すなわち新しい組み合わせを試みる研究の評価軸がないということ。研究は金がなくてもできるのです。重要なことは解くべき課題が設定でき、それを様々なステークホルダーの協働をベースに解くことができるということ。まず楽しむということも重要。社会の中で研究者の役割を責任持って果たしていれば良いのだ。と、吠えてみる。(2019年4月1日)

事実と真実

最近、田中正造に関する本を三冊購入しましたが、最後の「毒-風聞・田中正造」(立松和平著)をようやく読み終わりました。終章の記述には理不尽、不条理、権力の横暴、弱者の悲しみ、苦しみ、諸々が入り乱れ、読後に落ち着かなくなるほどでした。小説に書かれていることは原則的にはフィクションなのですが、取材に基づき構成された内容に事実だけでなく真実が含まれていることは明らかです。故立松和平は宇都宮生まれの当事者でもあり、周到な資料収集と取材が行われたと考えられます。その結果、記述された住民の自尊心、葛藤、権力による近隣住民の分断、妬み、嫌がらせ、裏切り、...理系の論文では扱われることがない事象の方が、渡良瀬川鉱毒問題を住民側から理解する要になっていると思われます。事実であると科学的に認定できることのみで問題の全体像を理解することはできません。研究者の目的がジャーナルに論文を掲載することであれば、事実の記載、理論による解析で十分です。しかし、問題の理解と解決を目的とするならば、真実に踏み込まなければなりません。そのためには、より広い“世界”を俯瞰し、仮説を構築し、検証する手続きが必要となります。非常に広い範囲を包摂する視野が必要になりますが、作家の方が研究者より広い視野に立つことができる場合もあります。もはや業績カウントに使われる既存の査読論文で扱える範囲ははるかに超えます。問題解決を目指す科学のあり方を再考し、変えていかなければならないと思います。それがFuture EarthのTransdisciplinarityやSDGsにおける科学の役割なのではないか。(2019年3月31日)

共感が生み出す排除

朝日朝刊オピニオン欄の論考の論考。もとの論考は石戸諭「ロバートキャンベルさんが語る『共感』の危うさ」(ハフポスト)で、それに対する一橋大の森千香子さんの論考。「『理解』強制に欠かせない視点」がタイトル。日本では「共感」は肯定的に捉えられることが多いのであるが、共感が、共感できない人の排除につながるということ。共感がある枠を形成し、その枠の外側との間に壁を築いてしまう。このことは私もずっと考え続けていた。原子力災害被災地で協働を達成するためには、共感、理念、合理性を共有することが大切だと考えてきた。これらは環境社会学における共感基準、原則基準、有用基準とほぼ同じと思われる。しかし、これが枠を作ってしまうことにもなり、その外側との交通(哲学的な意味の交通)が難しくなる。これを突破するために、ステークホルダーの階層構造について考えてみた。しかし、理念あるいは原則基準の折り合いを付けることが難しいのである。そこで、意識世界ということを考えた。人の考え方や価値観は、その人が関係性を持つ範囲で決まってくる。よって、広い意識世界を形成することができれば、相対的に小さな意識世界同志の相克を理解し、折り合いを付けることができるのではないか。もちろん、上から目線で小さな意識世界を眺めてもだめで、人の意識世界を広げる行為が重要だということに至っている。それは教育と実践につきるのではないか。共感の範囲を超える異なる考え方も尊重して、折り合いを見つける力を醸成するには、人の意識世界を広げること、そのためには教育と実践が大切。そんな風に思っています。(2019年3月31日)

すべてのわざには時がある

朝日に連載されている姜尚中さんの自伝、エッセイからキーフレーズを拾っておきます。姜さんの座右の銘とのことですが、 「すべてのわざには時がある」(旧約聖書の言葉)。すなわち、 すべての物事には起こるべきタイミングがあるということ。私もずっとそう思ってきました。だから、世の中のことをできる限り広く俯瞰していると、なぜそんなことが起きているのかがわかることがある。同時に、それが今やるべきことか、すなわち今重要なことなのか、がなんとなくわかるような気がします。それは研究の課題でもそうです。ある研究課題は、あるタイミングで重要であったということ。そのタイミングを過ぎると、その課題が重要かどうかではなく、重要ということになったかどうか、という点に研究者の力が注がれることになる。社会の側のリテラシーが不足していると、時節を外しているということに気づかれずに、研究に資源が投入されることになる。これが是正されにくいのは、昨今の研究と研究者の評価システムに一因がある。研究は社会のためのものでもあり、研究には哲学が必要なのだよ。社会のためになるためには、教育も必要なのである。研究者は昨今の評価システムのもとでは一本道の人生を強いられがちであるが、すべてのわざには時がある。すなわち、時に応じて研究者の役割は変わらなければならないのである。わざを複数もっておく必要がある。研究だけでなく、教育、また学識者としての役割、いろいろある。(2019年3月29日)

近代文明のステークホルダー

成田空港と周辺を視察してきました。空港会社の地域環境委員になったので、わざわざ企画して頂いたのですが、環境アセス委員会でも一度視察があったので、滑走路側に入るのは2回目でした。今回は、旧管制塔に上ることができました。あの襲撃事件があった、その場所です。調べると1978年3月26日でしたので、もう41年も前のこと。開港の前にA滑走路の西側をセスナで飛んだことがあります。災害調査の一環でしたが、あれから40年以上。時の流れを感じます。旧管制塔からは成田空港とその周辺が一望でき、都市的世界と農村的世界が接して存在していることがよくわかります。両者は共存するということになっているのですが、実は空港の存在による受苦者もその視界の中に存在しているはず。受益者と受苦者の間でどのような諒解を形成できるか、これこそが近代文明を駆動する仕組みに課せられた根本的な課題だと思います。最初に説明頂いたエコ・エアポートビジョン2030に、“ステークホルダーと共に”という文言が出てきたので、思わずステークホルダーとは誰か、その階層性、協調と対立について一節を打ってしまいました。小難しいやつだと思われたことでしょうが、何世代にもわたり静かな暮らしを営んできた方々もいるのです。それは少数者かも知れません。近代文明の中で、少数者の権利はどのように尊重されるのか。権利は貨幣に換算されてしまうのか。この文明社会の進むべき道を考えても、それで全体のコンセンサスが得られるわけではない。恐らく社会学や法学では議論されていることでしょう。勉強せねばあきまへん。ますます自分は理工系から人社系へ変わりつつあるように思います。(2019年3月28日)

論文というリスク

京大で論文の不正が指摘された。朝日では東北大の件と合わせて、紙面の結構広い面積を占めている。当事者とは直接の面識はないが、同じプログラムに所属していたこともあり、その活躍は耳にしている。悪の心があったとは思えず、様々な事情と不運があったのではないかと推察するばかりです。地球科学の研究者にとって現象の発見は大きな成果です。しかし、研究のすべてを一人でできるわけではない。複数の成果を引用して、論理を構成しながら、自分のアイデアのプライオリティー、オリジナリティーを主張するのが論文です。この過程にちょっとしたミスがあったということはないだろうか。昨今、研究者は競争の嵐にもまれ続けている。他人に対するねたみは人として当然生じることもあるだろう。そうすると、ちょっとした弱点を突いてくる輩もいるだろう。告発があると組織は自己防衛に走る。京大は十分な検証を行ったのだろうか。報道からはよくわからない。顛末については注視したいと思う。熊本地震は災害でもある。自然の営みである地震を理解し、災害の被害を軽減したいという様々なステークホルダーに共通する目標を共有していれば、皆で協働して地震と災害という課題に取り組むこともできる。こんな形で報道されたということは、研究が研究者の世界の中の営みになっており、社会と分断されているということも意味しているのではないか。論文で最先端を狙うということは緊張とリスクを抱えるということにもなった。そうではない科学を育てていきたいものだ。それはすでにSDGsやFuture Earthとして始動している。(2019年3月27日)

ディザスターにおける人間的側面

4月早々に開催する災害に関するシンポジウムにおけるある講演者の資料が届いた。その方の提言は「決定論的な地震予知法を確立して、地震防災の国民の負託に応える」というものであった。では決定論的な地震予知法が確立された社会とはどのような社会なのだろうか。人と自然の関係が良好になっており、予知されたら直ちに被災を回避する行動がとられ、災害後の復旧も速やかに行われ、そのための制度も確立している。老若男女すべての人が直ちに合理的に被災を避ける行動をとることができる。すごいことだが、これこそ近代文明人の行動と言えるかも知れない。ただし、ちょっと待てよ。人はそんな合理的な行動をとることができるのか。そんな合理的人間は経済学でいうところのホモ・エコノミクスと同じであり、人の多様な個性、事情を捨象した存在である。まだまだ現場で検討すべき点はたくさんあるように思う。提言には防災という行為を暮らしという観点を含めて総合的、包括的に捉える視点が必要だと思う。ディザスターにおける人間的側面をどのように理解し、必然的なディザスターを人が諒解できる制度、仕組み、構造物の設計が必要なのだと思う。(2019年3月26日)

