口は禍の門

半年ごとのページ替え。ラップトップを更新し、CPUがCOREi7 7thGen.になったせいなのか、スイスイ動作している気がする。ついでにホームページビルダーも18から21に更新。これで後5年使います。最近はデジタルデバイドが進み、わからないことも増えてきた。本当はデジタル機器を使いこなしながら、自然にもどっぷり浸かる生活が理想なのだが、人がデジタル機器に支配されている現状を見ていると、そうはなりたくないものだと思い、距離をとっているうちに、どんどんわからなくなってきています。でも、なんとか追いついて、人と機械の良好な関係を構築したいものだと考えています。(2018年6月30日)

新年度。大学人として最後の5年間の始まり。今年は厄年でもあり、いろいろなことがうまくいかなくなっているように感じる。若い世代との間では価値観の相違が明らかになってきた。おやじの小言が多くなり、言ってしまってから、反省。しかし、若者と私は同じ時代を生きている。今の時代を生き抜く智慧と経験は多少は持っているつもり。それを学生に伝えたいと思うが、伝えることには信念と辛抱が必要。若者を尊重するだけでは不十分。まず若者と対話を深める必要があるなと思う。一方向ではない対話(2018年4月1日)。

2018年は還暦の年。干支が一回りして赤ちゃんにもどる年。赤ちゃんのような純粋な心に戻って、新しいことを始めることができる歳。人はそれを勝手気ままと言うかも知れない。でも、大学人が勝手気ままできなかったら、世の中は何も変わらんのではないか。一方、数えの61歳は厄年でもある。身体も以前のように動かなくなり、様々な不調が出てくる歳。気をつけると同時に、楽しいことをやらにゃあかんなぁと思う。(2018年1月1日)

2017年12月までの書き込み


世の中を変える力

それは雑用力。雑用をいとわしく思わず遂行する力。職場の将来にとって重要な決定と私が考える案件があったが、これまで作成してきた書類の記述との整合性がないと評価されてしまうので変えるのは難しいとのこと。なんで最初からやってくれなかったのか、となる。それでもごり押し。職場における信頼は損なったかもしれない。こうやって個人が分断されていくのかなぁ、と思う。私に雑用力があればと思う。私も歳をとったのだから、自分のことではなく職場のことを考えなければならないとは思う。ただ、私の場合は職場を越えてしまったのかも知れない。理念を議論する立場になったのはうれしいのだが、それが職場、大学、文科省の指示とは相容れないこともままある。ちゃんと先を見越して雑用ができれば良いのだが、まだまだ研究にも未練はあるし、研究活動が社会における責任とも結びついており、時間と体力が足りなくなっている。大きな課題を抱えたままで、定年までの仕事が続きそうである。(2018年6月28日)

企業、学生、大学間の悪循環

朝日朝刊「経済気象台」で、玄さんが「コンプラ不在の新卒採用」と題し寄稿している。企業は様々な手段で学生に就職決定を促すが、学生もしたたかで、「オワハラ」をかわし、複数の持ち駒を確保し、決定を先延ばしにする。これはキツネとタヌキの化かし合いで、ルールを守らない企業行動への自衛手段として学生は不本意にもウソをつく。これは反コンプライアンス教育を施しているようなもので、昨今の企業不祥事の遠因になっているのではないか、という指摘だ。それもあるだろうが、何より大学が生き様を教える教育機関として機能しなくなって永く経つことが昨今頻発する不祥事の原因となっていないだろうか。学生が、自分はどこにいて、そこで何をすべきか、を意識できていない。教員がそれを伝えない、伝えることがしんどくなっているから。だから、学生はやるべきことをやらないまま、知らないまま卒業する。そんな学生は社会人になっても幸せにならない。この悪循環が日本の社会に与える影響が顕在化してきたのが昨今の状況ではないだろうか。大学も組織として、こういった議論が必要である。教員、学生の幸せのために、大学教育における矛盾を洗い出しておく時期はとうに来ているのだが。(2018年6月26日)

大学の格下げ

朝日朝刊「松村圭一郎のフィールド手帳」でこんなセンテンスを発見。

大学は、何かを知っている人が知らない人に教える場ではない。教員問学生がともに学び考えながら、答えのわかっていない問をわかろうと追求する場だ。高等教育を「研究者」が担う意味はそこにある。

哲学者の内田樹もこんなことを言っていたし、私もそう思う。知識を一方的に伝達するのは中等教育までだが、中等教育でさえ、アクティブ・ラーニングと称して、双方向型の知識の伝達と定着を目指している。大学では、講義を授業、学生を生徒(最近は"子"と呼ぶ教員も増えている)と呼ぶことが増えているが、これは大学の高等教育機関からの格下げ、あるいは身投げ(?)を意味しているのではないか。こんな状況が定着してしまった現在、どこが高等教育機関の役割を果たすのか。大学院も学部の延長であり、もはや高等教育とは呼べない側面も顕在化してきている。世の中では大学改革の議論も喧しいが、トップダウンではなく個々の教員からボトムアップで変えていく努力も必要。ただし、そのためには教員の評価のあり方を変えなければならない。(2018年6月26日)

人文社会系のFuture Earth

環境三学会合同シンポジウム2018「SDGs時代の社会デザインを考える−人文社会科学からの新たな挑戦−」に参加し、話を聞いてきた。このシンポジウムは環境社会学会、環境法政策学会、環境経済・政策学会が共同で毎年開催しているシンポジウムである。私はSDGsは実践であり、Futrure Earthは研究者側のフレームであると考えているが、このシンポジウムでは Futrure Earth という文言は出てこなかった。Futrure Earthの実施には人社系と理工系の協働は不可欠であり、学術会議等のFutrure Earthコミュニティーでもそのような認識でいるはず。人社系の中で Futrure Earth に対する認識はどのような状況なのだろうか。人社系と理工系の間の溝が深すぎるのか、そうだとしたら、それはそれぞれの分野における自然観、社会観の違いが大きすぎるのか、あるいは、プロジェクト慣れした理工系が社会から孤立しているのか...、どうなのだろうか。私は人社系の研究者と一緒にFuture Earthを考えたいが、それは理工系の研究者にとっては価値観の大転換を迫られるものなのかもしれない。近いうちに両者の対話を実現させたい。(2018年6月23日)

フューチャー・アースの姿

最近、本を読むペースが落ちているが、ようやく読み終えた「復興ストレス」(伊藤浩志著)の冒頭にでてくるフレーズがこれ。福島の現場と交わり続けるとこう書かざるを得なくなるのだろう。

科学とはそれがなくてはある種の人たちが、生きていけないような誤謬のことである。

科学が誤謬だとは思わないが、誤謬と思えるのは科学者が誰に何を伝えようとしているのか、という関係性の多様性に起因しているのだと思う。現場にとって"研究のための研究"はかってにやればよい。"社会のための研究"が必要なのである。"ある種の人たち"とは、その科学者の"意識世界"と、科学事業を推進する強い集団の総体としての"意識世界"が重なっている科学の分野の人たち。そこは孤立した"意識世界"を共有する集団でもある。その意識世界の外側、すなわち現場からは誤謬にみえるのだろう。このことはステークホルダーの階層性によって説明できる。世界、国がステークホルダーである科学者、地域で暮らしを営む人がステークホルダーである科学者。両者の意識世界がなかなか交わらないことが、"ある種の人たち"の科学が誤謬と言われてしまう理由である。フューチャー・アースやSDGsの時代は、両者を包含する視野を持つ人が必要なのである。その人は科学者である必要はなく、決してエリートや有名人であってはならないのだと思う。一人の科学者は、自分の前にある一つの問題解決に取り組む。そして、みんなが集まって個々の問題解決を包摂するフレームを作り上げる。それがフューチャー・アースなのではないだろうか。(2018年6月19日)

科学的な根拠とは何か

今日は環境アセス委員会でした。ある極めて重要な案件の答申案の中にあった「科学的根拠を持って」という部分の修正を求めました。常識的に考えれば科学的根拠に基づいて判断することは当然だと思われるでしょう。では、科学的根拠とは何か。研究者の世界では論文が科学の成果をオーソライズし、知の共有を図る至上の手段なのです。だから事業者が提出するアセス文書には論文が引用され、事業の妥当性が主張されるわけです。しかし、環境に関わる重要な事象に対して十分な研究がなされ、論文が作成されているわけではありません。事業者側の研究組織による“影響はない”とする論文があると、それが現時点における科学的根拠になります。専門家として影響が予見できるのですが、論文がないと主張を正当化することはできません。仮説を反駁して新しい仮説を打ち立てるのが研究という行為であり、研究者は研究を行えば良いだけなのですが、昨今は短期的に成果を蓄積しないと研究者としての職の維持さえ難しい時代になりました。テニュアの研究者でも予算以前に時間が無くなっている。よりよい社会のあり方、人の幸せに関わる研究に誰でも取り組むことができるような体制づくりが必要だと考えています。環境影響に対して重大な疑義が出てきたときに、予算の裏付けを持って調査、研究を促す仕組みを創りたいと思います。研究者と社会の関係性が問われる昨今ですが、社会側も問題の理解、解決に研究者の良心的な行動を期待している側面があります。社会と研究者(科学者)の良好な関係性を創りあげる仕組みが重要な課題となってきました。(2018年6月15日)

