口は禍の門

とうとう今年も大晦日。この1年間、生き方を考えさせる出来事がたくさんあった。その分主張も強めており、水文・水資源学会誌5号(9月発行)の巻頭言ではこんなことを書いた。「科学者は、研究の成果は、自分ではない誰か、が社会のために役立てるはずだと信じていたようである」。大胆な主張のつもりで書いたのだが、8月8日付けの学術会議の提言「災害軽減と持続可能な社会の形成に向けた科学と社会の協働・協創の推進」(地球惑星科学委員会、地球・人間圏分科会)の中にこんな表現があった。「良い研究をすればそれが社会に貢献し、評価されるというわけではない。科学と社会との間の意志疎通に問題があることもあれば、社会が当面の社会経済問題を最優先している場合もある」。社会経済問題、特に貨幣経済の問題については私も声を上げているところであるが、同じ趣旨の主張が研究者セクターの中にもあった。この提言を出した分科会には私も入れていただいたので、提言の実現に向けて微力を尽くしたい。ということで2017年を仕舞うことにする。(2017年12月31日)

曼珠沙華が咲き、金木犀が香り、空気も澄んできて、本格的な秋が近いと思うと、こころも少し晴れる感じがします。最近、世の中が少しおかしくなっているように思いますが、自分にできることはあるのか、歳をとったせいか思う。しかし、そんなことは考えないような精神的態度が近現代の国家運営のなかで形成されたという。我々は生きるということの基本に関わる部分を国家のシステムに依存しており、それを当然と考える精神的態度が形成されてしまっているが、このことに気づくことから、何かが生まれるような気がする。さて、新しいことが始まる秋。 (2017年10月1日)

最近は季節を愛でることも少なくなってしまいましたが、この季節の紫陽花は良いものだと思います。一瞬の安寧を得ることができます。最近の書き込みを振り返ってみますと、私の専門は“科学と社会の関係”になってきたように見えます。それはそれで面白いので、陰でこそこそ文句を言っているようなことではなく、アカデミアの一員として考えて、発信していきたいと思います。同時に地域を対象とした研究も深めて行きたいと思うのですが、だんだん自分で動ける状況ではなくなってきたことが、とても寂しい。(2017年7月1日)

2017年6月までの書き込み


生き方

朝日朝刊の一面トップは少子化に関する話題。団塊ジュニアは次の人口曲線のピークを作れなかった。それは若者の生きづらさの直接的な現れであり、なぜ上の世代は無策だったのかという訴えにもつながっていく。上の世代が目指したのは貨幣経済の中で覇権をとる生き方。それは高度経済成長期の慣性でもあった。今は国力低下の時代であるが、しわ寄せは続く者たちが受ける。だから、新しい生き方を求めて地方に向かった若者もいる。今の生きづらさは都会の生きづらさではないか。都会は市場経済、競争主義、能力主義で運営される社会。都会の中で生き残るか、都会を変えるか、地方に幸せを求めるか、同時によりよい地方を創るか、選択肢はたくさんある。時代の背景、近代文明社会のあり方、市場経済の行く末、こんなことに関心を持てば、新しい生き方も見えてくるのではないかな。後は、ちょっと踏み出す勇気があれば。新しい社会を目指す上の世代もいるのだよ。(2017年12月31日)

中心と周辺

自分は研究者としては個々の学問分野の周辺をふらふらしてきた人間だと常々言っているのであるが、中心と周辺を分けてしまうことこそが、近代化論に束縛されている証拠ではないかと気が付いた。学問、特に人と自然の関係性を課題にしている分野、課題解決を目指す分野では中心も周辺もない。一人がすべてに関わることが難しいので学際とか超学際とか言っているわけであるが、一人が包括的な視野を持つことだったらできるかもしれない。その視野、フレームには中心などなく、たくさんのプレーヤーが関係性で結びついており、問題とその解決を共有している。そんな学問のあり方は従来と全く様式が異なるものになるはずだ。理学系の研究者にとってFEやSDGsの実践の難しさは頭の中の殻をやぶらなければならないところにある。一方、社会系や計画系の研究者はすでにFEやSDGsの理念は実践しており、理系がイニシアティブをとることに違和感を感じているに違いない。両者を包含する考え方がFEやSDGsを成功に導く鍵となる。(2017年12月30日)

正論と世の中

結局、仕事が終わらず今日も出勤している。いろいろ抱え過ぎなのであるが、自分の中ではすべての仕事は関係性を持ち、つながっている。それは自分の考え方、生き方と密接に関係しているのであるが、それが文句として発現してしまっているのだ。私の文句、いや主張は正論だろうか。正論に生きた人物として西郷隆盛がいるが、池波正太郎はこう書いている。「こうした理想が、政治機構の中で現実となり得ぬことは、古今を通じて変わるところがない。正論は、いつの世にも容れられぬ」(池波正太郎、西郷隆盛より)。それでも考え方は変えられないのだよ。それが自分の生き方。それはそれで良いと思うのですが、私の場合は精神的な強さが伴っていないところが問題。西郷どんを見習いたい。来年の大河ドラマは西郷どん。毎週ゆとりを持ってテレビを楽しむ時間を作れるか。(2017年12月29日)

国力低下時代の必然

今日は御用納めであるが、職場の評価に関わる資料提出の指令が届く。どうも私はこういう業務には適応できないようだ。組織の存続のためであれば、まず自己評価が必要であるが、組織とは何か、を考えると、私の方向性は今の組織からは浮いているかもしれない。自分の方向性を主流にしてしまうような生き方も考えられたが、それは自分の性格(矜持ともいえるかもしれない)からしてあり得なかった。定年まで残り5年をどう過ごそうか。今日は、来年開催される世界湖沼会議参加の正式要請が準備室からあった。気持ちを奮い立たせて望みたいと思うが、こういう仕事こそ大切にしたい。評価仕事の様な、"上が楽して幸せになる仕事"が日本の国力を損なっているのであるが、それも歴史の流れに位置づけると、国力低下時代の必然なのだろうか。上に立つ者が、旧き良き時代の郷愁と、強者のグループに入りたいという思いで、下々に仕事を押しつける時代なのだな。自分は新しいものを目指したい。(2017年12月28日)

とがった顔

ある科学者の会合に出席した。科学者の中には時々とがった顔をしている方がいる。優れた方だと思うが、発言を聞くと、その方のシャープな"世界"が見えてしまう。私も歳をとったので引いた視点から様々な"世界"を眺めることができるようになったのだろうか。その会合ではシャープなサイエンティストであると思っていた大先生から人間味ある発言が飛び出し、おもわずほっこり。歳をとって"世界"が広がってきた方も確実に存在する。私は文句ばかり言っているが、同じ思いを持つ方々は増えているのかもしれない。よろしくないことですが、配布資料の中から、気になる部分を要約。「学者の集まりの限界が顕在化してきたのではないか」。「真剣勝負が大事で、それにより友人を失うというより友人が増える」。時代は確実に変わり目である。研究者の役割も、歴史の流れの中に位置づけ、時代のコンテクストで議論しなければならない。嫌われる勇気も必要。(2017年12月26日)

ロマンの先にあるものー競争?

朝日「科学の扉」に月の水に関する話題。月は人のロマンをかき立てる。書斎の本棚に「月の地質学」(小森長生著)がある。1974年の第2刷。大学では古生物から第四紀学、そして地理学へと変わっていったので、恐らく高校時代に買った本だと思う。あの頃は、“夢”があった。記事によると、月に水があればロケットの離着陸に必要な酸素と水素燃料が得られる。月は惑星探査のための燃料補給基地になるのだそうだ。月の水が確認された瞬間から資源獲得競争になり、技術がなければ日本は競争に参入できないという。ロマンの先にあるのは競争なのか。それは貨幣の獲得競争である。背景には勝たなければどん底という市場経済社会固有の不安がありそうだ。こういう精神的態度に科学者も陥っている。競争ではなく協調は実現できないのか。貨幣を巡る競争はいずれ闘争になる。人類が宇宙に行くということは二つの未来が考えられる。ひとつは経済がすこぶる順調で、誰でも安価に宇宙に出かけることができる未来。もう一つは、宇宙に行かざるを得ないほど地球が危機的な状況に陥っている未来。恐らくその中間になるのだろうが、それはどんな未来になるか。科学者こそ、幸せな人類の未来設計に貢献するという壮大な夢を持っていいのではないかと思う。時代の精神に流されずに。(2017年12月24日)

微分的な生き方、積分的な生き方

朝日の投書欄で、愛知の森さんがこんなことを書いていた。「私たち若手は職場を個人の集合体としてしか認識していなかったのに対し、年輩の役職者の方は職場を共同体的なものとして意識されていると思います」。職場の飲み会に関する話題から出てきたもの。森さんはどちらが正解という話ではないとしていますが、それは各世代がどんな時間・空間スケールで人生をみているかということに関係しているのではないか。若手は現在を重視し、年輩は将来にわたる持続性を重視している。若手は自分中心の小さな世界を重視し、年輩は様々な関係性で構成される大きな世界の中に自分や会社を置いている。確かに、どちらが正解という訳ではないだろうが、若手は自身を短期的な評価の世界だけに委ねてしまい、それが生き苦しさにつながっていることを意識していないのではないか。人生を微分的な行き方に委ねず、積分的に捉え、関係性の中で世界を拡大しながら経験から学ぶという人生を意識できたら、上司とも一献傾けることができるのではないかな。(2017年12月24日)