学会会員数減少の本質

表記の課題に対する問題提起がJpGU事務局長の浜野先生からメールで流れてきました。昨今の日本の学会はどこも会員数の減少が問題になっているのですが、添付されてきたいくつかの学会の最近10数年の学会会員数の経緯をみると、星、動植物といった、これが好き!という人が多いと思われる学会は会員数を減らしていません。一方、業界との関わりがありそうな学会は減っています。これは昨今の日本の経済の事情を反映しているのではないでしょうか。このことは日本が「科学のための科学」をやる余裕がなくなってきたこと、「社会のための科学」を推進する必要性を示しているのかも知れません。また、若手の会員数が減っているとのことですが、これは人口減少時代の中でポストが減っていることと、研究者という職が若者にとって魅力あるものではなくなっているという二つの理由があると思います。昨今の研究者の評価基準の理念のなさ、評価疲れの実態を見ていると(自ら体験しています)、研究者になろうという若者が増えるとは思えません。このように会員減少問題には複数の要因があり、それは時代背景と関連しているため、研究と研究者のあり方、社会との関係を根本から見直さなければならない時代が来ているのではないでしょうか。さらに、最近の若者はプロジェクト制の中で育てられることが多いので、自分のやりたいことより、プロジェクトを成功させることが優先される。競争的資金で運営されるプロジェクトは必ず成功したということにしなければならないので、その行為の中でエリート意識が醸成される。それが若者の生きづらさにつながっているのではないか。かなり深読みしていますが、本質はこんなところにあるのではないかと思っています。(2019年3月25日)

ぜんたいと個人

今日の朝日朝刊「折々のことば」は宮沢賢治のことば。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。これは賢治の思いであるが、私はまず個人の幸福を考えたい。個人が幸福になっていく先に、ぜんたいの幸福があるのではないか。これは仏教に関する書物の中で見つけ、私自身そう思っていることである。私は個人の中に自分も含めています。最初はどうかと思ったのですが、自分が幸福にならずして、なんで他人の幸福かと考え直しました。賢治も仏教徒であるのですが、恐らく賢治は清貧のなかにも幸福を見出していたのではないかと思う。田中正造も谷中村における苦しい生活の中に幸福を見出していたという考えもある(2019年2月9日参照)。賢治は民の中で、民と共に、民のために暮らす生活の中に幸福を見出し、その先に、ぜんたいの幸福を見たのではないか。幸福とは特別なことでなく、普通の状態、無事である状態なのだと思う。だから、まず自分が幸福になろう。そうすると人を幸福にする力が生まれる。(2019年3月25日)

必要を満たす社会

一年ぶりになってしまったが、山木屋に行ってきた。阿武隈の春はまだ先であるが、風をよけると日差しは暖かい。避難から8年経ち、山木屋は大きく変貌したが、いまだ未来への見通しは立っていない。復旧とは何か、復興とは何か、何の復旧、復興か、何のため、誰のための復旧、復興か、未だ模索中である。いつも思うのであるが、資本主義ってやつは極めて効率の悪いシステムなのではないか。市場経済もその黎明期にはコミュニティーを外に向かって広げ、豊かさをもたらす機能があった。しかし、資本主義に至ると貨幣の増殖を目指す競争の中で無駄が目立つようになってきた。競争で負けると、それまで蓄積されてきた資産がうち捨てられることも多い。例えば、スーパーが撤退すると、建物が壊されて更地になったり、新しい建物を建設する事例が地元にもあるが、もったいないなぁと思う。こんな無駄が生じるのはまずは競争があるから、次に必要を越える需要を作り出し、貨幣の増殖をはかるからであろう。貨幣を集中させることに成功した者が、その貨幣を負けた者の資産だったものを壊すことに使う。これでいいのかな。需要ではなく、必要を満たすことを優先させる社会もあり得るのではないか。地域で資源と金を回す地域循環型社会、地域経済圏、いろいろなアイデアがあると思う。山木屋が必要充足社会のフロンティアにならないだろうかと常に考え続けている。(2019年3月24日)

当然すぎる返答

今日も「折々のことば」からですが、フランスの大学入学資格試験(バカロレア)の問題の話題。坂本尚志「バカロレア幸福論」からの引用ですが、フランスでは高校生へこんな問題が出題されるという。「自分の権利を擁護することは、自分の利益を擁護することだろうか」、「自分自身の文化から自由になれるだろうか?」。自分の考え方については後にしますが、フランスでは高校で哲学を重視する理由について聞いたところ、「例えば、公務員。誰もが幸せに暮らせる社会をめざす者が、幸福の何たるかを考えたことがなければどうする」という当然すぎる返答があったという。全くもってして当然である。では、SDGsやFuture Earthを口にする研究者が、どれだけ幸福について自身の考え方を持っているだろうか。未来を口にする者は哲学がなければならないと私は思うが、もし哲学がないという研究者がいるとしたら、それはニュートン・デカルト型の一本道の科学の先にあるより優れた社会というヨーロッパ思想が暗黙のうちに身についているということなのではないか。我々は幸福について確固たる考えを持たなければならない。それは決してきれい事ではすまない。医学の進歩が、人口増を通じて不幸を生み出す場合もあるだろう。死が一巻の終わりと考えない社会もあるだろう。どう生きるか。それが幸福のあり方につながる。それは自分だけの問題ではなく、自分の行為を通じて社会を変えることのできる行為でもある。これは前記のバカロレアの最初の問いの答えとも関連する。(2019年3月21日)

勝ちに行かない

朝日朝刊、「折々のことば」から。高安の言葉、「辛抱。それしかなかった。勝ちにいかなかったのが良かった」。鷲田さん曰く、「勝機はやみくもに探るものではなく、満を持して待つもの」。私の本棚に山本周五郎の短編集がある。「人は負けながら勝つのがいい」。これがかっこいいなぁと思い、積極的に「勝ちにいかない」が私の基本的姿勢になっている。実際には勝たないと悔しいのですが、まあ、いいかと納得して、はい次(いかりや長介を思い出す人はどれだけいるだろう)、と行くのが私のやり方である。それでも最近はいろいろな役職が増えてきている。それは地位とも関わるのだが、地位ってやつは評価社会の中で、あれば安心。しかし、よきにはからえ、といってる訳にはいかない。責任が生じるのはしょうがないが、仕事量をうまく調整できないものだろうかと思う。いい加減な性格と裏腹の自責の念の強さが自分を苛むのである。一方、昨今の文科省、大学のガバナンスでは、何が何でも勝て、という指令ばっかり。その背後にある価値、哲学、が見えないので、現場は疲弊し、大学の力は弱まるばかり。職階が上位の者は勝者とも言えるのだろうが、トップダウンやリーダーの権限強化といった施策がうまくいっていないことは明らかであり、我々は次の段階に進まなければならないのではないかと思う。勝ちに行かない社会、それは競争を旨とする資本主義の再編にもつながる。さて、高安は応援しているのですが、実は秋元才加とうまくいかないかな、という思いがある。本人たちにとっては迷惑至極、放っといてほしいとは思いますが、私も“ひと”ですのでご容赦願いたい。(2019年3月20日)

診断と治療

九十九里地域地盤沈下対策協議会の技術研修会で干渉SARの話をしてきました。この協議会は千葉県が議長となり、関連する市町が地盤沈下対策に関する話し合いを行う場です。干渉SARは技術的にもこなれてきて地盤沈下の問題の現場に適用できる段階に入り、活用が検討されているわけです。このことは地盤沈下に関しては衛星による診断から、治療の段階に入ったといえます。治療のために必要な行為が協働です。地盤沈下という現象のリスクとメリット(地下水や天然ガスを我々は利用している)を包括的に俯瞰し、折り合いを付ける、すなわち資源の公平な利用を達成するために、あらゆるステークホルダーとの対話と協働が必要ということです。それが治療につながります。それはけっして地盤沈下を止めるというシンプルな行為が目標になるわけではありません。地盤沈下がもたらす現象の関係性、利害関係の複雑性を受け入れ、人と自然の折り合いをどこで付けるか、ということになります。その過程で科学者の役割も相対化されていきます。科学者は変わることはできるだろうか。(2019年3月19日)

