口は禍の門

2014年も終わりを迎えようとしていますが、時間の流れの中で問題点が露わになり、変化を求める兆候も現れてきているように感じます。一つは権威に対する信頼性の失墜。STAP細胞は筆頭著者だけの問題ではなく、共著者すべてが責任を負うべき問題、かつ状況を作り出した組織と分野の問題でもあります。ここにもサイエンティストムラがあった。何よりSTAPよりも深刻な医薬系の出来事があったではないか。そこはどうなっているのか。もう一つはトップダウンの暴走の始まりの予感。大学においてもトップクラスの面目を取り繕うために下々の時間が消費されています。我々大学人、教育・研究者が解くべき真の問題は何なのか。我々が見ている世界は何なのか。世界のエリートグループの仲間に入り、官僚や花形研究者が面目躍如するための研究ではないだろう。トップが幸せになれば、下々も幸せになるというものではない。“下々”が暮らす地域に入り、地域を見る視点で構成される世界も必要なのである。もちろん、大学人の世界にも地域における人と自然の関係性を見つめる分野もある。この分野を強くしていくことを来年の目標としたい。 (2014年12月31日)

2014年度後期セメスターに入りました。本格的な秋の到来も予感でき、心は晴々としているのですが、教務も始まり、そわそわしています。後期の最大の課題は災害。災害を取り上げる講義・演習を三つ予定していますが、世間では大規模な災害が頻発しており、それがけっして人ごとではないことを実感させてくれます。どの災害も長期的には発生の可能性は予測できます。人が身を置く土地がどのような性質を持っているのかということについては、科学の成果がある。それを伝えることを通して、人と自然の良好な関係性を築くことが教育目標です。それが防災・減災にとって最も大切なこと。その上で被災してしまったら、それは宿命であり、生きるため、生かすための最大限の努力をし、その後は永遠の時の流れに身を任せても良いのではないかと私は思っています。自然との関係性の中ではある程度の諒解も必要。それは決して科学の敗北ではない。(2014年10月1日)

2014年も後半に入った。その初日、集団的自衛権の行使容認というニュースが飛び込んできた。賛否両論いろいろあるだろうが、基本は「人は人を殺めてはいけない」、ということにつきるのではないか。それでは国が守れんという方もおろうが、お人好し国家と呼ばれても、それで良いのではないかと思う。世界に対して徹底的にお人好しを貫き、平和国家として尊敬を得ることが大切。日本国内では地方、あるいは農山漁村が元気であることが日本の安心につながる。世界を舞台に競争に打って出るのもよろしいが、疲れたときに休むことができる世界は守らねばあかん。何より、日本の繁栄は地方が支えてきたもの。競争に疲れた方々を受け入れる世界を残しておかないと、この国は住みにくくなるばかり。サイエンスも社会のあり方に積極的に関わる時代がやってきた。フューチャー・アース始動。二つの世界を大切にしたい。(2014年7月1日)

2014年6月までの書き込み


犠牲で成り立つ利己的な社会

この一年を経て感じることは、日本が「犠牲で成り立つ利己的な社会」になりつつあるのではないかということ。政府が進める原発や経済に対する施政方針からは、どうしてもそう思わざるを得ない。放射能汚染地域の現状を見つづけているが、水俣病をはじめとする公害、薬害なども同時に振り返っている。文明社会の犠牲者は償われていないことは明らかであり、金本主義ともいえる経済偏重の姿勢は利己的な人を増やしているように感じる。ただし、この社会の基層には、あるべき社会を思い描きながら、じっと耐えている人々が大勢いる。どういう社会を我々は目指すのか。いろいろな“世界”を知り、それを知識ベースとして蓄積し、広めていくことがサイエンスの基本的な役割であり、“世界”の範囲を拡張することにより新しい社会の形成に貢献することが研究者の役割であると考えている。“世界”は人が関係性を持つ範囲で構成され、個々人が異なる“世界”を持っている。たくさんある“世界”の交わりを大きくすることが新しい社会へつながる第一歩である。(2014年12月31日)

続優しさとずるさ

やさしさを強要してはいかんと思う。相手を信じず、外形的な優しさを求めて、得られなかったら怒る。これでは自分も相手も傷ついてしまう。基本は信じることだと思う。そして、素直に自分の気持ちを伝えること。でも、三島由紀夫だったら“ずるさ”を持てと言うのだろう。しかし、なかなかそうはいかんのだよ。役者にはなれんのだ。(2014年12月14日)

