口は禍の門

2016年もあっという間に終わり、2017年が始まろうとしています。今年は世界中でいろいろなことがあった。テロ、難民、武力衝突、政治の枠組みの変更、などなど。これらはすべて同じ土台の上で起きてることではないだろうか。まだうまく表現できないが、経済の仕組み、人間の強さ・弱さ(人間は機械ではない)、強者・弱者、支配者・被支配者、都市・地方、...根を同じくした現象が様々な形をとり、同時多発しているのではないか。そんなことを考えさせる一年だった。来年は良い年にしたい。 (2016年12月31日)

2016年度が始まりました。今年度は大きな変化を迎えた。同僚の建石隆太郎教授の定年退職、学生数の増加、特に博士課程留学生の増加、そして若手研究者の楊さんの着任もあった。環境だけでもない、リモートセンシングだけでもない「環境リモートセンシング」の確立に向けて一歩進まなければならないステージに入った。歳をとって身体はがたがたですが、奮い立って頑張ろうと思う。 (2016年4月1日)

2016年が始まりました。大学人としての任期もあと7年になりましたが、残りの任期で何を目指すか。大学人、研究者の意識は今、大きな変革を求められています。元来小心者なのですが、だんだん主張を強めていきたいと考えています。 (2016年1月1日)

2015年12月までの書き込み


年末の読書

年末と正月はゆっくり本を読みたいと思い、研究室の本棚から数冊持って帰りました。その一冊が「ここまでわかった『黄砂』の正体」(三上正男著)。これは三上さんが代表を務める研究プロジェクトの話。だいぶ前に入手した本でしたが、本棚の肥やしになっておりました。改めて読み始め、一日で読み切りました。研究の過程がわかりやすく、面白く纏められており、上質の科学の成果が社会に発信されています。私にはできない仕事だなあ、とため息。ただし、ハザードとしての「黄沙」であるのですが、人の「暮らし」との関係が希薄なように感じられます。これからの環境に関する科学は、「暮らし」との関係を強化する必要があります。科学のサイクルとして、そういう時代になったということ。私は、その点を考えて行きたいなと思うのですが、年末、脚立から落ちて、身体ががたがた。痛む肩と肋骨を抱え、さて2017年はどう生きようか。(2016年12月31日)

環境に関わる研究者の態度

朝日朝刊、折々の言葉(鷲田清一)より。また、考えさせられます。「何も分からない子どもを相手に、食物や飲物をすすめる競争をするとなれば、医者は料理人の敵ではないであろう」。哲学者、田中美知太郎「善と必然の間に」から。鷲田さんの文章はこう続きます。「同じように、人々に気に入られ、彼らの「快」に応えるだけならば、巧みな弁論術があればよく、何がほんとうに彼らのためになるのかを考えての慎重かつ苦渋の決断や、その裏づけとなる論証は必要でなくなる」。人と自然の関係、すなわち環境に関わる研究者であれば、現行の研究者の評価基準に惑わされることなく、何がほんとうに人のため、社会のためになるのかを考えて、慎重に裏付けとなる論証を行った上で判断し、時には苦渋の決断もせざるを得ないことを受け入れる必要がある、となるのではないかな。そのためにはどうするか。同じ紙面の「てんでんこ」にこういう文章がありました。「自らも参加しながら地域単位で意識を高めるような、「狭く深く」関わる姿勢が、これからの報道に求められる」。これは、河北新報が宮城県沖地震から30年が経った2003年から、あらゆる震災記事に「備える」というタイトルをつけ、重きを置いてきたのに関わらず、東日本大震災において、「報道が役に立たなかった」という評価が「役に立った」という評価を大幅に上回ったということの反省から出てきた文章。地域単位で「狭く深く」関わる姿勢は、環境研究にも求められているのではないかな。(2016年12月13日)

真の理解

お世話になって先生が主宰する研究会に参加した。原子力災害に関する話題があったので、私もつい熱くなってしまった。しかし、私の考え方が伝わっているのか、何となく心許ない。お互い理解し合ったように振る舞っているが、別のことを想っているのかも知れない。真の理解というものは、それを確認すること自体に困難を伴う。科学的に考えると、現状の空間線量(年間追加被ばく線量が20mSv未満)のもとで帰還しても、大きな健康上の問題は生じないと私も思う。しかし、だから帰還して良いという単純な話ではないのである。原子力災害は日本全体の問題であり、近代文明社会の災禍である。日本の未来を考えるとき、近代文明に対して日本人はどのような精神的態度を持つべきであるか、という問題である。福島で活動しつつ、本当のターゲットは福島以外にあるのである。日本人が価値観、哲学、倫理観を共有あるいは尊重して、安心に暮らせる社会を創っていくことができるのか、それとも都市的世界と農村的世界が分断されたまま、犠牲のシステムを継続させるのか、そういう問題である。我々は諒解を形成することができるのだろうか。(2016年12月10日)