夢の先送り

JpGU地球人間圏セクションのボード会議があり、その中で「夢ロードマップ」の改訂に関わる議題があった。学術会議とも連動した作業であり、その先に大型予算とも関連させるという少し生臭い側面もある。各サイエンスセクションのマップをみると、夢とは何だろう、と思う。夢とは妄想とは異なるもので、実現が前提であり、だからロードマップが必要なのである。そのためには現実に対する的確な現状認識と、未来に対する確固たる思想、哲学、倫理が必要になる。これらがあるか、をまず確認する必要がある。これを前提に現在を振り返ると、世界は大きく変わりつつあるように思う。鉄腕アトムの時代に思い描いた科学技術がつくるバラ色の未来、とはなっていないことは明らかであり、人類が乗り越えなければならない課題が山積している。国民目線で見たときに、科学者というのは極楽とんぼだね〜、って言われるのはどうだろうか。理系の科学者は、それでいいやんけ、というかもしれないが、社会系の研究者は心外だろうな。ちょっと夢を先送りして、現在をじっくり考えても良いと思う。(2017年12月23日)

日本の生き方、行く末

午前中は東京で会議、午後の仕事に間に合わせるために急いで大学に戻る途中、稲毛でボスにばったり会った。ボスも会議で東京と千葉を往復する途上で、お互い忙しいね、という話の中でボスがぼそっと呟いたのが以下。「国力が下がっている時期にはこうなるものか」。なるほど、この忙しさは国力低下期にみられる典型的な症状かもしれない。各分野の指導者たちは何とか世界にキャッチアップしようと下々に様々な要求を突きつける。下々は視野狭窄になり、上からの要求に応えようとして、多忙を極める。下々ががんばれば、トップは一時幸せになるかもしれない。でも、下々の幸せはほど遠い。こういう時こそ、我々は新しい生き方を模索すべきではないのかな。大学人はそれを議論できる数少ない人種の一つなのであるから。大学人が普通のサラリーマンになってしまっては、この世も末だね。我々大学人は視野を広げ、視点を変えて、日本の行く末を考える義務がある、そんな職種とはちゃうかな。(2017年12月22日)

論文数による評価

昨日の朝日朝刊に「問われる大学研究者の質」という高田明典氏による文章があった。そこでは大学教員の質が問われ(それは重要な課題なのですが)、その指標として論文数が使われている。論文の質、内容については重要であるとの記述はあるが、指標としては取り上げられていない。私は今こそ、「論文の質、扱う問題の大小や難度こそ」(高田氏の文章から引用)を問わなければならないと考える。「年に1編」(これも高田氏の文章から)あれば十分な分野もある。なぜ質が問われないかというと、論文の査読者にそれを行う十分な時間とバックグランドがないからである。このことを思ったのは京大の望月氏による「ABC予想を証明」という記事を読んだから(素晴らしい)。WEBで検索すると、査読手続きの課題についても見えてくる。新規性の高い、独創的な論文はそもそも査読適格者がいないという問題があるが、一般の査読では結局、査読者の経験、能力の範囲内に落とし込めるかという判断になりがち。昨今は分野の細分化が進み、ステレオタイプの論文は生産され続けるが、真に独創的な、優れた研究が取りこぼされることも多いのではないだろうか。環境に関わる分野では、背後にある思想が理解されずに不調になる場合は確実にある。大学教員は歳をとったら、論文競争などせずに、真の価値の発見、教育に力を注ぐと良い。ただし、論文数競争に適応した研究者がすでに中堅以上を占めている現状では難しいかもしれないね。論文数競争は天井を知らず、真摯な研究者を不幸に陥れ、日本の学術の質を落としかねない。(2017年12月16日)

ハザードとディザスター

次期観測研究計画の検討に関わるアンケートの依頼がきました。地震と火山に関する観測計画であり、地道な観測の重要性は強調しすぎることはないほどです。研究計画のたたき台案を読ませて頂くとハザード(誘因)と災害(ディザスター)が区別されていないように感じます。災害=誘因+素因という基礎式の中で、誘因研究が中心になっています。また、緊急時対応が重視されており、災害サイクル(事前、事中、事後)ごとの対応についても切り分けた説明があると良いと思います。防災、減災に言及するならば、他分野との連携において災害心理学、地域計画、等の分野も視野に入れてよいと考えます。静岡大学防災総合センターのシンポジウム報告書「現代における防災実務育成の重要性」が先日届き、目を通したところですが、実務の立場からすると、この研究計画は重要ですが、災害(ディザスター)の一面を扱っているのだなという印象です。根本的な課題は、人は予知があれば正しく行動できるのか、という点にあります。ハザードがいつか来ることはわかっています。(2017年12月15日)

組織とは

職場の教授会がありました。文科省の共同利用・共同研究拠点(うちもその一つ)の中間評価で、文科省は一部をおとりつぶしにする意向とのこと。うちのセンターの評価は、「皆さんよくがんばっていらっしゃる。でも何を目指しているのか統一感がないね」、ということにいつもなります。それが?、といいたいところですが、一理は認めざるを得ない。それは組織とは何か、ということに対する考え方ですが、バーナードの組織論というのがあります(静岡大学防災総合センター報告書における東大の関屋さんの講演録から拝借))。司馬遼太郎も同じようなことを言っています。

@共通目的 目的なしに組織は生まれない。
A協働意志 個人の努力を組織に寄与する意志
Bコミュニケーション 組織の諸要素を結合する。

CEReSの目的は、「リモートセンシング技術の発展と、環境への応用」ということなのですが、昨今のトップダウンの風潮の中で今やお上に覚えめでたくなるために如何に外形的な成果を上げたか、ということが重要になり、また個人の研究業績評価が先に立ってしまうため、@は達成されているかどうか、悩ましい。研究者個人の活動が専門分野に偏り、よく見えなくなっていることから、Aの達成もあやしい。そんな雰囲気の中でコミュニケーションの機会は減るばかりであるので、Bも達成されていない。本当は環境で統一感が出せれば良いのですが、昨今のサイエンティスト気質からしてなかなか難しい。では何で統一感を出すか。それはアーカイブデータの活用しかないのではないか。アーカイブ以外の研究は個人研究。それは教育組織でやって頂き、センターとしてはアーカイブ事業を核にする。アーカイブ維持の仕事は大変なロードである。技術的に作業を共有することも難しい。だから多大な業務をこなしている担当教員がまず幸せにならなければならない。教員がアーカイブデータを活用して、一緒に研究を実施すればよい。簡単なことではあるのですが、それを困難にしているのは、やはり現行の研究評価システムと(論文を効率的に数多く生産しなければならない)、研究者の個人志向ではないかな(科学の細分化)。文科省の役人が幸せになるために、末端の教員が汗水流し、少しの名誉と安心を得る。そんな状況に適応してしまう。ああ研究とは、科学とは何か。文科も財務も大学経営陣も教員と一緒になって、よりよい社会を目指さなければならないのに。まずは、職場の中から、なのではあるが。(2017年12月13日)

社会的課題とは

「学術の動向」12月号が届きました。ついおもしろいので読み込んでしまうのですが、特集のひとつは「社会的課題のための総合工学」。読んでいて気づいたことは、「社会的課題」に関する認識の若干のずれ。認識には大きく分けて二つあります。そのひとつには省庁の政策研究に関わる公募研究のようなトップダウン的な課題、あるいは組織トップの指示による時流追随のためのやらされ研究、のようなニュアンスを感じます。前者はもともと受託研究であり、自立的な研究ではないのですが。後者は、課題が社会的課題ということになったかどうか、という点にロードが集中する研究。もうひとつは、社会の要請に基づく社会のための研究。これは良いのですが、課題を探すための研究もあるという。それは工学の方々の精神的態度になっているのだろうなと思う。私の環境という立場からは、現場における目の前にある課題を真摯に解く努力をすれば良いと思います。成果はより大きなフレームの中で共有すること、そして様々な関係性を探す努力をすることによって、ボトムアップ、草の根から発信し、より上位の課題へ進んでいくことができるのだと思います。現場には課題がすでにあるのに、研究者が課題を発見して、さあ研究しましょうというのは、少しおこがましい気がします。(2017年12月13日)

対置

地球システムと社会システム、未来志向と現在指向、グローバルとローカル、普遍性と個別性、といった二つの視点を対置させると、それぞれの視点の共通性が浮かび上がってくるように思う。並べ替えると、地球システム−未来志向−グローバル−普遍性、および、社会システム−現在指向−ローカル−個別。今、我々は前者を重要と考える雰囲気の中にいるが、これから重要性が増すのは後者ではないか。ただし、グローバルは相互作用する多数のローカルから構成されるという視点を忘れてはならない。(2017年12月10日)

老いとデジタルデバイド

今日は、環境計測プラットフォームとしてのドローンの慣熟飛行を東京情報大でやらせて頂いた。朴先生にはお世話になりました。最近の機体の運用はネット接続が前提となっているものが多い。使う機器もiOS、Android、Windows、と多彩である。使う度にアカウント、パスワードを要求されるのだが、現場ではやはり忘却力が勝り、右往左往。老いにはかなわない。それでも、デジタルデバイドを乗り越えるために、機器を使いこなそうとする努力は少しは実りつつあるように思う。3DR SOLOの初飛行も無事終えた。やはり、時代はIoTの時代なのか。できる限り使いこなしてやろうと改めて心に誓う。(2017年12月9日)