事実と真実

学生には迷惑をかけてしまいましたが、T4-5集中をT6(1年間を6期に分けた6番目のターム)集中に変更して実施した「リモートセンシング入門」のレポート締め切りが昨日一杯でしたので、土曜出勤で成績をつけています。私は時々学生にレビューシートを書いてもらい、自分の話したことが伝わったかどうか確認しています。同時に学生から議論も提案してもらい、アクティブ・ラーニングの代替にしています(学生はおとなしいので、なかなか講義中は議論にならない)。講義の序論に対して書いてもらったレビューシートを読み返していると、私が話した「リモートセンシングでは事実はわかるが、真実はわからない」という部分を書き留めてくれた学生が多いことに気づきました。私としては、してやったり感満載といったところです。原因と結果が1:1で対応する一直線の科学ならば、結果が見えれば原因がわかります。しかし、環境は多数の要因が積分され、ひとつの結果があるところに現れます。ひとが関わる問題では、結果を解釈することも難しいことがあります。だから、環境問題に対峙するためには、事実から多様な要因を抽出し、関連づける力が必要であり、それは多くの場合、協働によって成し遂げられるものだ、ということを言いたかったわけです。それが課題解決型科学の超学際(Transdisciplinarity)の考え方なのではないか。今は時代背景のもと、研究者、科学者のあり方が変わりつつある時代。私の考え方を少しでも学生に伝えることができたのではないか、という予感は私を少し幸せにします。ただし、異なる考え方もあったら聞きたい。一方通行の知識伝達は、その集団の均質化を促すから。それが日本の大学の衰退の一因でもあると思う。(2019年3月16日)

大学改革の精神は

代理で大学運営会議に出ましたが、そこで「柴山イニシアティブ」というプランを知り、早速WEBで調べました。柴山というのは現文部科学大臣で、正式には「高等教育・研究改革イニシアティブ」といいます。そこには厳しい内容が書かれているのですが、時代ですのでしょうがねぇなといった感じです。内容をざっと眺めると、やはり少し違和感があります。まず、①なぜ大学がだめなのか、ということに対する包括的な分析がありません。社会的バックグランド、研究者の評価に関する問題、いろいろあるのに踏み込んでいない。現場の“ひと”の側に立っていない。また、 ②何のための改革か、という点が曖昧です。日本のあり方、未来に対する包括的な考え方は見えてきません。解決には協働が必要ですが、文科省のガバナンスの枠内で解決しようとしている。社会のあり方に対する言及もあるのですが、それはステレオタイプに過ぎません。もう一つ、 ③誰のための改革か、という点も曖昧です。日本の中の文科省、トップダウンのガバナンスにおけるトップの幸せのため、という点はわかるのですが、一番大切な国民と国民が構成する社会のため、という観点が薄いように思います。 トップダウンが強すぎて、現場が見えなくなっているのではないか。この社会は霞ヶ関から見える部分だけで構成されているのではなく、もっともっと奥深いものなのだよ。一方、大学は上からの指示に右往左往するだけでなく、明確な哲学を持たなければあかんのではないかと思いますが、経営陣は職員を食わせていく責任があるので(あるはず)、悩ましいところなのだろうな、とご苦労をお察しします。自分だったらどうするかを考えなければあきまへん。(2019年3月14日)

科学技術への過信

今日は二つのミーティングに出席。昼は松戸の園芸キャンパスでスマート農業に関する打ち合わせ。十分こなれた技術と現場の知識、経験をうまく組み合わせることができれば、低コストの援農システムを構築することができるはず。技術はすでに目の前にあるのである。革新は組み合わせでもある。その後、四谷の上智大に移動してエジプトの水問題に関する勉強会。エジプトでは住民から政府レベルまで目の前にある深刻な問題が科学技術の進歩によって解決されると思っていることを再確認。自然、特に水循環や水資源に関する認識がないまま、すばらしい技術が登場するはずという楽観はどのような未来を創り出すのだろう。科学的には持続可能とは考えられないのだが、どうすれば良いのか、という点に踏み込むことも悩ましい。それは、エジプトでは主流の考え方である(と思われる)、“社会はより良いものに向かって発展していく一本道の途上にある”、というヨーロッパ思想に対する反駁になってしまうから。とはいえ、案外何とかなるのかも知れないとも思う。30年前にタンザニアのドドマの水資源評価をした時、水収支的には地下水の利用は限界に達しているという結論を出した。しかし、GoogleEarthでみるとドドマの町は拡大し続けている。地下水位が低下を続けているとすると、持続不可能である。そうでもないとすると、地下水循環の認識不足であったということになる。ティッピングポイントに達するまでに長い時間を要する現象を正しく認識し、社会の持続可能性に役立てる行為を行うことは勇気と根気が必要な行為である。(2019年3月11日)

後悔せぬために

普段と変わらぬ311の朝を迎える。昨日から震災関連の番組がたくさん放送されているので、意識はしているが、やはり普通の朝である。同じ時空を生きてるのに、ひとの“世界”は意識しないと交わることも難しいのだ。あれから8年経つのだが、まだ受け入れることができず苦しんでいるひとがたくさんいる。不見識も甚だしいと怒られてしまうかも知れないが、私だったら運命として粛々と受け入れたいと頭の中では思うのである。もちろん後悔で心の中は張り裂けそうになるだろうが、その時に後悔を和らげるためにやっておくべきことは、人と自然の関係を良好に保つこと、それに基づき、人の生き方、社会のあり方に対して考えを持ち、行動していること。これかな、と思う。(2019年3月11日)

不公平の素因

311から8年、復興から取り残された人々を取材した番組を見た。なぜ取り残されるのか。その原因はどこでも一律の基準を当てはめ、個別性に配慮しない現代社会の精神にあるように思う。それは都市の精神でもある。震災後、東北のある自治体で、“霞ヶ関が提示する支援メニューはたくさんあるのだが、どれも使えない”、という話を聞いた。そのメニューは恐らく役人が深夜まで心身を削って作り出したものかも知れない。しかし、現場を知らず、ひとを知らずに頭で考え出したルールは役に立たず、現場の戸惑いを生み出す。公平を期したはずが、不公平を生み出す。個々の人や地域の様々な事情を斟酌できない仕組みが不都合の源泉になっているのだが、これが近代文明を生み出した欧米思想に発する現代社会の精神なのである。普遍性によって統治するのではなく、人や地域を尊重し、様々な個別の事情を取り込んで諒解を形成していく社会でありたいと思う。近代文明によって駆動される“世界”もあって良いが、そうでない“世界”(それは遅れているということを意味しない)の存在も自覚し、人が相互に二つの世界を行き来できる社会になれば、人は幸せになるのではないか。(2019年3月10日)

無責任の連鎖

年度末のこの時期になって留学生経費が配分され、まとまった額が使えるようになりましたが、ありがたいことです。今年度はジャーナルの投稿料が嵩み、研究費貧乏を実感した年でした。とはいえ執行締め切りまでの時間が短く焦っています(年度内に納品されないと支払いができないため)。その使途についてこんな指示が届きました。

①予算執行振替も可能だが、原則これから執行する旅費や物品費に使用すること。
②予算執行振替は、留学生に関連し、かつ、「教育」目的で使用したもののみ振替対象となること。
③既に契約課へ依頼をしている先生におかれては、内容を確認し、契約課より再度依頼がいく可能性があること。

この予算を教員研究経費と相殺して良いか、という問い合わせが何件かあったことが理由のようですが、大学としてもこう答えざるを得なかったのだろうな、と思います。 予算を留学生経費としたのだから、留学生のために使うのが趣旨である。そうしておかないと上位の階層に怒られる。お上にお伺いをたてると、さらに上に相談し、だれも責められたくないので、こんなことになる。そもそも留学生のための経費とそれ以外の経費ははっきり区別できるものではないので、下々の裁量をもっと認めても良いはずです。日本が縦のヒエラルキーの中で、上も下も足の引っ張り合いばかりしており、それが無責任の連鎖になってしまっていることの現れですな。問い合わせなどせず、教員個人の判断で使えば良いのです。(2019年3月6日)

