口は禍の門

今年に入り、自分の歳を意識し始めてから、身体も心も老け込んでいくような気がしていました。そんな中、太田さんの言葉から元気を頂きました(6月25日参照)。私も頑なに理想を追い続けていこうと思います。大学人ですから。(2017年6月30日)

新年度が始まりました。自分の歳を意識すると、一気に老け込んでしまいますが、定年まで残された5年少々を有意義に過ごしたい。私は地理学が専門であり、それは関係性探求型科学です。この科学は歳を経るごとに自分が関係性を持つ範囲が拡大していくという特徴を持っています。だから、研究課題も時間とともに変わってきます。特に、環境、人と自然の関係性を扱う科学はそうです。しかし、研究者として重要だと考えることが、組織の方向性と交わらなくなってくることが最大の問題です。この組織って奴は人の考え方のごく一部を代表しているに過ぎないのに、あたかもそれが真理であるかのように振る舞い、人を統治したがるという特徴を持っています。わがままに生きるか、組織の意向に寄り添うか、実に悩ましい問題ですが、研究者である以上、答えは決まっているわけです。(2017年4月1日)

2017年が始まりました。今年は私は59歳になりますが、同級生は還暦を迎える年(私が早生まれのため)。50歳を超えた人生は与生、すなわち科学技術や医療の発達によって与えられた生だと考えてきましたが、いよいよ余生の期間に入ります。とはいえ、定年は65歳ですので、まだまだ働かなければなりません。大学人として何を為すべきか。縦のヒエラルキーの中で、上を気にして生きるべきか。人のやらないこと、人としてやるべきこと、に挑戦すべきか。答えは決まっているのですが、組織の中でわがままにならないようにすることは大変なことです。 (2017年1月1日)

2016年12月までの書き込み


病気と個性

出勤前のあわただしい中、テレビを見ていると「大人の発達障害」に関する番組をやっていた。「これは俺のことじゃん」、といったらかみさんが「そうよ、あなたはみんなに我慢してもらって生きているのよ」と。そうか、そこで私はみんなに感謝しながら生きていこうと思うわけです。ふと思う。昔、都市だったら100年くらい前、農村だったら50年くらい前までの社会では「大人の発達障害」は「個性」だったのではないか。職人が元気だった時代、百姓(百の技能を持つ職業人)が安心して暮らせた時代。現代の社会のあり方が新たな病気を生み出したとはいえないだろうか。背景にあるのは、競争社会、評価社会、たくさんの“何とか”社会。息苦しい社会である。こんな社会の精神もいずれ変わっていくもの。主張しながら、寝て待つのが一番(これは勝海舟の言葉)。(2017年6月28日)

学問における研究分野間のバランス

研究室内で考え方を共有するために、23日にGLP小委員会で行ったプレゼンを学生有志、若手教員にも聞いて頂いた。印旛沼研究の部分は良いのだが、日本あるいは世界の閉鎖性水域・流域における研究成果を包摂し、より上位の課題へ移行していく、という部分は重すぎるという意見があった。若者は論文を量産させなければならないため、シャープな研究領域に留まることが有利になるので、重いという意見はよくわかる。しかし、将来、分野間の競争をやらなければならない立場になったときに、研究目的の階層性や社会と研究者の関係、といった重い課題を意識する必要があることに気が付くだろう。とはいえ、実際に社会との関係性の中で自らの分野を位置づけている研究者がどれだけいるかは心許ないものがある。学問には花形分野があるが、競争社会、評価社会の中で力を付けると、だんだん、その分野が重要ということになったかどうか、優秀ということになったかどうか、という議論に入り込むようになる。外形的なものを重視する社会的背景により、花形分野はますます力を付けていく。その結果、学問における研究分野間のバランスが悪くなっているように思える。真理の探求は重要であるが、その先にあるのは何か。研究者のパトロンは誰か、何か。パトロンに対してどのように責任を果たすのか。そういう議論が少しずつ表に出てきているように思える。時代は変わりつつあるか。(2017年6月27日)

理想を失う時、人は老いる

今日は久々の梅雨空の日曜日。家でまったり読書を決め込む。まず、印旛沼を巡る活動では大変お世話になっている臼井の太田勲さんから先日頂いた「よみがえる大地をふたたびに」を読む(自費出版なので非売品です)。その序文にあるのがサミエル・ウルマンの表記の言葉。太田さんは82歳の青年である。100歳になっても青年のままでいてほしい。私も身体はガタガタだが、理想は堅持していきたい。さて、小冊子の内容は太田さんが関わってきた京成臼井駅周辺の街づくりの歴史である。ミクロな土地利用変化研究ともいえる。土地利用変化は地域ごとに固有の関係性の歴史を持つのだな、ということがよくわかる。この関係性を理解しなければ土地利用変化研究は大成しないのではないか。一方、マクロな土地利用研究も考えられる。ここで土地利用変化を引き起こす普遍的なドライバーがあると考えても、それは土地利用変化の一側面を説明するにすぎない。IGBP/IHDPの共同プロジェクトであるLUCCがうまくいかなかったのはまさに普遍性を追求し、土地利用変化をモデルで理解しようとしたからではないか。臼井の例からそんなことを考えた。土地利用変化の陰には人が理想を追求した歴史が隠されている。(2017年6月25日)

GLP小委員会における提案概説

学術会議のGLP(GLOBAL LAND PROJECT)小委員会で研究提案を行った。その課題は「閉鎖性水域の水環境問題(仮)−地域環境問題を地球的課題へつなげる考え方−」。印旛沼とその流域における水環境に関する課題であるが、この課題は窒素・リン循環と関連する。Stefan et al.(2015)あるいはRockstom(2009)の有名なダイヤグラムによってもその重要性が指摘されている。そして、彼らが言うところの Planetary boundariesを構成する control variables(複数形です) が流域における水・物質循環を通して連関するということがまた重要な観点である。だから、この課題は Interdisciplinarity による協働プロジェクトとして立案することができる。さらに、流域の中には同じ“目的の実現を共有する”、市民を含む様々なStakeholdersが活躍している。Transdisciplinarityの実現への道も開ける。ただし、印旛沼流域を対象とすることで地域研究、事例研究ではないか、という批判も想定できる。そこで、他の閉鎖性水域とその流域における方法論と研究成果を共有する。すると、解くべき課題はより上位の課題、例えば、近代文明のあり方、といった課題に変質していくのである。この考え方、方法論についてはGLP小委員会の中でも共感を得ることはできたと思う。具体的な行動を開始しなければならない段階に入ってきた。(2017年6月23日)

課題の設定

千葉大学のフューチャー・アースに関する議論では、解くべき具体的課題を明示せずに、理念的な議論が進行してしまうという傾向がある。推進者が考える課題は国際的枠組みにおける“炭素の排出”問題ではないか。だからリモートセンシングで温室効果ガスの観測を行い、その成果を各国にお渡しし、日本が削減に対する技術的な支援をしていこう、というストーリーになるわけである。その場合のステークホルダーは国である。しかし、このことはメンバー間で共有されているわけではない。具体的なステークホルダーを特定し、人の暮らしに関わる課題を想定しているメンバーもいるのである。まず課題設定を行わなければならないが、なかなかこの流れにならないのは、普遍性に関する認識の違いがある。普遍的な方法があり、それを見つければ、どこでも課題が解決できるという考え方である。しかし、課題は地域の特徴によって発現のあり方が変わる。だから地域を理解する地域研究こそ、課題解決型研究の真骨頂であり、個別の課題に入り込むことに躊躇してはいけないと思う。だから議論の最後には“食と健康”(千葉大FEの提案課題)に戻っていくのは自然な流れである。(2017年6月22日)

ローカルとグローバル再考

今日の千葉大学フューチャー・アース会議で、「事例研究(ローカル)を100集めても、グローバルにはならない」という発言があった。この考え方を正当化する背景には、“ある普遍的な法則でドライブされるグローバルという実体がある”、という考え方がある。また、“ローカルからグローバルのスケール間で同じ解くべき課題が設定できる”、という考え方があるようにも思う。私は、グローバルはフレームであり、フレームの中にローカルを配置し、その関係性を検討することにより、解くべき課題はより上位の課題に変質する、という考え方をもっている。まず、現実を直視し、解くべき課題を明らかにすること。その課題に関する事例を100も集めることができたら、それぞれの地域の共通性や相違について検討することにより、課題解決の経験や方法の適用性に関する知識を共有することができる。その検討には、物理的リンクだけでなく、経済的、政治的、文化的、宗教的リンクも考慮しなければならない(リンクの用法は鬼頭先生の著作から)。なぜなら、個々の地域をつなぎ、世界を構成しているものは関係性だから。様々な地域の検討を行い、地域間のリンクができると、解くべき課題はより上位の課題に移行し、世界のしあわせについて考えることができる。さて、二つの考え方はどちらも尊重しなければならない考え方であるが、世界のしあわせに近いのはどちらか。(2017年6月22日)

道徳一元主義と道徳多元主義

鬼頭先生の著作から、これも備忘録として残しておかなければならないだろう。道徳一元主義とは「ある特定の倫理的原理が広い射程の含意を持ってどんな場合でも普遍的に適用され、その結果、唯一の答えしか存在しないような倫理のあり方」であり、その考え方を排する形で「道徳多元主義」が対置される(ストーン、1990)。このことは普遍性絶対主義と個別性尊重主義と言い換えることもできるのではないだろうか。環境問題を普遍的な方法で解くというのではなく、様々な個別性に対応して、まずは理解し、そして解こうとする態度である。環境問題が地球環境問題であるとしても、問題は地域における人と自然の関係性に関わる問題として出現するという立場をとれば、すんなり理解できる考え方である。(2017年6月18日)

地球全体主義

前掲の「自然保護を問いなおす」(鬼頭秀一著)の中で、この言葉を知った。地球全体主義とは「地球全体のために個人あるいはもっと大きな社会的構成体の欲望や自由をある程度制限することを場合によっては認める議論」とのことで、少し過激な部分もあるが、これは地球環境研究における主流ともいえる”グローバル主義”(私の造語であるが)とも少し通じるところがあるように思う。それは、次のような記述による。

...地球全体主義が、人間対地球という対立図式の延長線上で作られた主張であるということである。まるで、人間から離れた地球が存在してそれに対して人間が向き合って、どっちを優先するかと主張しているような構造になっている。

この考え方の中では人と地球あるいは自然の関係性は希薄である。グローバルに対して地域が向き合っているという図式にも通じる。「この議論は、古典的といえる、西欧の近代主義的な人間観を前提としている」(鬼頭先生の記述)。さらに鬼頭は述べる。

自然とのかかわりのあり方が、国において、また地域において異なることは留意する必要があり、一元的な形で、「地球全体主義」か否かという議論を立てることははなはだ無理がある。