帰属計算

これは記録しておかねばなりません。先週、上智大で北アフリカ科研の打ち合わせがあったときに知り合った一橋大の黒崎さんから頂いたエッセイの中で見つけたもの。開発経済学では、生活水準を示す基本情報として、所得や総消費支出を家計ごとに推計するが、その際には、必ず、自家生産・自家消費の農産物を所得と消費支出の両方に加える。これを「帰属計算」と呼ぶそうです。これを知って、私もすっきりしました。農産漁村ではたいてい自家生産、自家消費(自給経済)、またおすそ分けと、その繰り返し(交換経済)といった行為が存在し、地域の暮らしの中で大きな部分を占めています。貨幣には換算されないのでGDPといった指標には繁栄されませんが、地域の豊かさ、幸せの源になっているに違いありません。農産漁村における現金収入は都市社会との比較では低い場合でも、実は、統計指標には出てこない豊かさがそこにある。土地、家、もの(管理機など)があれば、十分やっていけるのが農村、ということは農家と話す度にそれとなく確認している事柄でもあります。最近の田園回帰の流れからしても、このことに気が付いた若者が増えてきているということだと思う。それは、いずれ、この社会のあり方の変革につながっていくに違いない、そうしたいと思うわけです。(2018年6月11日)

様々な事情

先週の金曜日は午前中から東京で会議があったので、地下鉄経由に決めて、京成の特急に乗っていました。江戸川の駅をすぎたあたりで、急ブレーキがかかり、停車。そのまま30分ほど車内に缶詰になっていました。特急は運休になったため、浅草線経由をやめて、高砂で普通上野行き、町屋で千代田線に乗り換え。東京の交通網は便利なもんだ。その後、ニュースにより、あるひとりの男性が亡くなる瞬間だったということがわかる。さらに、身元調査で自宅を訪問したら、二人の遺体が発見されたとのこと。頻繁に起きている“人身事故”は人にとって自分とは無関係な時と場所で起きている事象にすぎず、迷惑と感じることはあってもすぐに忘れてしまう。しかし、背後には様々な事情が必ずある。自分には関係ないことかもしれないが、事情を想像することは、社会において関係性の糸をたぐり寄せることによって、何か変だということに気づき、何かを変えなければいけない、といった思いを醸成することにつながる。それが社会のあり方を変えていくのだが、昨今は人々の関係性が失われ、想像することをやめてしまったが故に、分断が進んでいるように感じる。ここに解くべき大きな課題がある。(2018年6月11日)

正常とはなんだろう

思えばひと月以上も書き込みをしていない。考えたことはたくさんあったのだが、どうもやる気がおきない。そんな時期が周期的にやってくる。自分の精神は正常ではないな、と思いながらも、“正常な精神”なんてありえるのだろうか、とも思う。“強い精神”だったらあるだろう。これも個性なのかも知れない。この世の中、何でも自分の思うとおりにはならないことは分かっているのだが、心は何かと闘ってしまうのだろう。この心の弱さは何とかならないだろうか、と思うが、人が機械になってしまったり、スーパーマンでないと生きづらい世の中ではいかんので、この程度が良いのかもしれない。(2018年6月11日)

すぐに役に立つ成果

最近は大学の研究能力の低下を憂う新聞記事が多い。今日の朝日にもあった。"すぐに役に立つ成果を求めすぎ"、という論調だが、それは正確な認識だろうか。本欄では繰り返しになるが、税金を使って研究を行っているのだから、何に役に立つか、を求められることは当然であり、自分の研究を一番良く知っている本人こそがその道筋を述べなければならない。基礎研究の分野でも、人類の知的資産の形成で日本がリードすることの重要性を主張すれば良い。実は問題は"役に立つ"ではなく、"すぐに成果を求められる"、という点にある。成果が、論文の数、獲得予算の額、欧米基準に寄り添った指標の獲得、といった数字で評価されるところが根本的な問題なのである。すなわち、評価を名誉と考える評価者、職階の上位にいる者たちが幸せになる仕組みにこそ問題がある。そうなってしまうのは科学行政が分断されているからともいえる(行政、企業、学術会議、現場の研究者の間の分断)。一方で、マスコミを含む国民の科学技術に対する理解が低下していること、こちらの方がより根本的な問題なのかもしれない。本欄で時々言及する"文明社会の野蛮人"に日本人がなってしまっているということ。文明のあり方を再考しなければならない時期が来ている。教育の重要性がますます高まっている。学生が、こういう議論に向き合うことができる精神的態度を醸成すること。とはいっても、それは時間と根気が必要な作業である。大学人がやるべきことをやる時間がとれないというのも、大学の研究能力低下の理由として認識されてはいたな。時間が...。(2018年5月3日)

科学者の呪縛

読むべき本がどんどんたまってくるが、やるべき事が多く、読書の時間がなかなかとれない(実は、酒のせいで夜の読書時間が減っているという問題、仕事の種類が多すぎて精神面で能率が低下しているという問題がある)。一方で、内容をどんどん忘れてしまう。これは老いなのであきらめるしかない。時々読み返すために私は鉛筆で線や印をページに書き込んでいる。そうすると、後で重要な部分をさっと復習することができるようになる。今日はせっかくの休みなのでいくつかの本を取り出し、鉛筆で印を付けた部分をさっと読み返す。そうすると、忘れていたことがよみがえる。今は、「内発的発展論(鶴見和子・川田侃編)」を取り出し、再認識を行っているところ。最近は科学論、科学哲学、科学思想といったジャンルの本を読むことが多いのだが、科学というもの、科学のあり方、科学と社会の関係、といった課題については20世紀後半に深い議論が為されている。翻って現実の科学者の世界を見ると、思想的にまったく追いついていないのではないかと感じる。そこには科学者が囚われている言説の呪縛があるのではないかと思ってしまう。それは、"科学は真理の探究だ"、とか、"科学者は対象との間で価値とか心を分断し、客観的に第三者として振る舞うのだ"、といった思い込み。 大学にいるとこういう議論はなかなかできないが、学術会議では若干できそうな気がする。気後れしないためにも知的資産は十分頭の中に入れておかなければならない。(2018年4月29日)

エリートや有名人にはなりたくないものだ

今日は千葉大学フューチャー・アースでお世話になったお二方の退職と異動を祝い、感謝の念をお伝えするための会が、上野の森鴎外旧邸で開催された。かの森先生のご紹介によるものであるが、偉人の人生を刻んだ場所というのは居るだけで心が洗われる気がする。千葉大学フューチャー・アース(FE)は始まったばかりであるが、FEやSDGsには絶対否定することのできない美しい文言が並んでいる。その実現の過程で研究者がエリートや有名人になってしまうのはやだなぁ、と思う。上から目線で良い人を演じるなんてことは絶対やりたくないものだ。とはいえ、研究者には評価がつきまとっている。FEやSDGsの評価の基準は予算や論文ではないと思うが、論文のための予算獲得競争の胎動は確実に感じられる。研究の評価のあり方を変えることが、研究者がフューチャー・アースやSDGsに取り組む時間を作るためにも、まず必要なことではないだろうか。学術会議では議論は始まっているとのこと。地域の中で研究者が問題解決を共有する一アクターとして振る舞うことができる世界こそ、研究者にとっても幸せな世界ではないかな。そんな世界では研究者もエリートや有名人である必要はなくなる。あほな、と言われるかも知れないが、世界は良い方向に向かって進んでいくのだ、という楽観的な姿勢を保つことがまず重要なのだろう。(2018年4月28日)

見て見てニッポン

平成の日本のイメージを形作ったのは、「外からの視線」だったのではないか、という朝日の記事。元駐仏・駐韓大使の小倉さんは現状をタイトルのように表現したという。「あるべき姿を模索する余裕がなくなり、国際社会の要請と自画像がずれている。『見て見て』の後は一体どうするのか」。見てほしいというのは、自分も何となく強そうに見えるグループの仲間になりたいというアピールなのではないか。これは研究者の世界も同じ。欧米、最近では中国が突出してきたエリート集団の仲間でありたいという切実な訴えが感じられる。それよりも、新しい自然観、世界観、社会観に基づく、日本独自の、日本しか達成できない課題に挑戦するということをなぜしないのか。いや、実はすでに実行されているが、エリートの眼には写っていないだけなのではないか。それが地理学、社会学、計画学といった分野では始まっていると考えられないだろうか。地球環境問題は人を中心に据えて、現在の問題をしっかり見つめ、未来への指針を示すことができる分野が主役であるはず。(2018年4月27日)

プロフェッショナルサイエンスとパブリックサイエンス

とっておいた朝日夕刊のコラム「一語一会」を捨てる前に記録しておきます。これは「自分が考えるようなことは、すでに誰かが書いているものだ。文献をよく探しなさい」という教育社会学者、竹内洋さんの恩師、姫岡勤さんの言葉。私が書き留めておこうと思ったのは、これ。「一般には関係ないような論理で、同業者仲間にだけ通じればよいというのは、言わば「プロフェッショナルサイエンス」。もっと「パブリックサイエンス」とでも呼ぶべき要素がなければいけないですよ」の部分。時代はパブリックサイエンスを求めていると私は考えている。ある学会連合から「今後の地球観測グランドデザイン」のサポートレターを作成するということで私がつけた意見が、下記。
●予算化を目指すためには、各政策官庁の役割を提案し、支持母体となって頂くような書き方が望ましい。「研究したい」というニュアンスがあからさまにでると、政策決定者にとって印象がわるい。
●そのためにも、「日本国民の利益」に対する具体的な提案が、研究sセクターの知識、経験、科学的エビデンスに基づき、明記されていると良い。
●気候システムは重要であるが、社会システムへの貢献が理解できる書き方が望ましい。地球人間圏科学が貢献できる分野ではないか。特に災害課題は社会システムとのリンクが必要。