千葉大学のフューチャー・アース

関係者が集まったので、「千葉大学のフューチャー・アース(FE)」の内容をどうするかという話し合いを持った。私はFEは地域研究が主体になると考えている。この点には異論はないようである。しかし、次の段階で、地域研究の成果を、より広域に対応できる普遍的な方法論に結びつけなければならない、という主張が必ず出てくる。もっともであり、否定することもないのであるが、このような考え方では、最終段階で、FEの成果が優れたもの、ということになったかどうか、という従来型の研究プロジェクトの纏め方を超えるものにはならないのではないかと懸念している。その背後には、普遍性、一般性をトップレベルの目的ととらえる考え方がある。これは自動車やコンピューターの開発といった課題では正しい。しかし、環境問題に関わる科学においては、普遍性はベースにあるものである。普遍性の上にある個別性によって問題が形成される。たくさんある問題を一つずつ解き、フレームの中に配置し、全体を俯瞰することでしか、全体は良くする方法はみつからない。フューチャー・アースは問題解決の事例を纏めるフレームなのである。よって、千葉大学のフューチャー・アースは、千葉大学の個々の研究者が扱う課題を、フューチャー・アース研究として認証し、千葉大学のフレームの中で纏め上げるという形をとれば良い。そうすれば従来型の研究プロジェクトの枠を超えることができない他の主体に先駆けて、千葉大学のフューチャー・アースを実現することができると思う。(2016年12月8日)

卑怯者より、臆病者

ビックコミック連載「サラリーマン拝」から拾ったフレーズ。家庭、友人、恋人、...学生には、いろいろな問題が降りかかり、悩むことになる。でも、弱い存在として保護されるのは、子どもだから。その人が未成年だから。まだ、社会に対して臆病だから、ともいえる。しかし、成人して十分時間が経った大人である学生ならば、困難も糧としながら、生きて行かなければならない。大人であれば、困難をやるべきことをやらない理由にしていると、卑怯者になってしまう。与えられたもの、ことに対して責任が生じるから。同じ態度でも子どもと大人では評価が正反対になる。子どもには、受容と優しさ、大人には厳しさで望まなければならない。だから、大人である学生には厳しさで望みたい。とはいえ、社会のコンセンサスが得られていないと、なかなかつらいことでもある。(2016年12月2日)

問題意識がなければ、目は節穴だということ(川田順三)

朝日朝刊、折々のことば(鷲田清一)より。この文章を読んで思うのは、研究のあり方である。12月に入り、学位審査の本番となったが、まだまだ研究が成立していない学生がいる。研究のあり方については常に伝える努力をしてきたつもりではあるが、忸怩たる思いでなんとか指導に取り組んでいる。研究とは課題を解く行為である。その課題が「わがこと化」できていなければ、すなわち問題意識がなければ、真実を見通すことはできない。課題の表面をなぞるだけである。学位論文は卒業、修了のための単なる手続きととらえている学生もいるかもしれない。それでは、教員は指導の甲斐がない。大学教員のアイデンティティーに関わってくる。これで学位を与えてしまっては大学に対する背任行為といえるだろう。とはいえ、これは若者をとりまく社会全体の問題でもある。一人で責任を感じても、問題の解決、大学の機能向上にはつながらない。(2016年12月1日)

情緒的とは

久しぶりに山木屋にいる。昨晩は語り明かしたが、福島に対する私の考え方は情緒的と評されることが多いようだ。情緒的とはどういうことか。原子力災害に対する情緒的な応答とは、「かわいそう」に駆動されるが、背後には「いい人といわれたい」(「いい人病」と私は呼ぶ)願望があり、主張に思想がないことなのではないか。私が福島に関わり続ける動機は二つある。一つは、自分の所属する社会が犠牲によって成り立つ社会であってはならないということ。大多数の幸せのために、少数の犠牲を容認するのは戦争の論理。成熟社会に入らなければならない現在、人の考え方も成熟すべき。もう一つは、農村社会を守らなければならないということ。社会は都市的社会と農村的社会からなっており、これまで日本の社会を支えてきたのは農村(山村、漁村も含めて)である。精神的に豊かで安心できる社会をつくるためには、農村を守り、人が都市と農村を自由に行き来できる精神的態度を醸成しなければならない。だから、福島に関わり続ける。(2016年11月27日)

知性による認識、感じることによる認識

今日は電車で大館まで行く。たっぷり時間があるので、内山節著作集2「山里の釣りから」を持参したが、さっそく最初の著者解題で気になるフレーズを発見。書き留めておく。

知性に裏付けられるかたちで認識されたものは、自分が本当に認識しようとしているものと一致するとはかぎらない。なぜなら知性は事前に予備的な知識をもっていて、その予備的な知識にもとづいて認識するという操作を加えるからである。

人間活動の影響を受ける自然現象の認識において、いまやモデルは研究を成立させる便利なツールとなっている。モデルといっても土台は微分方程式であり、シミュレーションは演繹的な思考実験ツールである。モデルにより認識された現象が対象のすべてをとらえているとは限らない。知性が認識をじゃまするということも考えられる。モデルをツールとして使いつつも、現象に身を浸し、感じることこそが、正しい認識、新しい認識に至る道なのではないかな。(2016年11月25日)

国立大教員定員削減、その前にやるべきことは

朝日は昨日に引き続き本日は国立大の定員削減問題を取り上げている。定員削減を嘆く前に、大学は学問を司る知の拠点として、真摯に教員構成を考えてきたのかどうか、振り返る必要がある。私の知る限り、多くの人事は重要な学問分野の維持・発展というよりも“優秀”という評価基準に踊らされ、他分野に対して優位性を誇示するために行われてきたように思う。背後には、論文・予算至上主義の評価制度がある。その結果、学生に幅広く学問の基礎を伝えられなくなっているように感じる。日本国民も、大学の序列ばかり気にしないで、人間形成のための教育を真摯に行っている大学を峻別する感覚を持った方が、この社会のためになることに気づいた方が良いと思うよ。そうなった時、初めて国立大が変わることができるのだろうか。(2016年11月25日)