人の暮らしは地域にあり、地域をつなぐ関係性によって、世界(グローバル)が構成されていると私は考える。それによって、どうすれば良いか、という方向性が見えてくる。(2017年6月18日)

複雑なものは複雑なものとしてみること

これは2010年6月30日の本欄のタイトルである。なぜ再掲したかというと、「自然保護を問いなおす−環境倫理とネットワーク」(鬼頭秀一著)の中で次の文章に出会ったから。

「・・・わたしたちにとって必要なことは、(自然と)人間とのかかわりあいのあり方に関して、複雑で多様なものをそのままの形でとらえ、それに対してメスを入れて深く探求することである」

複雑なものをそのまま受け入れることは私が環境をみるときの基本的な姿勢であり、地理学の考え方の基本であると思っている。鬼頭先生は有名な環境社会学者であるが、これは社会学の考え方でもあるだろう。社会学が現実に深く切り込む学問であることから、すんなりと理解できることである。一方、現実を見ずに、未来ばかりを語る科学者たちは、世界の複雑性をどのように捉えているのだろうか。普遍性の陰で切り捨てられた現実は、人の心、生き様、歴史、文化、伝統、...でもあり、人は地域の人として世界の一部を構成している。(2017年6月11日)

入試説明会を終えて

どうなることかと思ったが、なかなか良い入試説明会だった。学生は10名の参加であったが、いやもう十分である。他大学からは3名、これは実にありがたいことである。説明会で我々にとってもよかったのは、他の研究室のやっていることを知ることができたこと。昨今の社会の雰囲気の中で、同じ組織であっても研究者ごとの交流が少なくなっている。関係性がなくなると、相手との関係は否定側によることになる。人が否定と尊重の間を揺れ動くのは業であり、性である。しかし、尊重が安心を得る糧であることはわかっている。だから人は幸せを求めてコミュニティーを大切にするようになる。最近のコミュニティー論、幸福研究の成果はこのことを主張している。入試説明会から考えすぎだが、充実感が得られた会であった。(2017年6月10日)

学生に何を伝えるか

明日は、融合理工学府・地球環境科学専攻・リモートセンシングコースの発足後初の入試説明会ですが、ようやく準備が終わったところ。事前の広報に時間をかけていないので、何人きてくれるか不安ですが、何より、我々が何を学生に伝えたいか、という理念を示したい。何をお堅いことをおっしゃる、学生はお客様で、来ていただくためのCMに徹すればよいのだ、という考え方もあるでしょうが、それでは学生も大学も幸せにならず、滅びへの道を歩むことになりましょう。私は環境の本質を理解する総合力を伝えたい。その道具の一部としてリモートセンシングを役にたてたい。研究者が論文さえ書いていれば、自分ではない、だれかが、社会のために役立ててくれる、なんていう極楽とんぼの精神は伝えてはいかん。社会で起きていることの真実を見つめてほしい。いろいろな出来事が、専門家不在のまま進行している。問題解決に科学の成果を取り込むこと、同時に、狭義の科学の成果だけでは諒解が得られないことも理解し、包摂的な立場から、社会の中で合意を形成するために機能すること。こんな専門家を育てたい。(2017年6月9日)

評価する力

歳をとると評価に関わる仕事が増えてくる。評価の仕事で苦しみながら、自分も評価される。なんとも、おかしな状況である。評価する力とは何だろうか。他人の仕事の評価は、よっぽど専門性が近い場合を除いてそう簡単にできるものではない。ところが、評価者は自分が優秀であるということを担保しなければならないので、そんなことはいえないのである。実際に評価資料を読んで、内容を(自分の専門とは異なる)分野の世界のスタンダードの中に位置づけ、どの位置にあるか“評価”する、なんてできないし、やってしまったら無責任ということにもなる。評価という仕事は、研究者や大学人の“優秀病”を悪化させる麻薬みたいなものではないかな。評価は評価者自身が優秀ということになったかどうか、という論理を構成する仕事にもなっている。それよりも、学術や社会全体を俯瞰し、“包摂的”な立場から、その組織や、人間社会の方向性に関する考え方を明確にして、その観点で評価する、なんてできないだろうか。もちろん、きちんとした評価がなされている場はありますが、縦のヒエラルキーの中の評価はいろいろストレスフルなことも多いのです。(2017年6月8日)

社員教育と大学教育

今日の経済気象台(朝日)は大学教員として、耳が痛い。会社に学生を採用していただくことはありがたいのだが、「入社した後、社員教育が大変だ」という声をよく聞くようになったという。私もさもありなんと思う。大学は教育機関として機能しているのか、という社会からの批判の声が聞こえてきそうである。著者の遠雷さんも大学教員のようであるが、大学、そして日本の社会に対する危機を感じている大学教員は確実に増えている。一方で、大学を含む縦のヒエラルキーでは、上位にいる方々の幸せのために、下位のものがあくせく動くという構図はなかなか変わらない。しかし、昨今は上位の権威を危うくする出来事も多い。教育も大きな歪みをためつつある。教育を巡るセクターは大きな変革期を向かえるための圧力をためつつあるのではないか。大学もきちんと教育の機能を果たす仕組み、それは社会の諒解でもあるが、それを作り上げる雰囲気を醸成しなければいかんな、と思う。(2017年6月7日)

意味世界

新本はアマゾンではなくHonyaClubで購入する事にした。がんばれ、日本。最近何冊か購入したうちの一冊、「人びとの自然再生」(宮内泰介著)の中に「意味世界」という言葉が出てくる。「意味世界」とは、「人が、自分を取りまく世界について、こうなっている、あるいはこうあるべきだ、と解釈しているその体系」。そうすると「意味世界」は人によって違ってくる。この「意味世界」は私が“世界”と呼んでいるものと、ほぼ同じと考えて良いだろう(人が関係性を持って、その人の“体系”を作り出している範囲が“世界”だから)。社会学では、決められた枠組み、すなわち、自分の「意味世界」で物事を見るのではなく、現場の人びとの「意味世界」から何かをみよう、考えようという姿勢が、社会学的感受性の第一という(第二、第三もあるがここでは省略)。この本に書かれていることは、みなフューチャー・アース(FE)の課題であり、超学際の実践例そのものだと思うが、研究プログラムとしてのFEでは(理系の研究者による)議論のなかで人の「意味世界の違い」は省みられることはないように思える。この本の文章に中にあるフレーズをひくと、「グローバルな価値(これもひとつの「意味世界」)がトップダウンで降ってくるのではない」のである。こんなことは“理系の研究者”は思いもしないのかも知れない。宮内さんは著名な環境社会学者であるが、FEと環境社会学の対話がどうしても必要だとますます思う。(2017年6月4日)

整理整頓

これも「折々のことば(鷲田清一)」から。「大人が介入すると、整理整頓されちゃうんで。その場を取り繕って、綺麗におさめようとするから」(水橋文美江さんの“教育”を巡る脚本)。この“大人”は、地球環境問題を巡る科学者のようである。地球環境問題を整理整頓して、綺麗に纏め、問題を解決したような気になってしまう。整理整頓は始まりであって、おさめてしまっては幸せになるのは科学者だけなのだが。整理整頓の過程で捨てられてしまったものの中に、大切なものがあったかも知れない。(2017年6月4日)

なぜ生きてるかって、さあねー

ああ、これはいいね。スッと心に入ってくる。朝日、「折々のことば」にあった韓国の詩人のことば。“人は生きる理由や意味を求めずにいられないが、安らぎはむしろ理由や意味への問いから下りることで得られる?”。疑問符がついているが、得られるのだと思う。ただし、我々は貨幣経済、競争社会の中で生きていかなければならず、怒り、憎しみ、妬みといった感情も備わっている。そのために問いに対する答え、それは諒解なのだが、それがなかなか得られずに苦しむ。生きる理由や意味を考えることは、この社会をいい方向に変えていきたいという想いでもある。その想いは、もともと人のDNAに組み込まれているのではないか。だから生きることの意味に対する問いかけを続けながら、苦しみ続ける。(2017年6月3日)

専門力と総合力

ある技術者集団の講習会で話をした。夜はお楽しみであるが、こういう場は現場の真実に関する話を聞くことができるので、大学人としては非常に為になる場である。今、巷を騒がしているあの件も、どうやら発注者側の役職のローテーションによる専門性の不足と、引継の機能不全あたりに原因の一端がありそうだ。発注者にとって必要なのは専門力と総合力であるが、どちらも失われている(これは日本社会の問題でもある)。そこで必要になってくるのが専門家集団として事業を総合的に監視できるコンサルタント業であるが、それを排除してしまったことが問題の根底にあるのかなと忖度する(酒の場とはいえ、ダイレクトには言えないことですので)。大きな事業の推進において、一つの役職が専門力と総合力を双方兼ね備えることは難しいことかも知れない。そこで、行政では学識経験者、コンサルタントを加えて、三者の協働により事業を進めているわけだ。コンサルタントは縁の下で事業を支え、表には出てこないが、技術者として誇りを持ち、社会を支えている大切な人々なのですよ。学生に伝えたいことの一つです。(2017年6月1日)

説明と説得

朝日、天声人語より。説明は「だれかの頭の中にまったく新しいアイデアを積み上げること」。説得は「相手のアイデアを壊すところから始めなけれなならない」(クリス・アンダーソン、「TED TALKS」)。もっともかもしれないが、説得では“壊す”前にやることがある。相手の“世界”を理解し、自分の“世界”と交わらせること。相手の考え方の背後にある事情の理解に努め、自分の立場との相違点と共通点を認識することから始める。相手のアイデアを尊重し、対話することが本当は先にある。相手の“世界”を知って、“壊す”戦略をたてるという考え方もあるかも知れないが、そういう考え方は、その先にある社会のあり方を想像してほしいと思う。(2017年5月29日)

音楽の力

とうとう手に入れた。Furch G23-CRCT、チェコ製のギターです。生音がすばらしい。本来は還暦記念に新しいギターを購入する予定でしたが、現物に触れてしまったので、前倒しできていただくことにしました。500円玉貯金を始めたのは何年前だったろうか。歳を刻んだということでもあります。実はFurchのギターはずっとチェックしていたのですが、ローズウッドの流通がワシントン条約で規制されるようになったとのことで、うまい理由を付けて購入してしまいました。演奏は自己流で、うまいわけでもないのですが、音楽から得られる癒しの力は絶大だと思います。福島で何とかしたいと右往左往しているときにも、音楽の力にはかなわないと思った。人生において、この世界において、音楽の力は偉大だと思っています。(2017年5月28日)

冬の思考、夏の思考

テレビでバイキングの話を聞いて、ふと思った。“森林の思考、砂漠の思考”はよく引用させて頂いているが(鈴木秀夫、NHKブックス)、“冬の思考、夏の思考”というのもありではないか。食べるものがなくなる冬と、食べものに困らない夏があり、それが一年周期で繰り返す高緯度地域と、常夏の低緯度地域。高緯度地域では夏の間の働きで、来年の生存が決まる。場合によっては人の食料を奪わなければ生きられない。そんな状況の違いが、人の考え方を変えるのかもしれない。高温と低温、湿潤と乾燥、森林と砂漠、季節変化。人の生き様の違いをもたらす要因は多元的に考える必要がある。(2017年5月27日)

フューチャー・アースと環境社会学の関係は?