忘却

今日は太平洋戦争開戦の日なのですが、報道が少ないように感じる。すでに歴史になったということか、単なる忘却か。ジョンレノンの命日も今日。命日は忘れられても、音楽は残る。論文はどうだろうか。どんな論文でも出版されれば残っていく。しかし、昨今論文数が増えすぎた。よい研究でも古いものは忘れられているように感じる。理学や工学は新しいものに価値があるかもしれないが、環境、すなわち人−自然−社会の関係性の認識では古い研究者の書いた文章の中にはっとするような認識の発見が時々あるものである。あたらしいもの、発展、成長を基調とする考え方を見直す時代がやってきているのではないかと思う。(2017年12月8日)

意味のないもの

養老孟司が新しい本を出したそうで、その本を巡って「意味のないものに価値があるのだ」というコンテクストの話をラジオで聞きました。ちょっとちゃうかなと思う。意味というのは人間が付与するもの。意味がないというのは、その人の無関心、あるいは意味を付与する力がないということ。たまたまその人にとって意味がないだけで、他の人にとってはかけがえのないものかもしれない。すべてのものの存在には理由(わけ)がある。悠久の時の流れを経て、今そこに在る。だから、宿命といっても良いかもしれない。何かが様々な経過を経て、今そこにある。そんな理由を理解しようとするところに幸せがあるのではないかな。この場合、理由(わけ)というのは論理的に説明できる因果関係というよりも、関係性、歴史性、事情、といったことばで表すことができるものととらえてください。(2017年12月7日)

心を豊かに

最近の自分は文句ばっかりいっているな、ということは自覚しています。情けねーな、と思いながら、口だけではなく、行動しようとの思いもあります。昨日、"楽しむ"なんてことを書いたので、片岡鶴太郎のことを思い出し、検索したら"片岡鶴太郎の名言"というページを見つけました。ひとつ、備忘録として再掲しておきます。

心が貧しいと、人を責めたくなる。/心が卑しいと、人の欠点ばかり見えてくる。/心豊かになると、人のいいところが見えてくる。/若くても人の褒め称えができる人は、人の上に立てる。

鶴さんだけでなく、いろいろな方が同様なことはおっしゃっておりますが、心しておきたいと思います。心を豊かに保ちたいものだと思う。(2017年12月4日)

はしだのりひこ逝く

私の青春を彩ってくれた方がまた一人逝ってしまった。享年72歳。私も後12年でその歳になる。残された時間は多くはないのである。昨日は同窓会だったのだが、我々の世代はそんなに長生きしないね、という話をしたばかり。そもそも日本の長生きは終末医療によって生かされた結果ともいえるのではないか。安らかな死を迎えるためにはどうすれば良いか。それは楽しむということではないかな。いずれ迎える死を意識しながら、充実した現在を楽しむ。とはいえ、そういう生き方を実現するには結構な覚悟が必要。やはり私は文句を言いながらも準備を怠ってきたのかなと思う。まだ、間に合うかどうか。(2017年12月3日)

真実と事実

書評のために「マスメディアとフィールドワーカー」という本をもう少しで読み切るところ。マスメディアは聴衆に受け入れやすい言説をつくる傾向があると我々は思っている。一方、フィールドワーカーは問題の複雑さに挑戦し、真実を理解しようとする。ここでふと思った。マスメディアが作り出した言説の中にも切り取られた事実が含まれていることもあるだろう。事実と真実は別物というよりも、事実は真実の一部でもあるとも考えられる。一方、科学は事実を扱う。複雑な事象からノイズを捨象し、厳密な論理に基づいて説明できる事実を抽出して説明する。それが普遍性というもの。しかし、それだけでは事象の全体像を理解したとはいえない。捨て去られたノイズも真実の一部を構成している。問題解決に科学は必要だが、科学だけで問題は解決できない(トランスサイエンス)というのはそういうこと。超学際(Transdisciplinarity)科学があるとすれば、それは真実発見科学といえるだろう。問題の解決を目指す科学は、諒解形成科学といえるかもしれない。(2017年12月2日)

紛争の科学

中東研究で有名な酒井先生のお話を伺った。内容はなかなか難しく、にわかに理解はできなかったのですが、現代の紛争の背景については、私はこうとらえます。@グローバル市場経済の元で格差が広がった。絶対的な格差に加えて、幸福度の尺度が変わることによる格差感も重要である。次に、A貨幣経済の元で、欲が人をコントロールするようになった。そして、B好き嫌い。人はちょっとしたことで人をきらいになることは誰でも経験しているだろう。どこでも、誰でも紛争の種は抱えている。これを乗り越えるにはどうすれば良いか。重要な手段は教育であると思われるが、それは、こうすべきである、といった教育ではなく、どう生きるかということを背中で見せるような教育なのではないか。日本が世界に先駆けて幸福度No.1の国をつくることも、ある意味教育。こんな風に世界をリードして紛争を解決できないものか。(2017年11月30日)

命とプライド

また北朝鮮がミサイルを発射したが、我々はどうすれば良いのだろうか。イソップ寓話集No.216に「雀蜂と蛇」という話がある。敵と共に死ぬことさえ甘受する人がいるという話。そのほか、敵の不幸を見るために、自分が不幸になってもかまわないという話(No.68)、自分の災いの原因となった者の不幸を見るとき、人はより耐えやすいという話(No.113)、など人の本性に関する話は多い。では、どうすれば良いか。No.46の「北風と太陽」ということしかないのではないかと私は思う。そんなお人好しなと思う方も多いだろうが、プライドが命にも代え難いという人もいるのだ。北朝鮮が命をかけてプライドを守るためには、どこに向けてミサイルを発射するか。自明のような気がするが。日本がなすべきことも。(2017年11月29日)

山木屋の現状

秋から冬に向かう山木屋に久しぶりにいる。「山木屋の住民の方たちと現状を共有するダイアログ」という催しに出ているところ。「ICRPの協力による対話の継続」という副題が付いており、すでに何十回も各地で開催しているとのこと。引っ張っているのは安東さんというNPO福島のエートスの方。すごいパワーである(そういえば、印旛沼にもパワフルな女性はたくさんいる)。避難した方々は必ず戻ると信じていたが、山木屋では現在約30%の方々が戻っている。信じた理由は、農業は家、田畑、管理機があれば何とかなるものだから。ただし、課題は@農地や基盤設備の管理、A除染廃棄物の存在、Bコミュニティーの維持、にあり、マンパワー不足と食品に対する風評被害が当面の問題とのことである。山木屋は川俣町の中心部にも近く、道路、トンネルの整備も予定されており、浜通りへ向かう富岡街道も開通している。未来は決して暗くない。復興のトップランナーになるだろう。事故、被害に対応するフェーズも変わりつつあり、自分の役割も再検討すべき時期に来ている。幸い、NPO「山木屋お気軽ネットワーク」も再開間近とのことで、また活動の場ができそうである。今後は、研究ではなく責任ある事業を展開しなければならないと思うのであるが、春に向けて考えたい。山木屋もずいぶん変わったが、新しくできた「語らいどころ"やまこや"」のお蕎麦は感激しました。(2017年11月26日)

山一破綻の教訓

あれから20年が建ったとは、時の経つのは早いものだ。自分も老いているということ。新聞各紙、報道各局がこの件を取り上げているが、今朝のNHKニュースでは元社員がこんなことを語っていた。なぜ、こんなことになったのか。それは、@社会の流れを見極め、変わることができなかった、A管理職と社員が同じ方向を見ていなかった、ということだという。この二つは研究者の世界でもいえるのではないか。研究の原資が税金である以上、我々は納税者の便益と判断を尊重しなければならない。そういう時代になったということ。また、縦社会の中で研究成果の評価者あるいは予算決定権者と研究者の関係がどうなっているのか再検討しなければならない。研究者も組織の中で仕事をする。職階が上位の者の意志と、個々の研究者の意志が齟齬をきたしていないか、我々は何のために研究をしているのか、包括的に見直す時期が来ていると思う。(2017年11月24日)

別に大国でなくても

朝日朝刊、編集委員の大野さんの記事。「日本は大国であることをあきらめてしまった」とあのエマニュエル・トッド氏が言っているそうだ。でも、大国とは何だろうか。軍事的、経済的に圧倒的な力を持ち、覇者となることを目指す国、だとしたら別に大国にならなくてもいいんじゃないと私は思う。それよりも、新しい価値観、哲学、倫理に基づく幸せな国を目指した方がよい。もちろん、トッドさんは大国が良い、悪いと言っているわけではなく、現政権の主義・主張と行動の一貫性について指摘しているわけです。だから、日本は新しい概念としての"大国"を目指す、でいいじゃないか。それはどんな国か。すでにいくつかの議論もあるが、考え方と実行計画が伴うはっきりしたイメージに向けて議論を深める時期が今だと思うよ。(2017年11月18日)

説明責任

朝日朝刊17面にある早稲田の富永先生の意見欄。アカウンタビリティーというのは元々サッチャー政権におけるキーワードで、個人や組織が与えられた職務をきちんと履行していることを上位者の求めに応じていつでも説明できることであった。となると、政治家の説明責任が問われる状況は、少し奇異だという。政治家には説明責任よりもっと広い説明が求められる。政治家は上位者の指示とは関係なく、自分で重要な事柄を判断し、積極的に説明する義務があるのだ。なるほど。ならば大学人も同じなのではないかと思う。大学の職務はあるが、それだけではなく、社会において重要なことを自ら判断し、主張し、行動するのが大学人。大学当局が職員の業務に粗相が無いように管理しようとするのはわかるが、大学の管理者に見えるのは上意下達の階層構造のなかに位置づけられる職務だけ。個々の大学人が持つ多様な関係性を把握することは困難であろう。大学人の機能をどう発揮させるか、管理者の重要課題だと思うが、難しいね。でも、考えよう。(2017年11月17日)