国立大の若手教員、任期付き雇用が急増

朝刊を開けたらまず飛び込んできたのがこのヘッドライン(朝日)。今年度は63%だそうだ(40歳未満の教員)。このこと自体は悪いことではない。テニュア(常勤)になるにはスクリーニングはあっても良い。大問題なのはスクリーニングの方法にある。極端な研究偏重主義が横行し、論文の生産数が“優秀”の指標になってしまっている。大学教員の評価は、研究、教育、管理、社会へのフィードバックなど多面的な基準によるべきなのだが、研究のみが重視される選抜を経てきた元若者がいまや中堅となり、大学人、研究者の世界が狭くなっているように感じる。社会と科学者の分断の一因になっていないか。雇用自体が減っていることも問題であるが、これは社会全体の問題でもあり、多様な生き方を選択、行き来できる社会にしていかないとあかんなと思う。(2016年11月22日)

わかったつもりの環境研究

「世界のことがわかってきたような気になるのは、わからないものを切り捨てていくからである」(養老孟司)。朝日折々のことば(鷲田清一)より。その通りである。これは、ニュートン・デカルト的な科学の方法論でもある。ノイズを除去することにより、ピュアな自然の理を見つけ出す物理学の手法である。この考え方によると、世界は原理だけで動いているヴァーチャルな世界として見えてくるが、こんな科学が主流なのかもしれない。環境問題が喫緊の課題となっている現在、様々な科学が環境に関わろうとしている。しかし、環境は様々な要因が関わり、積分されることにより、問題の事象が出現する。原理だけで環境を理解したつもりになっても、それは虚構に過ぎない。環境に対峙する時は、様々な関係性を見つけ出そうとする努力が必要である。これをしないと、環境の本質はわからないし、環境問題も理解できず、ましてや、解決などほど遠い。わかったつもりの環境研究は、人の未来を創ることができるだろうか。((2016年11月21日)

地球温暖化言説

これは温暖化懐疑論ではない。私は地球温暖化は確実に進行していると考えている。大気二酸化炭素濃度が400ppmvを超えている現状では、演繹的に考えても温暖化は起きて当然であるし、すでに証拠はたくさんある。問題は、地球温暖化がもたらすとされる災害にどのように対処するかである。今朝のNHKで、河岸侵食により暮らしが脅かされているバングラディシュの住民が報道されており、侵食により土地が失われるのは地球温暖化によるヒマラヤの雪氷の融解と、ハリケーンの増加が原因と説明されていた。このことは完全な間違いではなく、一分の理はある。しかし、現在発生している河岸侵食は、ブラマプトラ川の自然の営みである。ヒマラヤから大量の土砂を運ぶブラマプトラ川は変遷を繰り返しながら平野を形成してきた。自然の恵みでもあり、堆積によって土地も生み出されつつある。土地を失った住民に新たな土地を与えることができないのは、人口問題であり、土地の再配分に関わる社会問題である。先進国が炭素の放出を減少させても、テレビに映っていた男性とその家族はちっともうれしくないに違いない。温暖化はそれとして対策を進める必要があるが、同時に、今苦しんでいる人が、今楽になるためにはどうすれば良いか。それを考えることが先決である。(2016年11月19日)

大学改革の本質

先週は出勤できなかったので、「学長と部局教員との大学改革に関する意見交換会」には出席できませんでした。報告を聞くと、やはり、予算とれ、論文を書け、目立て、ということなのかなと感じる。そうなると、私は千葉大学にとって価値ある仕事はやっていないのではないか、なんて気もしてくる。私の欠点は、自分に対する自信が不足していることなのだが、千葉大学に対する貢献はおそらく最高レベルだという自信だけはある。千葉大学が関わるべき分野において、きちんと千葉大学の存在感を主張していると思う。その代わり、忙しさがあるが。研究においても、世間の評価軸からはずれるかも知れないが、自分が正しいと考える信念を主張しているつもりである。それが、大学人というものなのだと私の世代は考えているはず。昨今ますます強くなっていると感じる縦のヒエラルキーの中で、主流にしがみつき、上の意向ばかり気にするようでは、大学というものはどんどん存在価値を失っていくばかりではないだろうか。文句を言ってもしょうがないので、私はやるべきことを心身にむち打ってやるだけなのであるが。大学改革は本質的な部分に踏み込んでいないように感じる。(2016年11月15日)

グローバルとローカル、マネーとライフ

トランプ氏がアメリカ大統領とは思いもよりませんでした。まだまだ世の中を見る目がないということで修行を積まねばと思っております。トランプ氏の選挙戦略を振り返ると、都市よりも地方を優先したとのことで、アメリカ国民がライフを重視したということなのであろう。アメリカという国はグローバルの最先鋒であるように見えるが、ローカルにおける家族主義も草の根の力として根強い。マネーとつながるグローバルよりも、ライフとつながるローカルが選択されたということなのだろう。しかし、トランプ氏はリッチマンでもある。これからどのような政策が出てくるのか、期待せざるを得ない。(2016年11月14日)