これは2013年3月7日に内閣府に地球観測計画に関する相談(陳情)に行ったときに伺った担当者の意見に基づいています。上記の意見が直接JpGUに伝わってしまったのですが、これからの研究者は「社会の中の研究者、社会のための研究者」にならなければいけないわけで、地球観測も社会との接点を強くしなければ日本独自の成果はあげられないのではないかな、と思うのですが。(2018年4月26日)

計画には哲学が必要

農村計画学会の大会はいつもホッコリさせられます。今回もワークショップという手法について勉強させて頂きました。未来に対する展望をしっかり持ち、現場に深く入り込み、地域の方々と協働で問題の解決を試み、時には政策にも強く関わる。シンポジウムの質疑応答において、私もお世話になっているある先生から、この発言がありました。「計画には哲学が必要」。彼は飯舘村の地域づくりに何十年も関わり、原子力災害後は村の外に村を作る活動を継続してきた。私たちは帰還する方々と協働し、復興を目指している。哲学は異なるかもしれない。でも異なる哲学を尊重しながら、地域で活動を続けている。未来を展望するには哲学が必要。その未来は現在の延長になければならない。そこに自ずから哲学の介在が必要になる。現在の自分の楽の継続を前提とした、未来志向の強い環境研究では、現在の社会に対する配慮が疎かになる。未来は過去、現在、未来と続く時間軸の中にある。(2018年4月14日)

資本主義を越えて

沼人さんが印旛沼を良くするにはマネーパワーが必要という発言をしています。その背後にはおそらく資本主義が前提としてあるのでしょう。資本主義は果てない拡大と成長を前提とするシステムです。その過程で、人と自然の関係性が悪くなり、自然の劣化、汚染、格差や貧困、等々が生まれています。我々は新しい社会に移行しなきゃ、というのが印旛沼を巡るコミュニティーに内在する考え方ではないかな。我々は成長、発展の一本道から別の道を選ぶこともできるはず。それがどんな社会になるかは我々次第なのですが、一つの生き方を紹介しましょう。鹿児島に住むヨホホ研究所のテンダーさん。彼は「低収入、低コスト、低負荷」社会をめざし、「てー庵」を営んでいます。それで幸せかって。とっても幸せに見えます。ホームページを見てください。これは一例。金をかけなくても幸せは得られます。(2018年4月3日)

コモンズとしての印旛沼

印旛沼流域を良くすることを目指すMLの中で、沼人さんが当事者という言葉を使っていました。印旛沼を巡る当事者とは何か、誰か。“当事者”は難しい言葉でいうとステークホルダー。印旛沼に関心のある皆さんがステークホルダーです。では、印旛沼はだれのものか。それは「みんなのもの」。難しい言葉でいうと「コモンズ」。印旛沼との直接的な関わりの大きさは様々であるが、遠くでも近くでも関心によって関係性を維持できる。たくさんの関係性の大小を考慮しながら「みんなのもの」となることで印旛沼とその流域の未来を決める社会的な力になるというのが印旛沼を巡るステークホルダーのコミュニティー、印旛沼流域圏交流会もその一つ、の役割なのではないだろうか。(2018年4月3日)

社会に参加する窓口

朝日のGLOBEにあった民主主義に関する記事「政治のことは嫌いでも、民主主義は嫌いにならないでください」(記者の玉川さん)。大学生に民主主義について問うたところ、「選挙で票をいちばん集めた政党が国の代表になる。民主主義とはそういうもの。それは受け入れなくてはいけないと思います」と3年生の女子学生。でも、そのとき自分が生きていく社会のあり方を考えている若者はどれだけいるだろうか。めんどくさいことは自分ではない誰かが、自分のいいようにやってくれる、と思ってはいないだろうか。何でもやってくれるのは親だけである。国は親ではないのである。社会に対する自分の意見を持ち、議論しながら折り合いをつけ、社会のための行動ができてこそ大人であると思うよ。多数派に従うことが民主主義というわけではありません。自分の考え方をしっかり持ち、社会に参加する窓口を探してください。いろいろなところに入り口はあります。(2018年4月1日)

文明人の暮らす地域

家族と吉高の大桜を見てきた。満開の大桜は印旛沼流域に関わる身として一度は見ておかなければならん、と思っていたがようやく実現。人はたくさんいたが、皆さん沿道の風景を堪能しているに違いない。そんな方々がたくさんいることに安心。田園風景は人に癒しを与える。人と自然の良好な関係性を築いている郊外の農村を維持しながら、我々は東京大都市圏とも関係性を結ぶことができる。近代文明のリスクとベネフィットを理解し、都市と農村を自由に行き来できる精神的態度を持っている人。それが文明人なのではないだろうか。文明人が暮らす地域を印旛沼流域に創りたいものだ。(2018年4月1日)

新年度の目標

平成29年度が終わる。最近3年間は実に多忙な期間であった。他人を評価する仕事、自分が評価を受ける仕事、機械的にできる仕事ではないので、常に頭の中に置いておき、考え続ける。私は細切れの時間をつなぎ合わせるのは苦手であるので、納得を得るまでに時間がかかる。私はスーパーマンでもないので、時々仕事にぬけが生じる。学生には誠実であれと言っているが、自分が誠実ではなくなる。それが自分を苛む。なんでこんなに心が弱いのかと思うと、ますます落ち込む。こんな負のフィードバックが働いている。このフィードバックループを抜け出すことが新年度の目標だな。(2018年3月31日)

博士過程で学位をとること

それは人生を賭けた挑戦であり、自己の責任によって達成すべきもの。というのは私の世代に共通する認識だろう。必死で食らいついていく中に成長があった。研究はチャレンジでもあるので失敗もある。3年で学位が取得できたらそれは運が良かったということ。とはいえ、苦しんでいる学生をみるとつらい。それでも答えを与えることはできない。私にだって答えはすぐにはわからない。文献調査による知識と、調査、解析による経験によって答えに自分から近づいていく必要がある。ある時、突然道の先が見えてくる。研究とはそういうものと思うが、それは正しいのか。昨今は限られた期間で成果をあげなければならない研究が増えてきた。論文を生産するスキルだけで良いのか。(2018年3月30日)

お人好しでよい

最近、研究室で変な事件が立て続けに起こった。悪意による行為に階層の上の立場から厳格に対応しようとすると、関係のない現場の方々の行為を制限することになる。それが組織としての対応なのである。私は悪意の理由をまず考える。そうすると悪意を止めるために、現場のコミュニティーを強くすればよいことがわかる。ある老師が言っていた。谷津の産廃投棄は地域のコミュニティーが弱くなっているところで起きる。だから、コミュニティーを強くすることが谷津を守ることにつながるのだと。監視を強化したり、犯人を捕まえても本質的な解決にはならない。問題の真の解決は、上位の管理者にはできない。解決は現場における現在の幸せを考えるところにある。リスクはあるが、それが人のしあわせ、強さにつながる。私はお人好しで良い。(2018年3月26日)

不幸になる確実な方法

それは大人になっても子どものままでいること。与えられることが当たり前のままで歳を重ね、誰も自分がほしいものを与えてくれないと苦しむ。大人だったら自分を外から俯瞰し、様々な関係性を見極める中から自分の進む方向が見えてくるはずである。そして勇気を持って踏み込む。そのとき、教員ができることは答えを与えることではない。学生が目的を達成できるようにサポートし、導くことだけである。こんな風に考えてきたが、それではだめなのだろうか。(2018年3月24日)

集団と組織

これは書き留めておこうと思う(朝日朝刊)。元裁判長の三上さんが軍隊経験のある先輩裁判官から聞いたこと。「人間というのは集団に入ると理性を失い、何でもやってしまう。最たるものが軍隊だ」。集団というところがミソ。集団が走り始めると、その流れに逆らえなくなる。それは、「集団」であり「組織」ではないから。組織であるためには、共有すべき目的がなければならない。大学の目的は、教育と研究。しかし、上位の階層に対して如何に優秀かをアピールすることが目的となってはいないか。大学の集団化、軍隊化が進んでいる。我々大学人は大学の組織としての目的を常に振り返り、社会における大学の役割を確認しながら進んでいかなければならないのだよ。一方、教育欄では大学生の読書離れの記事。これはゆゆしき事態である。なぜなら、読書離れは若者が判断を行うための頭の中のデータベースを充実させることができなくなることを意味している。だから、若者は集団は構成できるが、組織の中で機能することが難しくなっている。結局、若者は誰かに、何かに依存しないと生きていけなくなってしまう。軍隊はいらない。勉強しよ。(2018年3月19日)