人生って何ですか

それは冥土までの暇つぶしや、と。朝日朝刊「折々のことば」にあった今東光さん(中尊寺貫主でもある作家)の答え。これを聞いた島地勝彦(「週刊プレイボーイ」元編集長)は以後すっかり「生きることが楽になった」という。でも、これは自力で“生きる”ということが確立している人間の感覚で、生きるための稼ぎに四苦八苦している人、管理社会の中で機能することのみを求められている人、にとってはあまり参考にならないのではないかな。生き方が制限されてしまう現代においては、暇つぶしなんやな、と見られてしまったらはじき出されてしまうだけ。人が生き方を自由に選択、変えることができる社会、それを可能にするリテラシーを人が持つこと、が大切。こんなこと言うだけでは何にも変わらないが、人の意識が変わり、世のあり方が変わる、そんなことが進行しつつあるのではないかという予感は確かにある。その芽を育てていく必要がある。SDGsはそのきっかけになるかも。(2017年11月18日)

大学人って

「公的研究費の適正な管理・運営に関する認識度調査の実施及び他大学における不正使用を受けての注意喚起について」というWEBを使った教員の認識度チェックがありました。すでに締め切りを過ぎていたのですが、職場の受験率が低いということで、締切延長してもらって、ただ今終えたところ。なかなか画面に到達できず、どたばたして事務室に迷惑をかけてしまいました。歳をとってデジタルが好きではなくなり、逆らっているうちにデジタルデバイドが拡大してしまったようです。それにしても、このような仕組みは大学人にどんな影響を与えるだろうか。大学人は不思議な存在で、職場の仕事をやっていれば良いというものではありません。社会の中の大学人、社会のための大学人としての機能も求められています。それは内山節風にいうと"稼ぎ"ではなく、"仕事"であり、誇りをもって遂行し、心の拠り所を形成するものでもあります。表記の仕組みは、職員として粗相無く勤め、何かあったときに管理者が責任をとらなくてすむという機能を果たすためにあるようにみえます。そこには管理者と職員の間の信頼感が感じられない。論文をいっぱい書いて、予算をたくさんとってくる大学人が、管理者を喜ばせる。まるで家畜みたい。なんかやだな。でも、その家畜は管理者とは別の関係性も社会と結んでいる。改めて大学人とは特殊な存在だと思う。(2017年11月17日)

民の辛苦

イラン・イラク国境で発生した地震の犠牲者がだんだん増えている。かの地では戦争や対立で辛苦を嘗めた方々も多いに違いない。人々の切実な望みは家族との無事な暮らしではないかな。私はこの"事も無し"という言葉が好きです。自然災害は弱者にも容赦はないが、人の行為もそうだろうか。北朝鮮に対する経済制裁で、安倍さんの"石油供給を止めるなら冬が良い"という発言(Foxニュース)がどうも気になっている。暖房用の石油がなくなって困るのは市井の民であろう。国民と国家は同じなのか、別物なのか。自然災害は避けられない宿命であるかもしれないが、制裁による苦しみは人が引き起こすもの。誰に対する制裁か。諒解せざるをえない辛苦と、諒解できない辛苦がそこにある。(2017年11月14日)

外来種をなぜ駆除するのか

今日のゼミで議論した話題。侵略的外来種というやつを駆除しようとしているのですが、なぜか。学生さんは人間の暮らしに悪影響を及ぼすから、という考え方が主流のようです。それもありですが、私は"多様性"の保全を中心に考えたい。人によって持ち込まれた生物が、その地で強者となって、弱者となった地場の生物を駆逐する。そして世界が均一になっていくのはおもしろくない。まるでグローバル指向の市場経済、都市的世界の拡大を見ているようです。世界にいろいろな生態系、そして地域があることが、多様な幸せを生み出す。幸せが一つしかなかったら、息苦しい社会になりそう。とはいえ、外来種にとっても完全な一人勝ちはないと思われるので、苦しいに違いない。お互いが諒解できる状況を創り出さなければならない。(2017年11月13日)

ゆたかな社会とは(3)

ゆたかな社会であるためには。内山節著「地域の作法から」から再掲。

@自然の恵みを受けられなくなる社会をつくってはいけない。
A農業をはじめとする一次産業が滅ぶような社会をつくってはいけない。
B手仕事の世界は残さなければならない。
C暮らしをつくる労働を残す必要がある。
D人間は常に共同性の世界を必要とし、そうである以上、共同性の世界はつねに再創造されつづけなければならない。

2014年6月15日に書いていますが、改めて思う。未来を散文的にみる。目標を立てて、バックスキャッターしながら厳しく変革していくなんてやり方よりも、現在を良くしていくことによって、その先にある未来を良くしていこうという考え方に賛同するわけです。(2017年11月11日)

ゆたかな社会とは(2)

これが何かを考えるとき、小田切徳美先生の言葉を思い出します(2007年11月5日参照)。再掲しますと、「安心して楽しく、少し豊かに、誇りを持って生きる」。少し豊かにというのは、自動車とかパソコンといった近代文明のメリットを少し、分相応に享受できるということだと思います。こういう生き方ができる社会こそが「ゆたかな社会」ではないでしょうか。地方、中山間地でこれを達成している地域も確実にある。(2017年11月11日)

ゆたかな社会とは

宇沢弘文は「社会的共通資本」の序章で表記について定義している。引用すると、「ゆたかな社会とは、すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力とを十分に生かし、それぞれのもっている夢とアスピレーションが最大限に実現できるような仕事にたずさわり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会」とある。きわめて美しい表現で、理想側に若干傾いているようにも感じるが、肝に銘じておこうと思う。宇沢はこの社会の条件として次の基本的諸条件をあげている。

(1)美しい、ゆたかな自然環境が安定的、持続的に維持されている。
(2)快適で、清潔な生活を営むことができるような住居と生活的、文化的環境が用意されている。
(3)すべての子どもたちが、それぞれのもっている多様な資質と能力をできるだけ伸ばし、発展させ、調和のとれた社会的人間として成長しうる学校教育制度が用意されている。
(4)疾病、生涯にさいして、そのときどきにおける最高水準の医療サービスを受けることができる。
(5)さまざまな希少資源が、以上の目的を達成するためにもっとも効率的、かつ衡平に配分されるような経済的、社会的制度が整備されている。

基本は@自然、A福祉、B教育、C医療、D社会・経済、という風に纏めることができようか。この5つの関係性、制度が維持できれば、我々はゆたかな社会の恵みを享受することができる。とはいえ、きれいな言葉だけではだめで、実践がなければならない。おかしくなりつつあるように感じる日本ですが、ここに注力しなければあかんと思う。(2017年11月11日)

はらはらと/無情を告げる/落ち葉かな

お寺さんでもらった月めくりカレンダーの11月。落ち葉は無情だろうか。老いた黒柴の黒丸とマラソン道路を毎日散歩している。吹き溜まりの落ち葉を踏み分けて歩く。心地よい。風でさらさらと流れる落ち葉はまるで意志を持っているよう。この落ち葉を集めて堆肥にしたいものだといつも思う。山では落ち葉は土を作り、様々な生物を育て、森を育む。まったく無情ではないですな。再生の象徴でもある。無情と考えるのは、落ち葉を厄介者として扱う都市的な感覚ではないかな。(2011年11月7日)

所信表明

日本学術会議の新任連携会員の説明会に出てきました。お互い存在だけ知っていた神戸大の近藤昭彦氏に出会えたのは良かった。学術会議事務局には相当混乱させてしまいましたが。さて、連携会員は環境学選出ということで、今後はフューチャー・アース(FE)やSDGsにも関わっていくと思いますが、肝に銘じておきたいことがあります。“環境に関わる研究者がエリートの側にいてはだめですよね”。これは4月25日に書いた池上彰氏の言のパクリ。FEやSDGsには決して否定できない美しい文言が並んでいる。人の心には“いい人”と思われたい、というバイアスがかかる。それを乗り越えて、解くべき問題の真実に迫らなければFEやSDGsの達成にはつながらないのではないかな。現場に軸足を置いた環境研究の成果でなければ今を生きる人の幸せ達成は難しい。エリートが幸せになるだけではだめなんですよ。環境をよくするには現場の共感が大事。(2017年11月2日)

苦労して/まるくなる人/とがる人

10月も終わり。これはお寺さんから頂いた浄土宗月めくりカレンダーの10月の言葉。人生いろいろだろうが、歳をとってまるくなる人は、よい生き方をしてきた人、とがる人は地位や名誉を求め続けてきた人ではないかな。自分の生き方を諒解した人、自分が偉いということになったかどうかということばかり気にしてる人、なんて言い方もできるかもしれない。私はまるくなりたいものだ。母が転んで骨折し、入院したのだが、認知症が進んでしまったようで、ちょっととがっている。母は自分の生き方をまだ諒解していないのであろうか。不安の中にいることはわかるのだが、どう寄り添うか。男だからというと怒られれそうだが、なかなか難しい。(2017年10月31日)