すぐ先の幸せ

パリ協定が発効とのこと。化石燃料に頼らない社会は目指すべき方向だと思う。しかし、テレビを見ると、水害や干ばつ害といった災害を減らすことが目的のようにも報じられている。間違いではないが、きわめて迂遠である。なぜ洪水が水害になるのか考え、そこを是正する。干ばつの被害を少なくする方法は無いのか。何が被害に遭ったのか。モノカルチャーの企業型農業か、それとも家族農業か。どういう社会を目指すのか。どうすれば、人が幸せになるか。今生きて、暮らしている人の幸せを求めることこそが、未来を作るのではないだろうか。(2016年11月4日)

目標達成を共有する研究

勝手にやっている環境研究、応用研究は嫌いである。相手と共同、協働せずに、勝手に役に立つと決めつけて行う研究。まず、相手と目標と、その達成を共有する。そして、それぞれが役割を果たす。それが課題解決型の研究である。学会で若者のポスター発表を批判してしまったが、許せ若者。社会に出たときにきっとわかる。(2016年11月2日)

高ければ良いのか

日本リモートセンシング学会新潟大会に参加中です。講演に対する質問で気になったことがあります。計測の精度と分解能は高ければ良いのか。少なくとも実利用、科学の成果の社会への還元を考えると、そうとは限りません。応用分野で要求される達成レベルやコストとの関係によって計測のあり方は決まります。研究者は、応用分野を良く知らなければなりません。一方的なスペキュレーション、研究者の世界の狭隘さに起因する質問は空しい。科学と社会の分断された状況が見えてしまう。 (2016年11月1日)

大川小津波避難判決「過失」

津波で子供を失ったご家族の気持ちは察するにあまりある。子供たちの冥福を祈りたい。一方、誤った判断をしてしまった先生たちの思いもわかる。正しい判断ができなかったのは、日本の社会の中で人と自然が分断されていたから。また、災害の現況において、正常化バイアスが働いたともいえる。これは人に備わっている心理でもある。今回の判決で残された先生方や関係者はつらい思いをされていることだろう。しかし、賠償を命じられたのは市と県である。これは初等教育を管轄する機関だからであろう。一方で、国の責任もある。指導要領を決めるのは国だからである。戦後の初等、中等教育は人と自然の関係を重視してこなかった。とはいえ、今世紀に入ってからは防災、減災のための仕組みづくりや指導要領の改訂はある程度やってきたともいえる(十分とはいえないが)。では、大川小の子供たちはなぜ死ななければならなかったのか。このことを社会全体の問題ととらえ、日本国民全体が責任を負わなければならないのではないか。暮らしと自然の関係を見直し、自然を理解する中から自分を、家族を、地域を守る知恵を身につけなければならない。そして、防災、減災を人任せにせずに、様々な施策や教育行政にも意見を言えるだけの知恵を持たなければならない。学校でも自然と人の関係についてもっと教えてほしいと。もう、十分経験はしているのだから。(2016年10月27日)

がんばれば、できる

これは概ね正しい。しかし、“がんばる”を勘違いすると、がんばっても、できなくなる。“がんばる”とは、“何”をがんばるのか、はっきりと意識し、“何”の世界のスタンダードを知り、自分のスタンダードを位置付け、それが世界のスタンダードの下にあったら、世界を超えるように努力することである。与えられて、ほめられて、得る自己満足は“がんばる”ではない。研究の世界の“がんばる”は常日頃から伝える努力はしているつもりであるが、なかなか伝わらない。人の運命を変える力を持つことは気持ちの良いものではないが、評価者として、ならぬものはならぬ、なのである。(2016年10月25日)

専門知を備えた第三者-Honest Broker

朝日朝刊、神里さんの「民主主義と専門主義の相克」から。「もんじゅ」や「豊洲市場」の問題における専門家のあり方について述べた記事であり、神里さんは専門知を備えた第三者として「議会科学技術局」の設置を提案している。しかし、誰をメンバーにするのか、それを誰が判断するのか。「議会科学技術局」の設置、運営に関してさらに第三者機関が必要になってしまうのではないか。そもそも、学術会議という第三者機関が存在するのだから、ここが担当すればよい。とはいえ、学術会議といえども、個々の会員は学者村の住民であり、専門家ではあるだろうが、包括的な視点を持った調整役になれるだろうか。では、どうすればよいか。問題を分析し、異なる立場、意見を理解し、複数の提案ができる人材、R.PielkeのHonest Broker(複数の政策の誠実な仲介者)が必要になる。Honest Brokerを輩出できるかどうか、それが日本人の国民力なのではないだろうか。それは大学の教育力でもある。(2016年10月21日)

為し得ることが非常にたくさんあるように思えるから不安なのであり...

