口は禍の門

2015年はいろいろな変化の進行が感じられた年でした。大学では文科省−大学経営陣−下々の縦のヒエラルキーの中でトップダウンが強まり、枠をはめられた中で外形的な成果を求められているような感じが強まっています。世界の研究者コミュニティーの中で日本のステータスがだんだん低くなってきていることが明らかになってきたような気がします。研究にかけることができる時間は確実に減っています。教育に関しても学問を教授するという本来の役割以外の仕事が増えています。このままでは日本の基礎科学分野のノーベル賞受賞は将来的に減るでしょう。一方で、環境分野において課題解決志向の研究を様々な主体の協働で行う新しいモードの国際イニシアティブが始動しました。研究者も「社会の中で 役割を果たす」ということが強く求められるようになっています。ノーベル賞も近年、山中さんのように「役に立つ」ということが重視されてきましたので、ノーベル賞が変われば、日本の受賞も将来もあるかも知れません。もっとも、環境分野のノーベル賞はありませんが、何より環境が良くなること自体が最大の成果として社会に認知され、研究者も幸せになる、そんな時代が来れば良いのですが。(2015年12月31日)

新年度が始まった。桜はほぼ満開だが、今日は曇天で、雨も降りそう。今年の桜は十分堪能する前に散ってしまいそうな予感。心機一転、今年の計画を立てようと思うが、最重要課題は教育である。昔と比較すると大学生の成熟度は確実に落ちている。社会人として通用する精神を修得してほしいのだが、基本は与えること、与えられることの間に信頼感、責任感を醸成すること。それが卒論以降の教育の目標である。(2015年4月1日)

日本が絶対避けなければいけない道は、“犠牲によって成り立つ利己的な社会”に向かう道である。犠牲に対しては償わなければならない。利己的では幸せになれない。こんな当たり前なことを口に出さなければならない局面を我々は迎えてしまった。2015年は後から振り返ったときに、あの年が転換点だったよね、と言える年にしたい。 (2015年1月1日)

2014年12月までの書き込み


諒解レベル

放射線アドバイザーによる専門家意見交換会と称する集まりに出てきた。専門家であるはずなのだが、年間追加被ばく線量の20mSv、1mSvの値に対する考え方が定まっていないことに若干の驚きあり。思わず苦言を呈してしまった。発がんに関する年間追加被ばく線量の科学的根拠があるは100mSvのみ。20mSvはICRPの推奨値で、背後の考え方にはNLT(しきい値なし直線)仮説がある。ICRP勧告を参考にした国の除染目標値は20mSvだから、除染検証委員会では20mSvを下回ったかどうかをオーソライズするのが役目であり、それしかできない。帰還の基準値として5mSvがいいか、3mSvがいいか、なんて誰も根拠を述べられない。あるのは諒解レベルのみ。事故による被ばくを国、東電が如何に認め、償うか(ただし、施策、予算を握る国に対峙するのは行政、避難者とも躊躇あり)。行政と避難者が一体となって地域の未来を語る中で諒解レベルが決まってくる。避難自治体ごとに異なる事情があるので、諒解レベルはたくさんあって良い。様々な決断を尊重し、複線型復興を推進する中で、帰還希望者の諒解レベルを模索すべきである。(2015年12月6日)

津波石

静岡大防災総合センターの研究会の巡検で良いものを見た。伊豆下田の海岸にある津波石。巨大な岩塊に付着するフジツボの位置、年代測定の結果から、岩塊は転動しており、それが起きたのが安政東海地震であったことがわかったという。これこそ地質学、古生物学の真骨頂であろう。伊豆で津波の記録が少ないのは、津波のために文書が流失することと、実は、某大学が古文書を借り出したきり返却していないからだという。研究者以前に人としてだめですな。記録が少なくても地質学的な証拠から津波の歴史を知り、人が津波に備えることができるようになれば、それは地質学の立派な社会貢献である。(2015年11月27日)

チェルノブイリの祈り

今、読み終えたところ。科学の作法に則れば、そこに書いてあることが事実かどうかは保証されない。しかし、私の心は、それが真実なのであろうと認識する。当時のソ連と、今の日本は同じ。原発を運用する精神的態度ができていない。犠牲のシステムで原発が運営されている。犠牲のシステム、これをどう乗り越えればよいのか。その解こそが、現在、世界で起きていることの解そのものではないか。この本は苦界浄土にも似ている。犠牲のシステムで切り捨てられた個々の人、家族の苦しみは一緒。人類はもっと叡智を発揮できるのではないか。あきらめたら終わり。(2015年11月23日)

無用の用

朝日を読んでいたら荘子に出会った。文科省の文系学部不要論に端を発したコラムであるが、大学人、研究者は荘子の意図を勘違いしてはいかんだろう。なぜなら、「不材の木」は評価など求めていないから。ましてや、地位、名誉、予算などは。大木の思いがあるとすると、生を全うすることだけである。19世紀の科学者(自然哲学者)は自らの好奇心を満たすために、努力して貴族のパトロンを捜した。説明し、理解を得て、実行し、責任を果たすという3ステップを達成したということ。20世紀の科学者はパトロンは国になったが、その予算の源は税金である。「社会のニーズを見据えた実践的な職業教育」は大学における当然の任務である。大学人は時代の背景をきちんと理解し、時代が求める役割を果たさなければならない。自らの好奇心を満たしたいのであれば、説明責任を果たし、税金負担に対する国民の了解を得ることが先決である。とはいえ、大学人と大学経営者がこのことをどこまで意識しているか、少し頼りなくもある。(2015年11月23日)

研究は共同作業

これは訳がわからない記事だなぁ。卒論の盗用とされている部分に、深い事情がありそうである。

 福岡教育大学(福岡県宗像市)は5日、教育学部の50代男性教授が執筆したスポーツに関する五つの論文に盗用があった、と発表した。処分は検討中という。/大学側によると、告発を受けた日本学術振興会から昨年5月に連絡を受けて調査し、指摘された3論文で盗用を認定。さらに2論文で盗用を認定した。教授は参考にした論文や文献を挙げていたが、引用と自分の論考を区別せず、記述が似ていることなどから盗用と認定。このうち三つの盗用は悪質性が高いとした。/指導した学生2人の卒業論文からの盗用も認定されたが、教授は、資料やアイデアを示したので権利は自分にある、などと説明。五つの論文について「盗用したつもりはない」と話しているという。記者会見で桜井孝俊副学長は「倫理観の欠如に尽きる。慚愧(ざんき)に堪えない」と語った。/大学側は、教授による大学院生らへの研究指導を停止しており、担当授業についても近く判断する。(朝日新聞デジタル)