総合大学の力

DNGL(災害看護グローバルリーダープログラム)の災害時専門職連携(IP)演習に参加してきました。DNGLは文科省からの予算が切れ、来年からは再編成されるのですが、災害時IP演習はぜひともDNGLの5大学連携として継続してほしいものです。ただし、千葉大学以外のメンバー大学はあまり前向きではないとのこと。それは千葉大学以外は小さな大学、あるいは単科大学が多いことに関連しているようです。複合的な課題に対して、教員の多様な専門に基づく連携ができることは総合大学ならではのこと。としたら、総合大学ではますます異分野間の連携が大切になるということ。しかし、評価社会の中で、各分野はどんどん独自の世界に深く沈んでしまう。これでは総合大学としての力を発揮できないのではないか。もったいない。(2019年3月5日)

指標と金による大学改革

最近、正当な評価のあり方について思いを巡らすことが多い。大学も評価の荒波に晒されているところであるが、また大きな波がやってきた。昨年末に、大学への運営費交付金1兆1千億円の1割にあたる1千億円を評価に基づく傾斜配分にすることが決まったとのこと。影響が出るのは来年からなのですが、エライこっちゃ。そのうち、700億円を「共通指標」による評価配分とするということですが、それが下記(2月28日発行学術会議幹事会だよりNo.163からの引用)。

(1)会計マネジメント改革の推進状況(100億円)
(2)教員一人当たり外部資金獲得実績(230億円)
(3)若手研究者比率(150億円)
(4)運営費交付金等コスト当たりトップ 10%論文数(試行)(100億円)
(5)人事給与・施設マネジメント改革の推進状況(120億円)

ここには大学の本来の機能である教育と研究に関する指標が見当たりません。(2)と(4)が研究に関する指標だという見方もあるかも知れませんが、それは一部のエリート研究分野しか重要ではないという、指標を考えた方(誰?)の主張なのでしょう。これで日本を支える人材育成は成り立つのだろうか。一方、大学にも批判されるべき点は多々ある。しかし、それはすべて大学の責任というわけでもなく、現在の日本社会の形成過程で生じてきた日本全体の問題であるともいえる。大学人はそこに切り込んで、問題に対峙し、提案、実践することにより信頼を取り戻さなければならない。これからは金なんかなくても、社会の中で、社会のための研究をやる時代ではなかろうか。そして、それは実際可能なのである。大学人がまず意識を変える必要がある。(2019年3月1日)

理由なき社会における指標による支配

昨日は理由のない社会の息苦しさについて書いた。今日の朝日では佐伯さんが“平成の終わりに思う、にぎやかさの裏、漂う不安”と題した寄稿の中で、成果を客観的な数値で測定することが人のストレスの原因、と述べている。すなわち、指標による評価である。指標による評価は背後にある考え方が明確にされないことも多い。また、一方的な規範により人を評価するということになり、これが多くの人の不安をかき立てるわけである。理由なき社会における指標による支配こそ、今の世の息苦しさそのものである。個性を持つ人の評価を数字で行うことができるわけがない。人の評価は十分な時間と手間をかけて丁寧に行う必要がある。それができないということは佐伯さんが指摘するように、「現代文明の状況」を問題にすべき段階に到達したということである。(2019年3月1日)

理由のない社会

歴史社会学者の小熊英二氏が朝日で、「議論の不足、理由なき要求」、について論じている。最近は上層からの指令に右往左往することが多く、仕事が増えて疲れ気味である。その指令の理念に共感できれば、その仕事は全く苦にならないはずである。しかし、理念が不明であることが多いのである。理念のなさ、理由のなさが息苦しさの一因になっている。“私”が仕事をすれば、上位にいる方々が幸せになるだろうことだけはわかる。理念に共感できない人の名誉のための仕事の生産性があがる訳がないのである。大人の社会的な行動には明確な理由がなければならない。人に力を与えるもの理念ではないだろうか。共感する理念の実現が幸せである。(2019年2月28日)

都合の良い人

沖縄県民投票の結果は辺野古基地建設「反対」が7割とのこと。でも投票率が52.48%とのことで、お決まりの若者へのインタビューでマスコミは「民意を示しても何も変わらない」というコメントを引き出していた。若者は聞かれたからそう答えてしまったというのが本音で、この問題を我がこと化して考えることができなかったということではないか。支配するものからすれば、都合の良い人になってしまっているな。国民国家形成過程で、個人を分断させることによってガバメント(支配)を強化してきた歴史そのものである。とはいえ、近代民主主義国家の国民がこれではいかんのではないかなぁ。すべてのモノ、コトが人任せになってしまっていっている。これは誰を利するのか。(2019年2月25日)

ぐちと主張

朝日耕論、慶応大の坂井さんの「沖縄県民投票の意味」より。「もし私が誰かに殴られ続け、そのまま無抵抗でいれば『あいつは喜んで殴られている』と言われるかもしれない。しかし、殴られつつでも抵抗したならば、そうはいえなくなる。その抵抗は記録されて歴史になり、後世に必ず影響を与える。」 そやなと思う。世の中おかしいと思うことはたくさんある。ぐちをいっているだけならば、状況を受け入れていることと同じ。だから、主張にして発信せねばあかんな。(2019年2月21日)

独創的研究とは

「学術の動向」2月号の特集の一つは本庶先生のノーベル賞受賞であったが、その巻頭言に18年前に日本免疫学会のニュースレターで表記の論争が巻き起こったことが記されており、WEBも残っているとのことで、さっそく拝見した(編集委員に我が千葉大学の学長の名前も見える)。大先生方の考え方を学ばせて頂き、勉強になりましたが、どうも我々が博士課程の論文評価で使うオリジナリティー(独創性)は本来の意味とは違うということに気がついた。本庶先生曰く、独創性とは「独自の考えで始めること」。あなたの研究のオリジナリティーは何ですか、と審査会で尋ねるのであるが、今や学生や若手が独自の考えで始める研究はなかなか成立しがたい世の中になっている。よって若手には独創性を問うのではなく、新規性はありますか、と問わなければいけない。もちろん、新規性の究極に独創性があるのだが、新規性にはレベルがある。若手は一丁前の研究者になる前に、新規性のレベルを少しずつ上げる努力をすればよいのだと思う。一方、我々プロの研究者は、独創的な研究を目指さなければならない。それはTopではなくOnly oneであることは明白だろう。(2019年2月19日)

SOS

今回で2回目の経験でしたが、地球研のプログラム評価委員会が終わった。実に大変な委員会なのですが、そこにはSolution-Oriented Scienceを目指すコミュニティーがあるということが実感されて、ある種の安心感といえるものもある。一方、私が接する機会の多いサイエンスコミュニティーは真理の探究、高インパクト論文生産、予算獲得をトップレベルの目的とし、なかなか課題解決の意味すら合意を得るのは難しいようである。二つのサイエンスの間の溝はまだまだ深いといわざるを得ない。その最大の壁が評価である。人間文化研究機構は文科省が提示した研究評価指標のうち、"Top10%論文率"を拒否したそうだ。それは当然だろう。自分たちのサイエンスがある狭い領域の思想で評価されるということは容認できるものではない。その代わり、新たな指標の提示を求められているそうだ。人文社会科学や環境学には個別性の科学の分野が多く含まれ、評価は本来は個別に行う必要がある。もちろん、個別性を一般性の上位に位置づける考え方が背後にある。そもそも指標で評価するなんてことは本来あってはならないこと。評価を行う者は自分の力、時間をその仕事に徹底的に投入しなければならないのである。課題解決型、問題解決型の科学がSOSを発している。これにどのように対応したら良いのか。それはSDGsの達成、Future Earthの成功と直接関わってくる。(2019年2月15日)

教える、教えられる

正造さんは谷中村の島田青年に宛てた手紙の中でこう述べているそうです(岩波ジュニア選書「田中正造」、佐江衆一著)。

「およそ物事を教えようとすると、人はいやがって聞かないものです。今後は教えようとするより、まず教えられる方針をとることです。正造も谷中村に入ったころは教えようとして失敗しました。 そのころから谷中人民の話をきこうと努めればよかったのに、聴くことは後回しにして、教えることばかりに心がせき、せき込めばせき込むほど反発されて正造の申すことを聴く人もなく空しい徒労となり、三年、また四、五年めから少しずつ谷中の事情もわかりはじめて回顧八年をへて、"聴く"と"聞かせる"の一つの発明をしたのみです」。

教え、伝え、理解してもらうことは難しい。自分がどれほど物知りだというのか。実は何もわかってはいない。伝えるより、まず聴くことから共感を生まれなけれは゛ならないのだ。といっても、同じ理念が共有されなければ、分断が生じるだけである。だから、より広い視野、包摂する力をもって理解する姿勢と、共感を醸成する時間が必要になってくる。いや、そんな力などない。ただただ聴き、一緒に考えるのみ。(2019年2月9日)