再び、“折々のことば”(鷲田清一)より。あ、なるほど、そうかも知れんな。やりたいこと、やるべきことがたくさんあり、やるべきことの期限もずんずんやってきて、それでじたばたしている。乗り越えなければならない仕事もたくさんあり、乗り越えなかったら、それは専門家としての“死”。こんな状況で不安でないわけがない。やりたいことは、為し得ることであるはずだが、達成した課題は多くない。それがまた不安を煽る。なぜ達成できないのか。それは自分一人でやろうとするから。組織化すればよいのだが、それが苦手であるし、すぐに別のことををやりたくなってしまう。学生に深めてもらいたいとも思うが...。表記のフレーズは、「できることが何もないから退屈なのである」(ミハイ・チクセントミハイ)と続く。これはちょっと違うと思うよ。暮らしの中に、できることはたくさんある。読書、散歩、畑仕事、...それで満足するのが最高の幸せなのかもしれない。(2010年10月19日)

よく考えたら会社員時代は友達が一人も増えていなかったんですよ

朝日朝刊、“折々のことば”(鷲田清一)から。暮らすことより、働くことを優先させると、友達は増えないし、“世界”は広がらない。研究者の“世界”も同じ。研究を暮らしより優先させると、研究者のコミュニティーが“世界”になる。それは広い“世界”か、それとも...。こんなことを思い出した。うちのセンターの運営について伺うために、外部の識者を招いて意見を伺う仕組みがある。その折りに、花形先生たちが(失礼な言い方かも知れないが、そう表現するのがふさわしい)、研究の世界の天下国家を論じている。話はもっともであり、私も同意できるのだが、何のために、誰のために、という点が見えてこない。研究者ワールドにおける話なのである。この仕組みには現場の科学者である行政の研究職の方にも入って頂いている。地域への貢献も重要な課題だからである。花形先生たちの天下国家の話を聞きながら、ふと現場で汗する立場に身をおくと、その話が異次元の世界の議論に聞こえてくる。学者の世界を、外側から俯瞰しているような気分になってくるのである。なんて浮き世離れした議論なのだろうと。研究者ワールド、学者村は世間の外側にある。そんな学者の科学はテレビの娯楽番組と同じ。スイッチオフで意識からは消える。それでも、世間は現前に存在している。世間のための科学もあって良いし、絶大な価値がある。日本人の博士課程学生が増えない原因はこんなところにあるのではないかな。学生も世界の大きさに気がついている。(2016年10月18日)

「若者の貧困」に大人はあまりに無理解すぎる

という記事がYahooニュースにありました(東洋経済オンライン)。「若者なんだから、努力すれば報われる」というわけではないことは、まったくその通りだと思う。ただし、ほとんどの若者は、普通に就職して、何とかやっているわけで、一部の若者がうまく社会に適応できなかったり、運が悪く、しんどい状況になってしまうのだと思う。こう書くと批判を浴びそうだが、「若者の貧困」状況にならないように、必要なことを伝えることも大学人としてやりたいことの一つである。それは、きちんと将来について考えること、そうあるためには今何をすればよいか、考えること。そして、地道に、誠実にそれを実行すること。あまりに単純で当たり前のことですが、その行為の中で関係性を深めていくことが大切なのだと思う。社会における人の価値は関係性によって決まってくる(人としての普遍的な価値+αの部分)。いろいろな人と出会い、関係性を深めていくことで、人生が決まってくるのではないかな。(2016年10月17日)

世の中を変えるために必要なものは

昨日のシンポジウムで高校の先生が業務の忙しさについて語っていたが(教員としての理想を語る中で)、今時は生徒も評価に追われ、忙しいのだそうだ。もちろん、大学教員も、会社員もみんな忙しい。それなのに、日本の生産性が上がっていないことが大問題なのだが、抜本的な改革方法はあるのだろうか。問題は縦のヒエラルキーの中における局所的成果、業績主義、それから人の“世界”(人が関係性を持つ範囲)が狭くなっていること。自身の評価を得るための行為が、関係性を通じて及ぼす影響に想いが至らなくなっている。人の視野が狭くなっており、世界全体を俯瞰することができない。“世界”が分断されることにより、世界が良くならなくなっている。さて、問題点を挙げることは簡単なのだが、どうすればよいか。ひとつの方法は、トップレベルの目的を意識すること。例えば、大学の目的は、教育・研究を通じて社会に貢献すること。文科省に気に入られること、予算を獲得すること、などが究極の目的では無いことは明らか。とはいえ、こんなことを言えるのは私が大学の教員だから。家族を抱えた会社員は、ひたすら耐えることしかできないかも知れない。そんな時、必要なものは勇気であり、それを支える仲間なのだと思う。コミュニティーが勇気を与えてくれる。そして世界が良くなっていく。そうありたい。(2016年10月17日)

大きなムーブメントへ

水文科学会公開シンポジウムを聴いた。「身近な水環境と水文科学−水環境保全と学官産民の連携−」と題して、いろいろな連携のお話を聞くことができました。こういう内容が水文科学会の味だろう。あるいはコンビーナーである小寺さんの味。新河岸川における様々な取り組みは耳にはしていたが、まとまった話を聞いたのは初めて。印旛沼流域水循環健全化と同様な取り組みであるが、恐らく抱えている問題も類似しているのではないか。今後、情報交換を進めて、市民同士のつながりができれば良い。新河岸川の統合的流域管理も、市民の目があることによって実質的な成果に到達できるのでは。そうでないと単なる数値の積み上げが成果になってしまう(間違っていたらご指摘ください)。全国一斉水質観測や諏訪湖・天竜川の取り組みも今回初めて知った。印旛沼流域でも、市民協働の一斉観測をやりたいと考えているのだが、シンポジウムを聴きながら、印旛沼流域で取り組むべき課題を考える。印旛沼流域の特徴は台地−低地系の水循環における地下水の重要性。湧水の一斉調査を市民協働で復活させなければならない(湧水調査を継続して実施してきた堀田先生の努力を引き継がなければならない)。その際、硝酸性窒素が重要な項目になるが、課題は農家との関係。農業は窒素汚染の原因ではあるが、農家はともに解決を目指す仲間である。問題解決を共有するフレーム創りが今後の重要課題であろう。そのフレームが地域ごとにつながれば大きなムーブメントになる。(2016年10月16日)