大学の卒論には大きく分けて二つのタイプがある。一つは、学生が独自のアイデアと予算に基づいて、実行し、成果を纏めたもの。二つ目は、教員がアイデアと予算を出し、学生が実行するもの。もちろん、この中間のタイプもあるが、理学系ではほとんどの場合、教員が自身の研究計画に基づいて提案し、学生が実行する後者のタイプの研究だと思われる。教員は学生指導に於いてアイデアだけでなく、多大な労力、予算を注ぎ込む。その成果は学生と教員の共同財産といえるだろうが、成果に責任を持つのは教員である。このニュースの事例はどうだったのだろう。学生が“与えられて得たもの”を“自分のオリジナル”と勘違いした可能性も考えられる。単なる学生の未熟、教員と学生の人間関係の問題に過ぎないのではないか。このような時、大学は学生サイドに立つ傾向がある。地位の高い人の“いい人病”によって、真実がねじ曲げられる。学生、教員どちらも幸せにならず、大学は衰退する。こんなことでなければ良いのだが。記者は真実を追究してほしい。(2015年11月6日)

宇宙は夢、それとも

「こうのとり」も無事打ち上げに成功し、由井さん待つISSに向かった。テレビでは宇宙関係の番組がたくさん放送されている。宇宙にはロマンがある。スターウォーズ、スタートレックは私も大好きである。しかし、あるコメンテーターの「いずれ人類は宇宙に向かう」という言葉が気になる。人が宇宙に行くのは夢である。しかし、人類が宇宙に向かわなければならない背景には何があるだろう。地球における生存の可能性がなくなった...。ここはじっくり考えてほしい。ある歌を紹介したい。セサミ・ストリートから「月には住まない」。実に良い曲です。

Well, I'd like to visit the moon
On a rocket ship high in the air
Yes, I'd like to visit the moon
But I don't think I'd like to live there
Though I'd like to look down at the earth from above
I would miss all the places and people I love
So although I might like it for one afternoon
I don't want to live on the moon

私は地球が好きだ。まず地球のことを考えたい。(2015年8月22日)

教養はなぜ大切か

朝日に「教養なんていらないの」という連載記事がある。もちろん、教養は大切に決まっているのであるが、世の中では教養と勉強がごっちゃになって、勉強なんていらないよ、という言説に流されている人が多いのだろう。勉強は必要であり、人生において判断を迫られたときに必要なデータベースとなるのが勉強の結果得られる知識なのである。経験も大切であり、十分な経験がない段階でも、ある程度の経験を積んでおけば、勉強の結果得られた人の経験をわがこと化して自分の経験に付け加えることができる。知識の重要性がわからない人が増えているように感じるが、それはニュートン・デカルト型の思考に慣れてしまい、原理がわかれば応用ができるという考えに囚われているからではないか。今、近代文明人として日本人が乗り越えなければならないのは、ニュートン・デカルト的な真理の探究型思考から、ゲーテ・カント型(と言って良いか検討を要するが)のいろいろなものの関係を見極めるタイプの思考への転換だと思う。先の連載で、寅さんがとても良いことを言っていることを知りました。

...さくらの息子の満男から「何のために大学に行くの」と問われた寅は「(人生の一大事に直面したときに)勉強したヤツは、自分の頭できちんと筋道を立てて、はて、こういう時はどうしたらいいかなと考えることができるんだ」と。

寅さんは調整型リーダーの代表格であり、いろいろな知識、経験を総合化して、最も良い解決策を見つけることができるリーダーである。頭の中にデータベースを作り、経験で活性化していく、そんな態度を醸成することと、もう一つは品格を身につけるために、教養を大切にしなきゃあかんと思うよ。(2015年8月20日)

衰退の始まり

川内原発が再稼働したそうな。この国の行く末に感じる不安がますます大きくなってくる。日本は近代文明国家であるはずである。そうであるなら、原発のもたらすあらゆるリスクとベネフィットを理解し、リスクには覚悟を持って対応すること、原発の仕組みを国民皆が理解し、あらゆる場合を想定して国民監視のもとで原発を運用すること、これができなければ近代文明人ではない。文明社会の野蛮人であり、文明は衰退することを意味している。日本は「ということになったかどうか」社会から未だ脱却できずにいる。「なったかどうか」、ではなく、「なった」ということをきちんと担保できる社会にしていかなければならない。まず、広域放射能汚染に対して被災者が納得のいく対応策を実行すること、廃棄物処理まで含めた原発運用の具体的なロードマップを作成すること、これができない限り、原発は凍結すべきである。犠牲のシステムによって成り立ってきた日本の社会は大きく変わらなければならない。(2015年8月11日)

科学的な判断とは

川俣町山木屋地区除染等に関する検証委員会の中間報告も今日の町政懇談会で住民説明を終え、一段落した。とはいえ、内容はまだ満足のいくものではない。内容は健康影響と提言に分かれており、前者では「放射線健康影響懸念なし」との中間結論を出した。これは「科学的根拠に基づいて」ということなのであるが、これは発ガンリスクに限ったもので、そもそも低線量被曝については「科学的」であることがはなはだ難しい。信念と科学の中間領域にあるのであるが、国際的には、どんなに小さくとも線量に応じたリスクがある、いわゆるLNT仮説に基づくというコンセンサスがある。LNT仮説に基づき、バックグランド線量を越える被曝を事故による被曝として明確に定義したいのだが、バックグランドの科学的決定も難しいし、政策的定義もすこぶる困難である。事故による被曝を加害者・被害者関係として捉えることさえ、国との力関係の中で難しい現実がある。私は理想家であるが、それだけでは時間という壁が立ちはだかる。人の一生はそんなに長くないのである。理想と現実の中で折り合いをどう見いだすかという議論になるはずである。委員会の中では私も妥協してしまったのであるが、そもそもステークホルダー全員が腹を割って話し合うところまではいっていないし、それはきわめて困難なことでもある。いずれにせよ、たたき台ができたので、最終答申に向けて議論を深めたい。最終答申間までの半年の間に、科学的な議論ができる下地を作りたい。サイエンティストはいっぱい山木屋に入って研究し、論文を書いているのだから。(2015年7月29日)