優しさとずるさ

これも朝日天声人語より。 「人としての優しさは大人のずるさと一緒にしか成長しないものだ−三島由紀夫」。自分はけっして優しい人間とは思えないので、福島原子力災害や印旛沼流域水循環健全化を巡り、関係性、人の輪の大切さ、なんてもんを説いている自分に何となく偽善的なものを感じているところです。三島由紀夫の『不道徳教育講座』、読まねばあかんと思うが、人というものはそんなものとして諒解することも重要だなと思う。おそらく絶対的な優しい人などはいない、とは言い切れないが、こだわる必要もないのだろう。人として重要なことは、まず品格と誠意であり、それを補強するものが強さと優しさ。人は菩薩にもなり、悪魔にもなる。あからさまなずるさは感じ悪いが、自分の中のずるさは優しさを支えるのだと考えると、少しは楽になる。(2014年10月23日)

エボラウィルスと地球

朝日天声人語より。 米国でのエボラウィルスと医療関係者の格闘を描いた「ホット・ゾーン」の著者であるリチャード・プレストンによると、「 新たなウィルスが次々出現するのは、わがもの顔に増え続ける人類に対して地球が拒絶反応を起こしていることのあらわれではないか」。そう思うのは勝手であるが、あらゆる生物は生存に適した条件があれば、そこに拡散していく。ただそれだけのこと。地球にとっては痛くも痒くもないことである。人と自然の関係性が一方通行になっており、人の勝手な論理が持ち込まれているだけ。人は自然に対してもっと謙虚にならなければならないのではないか。しかし、近代文明の発展と共に、命のあり方が変わってきた。失ってしまったら二度と取り戻せない、一巻の終わりが死である。人と自然の関係性が良好だった時代、人は死と共にあった。死ぬということは先祖のいる世界に入っていくことであり、生きている人は死者と共に生きているという感覚があった。近代文明がそんな世界を壊してしまった現在、昔の世界に戻ることは困難なことでもある。近代文明人としてのリテラシーを身につけ、高度な管理技術によってエボラウィルスを封じ込めなければならない。それができなければ我々は近代文明自体を見直さなければならないのではないか。(2014年10月22日)

スーパーマンにはなれない

ある学会連合のジャーナル編集に関わる仕事を担当することになった。そういう仕事は突然やってくる。やるべきことがありすぎて、作業の開始に手間取っていたところ、出版社の担当から、“ご自宅では仕事はなさらないのですか”と。24時間戦うビジネスマンが昔いたが、それは望ましい生き方ということになったのだろうか。スーパーマンになって何を求めようというのだろうか。それが正しいことだとは思わないが、スーパーマンになれない自分に対する自己嫌悪の気持ちも確実にある。つまらないことだと思いながらも、他人からの承認を求める気持ちを捨てきれない。ばかばかしい優秀病に罹患しており、まだまだ精神が未熟ということ。(2014年10月10日)

続ふたつの世界

文科省の「科学技術予測調査」に回答しました。機械的に送っているのだとは思いますが、再度ご案内を頂きましたので、最終日になりましたが、回答させて頂きました。環境技術についても項目があり、「水」を選択しましたが、挙がっている課題の背後には、あるひとつの世界観、社会観が前提としてあることを感じる。それは都市を中心とする高度管理型社会。故栗原康流にいうと、“緊張のシステム”で運営される“世界”。もうひとつの世界である農村的世界におけるつながりを核とした共生(ともいき)を旨とする世界を前提にすると、また異なった課題の立て方もあるように感じる。考えすぎかも知れないが、都市に通う人々の世界は都市の中で閉じてしまっているのだろうか。農村的な、“共貧のシステム”により運営される世界も考慮に入れてほしい。重要なことは(何度も言いますが)日本人が二つの世界を自由に行き来できる精神的態度を持つこと。二つの世界の分断を修復することが、私の研究課題であり行動目標なんだと思っています。(2014年9月30日)

未来につながる今

宮崎空港に着いたあたりで噴火が始まり、日本の南岸を飛行中には噴煙が高く上がっていたのだろう。帰宅してから噴火を知りましたが、すでに多数の犠牲者がでている。最近、「死都日本」(石黒輝著)を読んだところでしたが、高温の火砕流に襲われると肺が破裂してしまうという。今回は低温の火砕流ということで、犠牲者はどんなに苦しかったことだろうか。秋の学会シーズンも終わり、平常の暮らしに戻ったところですが、同じ時に火山灰に埋もれたままの人がいるという現実が確かにある。一寸先の自分の運命は誰もわからない。今生きていることを感謝しながら、今をよりよく生きることが大切だと思う。今が未来につながるのだから。(2014年9月28日)