学会の価値の高め方

水文科学会開催中。会員数も予算も漸減中で、みなさんの挨拶はどうも後ろ向きの内容が多い。それは、我々の努力が足りないという面もあるが、社会全体の問題でもある。そこをどうかしよう、という観点も学会としては重要なのではないだろうか。水文学を専門とする大学教員も減少中ですが、大学の人事においては、未来に貢献する知の拠点としての大学のあり方を考え、社会を俯瞰しながら、どの分野を強化したら良いか、という議論にはなりにくい。論文数がいかに多いか、その中で、英語の論文がたくさんあるか、どれだけ予算をとったか、といった数値ばかりが重視され、論文生産が得意な分野が勢力を拡大していく。それは管理者や花形先生を幸せにする。その結果、野外において地道な観察、観測を積み上げる野外科学者はどんどん生息域を狭めている。これがいかに社会の利益を損なっているか、検証する時期が来たように思う。そこで一つ考えました。水に関わる法定計画を取り上げる。例えば、5年ごとに見直される湖沼水質保全計画といった計画の事後評価に関わる文書を収集し、その中で水循環に関わる科学の成果がどれだけ活かされているか、あるいは活かされていないのか、検証する。その上で、学会として提案を行う。それも単なる批判ではなく、こうやったら良い、といった前向きの提案を行う。こんなことの積み重ねが学会の価値を高めるのであろう。(2016年10月15日)

市民と共同する水文観測ー金はなくとも心は熱い−

水文科学会の新企画で、ランチミーティングをやることになった。その言い出しっぺの依頼があり、あわてて書いたのが下記の文章(編集前の原文)。備忘録として書き留めておく。

研究という行為は独創性(オリジナリティー)の達成が目的であるため、先取件(プライオリティー)をとることが最も重要である。その達成には新しい技術を手にすることが最も手っ取り早い。しかし、研究者の世界もお金の回りが悪くなっており、そうそう高価な機器は手に入るものではない。では、どうしたらよいか。研究という行為自体を見直すことも必要な時期が来てるのではないだろうか。  2012年のリオアフター20では、1992年のリオデジャネイロサミット以降、莫大な研究予算が投じられたにも関わらず、地球環境は良くなっていないことについて議論された。それを受けて提案された新しい環境研究イニシアティブがフューチャー・アース(FE)である。FEでは科学者がステークホルダー(SH)と協働して立案、実施するトランスディシプリナリティー(TD、超学祭)の実現を通した問題解決型研究を目指している。  超学際については、その共通の理解を目指した議論が行われているところである。その中には、SHとは、TDとは、さらに問題とは何か、という深遠な問いかけを含むが、水文科学のより所である現場から考えてみたい。  一般に研究という行為が一般性の解明を目指すのに対して、現場における問題は具体的なものが多い。湧水を保全したい、水質を良くしたい、生き物を増やしたい、といった問題は地域固有の個別性に依っているものが多い。一般性を至高のものと考える研究者には物足りないかも知れないが、実は一般性とはベースにあるもので、その上にある個別性によって課題が特徴付けられている。  よって、課題解決型研究は科学知だけでなく、現場の知を統合する必要がある。課題はあらゆる要因が積分されて出現しているので、包括的な視点が必要となる。包括的な視点こそ、現場の科学者が持つべき視点ではないだろうか。  例えば、流域の硝酸性窒素の問題は、農業、畜産等、窒素の付加に関わる事情、水文循環のメカニズム、地質構造、特に沖積層の構造、等々たくさんの要素を数え上げることができる。その中から、一部を切り取って研究を行い、論文を書くことが従来型の研究者の仕事である。しかし、現場のステークホルダーの問題は硝酸性窒素濃度を下げることである。そこまで踏み込まないのが科学者であるという立場もあり得るが、問題解決の協働の場で科学者は自身の世界の狭さを実感することだろう。  現場のSHには定年を迎えた方々も多い。それらのSHは現役時代に多様な分野の専門家であった方も多く(地質屋、測量屋、行政職、など)、問題解決を共有した場で、それぞれの役割を果たすことができる。そこに水文学者の知を生かすことができるだろう。  問題解決を目指した場では、水文諸要素の精度も研究と現場では異なって良い。硝酸性窒素濃度(mg/l)の5が6になってもたいした影響は無いのである。水頭もmm単位で計測しなくても、動水勾配の方向がわかれば良い場合もある。水質分析は簡易測定器でも十分であり、水頭は塩ビ管があれば何とかなる。水面計だって自作できる。このような問題解決を目指した協働の場で、それぞれのSHが役割を果たすことにより、問題解決の糸口が見えてくる、というよりも個別水文素過程のメカニズム研究だけでは、問題は理解さえできないかも知れない。この様な協働の場で包括的な視点を提供することで役に立つことが現場ベースの水文科学者の役割であり、喜びではないだろうか。そういう時代がきたのである。