新しい世界の可能性

今朝、映画「ジヌよさらば」の紹介番組を見た。お金恐怖症の男の物語。1円も使わずに生きて行くことができるのか。1円も、というのは難しいが、世の中金に流されない暮らしをしている方々は確実にいる。鹿児島県の小崎さんはそのひとり。低支出・低収入・低負荷の家「てー庵」でインフラ契約をしない娯楽的な暮らしを楽しんでいる。小崎さんは、執筆、写真撮影、ウェブ制作、選挙の何でも屋、電力自給のワークショップなどでわずかな収入を得て暮らしているが、低支出なので困らない。人生を楽しんでいる(現代農業、2015.4号より)。小崎さんの本職はヒッピーだが、ヒッピーが極まるとハッピーになるという。小崎さんは「てー庵」の暮らしをしながら、ちゃんと近代文明も使いこなしているのだ。少しの生きる力があれば、人生は結構楽しくなる。半農半X、ダウンシフターズ、など農的世界と都市的世界を行き来でき、自然と共生しながら近代文明も使いこなす精神によって新しい世界を切り開くことができるのではないかな。(2015年4月1日)

大学人の本務とは

産経新聞を読んでいたら「論文不正 悩む学府」という記事があった。東大で、ある期末レポートに約75%の引き写しがあったことが判明し、わざわざホームページで告知したとのこと。一方、記事の見出しは「論文」。レポートは既存の知識を纏めたもので、引用があって当たり前だが、無断借用と告知にはあるので引用を明記しなかったということだろう。論文では引用の明記は鉄則であり、レポートでもその原則は変わらない。不正といえば不正なのであるが、悪意のある不正ではなく、未熟故のちょっとした過ちなのだろうと思う。ここまでしなければわからせることができなくなった時代になったということを我々教員も自覚しなさいということなのだが、なんだかとても寂しい。一方で、大学は学生に対して厳しい指導はできない。学生からクレームが出た場合、教員はつらい立場に追い込まれる。それでも、教育を全うしなければならないのだが、躾との境界が曖昧になっている。さて、我々大学人の本務は何なのだろうか。(2015年3月31日)

真実と現実

朝日新聞によると福島県で国と県が設置したモニタリングポストの88%が除染の目安となる線量、すなわち0.23μSv/hを下回っていたという。もちろん、避難区域だけで求めるとこの数字はずっと低いのだが、そこはもっと強調しなければならないだろう。避難区域でさえ、実際の線量よりはずっと低い。それは除染して線量が下がった場所にモニタリングポストが設置されているからである。その故意に下げられた値が公式記録となる。真実は隠匿されてしまうわけだが、だから私が計ってみようと思うわけである。しかし、それが避難している方々にとって都合が良いことかどうかは人それぞれの立場、考え方がある。それが現実である。私は科学者として現実を明らかにすることに力を注ぎたいと思う。その値を知った上で、放射能と付き合う了解レベルを決めて頂ければ良い。もちろん、私の知りうる限りの真実は開示して、一緒に話し合うというステップは大切にしたい。明後日は、今年度の報告会。(2015年3月12日)

誓約書

演習が終わり、研究室に戻ったらこんな指令が。最近、こんなことが多いなぁ。面倒だなぁと思いながらも署名して提出。

私は、千葉大学における業務を遂行するに当たり下記の事項を誓約いたします。
1.本学の規則等を理解しこれを遵守すること。
2.千葉大学の運営は、国民の貴重な税金等で賄われていることを十分理解し、公的研究費等による業務遂行において不正使用を行わないこと。
3.規則等に違反して、不正使用を行った場合は、千葉大学や配分機関による処分及び法的責任を負うこと。

ここに挙げられた事項は当たり前のことで、誓約書に署名しなかったから処分を免れることができるというものではない。 我々教員はこんな小学生でもわかることが、わかっていない人種であると思われているということなのかなぁ。なんか、むなしいなぁ。(2015年3月11日)

緊張感のもとで人と対峙する経験

災害看護グローバルリーダー養成プログラムが開講する「災害時専門職連携演習」が終わりました。私が参加したグループのミッションは土砂災害発生時に避難所を選定、開設し、避難者の援護にあたるというもの。 混乱状態の中で、被災者がどんどん集まってきて、様々な要求が生まれる中で、どの様にチームを構成して、対応するか。すべての場合にシナリオが対応してるわけではない。受講者の中には泣いてしまったり、もうやめる、と言い出すものがいたり、大きな緊張感の中で演習が進んで行きましたが、受講者の気持ちを笑顔で受け止めて、必要な示唆を与えるという態度は同じ教員として学ばねばならないと実感しました。看護の先生方はすごい。人と交わり、連携することが大切だと日頃から主張しているのですが、こんな緊張感のもとで人と対峙する経験はシミュレーションではありますが初めてであり、貴重な体験となりました。(2015年3月11日)

世界で一番貧しい大統領のスピーチ

先日福島のホテルでウルグアイのムヒカ大統領の番組を見ました。絵本が出ているとのことで速攻でamazonで注文しましたが(amazon恐るべし)、ようやく届いて読んでいます。「貧乏とは少ししかもっていないことではなく、無限に欲があり、いくらあっても満足しないことです」。その話の内容に共鳴する方々が世界中にたくさんいるということは心強いことです。みんなが心の中でそうだろうなと感じていることを、大切な場で力強く表現し、しかも実践していることが大きな力につながるだろう。人類は幸福について、改めて考え直す必要がある。いや、考え直さなければならないのは一握りの金持ちなのかもしれないが。日本では内山節の哲学に通じるところがある。脇に置いて時々読み返すことにしたい。(2015年3月8日)