雑用(実は雑用ではないのだが、研究以外の仕事)を片付けに出勤しているが、土曜はなかなかエンジンがかからない。そこで、未読の雑誌や切り抜きを読み始めたが、同時にWEB検索を進める中で、故飯島伸子先生の文章に出会った。塩化ビニル環境対策協議会のホームページから、1997年掲載の「環境社会学とは?−研究室から現場へ『行動する社会学』の役割−」。

環境社会学の最大の特徴は「行動する学問」であるということです。これまでの社会学では、『対象と関わることなくニュートラルであれ』、つまり『傍観者であれ』ということが研究上の基本的な姿勢とされがちでした。私も学生時代にはこの考え方を教え込まれたものですが、環境問題を含んだ社会問題は、『ニュートラルな第三者』ではとても研究し切れません。感情的にのめり込む寸前まで対象に肉迫しないと、本当の意味での環境社会学の研究はできないのです。

これはステークホルダーと協働するフューチャー・アース(FE)・サイエンティストが持たなければいけない基本的姿勢だと思います(注:これは20年前の文章です)。科学的合理性だけを提示して、後は社会に丸投げするだけの傍観者ではFEを担うことはできない。そして、FEはSolution-oriented Scienceであるはずであるが、環境社会学ではこう述べている。

・・・、私たちはある社会的現象を分析して提示するだけでなく、そこに問題がある場合「どうやれば解決できるのか」という解決策までも提示すべきであると考えるからです。

環境社会学では「・・・住民は地域の事情や人間関係から正面きって反対できない、問題があるにもかかわらず先に進めない。・・・」、そんな問題に対する解決策を考える。ならば、理系の科学は、科学的合理性をもって、環境社会学と協働することにより、解決(諒解)に近づくことができるのではないか(現実の問題では科学的合理性が用を為さない場合も多いのですが)。

これは従来の社会学からすると限りなく逸脱した行為と言えます。つまり、従来の社会学が『研究室の中から腕組みして対象を観察し、分析結果をお説教する学問』だとすれば、環境社会学は自ら現場に出て行き、現場から実証的なデータを積み上げ、ときには住民の人々と一緒に考えたりしながら、それらを総合的に分析・研究することで問題の解決法を考える学問だと思います。

社会学は一歩踏み出して環境社会学になった。では、理系の科学は“お説教学”から抜け出すことができるのだろうか。そこには自然観、社会観の変革が壁として理系の科学の前に立ちはだかっている。

では、環境社会学は環境問題にどう切り込んでいけばよいのでしょうか。私はそのヒントを「細部にさえも神は宿る」というヨーロッパの古い格言に求めたいと思います。つまり、日常的な細部から全体を見通す姿勢、いきなり地球環境問題を扱うのでなく、地域や現場から積み上げたデータを通して地球環境を見つめていくことが大切だということです。

これは地理学の世界観と共通であるので、私自身はすんなり受け入れることができる。しかし、グローバルを物理でドライブされる実体と考え、普遍性を追求する理系の科学者には想像もつかない世界なのかも知れない。FEにおける議論では、もっと人文社会系科学との協働が必要という声を良く聞くが、その本質的な意味を理系の科学者は分かっていないのではないだろうか。生き様の修正を迫られるようなことだから。10年以上前だったが、都立大学のよしみで、シンポジウムのキーノートスピーチをお願いしようと思い立ち、連絡先を探したことがあったが、わからなかった。その時は既に永逝された後だった。(2017年5月27日)

グローバルとローカル:課題の変質

千葉大学フューチャー・アース(FE)の議論を続けていますが、やはりボスの考え方と私の考え方の溝がなかなか埋まらないように感じる。ローカルな課題はステークホルダー(SH)と直結するので、FEにおける最優先課題にならなければいけない、というのが私の考え方。いや、ローカルも大切だが、普遍性を見つけて一般化(commonize)しなければならない、というのがボスの考え方。この違いは世界観にある。アジア的思考とヨーロッパ的思考、森林の思考と砂漠の思考、いろいろな表現方法があるが、哲学では数十年にわたり議論されてきた課題である。私は、ローカルからグローバルへ拡張する段階で、課題自体が変質していくと考えている。地域の個別の問題を広域へ拡張すると、それは、例えば、「都市と農村の関係」といったより大きな、“普遍的な”課題に変質していくのである。専門家としての科学者は、まずローカルな課題に対応できる力を持たなければならない。その上で、より大きな次元に昇華させていく総合力を持たなければならないのである。問題を一気に解決できる普遍的な方法を探して、さまよい続けているわけにはいかない。(2017年5月25日)

まばゆい目標が、リスクを見えなくさせる

ことがある、というわけだが、朝日朝刊「耕論」から。忙しすぎる先生がテーマで、教育社会学者の内田さんが「教育リスク」ととらえたものです。同じことは環境でも言えるのではないか。朝日の別の紙面ではSDGsに関するまばゆい記事があるが、環境問題のステレオタイプ的なわかりやすい捉え方は、背後にある真実を隠してしまうことがある。私はこれを「環境リスク」と呼ぼう。パクリですが。(2017年5月12日)

やる気、本気、根気

これはお寺さんにもらった浄土宗月めくりカレンダーの5月の言葉。学生に、やるか、と聞くと、やります、という。この時点ではやる気はあるのだろうが続かない。それは本気ではないから。子どもの心が残っているから。なんとか本気になっても、仕事が進まない。それは根気がないから。少しの仕事を積み上げて、大きな仕事を達成した経験があれば、根気の価値を知ることができる。何とかハラスメントにならずに、仕事のやり方を学生に伝えるには、やはり熱意なんだろうけど、歳をとるとそう熱くなってばかりもいられないのですよ。(2017年5月11日)

見てこなかった現実

朝日朝刊、「耕論」欄でふと目に留まったフレーズ。フランスの選挙を巡る評論のなかに出てきたものだが、フューチャー・アースを巡る議論においても大切な観点だと思う。人が見ている現実は、その人の“世界”(人が関係性を持ち、考え方を形成する範囲)の中のもの。メディアの中にある現実は、劇場型現実として、なかなか“わがこと化”することは難しいようである。しかし、ひとたび“見てこなかった現実”が顕在化し、“世界”が広がれば、フューチャー・アースも変わらざるを得ないのではないか。世界を幸せにする普遍的な方法を探そうとするよりも、目の前にある現実を理解し、地域の問題を解くことを優先させれば、地域の集合体である世界は良くなる。そもそも、普遍的な方法とは規範的なものである。まず、関係性を認識すること、そして、誠実であること、その結果として信頼を醸成すること、これが普遍的な方法である。これをベースにおいて、個別の課題に対応する。フューチャー・アースがそのフレームになれば良い。まずは、見てこなかった現実を顕在化させること。それがフューチャー・アース研究者の役割である。(2017年5月10日)

変わる真理

「時間についての一二章」最終章から。「科学もまた認識のひとつの方法にすぎず、にもかかわらず科学的方法が真理を見つけだす唯一の方法だと考えることは、イデオロギーにすぎない」。科学的認識もひとつの思想である。これは私が毎年やっっている科学論、環境論で学生に伝えていることと同じ。探求された真理も、ある自然観、地球観に基づいたもの。世界の見方が変われば真理も変わる。(2017年5月6日)

循環する時間

何とか連休中に「時間についての一二章」(内山節)を読み切ろうとがんばった。内容は結構難しかったが、理解したのは、時間には縦の時間と横の時間があるということ。我々は過去から未来に続く一方通行の道の時間に翻弄されている。様々な関係性が分断されている現在、その先には終わりしかない。一方、横の時間、循環する時間は連綿と続く人の暮らしの中にある。道端に佇むお地蔵様、庚申塔、馬頭観音などを見てふと心が和むのは、循環する時間をそこに感じるからではないか。循環する時間の世界の中で大切なものは家族と地域。都会の中に循環する時間を見いだすことはできるのだろうか。(2017年5月6日)

自然の商品化

ゴールデンウィークもそろそろ終わりに近づき、テレビでは観光地からの帰省ラッシュが報じられている。皆さん、自然の中で楽しいひとときを過ごして、リフレッシュしたことと思います。ここで、ふと思う。観光客の皆さんは自然の中でどのように過ごしたのだろうか。商品としての自然を楽しむ。それもあっても良いが、その自然の成り立ち、人と自然の交流の歴史、いろいろ学んでいただけると良いなと思う。今、目の前にある自然は、地域によって異なる様々な人、自然、社会との相互作用の結果として形成されている。その歴史の中で自然は様々な恵みと災いを人にもたらす。人のふるさとの一部を構成し、ふるさとの誇りを生み出す。自然が商品でもよいが、その商品の持つ価値に気づくことができれば、都会人でもこころのふるさとを持つことができる。(2017年5月5日)

勝海舟の名言・格言

通勤時に聴いているラジオでふと耳に残ったフレーズ。勝海舟の言葉だという。そこで調べたらこれでした(iyashitour.com)。

人には余裕というものが無くては、とても大事はできないよ。 −勝海舟−

上からは“大事”をやれやれ。でも、とても余裕がなくてできない。時間をくれー、と叫びたい。自分は駄目駄目人間か、と思うが、実は欠けているのは無神経(かみさんには無神経と言われるのですが)。

世の中に、無神経ほど強いものはない。−勝海舟−

小心者で、いろいろな事を気にかけすぎ。生きているのがつらくなるほど。しかし、頑固者で一定の主張は持っている。

時勢の代わりというのは妙なもので、人物の値打ちが、がらりと違ってくるよ。−勝海舟−

そんな気もするので、なかなか頑固を抜け出せない。歳をとると、格言・名言が好きになります。(2017年4月27日)

つながり (地域)ーーー(世界)

地域は世界とつながっているのだろうか。世界の中に星の数ほどある地域と世界はどうつながっているのか。多数の地域に君臨するのが世界だろうか。そんな世界とは何か。何かとてつもなく大きな実体が世界であるように思うかもしれないが、実は世界とは入れ物に過ぎない。つながっているのは世界という入れ物に入っている地域と地域である。だから、世界を良くするためには一つ一つの地域を良くしていくことが一番大切。世界、すなわちたくさんの地域を良くする普遍的な方法があるという考え方は、一つの世界観に従えということではないのか。もし普遍的な方法があったとしたら、それに従う人間とはどんな存在なのだろうか。自然、歴史、社会が形作る個性ある地域の人としての存在は尊重されるのだろうか。個別性が尊重されない世界は、つまらない、そして少し恐ろしい世界のように思う。フューチャー・アースのあり方に関しては、ボスとの考え方の違いがだんだん明らかになってくる。いろいろな考え方があり、近藤型のフューチャー・アースもあると思う。ただし、大きな予算が付く研究プロジェクト型でないところが問題なのであろう。SDGsでいうところの包摂的とは、ボスの考え方も、私の考え方も選択肢ということ。包摂的であるためには、人の”世界”を拡大し、交わらせなければならない。(2017年4月27日)