現在を救い給え

田中正造に関する本を数冊入手し、読んでいるところですが、今日は岩波ジュニア選書「田中正造」(佐江衆一著)を読み終えたところ。正造さんは病床で、「現在を救い給え、ありのままを救い給え」と大声で叫んで危篤に陥ったとのことです。我々は未来のことを語りがちですが、それは安寧に暮らしていることの証拠。現在の暮らしがひどければ、まず現在をよくすることを考えます。そうすれば現在に続く未来が良くなる。正造さんは実践のひとだったから、現在をよくすることを考えることを考えた。正造の日記にこう書かれているそうです。

「人類のためとなるには、まずその人類の中に入ってその人類となるのである。・・・人のためをなすには、その人類のむれに入って、その人類生活のありさまを直接に学んで、また同時にそのむれと辛酸を共にして、すなわちそのむれの人に化してその人となるべし。こうして、そのむれの人類がみなわが同志となり、これを人を得る法という」。

環境と称して論文を書いていれば、自分ではない誰かが社会の役に立てるはずだ、と思い込んでいる研究者は 人など見ていない。自省しなければいけない。正造さんは憲法を信じ、議会や民衆に訴えれば社会が動くと信じていたが、晩年はあきらめていたようだ。だから、自身から谷中村に入り、村民と一緒に辛酸をなめる生活をともにしたのだが、そこに天国を見ていたのかもしれないという。正造さんの日記から。

「天国はいずこに在るや。天国はこの世にある。この世の外、別に天国はない。もし好んで地獄に落ちれば、これをどうすることもできない。陥らない者は、みな天国にいるのである。みなといえば多くの人のみなか。いや、少しの人のみなである。真に天国に行く人のみなである。真にきわめて少数のみなである」。

幸せとは何か。物質的に満たされることだけではないことは確かである。生まれ育った土地で家族や人々とともに暮らせること以上の幸せはあるだろうか。日清戦争に勝利し、国民国家としての体制を整えつつあった明治政府を動かすことはできなかったが、正造さんの戦いは現在も続いている。資本主義に起因する競争、格差、差別社会のなかで虐げられている人々は今もいるし、新たに登場もしている。国に対抗し、国を変えることは圧倒的な力を必要とし、困難な行為である。虐げられた人々が故郷で幸せになることが圧倒的な力に対抗する方法のひとつなのではないか。そこに天国がある。福島にもきっと天国があると思う。(2019年2月9日)

保険としての大学

朝日朝刊「経済気象台」より。著者の海星さんは、大学とは社会にとっての保険だという。世の中何が起こるかわからないので、その時の知恵袋となれるよう、森羅万象(ユニバース)の解明に日々格闘する場こそユニバーシティーだという。それもそうだなと思う。大学の勉強が役に立たなかったという人は、かけた保険のお世話にならずにすんだのだから幸せ、でも保険が無駄だっていう人はいないでしょ、と。その通りだと思うが、それだけでは研究者である大学教員が極楽とんぼであることを容認するだけではないか。ユニバースを辞書でひくと、「ある問題に関連する全要素を含む集合」とある(手元にあるリーダーズ英和辞典より)。大学教員は蛸壺にはまっているだけではだめで、広く全要素を俯瞰し、総合力を発揮できなくてはあかん。また、海星さんはこう書いている。大学生活とは保険のようなリスクヘッジに立ち向かう場、リスクヘッジには効率や成果主義は単純にはなじまない。効率的経営を目指すあまり(論文生産の効率性および評価指標を上げるための教育、といえるか)、研究分野(教育分野もそう)を絞り込むのはギャンブルに等しい。研究には試行錯誤が必要で、無駄が付き物、という(教育もそう)。大学人の態度はどうあるべきか、ということを明記するのは難しいのであるが、少なくとも地位、名誉、金が目的となってしまってはあかんなと思う。(2019年2月8日)

自分の足しや幅

「人生どうもがいても『結果』がついて回る。だったらそのつど『しっかり傷ついたりヘコんだりすれば、自分の足しや幅になる』(朝日、"折々のことば"より樹木希林のことば)。もとのフレーズは、「口をぬぐって、“ない”ことにしなくてよかった」。私は後悔人間で、一日に何度も後悔しては、落ち込んでいる。本当に生きにくい性格だと思う。それでも、そんな出来事が自分の足しや幅になっているだろうか。そう思って過ごすことが一番大事。(2019年2月7日)

ポスト真実のターゲット

日大アメフトタックル事件で、前監督と前コーチによる反則行為の指示はなかったと警視庁が判断しました。これに対して、学連関係者は除名処分は間違っておらず、処分を変えることはないという。これはどういうことなのか。様々な真実が考えられる。その一つとして、背景には教員-学生-学校-社会の間の悩ましい実態があるのではないだろうか。それは教員はポスト真実社会の中でターゲットにされやすいということ。あるいは、学生は常に守られるべき存在である、という言説。社会は教員を悪者にしたがる。我々は真実を知り、社会のあり方を変えていかなければならないのではないか。批判の矛先が向けられるということがあまりにつらいので、人は現状を容認してしまう。周りの人々は自分の感情を満たすためにスケープゴートをつくってしまう。守られるべき人は誰なのだろうか。いや、何を守らねばならないのか。(2019年2月6日)

国立大学の評価指標

運営費交付金に反映させる大学の評価指標について、追加指標があれば提案せよ、との指令が来ました。皆さん評価疲れで大変でしょうから一本化してあげましょう。だから考えてね、ということらしい。指標案を見ると、エリート指標が並んでおり、息苦しくなります。大学、特に総合大学の評価を限られた指標で行うということは、大学の機能を矮小化することにつながり、日本の未来にとって大きな禍根を残すことにならないだろうか。背後にある一つの思想しか許さんぞ、という脅しを感じてしまいます。日本の科学者は"学術のための学術"だけでなく"社会のための学術"を推進することになっているのですが(日本の展望2010)、後者を評価する指標は含まれていないようです。文科省-大学ラインと学術会議(国際学術会議ISCも同じ方針)の方針が交わらないということは日本の科学にとって由々しき問題なのではないかと思います。とはいえ、評価のあり方は簡単に決めることができるものではありません。まずは、自分の考え方を明らかにしておく必要があります。教育に関しては、学問の体系を教えるカリキュラム、専門性を伝えるカリキュラムをベースに、学際、超学際にアプローチする仕組みがあるかどうか、という点がひとつ。そして、卒業生が母校に対して誇りを持っているかどうか、という点が一番大切だと思います。研究面では、学術の各分野の過去、現在、未来に対する確固たる考え方があるか。学際、超学際を達成する仕組みがあるか、という点が重要だと思います。これらを評価するためには、評者者は少なくとも1年は大学に通い、上記の点を見極める必要があるでしょう。評価は時間はかかるものなのです。評価者が楽するための指標であってはなりません。少なくとも、"やれ、やらんと金をやらんぞ"、と言われてやるのは大学人の矜持を傷つけるものですね。(2019年2月5日)

フューチャー・アースとSDGs

今日のシンポジウムの副題にはSDGsが日本語で入っていました。主催の環境リスク分科会では過去と現実に起きた事象を理解し、未来につなげるというコンテクストで使っている(と解釈しています)。委員の先生方は現場で問題に対峙している先生方ばかりです。SDGsには現在起きている問題、それも目の前にある問題を解決することから、未来を創りあげるというスタンスがあるように思います。一方、フューチャー・アースを推進するコミュニティーは未来志向が強すぎるように感じます。その結果、現在がおろそかになるということは以前も書きました。このことが両者がしっくりとつながらない要因であるとともに、人社系(+環境系)と理工系の間の溝がなかなか埋まらない要因の一つでもあるように思います。(2019年2月3日)

都市的世界の考え方

今日は学術会議、環境リスク分科会が主催する公開シンポジウムに参加してきました。そのタイトルは、「公害病認定から半世紀経過した今、わたくしたちが考えること-持続可能な開発目標の達成に向けて」。このシンポジウムの前に開催された分科会ではこんな発言がありました。「福島(の放射能汚染)については、様々な見解があるので、そっとしておくしかないのではないか」。それは、都市的世界の考え方で、(決して確定的ではない)科学的合理性を前提とする考え方であるように思います。世界全体を俯瞰し、様々な世界を視野に入れると、①科学的合理性だけでなく、②共感と③理念を共有することにより諒解を形成している、ということが現実であると思います。②と③が見えないと、現実が理解できない。だから、そっとしておくしかないと。こういう福島の真実を理解し、説明することがアカデミアの役割だと思います。時間が無く、議論はできなかったのですが、このシンポジウムの2回目(5月)に私の発表があるので、そこまでにコンセプトを明確にしておきたいと想います。(2019年2月3日)