「願望主義」復活させるな

朝日朝刊から。「福島第一原発事故4年 「願望主義」復活させるな」(上田俊英)というコラム。「願望主義」とは私も良く使う「ということになったかどうか主義」と同じ。最初から方針が決まっており、不都合な事実は隠され、屁理屈に基づき、強引に進められる施策。その過程で犠牲が生まれていく。高度経済成長期の論理であり、日本の社会は犠牲の上に成り立ってきた。もうそんなことはやめて成熟社会を目指したい。少数の幸せではなく、みんなの幸せを目指すことができるはず。みんなの幸せは確か仏教の考え方でもあった。みんなの幸せを意識するためには、地域の土地、人、自然を理解し、地域をより大きな地域(最大の地域がグローバル)の中に位置づけることができる精神的態度が必要。これが真のグローバルの精神である。(2015年3月7日)

見えない関係性

多摩川河川敷で中1生が殺されてしまった現場にはたくさんの花束が捧げられている。こんなに多くの関係性があったのなら、助かる道はあったかも知れない。しかし、それらの関係性は具現化されることなく、世間の中に埋もれていたのだろう。埋もれた関係性は何かのきっかけで一気に噴出してくることもあるのではないか。花束を見ているとそんな気がしてくる。だから、常に何かを信じて生きて行くことが大切なのではないかな。本当に困ったときに、何かに出会うことができるかもしれない。(2015年3月6日)

随意な解釈

情報セキュリティーのこともあったので、印刷したまま放してあった千葉大学第3期中期目標・中期計画案を何気なく読んでみました。「グローバルな視点から積極的に社会との関わりを持ち」では、「社会」というものを「ローカル」なものとして捉え、「グローバル」のフレームの中に位置づける、ということか(そうならば良いのだが)。「地域社会と積極的に連携」との文言も出てくるので、決して浅薄なグローバル至上主義ではなく、地域の集合体としてグローバルをとらえる立場を明瞭に示していると考えることができる。こういう解釈は少数派だとは思いますが、大組織の前文というものは多様な解釈ができるということでよろしいのでしょうね。(2015年3月5日)

誰の幸せか

2月4日にも書きましたが、「情報セキュリティー及び個人情報保護に関する自己点検」の再受験を怠っておりましたら、おまえが最後だ、と連絡があり、満点にすべく回答に取り組みました。答えはわかっているので順次入力するだけで済むと思いましたら、一カ所転記ミスをしてしまい、やり直し。再度注意深く答えを入力してめでたく満点。もちろん大切なことなのですが、こんな風に満点になるまで回答を強要されるのは何となくいやだなぁ。わがままな大学人の典型ですが、大学のガバナンスに何となく不安を感じる。この作業で誰が幸せになるのか。一番幸せになるのは大学の管理者。御上の覚えめでたくなるから。こういうことは昔の大学人の態度にはなかったことなのですが、私も老いたということか。時代は変わるのか。(2015年3月5日)

事実と真実

この二つにはいつも悩まされる。えらいこっちゃ。知人が懲戒解雇になってしもた。発表内容だけから判断すると、厳しすぎるように思う。しかし、真実というものが裏にあるのかもしれない。とはいえ、発表された内容と懲罰が対比される。すると、残るのは重苦しい雰囲気。大学というところが、何とも息苦しい場になってしまう。当人にとっては不名誉になるかも知れないが、我々は真実を知るべきだと思う。(2015年2月20日)

自己診断

ようやく免許の更新を終えた。講習の前に自己診断テストがあったのだが、問題となる3以上の項目は情緒不安定性、神経質・過敏性、虚飾性でした。自分がどうしようもない人間であるということがあからさまになったということ。これらの指摘が自分の課題であることは自覚はしており、時々、頭と心と身体がばらばらになって、悩むこともあります。とはいえ、前向きに考えると、頭と心の不一致は、まだ改善というか修行の余地があるということでもあります。歳はとりましたが、一生修行。安全運転を心がけよう。(2015年2月17日)

楽農報告

日曜に出かけることも多いので、とにかく時間を見つけてジャガイモを植えなければならない。先日耕したスペースにジャガイモを植え付け。15cm深くらいの溝を掘り、種芋を30cm間隔で放り込み、間に元肥として化成肥料をばらまき、覆土しておしまい。植えたのは、男爵、十勝こがね、アンデスルビー、シャドークイーン。後は芽が出たら、芽欠き、そして土寄せ。6月くらいに収穫予定。(2015年2月15日)

役人の論理

先ほど官界批判をしてしまいましたが、真摯に日本のために行動している役人もたくさん知っております。しかし、トップレベルの判断となると固くなってしまう性癖が日本にはあるように感じます。そこで、思い出したのですが、一昨年から水文科学会で主張していた東電福島第一原発裏の台地面の遮水による地下水涵養抑制ですが、結局今も行われていないそうです。その理由はこうです。国は既存の技術には金は出せない、開発的要素があれば出せる。だから低コストで効率的な技術は東電が予算を負担しなければならない。よって、東電はやらない。一方、凍結壁はコストがかかるが、開発的要素があるから国が金を出せる。だからやる...。既存の遮水技術でも地下水位制御を行い、海側への動水勾配をなくせば地下水は流れない。涵養を抑制しなければ凍結工法でも上流から地下水がやってくるわけですから汚染地下水をばんばん汲み上げなければならない。既存技術でも涵養抑制を行えば、流下する地下水も減り、地下水位制御も楽になる。よって流出地下水も減らすことができる。現状は元を絶たずに無駄に時間とコストをかけていると言わざるを得ない。こういう状況になっているのは、国も東電も事故を“わがこと化”できていないからではないだろうか。この場合、国というのは霞ヶ関にいる人の集団。日本の将来を真摯に考えているのならば、もっと柔軟な態度がとれると思うのだが。科学者もあきれて力尽きているといったところだろうか。それでいいわけはないのだが。(2015年2月14日)