 どうなることかと思いましたが、実際始まったら話したいことはたくさん出てきて、消化不良になるくらいでしたが、良いミーティングだったと思います。(2016年10月15日)

もうひとつの農業

朝日の朝刊2面に農業とITのl記事が大々的に掲載されていました。“温暖化や人口爆発が予想される私たちの未来を救うかも知れない”ということで、希望に満ちた記事のようにも思える。しかし、ここで扱っている農業とは何だろうか。必要を満たすための農業、それとも市場経済の仕組みの中で作られた需要を満たすための農業だろうか。農家、特に小農(家族農業経営体)は自分の食料は自分で生産でき、地域のコミュニティーの中における交換で必要を満たすことができる(そのような農業を目指したい)。一方、都市的世界の需要を満たすための農業は低コスト、大量生産、流通の効率化を目指す農業であり、その価格は市場が決める。とはいえ市場はいつも成功するのだろうか。この記事は都市生活者が書いたものだろう。もう一つの農業の姿が見えない(私は“農”と呼びたい)。グローバルな市場に乗らなくても、暮らしの安寧、地域の安心を担保できる農がある。(2016年9月25日)

大学の教育目標

 最近世の中おかしくなっているな、と思うことは多々あるが、"研究者”のあり方もそのひとつ。もんじゅは実質的に廃炉ということになったそうであるが、もんじゅ運営に対する批判のひとつにあるのが、研究至上主義。発電よりも論文が優先で、血税を使っているのにコスト意識もなかった、という(朝日朝刊)。これは原子力に限ったことではなく、大学も同じ。千葉大学は研究大学のカテゴリーに入ったということで浮かれている場合ではなく、道を踏み外さないように細心の注意を払わなければならない。どうすればよいのかは難しい課題だが、まずはある施策が誰を幸せにするか、を考えてみると良いのではないか。管理者なのか、教員なのか、職員なのか、学生なのか、あるいは全員なのか。ただし、人の世界(その人が関係性を持っている範囲で構成される世界)が狭くなっている昨今、総合的に、包括的に判断できる人材が少なくなっているのも確か。ここにこそ教育機関としての大学の教育目標があるのだが。(2016年9月22日)

サーバー放棄に際して

ホームページを刷新しました。教員個人が外部に開かれたサーバーを持つことに対する批判、圧力が高まり、いよいよ維持を断念せざるを得なくなりました。今後は成果の発信は大学を離れて、外部サーバーからとなります。インターネットは本来は自由な情報発信と、交流による新しい知識、価値の生産につながるプラットフォームとして機能するはずなのですが、少数の心ない人のために、大多数の便益が損なわれています。専門家だけが使える道具になってしまったことは残念です。人というのはそんなものということを前提にして行動するのが社会人なのでしょうが、私はお人好しというのも悪くないなと考えています。悪人を想定しながら生きなくてはならない社会は何とも味気ないものではないでしょうか。(2016年9月20日)

仕切り直し2

 4月に仕切り直したつもりだったが、この半年間はどうも精神的に奮い立たず、ひとつのことをやり遂げるのに大きなエネルギーを必要とし、すっかり疲れてしまっている。最低限のやるべきことはやっているのだが、時間の流れの中に漂流している様な感じで、未来が霞んでいるような気がする。その先にあるのは老いと死のみか。こんなことではいかんので、サーバー変更を機にまた書き込みを復活させることにする。(2016年9月20日)

仕切り直し

福島も新たなステージに入り思いを新たにしたところで、申請していた科研費が不採択との通知を得た。ショックは大きいが、狭義の研究から、トランスディシプリナリティーを目指した広義の研究に移行しなさいという神の啓示と考え、思いを新たにすべく奮い立っているところです。まずやるべきことは除染検証委の報告書に書いた放射線防護のための地図を作ること。そして山林の放射能対策について提案を継続することである。問題解決の達成を共有する中で、研究者を含めた個々のステークホルダーの役割は相対化する。従来型の科学ではなかなか厳しいことではあるが、トランスディシプリナリティーの中ではステークホルダー全員による達成である。このような科学を作らなければならないが、世界はこの方向で動いている。フューチャー・アースの基本理念を大切にし、損なわれないように監視していかなければならない。(2016年4月1日)

これからの山木屋2

最終報告書を手交し、山木屋地区除染等検証委員会は解散した。除染の検証部分では数値について議論があったが、私は空間線量率の値は入れて良かったと思う。現場で計測できるのは空間線量率だけですので、目安としての値を現場で知り、事故による被ばくを意識することが大切だと思う。高度成長期のように犠牲のシステムで国が運用され、忘れることが解決という社会であってはならない。提案部分では十分ではないが書きたいことは書けた。基本相当としてこれからの具体的な施策の根拠としたい。今後どのように山木屋に関わっていくか、そこが問われるステージに入ってきた。(2016年3月29日)