大学教員はつらいよ

人は人を評価できるのだろうか。大学教員は教育者であると同時に、評価者でもある。毎年学位審査の時期になると、否応なく評価をしなければならない。これが事業評価、研究評価だったら粛々と実施することもできるが、学位審査だと、その前に指導がある。十分な指導ができたかどうか、悩むことになる。手取足取りの指導をする良い教員でありたいという願望と現実の間で右往左往する。できればがんばったみんなに学位を出したいと思う。しかし、学位は、研究成果だけでなく、それが適切に説明されたか、研究という行為に対する姿勢が身についているか、という点を含めて評価しなければならない。学位さえ取れば幸せな人生が待っているという場合でも、これらの点にはいかなる譲歩も許されない。しかし、とも思うのである。学位はゴールではなく切符である。だから、進路が決まっていれば甘くしても良いのではないか...。これは絶対のっては行けない誘惑であろう。学位なんてと思う気持ちと、学位の価値を重視する気持ちとの間で揺れ動く。こんな私は教授失格かもしれない。大学教員はつらいよ(寅さん風の言い方)。送り出した学生たちの現在が答えなのだろう。(2019年2月2日)

経済的合理性と環境倫理

大型石炭火力発電所として計画された袖ケ浦火力の開発検討の内容変更というニュースがありました。燃料をLNGとする火力発電所の検討は進めるとのことですが、これで3件あった千葉県の大型石炭火力発電所の計画はなくなりました。ただし、その理由はどれも、十分な事業性が見込めないということであり、CO2排出による地球温暖化の緩和策への対応に対する言及はありませんでした。環境保全対策のコストが背景にあるのですが、あくまで経済的合理性による判断ということらしいです。企業側としては環境保全について述べた方が社会的な利益があるように思えるのですが、収益源としての火力発電所建設に対する制限要因になることを恐れたということだろうか。SDGsの達成、ESG投資、といった世界の流れの中で、経済的合理性のみを考える企業は持続性を担保できるのか。あるいは、資本主義の中で生き残っていくのだろうか。そんな世界は幸せな社会だろうか。(2019年2月2日)

社会のティッピングポイント

野田市の小学4年生の心愛さんの件は、何ともこの社会の閉塞感を感じさせる出来事です。ヤフコメでは学校の“閉鎖性”を指摘する書き込みもありましたが、なぜ組織が閉鎖的になるのか、という点に突っ込まないと根本的な解決にはつながらないと思います。もちろん、失われた命は戻りませんが、なぜ死ななければならなかったのか、その根本的な理由を知ることが社会を変えることにつながり、心愛さんの供養にもなるのではないでしょうか。社会がどんどん閉鎖的になってしまうのは、トップダウンの支配構造(ガバメント)の中で、責任の所在が不明確になっていることにあるように思います。批判があまりにも厳しいので、批判されたくないという思いが閉鎖的な社会をつくっています。社会を変えるためには協働(ガバナンス)を重視する習慣、態度を醸成していく必要があります。人と人、人と社会の関係性を大切にする社会の構築です。ところが、そうなっていないのは日本が“良い国”になったということも関係していると思います。自分の安全・安心に関わることはすべて人任せにしています。医療、教育、警察、消防、...。それが、日本を閉鎖的社会にする要因になってはいないでしょうか。社会の中で個人が責任を持つことを見直さなければならない段階に日本は来ていると思います。この事件に関して森田知事は県の責任に対する明言を避けたとのことですが、これまでの社会システムの中で解決を図るには、業務を担当する部署を強化するということしかなく、それができない状況であるからだと思います(知事としてではなく、政治家としての考え方を聞きたいですね)。日本は社会の変革を我々は真剣に考えなければならない段階にあるのかも知れません。実行は大変なことですが、昨今の様々な出来事が生じる根底にある問題です。難しいからといって看過できない状況に至ったのではないでしょうか。社会のティッピングポイントに至ったということもできます。今は問題を認識し、各自ができることを粛々と行い、その成果を共有することが大切だと思います。おそらく、そこにSDGsの精神があるのではないでしょうか。(2019年2月1日)

大学教員の仕事

私が研究の評価において重視したいことは、“気付き”である。それは、自然あるいは人と自然の関係性に対する認識の深化である。認識が深まっていく過程を理解、記述し、その最深部に自分の新しい認識を位置付ける行為が、研究というものではないか。研究は単なる手続きではない。では、博士課程とは何か。この思惟の方法を身に付ける場である。研究の手続きの仕方を学ぶのは修士課程までである。博士を目指すという行為は、人生そのものである。博士は勉強すれば得られる資格ではない。しかし、研究の手続きこそが大切と考える分野もあるのかも知れないな、とも思う。それはニュートンデカルト的科学、すなわち一本道の科学である。環境の認識とはモードが違う。私はこれまで何人もの博士の学位を出してきたが、実は出せなかった学生もいる。人の人生が私の判断で変わってしまうということの重要性を考えると、正直すくんでしまうこともある。それでも、“気付き”は大切にしたい。とはいえ、ちょっと疲れ気味である。あまり涙は見たくない。一本道の人生ではなく、多様な人生があり得ることを教えるのも、大学教員の仕事ではなかろうか。(2019年1月31日)

夢あるようで、ないようで・・・

同じく、beの記事「生まれ変わったら就きたい職業」ランキング。そのトップが「大学教授・研究者」。世の中のステレオタイプと、今の大学教授・研究者は相当違うようだ。研究者の評価は論文数や獲得予算額によってなされ、どのような目標や理念を持って活動しているか、なんてことが評価されることは少ない。 財務省、文科省、大学、教員のヒエラルキーの中で、上位のものが幸せになるような所作が求められる。もはや、研究は地位と名誉のためといった感覚さえある。私の下の世代ではプロジェクトで育てられてきた研究者も増えており、縦社会への適応も進んでいるように見える。これは由々しき問題である。そもそも今の時代、若者が研究者として生き残り、教授にまでなるのは至難の業である。スポーツ選手と同じだが、こちらは15位。世の中ちゃんとわかっている。私は研究者になろうと思って、一直線に突っ走ってきたが、研究者が幸せだった世代の生き残りと言えるかも知れない。わがままに過ごしてきたが、その代わり、理念は持っている。これからの研究者は「社会のなかの科学者、社会のための科学者」でなければならないはず。SDGsやFuture Earthの登場は世界がこの方向に進んでいることを意味している。私ももう少し頑張ろうと思う。ところで、タイトルはこの記事の副題。夢というのは実現が前提で、バックキャストしながら現在の行動を決めて、最後に達成するもの。夢と単なる想いとは違う。理想と現実の間で苦しみながら育っていくのが人生。(2019年1月27日)

受益と受苦

先の「みちものがたり」の最後にこういう記述がある。(東京の人だったら)「毎朝、渡良瀬遊水池に向かって、手を合わせてもらってもいいと思うんだよね」。谷中村が犠牲になることで、首都圏の治水に貢献したことを覚えておいて欲しいと。明治政府による谷中湖の築造の背景には様々な思惑があるのだが、目的の一つは東京の洪水対策であったことは確かであろう。東京は守られているといって過言はない。しかし、その背後には犠牲を強いられた人々がいるのである。 受益と受苦の関係性が忘れら去られている状況では、日本人は近代文明人とは言えないと考える。文明人というのは文明によりもたらされる利便性のメリットとリスクを認識し、双方のあいだで諒解を持つ人である。それができない日本は犠牲のシステムで運営される社会ということになる。受益圏・受苦圏問題の解決には、この社会をどのようにしたいのか、という理念の合意が必要なのである。(2019年1月26日)

田中正造と下総

朝日日曜版be「みちものがたり」に田中正造に関する記述がありました。足尾鉱毒事件の明治天皇への直訴(明治34年)に失敗した田中正造は、明治39年に強制廃村になる谷中村に住み続けました。100年たっても「正造さん」と呼ばれ、人々に慕われています。田中正造は、明治27年に小金原開墾地(小金牧)の土地紛争問題について政府に質問書を提出しています。また、明治29年には衆議院議長にあてて質問書を提出しました。国策であったはずの東京新田開墾に伴って出現した資本家である地主と小作農民の戦いは戦後の農地解放までその解決を待たなければなりませんでしたが、田中正造の正義感に基づく行動は下総の農民にとって大きな意義があった、と青木更吉は著書「下総開墾を歩く」の中で述べています。あの田中正造が我が下総の問題も見ていてくれたということは私にとって大きな誇りです。 (2019年1月26日)