後出しじゃんけん

文科省はメダル獲得が有望な競技を重点支援する事業で、フィギア女子をAからCに格下げしたとのこと。最近若い選手がどんどん出てきて将来が期待できる状況なのに、何考えているのだろうね。ヤフコメに、「強い選手がいるから強化では文科省の成果というより後出しじゃんけんのようだね」という意見があったが、その通り。これは財務省の影響も大きいのではないか。予算査定では、現時点で外形的な成果がないと通らない。日本の官界は未来に対する投資ができない社会。深刻な問題だが、NHKの「めざせ!2020年のオリンピアン」は未来を期待させてくれる良い番組です。NHKもいろいろあるが、まだまだ未来は明るい。(2015年2月14日)

印象と評価

今年も卒論発表会が終わった。うちの学生は質疑応答がうまくいかず、教員による評価は芳しくなかった(卒論発表会では教員が評価シートに記入して集計する)。へこんでいると思うが、今後の糧にしてほしい。成績は卒論発表会の印象のみで評価するわけにはいかないので、一年間のがんばりに応じた点数をつけることにする。質疑応答では学生のプレゼンテーションに対する叱責もあった。ちょいと度を超していたと思うのだが、ここはなぜだろうと考えなければならない。理学部の卒論ですが、我々が扱う環境問題に対峙する研究は理学であるとは思っていない。問題の理解、解決に理学(≒狭義の科学、知識のための科学)、技術の成果を活かすことをモットーにしており、人文社会系にも必要ならば踏み込んでいる。理学の世界とは相容れないのかも知れない。しかし、重要なことは自分の世界(自分と関係性を持つ範囲で構成され、自分の価値観、自然観、社会観、世界観などを形成している範囲)と異なる世界は否定するのではなく、尊重すべきであるということ。これが人として基本的な態度だと思う。世界各地で起きている紛争も、異なる世界を尊重できれば展望が開けるはずだが。(2015年2月13日)

楽農報告

いろいろやるべきことがあるのだが、何とか時間を作って畑を耕す。来週にはジャガイモを植えなければならない。野菜はタイミングを逸するとうまく育たないから。耕耘機を押していると、また今年もアカハラが登場した。周りをチョンチョンと飛び回り、なかなか逃げようとしない。腹がオレンジ色のツグミの仲間。可愛いやつである。気がつくと白黒模様の野鳥、ちょっと大きな黒とグレーの野鳥が野菜の葉っぱをついばんでいる。カラスと鳩を合わせると、今周りに5種類の鳥がいるわけだ。人間だけの世界ではないなと改めて思う。(2015年2月11日)

被曝について

原子力災害に対してある役目を担うことになった。そのためにも被曝に関する考え方を纏めておきたい。まず、被曝は安全か安全でないかという議論はありえないということ。バックグランド以上の線量であれば追加線量に応じたリスクが生じる。そのリスクは不可抗力ではなく事故によるもので、その責任は被害者にはない。加害者が被害者の長期的な損害に対して償う仕組みがなければならない。その上で、放射線のリスクが避難のリスクを下回ると避難者が考える、すなわち諒解できるレベルを見つけることができた時が帰還の時である。そのレベルは年間1mSv、20mSv、人によっては100mSvと多様な考え方があるが、最終的に目指すべきレベルは1mSvであろう。当面は1mSvを超えざるを得ないが、加害者および社会が追加リスクに対して補償する仕組みの存在が大前提である。一方、100mSvで良いという考え方には科学的合理性があるかもしれないが、これにも前提があることをお忘れなく。それは原子力の恩恵を受けている日本人が、例えば、スーパーの食品の99Bq/kgという表示を見て、これなら大丈夫といって購入できる精神的態度を持っていることである。それでこそ近代文明人なのだが...現実には“ナーバスな都会人”が大多数なのであろう。“ナーバスな都会人”はオルテガ・小林流に言うと“文明社会の野蛮人”である。自分が文明から受けている恩恵、また文明が生み出した犠牲者に無頓着であり、その存在は文明を弱体化させる。ここに日本人が乗り越えなければならない壁がある。激しい議論になると思うが、自分の“世界”、相手の“世界”を見極めた上で、帰還を望んでいる方々の立場で考えたい。(2015年2月10日)

剽窃ツール

今期から学位審査論文は剽窃ツールを通さなければならなくなった。剽窃とは“他人の作品や論文を盗んで、自分のものとして発表すること”。いわゆるコピペ発見ツールである。審査報告書に結果を記述しなければならないとの指令で、4編の論文に適用してみた。1編は49%と出たが、39%は申請者による既公表論文。その他は10%前後の数値が出ているが、ほとんどが些細なフレーズの偶然の一致であった。もちろん、ツールの設定によって自分の公表論文は除外したり、特定のフレーズを無効にすることもできるようだ。しかし、それは剽窃の数値を自分でコントロールできるということ。このツールは文の意味は解しないので、悪意をもって盗用して、表現を変えれば引っかからないということ。ツールの適用は第三者が行わなければ意味がない。数値を出して安心するのはやはり統治者に過ぎない。こんなことに時間をとられたくないな。(2015年2月9日)

国際化社会における態度

読売新聞社が行った世論調査によると、危険地域のテロ被害に対して「責任は本人にある」とする人が83%に上ったそうだ。Yahooの短い記事で読んだだけで詳細はわからないが、83%の中にも多様な考え方があるのではないか。確かに、自己責任ではあるが、犠牲になった人の思いを理解するように努め、それが共感できるものであれば尊重して悼むという態度が必要だろう。自己責任とした人の90%は今回の政府の対応を「適切」としたが、それは60点で合格という意味で、80点、90点の対応の仕方もあったはずだ。もし、自己責任という隠れ蓑で、中東で起きている問題を“わがこと化”することを避けているのであれば、それは国際化社会にはふさわしくない態度である。現実をテレビ化(電源をオフにしたとたんに忘却する態度)してはいけない。何かができるわけではないが、“思い”、“考えること”、が大切なのだと思う。(2015年2月8日)