日本にこだわらない

というヘッドラインが朝日の一面を飾っている。地盤沈下する日本を脱出する若者が増えているという。これらの若者はどういう"世界"を持っているのか。近代文明が駆動する都市的世界の中に閉じこもっているだけではないのだろうか。グローバル化によって世界は均質になった。だから、自分が活躍できる場は日本以外に求めることができる。それも悪くはないが、実は世界はもっと広い。都市的世界だけでなく、農的世界、人と自然が良好な関係性を保っている世界、いろいろな世界がある。そもそも都市はどこからか大量の資源、エネルギーを持ってこなければ成り立たない。都市的世界はそれだけで成り立っているのではないのである。若者にはもっと広い世界観を持ってほしいなと思う。その上で生き方を考えてみると、新しい日本を創ることもできるのでは。(2017年10月29日)

折り合い

第15回印旛沼流域環境・体験フェアは1日目を終えた段階で、台風接近のため2日目は中止ということになりました。残念ですが、自然とは時には折り合いをつけ、諒解することもしょうがないなという話で締めくくりました。印旛沼の水質も同じで、沼のもたらす便益と環境との間でどういう諒解を形成するかという議論になっていくのだと思う。県主催のフェアですので開会式には要人の挨拶と紹介があります。そこに国会議員さんがおり、紹介されていましたが、印旛沼との関係性は不明(私が知らないだけでしたらごめんなさい)。こういうセレモニーも必要なのでしょうが、古さも感じてしまう。ここでも世の慣習との折り合い、諒解が必要なのでしょうが、少しずつ変えていかなければあかんかな、という思いもあります。2日目に向けてがんばっていた方々、ごめんなさい。ところで、栄町のブースで買ったくず餅がうまかった。くず餅再発見。(2017年10月28日)

あなたの世界の範囲は

センター長が主催する"超学際"に関する勉強会があった。グループに分かれて、教員がファシリテーターとなり、超学際について議論したとのことであるが、なかなかうまくいかないということ。私は講義で参加できなかったが、私だったらまず"あなたの世界の範囲はどのくらいですか"と学生に問うてみたい。"あなた"が関係性を築き、"あなた"の基本的な考え方、精神的態度を形成している範囲を想像してください。あなたはどんな関係性の中で生きているのか。その関係性は一方向か、それとも双方向だろうか。まず自分の世界の範囲を認識しよう。その中で、解くべき問題が見つかり、たくさんのステークホルダー間の関係性が理解できたら、その中で"解決の共有"を試みてください。もし問題が見つからなかったら、世界の範囲を広げてみよう。いろいろな解くべき問題は見つかるはず。それと"あなた"の関係性を考えてください。"あなた"はそれらの問題と関係性を持たずに生きることができるのか。自分に向かう関係性のベクトルだけ、すなわち与えられるだけではこれからの長い人生、苦しくなってしまいますよ。あなたから関係性のベクトルを問題に向けることはどうすればできるのか。考えてみよう。(2017年10月26日)

カレーライス−交わらない世界

遠藤賢司が逝ってしまった。闘病中であったことは知っていたが、まだ70歳。私もその歳まで後10年しかない。私がフォーク少年だった中学の時、「カレーライス」シングル版をがんばって買った。当時レコードを買っていたのは八千代台駅近くのエコーレコード店。なつかしい。今もあるだろうか。「カレーライス」はなんてことのない日常を歌った曲。君がカレーライスを作っている。君が包丁で指を切っちゃったとき、誰かが(三島由紀夫ですが)お腹を切っちゃったって。つながっている時空の中で、いろいろな出来事が同時に進行している。今もそう。東京オリンピックを目指してがんばっている人、災害、事故から復活するためにがんばっている人、あきらめている人、選挙に勝って喜んでいる人、...交わらないのだがいろいろな人の世界が時空の中にゆらゆら浮かんでいる。それでも普遍的なものを目指して成長して行かなければならないのだろうか。(2017年10月25日)

相棒がいなくなった

朝日朝刊。政界を引退する亀井静香氏の言。永田町に相棒がいなくなったと。仕事は仲間がいるからできるものだと思う。困難に出会っても仲間が支えてくれるから。もちろん、一人でできる強い人もいるだろうが、そんな人はめったにいない。研究面で悩んでいる学生がいることは感じているが、それは研究をひとりでやろうとしているから。研究の成果を記述する論文はレポートではない(レポートは一人で作成するもの)。研究はコミュニティーの中で役割を果たしながら行うもの。直接話し合う友達がいなくても、レビューという作業を通してヴァーチャルなコミュニティーを創ることもできる。そのメンバーに直接連絡したり、学会に参加することで、リアルなコミュニティーにすることもできる。相棒ができると、研究という行為が楽しくなるのだが、なかなか学生には伝わらないようだ。さて、私の相棒は。(2017年10月21日)

恐るべき公害

行政の仕事を通じて現在進行中の環境問題、環境に関する課題に取り組む機会も増えてきた。そこで、昭和30年あるいは1960年頃の日本の公害の状況を再確認しておこうと思い、表記の新書を入手し、読み切ったところ(庄司光・宮本憲一著、岩波新書、初版1964年)。この本の冒頭に、昭和36年から37年に日本各地で問題となっていた公害の地図とリストが載っている。改めて当時の状況を再認識できたが、これらの問題は日本の高度経済成長の陰といえる。日本人の多くが加害者では無くとも、経済成長の恩恵を受けている。一方で、公害の深刻な被害者は偏在している。これらの公害の中には現在でも解決していない問題もあるが、日本は定常社会とも呼べる段階に入っていく。公害の予防、対策、償いも新たな段階に入るべきであるが、まだ過去の経済成長の夢に捕らわれている方々がたくさんいる。経済成長も悪くはないが、犠牲のシステムの上に成り立つ経済成長はまっぴらである。(2017年10月20日)

人生いろいろ

くそったれめ。人生とは思いも寄らない出来事が時々あるものさ。誰かわからない人物の一通のメールが引き起こした騒動の沙汰が口頭で告げられたが、結果は白。それは良いのだが、多くの方々に迷惑をかけてしまった。前回は10年前。あの件以来、サイエンティスト(Scienceとサイエンスはだいぶ意味が違う)が大嫌いになってしまった。優秀ということになっていないと不安でたまらない人種の出現。人を押さえることでしか、自分が高まることができない人間。今回はサイエンティストの精神的態度がおかしくなっていることを予感させる。研究の目的は論文生産。しかし、Scientistであれば論文の先にあるものを意識しなければならない。環境問題は論文を書くためのネタではない。解くべき課題である。業績をつくる手段としての論文、地位と名誉のための研究、そんなの糞食らえだ。今、Future Earthの実施、SDGsの実現が我々の最大の課題になっている。狭量なサイエンティストによって課題が蚕食され、10年後に絶望しか残っていなかった、なんて冗談じゃない。"超学際"の実現はサイエンティストが信頼を取り戻すために乗り越えなければならない壁ではないか。何を言っているかわからないでしょうが、酒の席にでもお話ししたいと思います。言い訳はいやだが、はけ口も必要。それにしても心身ががたがた。慢性的な頭痛と耳鳴りに悩んでいるが、これを治すためには楽しいことをやるしかないな。(2017年10月19日)

大学人の想いと数字

今年度から始まった「教育研究等活動実績報告書」を提出した。複数の評価項目に点数を付け、その値が給料に反映されるそうだ。私の点数は2.2点であるが、この数字で私のこの1年間(評価期間は10月から始まる1年間)の仕事が評価されると思うと、何となく味気ない。大学人として何をやるべきかという想いが、一つの数字に凝縮されてしまったわけだ。評価は4分野の点数の和になるが、教育、研究、社会貢献、大学運営の4項目に分けられている。その重みは部局ごとに設定し、職階によって変えてあるが、教授はそれぞれ0.20、0.35、0.05、0.2となる。我が職場が何を重要と考えているかということの反映であるが、研究が最も高く、社会貢献は圧倒的に低い。自己裁量分が0.2あるので私は社会貢献を0.25にしてある。フューチャー・アースの始動はアカデミーとして社会との関係性を大切にするということの表明である。ならば社会貢献の重みはもっと高くしても良いと個人的には思うが、論文命の生き方も否定するものではない。給料査定システムであるのでしょうがないかなとは思うが、大学人が個性を発揮し、新しいものを生み出すための機能はどのようにして評価されるのか。しばらくはこの評価システムの運用が続けられるだろうが、これが大学の発展の手段として機能するのか、見続けるしかないな。私の時間はあと5年。(2017年10月18日)

最近の会社と社会

日本の会社は最近少し変。また神鋼のような大会社で。なぜだろう。日本の会社だけでなく、社会がおかしくなってるんじゃないの。貨幣の獲得を目指して、競争する社会。競争の結果、勝者の社会になって、敗者は消えてしまう社会。すべての価値を貨幣に変えて、取り引きする社会。多様な生き方を選択しにくい社会。だから人は会社にしがみつき、自分を守ろうとする。(2017年10月13日)