つくられる社会規範

続いてハラスメントFDがありました。「教員同士の会話に潜むハラスメント」という題であったが、表面的な取り扱いに留まっており、背後にある事情には踏み込まない。一般的な議論しかできないのは当然であり、問題解決のために個々の事情に入り込むことがFDの場ではできないことは理解できる。その結果、我々は聖人君子として振る舞うことを強要され、個別の問題解決からは遠のいていく。この様にしてつくられていく規範が人を苦しめることになっているのではないか。何々はいかんよ、という時には、必ず上位の規範も存在しなければならない。上位の規範に照らして、いかんな、ということを理解できる体系が必要なのではないだろうか。また、人の幸せの達成を考えるときには時間軸を取り入れなければならない。今の問題に対処するだけではなく、人の未来を考えると解が異なってくることもある。今を重視すると管理者の幸せだけになってしまうことも多い。 どうしても抽象的な表現になってしまうが、具体的に書くと、それが“ハラスメント”と言われそうなので、小心の私は書けないのである。(2019年1月23日)

社会規範は普遍的か

職場でコンプライアンス研修がありました。教員は絶対出席しなければならないというお達しで、しょうがなく出席、というのが本音ですが、話を聞きながら背景に何があるのかを考えることも大切かも知れません。資料の最初のページに「社会的信用の確保・維持」という図があり、中心に「法令遵守」があり、その外側を「組織内規則(大学全体・部局)」が取り囲んでいる。卵の黄身、白身といった感じですが、殻にあたる部分に「社会規範(倫理・道徳・暗黙の了解)」とある。これだけみると、御意にございまする、と従うしかないのですが、ここで社会規範とは何だろうと思う。社会規範は社会の了解であるのだが、時代とともに変わるものであるし、ある時突然変わることもある。その時というのは、社会の底流にモヤモヤとしたものを皆が抱えている時である。実は、今がその時ではないだろうか。日本では多数のガバナンス(というよりガバメント)の失敗が露呈している。それは今、社会規範と思われているものが時代遅れになっているということであろう。新しいガバナンスのあり方が求められているのが今この時なのではないだろうか。(2013年1月23日)

暗黙の了解

学術会議のシンポジウム「FUTURE EARTHと学校教育:ESD/SDGsをどう実践するか」に参加してきました。教育は社会全体の将来を行く末を決めるために、最も重要であると考えているので、ESD(持続可能な発展のための教育)がどのように実践されているのか、知りたくて参加しました。非常に勉強になったシンポジウムでしたが、持続可能な社会について皆さんはどのように考えているのか、そもそも何が問題なのか、それを解決するためにはどうすれば良いのか、という観点までは踏み込んだ議論には至っていなかったように思います。もっとも、社会の問題を指摘すると、様々な異見や反発が予想できます。望ましい社会のあり方については、暗黙の了解ということなのだろうか。私は資本主義に根ざす様々な問題が根底にあり、問題解決には社会の組み替えが必要だと思っている。現状の社会のあり方を受け入れて、対症療法のように様々なイベントを企画するだけでは、未来についてまじめに考えていることにはならないのではないかな。それでも、小さくてもたくさんの実践の積み重ねが重要でである。(2019年1月22日)

好きな情景

わざわざ島根県からドローン農業に関する相談に来て頂いた。従業員7名の会社組織で米、小麦、そば、レタスを栽培する農場である。パンフレットの代わりに頂いた、イセキの営農情報誌「ふぁーむ愛らんど」で社員の皆さんと圃場の写真を拝見することができたが、皆さん家族持ち、積極的な経営で家族を養っている。社長さんはまだ若そうだが、経営に対して明確な理念を持ち、達成のためには新しい技術の導入に躊躇しない。近代文明人だなぁと思う。また、情報誌の表紙には福島県広野町の農家の写真。シビアな出来事にもめげず、頑張っている。私はこういう農的世界の情景が大好きである。最近加齢のためか弱気になっていたが、せっかくやってきたドローン農業をさらに深めようかという気になる。家族農業の振興は世界の意思でもある。今年から、国連の「国際家族農業の10年」が始まる。(2019年1月21日)

真理とは方向感覚である

鷲田清一による故梅原猛への追悼文の中で見つけた故鶴見俊輔の言葉(朝日朝刊より)。私にはしっくり心に収まるフレーズである。科学の世界でもよく真理という言葉が使われる。しかし、それは"ひとと交わらない無機質の真理"なのではないか。真理を越えたところにもう一つの真理があるように感じる。それは公害や事故の現場に身をおいた時、歴史的・社会的背景、ひとの内面が垣間見える時に出てくる感覚である。どこを見るか、どこまで見るか、によって真理は変わってくる。科学におけるメカニズムとしての真理、あらゆるものが積分されて現れた本質としての真理、二つの真理が同じ方向を向いたときに科学と社会も交わり、ひとに安寧をもたらす。やはり、真理とは方向感覚である。でも、その時には科学における真理の重要性はどんどん相対化していく。大切なものは何か。じっくり考えねばなるまい。(2019年1月16日)

下総台地の歴史

この連休は青木更吉著「『東京新田』を歩く」(崙書房)という書籍を読んだ。明治維新により東京には失業者があふれ、窮民対策として牧の開墾が計画された。しかし、農業をやったことのない大商人が開墾会社を運営し、送り込まれた人々も農業経験はなかった。大変な苦労があったが、残った窮民は1割程度だという。地租改正を察知した開墾会社は偽装解散し、土地を手に入れて地主になったが、入植者に対する思いやりに欠ける所業であった。資本主義の精神の先取りといえるだろう(貨幣の増殖を一義的な目的とするという点で)。東京新田は失敗だったが、それは農の心があったかどうか、ということにつきると思う。農業には作法が必要なのである。文章を読み進めると、当時の景観や地形、地質に関する記述もある。たとえば、八街では「浅い地下水が地下に分布している」所でサトイモが栽培されている、という。これは台地の皿状地の浅部に常総粘土層が分布し、宙水を形成しているところであろう。地域に関わるということは、地域の地理と歴史を知るところから始まる。明治2~5年頃の話であるが、その後については続編があるので、読み終わったらまた報告する予定。(2019年1月14日)

房州うちわとの出会い

館山に行く用事があったので、房州うちわを買ってこいという指令がかみさんから発せられた。とはいえどこで売っているのかわからないので、ようやく慣れてきたスマホで検索すると、うやま工房という店を発見。行ってみると工房らしきものがあり、用がある方は電話するようにとの張り紙。そこにおばあさんが通りかかり、職人さんを呼んでくれることになった。職人といってもお母さん(この呼称には異論もあるが、あえて使う)で、美容院を経営しているのですが、わざわざ来てくれました。もとは亡くなった父(先のおばあさんの旦那さん)が職人で、野田総理の時代に頂いた勲章が工房の中に飾ってありました。お母さんは房州うちわを製作することができるのでなんとか続けているが、あと2年すると子供たちが美容師になり、店を任せられる。そのときはうちわ製作に専念するのだそうだ。いろいろな製品を見せていただき、3本を購入。すばらしく美しいうちわを手に入れた。実は、少し前に千葉テレビのニンジャジャという私の大好きな番組で房州うちわの工房訪問の放送があったことを思い出し、伺ってみたらお母さんでした。短い番組でしたが、分厚い台本が用意されており驚いたとのことです。縁というもの不思議なもので、すばらしい出会いを経験することができました。ここは南房総市。すぐ前には延命寺という里見家の墓所もある古い寺。房総のなだらかな山並み。すばらしい暮らしがそこにあるような気がする。(2019年1月13日)

「こころ」と「心」

福島について語るとき、この二つの言葉の使い分けに悩むことが多かった。朝日朝刊、山折哲雄のエッセイ「『こころ』と『心』に立つの大河の流れ」を読んでなんとなくわかったような気になる。「こころ」という柔らかな響き、それは和語であり、「こころ」の岸辺には、われわれの日常的な喜怒哀楽のすべての姿が変幻きわまりない枝葉を茂らせ、花を咲かせているという。「心」は漢語であり、中国文明の風光が匂い立ち、日本と中国のあいだのを行き来した知識人の活動が映し出されているという。「道心」、「十住心」、「信心」、「心身脱落」、「観心」。世阿弥の時代になって「初心」を生み、それが世界でも稀な、美意識としての「こころ」の誕生だったという。私が意図していたのは「こころ」であった。(2019年1月12日)