その先を見据える

初めてJFEスチール(旧川鉄)の構内に入った。川鉄はかつて地元千葉のブランド企業であった。その歴史は高度経済成長期の日本の歴史とも重ね合わすことができ、多くの喜び、悲しみとともにあった。構内は巨大な工業都市といった感じ。貨物線の軌道と機関車は鉄道模型を見ているようで楽しい。高炉の中は外から窺うだけであったが、赤い光は確かに見えた。ここで働く人々は一つのコミュニーティーを構成しており、そこにおける日常は人生そのものともいえるのではないだろうか。しかし、時代は移り、外の世界、それは産業界だけでなく世界というコミュニティー、との関係性を意識することが必要になってきた。ここで働く人々の暮らしを守ることと、日本人が世界の中で誇りをもって生きることができる状況を創り出すこと、この二つを同時に考えなければならない。計画されている発電所が地域に悪い環境影響を及ぼさないようにすることが当面の仕事であるが、その先を見据えなければならない。(2018年3月16日)

ホーキング博士逝く

宇宙物理学者のホーキング博士の訃報が届いた。享年76歳。彼の主張によると、「近い将来に人類が恒星間に生きる種となるか、さもなければ『絶滅する』おそれがある」、という(WIREDの記事から)。彼は病気のため科学技術に支えられて生きてきたといえる。そんな世界から見た未来だから悲観的なものになってしまうのではないか。人類の(現代的な)繁栄はいずれ終わると思うが、その先にある未来は決して悲観的なものにはならないと思う。もし、あらゆる人種、階層の人々が争うことなく宇宙船に乗ることができるのであれば(その過程でつらい諒解もあると思うが)、平和な地球を創ることもできるはず。宇宙にフロンティアを求めるというのは、飽くなき拡大を指向する資本主義が背景にないか。我々は資本主義にかわる新しい社会も生み出すことができるはずである。(2018年3月14日)

基礎研究の価値

朝日のWEBRONZAで、「『企業のため』が潰す大学の基礎研究」という記事があった(松本編集長)。豊田工業大学シカゴ校の古井さんによると「『大学は、多様な価値観に基づく、教育と研究の場』だから『産業界のニーズに合わせるのは全く的外れだ」」という。もちろんその通りであるが、現場では「企業のため」というより、「資金のため」、という圧力は確実にある。千葉大学においても、「儲けよ」という圧力は強まっている。背に腹は代えられないということではあるが、こんな時代だからこそ、科学者は基礎科学の価値に対する確固たる考え方を持ち、社会に提示する必要があるのではないかな。というのも、昨今の時代の雰囲気の中で、科学者は自分の研究が優れているということになったかどうか、ばかりを気にし、論文生産、予算獲得のために、専門分野の壁を高くしているように思われるから。このことが基礎科学の価値を分かり難くしているのではないだろうか。壁を崩して、広く展望すれば、新たな価値を見つけることができるはず。ただし、それは科学者にとって生き方の転換であるので難しいことではあるが。(2018年3月13日)

地べたを歩いて考える

今日の朝刊(朝日)では二つのフレーズが頭に残りました。ひとつは「あんたら頭で考えとる。そやからあかんにゃ(松井利夫)」(折々のことば)。これは陶芸家の言葉で「先に手で考えよ」ということ。我々の立場からは「現場で考えよ」ということになる。もうひとつはコラム「風」から、「地べたを歩け」。朝日アメリカ総局長の沢村さんの記事ですが、アメリカでは地方メディアが衰退している。記者の大都市集中が進み、ジャーナリストといえば「遠い場所から高説を垂れるエリート」と見なされかねないと。自分で見て、聞いて、感じなければ真実はわからない。研究者も大都市集中が進むが、解くべき社会の問題に対しては、「エリートや有名人が上から目線で、良い人を演じる」なんて見られないように、現場に身を置くことが大事。ただし、社会の中の研究者、社会のための研究者になるためには、それだけでもだめだということもわかってきた。ステークホルダーの総体を認識し、具体的な提案をしながら、一緒に考えることが必要(昨日の反省点である)。一方、ステークホルダーの階層性にも留意しなければならない。これも研究者の重要な役割である。現場で汗水流すことは信頼につながる。最後は信頼である。信頼を通じて問題の当事者の諒解が形成される。(2018年3月12日)

市民科学者への変貌

久しぶりに福島を往復した。毎年年度末に行っている千葉大・産総研チームの報告会である。避難指示解除から一年。山木屋に戻ってきた方々を前にいろいろな話をすることができた。ただし、反省点もある。科学の成果は提示するだけではだめである。具体的な提案をし、一緒に考えながら、汗水流して実践し、信頼を得ることで現実的な動きにつながる。今年は具体的な提案書をつくろう。そして実践しよう。うまくいった例を作ることが、次のステップにつながる。ただし、現場には様々な問題がある。今月いっぱいで慰謝料として支払われている収入がなくなり、確実に生活に困る方々が出てくるようである。セシウムなんかもういいよ、という声もある。皆さん優しい。我々が行けば暖かく迎えてくださる。でも背後には個別の深刻な問題がある。一方、現状に諒解を与え、暮らしを楽しもうとする人もいる。研究者が問題の現場でどう振る舞えばよいのか。一市民として関わっていくというやり方もあるだろう。市民と科学者の枠がだんだん曖昧になってくる。それが市民科学者というものなのかもしれない。あるいは、新しい科学のあり方なのかもしれない。夜中に家に戻り、テレビをつけたら浅田真央さんが山木屋スケートリンクを訪問したニュース。さっきまでそこにいたやん、とうれしくなる。有名人の力も偉大である。(2018年3月11日)

低収入・低コスト・低負荷社会

7年目の311直前で東日本大震災に関するニュースや番組が多い。明日は福島日帰りします。私も今後どうしたら良いかを考え続けていますが、その一案が、資本主義とは異なる社会を地方に作れないか、ということ。農山村では家、土地、農機具があれば現金収入が少なくても何とかやっていける。そこで、思い出したのが「てー庵」。低収入・低コスト・低負荷社会を目指す変人の試み。以前、現代農業で読んで知っていたので検索するとホームページがあるではないですか。「わがや電力」を出版していることを知り、さっそく注文。私がいつも言っている、直流を使って低コストの電力供給システムができるのではないか、という主張は「てー庵」からの受け売りでした。そして地域経済で成り立つコミュニティーの構築。もちろん既存のセーフティーネットからも支援を受けるが負荷も少ない。市場経済だって活用し、少し豊かな社会を構築。誇りをもって楽しく暮らせる。こんな地域を創れないかな、と勝手に思っています。(2018年3月10日)

科学者が変わるには

朝日朝刊「折々のことば」(鷲田清一)から。これは解説にあった文章。「生き方、世界の見方を変えるには、これまで身につけてきた思考の初期設定を書き換える必要がある」。時代の変化を受け入れるためにはこれまでの自分を一度リセットしなければならない。私自身はリセットというより、いろいろなことを経験しながら、徐々に時間をかけて変わってきたのだと思う。だから、今急に変わることができない方々、研究者の間では少し浮いているのかな、という気がする。私が関わっている研究者コミュニティーのフューチャー・アース、SDGsに対応するやり方にはどうも違和感がある。とはいえ、私と同意できる研究者コミュニティーもあることはわかっている。これからの課題は同じ考え方を共有する仲間を増やしていくことだろう。さて、本来のフレーズはヴィトゲンシュタインの「哲学者どうしの挨拶は、「どうぞ、ごゆっくり」であるべきだろう」。哲学者を科学者に変えることはできるだろうか。今の科学者があまりに急いでいるのは背景に資本主義があり、翻ってみると欧米思想がある。社会のあり方を変えれば、科学者も変わる。(2018年3月10日)

地域おこし

今日は研究室OBのDさんが家族で訪問してくれました。彼女は悩みすぎてしまって学位は取れなかったのですが、今は幸せそうですのでこれで良かったと思っています。学位をとったら人生が変わっていたかもしれません。彼女のOB情報で、Wさんが地域おこし協力隊で新潟胎内市に行っていたことを知りました。私自身が地域指向、農山村指向が強いので学生との間でちょこっと意識の差を感じていたのですが、これはとてもうれしい。ホームページで楽しそうなWさんに再会しました。地域つくり、地域おこしは農村計画学の課題でもあるので、この方面に力を注ぐことができればな、と思っています。それにしても日本には良い場所がたくさんあります。原発事故後、始めて阿武隈高地の山村に入ったとき、なんて良いところなのだろう、何で今まで知らなかったのだろうと思い、同時にこみ上げてきた寂しさ、虚しさ、悲しさが心にこびりついています。胎内市も良いところ。いずれ訪問してみたいと思う。(2018年3月9日)