これからの山木屋

昨日の報告会に引き続き、川俣町山木屋地区を一通り見て回った。農地の除染は、やり方についてはいろいろ異見・意見もあったのだが、終わってみると環境省は良くやったなと思う。事故前は川俣町の米の生産量の9割を占めた広大な圃場が裸で横たわっている。これからどのように農の営みを復活させていくか、その課題の大きさに改めて圧倒される。大きな太陽光発電施設も国道沿いに見え、帰還に向けた町の施策も着実に進んでいる。この農地に草を生やしてしまうことは許されないことである。では、どうするか。もう5年も関係性を保ってきた。外の研究者としてではなく、ステークホルダーの一員として山木屋の未来を見つめ、できることを考えて行きたい。(2016年3月27日)

スター・ウォーズの世界

家族に連れられてスター・ウォーズを見てきました。映画は面白かったのですが、ひとはいつまで戦い続けるのだろうか。ナブ-侵略から60年以上経っても戦いは終わりそうもない。その間、ひと(宇宙人もひとです)がヒョンヒョンと死んでいく(水木しげる風の表現)。ストーム・トゥルーパーたちの死は顧みられないが、ヒーローの死は感動的に描かれる。これがヨーロッパ的な世界なのだと思うが、藤沢周平や山本周五郎の世界が懐かしい。一方、スター・ウォーズに登場する人物たちは文明人である。ジャンク屋が各所にあり(ジャクーやタトゥイーン)、宇宙船でさえ自ら修理してしまう。レイちゃんも普段はスカベンジャーをやっているのだが、ミレニアムファルコンを操縦してしまう。文明人は文明の便益だけを享受するのではなく、仕組みを知り、リスクも受け入れる。宇宙を航行しながら、プリミティブな生活もできるが、暮らしの中でも技術は使いこなしている。快適な映画館でポップコーンを食べながら3D映像を楽しみ、都市的生活に帰って行く多くの人々は果たして文明人だろうか。(2016年1月2日)

マイナー・サブシステンス

正月休みに読み残していた文献を読んでいるが、環境社会学研究と農村計画学会誌でこの用語に出会った。ついでに原典「民俗の技術」も発注。アマゾンでは4000円もプレミアがついていたので、出版社に直接WEB注文。一応受け付けられたが、在庫があるかどうか。マイナー・サブシステンスとは、メジャー・サブシステンスに対比される生業活動であり、山菜やキノコ採りといった、その労働の中に遊びや競争(山中の秘密の場所、なわばりといったこと)も含み、生きるということの総体の一部を構成する生業活動である。福島では原子力災害被災地域の避難解除が一部地域で始まった段階にあるが、帰還後の問題点のひとつはマイナー・サブシステンスに対する補償の枠組みがないことである。日本の被害補償は経済的指標による地物補償が優先され、それも減価償却主義でなされる。たまたまテレビCMをみていたら、子供が巣立った夫婦がマンションを買い換えて、差額で海外旅行に出かけるというシーンがあった。これは都市的世界ではあり得るが、山河草木のすべてがふるさとである山村では容易に受け入れられることではない。マイナー・サブシステンスの場を含めたふるさとの回復こそが福島の再生につながる。世界はひとつではない。(2015年1月1日)

元旦のご挨拶

ご無沙汰しております。旧年中は大変お世話になりました。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。
失礼なやつだと思われていると思いますが、年末から「明けましておめでとう」などと書くのはおかしいと感じ、結果として年賀状は卒業しつつありますので、元旦のご挨拶はWEBにて失礼させて頂きます。
 2015年は“社会の中の科学、社会のための科学”の実現と、新たなリーダーシップについて考えると書きました(2015年1月1日の記述参照)。社会と科学の関係については、福島において科学と社会の分断(これは科学と現実の分断といってよいかも知れません)を強く感じており、一科学者として微力ながら発信を続けたいと考えています。まず、日本地球惑星科学連合2016年大会において、「環境問題の現場におけるScientistsとStakeholdersとの協働」というセッションを企画しました。そのスコープは下記の通りです。是非とも各位にはご登録頂きたいと思います。

多発する地球環境問題を背景として、社会のための科学の実現は科学者の喫緊の課題となった。課題解決型プログラムであるフューチャー・アース(FE)ではStakeholdersとの協働によるTransdisciplinarityの実現が重要な達成目標として掲げられている。しかし、多層的なStakeholders、Stakeholder間の利害調整、Decision makerとの関係等、考慮すべき課題は多い。本セッションでは問題の現場における協働の実践例を通して、社会における科学の役割と、課題解決への科学者の関与のあり方について議論する。

環境問題は、それが地球環境問題であろうと、具体的な問題は地域における人と自然の関係性に関わる問題として顕れます。地域を基本単位として問題の理解と解決に努めることを引き続き優先させたいと思います。グローバルとは実体ではなくフレームに過ぎず、グローバルは相互に関係性を持つ多数の地域で成り立っています。よって、地域が良くなることがグローバルが良くなることにつながります。個々の研究者の評価は相対化されますが、それを受容する態度が環境研究者には必要だと思います。論文数、予算獲得額による評価は地球と研究者の将来にとってけっして望ましいことではありません。
 リーダーシップについてはまだまだ修行が足りません。多くの方々の力を借りて、環境を良くする、地域を良くすることに励みたいと思います。日頃の評価では常に求められていることですが、イニシアティブをとることを目的にしてはいかんと思います。(2016年1月1日)


2015年12月までの書き込み