エリートの側

朝日朝刊の池上彰さんの意見。阪神支局襲撃事件から30年の特集記事から。

「...これだけ格差が広がった社会で記者が『エリート』の側にいてはだめですよね」。

この記者の部分はそのまま「研究者」あるいは「科学者」と置き換えることができる。環境問題の解決を目指す研究者がエリートの側にいては、現場の真実がわからないではないか。ただし、市井(しせい)の科学者であると同時に、エリートの側とも交渉できる、すなわち、文科行政の縦のヒエラルキーにも睨みをきかすことが大切なんだよな。

「言論の自由を守っていくためには、やはり読者の共感って大事だと思います」。

ここも、「言論の自由」の部分を「暮らし」と変えれば、暮らしを守るためには共感が大事となる。「読者」はフューチャーアース流にいうと「ステークホルダー」となりましょう。環境問題の解決とは、暮らしを守る、無事な暮らしを取り戻すことにほかならない。研究者が論文を書いたり、国際機関で活躍したりで幸せになることではないんじゃないの。(2017年4月25日)

少しの想像力

今日は、避難指示解除後、最初の山木屋行きとなりました。車による日帰りでしたが、常陸太田から八溝山地に入ると、山の美しいこと。落葉広葉樹の新緑の間に山桜が咲き誇り、春の息吹が降りかかります。福島に入ると、里の桜がまるで桃源郷のよう。磐越道から見える夏井川千本桜は圧巻です。高速を降りて、山木屋への道すがら、福田寺の糸桜、愛蔵寺の護摩桜を訪問。峠を越えて山木屋に入ると、この6年間お世話になった方々が待っています。でも桜はまだつぼみ。山木屋は避難指示は解除されましたが、何かが急に変わった訳ではない。生業の復興に向けた地道な取り組みが粛々と続いています。そのことを日本の皆様にもっと知ってほしい。日本を犠牲のシステムで成り立つ社会にしたくない。犠牲なんて誰も望むはずはない。そのことをわがこと化してほしいと思います。少しの想像力で。(2017年4月23日)

大学は手取り足取りでいいの?

これは木曜朝刊の投書欄にあった意見ですが、気になってとっておいて今コメントしています。大学教員の水野さんは、「至れり尽くせりの厚遇が、かえって『己の道を切り開く』という機会をそいでいるという気もする」、と述べています。自分の職場でも学生の多くが、主体的に考え、行動する精神的態度を失いつつあることを実感しています(これは社会の問題であると同時に、できる人材もいるので、学生間格差は広がっています)。受け取ることだけを知って、お陰を知らないと信頼が損なわれます。それは親と子の関係だけで成り立つ態度であり、社会では受け入れられません。大学で学生に使えるべきことは、受け身の姿勢を乗り越えて、能動的に動きつつ、自分が所属するコミュニティーの中で役割を果たす、という精神的態度です。そのことを最も重視して伝えているつもりですが、教員の基本は学生を信頼することですので、結果的に研究上で大きな打撃を受けることがあります。私の研究は現場で市民に支えられて協働で行う環境研究ですから、信頼を失うということは実につらいことです。与えられるだけで、自分のことしか考えられず、協働ができない学生が社会人として幸せになれるとは思えません。教員人生の最終ステージである。“いい人病”を乗り越えて、“嫌われる勇気”をもって取り組むべき大きな課題と考えています。(2017年4月22日)

オネストブローカーになれるか

環境アセスメントというのは提案された計画の環境に対する影響を評価するとともに、手続きが法に則っているかどうかを検討し、必要ならば計画を改善させることがその機能である。その中で、人の暮らし、こころ、ふるさとの誇り、といったものを問題にすることができるのか、そこに踏み込んで良いのか。環境アセスメントの制度についてしっかり学んでおかなければならないと思う(知らずにやっとるのかいな、という突っ込みは甘受します)。今日の案件のひとつは、多くの人々の暮らしやふるさとを奪うことになる計画である。日本にとってはすばらしい計画であるのだが、立ち退きを強要される方々にとっては、人生を奪われることにも等しい。大きな受益圏・受苦圏問題が始まりそうである。その場合、第三者として機能することはできるだろうか。工事の規模も大きく、大規模地形改変が行われることから、水文学の観点からも十分な検討を進めなければならない。ピレルクのオネストブローカーになることはできるのか。重要かつ大きな課題が目の前にある。(2017年4月21日)

カラーパープルとフューチャーアース

うろ覚えなのですが、カラーパープルの中で白人の慈善のつもりの行為が、黒人を侮辱していたというシーンが心に残っている。人というのは程度の差こそあれ、みな“いい人病”に罹患していて、相手のことを考えないで行った“よいこと”が相手を煩わせたり、苦しめたりすることもある。私の思うフューチャーアースは、どうも人の考えるそれとは異なるようだ。主流の考え方の中におけるステークホルダーがどうも見えない。誰にとって良いことをやろうとしているのだろうか。ステークホルダーは問題の当事者ではないだろうか。その苦しみ、悩みを遠い未来に解決するのではなく、現在を良くすることにより解決する努力が大切ではないのか。問題の現場はグローバルなのか、いや、地域にしかない。個性を持つたくさんの地域を包含するフレームがグローバルなのであって、そのフレームの床が普遍性なのだ(天井ではない)。地球が良くなれば、地域が良くなるという考え方の背後には、現場が見えていない、という視野狭窄があるように思う。いいことをやった、という自己満足だけではいけない。私は縦のヒエラルキーの中で、上だけを気にして生きるようにはなっていないようだ。それが自分を苦しめるのだよ。(2017年4月20日)

フューチャー・アースを演じる役者

私は10を超える学会に入っているが、農村計画学会は最も勉強させて頂いている学会のひとつである。今日のシンポジウムのテーマは「田園回帰と農村計画学の課題」。田園回帰などといったら理学系の研究者からは情緒的といわれてしまいそうである。しかし、学会では田園回帰の実態を現場ベースで明らかにし、アカデミアとしての認識を求めて田園回帰を研究しているのである。その先には人の幸せがある。研究といっても理学系の”対象との間で、価値や心といったものを排除して、第三者の中立的な立場で扱う”ということではない。そんな社会に対して無責任な研究は農村計画学ではやらないのである。はやりの言葉で言うと、ステークホルダーと協働して、現場に深く入り込んで、田園回帰の実態認識を試みる。トランスディシプリナリティーをごく自然に実践する学問の分野がここにある。フューチャー・アースを推進するセクターは一体何者なのか。役者が違うのではないか。(2017年4月15日)

季節を楽しむ

季節を感じることはできるのだが、季節を楽しむことが少なくなってきたなと感じる。季節の中にどっぷりと浸かって、全身で感じる機会が少なくなっている。少ないということは、少しはあるということであるが、その少ない機会でも、自分の心を集中させて、季節を愛でるということがなくなってきている。それは、内山節のいう縦の時間に囚われすぎているからなのだと思う。生き様を自分で決められない時代が人の心の余裕を失わせる。今日は睦沢町の小麦畑調査の後、千葉東金道路を中野で降りて、印旛沼流域を佐倉まで走り、春の農村を車窓から堪能しながら帰還。途中、弥富の直売所でウドと大和芋を購入。職場の時間とは異なる時間がそこにあった。(2017年4月14日)

技術が問題を解決

エジプト研究の会合に参加した。現場ベースでオアシス集落の調査を長年にわたって続けてきたグループで、農村を理解し、問題を解いていこうという熱意をもった方々である。問題の中でも重要な対象が水。水不足問題に対して住民は、いずれ高度な技術が解決するという考えをもっているという。しかし、恐らく技術だけでは解決できないだろう。これは私も同感。まず、水循環のメカニズム、水収支を知り、その中で人間による利用がどれだけ許容されるのかを知ることによってのみ、持続可能な水利用を行うことができる。ここに科学の役割がある。同じ技術至上主義の考え方はインドネシアの学生からも聞いたことがある。かつてアフリカ、中近東で調査した時も聞いた。技術至上主義は西欧型の文明社会を追う発展途上国固有のものだと思っているが、日本でも同じである。日本もある意味、発展途上の未成熟国といえる。(2017年4月13日)

自分の器量

「基本的に自分の器量を大きくすることはできません(出口治明)」(朝日朝刊、折々のことば)。器の容量は増やすことはできないのだが、入れ替えることはできる。人は変わることができるということだ。私は容量も増やすことはできるのではないかと思う。地理をはじめとする関係性探求型科学の徒は、歳を重ねるごとに様々な関係性を深め、世界(人が関係性を持つ範囲で構成され、人の考え方の基本を形成する範囲)が広がっていく。その広がりによって、自分が変わりつつ、世界を包括的な視点から眺めることができるようになる。しかし、縦のヒエラルキーという奴は、人の世界を狭い範囲に閉じこめようとする。それでいて(それだからこそ)力が強い。縦のヒエラルキーに守られていると、人は安心するのだろうか。研究者は縦のヒエラルキーによって“優秀”が担保される。狭い縦のヒエラルキー社会の中で、持ちつ持たれつ関係が生まれる。横の連携を目指す研究者は、社会の、市民の信頼が強さに繋がる。(2017年4月11日)

森林の思考・砂漠の思考

これは鈴木秀夫先生の論考(NNKブックス)。トランプ大統領がシリアにミサイル攻撃を行った。なんて馬鹿なことをしたのだろう。問題の本質を見誤った対応であり、世界はますます不安定になっていくことだろう。人間とはかくも愚かなものなのか。トランプは砂漠の民の末裔として本能的な行動をとったのだろうか。私は森林の民として、じっくり問題の本質の理解を試み、よりよい方向を探索したい。しかし、政府は早々とトランプ指示を打ち出した。日本人は森林の民ではないのか。日本政府の対応は都会的思考なのかもしれない。都会と砂漠の共通性が、都会人が多数派となった日本で砂漠の思考を生み出す。世界を良くするためには、砂漠の思考、都市的思考だけでなく、森林の思考、農村的思考と共存することを考える必要がある。農村、森林、私が大好きな対象でもある。(2017年4月8日)