「米の大学生との対話」から

朝日朝刊、デイビット・ブルックスの「コラムニストの眼」より。デイビットが(今のところ超難関高だけであるが)、大学生にいろいろな課題に対して聞いた意見をまとめた記事である。まず、今の学生は期待感を縮小させてしまった世代であり、大組織を信頼していないという。これは日本の学生も同じではないか。最近20年くらいの間に起きたこと、昨今の政治を鑑みるとさもありなんと思う。ただし、(アメリカの)学生は希望を失っているわけではなく、人生をかけ、社会を変えようとしているという。日本ではどうか。学生は社会との関わりを意識せず、消費者としてこじんまりと生きようとしているように見える。また、アメリカでは米国の理想への信頼が失われているという。デイビットが理想を語ると、ある学生から「権力のある白人男性が米国について語る時の方法ですね」との発言があったという。これは我々大学人、研究者も傾聴に値すると思う。フューチャー・アースやSDGsについて語る有名人、エリートは上から目線で理想を語り、良い人を演じようとしているように見えてしまうだろう。なぜなら、アメリカの学生は、「変化をもたらす人として誰を信じるか」、という質問にはほとんどが、「地方の、中央集権でない、現場にいる人」を挙げているから。信頼できる人というのが現場の人なのだ。しかし、「社会運動は、長続きするためには構造的な組織をつくる必要があり、本格的な変化をもたらすには政治に入り込まなくてはならない」と考える学生もいた。そこからデイビッドは「この世代の大きな試練は、草の根でうまくいっていることを、どうやって、問題を抱える国レベルに移していくかだ」と述べている。日本ではこのことは私自身のトップレベルの課題である。なかなか学生レベルに浸透させることは難しい。しかし、背景には日米で同様のものがある。日本の学生にも社会のことをもっと意識してもらうためのモチベーションは十分にある。私は現場に軸足を置き、現場から信頼をいただき、草の根でうまくいっていることをより上位に移していくこと、これがミッションだと認識しています。ただし、最近は口ばかりで実質的なアクションが滞っていることがだいぶ気になっているところです。(2018年3月9日)

ふるさとはなくならない

朝日朝刊「いま伝えたい「千人の声」2018」から。飯舘村の哲さん。お世話になりました。避難後、放射能で汚染された飯舘の地の再建にはとても悲観的だった。だから、飯舘の外に、飯舘をつくることに尽力していた。でも、今日は「飯舘を再建したい」という。これは飯舘の外に再建するということではないだろう。「根菜類などを作って販売し、安全だということを示す」ためだから。人はふるさとには戻るのだ。少なくとも心の中ではそう思っている。私はそう思っていた。だから、帰ることを決めている人たちのお役に立ちたいと思い、ほんの微力だが、福島に関わってきた。ここは日本だ。人為的なアネクメネなどあってはならない。日本人は近代科学技術のリスクとベネフィットを共有し、リスクを受け入れ、被害を被った地域の復興には責任をもって取り組まなければならないのだ。これができないのであれば日本人は近代文明人ではない。(2018年3月9日)

ギブソンの経営悪化

あの天下のギブソンが若者のロック離れにより経営が悪化しているとのこと。売れ筋はアコースティックギターではなく、レスポールだったということか。ギブソンのアコギだったら一度手に入れれば一生ものだからそんなに数多く売れるものではないだろう。アコギはその音色が心に深く響いてくる。木でできているボディーは抱いているだけで心地よい。そんなに売れるものではないが、持続可能なマーケットはあると思う。エレキは興味はあるが、まだ手に取ったことはない。どれだけその音や感触が心に響くか、自分には不明である。レスポールタイプは巷にあふれている。ギブソンレスポールでなくてはならない理由は、アコギの場合ほど明確ではないのではないだろうか。ただし、ESシリーズの甘い音色は魅力的である。ジャズギターといったらギブソンが憧れである。人を引きつけるのは自然の素材から引き出される音なのかなと思う。別に外形的に優れていなくても、人の心を豊かにする、暮らしを少し豊かにする、誇りを生み出すことができる、研究でもそんなことが大切になってきているように感じる。(2018年3月6日)

事実の発見より価値の発見

いつも勝手に送られてくるテクノロジストマガジンという雑誌に載っていた野依さんの記事より。事実が何を意味するか、が重要だという主張で、全くその通りだと思います。これは私も学生に対して常にいっていることでもあります。論文の執筆において研究の結果を書くことはたやすい。それより考察を経て、結論を導くことが重要なのだと。結論は結果の意味するものである。そこに到達して始めて研究が成立するのである。ただし、学生に伝えるのは結構難しい。研究に対する真摯な態度、本気になることが必要だから。学位は単なる資格ではないのだよ。さて、今日で「自然地理学」連続15コマ集中講義が終わった。疲れたが達成感はある。成績報告が残っているが、これで今年度の学務はほぼ終了。(2018年3月3日)

大学教育の大きな矛盾

卒論、修論の修正稿の提出が終わり、今年の学務もほぼ終わった。しかし、今年は例年に増して忸怩たる思いが強い。私の教育方針は「目的の達成を共有するコミュニティーの中で役割を果たすことにより、社会人に必要ないろいろな人々と協働できる精神的態度を醸成する」としてきたが、失敗が多い。いろいろな事情がある方々にお世話になっているのに、なぜ本気を出さないのか。と私は思うが、なぜ学生を本気にさせることができなかったのか、ともいえる。私に欠けていたものは情報の相互交流だったのかもしれない。一方的に情報を伝達して、さあ受け止めてくださいといっても、今の学生には難しいのだろう。その結果、信頼感を損ねてしまったことが失敗の一因だったのかもしれない。私は学生を子ども扱いしたくはない(40年以上前、大学入学時の理学部長による「君たちは生徒ではない、学生だ」ということばが耳に残っている)。追いかけ回して説諭したり、仕事を押しつけることはしてはいけない。とはいえ、若い世代には自分をコミュニティーの一員と捉える精神的態度が失われていることを実感する。それは社会的背景も一因ではある。この欄で何回か書いているが、日本人は暮らしや命に関わることを外部に委託する習慣ができあがっている(鷲田清一、「しんがりの思想」より)。しかし、与えられるだけで何も返さない態度はけっして幸せにはつながらないことは自明である。だから、もう少し私の教育目標を学生に伝える努力を続けたいと思うが、まずは学生とのつきあいを深めないとあかんのかな。ただし、大学の教員は金八先生になってはいかんのだよ。大学生は大人だから。とはいっても社会では大学生は子どもとして扱われている。ここに負のフィードバック、大学教育の大きな矛盾がある。(2018年2月28日)

追い立てられるのではなく

今日は「折々のことば」の解説に心に引っかかるフレーズあり(朝日朝刊)。「人の生の通奏低音は『無力』である」。「可能性を極点まで探るのもいいが、すると『自他への不満をかかえ、追い立てられるように生を終わる』ことになる」。我々はいつも追い立てられるように生きている。追い立てるものはなんだろうか。業績出せ、予算とれ、そうじゃないと潰しちゃうぞ、という大学、文科省の脅し。大学は序列を気にし、文科省は他省庁相手に肩肘張り、財務省を気にする。追い立てられた結果、何が残るのだろうか。我々は追い立てられるのではなく、思った通りに歩めば良い。その時に必要なのは同じ思いを共有する人々ではないかな。そんな草の根の多くの人の思いが見えれば、我々は追い立てられるのではなく、先を歩むことができる。もとの山田太一のフレーズも再録しておきます。

私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか?

生きるということは、そんな大それた事でもないのだろう。普通に生きれば良いのだよ。(2018年2月25日)

上から目線の良い人

JWF(Japan Water Forum)ニュースから。竹村公太郎さんは河川関係では有名な方ですが、こんなことを書いていました。竹村さんが建設省に勤めていた頃、ジャーナリストや知識人と会って、長良川河口堰事業を説明し、理解していただくという仕事を担当していました。ある時、先日亡くなった西部邁さんに会って説明をしました。西部さんは話が終わってからこう述べて、立ち去られたとのことです。

「やっと長良川河口堰が、これほど問題になった理由が理解できたよ。いまの竹村君の30分の説明の中で『長良川流域の人々の生命と財産を守る』という言葉が3回も出てきた。天下の印籠が見えないかという君の権力的な態度が、事業がこじれていた最大の理由ということが良く理解できたよ。」

この経験から竹村さんは、(建設省の役人である)自分がこの言葉をつかうときは、それが丁寧であっても、人の心に届かない上からの目線だったということに気が付いたという話です。同じようなことはSDGsやFutuer Earthにもあるように感じます。大学の先生や有名人が、誰にも否定できない美しい言葉で飾ってSDGsやFEを説明しても、それは上から目線の「良い人病」罹患者の言葉に過ぎないのではないか。誰にも文句は言わせないぞ、という権力のようなものを背後に感じさせるすっきりとしないものになっているように思います。現場における実践をベースにすること、目の前にある問題に真摯に対応すること、そして、自分たちの経験を共有すること。研究者ができることは、自分が関わった問題へ対応すること、その経験を共有するフレームを創りあげること。これが私の考えるFEの目標です。(2018年2月22日)

大杉漣逝く

享年66歳。大杉漣の漣は高田渡さんの息子、漣さんの漣。ギターと唄が好きな大杉さんは今頃天国で高田渡と再開し、酒を酌み交わしながらギターを弾いて歌っているに違いない。私も残された時間は長くないなあ。(2018年2月21日)

自己肯定感を高める

ゴンチチの「世界の音楽」(NHK-FM)でよいことを聞きました。いつも「ありがとう」と感謝の気持ちでいる人は自己肯定感が高いとのこと。逆に人の悪口を言ったり、文句ばかり言っている人は肯定感が低い。私はいつも文句ばかり言っているので、それで自分を肯定することができないのだな。今日はインフルエンザA感染中なのですが、市民講座を中止するわけにはいかないので、別室からスカイプで講演を行いました。自分としてはバタバタで、既存の資料をカットアンドペーストしただけでしたので、まずかったなという思いが強く、終了後、がっくりと落ち込んでいたのですが、受講者には評価して頂いたとのこと。受講者の方々、企画してくださった方々に感謝です。自分に自信を持てるようになるためには、まず人に感謝し、人の考え方を認めなければあかんということ。いつも言っている文句は、不平・不満ではなく、主張にしなければあかんということでもあります。(2018年2月17日)