研究の評価一考

海洋機構で論文1100本が過大報告されたそうな。なんでこんなことが問題になるのか。個人の統計値を単純集計したのでそうなったわけであり、簡単に回避できることではあるのだが、研究者の世界に根本的な問題があるのではないか。論文数による評価のあり方に研究者が疲弊していること、組織の評価の担当者に自分の研究評価で汲々としている研究職を充てるといったこともあるかも。いずれにせよ、研究の評価のあり方は検討を要する大問題なのだが、さてどうすればよいか。評価資料作成に時間はとられたくないし、討論では勝者が力を持つようになる。自由主義経済と同じ。一番良いのは国民、納税者が研究者を評価する力を備えることなのだが、イメージに左右される政治を見ていると、道のりは遠い。研究を遂行することで、誰が、いつ、どのように幸せになるのか、こんなことを皆さんにはそっと考えてほしい。ちょっとしたミスを叩く社会もいやなものです。海洋機構はどう対応するのだろうか。大人の対応をして頂きたいものです。(2017年10月9日)

喪失感

いままであったものが突然失われるということは、それが些細なものであったとしても、こころにわだかまりを残してしまうものですな。会議の場所に着いて、鞄が開いていることに気づき、さっきまで読んでいた本を探したのですが出てこない。電車で本を読みながらうとうとして、はっと目が覚めるとそこは降りる駅。すでにドアが開いている。一瞬降車をあきらめるが、コンマ数秒後に判断を翻し、飛び降りる。その時に「半市場経済」を落としたらしい。お気に入りの犬印のブックカバーとともに。ああ、なぜあの時...。ふるさとを失った人々の喪失感はいかほどのものであろうか。(2017年10月4日)

未来による現在の支配

未来は「未だ来ぬ」時間であり、不確実性をはらんでいる。そんな未来への関心が強まった結果、人は不安の中で生きることを余儀なくされているのではないか(「半市場経済」第三章、杉原学)。マッキーヴァーによると、「未来のために生きると、生きている現在を見失ってしまう」という 。やはり、充実した現在を創りあげること、それによって未来も創造していく生き方を選択したい。それがよりよい環境を取り戻すことにつながるという生き方を示すことが、地球環境研究の役割ではないか。(2017年10月2日)

Share Globally ということ

「それぞれの地域で結果を出しつつあるよい取り組みをSDGsと関連づけることで、地域、社会ごとの事例を蓄積し、再発信によって社会実装を加速させる戦略」。農村計画学会誌最新号の長野さんの論考で見つけました。これは「地域の事例を蓄積する入れ物がグローバルであり、地域を良くすることが世界を良くすることにつながる」という私の主張とほぼ同じではないかな。グローバルという入れ物の中に地域の知識、経験を位置づけることで、それが世界で共有できるのである。長野さんは、「SDGsによって地球環境問題のアプローチは簡単に言うならば Think globally, act locally という1970年代のスローガンに回帰した」という。Localを重視しなければSolution orientedな研究はできないのである。職場で議論していると、こういう考え方は非主流のようにとらえられるが、実は主流なのだと思う。考え方の違いを指摘するのは簡単だが、考え方の違いの背後にある理由を明らかにすることが、超学際の達成のために必要である。(2017年10月1日)

地理屋のメリット

今月は静岡、北見、津に行った。せっかく行ったのだから、どこか巡ってこようかとも思うのだが、どうも元気が出ずに用事だけ済ませて戻ってしまう。今も津から帰ったところであるが、どこにも寄らずとも、地理屋は現場の経験を積むことができるのではないだろうか。名古屋から津へ向かう近鉄特急列車から望む長良川河口堰から歴史的な環境保全運動を想う。車窓の濃尾平野に伊勢湾台風の時の状況を重ねる。行きの列車では展望車に居座っていたが、酎ハイを片手にした年配の方の、「伊勢湾台風の時は就職して一年目で、港に浮かぶたくさんの遺体をみた」という話が聞こえてきた。立松和平の「大洪水の記憶」(サンガ新書)を思い出し、当時の状況を頭の中に復元する。車窓からは石積みの土台の上に建てた家屋が見える。弥富駅通過。ここは洪水と高潮で浸水した周辺の写真を講義で使っている。四日市では遠くに見えるコンビナートから、日本四大公害のひとつのシーンを想う。電車に乗っているだけであるが、いろいろな経験を共有できる。これが地理屋のメリットではないかな。(2017年9月30日)

いまここで気づくこと

「必要なのは未来に向かうのではなく、いまここで私たちが気づくことだけである」。内山節編著「半市場経済」の中の第2章「エシカル・ビジネス」(細川あつし)で出会ったフレーズ。これは腑に落ちる。現在は未来とつながっている。今、そこかしこで未来につながる何かの胎動が始まっている。それに気づき、共に育てることが力強い未来につながるのである。研究者はオリジナリティ、プライオリティーに縛られて、かえって現実の中にある未来へ向かう胎動が見えなくなっているのではないか。論文生産のために世界を狭く狭くしていき、その先が未来につながらなくなっていないか。環境の研究者であるならば、現在をよく観察すること。それが大事なんじゃないかな。(2017年9月28日)

気が付いていない観点

「なぜ自分はこんなことをやっていんだという疑念を失うとき、できあがったくさみが生じます」。朝日朝刊の「あなたへ 往復書簡」から。作家の渡辺京二から女優の酒井若菜への書簡。この文章の前には次のフレーズがある。「プロは自分のやっていることに疑いを持たず、自分の知識や技芸を生の原点から遊離させる危険に陥りがちなのです」。水文・水資源学会北見大会が終わったところであるが、この学会はすべての発表を参加者が聞くことを鉄則としている。お陰で様々な研究に触れることができたが、そこで感じたことがまさに渡辺が言及していることであった。「なぜこんな研究を自分はやっているのだろうという疑念を失うとき...」、それが起きているのか。研究を行うということは、その先にある社会の在り方を主張していることでもある。また、自分の研究の重要性を論じるときには、自分の自然観、社会観、といった価値観の範疇にあるものの主張が必ず背後にある。この二つの観点に気が付くことにより、研究成果を活かす途が見えてくるはずである。(2017年9月23日)

顧客の時代

先月末のYahooニュース。山で遭難し、警察に救助を依頼した方が、警官の態度にブチ切れ、という記事がどうも頭に残っていた。ちょうど、鷲田清一の「しんがりの思想」という新書を読んでいるのだが、こういう態度は、人が社会サービスの消費者、顧客でしかなくなった時代が生み出したものという。驚くことに、このことは福沢諭吉の憂いでもあったという。 現代は便利な世の中になったものだが、便利の背後にある関係性を断ち切った時代でもある。関係性の背後にある価値を貨幣に置き換えたことにより、高度なサービスを享受できるようになったわけであるが、それはしあわせなことなのだろうか。恐らく、多くの人々がそんな社会に息苦しさを感じているに違いない。未来につながる底流を見逃してはならない。(2017年9月3日)

ビンタと少年の未来

日野皓正が指導する中学生ビックバンドの公演で、勝手な演奏をした少年にビンタしたというニュースが飛び込んできた。もちろん、どんな場合でも暴力はいけない、という主張は暴力による不幸が蔓延している今の時代においては否定できない。しかし、音楽を志す少年と師としての日野さんという関係性において、ビンタはバンドの調和を乱してしまった少年を救ったのではないだろうか。少年がドラマーとしての道を歩んでいくのならば、今回の件を乗り越えることで少年は大きく成長できるだろう。日野さんは恐らく何も弁解しないのではないかな。じっと少年を見守るに違いない。(2017年8月31日)

音楽の力

朝日朝刊の連載「てんでんこ」の新しいシリーズは「音楽の力」。福島にはずっと通っているが、自分のやっていることは役に立っているのか、不安に思いながら、音楽のイベントがあると、その力に圧倒されていた。阿武隈の里を追われた方々の辛苦は想像することしかできないのだが、辛苦の中にも人のつながりがあれば、開き直って、帰還の目的達成のためにがんばることもできるのだろうと思ったりもする。そんな時、音楽の力は絶大なのではないか。避難解除された地区に人は戻りつつあるが、ふるさとの自然、人の輪、暮らしを維持できる収入があれば、そこに加わる音楽は苦難を乗り越えて一歩を踏み出した後の満足と安らぎを与えてくれるに違いない。(2017年8月22日)

科学、社会、自然の分断

日本学術会議の第一部(人文社会系)の会員らが纏めた「科学不振の時代を問う−福島原発災害後の科学と社会−」を読んだ。科学と社会の関係につては同意できる記述がたくさんある。しかし、学術会議と政府の分断、科学者と市民の分断、科学者内部の分断、といったたくさんの"分断"が問題を複雑化しているように感じた。その原因のひとつは科学者の精神的態度にあろう。真理の探究を究極の目的とし(これは科学者として当然の態度ではあるが、結果として科学者の"世界"を狭くしている)、予算獲得実績と論文出版を評価の基準と考える精神的態度が社会との分断を生んでいるのではないか。といっても、これは理学系の場合で、工学系、人文社会系はまた別の観点があるだろう。科学と社会の分断の基底には近代文明社会の運営方法に関する考え方がある。文明の利器による高度管理型技術で社会を運営していくのか、それとも自然と共生する社会を目指すか。科学と自然の分断も考察に容れなければならない。ほとんどの科学者は都会人だろう。さらに問題の範囲を拡張すると、経済、すなわち貨幣の魅力、魔力も重要な観点となろう。科学、社会、経済、自然の複数の観点の融合をはかる必要がありそうだ。(2017年8月20日)

双方に理がある

トランプさんはまた物議を醸している様ですが、双方に非があるといわれても残るのは悔しさだけではないでしょうか。悔しさが憎しみに変わるとひとの心を蝕みます。ひとにはいろいろな事情、理由がある。双方に理もあるのです。どっちももっとも、と言って話を聞いて調整するリーダーシップが機能できれば良いのだが。(2017年8月17日)