評価者の力量

ちょうど、朝日の耕論を読んだ直後に職場の中間評価に関するミーティングがあった。今年は科研費の採択がゼロで、これはお上にとって極めて印象が悪いそうだ。中間評価の結果によっては”おとりつぶし”だとか。論文を書け、予算をとれ、アピールせよ、ということになったが、思わす“気分が悪くなる”と発言。大人げない。反省。とはいえ評価者も普通の研究者に過ぎない。たまたま選ばれただけで、特に優れた判断力を持つわけではない(これは前回の中間評価で、定型の文章しか返ってこなかったことで明らかになっている)。組織の真の評価者は、外形的な基準に依存せずに、本質を見抜くことができる人。外形的という“楽”に流れると、日本という国を損なってしまう。責任は重いのですよ。(2017年4月6日)

大学の独立 

これは、朝日朝刊の“耕論”の記事。大学のあり方について共感できる内容が並んでいます。慶応の都倉さん。

外部資金や補助金を得るためにには、国が何を判断基準として配分しているかを忖度する必要があります。すると、大学運営の判断がそれに引っ張られる。どうすれば資金を獲得できるかという発想で、無自覚で意に沿うようになります。「右へならえ」の奨励で、個性も理念も忘れがちです。実務レベルで国の価値基準に合わせてる日常があり、資金を獲得すると評価されます。

大学人の個性、理念は大学の力の源。それが失われつつある。

「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諂うものなり」(学問のすすめ)

これは「学問のすすめ」の一節。明治以来の私学の歩みには政府との緊張関係があったという。大学が政府を頂点とする縦のヒエラルキーの下位に過ぎなくなると、大学と大学人の間で緊張関係は生まれるだろうか。いや、大学人の個性、理念が失われつつある現在、大学人自体が縦のヒエラルキーの中に位置づけられることに疑問を持たなくなってしまっているのではないか。ここに大きな問題がある。

法政の田中さんは、「自由を生き抜く実践知」という法政大学大学憲章に基づき、軍事研究は行わない決定をしたという。「学問の自由」とは、研究者たちが国から独立している状態。

「目的の決まった研究資金を獲得するために研究者が競い合いますが、大学をある方向に向けるため、詳細な多様な仕組みを要請してくるのです」

このような流れに抗うのが大学人ではないか。

教育研究者の小川さんは、地域の特性を活かす戦略について語る。やるべきことを自ら判断できない大学は振り回されるだけ。

「目を向けるべきは、文科省よりも地域の課題でしょう」

地域を知ることが、世界を知ることにつながる。現在および現実をわきまえてグローバルを理解することができる。グローバル大学は、実は地方にあるのではないか。なお、耕論の左下の「心の中の色 体験で豊か」(名取さん)の記事は、光のスペクトルに対するニュートンとゲーテの議論を思い出させます。(2017年4月5日)

生産された知識の活用

朝日朝刊、熊本地震に関する記事における東大、平田さんのコメント。「地震本部として努力してきたことが、必ずしも防災の現場には届いていないと強く感じた」と。これは災害、事故の多くの現場でいえること。研究者が生産した知識が、論文で止まっている。伝える努力はしても、なかなか伝わらない。生産された知識は活用されなければ意味はないのに。那須の雪崩災害は、雪崩のメカニズム、雪崩の予測ができても、現場に伝わっていなければ命が失われることもあるということ。14面社説では、地形を見た専門家からは「雪崩が起きる典型的な斜面」とのコメントあり。知識を最も活かすことができるのは、知識を生産した研究者なのではないか。研究者の人生は段階によって異なるフェースがあっても良い。とはいえ、研究一本槍で、予算をとって、論文を生産することが上意。もちろん現場で地道な活動を続けている研究者もいる。その方々を私は見習おうと思う。災害や事故は、原因を究明し、未来に活かすことが大切なことで、それが近代文明人だと思う。しかし、人はそう簡単には近代文明人にはなれないようだ。それならば、運命として受け入れる精神的態度も必要なのか。人間というものについて、また近代文明(自然科学の成果も含めて)と人間の関係について、考え続けなければならないと思っている。(2017年4月5日)

大学は理念、国研は予算

昨日はある会議で東京に出かけましたが、日本の科学を巡るコミュニティーの、昨今の本質をはずした議論に苦言を申しておりましたところ、ある古い友人が言いました。大学では理念を主張することができるけれど、国研(独法研究所)では予算がとれるかどうかがすべてなのだ、と。そりゃおかしいね、とは思いますが、おっ、と思って、国研の研究者の気持ちがわかった気がしました。とはいえ最近は大学も国研化が進んでおります。金、金、稼げ、稼げと。これは本来大学が持っていた機能を損なうことになるのではないか。だからこそ、大学人は理念を主張しなければならないと思うのですが、自分自身が回りからどんどん浮いていってしまうような実感を持っています。そんなことを別の古い友人に話しましたら、おまえは、昔からそうやったん、と言われ、あっ、そうか、と納得。定年まで、変わり者、嫌われ者でいくしかないか、と覚悟を決めつつあります。(2017年4月4日)

もっと、もっと教えてドラえもん

朝日朝刊のほぼ一面を使った記事。太平洋に浮かぶ多くの美しい島々。実は深刻な問題も抱えているんだ。それは、地球温暖化により海面が上昇し、沈んでしまう可能性があるんだよ。自分に何ができるかな。考えてみよう。小学生は何を考えるだろうか。二酸化炭素を放出しないようにしよう。正解です。大学生は何を調べるだろうか。太平洋の島々には、人口増加、都市化、市場経済による産業構造の変化、等の様々な問題があり、現在困っている人々がいること。まず、現在を良くすることを考えても良いと思うよ。そうすれば未来が良くなり、人が幸せになる。こんな風に考える大学生はいるだろうか。現在の問題に対峙し、責任を果たすか。未来の夢を語り、満足感は得られるが、責任はとれない方を選ぶか。さて、現在を生きる我々はどちらの態度をとったらよいか。もちろん、両方なのだが、地球温暖化に対しては、現在を良くすることにより、未来を良くするという考え方は分が悪いようだ。(2017年4月3日)

ふるさとを取り戻すこと

福島では本日、富岡町が一部を除いて避難指示解除された。残された帰還困難区域、避難指示解除された地域の暮らしの再建が今後の課題である。突然の原発事故によりふるさとが一瞬で失われる。これほどの不幸はないはずだ。ふるさとには先祖から子孫に連綿と受け継がれる命の流れがある。ふるさとが失われるということは、この命の流れが断ち切られるということ。今、世界で生じている多くの問題もふるさとを失う点に大きな問題がある。難民となってしまった方々にもふるさとを取り戻してほしい。そうなるように努力したい。近代文明のもとにおける都市的世界と対比させたふるさとはルーラルな世界ともいえる。緊張のシステムで運営される近代都市がふるさとという世代もすでにいるかもしれない。しかし、共貧のシステムで運用される世界、それは持続可能な世界でもあるが、そんな世界も存在している。それは都市的世界を支えてきた世界でもある。そんなふるさとにいつでも戻ることができ、また行き来できる精神的態度を持つことが幸せに繋がるのではないか。その精神的態度を醸成するものが知識であり、経験であり、それを持つ人こそが近代文明人であり、グローバル人ではないだろうか。それにしても寒い。去年は桜が満開だったのに。(2017年4月1日)

複線型復興への道

今日は福島においていくつかの区域で避難指示が解除された記念すべき日である。帰宅途中の車中で、木村真三さんの登場するラジオ番組を聞いた。福一事故当初、職を辞してまで福島の汚染地図を作成した方である。今は飯舘村で活動しているそうであるが、避難解除に対する考え方は私とはだいぶ異なる様であり、避難指示解除には批判的であった。なぜだろうか。それは、誰と関係性を持っているか、ということの違いではないか。飯舘村では二つの考え方の間に溝ができている。早期の帰還を望まない方々との交流のなかで考え方が醸成されていったのかも知れない。私は川俣町で帰還を望む方々とともに行動してきた。除染等検証委員会では年間積算追加被曝線量が20mSv以下であることをオーソライズし、避難指示解除への道筋をつけた一人でもある。もちろん、帰還しない人、帰還できない人もおられることは承知している。怒りを受け止めたこともある。帰還しない、あるいは直ちには帰還しない選択をした方々への支援が足りないことが問題にされているが、検証委員会の報告書では、学術会議の提言である複線型復興、すなわち、様々な立場の方々に配慮した復興についても記述した。その実現に提言がどれだけ役にたっているだろうか。学術会議における提言の作成は目的ではなく、それを活用し、社会に働きかけるのも科学者の役割だろう。ピレルク(2007)の「複数の政策の誠実な仲介者」(Honest Broker of Policy Alternative)を科学者が演じるとしたら、それは学術会議や学会といった科学者集団なのだと思うのだが。(2017年3月31日)

「共同体型」と「教習所型」

昨日の朝日夕刊の座談会記事における、木村草太さんの提案は、「学校から教師の主観が入る評価をなくす」でした。学校は本来「教習所型」であり、「ベタベタとした共同体」ではいけないんだということ。私も同感なのですが、少人数指導(実際少なくはないのだが)の中では、人対人の関係の中で情が出てしまう。それが功を奏したことも何回もあるが、失敗もあった。研究は協働作業である、というのが私の持論であるが、情が一方的に与え続ける状況を生みだし、達成や責任が損なわれる。きっちり評価し、その結果、ドロップアウトがあって良い。その人にあった多様な生き方を選択できる社会があれば。(2017年3月30日)

大切なことを学生に伝えること

日本地理学会では高校生による研究のポスター発表の企画がある。発表内容のレベルは様々ではあるが、今回は問題意識が高い発表がいくつかあった。指導教諭の意志と熱意、教育支援プログラムの活用といった事情もあるだろうが、結果として高校生が問題に気づき、自分で考えるようになるという過程がすばらしい。水俣病事件(敢えて事件と書く)を扱ったポスターの前では私も熱く語ってしまった。それで特別に頂いた実習報告書を読んで、私自身が勉強するとともに、高校生が水俣訪問を通じて新しい関係性を見つけ、世界(自分が関係性をもつ範囲で構成される範囲)が拡大していく過程を理解し、感動したところです。特に、H君。自分の価値観の基準が東京にあったことに気づき、自分の世界が拡大し、同じ視点で福島を捉えることもできるようになった。少人数ではあっても自分と関係性を持った学生に、大切なことを伝えていくことの重要性を実感しました。(2017年3月29日)

知識の生産、知識の活用

那須のスキー場でたくさんの若い命が散ってしまった。ニュースでは専門家による、雪崩が予測可能であった、とのコメントがなされている。それは科学の成果であるのだが、それが冬山登山におけるプロトコルとして確立していたのだろうか。研究の定義は知識の生産であるが、生産された知識は社会で活用されることにより、社会の中で価値を持つようになる。研究者の仕事は、知識の生産だけでなく、知識の活用も含めなくてはならない。その知識について一番良く知っているのが研究者だから。ほとんどの研究者のパトロンは国、すなわち日本国民なのだから科学の成果は国民に返したい。40年以上前の高校時代、横山厚夫の「イラスト登山入門」が私の登山のバイブルだった。科学の成果を社会に返す方法はたくさんあり、それを実行することも研究者の重要な仕事である。とはいえ、雪崩を予測するプロトコルがあったとしても行動の判断は難しかったに違いない。雪崩の物理だけでなく、様々な事情、人間的側面がある。あの雪崩を予測できれば良かったのではあるが、科学に基づき自然現象であるハザードを完璧に予測して自分の行動を決めようとする生き方は私には疑問だ。それでも残された者の悲しみは痛いほどよくわかる。ただご冥福をお祈りするばかりである。(2017年3月27日)