インフルエンザA感染

昨日から何となく不調であり、この後予定が詰まっているので今朝医者にかかったところ、インフルエンザAと診断されました。朝の体温は37.1度であり、検査の結果も薄いとのことで、安心して帰宅したところ、昼から体温がぐんぐん上がり、最高値はわかりませんが、38.6度までは上昇を確認しました。体温計が安定するのに時間がかかるので、途中でやめてしまった結果です。おそらく39度くらいまで上がったのだろうな。昨日はたくさんの方々と接触したので、まずは注意喚起のメール。とはいえ、何に注意したらよいのかはわかりませんが。それにしてもいつ感染したか。最近は慢性的な頭痛と耳鳴りに悩まされており、鼻ももともと悪いので、何がなんだかわからなくなっております。インフルエンザ公式感染は私の人生初ですので、記録しておきますが、身体も老いてきて、だんだん初記録が増えていきそうです。(2018年2月16日)

教育方針の破綻

卒論発表会が終わり、今年の学務も終わりが近づいた。ただし、今年は例年にも増して挫折感が大きい。私の教育方針は、「様々な方々と協働して、目的の達成を共有する中で、支えられながらも、自分の役割に気づき、それを果たすことで成長できるはず」、というものであった。しかし、ここ数年来、それは失敗している。いつかの朝日の意見欄にあったように(2017年12月24日)、年輩(すなわち私)は職場(ここでは研究室)を共同体的なものとして捉えるのに対し、若手は個人の集合体としてしか認識していないという。若手の考え方も尊重されるべきだとは思うが、与えられることを当たり前と捉え、その期待に応えない、すなわち、自分の規範のみで結果を判断する、という態度は正しいとは思えない。研究という行為(それは社会における生き方と同じ)の作法からは逸脱している。少し厳しく指導すると、応答がなくなるだけで、結果として卒論、修論発表会はつらいものになってしまう。私は学生に人生における貴重な体験の機会をつくっているつもりであるが、それが伝わらず、最終的に私自身が責任を負うことになってしまう。私は金八先生にはなれないが、そもそも高等教育は初等・中等教育とは全く質の異なるものである。大学人である以上、教育は本務でもあるので、どうすれば良いのかを考えなければならない。大人である学生に対してどのような指導が望ましいのか、模索を続けるが、それは私の問題であると同時に、社会の問題でもある。(2018年2月13日)

問題を一緒に考える

奨学金破産の親子連鎖が広がっているという(朝日朝刊)。国の奨学金を返せず、自己破産するケースが本人から親、さらに親族にまで広がっているそうだ。要因の一つは運用に際して国の制度が時代背景の変化に基づいてシステムを柔軟に対応させることができないこと。いや、制度だけを時代の変化に(経済の観点だけ)適応させ、受給者のこと(システム全体)を考慮しなかったためであるといったほうがよいだろう。この問題は大学の価値である人材育成機能に関わる重要課題であり、何とかうまいやり方を考えたいと思う。入学金と1年次の授業料は無料にして(学生の助走期間とするため)、入試および進級時の成績に応じた奨学金を年度ごとに与える仕組みはどうだろうか。教員側も評価が大変になるが、大学の機能が発揮できるのではないか。それにしても苦労して学ぶ学生がいる同じ時、同じ場所に何も学ばない学生がいることにやるせなさを感じる。大学では教員は評価者でもあるので、節目においては教習所と同じ態度で学生に接しなければならない。しかしマイナスの評価を下すこと、それに対して組織や社会の了解をとることに多大な労力が必要な状況になっている。人材育成の問題は大学だけでなく社会全体の問題でもある。みんなが一緒に考えるという姿勢が大切なのだが、日本人が考える力を失っていると、末端の現場にしわ寄せがくる。(2018年2月12日)

人生と社会

水俣病の受苦者に寄り添い、小説「苦海浄土」で受苦を世に知らしめた石牟礼道子さんが亡くなりました。私も福島以降、犠牲のシステムで成り立つ社会に割り切れなさを感じ、水俣の歴史を学び直す中で読みました(もっと早く読んでおけば良かった)。人が苦難に陥ったとき、小説も含む芸術の持つ訴えの力、癒しの力は何物にも代え難い価値を持ちます。でも、社会を動かす力となるためにはさらなる力の結集が必要であることも痛感しています。どうしたらよいか。朝日新聞の相談欄で荻上チキさんが、「評論は社会に効きますが、文芸は人生に効きます」、と書いています。評論と文芸(芸術といっておきたい)はどちらも大切ですが、私はまず人生を考え、そこから社会につなげていくやり方をとりたい。芸術は時代の先を行くのである。そこから始めて、社会を変える力としたい。(2018年2月11日)

評価のあり方

ある大きな仕組みや組織を評価する際には外部評価委員会を設置することが多い。その際、評価される側の意志が十分伝わってこないことが多いように感じる。評価する側も十分な検討の時間を与えられずに、表面的な評価をせざるを得ないこともある。そんな評価の結果が重要な仕組みや組織のあり方を変えていく。外部評価委員会を設置し、またそこに外国人を入れるのは上の階層に覚えめでたくなるため、という言い方もできよう。そうではなく、熟考された互いの意見がぶつかり合い、ならばやってみなはれ、という評価ができんものだろうか。トップダウンの思考と、ボトムアップの思考を融合させるのは時間をかけた議論なのだろうなと思う。その際、日本の意志を明確にするためには日本語でやらにゃあかんのではないやろか。私は典型的な日本人で、英語が苦手ですので、まずは日本語でやりたいものだ。外国人の旅費分で日本人が何回か集まることはできると思うが。(2018年2月9日)

地理はだめか−トップダウンとボトムアップ

ある大先生から地理はだめだという話を聞いた。私も以前はそう思っていた。しかし、現実には地理は相当がんばっている。それなのになぜだめだと思われるのか。話が終わってから考えていましたが、やはりトップダウンとボトムアップの思考の違いではなかろうか。前者は華やかで外形的であり、みんなの目に付きやすい。しかし、後者は当事者の間では知られていても、トップに覚えめでたくない、ただそれだけ。だから、地理学に必要なことはたくさんある小さな取り組みを包括するフレームをいくつか持つことだと思う。フューチャー・アースやSDGsはとてもよいフレームになるはずだ。(2018年2月8日)

本来のグローバル

広井良典の「ポスト資本主義」は共感できる部分が多かった。彼は哲学者であるのだが、地理学者といっても良い精神を持っていると思う。特に、グローバルに関する考え方を再掲しておく(234ページ)。

世界をマクドナルド的に均質化していくような方向が「グローバル」なのではなく、むしろ地球上のそれぞれの地域のもつ個性や風土的・文化的多様性に一次的な関心を向けながら、上記のようにそうした多様性が生成する構造そのものを理解し、その全体を俯瞰的に把握していくことが本来の「グローバル」であるはずだ。

これは地理学そのものではありませんか。グローバルを地域(ローカル)を包含するフレーム、その中で地域が様々な関係性でつながる入れ物として捉える私の考え方と同じといいっていいかな。一方、唯一のグローバル、普遍性を目指す科学は実は資本主義の考え方と不可分であるという(資本主義と近代科学の同型性)。私も常々思っていたことを見事に論じてくれました。資本主義の限界が見えてきた現在、別の地球観、自然観、社会観に基づく新しい社会へ移行しなければならない。現在は過渡期なのだと思う。フューチャー・アース(FE)の成功への道程はFE研究者の意識の変革から始まる。(2017年2月2日)

しがらみ

昨日はフューチャー・アース(FE)の推進と連携に関する委員会に出席しました。重要な会議ですが、内容は組織論、制度論が中心。せっかくの機会ですので、実践とのギャップが大きいのではないかという発言をしました。課題解決、超学際という概念は受け入れやすいため、すでに多くの実践が先行しているが、分野によって考え方が異なるようだ。それは、誰と連携するか(ステークホルダーの階層性)、どんな問題の解決を試みているか(現在の問題か、未来の問題か)、といった立場と関連している。このような実践例をとりまとめるのも委員会の役割ではないか。もちろん、委員会で考えていないわけはなく、失礼な発言だったかも知れない。的をはずしているかもしれませんが、自分がこんなことを言えるのも、"しがらみ"がないからではないかな。自分は組織や研究プロジェクトといったしがらみが少ない人間である。また、私は現場の人間であり、ステークホルダーとの信頼関係が心の拠り所でもある。FEは実践しなければ意味がない。トランスディシプリナリティの達成は現場にしかない。と同時に成果の纏め方にこそ、従来の考え方を乗り越えなければならない課題があるのである。(2017年2月1日)

オレは死なない

月末の今日が締切の仕事が多数。さらに別の仕事の締切も迫り、締切をとうに過ぎている仕事も。一つの仕事を始めると、ほかの仕事が気になり集中力がとぎれる。能率は極端に落ちている。こういう状況は破綻といっても良いのではないか。必死でリカバーしなければならないのであるが、自分は不眠不休で仕事をする性格は申し訳ないのだが持ち合わせていない。大きなストレスを抱えながらもダラダラと仕事を続け、心の片隅に何とかなるだろうという楽観、無責任を抱えている。だから多くの方々に迷惑をかける。申し訳ないと思いつつも、ペースは崩れない。だから、オレは死なない。たぶん。(2018年1月31日)