軍事的安全保障研究のガイドライン

終戦記念日がすぎた。敗戦記念日だという方もいるが、72年前のあの時の人々の気持ちは"終わった"と"負けた"のどちらか、あるいは両方だったのだろう。まだ戦争の傷を背負っている方々はたくさんいるが、"終戦"という言葉は、これで戦を終いにするという日本の決意ととらえて良いのではないだろうか。日本学術会議は3月に「軍事的安全保障研究に関する声明」を出しましたが、各学協会は、それぞれの学術分野の性格に応じて、ガイドライン等を設定することも求められる、とされています。我が学会も検討を始めたところですが、なかなか進みません。別に格好のよいものを出さなくても、これで良いのではないかな。

戦争はしてはならない。 命は尊重しなければならない。 戦争を遂行するための研究はしてはならない。

これだけ。外形にこだわることはない。(2017年8月16日)

あんたには在る、おれたちには無い

「在るひとに、無いひとの気持ちはわからないよ」(朝日「折々のことば」、柳美里による高齢のホームレスの言葉)。私自身は誰が見ても「在るひと」だろう。阿武隈に通いながら常に自問自答してきた。どこまで避難している方々の気持ちがわかっているのだろうと。突然暮らしが壊されたひと、ふるさとを離れざるを得なかったひと、家族をばらばらにされたひと、荒れていく田畑を見ているだけしかできなかったひと、何とかしようと行動しているひと...。自分を同じ立場に置いて、感じることは容易にできることではない。最近、訪問の頻度が減っているが、とにかく通い続けること、その中で何かみつけたら話してみること、やってみること、それしかない。皆さん、わかってくれているから。(2017年8月15日)

体験しなければわからぬほど、お前は馬鹿か

朝日「天声人語」より。絵本により原爆を告発した故丸木俊さんの言葉として作家の林京子さんが記したもの。体験は人の"世界"を広げ、相互理解を作り出すことができる。しかし、"体験"を想像して、わがこと化することは現代人にとっては難しいことでもあろう。ただし、原爆ほどの災禍をわがこと化できないとしたら、この社会から分断されて生きているということの証にしかならない。自分の"世界"の外側を想像できること。これが相互理解への入り口であり、教育目標でもあるが、世の中は個人の分断化が進んでいる。どうすれば人の"世界"を交わらせることができるのか。(2017年8月9日)

博士人材「使えない」は本当か

朝日朝刊、「波聞風問」から。著者は企業に、博士人材の高度な専門知識を活かす経験、蓄積がないからではないか、という。大学の現場から見ると、確かに企業にとっては「使えない」博士の存在もあると思う。それは、知的好奇心の充足、真理の探求、ロマンといったものに最大限の価値を置く精神的態度によるものもある思う。私もそれはとても大切で、尊重すべきものだと思う。大学の研究者としてこれまで生きてくることができたことは、私にとって実に幸せなことだったと思う。しかし、幸せな研究者の立場は社会によって支えられているものである。そのことに気づき、社会の中で機能しながら、自分の研究をやらせて頂くという態度があれば、企業でも使える人材になるのではないかな。今、研究者は時代の変わり目にいるのだよ。(2017年8月8日)

八郎潟訪問

あの八郎潟のある大潟村を訪問した。歴史として知っていた干拓、入植とその後の農政、暮らしに関わる出来事を間近で感じることができた。ICTを活用する農業に関わる秋田県のコンソーシアムの会議に参加したのだが、我々の持つ技術と経験で農的世界を支援できたら本望である。ここには人の苦難の歴史があるのだが、食糧を扱う農的世界では、苦難には都会とは異なる側面があるのではないか。私は食糧難という言葉は都会の立場から発せられたものではないかと思っている。農的世界には経済指標には入ってこない自給経済や交換経済の存在があるからである。もちろん、各地からやってきた入植一代目の方々の御苦労は並大抵のものではなかっただろう。現在は2代目、3代目の時代。いろいろ課題もあるが、都会にはない豊かさを持つ世界を創り上げ、大切にしたいと思うのである。(2017年8月2日)

ふるさととは

避難解除された山木屋地区に泊まった。斜面の上に建つ山荘で、眼前には二本松の日山が見える(いつか登りたいと思うが)。山木屋の春夏秋冬はずっと見てきたが、この山荘で感じる季節の移ろいを想像すると、なんという豊かな情景だろうかと思う。山木屋地区では元の住人の約2割に相当する80戸、170〜180人が戻っているそうだ。苦難の6年を経て、ようやくふるさとに戻ったが、暮らしについてはまだまだ不安も大きいだろう。しかし、戻った人々の存在と、この景観は人に力を与えているのではないか。ふるさとを共有する人々と共に、そこに安住することこそ、しあわせというものではないか。都会では人と人の分断が進んでいる。都会にはふるさとはあるのだろうか、とふと思う。(2017年7月31日)

社会と割り切れなさ

津久井やまゆり園の事件は現実と理想の狭間でなんとも割り切れない思いを世間に与えている。確かに、今の社会は弱い人にとっては生き苦しい。しかし、"人は人を殺してはいけない"、"人の命は最大限に尊重すべきたいせつなもの"、という点は一点の曇りもない真理である。最首悟さんによると、「いまの日本社会の底には、生産能力のない者を社会の敵と見なす冷め切った風潮がある。この事件はその底流がボコッと現れたもの」(朝日、天声人語)。人と人が分断され、コミュニティーの力が弱まっている現状は日本人が望んでつくりあげてきた社会だろうか。新しいコミュニティー論、都市的世界と農村的社会の関係のあり方、といった論を展開し、次世代には新しい社会を引き継ぎたいものだと思う。(2017年7月26日)

経営の目的とは

朝日「経済気象台」より。昨今の大企業の業績悪化を巡って、著者は根源的な問題を指摘している。会社の財産である社員は何のために働くのか。会社は何のために存在するのか。会社は、地域や社会にとってどういう存在であるべきか。著者の考え方は、社員が充実した人生を過ごすことで幸せを感じ、お客様や地域社会に貢献すること。社員の成長は会社の発展であり、社会に対する貢献である。こういう文章に出会うと、つい会社を大学に読み替えたくなる。社員は教員や学生とするとすんなり意味が通ってしまう。大学の目的がどうも社会から乖離してしまっているように感じる。 (2017年7月26日)

地域の人

太田勲さんは82歳の青年、100歳になっても青年のままでいてほしい。と、6月25日に書いたのだが、永遠の青年になってしまった。突然の訃報に戸惑っている。太田さんの生き様からはたくさんのことを学んだと思う。"理想を失うとき、人は老いる"、というサミエル・ウルマンの言葉は最たるもの。最近は心の壁に突き当たって、理想が揺らぐこともあるのだが、太田さんの生き様を心に刻んでこれからもやっていきたいと思う。太田さんは地域の人だったと思う。自分の前にある問題に誠実に取り組み、みんなを巻き込みながら突き進んできた。地域が良くなれば、地域の集合体であるより大きな地域、そして世界が良くなる。そんな生き方を貫こうと思う。(2017年7月25日)

教育系大学の本分ー研究者の本分

朝日朝刊の私の視点欄より。群馬大名誉教授森部さんの意見。教師の本分とは何か。実践的指導力は現場が求めている力だろうが、教育の歴史、思想、原理に関する科目が軽んじられているのではないか。同じことは研究者についてもえる。自然を対象とする研究者が、目の前にある自然をどのように理解するのか、ということは見えている現象の原理だけではなく、それが形成された歴史を知らなければ、なぜそこにあるのかはわからない、何を見ているのか、ということ自体すでに思想の領域にあるのではないか。思想がなければ見ていても見えていないものがある。環境の研究者であれば様々な思想を包括的に理解する力を持たなければ人と自然の関係性の問題点は見えてこない。大学では論文生産技術が偏重され、学問の根本が失われつつある。大学では研究史、科学思想、を学ぶ機会は決して多くない。もちろん、書籍としてはたくさんあるのだが、学生がそこまでたどり着かない。学生を導き、伝える努力をしないと、日本の大学の品格は取り戻せないのではないか。(2017年7月13日)

人は見た目が何%−その3

朝日朝刊。昨日に引き続き、表記の記事がありました。見た目がこれだけ問題になるのは、日本の社会全体で人を評価する力が落ちているから。また、評価に時間をかけられなくなっているから。さらに、評価者が優秀病にかかっているから。理由は明白であるのだが、ではどうすれば良いか。社会システム全体の構造の問題であるので、一部を取り出した改革では効果は期待できない。まず、総合力というものについて議論を深めて行く、ここから始めるしかないかな。(2017年7月10日)

人は見た目が何%−その2

朝日朝刊から。2日にも取り上げましたが、これはシリーズものでした。私なりに結論を言うと、「人は見た目ではない」となる。ただし、見た目が良いとチャンスを得る確率が高まるのは事実。社会がもっと人の中身を評価する力を持つべきだが、いずれ何とかしたい。評価される人にできることは「誠実であること」と「実力を付けること」であり、後は運を天に任せる。というのは理想的ではあるが、現実には見た目で苦しむ人もいる。最近、カーペンターズを再評価してる。楽譜を手に入れたということであるが(江部健一のアレンジは好み)、改めてYouTubeで見ると故カレン・カーペンターの美しいこと、そしてドラム演奏のかっこいいこと、この上ない。でも、カレンが病気になったのは体型に対するコンプレックスがあったからという。世界が認めているのに、本人は苦しんでいた。おそらく励ましの言葉はたくさん受けとったとは思うのだが、乗り越えられなかった。私も歳をとり、自分が評価されながらも、人を評価する仕事も増えてきた。人を正当に評価する力を持ちたいと思うのだが、人が苦しむのは都市的世界で多様な生き方が選択しにくくなっていることも大きな要因である。ここを変えていくことに微力を注ぎたいと思う。(2017年7月9日)