地域主体で考えることができる社会

環境NPO主催の外来種に関する講演会に参加してきた。なんと野猫(家猫が野生化したもの)は侵略的外来種なのだとのこと。ただし、都会の野良猫とはちょっと違うようだ。この曖昧さが人と生物の関係の本質なのかもしれない。それは外来種の問題は地域性を持つことを意味する。地域ごとに考え、合意を形成する必要がある。だから、地域にいる専門家、すなわち市井の科学者とプロの研究者、そして行政が連携し、その枠の中に住民が入り諒解を形成していく、というやり方で外来種の問題に対応していく必要があるのだろう。ただし、この枠に入らない住民は“かわいい”、“かわいそう”、あるは無関心が外来種に対する規範になる。ここを乗り越えるために、現在作成中の「侵略的外来種リスト」が役に立つはず。日本はいろいろなことが地域主体で考え、解決できる社会にしていかなければならないな。(2015年2月7日)

トップレベルの改革の必要性

科研費の手続きをしなければならないので、e-Rad(府省共通研究開発管理システム)に接続したところ、またチェックボックスがたくさん並び、ポチポチポチポチ...とボックスをクリックすることになりました。要は、「@科研費の使用について不正な使用や不正行為を行わないこと」、「A平成27年度中に文部科学省が指定する研究倫理教育教材について通読・履修等を行うこと」について誓約しなければならないということです。我々はお子ちゃまか、などと憤ってもしょうがないのですが、確かに昨今はいろいろな不祥事があった。しかし、それによって今までの不適切なやり方が改善された、なんて話は聞かないね。研究管理や研究者の意識のあり方の変更を迫る重大な問題であるはずなのですが。こんなことをやって誰が幸せになるかというと、やっぱり統治者、管理者なんですね。誓約をとった上で、事故が起きたら、それは個々の研究者のせい。ここはまずトップレベルの改革を進めてほしい。研究という行為において、地位、名誉、金を分離する必要があるのではないだろうか。(2015年2月6日)

その先に来るもの

千葉大では情報セキュリティー及び個人情報保護自己点検と称して職員にWEBでテストを受けさせています。実は、気にも留めずにいたら、おまえやってないだろ、と指令が来て、締め切りを過ぎてから受験したわけです。問題は34題あるのですが、結果は散々でした。設問の意味が曖昧であったり、答えを見てもよくわからなかったりするのですが(法律屋さんが作っているなと思わせる文言)、まあ、私も含めて多くの方はしょうがねーなーといってやっているのでしょう。しかし、その先に来るものを意識しなければならない。確かに、個人を守ることは大切なことなのですが、個人情報に関して一方通行の考え方に誘導される作業の積み重ねは個人同士を分断させることにつながるのではないか。個人同士の関係が断ち切られた状況は統治者にとっては誠に都合の良いものです。このテストによって統治者は幸せになるでしょう。しかし、個人にとってはどうだろうか。実に息苦しい時代の到来を感じさせます。ますます人と人がつながることの大切さを身にしみて感じます。(2015年2月4日)

仏の眼

テロは許さない、罪を償わせる、と安倍さんが言った。もちろん、人の命を奪う行為は言語道断であるが、犯人と被害者という関係を超えた、より大きな人間社会の問題として捉えると、それだけで良いのかとも思う。テロの背後にある様々な問題についてもっと議論しなければならないと思うが、それは“強者”にとっては不都合な真実なのか。折しも、アウシュビッツ解放70年であるが、ハンナ・アーレントの“凡庸な悪”が話題に上っている。「イスラム国」の戦闘員は絶対悪なのか。普通の人々だったのではないか。ヨルダンに囚われているリシャウイ死刑囚も米軍のイラク攻撃がなければ、普通のおばさんだったのではないか。ここで真宗の悪人正機が頭をよぎる。凡夫の視点ではなく、仏の眼、すなわち、世の中のすべてを包含する広大な視野、で世界を見ると、悪人の背後にある関係性が見えてくる。悪にならざるを得なかった事情がある。だから悪人成仏であるし、その事情を知ることによって悪の元を絶つことができる。日本は広く世界を見て、強者にすり寄るのではなく、本当に必要なことをやっていかなければならない。難しい状況になってしまったが、まずはトルコやヨルダンに逃れてきている難民支援ではないか。もうひとつは、後藤さんが積み重ねてきたことを世界に広めることである。(2015年2月1日)

Someday

湯川氏に続いて後藤氏の命が奪われた。この状況をどう捉えたら良いのか。唯々言いたいことは、人は人を殺してはいけない、テロは平和的手段でなければ根絶できない,、これに尽きる。対決ではなく、理解が必要。そのためには人が広い世界観を持たなければならない。そこから寛容が生まれる。それこそがグローバル思考の果実であるはずなのだが。それにしても、人とはこんなに愚かで、か弱い者なのか。

Someday  /  いつの日か
When we are wiser  /  人は賢くなり
When the world's older  /  世界は経験を重ね
When we have learned  /  みなが思慮深くなる・・・
I pray  /  私は祈る
Someday we may yet live  /  お互いがお互いを尊重し合う
To live and let live  /  まだ私たちの生きぬ「いつか」が訪れることを
(http://goodmusicjunkies.blog101.fc2.com/blog-entry-25.htmlより)

ディズニー映画「ノートルダムの鐘」の主題歌、「Someday」より。ぜひ最後まで聞いてほしい。こんな世界は来るのだろうか。人が人を殺めるように神が仕向けているとしたら、それは神ではない。神はすべての人の心の中にいる。神は人や自然に対する畏敬の念の象徴だ。世界を変えるのは神ではなく、人である。日本はどこの国とも敵対しない。すべての国が味方で、すべての国や人のために行動する。そんな日本が損なわれているのは残念でならない。Someday, One day, Soon.(2015年2月1日)

“ひとごと”から“わがこと”へ

朝日朝刊の声欄−若い世代−から。中学生の安丸君が良い気づきをした。それまではひとごとだった水俣病を授業で聞くことによってわがこと化できた。水俣病は人ごとではない。無視し続けたら、この悲劇はなくならない。その通りです。日本の現代社会は犠牲のシステムによってここまで来た。ほとんどの方々は自分が犠牲になるとは露とも思わず、犠牲を知らず、わがこと化できないまま、豊かさ、幸せを享受している。それは非常に哀れなことではないか。自分の番がやってきたら、素直に不幸を受け入れるということなのだろうか。そうならないために、今、何に気づくべきか。今日の声欄では大学生の石川君も良いことに気づいている。国際情勢への無関心許されぬ。海外で起きていることは「遠い世界」の他人事ではない。内外の情勢に目を向けない不作為は許されなくなったことをはっきり自覚すべきである。その通り。自分とは関係ない誰かがよろしく計らってくれる、なんてことはないのだ。若者がんばれ。(2015年1月26日)