教育とは何か

学部で開講している「リモートセンシング入門」の4日間の集中講義を終えた。昨今の忙しさは自業自得でもあるのだが、十分な準備ができないまま突入した。その割には、いろいろなことを話し続け、学生には貴重な情報を提供できたのではないかと思う。リモートセンシング技術の基礎だけでなく、技術をどのように社会の課題に適用するか、社会の側にはどんな習慣、歴史、等々の課題解決を困難にする要因があるか、人と自然の関係性、すなわち環境を理解するための考え方、こんなことを話した。学生がどう感じたかはまだ分からないが、一人でもわかってくれた学生がいれば成功である。哲学者の内田樹によると(内田樹の研究室「大学教育は生き延びられるのか?」で検索)、「大学の授業は工業製品じゃありません。本来は生身の教師が生身の学生たちの前に立ったときにその場で一回的に生成するものです。そこで教師が語る言葉にはそれまで生きてきて学んだこと、経験したこと、感じたことのすべてが断片的には含まれている。それが何の役に立つのか、そんなことは教師にだって予見不能です。どうしてこの科目を履修することになったのかは学生にだってわからない。学んだことの意味がわかるのは、場合によっては何年も、何十年もあとになることさえある。そういうものです」。自分を正当化しているだけかも知れませんが、こんな思いで講義(私は授業より講義を使いたい)をやっています。 (2018年1月27日)

シニアの勇気

朝日朝刊、高校教員の糸井さんによる投稿。茶髪の生徒に対する再登校指導、つ まり、髪を染め直さないと校門入れないよ、ということですが、糸井さん曰く、これは「ブラック校則」である。これに対する教員の態度には三つある。@学校の方針に対する積極的肯定派、A違法行為ではないかと考える反対派、そしてB行き過ぎだと思いながら、 学校の秩序を優先する消極的肯定派。糸井さんはAであるが、Bが圧倒的に多いという。糸井さんは64歳。再雇用で退職も間近いと拝察されます。だから、勇気を出すことができる。私もシニアの仲間に入りましたが、シニアが声を挙げないと世の中変わっていかない。シニアの勇気が試される時代だな。私は、校則や指示には“なぜか”という理由が必要だと思う。まず、問いかけ、議論するところから始めたい。そうすると意外とBの中に味方が多いのではないか。(2018年1月25日)

癒しの時間

朝日朝刊の6面は全面 THE MARTIN GUITAR の広告。数千万円かかっているはず。これだけの広告予算を費やすことができる背景は何だろうか。今、昭和世代が定年を迎えている。この世代はフォーク少年少女だった方々も多いだろう。定年を迎え、かつて憧れだったMARTINが射程に入ってきたということ。そんな人々が多いに違いない。紙面に載っている「憧れの音」という詩の一節。

・・・
自分なりにがんばって働いてきた
そんな自分への贈り物

もう一度、仲間たちと
あの頃のように歌って笑いたい。

久しぶりに会う息子
そして孫と弾きたい曲がある。
・・・

実は私もMARTINに対する憧れはありましたが、還暦直前に手に入れたのはフォルヒ(FURCH G23-CRCT)。チェコ製のギターで、デザイン、音ともに最高に気に入っています。私はメジャーに合流するのが嫌いな質で、いつも人様に迷惑をかけております。でも、人と違うことをする、ものを持つ、ということは楽しいことであります。ギターと一緒に過ごす一時は癒しの時間で、ギターには本当に助けられています。(2017年1月24日)

トンネルの出口

昨日の雪には私も難儀させられました。いろいろな混乱もあったようで、こんなニュースもありました。山手トンネル内渋滞のためバスから降りて自力で外に出た乗客のコメント。なぜトンネルに入ったのか説明がない、情報がなくて怖かった。なぜトンネルに入ったかくらいは想像がつきそうなものですが、このことは日本人全般の問題と関わっているように思います。日本人は暮らしや命に関わることを外部に委託する習慣ができあがっています。そうすると唯一できることはクレームをいうことだけ(鷲田清一、「しんがりの思想」より)。この習慣が他人に対する厳しさとなり、非常に生きにくい世の中になってしまっているのではないかな。自助・共助・公助ということばがあるが、これは災害だけでなく社会全般にいえること。まず自分で解決を試み、だめなら近所に助けを求める。それでもだめなら公的機関を頼む。人の努力を尊重する。日本人が抜け出さなければならないトンネルの出口は見えているような気はするが。(2017年1月23日)

価値と普遍性

誕生日直前の日曜日ですので還暦記念に学生から贈られた獺祭を頂きました。非常にまろやかで、すいすい胃に入っていきます。確かに今まで味わったことのない風味でした。飲んでからお値段を調べたら驚きの"うん万円"。なるほど、究極の風味を目指し、努力し、上り詰めた先にある結果に対する価値が確かにそこにある。とはいえ味わいの価値となると人それぞれということになるでしょう。この価値を価格で測ったら普遍的なものになるのかもしれないが、価値に普遍性はなく、人の抱く価値を尊重することが大切なのです。酒飲みとしての自分にとって、この獺祭を味わったということは、この上なく価値があることです。(2017年1月22日)

還暦目前

恥ずかしいからやめてくれと懇願したのですが、学生が還暦のパーティーを強行してくれました。集まってくれた学生には散財させてしまいましたが、どうかご容赦ください。それにしても、こんなに大勢集まってくださるとはなんと申して良いものやら、感謝のことばがわかりません。私は決して良い教員ではなかったと思います。昭和の遺物みたいなところもあり、煙たい存在だったのではないでしょうか。私のことを快く思っていない学生もいます。でも、何かが伝わった学生もいるということなのだなと思い納得しています。教育なんていうものは、教えるものを纏めて、それを学生に与える、なんてことではないと思います。今の時代、学ぶべき材料は巷にあふれています。教員は指針を示し、背中を見せるだけ。とはいえ、こんなことを言っていられない時代になってきた。自分の世代から学生に伝えるべきことはしっかり伝えながら、それを時代のコンテクストの中にきちんと位置づけて主張できるような考察も続けていかなければならないと思います。(2017年1月20日)

精神の強化

還暦までの一月を身体リペア月間にしているが、今日はその〆として頭の検査にいってきた。頭が悪くなってしまったもので。MRIは2回目。10年以上前の1回目では検査中に宮城県沖地震が発生し、音だけでなく揺れがすごかった楽しい思い出がある。結果はとくに問題なし。ということはこの頭痛と耳鳴りの原因は精神面にあるということ。還暦後の課題は精神の強化ということになる。稀勢の里もがんばれ。(2018年1月16日)

市場経済と資本主義

この二つは今まであまり区別せずに使ってきたが、実は根本的に異なるもの。言われてみるとその通りなのですが、別に市場経済が悪いわけではない。昔から市はあり、人々の暮らしに役立っていた。広井良典によると、市場は共同体を外に向かって開くという意味をも持つ。一方、資本主義は「市場経済+(限りない)拡大・成長」を指向するシステム、となる。この「拡大・成長」の部分から、資本主義の投機性、弱肉強食、力と策略、といった特性が生まれてくる。「ポスト資本主義」より。まだ、読み始めたばかりだが、なぜ拡大・成長が必要か、本当は必要じゃないのでは、といった点を見極めることが未来につながるのだろう。引き続き読書を進めます。(2018年1月15日)

都市における人と自然の関係性

生け垣のピラカンサがたくさんの実をつけた。赤や黄の実は冬の風景を彩る風物なのだが、かみさんと一緒にたたき落としてきたところ。小鳥が食べて糞を落とすとのことで、クレームがはいり、気乗りはしないのだが少し作業をしてきた。かみさんは家にいる時間が長いので、対応したということが重要なのだろう。このことは深刻な意味があるように思われる。都市住民が自然と分断されており、自然を愛でる精神的余裕が失われているということ。今、学術会議で「グリーンインフラ」について議論しているところだが、議論の前提には「都市的世界の中で人は自然を無条件に受け入れるはずだ」ということがある。グリーンインフラの議論には都市におけるゆがんだ人と自然の関係性の理解、そしてでき得ることならば修復が先行しなければならないことに気が付いた。(2018年1月14日)

科学者の姿勢

朝日社説では公開された「湯川日記」から科学者と社会の関係についてふれている。その最後の段落を引用する。

研究の細分化・分業化が進み、研究費獲得のためには論文を発表し続ける必要がある。そんな時代だからこそ、いったん立ち止まり、考えを深める時間が、ますます貴重になっている。

昨今の研究者は論文生産マシーンになってしまっているようだ。論文を一本出版して、真理の探究を一歩進めたことが、社会に対してどのような意味を持つのか、考える時が来た。研究者の知性を「私的に使用」するのではなく、「公共的に使用」することを始めなければならない。社会もそう言っているではないか。(2018年1月14日)

研究者の立場と管理者の立場

Yahooニュースに大阪大学の件があったので、動画ニュースを見たら責任者らが頭を下げて場面がありました。名前を見たところ、あの「トランス・サイエンス」の小林傳司先生ではないか。科学技術と社会の関係について、重要な発信をしている研究者である。その学問上の業績とは関係なく、管理者になり、責任を負う立場になると、時として頭を下げなければならない。なんとも、やるせないものです。しかし、小林先生であれば、問題の背後にある事情を知り、社会のコンテクストの中で理解し、社会の中の大学のあり方について考えてくれるのではないか。勝手な期待をしていますが、世間から叩かれるというのは実につらいものがあります。私に何ができるわけではありませんが、可能な限り問題の解決を共有していきたいと思います。(2018年1月13日)