いきちがい

サンジャポは見始めると、なかなかやめられなくなる。やることあるのに。松居一代さんと船越英一郎さんの話題は、おもしろおかしく見させて頂きながら、日本の平和をしみじみかみしめているところです。私が思うに妻が夫に尽くすということはしばしば支配ということを含む。それを夫はうるさく感じる。ただそれだけ。ただそれだけなのが夫婦というもの。日本がそれなりに豊かで平和であることを日本国民は実感してください。シリアやイラクではこんなことはあるだろうか。かの地では家族が生き残り、平和な暮らしを取り戻すという目的の達成を夫婦、家族が共有しているだろう。そこにあるのは絆である。勝手な想像ですが、ご容赦ください。(2017年7月9日)

未来予測に関する同床異夢

7月4日に環境問題を考えることの背景には"技術との付き合い方、市場経済社会の在り方を問い直す"と書きました。また、7月2日には地球環境の未来予測に関する記述をしました。未来予測が生き様を変える手段になるか、という問いについて考え続けていると現代の同床異夢の状況が見えてきたように思います。地球環境の未来予測を行っている方々にとって重要なことは、現在の都市文明をいかに維持するか、という考え方があるのではないか。その背後には狭い“世界(関係性を持ち、その人の考え方を形成する範囲)”がある。一方、生き様を変えようと考えている方々は、既に十分見えている近代文明社会の矛盾を受け止め、そのあり方について問いかけ、新しい社会の構築を目指しているのではないか。背後には包摂的な“世界”がある。そもそも未来は予測以前に予見できる。物理的な予測にこだわる方々は、未来を予見する経験的な力が失われているのではないだろうか。微分方程式に頼らずとも、物理が分かっていれば未来の(物理的な)方向性は予見できるのである。後は、我々がどういう社会を創りたいのか、そのためには今どうすればよいのか、という観点が重要になってくる。 (2017年7月8日)

二十一世紀の環境問題

先日、上智の岩崎さんから頂いた校正刷の原稿を読んでいて、ひとつ腑に落ちました。砂漠のオアシスからグローバルイシューである「水」について論じた文章である。環境問題について考えることの背後には、"技術との付き合い方、市場経済社会の在り方を問い直す"という思考がある、と述べている。現場には具体的な問題があるのだが、それを考えることの先には人類全体の問題がある。環境問題には階層性がある。その一方の端に、人の苦しみがあり、もう一方の端には我々が暮らす文明社会の在り方、我々と文明との関わり方、に関する問題がある。公害も含む環境問題は個々の地域における暮らしの危機から始まるが、それが集まると、解くべき問題はより上位の課題へと変質していくのだ。二十世紀という人類史上希有の時代を経験した後の現在、文明自体の在り方を強く問いかける時代が来ているということだ。原子力災害には長く関わることになったが、暮らしレベルでは様々な考え方が錯綜し、なかなか前に進むことができない場合もある。しかし、文明レベルで考えると、それぞれの考え方の違い、共通性がはっきりしてくる。そして大きなフレームの中に位置づけることができる。研究者の間の議論でも、文明論に言及すると一気に退かれてしまうことが多いのだが(理系の研究者の場合)、きちんと議論できるリテラシーが環境研究者には必要である。それこそ、グローバルの考え方である。(2017年7月4日)

逆もまた真なり

通勤途中で聞いてるラジオでこんなことを聞いた。

男は結婚して女の賢さを知る。女は結婚して男の愚かさを知る。

いや、まったくその通り、と思わず相づちを打ってしまうのだが、ちょっと待てよ。

女は結婚して男の賢さを知る。男は結婚して女の愚かさを知る。

これもあり得そうなことで、何の違和感もない。組み合わせは4通りあり、どれにも物語がありそうである。要はステレオタイプに惑わされちゃいけないよ、ということ。ただし、居酒屋のつまみ話としては最高だね。(2017年7月4日)

人は予測が好き?

藤井四段と佐々木五段の勝負は注目の一戦であったが、ある番組ではAIに戦況を予測させながら、中継していた。それも一興であるが、人間対人間の勝負であり、何が起こるかわからないところがまたドラマなのではないかな。将棋の勝負も人はAIにはかなわなくなるだろうが、人にとっては勝負の結果だけが大切なのではない。対戦者の生き様がまた人に感動を与えるのだよ。人にとって予測とは何なのだろうか。それは、@楽しみ、A金儲け、B生き様を変える手段、になろうか。将棋の観戦は@であり、株の売買はAであろう。競馬や競輪は@+Aだろうか。@では結果だけでなく、過程も楽しみなのであるが、Aでは結果がすべてである。では、Bはどうだろう。地球環境の未来予測はBかも知れない。しかし、予測できなければ人間社会の未来は設計できないとしたら、人間は賢い愚か者ではないか。予測にはいろいろあるが、予測に頼りすぎないことが大切。(2017年7月2日)

人は見た目が何%

朝日朝刊、オピニオン欄から。これはいつまでたっても繰り返される難問ですな。いろいろな意見がありますが、人は見た目ではなく、実力だ、というのは正論である。しかし、認めてもらうためには実力を示さなければならない。その機会が得られなければ、見た目ということになってしまう。ずっと学生の就活を見ているが、学生には大きく分けて3タイプがある。@社会性を身に付けている学生、A見た目が良い学生、B社会性を身に付けていない学生。Aの見た目には"口がうまい"、ということも含まれている。@の学生は問題なく就職を決めることができる(厳しい不況の時代があったことも忘れてはならない)。Aの学生は、社会性を身に付けていなくても、今だったら高い確率で就職を決めることができる。そういう状況が最近は確実にある。教員にとってありがたいことではあるのだが、人事評価は本当に難しいものだと思う。会社に入ってから社会性を身に付けることもできるだろうが、それでは千葉大学の格を貶めることにもなりかねない。大学教員としてはそれに甘んじることはできないのだが、対学生では教員は弱い存在である。見た目は重要ではあるが、評価者だったら、その背後にある誠実、不誠実を見抜く力を持たなければならないと思うよ。学生には、まず誠実であること、を伝えたい。実力は後からつけることもできる。Bの学生に対しては、大学は機能を発揮しなければならないのだが。(2017年7月2日)

大学生は子ども?

理学部後援会で学生の親御さんとの懇談会がありました。親の名札には"保護者"とある。成人した学生ならば"扶養者"となるのだろうか。対話の中では"こども"という表現も。親が使うならば"娘、息子"という意味だが、教員が使うと、意味が変わってくる。大学生は大人として扱いたい。とはいえ、成人しても成熟していない学生がいることも確か。大人として扱っても、何も返ってこない場合も多い。社会性は就職してから身に付けることなのだろうか。学生でいる間に身に付けておけば、未来が変わってくる。どういう教育をしたらよいか。集団指導体制がひとつの方法であるが、うちの領域は研究室単位。そこで、研究コミュニティーの中で、協働するという体制をとっているのだが、コミュニティーの存在さえ意識できない学生が現れてきた。千葉大学は文科省に研究大学として認められたと浮かれている場合ではなく、教育を組織的に考えないと、大学として衰退の道を歩むことになりかねないよ。(2017年7月1日)

課題の階層性と科学者の対応

朝日朝刊から。元原子力規制委員会委員長代理の島崎邦彦先生がこんなことを書いていました。

「研究者が本当に世の役に立ちたいなら、政府の委員会で専門知識を役立てようとするのではなく、外からウォッチし、科学的におかしければ、しっかり声をあげていくことです」

そんなことはなく、政府や行政の委員会でしっかり発言し、専門知識を活かしていくことが基本だと思います。それで駄目だった場合には外からしっかり声をあげていく必要があるわけです。現実の研究者の世界では、英語の論文を書き、予算をたくさんとってくることが上からの評価の基準となっており、ほとんどの研究者の精神はこのガバメントに支配されてしまっている。現役の研究者には暮らしもあるので、問題を意識して、声を上げるのはそう簡単なことではないのだろう。また、外から声をあげても、それを政策に結びつけるのは容易なことではない。一時溜飲を下げるだけの場合がほとんどであるが、声を上げること自体は大切なことであり、それを継続することが大切なのである。本来、政府や行政は対立すべきものではなく、協働して、課題解決に取り組むものである。我々が意識すべきは、解くべき課題には階層性があるということ。近代文明のあり方、国の将来、社会の品格、といった根本的課題に対しては、継続して声を上げ続けなければならない。島崎先生のいう原子力はそういう課題である。政府の委員会に入り、機能することも重要であり、同時に、原子力と近代文明社会の維持可能性に関する基本的考え方の構築が必要な課題である。要は、研究者は地位、名誉を追いかけることにより、縦のヒエラルキーの支配を受けて、小さくまとまってしまうのではなく、解くべき課題の階層性を意識し、トップレベルの課題には声を出し続け、目の前にある課題に対しては様々なステークホルダーと協働して、解決のために自らの知識、経験を使うことが大切なのだと思う。科学者ならば。(2017年7月1日)


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