わがこと化するために

YouTubeに投稿された湯川さんが殺害された(とされる)写真を持つ後藤さん(とされる人物)の画像(ぼかしなし)を見ました。そのことをかみさんに言ったら怒られました。家族に失礼との想いがあるのだと思いますが、やはり見なければいけないと思います。事件を日常から遠ざけようとすることは、世の中の出来事が劇場型になっていることを意味します。あの場所に事実はあるのに、テレビのスイッチを切ったとたん、あるいは劇場から出たとたんに忘れてしまう。自分とは関係ない誰かが何とかするのだろうという意識。現場で起きていることを“わがこと化”して考えるためにも映像は見た方が良いと思います。もちろん、自分にできることは限られていますが、“わがこと化”して、感じて、考えることが−その考えは人によって異なるかも知れないが−小さい行為だけれど大切なことではないだろうか。(2015年1月25日)

世界を広げる

安倍首相は東北の視察に励むのは良いのだが、復興先進地ばかり見ていると、地元の首長からは苦言が出ているそうだ(朝日朝刊より)。確かにこれは問題だ。人の世界は人が関係性を持つ範囲で形成される。だから人ごとに多様な世界がある。安倍さんの都市を中心として構成された世界のもとで日本が運営されると、多くの見えない地域が取り残されることになる。多様性を前提としない世界のなかで、狭い世界の外側にあるものは顧みられることはなく、社会が犠牲のシステムで運営されていくことになる。明治以降の近代化はまさに犠牲のシステムで成り立ってきた。このシステムを我々は変えなければならない。安倍さんにはもっともっと地域を見て、世界を広げてほしい。(2015年1月25日)

支配されるとは

「研究成果が一般社会に還元(応用)された事例や新しい研究分野の開拓や教育活動に反映された事例」を部局で3部提出せよという文科省の指令がありました。毎年出している資料ですが、一つ担当しろということで2時間くらいかけて作成しました。これに限らず、評価に関わる役人のための資料作りの仕事が本当に多い。文科省−大学−部局の縦のヒエラルキーの中で下命される仕事であり、何のための仕事か、という説明は大抵あいまいである。まさに支配されている感じなのであるが、支配についてオルテガはこんなことを言っている。

支配は、理由なく行われるものではない。支配とは、他人の上に及ぼされる圧力である。しかし、それだけではない。 もし他人に対する圧力にすぎなければ、それは暴力と同じであろう。支配することは、誰かに命令することと、何かを命令することという、二つの働きをもっている。そして、だれかに命令することは、結局、なにかの事業に、大きな歴史的運命に、参加せよということである。だから、生の計画がなくては、もっと正確にいえば、支配者として生の計画のないような支配などというものはないのである(オルテガ、大衆の反逆)。

歴史的運命に参加するという意識を持つことができれば、支配されても一向に差し支えないのであるが、その運命がなんなのか、十分に文科省は説明しているだろうか。あるいは文科省は考え方を打ち出しているのであるが、研究者側が十分に応えていないのか。今回の資料は、「社会に中の科学、社会のための科学」(ブダペスト宣言)がどのように実現されているのかを知りたいということであろう。研究者は社会と分断されたままでよいわけがない。真理の探究は自己のための科学であり、誰かが自分の成果を社会に役立ててくれるはずだ、というのはご都合主義である。給料をもらっている研究者の立場はどのように表明したら良いのか。国立大学法人であれば社会を考えるのは当然であろう。もっとも社会の実像が見えていなければ考えようはない。(2015年1月23日)

グローバルとは

週刊紙シャルリー・エブドの風刺画に対しては賛否両論ありますが、テロ後に発売された雑誌に掲載された「涙を流す預言者ムハンマドの風刺画」に対して、YAHOO意識調査では66%が「イスラム教の価値観を尊重せず、反対」であった。これには安心。 自分とは異なる世界で大切にされているものは尊重しなければならない。このことを理解し、寛容の精神をもって世界の方々とお付き合いする。これがグローバルの精神。そのためには世界を理解し、(狭義の)欧米思想がグローバル思想なのではないということを理解しなければいけない。テロはとんでもないことであるが、その背後にある本当の真実を理解しなければならない。格差と差別をどう捉えるか。我々はどのような世界を築いたら良いのか。わがこと化して考えるべきことがたくさんある。(2015年1月16日)

誰のためか

個人情報の取り扱いが厳しくなってきた。成績や答案は言うに及ばず、学生の名前、学籍番号、投稿前の論文など、どこかに置き忘れたら大変な事態になってしまう。いろいろな制限が課せられ、ややこしい手続きも決められ、仕事の能率を落とすことになる。あまりにおかしな手続きは憤りを超えて、滑稽ですらある。こんなアホな手続きは誰が考えたのだろう。そして誰が幸せになるのか。学生にとっても手間が増えるのだが、それを当たり前と思い、変な権利意識が高まると、決して学生のためにはならん。権利には義務が伴うが、大学では義務を意識させる指導にも足かせがはめられつつある。ハラスメントとされたら消耗しますからね。結局、上に立つ者が責任をとらなくてすむための仕組みがどんどん増えていき、下々は大きな負担を強いられる。これは日本の力を大きく削ぐことになる。教授としての管理業務も増えているが、権力に近づいたことで偉くなったと思い込み、権力にすり寄るようになってはあかんと自戒する。(2015年1月15日)

成長と幸せ

GDPが今年度は0.5%減ったそうだ。それで?GDPはどれだけ儲けたのかという指標。金を儲けなければ不幸というわけではあるまい。世界を見渡すと、GDPではない成長の指標の必要性が今まさにピークを迎えているといえないだろうか。人の精神も文明も成熟に向かって成長しなければならん。(2015年1月13日)