理性の公的使用ー知性の公共的使用

先月から身体リペア期間に入っているのだが、今、人間ドックから戻ったところ。デスクに向かって、本日締切の業績調べをやっていないことに気づく。これは職場の中間評価に必要な情報で、結果は予想されているので何とも実りない作業なのだが、これで誰が幸せになるのだろうか。ちょうど人間ドックの待ち時間に読んでいた鷲田清一の「しんがりの思想」の一節がひらめいた。専門家が信頼されるのは、専門家が知性を自分の利益のために使っていないというところにあり、それをカントは「理性の公的使用」と呼んだ。鷲田はこれを「知性の公共的使用」と言い換えた。これに対してカントの言う「理性(知性)の私的使用」は、「特定の社会や集団のなかでみずからにあてがわれた地位や立場にしたがってふるまうこと」だとしている。となると、評価のために行う作業、そのための研究は「理性(知性)の私的使用」であり、鷲田が例として引いている「割り当てられた職務を無批判的に全うすること、たとえば組織内の立場に照らした発言をすること、上司の指示にひたすら受動的に従うこと」にあてはまる。このような仕事を献身的に実施してくれる方々はありがたいのだが、みな知性を「私的」に使用していることになる。大学人ははやくこのことに気づき、「社会の中の研究者、社会のための研究者」になることを世は求めているのではないだろうか。(2018年1月12日)

小さな稼ぎ

成人式に晴れ着を着ることができなかった新成人の皆さんは本当にお気の毒だったと思います。このような事態は現代社会のリスクと言えるのかも知れない。便利を提供する会社も、市場主義、貨幣主義、競争主義のシステムの中で時に破綻することもある。消費者は便利だけではなく、リスクも考えなければならなかったということです。それにしても、一生に一回の成人式で振り袖を着ることができなかったなんて、経営者は晴れ着を届けてから全負債を負う、なんてことはできなかったのでしょうね。もし、地元の町に小さな晴れ着屋さんがあって、そのご主人は新成人を子どもの頃から知っている、みんなで成人を祝う、こんな状況でしたら晴れ着がないなんてことは起こらなかったでしょうね。小さな稼ぎだけれど、コストも小さく、地域全体で支え合う、こんな経済を今の社会に組み込むことはできないだろうか。時代の流れを感じていると、それはあながちあり得ないことではないような気もします。(2018年1月10日)

背後にある事情

阪大の採点ミスは大学にとって痛恨の極みだと拝察いたします。合格していたと知らされた学生諸君の戸惑いも想像に余りあるものです。試験問題作成を担当した教員の心痛も痛いほどわかります。今、大学では評価社会、競争社会の中で、"社会の中の科学者"としての生き様と、"組織の中の教員"としての生き様が相容れない状況になっています。スーパーマンでなければ大学人としての思いを遂げられない状況が顕在化している中で起きたことと捉えることができるのではないかと想像します。私は入試よりも、大学における教育を見直す段階がとうに来ていると思っています。学校と社会の接続段階で教えるべきことを教え、社会人として世に送り出す機能を大学は持たないとあきまへん。大学教育には指導要領はありませんが、考え方をオープンにして、議論を深めること、社会全体が参加して、我がこととして考える態度が必要です。今回の事態は日本の国力低下の状況における事象の一つとして捉えることができると思います。国力低下に対抗するためには、ミスしたという事実だけでなく、背後にある事情を理解し、真実を捉えることから新しい道を探る努力をしなければなりません。どうか、社会の側からも大学を叱咤激励して頂き、望ましい大学運営ができるような状況を実現させていきたいと思います。(2018年1月7日)

冷や飯人生

朝日GLOBEによると、「今年生まれた赤ちゃんの半数以上は100歳を越えて生きる」という予測があるそうだ。一方で、「ヒトの寿命は本来55歳?」という記事も。私は今年還暦なので、すでに今の生は与生、すなわち科学技術の進歩によって与えられた生といえるだろう。医療技術的には100歳まで生きることも可能かもしれないが、人生終盤が充実するか、本当に生きているといえるかどうかは怪しい。ベッドで命が維持されているだけの状態はもはや生きているとは言えないのではないか。それこそ余生だろう。昨今の訃報を聞いていると、だいたい70代位で死ぬのが自分としては最も確率が高そうである。となると、残りは10年。この時間をどう生き抜くか。長いものに巻かれて後悔して生きるか、冷や飯食っても頑固を貫くか。実は冷や飯というのも米がよければうまいものです。(2018年1月7日)

評価者が心得るべき事

帰省していた息子が帰っていったが、元気がなかった。昨秋、学位を取得したが、職が見つからない。日本では博士の就職は厳しいものがあるが、しばらく辛抱してほしい。常に誠実であれ。ところで、うちの職場の中間評価の指摘事項に、日本人の博士課程学生が少ないからもっと増やせ、という文言がある。それは、博士の日本人学生が少ないことはうちのセンターが機能していないことを意味するから改善せよという指摘になる。日本人が博士課程に進学しないのは社会全体の問題であり、博士課程が社会の中に位置づけられていないことの現れであり、日本の将来のために日本人全体が考えなければならない課題である。それを末端に責任転嫁し、自分だけが幸せになるなんて、なんという不見識であろうか。どなたが書いたのかは分からないが、顔を見てみたい。指摘事項が思いつかないとかっこ悪いから、思わず書いちゃったというあたりが真相だと思われるが、評価が出ると被評価者は多大な労力を強いられるのだ。評価者は評価項目の結果を取り巻く事情について包括的な理解を試み、なぜそうなったのかという点から評価しなければならない。評価者自身の地位、名誉のための評価だったら、被評価者は戦わなければならない。(2018年1月2日)

貧困とは何か

幸福について書きましたが、読みかけの「内発的発展論」(鶴見・川田編)の中にこんな記述がありました。これ自体も引用ですが、村井さんの「内発的発展の模索」から。

貧困というのは、操作概念としても、また統計的にみても、剥奪の発生と定義される。剥奪というのは、個々人ないしグループが、経済的諸資源から、社会的、政治的諸組織の保護から、また文化システムの統制から切り離されることである。

となると、貧困とは制度的なもので、我々は新しい状態に移ることができるということも意味している。これがSDGsにおける目標1[あらゆる場所あらゆる形態の貧困を終わらせる]達成の根拠を与えるものになる。同時に、幸福は貧困の対極にあるものではなく、別の概念として捉える必要があることも意味している。(2018年1月2日)

幸福とは何か

昨日引用した提言の中でちょっと引っかかる表現があります。「経済的に貧しいと、寿命が短く、主観的な幸福度も低い傾向がある」。これは一般論ではなく、都市的世界の中の底辺層に関わる表現ではないだろうか。そこには格差、差別が入ってくるので幸福度は低くなるだろう。しかし、経済的に貧しいことが不幸であるとは限らず、寿命が短いことも不幸には直接にはつながらない。日本でも昭和中期の頃にあった、コミュニティーの力、家族の力が維持されている社会では、裕福であることや長寿命は明確な幸せの指標ではなかった。先祖と共に暮らす社会では、死は単なるこの世との決別であり、先祖と共にある世界に入っていくことであった。民俗学や哲学の世界における認識はたくさんある。死を一環の終わりにしたのは近代科学とも言える。経済成長を求め続けると、幸福はなかなかやってこないのではないかな。ひとつの世界だけを規範にするから不幸が目立ってしまう。(2018年1月2日)

現場で感じる力

山ほど仕事を持ち帰ってはいるのですが、新年の行事もあり(酒精ですが)、頭が朦朧としている中で、学術会議の提言を読みました(昨年末にも引いた提言です)。その中で、書き留めておきたいことはこれ。「災害軽減と持続可能な社会の形成に取り組む科学者は現場に身を置き、地域の人々や自治体の考えや思いを的確に把握し、また研究の成果を人々にわかりやすく伝え、相互理解に努めるべきである」。我々の財産は学んで得た知識でなく、現場における実践から得られた気づきであることが多い。この財産があるからこそ、地域における問題解決のなかで、科学の成果を使う場面がわかる。いくら普遍的な方法があっても、それは基礎にあるもので、その上にある地域の事情が分からなければ、現場における課題解決にはならないのである。提言は続く。「大学教育や生涯教育でもそれを実践することが望まれる」。ぜひそのために力を注ぎたいが、このことの重要性を意識させることが第3群大学における課題でもある。現場で感じる力がなければ、「社会の中の科学、社会のための科学」は実践できないのである。(2018年1月1日)

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。ここ数年、年賀状をサボっており、礼を欠いておりますが、どうかご容赦ください。世の中、様々なことがありました。歳をとって経験を積み重ねてきますと、今まで見えなかったものも見えてきて、素直にめでたいと言っておられん心境でした。昨年は原発事故以来、通ってきた福島県の山木屋地区も避難解除となり、新しい歩みを始めた方々もたくさんおります。今年は、素直におめでとうと言おうと思います。とはいえ、「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」(一休宗純)の心境で、区切りを付けつつも、淡々と生きて行きたいと思います。(2018年1月1日)


2017年12月までの書き込み