二度の涙

今日は二度の涙。昨日の取り組みを見たら、誰も勝てるとは思わないだろう。あの左腕の状況で、二度勝たなければならないのだから。未来があるアスリートなのだから、休場しても何の問題もない。しかし、稀勢の里の人生において、この勝負はやらねばならぬ勝負だったのだろう。相撲人生を賭けて、勝負すべき時に勝負し、勝った。怪我によって相撲人生が終わるかも知れないことを想定した上で、勝負し、勝った。だから、感動を生んだ。私も涙した。でも、誰もが皆、稀勢の里にならなくてもいいんだよ。(2017年3月26日)

つまらない「うれしさ」

最近、「折々のことば」(朝日朝刊)はあまりおもしろくないなと思っていましたが(失礼)、今日のはチェックしておこうと思います。『ぼくを研究に駆り立てていたのは、じつにつまらない「うれしさ」だった』(日高敏隆)。日高先生には昔、地球研でご挨拶をしたことがあったように記憶している。さて、このことは研究者であれば誰でも経験があることだろう。何かを発見したときの高揚感、論が通ったときのうれしさ、成果が役に立ったときの満足感、どれも小さな達成であるが、人生を変えるほど大きな意味を持っていた。今はどうだろう。論文が研究の目的となってしまった感がある。研究の目的が地位、名誉、金であってもよいが、研究者の求める真の悦びとはなんだろうか。(2017年3月26日)

学生と環境問題

学生諸子と学務には大変なご迷惑をおかけした「リモートセンシング入門」ですが、ようやく成績を入力しました。これで4月のガイダンス時には成績が表示されます。課題は二つ出しましたが、その一つが「地球環境問題と人の暮らしの関わりについて記述し、考えられる対策を提案してください」というもの。講義では、地球環境問題の「現実」と背景にある「真実」に関する話題を提供し、課題解決を実現するための環境問題の深読みの仕方を話したつもりです。レポートを概観すると、環境問題についてみな真摯に考えていることがわかり、少し安心しました。ただし、ステレオタイプにとらわれている学生も散見されました。これは問題に対して受け身の姿勢であるということ。自分で問題の本質に切り込んで考える姿勢を身に付けてほしいと思います。また、私は“〜思う”で止まっている学生もいます。私は、こう思う、なぜなら、こういう理由だから、という論を組めるようにしてほしいと思います。その際、論拠(よくエビデンスといいます)を明らかにすることが、議論には必要です。その方法は卒論を通じて学ぶことになります。もう一つ気がついたことは、問題の捉え方。都市的世界の考え方で問題を捉えていることがよくわかるレポートもありました。気がついていない別の世界も意識してほしいと思います。それは農山漁村的世界かも知れません。学生が世界を包括的に認識できるようになれば良いな、と考え私は講義をやっていきたいと思います。(2017年3月25日)

教育目標

4月から始まるリモートセンシングコースのガイダンス資料を作成中です。学生に教育目標をしっかり伝えたいと考え、下記の文言を入れましたが、昨日のミーティングでは同意は得られず、削除しました。センサーの開発を行っている学生にも、そのセンサーで解明しようとしている現象をよく知ってもらいたいと思うのですが...

環境リモートセンシングとは、環境(人と自然の関わり)が対象であり、リモートセンシングを通じて環境を探究する学問分野です。人工衛星等のプラットフォームから計測した情報は位置と時間を持つ地理情報であるため、地理情報システム(Geographic Information System)も学ぶべき重要な解析技術です。したがって、講義や演習を通じて学生は環境の本質、実態と、リモートセンシングを含む解析技術の両方を同時に学びます。リモートセンシング技術が研究対象である場合も、その技術で明らかにしようとしている現象と人間との関わりを理解することができることがリモートセンシングコースにおける教育目標です。 

環境リモートセンシング研究センターは1995年に発足しましたが、当時はいよいよ技術を持って、“環境”に取り組む時代が来た、と熱い思いを持って着任しました。あれから21年が過ぎますが、やはり、“環境”とは何か、“科学”の役割は何か、という論点については研究者の間でコンセンサスはないようです。一方で、議論、理解が進んでいる“外界”もある。様々な縦のヒエラルキーがまだつながっていないことを実感します。(2017年3月25日)

研究者の二つの人生

昨日、二つの科学について言及した。それは、普遍性探求型科学と関係性探求型科学(大熊孝先生の著書より)。物理や数学は前者、地理学や環境学は後者。それぞれの科学の研究者は歳をとるとどのような価値観、自然観、倫理観をもつようになるのだろうか。うがった見方ではあるが、ノイズを捨象して、プリンシプルを追求する普遍性探求型研究の世界は狭いが、時空間上で様々な要素を発見し、それらの間の関係性を見つけようとする関係性探求型研究者の世界は歳をとるごとに広がり、総合的、包括的視点から世界をみることができるようになるのではないか。定年になっても研究の世界にしがみつくのが前者。それに対して後者は定年後も様々な活躍できる場ができあがっている。関係性探求型科学者として全うしたいものである。(2017年3月24日)

日本の科学研究、この10年で失速

ネイチャー誌がこういう特集を組むそうだ。朝日朝刊より。現職の研究者として然もありなんとは思う。深刻な社会的背景があるとしても、研究者を取り巻く社会のガバナンスが今のままで良いとは思えない。研究者ならば誰でも10年後の日本の研究力には不安をもっていると思う。しかし、記事を良く読むと、評価は学術誌に掲載された論文数に依っているようだ。恐らくインパクトファクターといった指標も参考にされているのだろう。ということは、研究が欧米の基準、すなわち普遍性探求型科学の基準でなされているということではないだろうか。日本には関係性探求型科学に関する成果の大いなる蓄積がある。それなのに、環境研究を志す留学生には日本の知識、経験を伝えきれずに、残念な思いをすることが多い。いっそ、日本は研究評価に関する新しい基準を世界に向けて発信したら良いのではないか。それこそがフューチャー・アース・イニシアティブの役割だと思う。(2017年3月23日)

豊かさのあり方

NHKスペシャル「シリア 絶望の空の下で 閉ざされた街 最後の病院」を見た。画面に現れた情景は現実に違いない。しかし、それを「わがこと化」することはそんなに簡単なことではない。その現実に対して、自分に何ができるのかわからないから。でも、何かできることがあるとすれば、それは自分が関係を持った地域、身近にある地域をよくすることかも知れない。世界はたくさんの地域で成り立っている。だから、ひとつひとつの地域をよくしていけば、世界は良くなる。ただし、地域を良くすることは物質的に豊かになることではない。人間は物質的な豊かさはなかなか分け合うことはできないようだ。ところが、心の豊かさは分け合うことができる。心の豊かな、幸せな地域のあり方は、通信を通じて世界に拡散できる。我々は豊かさ、幸せについて考え方を改める必要がありそうだ。良い地域は世界に影響を与えることができるはず。それが荒れ果てたふるさとを立て直す原動力にならないか。(2017年3月19日)

そこここにある超学際

超学際はトランスディシプリナリティーであるが、長いので超学際が定着しつつある。今日は広島を8時3分の新幹線で発ち、酒々井に向かう。第6回印旛沼流域圏交流会になんとしても参加しなければならない。それは飯沼本家の明治蔵が会場だから。飯沼本家の甲子正宗は私が好きな日本酒の一つ。利き酒をしながら、印旛沼流域の地域創りについて、学生、市民、行政、市民、様々な方々と語り合う。これは超学際の取り組みそのものではないか。超学際なんてそこここにある。気がついていないだけである。一部の研究者の間では崇高な議論が続けられているが、チェーホフの「手帖」に登場するお祝いの会に集まった人々にならなければ良いが。ここで一部のと書いたのは、目の前にある問題に真摯に対応し、問題を解決しようと努力している研究分野もあるから。フューチャー・アース・サイエンティストは、まずこのことに気がつかなければならないと思うよ。(2017年3月18日)

水循環研究とガバナンス

永年お世話になった広島大学の開發一郎先生の定年による退職(今は退官とはいわない)のワークショップで頂いたタイトルがこれ。難しい課題ですが、何とか話してきました。まず、ガバナンスとは何か。辞書を引くと統治と出てくるが、これは協治あるいは共治、すなわち私たち皆で課題に対応する取り組みのあり方をガバナンスとしたい。となると、ステークホルダーが協働して課題を見つけ、解決を目指す超学際と同じになる。印旛沼流域水循環健全化を巡る営みはまさに超学際そのものである。水循環の健全化を通じて地域をよくしようという実践の中で、サイエンスも役割を果たしつつある事例を紹介。一方、福島を巡ってはステークホルダーの違いにより、サイエンスが役に立つ場面が異なることについて述べた。研究を指向する意識が強いということはステークホルダーが国や世界であるということ。私は現場のステークホルダーを中心に考えたい。(2017年3月17日)

安全とは作法である

いいですね。その通りだと思います(朝日朝刊、岸本さんの意見)。さらに付け加えると、“安心とは諒解である”。安全とは作法に則った手続き、安心は手続きの結果を諒解したということ。ただし、諒解のためには共感、理念(原則)、合理性の各基準をステークホルダーとの間で共有しなければならない。この共有の手続きが、問題解決、すなわち諒解のための手続きなのである。傷ついた人の暮らし、人の心は完全に修復することはできない。諒解への道筋はひとつではない。(2017年3月17日)

山木屋再訪

チーム千葉大・産総研の報告会で川俣町にきている。初めて入る新しい庁舎の会議室で報告会の後、フリーディスカッション。避難指示解除を目前に控えたこの時期であるが、様々な施策の連動に若干のぎくしゃく感。山木屋地区、川俣町、そして県、国、そして“私たち”。すべてが一丸となって目的の達成を目指すために何が必要か。強力なリーダーシップか、それともコーディネーターか。研究者に何ができるのか。研究者はやりたいこと、できることを思っているだけではだめで、具体的な提案を出して、徹底的に議論する勇気が必要である。現実の問題の場では、嫌われる勇気も必要。そして、言動に対する責任が必須。役にたちたいという気持ちはあるが、それを実行する勇気が必要。勇気。(2017年3月5日)