格差と差別

フランスで傷ましい事件が起きた。この事件について米議員がCNNでこう発言したという(朝日)。「14世紀の世界観をもった者たちが、21世紀の武器を手にしている。...」。こんな認識で良いのか。背景には格差と差別があろう。自らの行為の正当化に14世紀の世界観を使っているに過ぎない。国会議員とは本質には踏み込まずに、うわべのみを糾弾して、“いい人”になろうとする、そんなものなのか。それではいかん。(2015年1月11日)

科学者と現場

先の話題のシンポジウムの中で気になるやりとりがあった。霞ヶ浦の魚の放射性物質濃度の基準を50Bq/kgに設定しているとの事実に対して、会場からは、国が100Bq/kgに設定しているのだからそれで行くべきであるという。質問した科学者は、霞ヶ浦漁協が国より厳しい基準を設定していることの理由がわかっていないということ。これでは問題は解決できないし、理解すらできていないということだ。現場の問題に言及するときは、科学者の狭い世界の論理に基づく発言は厳に慎んで頂きたい。問題の背後にある様々な事情を理解する精神的態度も持つことができないのならば、研究という井戸の世界の中で勝手に楽しんでおれば良い。井戸の中から外で起きている問題に対して井戸の論理を押しつけても、科学の信頼が損なわれるだけである。(2015年1月10日)

科学者の覚悟

科研費新領域の報告会「福島原発由来の放射性核種の環境動態に関する分野横断シンポジウム」に出てきました。冒頭の主催者の話は「学際研究を進め、世界に発信しましょう」ということ。閉会時の挨拶は「地域で苦しんでいる方々のことも考えましょう」ということが語られたと思う。全くもってその通りで、誰もが認めることだと思う。しかし、このことは科学者にとって重大な意味を持つことに何人が気がついただろう。冒頭の話はインターディシプリナリティーの推進、閉会時はトランスディシプリナリティーの推進を謳ったものだ。この二つの考え方の中で科学者の立場は大きく異なる。後者の立場では科学者の役割はどんどん相対化して行く。まさに、問題の解決には科学は必要だが、科学だけで問題は解決できないということ。新しい知識生産(論文を生産するということ)をトップレベルの目標とする科学者は、知識を伝えれば問題は解決すると考えるかも知れないが、伝えるだけでも大きな努力を必要とする。生産された知識を役立たせるという段階で、科学者の所掌範囲を超えた多くの問題に突き当たるはずである。くれぐれも勝手な科学者の思い込みで問題解決に役立つとは簡単に思わずに、福島という現場に存在する問題の実態を広い視野で捉えて頂きたいと願う。(2015年1月10日)

2015年1月3日

そろそろ仕事に出なければという焦りが出てきた。年末から正月にかけてはどこにも行かず、読み残した本を片付けることに没頭し、それはそれで良かったのではあるが、どうしても仕事のことが頭から離れず気持ちが落ち着かない。仕事といっても管理業務だけではなく、研究や教育に関わる楽しい(はずの)仕事もあるのだが。これはもはや病気と言って良いと自分でも思うが、どうにも心の整理が付かないのである。症状は集中力の欠如、やる気の減退が主なもので、つい遊んでしまってはどっと落ち込む。先日読み終わった「不道徳教育講座」(三島由紀夫)は薬として若干の効果があったかも知れない。三島が笑っとるわい、と思うと少しは気が楽になる。(2015年1月3日)

2015年最初の日

朝起きて、今年の初演奏として“ひこうき雲”、“ハナミズキ”、“花は咲く”を選択。初コーヒーはいつものレギュラーコーヒー。昨日“タンザニア”豆を買ってあったのに(私が初めて体験した外国)、そっちにすれば良かった(よく考えたらキリマンジャロではないか)。お雑煮を頂き、実家に挨拶、あとは書斎でまったり。NHKラジオでは福島を取り上げた番組が進行している。多くの方々に聞いてもらいたい番組ですが、人の心の奥にある想いを伝えることはなかなか難しいのかなと思う。現実を真正面から捉えたら、ドキュメンタリー、報道番組、討論番組になってしまう。正月をゆったり過ごす番組ではなくなってしまう。この正月は先月福島で開催されたシンポジウムで仕入れてきた「飯舘村を歩く」(七ツ森書館)を読んでいます。著者の影山美知子さんは数えるともう80歳。東京から車で福島に通いながら飯舘村の人々の話を聞き、村の歴史と現在を纏めたもの。すごいパワーだ。原発事故が普通の人々から奪ったものは何なのか。避難と転勤の区別が付かない都会人にぜひとも読んで頂きたい。故郷喪失とはどういうことなのか。わがこと化して考えることができれば、目指すべき社会のあり方が見えてくる。(2015年1月1日)

元旦のご挨拶

ご無沙汰しております。旧年中は大変お世話になりました。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。相変わらず年賀状は新年を迎えてから準備を始めていますので、元旦のご挨拶はWEBにて失礼させて頂きます。さて、大学人ですから、2014年に現れた変化の兆しを2015年はさらに顕在化させなければならないなと思っています。
−ひとつは我々は何のために研究を行うのか、ということ。名誉や金のための研究であってはならない。19世紀の研究者は貴族のパトロンを探して研究を行い、自身の知的欲求を満たした。20世紀はパトロンが国家になった。それは国家間の競争、時には戦争に研究が役に立つということであったが、20世紀最後の年には“社会の中の科学、社会のための科学”が科学者のコンセンサスになっている(ブダペスト宣言の中のひとつ)。日本は民主主義の国ですから、研究はまず社会のためということを考えなければならない。もちろん、自身の知的欲求の充足に邁進する研究者がいても良いが、予算を頂いて研究をやらせてもらっているのだから謙虚であるべし。
−もうひとつはリーダーシップについて考えたい。人の“世界(人が関係性を持つ範囲で構成され、人の世界観を形成する範囲)”が広がれば、“世界”の交わりも増えていき、自ずからリーダーシップは調整型になってくるのではないだろうか。ヒーローが蒙昧な民を圧倒的な力で導いていく欧米型のリーダーではなく、いわばフーテンの寅さんタイプのリーダー。そんなリーダーが実現する社会は<犠牲により成り立つ利己的な社会>の<対極>にある社会である。欧米追随ではなく、日本が世界に先駆けて実現する社会、そんなことを考えてみたい。(2015年1月1日)


2014年12月までの書き込み