改革に必要なもの

朝日朝刊「異論のススメ」にある佐伯啓思氏の論考。タイトルは「平成の30年を振り返る-失敗重ねた『改革狂の時代』」。確かに平成は改革が横行した時代であった。大学のあり方も大きく変わった時代であったが、その結果どうなったか。ガバナンスの強化は良いのだが、ヒエラルキーの上にいる者の総合力が衰えたことが大学の衰退を招いていると言えないだろうか。狭い世界の中における判断が、より広い世界の現実と齟齬をきたし、全体のガバナンスを悪化させている。とはいえ、佐伯氏が指摘するように『 改革狂』の時代はひとつの過渡期と捉えるべきである。我々は新しい段階に進まなければならないのである。そのために必要なものは何か。佐伯氏は、「『改革』が目指すべきものは我々自身の価値観とともに生み出さなければならない」と述べている。全く同感であり、価値感、哲学が改革には必要なのである。これらに倫理を加えた3点セットが必須となり、それらを時間軸、すなわち時代の変遷の中に位置づけて考える態度が必要である。世の指導者たちは過ぎ去った時代の価値観や哲学に囚われているようである。(2019年1月11日)

科学と社会

ふと思った。科学が海だとすると、社会が陸だ。社会の中には科学者もいる。多くの科学者は外洋に向かって漕ぎ出そうとしている。論文生産の世界である。しかし、実際の外洋は決して恵みの海ではない。生産性(NPP)は低い(これは地理学の知識)。陸のすぐ外側には豊かな沿岸、内湾、干潟があり、社会に恵みをもたらしてくれる(高いNPP)。内陸の閉鎖性水域も大きな恵みをもたらしている。それが今や劣化している。そこを何とかしたいという科学者もいる。問題解決の世界である。今日は印旛沼流域水循環健全化会議の環境体験フェア検討委員会があった。これは印旛沼流域の問題解決を共有するステークホルダーの集まりである。もちろん、科学者だけではない。こんな活動、これはニュートン・デカルト的な科学とはモードが異なる科学の実践、これも科学の目的として社会の中の立ち位置を確立させたい。今年の目標のひとつである。(2019年1月8日)

1915年アルメニアのジェノサイド

YouTubeは私にとってはミュージシャンとの出会いのツールとして大いに役立っている。昨年のヒットはカナダのシンガーChantal Chamberland(シャンタル・シャンバーランド)を知ったことで、すでにCDは2枚手に入れた。アルメニア出身のNara Noïan(ナラ・ノイアン)も気に入っており、YouTubeでBGMとして聞くことも多いのだが、その中に"Les âmes immortelles - The Immortal souls (A hommage to genocide -- 1915)"がある。正月休みなので動画までじっくり見ると、そこには凄惨な映像があった。改めて調べると1915年のアルメニアのジェノサイドの記録らしい。自分にとって新しい知識であった。中東から黒海、カスピ海周辺の様々な国家、民族が闘争を繰り広げた歴史を知ったが、弱者の悲しみは想像するにあまりある。もちろん、この地域だけではなく、世界各地で憎しみ、嫌悪、欲に駆動される争いが繰り広げられてきた。ちょうど「世界の路地裏を歩いて見つけた『憧れのニッポン』」(早坂隆著)を読んだところだが、世界の様々な地域で繰り広げられている事象、それには戦争や差別による悲劇も含むが、それらの真実について少し認識を深めることができたと思う。日本はなんと平和な国であろうかと改めて思う。この平和の中で形成される意識世界は世界の中では特異なものになってしまうかも知れない。しかし、世界には争いだけでなく博愛、対立でなく協調もある。日本に必要なことはまず世界の真実を知ること、その上で、お人好し社会として振る舞っても良いのではないか。世界平和を導く行為は利他である。上記の書物の中にも悲しみだけでなく、利他の行為による心温まる話も含まれている。Nara Noïanの曲はダウンロード販売がメインであり、数少ないCDはいつも品切れだった。Amazonを確認したところ、在庫が出ている。早速発注したが、楽しみである。(2019年1月5日)

印旛沼初詣

初詣として印旛沼の龍神に詣でてきた。初詣はべつに神社仏閣でなくとも良いのだと思う。日本人には八百万の神の心が宿っており、あらゆるものに神を見ることできるのである。青空が広がり、陽だまりは暖かいのが千葉の典型的な冬。私はこれが大好きなのだが、印旛沼には北西の冷たい風が吹き寄せ、波が立っていた。水鳥たちもヨシの群落の陰に身を隠し、じっとしている。龍神も湖底で凍えているに違いない。最近は人間が水位を変えてしまい、ヘドロもたまって温かい地下水が出てこないじゃないか、と文句を言いつつ。そろそろ龍神の怒りも爆発するころではないか。その怒りを受け止めなければね。(2019年1月3日)

スマホデビュー

息子により強制的にガラケイからスマホに変更させられた。使って見るとめんどくさいが、まあおもしろい。ただし、USB Type-Cというものを知らなかった。充電ができない。明日は早速調達に行かねばならない。技術の進歩に追いつくのがしんどい歳になってきた。それでも、これで鞄にはPC、iPod、ルーター、スマホが格納され、電子機器であふれてしまう(ポメラはもう限界)。私は新書か文庫、それと折りたたみ傘は必ず持ち歩くことにしているので、これで鞄がいっぱいである。それに、これからはペットボトルをやめて水筒を持ち歩きたいと思っているので、仕事の資料はなるべく持ち帰らないようにしたい。(2019年1月2日)

都市集中か、地方分散か

朝日元旦版から。昨年10月1日にも引用したが、京大の広井氏らによる2050年のAI予測シナリオから提起された日本社会の課題である。広井氏らは持続可能なシナリオは「地方分散型」と考えている。それはAIが答えを出したからではなく、意味の解釈や価値判断は広井氏らが行ったのである。基本は人が、社会が未来をどうしたいかということである。それは哲学、価値、倫理の領域である。だから、人によって考え方は違う。地王分散型に誘導するためには人々の考え方を変える必要がある。そのためには、なぜ考え方が違うのか、ということを説明しなければならない。それが意識世界、すなわち人が関係性を持ち、考え方を創りあげる範囲、である。東京一極集中は都市的世界の中に留まる狭い意識世界をたくさん作り出している。地方には都市的世界とは異なる農村的世界がある。まず農村的世界を知ることが大切なのだが、その潮流はすでにある。テレビ、新聞、雑誌でもたくさんの農村的世界の紹介に満ちあふれている。田園回帰も確実に進んでいる。いろいろな意識世界を伝えることにより、人の意識世界を拡張していけば、意識世界の交わりが生じる。これこそが多くの問題を解決するほとんど唯一の方法なのではないだろうか。もちろん、都市的世界、農村的世界は共存して良い。人が両者を自由に行き来できる精神的習慣を持つことが大切であることは、この7年間変わらず主張していることである。(2019年1月1日)

印旛沼流域エコミュージアム構想

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。昨年の私は少し疲れていました。今年は変わらなければいかんと思っています。何よりも、“口だけ”は終わりにして実行段階に入らなければならないと思います。やらなければならないことは印旛沼流域をエコミュージアムとすること。文科省ホームページによると、エコミュージアムとは「ある一定の文化圏を構成する地域の人びとの生活と、その自然、文化および社会環境の発展過程を史的に研究し、それらの遺産を現地において保存、育成、展示することによって、当該地域社会の発展に寄与することを目的とする野外博物館」。地域の時代を創りあげるための強力なフレームワークになるはずである。まず印旛沼流域地理情報データベースを作成する必要がありますが、これは私が印旛沼流域健全化会議に参加した当初に提案し、組織図の中にデータセンターとして入れて頂いたものの機能に相当します。結局10年以上にわたって組織図の中だけに取り残され、誰か実行することをただ待っている状態になっていた。先月開催された勉強会で私がいつもの通り言及したら、虫明委員長から、あなたがイニシアティブをとるんだよ、とお叱り。最近の私はめっきり実行力がなくなってしまった。思い切り落ち込んだところでリバウンドするために、残る大学人生は印旛沼流域を対象によりよい地域を創成するためのフレーム創りに取り組もうと思う。(2019年1月1日)


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