モデル

地球の未来をよくするためにはモデルが必須なのだろうか。予測がなければ人は生き方を決められないのだろうか。これは微分方程式で世界が記述できると思いこんでいる一部の研究者の世界観に過ぎないのではないか。そういう研究者には地理学を学んでほしい。世界は様々な要素が、相互に関係しあって形成されており、地域はそれが存在する場所や、その歴史によって個性を生み出し、人の生き様を決めていく。地理学と少しの物理の知識があれば、未来に起こるかも知れないことは想像できて、生き様を変えることもできる。予測がないと生き様を決められない人とは、どんな人なのだろう。その人は近代文明人なのだろうか。(2017年3月4日)

感情

先日のフューチャーアースワークショップでは「感情」も話題の中に登場した。十分議論が深められた訳ではないが、(理系研究者が先導している)環境問題の解決を目指す取り組みの中で「感情」が話題に上ったことは、一定の評価の価値がある。この言葉は感情論と言ってしまうと、論理的でないという意味で使われることが多い。しかし、環境問題のコンテクストにおける感情には、必ず様々な事情や関係性が背後にある。論理的でない、と切り捨てる態度は外形的な、あるいは物理的な因果関係のみを重視して、問題の人間的側面を捨象するということである。これがフューチャーアースに関わる研究者がまず乗り越えなければならない壁なのであるが、フューチャーアースが研究者のお財布になりつつあることで、これを理解しない研究者に蚕食されないか心配である。フューチャーアースはまずは金から離れて様々な地域における取り組みを纏め、位置づけるフレームとして始めてはどうだろうか。(2017年3月3日)

千葉大学フューチャーアース ワークショップ後の感想

フューチャー・チバ、これはワークショップ最後の会場からのコメントで頂いたワード。千葉でちまちまやって、どうやってグローバルにつなげるのか。このコメントをまともに受け止めてしまった方も多いと思うが、彼は分かっていながらあえて発してくれた貴重なコメントです。グローバルとローカルの関係に関する基本的な考え方が十分共有されていないということは私自身が感じていることでもあります。このコメントを受け止めて、考え方をきちんと返していればワークショップは大成功だったと思いますが、時間の制約で打ち切られてしまったことが残念です。改めて思うことは、人の考え方は関係性も持つ範囲で決まってくる。これを私は“世界”と読んでいますが、人の“世界”を拡張し、交わらせることがフューチャー・アースの目標のひとつではないか。それで初めて協働が可能となる。グローバルは物理で結ばれているわけではない。グローバルはフレームであり、様々な地域が相互作用しながら存在している。グローバル理解の要のひとつは類似性や共通性。千葉と世界に共通する課題は、都市と農村の関係、閉鎖性水域の水環境、などたくさんある。千葉の成果をグローバルのフレームの中に位置づけることにより、千葉が世界の中で価値を持つことになる。“世界”に関する議論がもっと必要。それを邪魔してしまうのが地位とか権威なのかも知れない。普遍性を追求してしまっては、フューチャー・アースはたち行かなくなる。(2017年3月3日)

SDGsに足りないもの

フューチャーアースワークショップの前にSDGsについて勉強しておこうと思い立ち、文書を読んでいる。そこには決して否定することができない美しい文言が並んでいる。しかし、何となく違和感、うさんくささを感じてしまう。SDGsには二つの問題、課題があるように思う。一つは”普遍性”に関わること。普遍性は目指すべきトップレベルの目標ではない。問題を理解するときのベースにあるもので、その上にある個別性を理解しなければ、問題は解決どころか、理解さえできない。もう一つは、”グローバル”。世界は一つと考えるから、目標、ターゲットをたくさん列挙せざるを得なくなる。グローバルはたくさんの地域からなり、地域は個性を持つ。地域性、すなわち”違い”を何よりも尊重しなければならない。私は地域の集合体としてグローバルを捉えたい。私はひとつの地域の暮らしをよくすることに力を注ぐが、世界で同様なムーブメントが起これば、グローバルはよくなっていく。その時、地域を尊重し、グローバルの中にきちんと位置づけて捉えることができる見方が、国際感覚というものだろう。(2017年2月26日)

研究者のパトロンは

『科学者たちは最近もっぱら「社会問題の解決」を語る。それは現代科学の場においてあまりにも「自由がない」ことに起因する。それは、科学はもはや体制にぶら下がることなくやり続けることは不可能に近いから』。これは、WIREDという雑誌の編集者のEditor's Letter(少し要約しています)。科学者でない編集者にも科学者の世界がお見通しになっているわけだ。かつて科学者(という言葉は無かった時代から)のパトロンは貴族だった。今は国や大企業である。獲得予算額、出版論文数による評価システムとうまくかみ合って、ある意味機能していると言えるかも知れない。しかし、我々(国立大学の研究者)の本当のパトロンは誰なのか。それは国民なのではないか。多くの研究者が自らのパトロンを忘れている。こんな不義理なことはない。(2017年2月21日)

目的を持って、考え、協働すること

愛知県立三谷水産高校のSPH(Super Professional Highschool)プログラムの発表会に出席しました。すごい!大学生を越える部分が確実にある。というか不甲斐ない大学生もいるということ。なぜだろう。高校生たちは、目的を持って、考え、そして協働により解決を目指す、という姿勢を実践している。一部の大学生たちも高校時代はこういう姿勢を持っていたのではないか。大学生活の前半で主体的に考え、動く習慣を無くしてしまうのだろうか。だとしたら、大学教育を見直さなければならない。学力と実力は別物である。学力があっても実力がなければ受け身で生きていくしかない。 実力があれば、学力は挽回できる。目的を持つこと、考えること、協働すること、これが身につけなければならないコードなのだが、どうしたら伝えることができるか。≪その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな≫(2017年2月9日)

スマートシュリンク

最近気がついてしまったことがあります。先日59歳になりましたが、千葉大学は定年が65歳なので、差し引きで後6年あると思っていました。よく考えたら、私は早生まれなので、65歳になって2ヶ月後に定年を迎えることになる。後、5年が残された時間であるわけです。急に老いが回ってしまいました。残る時間を使ってスマートシュリンクして行かなければなりません。人口減少社会を背景として、拡大した都市域をうまく縮小させるのが本来の意味ですが、良好な郊外、農村環境を維持、形成していくことも重要な課題です。シュリンクというよりも、実はトランスフォーメーションといった方が良いかも知れません。(2017年2月1日)

研究者のこころ

このところ審議会、委員会が続いていますが、そういう場には研究者も学識経験者として参加しています。おもしろいなと思ったことは、意見を述べるときに、「〜という論文を書いたことがある」という発言。「〜という研究をやったことがある」ではないところに、研究者を取り巻く“世界”の新たな習慣の形成、すなわち研究というよりも論文が大事、という態度ができつつあるのかな、と思ったりもします。それは研究者のしあわせにつながるのか、そうではないのか、考え続ける必要があります。(2017年1月30日)

思う、なぜなら

政治家を「考える」タイプと「思う」タイプに分けると、オバマ氏が前者、トランプ氏が後者だという(朝日朝刊より)。トランプ大統領の誕生は、「思う」がもてはやされ、「考える」が面倒がられるネット時代の必然かもしれない、とのことである。オバマさんはひとつの理想の実現のために論理的に考える。トランプ氏は「思う」の背後にある「考え」が情緒的ということだろう。私はというと「思う、なぜなら」が大切だと思う。オバマ氏は多様な社会の問題に対してトップダウンで普遍的な方法を考えた。しかし、多様な社会には、様々な「思い」があり、そこは様々な諒解の世界でもある。それらの「思い」を尊重しながら、何とかやっていくために、「思う」ではじまり、「なぜなら」で諒解することも大切かなと思う。調整型リーダーのあり方であるが、トランプ氏は「思う」型でありながらトップダウン型リーダーであるところが問題なのだと思う。なぜなら、異なる社会、異なる思いに対する思慮が見えないから。さて、アメリカはどうなるのか。(2017年1月22日)

何のために

教員会議の報告から。千葉大学は今後ますますトップダウンによる評価を強めていくのだそうだ。配られた評価項目にはたくさんの評価項目と、配点が書き込まれている。やれやれ、と思うのであるが、このような行為がどのような大学教員の精神的態度を醸成することになるのか、心配である。教員にも守らなければならない暮らし、家族があり、給料は低いより高い方が良いに決まっている。大学教員の仕事に点数がつくことになると、何のために教育、研究を行うのか、という精神が曖昧になるのではないだろうか。地位、名誉、金のため、という雰囲気がさらに強まりそうな気がする。ニュートン・デカルト的な科学に携わっている研究者は良いかも知れないが(まさに論文が評価基準となる分野である)、現場で問題に対峙する分野の研究者は、成果を得るためには自分や家族の暮らしを犠牲にしなければならなくなることが懸念される。それは長期的には大学の衰退に繋がるのではないか。我々は、何のために、誰の幸せのために、大学人としての仕事をするのか、ここを常に意識しなければならない。縦のヒエラルキーの上にいる方々の幸せのために仕事をしているのではない。(2017年1月19日)

理学と工学の間には

深くて暗い谷がある、となるのだろうか。千葉大学の理工系大学院は融合理工学府としてまとまることになったのだが、教員は工学研究院、理学研究院に分かれて所属することになっている。環境リモートセンシング研究センターは事務を一括するために工学研究院に所属することに決めたのだが、待ったがかかった。詳細は省略するが、理学と工学の価値観が相容れないのではないか、ということである。学位審査、教員審査で基準が異なるのでやってられない、ということであるが、不思議だ。異なる価値観を尊重して、うまくやっていくことはできないのだろうか。私は学際領域で、いろいろな分野の方々と一緒に仕事をしてきた経験を持っており、水文学分野ではもはや理工の区別など気にしない。問題を解けるか、課題を解決できるか、が重要なのである。融合理工学府の理念ともかけ離れている。ちょっと、千葉大学がっかりである。とはいえ、大学を良くしたいという思いは同じ。十分な意志疎通を行い、諒解を形成する行為が大学の未来を作る。(2017年1月19日)

千葉大学のフューチャー・アース雑感2

フューチャー・アースについて引き続き考えていますが、ヒントを求めて書棚から「臨床の知」(中村雄二郎著)を引っ張り出して、ページをめくったところ、最初にこの下りに再会しました。

ある控えめな男のためにお祝いの会が開かれた。集まった人々は、ちょうどいい機会とばかり、てんでに自慢をするやら、褒め合いをするやらで時間の経つのを忘れた。食事も終わろうという頃になって人々が気がついてみると−当の主人公を招くのを忘れていた。

中村氏がこの一節を思い出したのは、「・・・近年いよいよ明らかになってきている既成の様々な理論や学問と現実とのずれ」を感じたからであり、集まった人々が「学問」、主人公が「現実」である。フューチャー・アースでは、この「現実」は、解くべき課題と、それを取り巻くステークホルダーの世界と考えてよいだろう。中村氏も述べているが、この「現実」の存在を浮かび上がらせるのが最初の難題である。まずは、研究者とステークホルダーの「世界」を交わらせることが必要だろう。「世界」とは人が関係性を持っている範囲であり、人の考え方を作り出す素である。研究者の「世界」、ステークホルダーの「世界」を交わらせることが、フューチャー・アースの実現においてまず必要なアクションであろう。ところが、中村氏も言うように、この「現実」は極めて控えめであり、その姿をなかなか見せてくれない。問題の現場に入り込むことによる、身体的経験に基づく認識が必要なのである。それが臨床の知であり、フィールド科学の知なのである。そこで初めて千葉大学のフューチャー・アースの課題が見えてくるのだが。シンポジウム開催は必要ではあるが、旧来型のやり方。まずはステークホルダーと交わらなければならない。その機会になれば良いのだが。(2017年1月12日)

千葉大学のフューチャー・アース雑感

千葉大学のフューチャー・アースをどうするか、という会議があった。3月2日にシンポジウムの開催するのだが、その準備でもある。いつも感じることだが、私の思うフューチャー・アースは、他の研究者が思うものとは少し違うような気がする。それは、私がフューチャー・アースの問題解決型、超学際の側面を重視し、研究プロジェクトとして評価されるための外形的な成果をあまり意識していないところにあるのではないかなということは意識している。フューチャー・アース時代の環境研究者について、もうしばらく観察を続けながら考えたい。(2017年1月12日)

個別性・歴史性

JoGU(日本地球惑星科学連合)のJGL(Japan Geoscience Letters)は学会誌に添付されて配布されますが、入っている学会が多いので、毎度たくさん頂くことになってしまいます。今日も届いた学会誌に同梱されていたので、何気なくフェローとなられた町田洋先生が貝塚爽平先生について寄稿された記事を読みました。

貝塚さんの多彩な研究を貫く点は、現代科学から無視される傾向にある自然史研究の重要性を強調し、普遍性のみを追求するのではなく、個別性・歴史性も科学の重要な対象であるという信念である。

JpGUの運営に関わっていると、普遍性を追求するサイエンティストの姿が強く印象づけられ、個別性・歴史性を主張すると肩身が狭い気がしていました。それは私のルサンチマン的な性格に起因するもので、環境に関わる研究者はちゃんと個別性(これは多様性を意識するということ)、歴史性を意識する精神は持っているということ。安心しました。町田先生も貝塚先生も地理学者ですので、当然なのですが、少し気になるのは若い研究者がどのような自然観、社会観を持っているのかということ。そこが気になります。なお、個別性、歴史性を認識したら、次は関係性を探索すること。そうすると、世界が見えてくる。もう一つ階層性も意識するとグローバルとローカルの関係が見えてくる。(2017年1月12日)

科研費競争

科研費は申請数、採択数の統計値が公開され、大学の順位付けが行われています。千葉大学も順位を上げたいとのことで、申請しない教員に申請させるためにはどうすれば良いか考えなさい、という指示がきました。そこで、何とか書いてみたのがこれです。

・難しい課題なのですが、最初に地球環境問題に対する態度を思い出しました。一般に、地球環境問題に対するアクションを立ち上げる過程には、@脅しの段階、A理解の段階、があると言われています。危機が起きるから行動しましょう、が@ですが、Aでは問題を包括的、総合的に理解して、行動を決めましょう、となります。地球社会としては@からAの段階に進まなければなりません。科研費申請も同様に考えると、ペナルティを課す等の@の態度はあまり品格の高い方法ではありません。千葉大学としては一歩進んだAの態度で望みたいのですが、どうすればよいか正直名案はありません。
・学問分野の特質からして、全学部・研究科を一つの考え方で括ることはできないことを念頭において、まずは、なぜ科研費をとらなければならないか、という千葉大学としての基本的姿勢を明確にすることがベースだと思います。
・ただし、文科省−大学の縦のヒエラルキーの中で、順位を上げるという説明だけでは、品格に欠けるように感じます。国立大学の役割、研究の本質をきちんと説明した上で、科研費の申請を奨励するということにならざるを得ないと思います。
・個人的意見としては、すべての研究は広い意味での共同研究であると考えています。内外の研究コミュニティーの中で、自身の認識段階を位置づけ、議論し、改善し、世界のスタンダードを超える新しい発想を得るためには、ある程度の予算(文系でも議論やそのための旅費は必要でしょう)は必要になります。そのために、科研費を申請する、と説明します。(私は、勝手にやっている研究、すなわちスタンダードを自分で決める“研究的行為”は研究ではない、と学生には説明しています。)
・大学における研究は、研究者個人の自由な発想に基づいて実行することができます。このことが、いかに幸せなことであるか、これを自覚することも科研費申請のモチベーションとならないだろうか。個人の経験ですが、原子力災害と対峙した国研の研究者の自発的な行動がいかに規制され、研究者としての倫理観と、国研職員としての(強いられた)規律の間で苦しんだことか。これを知ることで、社会における大学人の立場、責任をより明確に自覚することができます。
・以上は“きれいごと”ですが、千葉大学の精神を明確にして、伝える努力をしていくことしかないのではないか、と感じています。

これをやったら一発で採択数アップ、なんて策はあるはずもありませんが、この課題を通して、大学の役割は何か、大学における研究はどうあるべきか、なんてことを考えざるを得なくなります。(2017年1月10日)

縦軸の時間、横軸の時間

次は「時間についての十二章」を読み始めた。まだ全集の半分が残っている。今まで時間は過去から現在につながる縦の軸で捉えていた。しかし、横軸の時間があるという。それは、去年と同じ春がやってきたとき、一年が過ぎ去ったのではなく、去年と同じ春が帰ってきたと捉える円環の回転運動をしている時間。それは、自然と強く結びついた暮らしと労働を営む者たちの時間世界であるという。正月が終わったところであるが、小学生の頃はもっともっと季節感があったように思う。それは、冬休み、春休み、夏休みと続く円環の時間を感じていたからではないか。受験準備で忙しくなる高校後半から季節感が薄れてきたような気がする。高度経済成長期に育った私の世代は、一昨年より去年は良くなった。今年はもっと良くなるだろう。そして、来年はさらに良くならなければならない。こういう縦軸の時間に慣らされてきた。それはヨーロッパ的な進歩史観でもある。今の若者は高度経済成長が終わった後の定常の社会を生きている。そして、世界では進歩と定常の間の相克が始まっている。我々は進歩史観の呪縛から逃れないと安寧は得られないのではないかな。定常こそ成熟である。進歩してばかりでは成熟しない。成熟しなければ幸せはこないんとちゃうか。(2017年1月9日)

労働過程

内山節全集第1巻「労働過程論ノート」をようやく読み終わった。私には内容は難しく、とにかく読み切ることだけを目指したので一月ちょっとかかってしまった。何となく分かったのは、我々(都会人)が当たり前と思っている“労働”は、歴史の中で作られてきたもので、唯一のものではないということ。現代でも都会的労働だけでなく、“農”(工業的な機械化農業ではなく))に代表される、その過程を自分で獲得している労働もある。昨今、働き方が話題になっているが、労働過程が自分のものではなくなっていることが一番の問題である。大学教員なんて最も幸せな職種の一つであるが、その仕事さえも外形的な数字で評価され、過程が問題にされなくなりつつある。労働がしんどくなった背後には資本主義、市場主義、競争主義、...といったものがあると思うが、働き方の見直しは社会のあり方の修正につながる大きな課題である(ここが分かっていないのではないかと思われる方もおるが)。今年は世界で大きな変化の嵐が吹き荒れる予感というか可能性があるように感じる。(2017年1月8日)

同じ世界の共有

もうひとつビックコミックオリジナル「黄昏流星群」より。ワンマンの社長を、もとヤクザが諭す場面。

・・・社長のおっしゃることは概ね、正論です。会議の席で部下を論破して、正論を押し通す・・・それ自体間違ってはいないのですが・・・/それでは部下が部下を萎縮させるばかりで、やる気をなくさせるのではないでしょうか。/本人のメンツもあるので、叱るときは別室で、一対一で叱った方が良いと思います。
でも皆の前で叱るのは、本人に向けてだけではなくて、他のボンクラ社員に向けてのメッセージでもあるのよ。

話はまだ続くのであるが、このことは私自身よく分かってはいるつもり。大学教員としての私の役目の一つは卒業、修了のための評価をすること。日頃から指導はしているつもりであるが、結局同じ指摘の繰り返しになってしまう。だから最終段階では学生指導を厳しくしているところです。それが正しいのか、学生を萎縮させるだけなのか、悩ましい問題です。社会では仕事は成果を評価される。大学では成果を修めず、評価もされずに卒業、修了できる、それでよいのだろうか。学生全員に生き方を学んでほしい。高度経済成長期であれば、社会に出てから教員の言ったことがわかった、ということで良かったかもしれないが、現在は社会に出たらすぐに力が試される。大学にいる間に身につけてほしいと思うのだが、指導の仕方が難しい。それは、教員と学生が同じ世界を共有していないということなのだろう。そういう世界を作れなかった私の責任ではあるのだが。「隗より始めよ」というが、時間も気力もなくなり始めている。弱音ですな。(2017年1月7日)

小手先でまとめてはいけない

二日遅れで買ったビックコミックオリジナル「あかぼし俳句帖」より。俳句漫画ですが、ストーリーはコミックを読んでください。

あなたは今、大事な時期なんだよ。/詩人として何度も脱皮するうちの最初の一皮まできているかもしれないんだ。/だからこそここで小さくまとまってはいけない。/苦しかったら苦しいまま拙い句を詠みなさい。/小手先でまとめてはいけない。こぎれいに体裁を作る事をおぼえてはいけない。のちのち命取りになる。

最近の評価システムの中では大学の教員は論文生産マシーンとして期待されているようである。私は歳をとったので、論文数よりも研究の方向性が大切であるが、若手の研究者はそんなこと言ってられない。まずは業績、すなわち論文の数である。だから、小手先で論文を書ける力も生き残るためには重要である。しかし、論文は最終目的ではない。論文の先にあるものを意識してほしい。のちのち命取りにならないように。そういう評価に変えていくのが老いた私の世代の責任なんだな、とまた重荷を背負う。(2017年1月7日)

元旦のご挨拶

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。などと書きましたが、もう2年ほど年賀状をまともに書いていません。失礼なやつだとお思いでしょうが、どうかご容赦ください。私は理学系の研究者の中で、何となく肩肘張って、わがままを言いながら生きて参りましたが、そんなことやっているうちに、世の中も変わってきたなと思います。研究者は好き勝手なことができる極楽とんぼではありません。暮らしの中の科学を考えても良いのではないか(この場合の「暮らし」はLivingではなく、Life)、と考え生活圏科学(Life Layer Science)をホームページのタイトルに据えました。私の任期もあと5年になりましたが、この科学を形にしていきたいと思います。もちろん、皆さんの力をお借りして。(2017年1月1日)


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