グローバルの精神

ひょんなことで、http://syrianfight.com/を見てしまった。いつも“わがこと化”を説いている自分だが、この映像を“わがこと化”することはなかなか難しい。そこに映っていることは俄に現実だとは思えないのだが、現実なのだろう。暴力、虐待、そして死がそこに記録されている。誰かが言っていたが、“ひょん”と人が死んでいく。そこに映っている人々は、暴力を振るう側も、受ける側もみな普通の人ではなかったのか。人間の本質とは何か。我々の安穏とした社会も、簡単に変わり得るのか。いや、変えてはならない。そうならないように我々は努力しなければならない。そこに人間の叡智を結集しなければならない。大学は今グローバルとか国際化とか、うるさいほどであるが、グローバルの精神とは、海外の現実を認識して、自分の世界を見直すことができる精神でもある。(2014年9月22日)

既視感

なかなか読み終わらない「大衆の反逆」(オルテガ)を読むのに良い機会ですので、富山からの帰りの車内で読み進めています。そこで出会ったセンテンス。「...以上の事から≪慢心した坊ちゃん≫はとてつもなく異常なものだということが、はっきりわかると思う。なぜならば、彼は自分でしたい放題のことをするために生まれ落ちた人間だからである。じっさい、≪箱入り息子≫は、自分の好きなことをして良いという錯覚をもっている。その理由がなにかをわれわれはすでに承知している。つまり、家族の内部では、ひどい罪を含めてなにもかもが、結局は無罪になるからである。...しかし、≪坊ちゃん≫は、家の外でも家のなかと同じように行動できると信じている人間であり...」。100年近く前に書かれた著作であるにも関わらず、今そこのある状況を語っているようである。いつ頃からか、学生が大学でも、まるで家庭の中にいるように振る舞い、私はまるで自分の息子や娘がそこにいるような錯覚に陥ってしまうことがしばしばあった。そこで叱っても当の学生はなぜ叱られているのかは、わからないのである。教員としては与えつつ、与えつつ、その過程で、少しずつ生き方を伝えて行かなければならないのだと思う。学生が社会に出てから発揮すべき力を醸成しなければならないと思うのだが、コストもかかるし、失うものも多い。それでも、与え続けるのが教員なのかなと。(2014年9月21日)

個人と国家

私はそんなに酒癖は悪くないと思っていましたが、最近そうでもないことを認めざるを得ない。酒の席に国の役人がいると、どうも本音、批判、愚痴が 出てし まう。その方が原発事故に関わっているわけではないと思いますが、大変不快な思いをさせてしまい申し訳なく思っております。これで環境省と文科省を敵に回してしまいましたが、国と問題の現場、大学人はどちらも理解し、尊重しなければならないと思っています。この世には様々な世界(人が関係性を持つ範囲で構成され、人の考え方を形成する)があり、都市的世界、農村的世界、みな尊重すべき世界であり、人が様々な世界を自由に行き来できる精神的態度を持つことが望ましいあり方だと考えています。しかし、現実はそうなってはおらず、避難区域の現状を見ていると、つい本音が出てしまう。異なる世界を行き来するなんてことは理想に過ぎないのだろうか。そうではなくて、“人”を尊重すれば、様々な世界が理解できると思う。現代社会では個人と組織(国家も含む)の考え方がだいぶ乖離しているようも思えるが、それは日本の社会のあり方、がそうさせているのではないか。様々な世界を自由に行き来できるようになれば、個人と国家の方向性は重なってくるのではないだろうか。(2014年9月20日)

専門家と科学者

JpGUのニュースレターの書評欄で見つけました。「想定外の状況に陥ったときに、枠の中で答えを探すのが専門家で、枠そのものを疑うのが科学者である」。なるほどと思う。行政の委員会等に出ていると、もうちょっと突っ込んだ本筋論を展開したいと思うことがままある。しかし、手続き上瑕疵がなければ認めざるを得ない。その委員会には専門家として出席しているので、枠の中で答えを探すので良いわけである。しかし、科学者としての立場もどこかで発揮しなければならないだろう。大学人のアイデンティティーに関わることでもある。この辺の塩梅をどうするかが、経験というものだろう。今、ある現場で地質汚染が発生し、その地域の人、コミュニティーに大きな影響が出ている。ここに科学者としてどのように関わっていくべきか、いろいろ考えているところである。(2014年9月18日)

ふたつの世界

国道6号線の警戒区域にかかる部分の封鎖が15日0時に解除された。たまたま山木屋から帰る日にあたっていたため、南相馬からいわき市まで走ることにした。3年が過ぎたというのに、小高区ではまだ雑草が生えた水田(だった場所)の中に津波に流された自動車が放置されたままである。昨日までゲートがあった浪江町との境を難なく過ぎ、警戒区域に入る。福一原発と思われる場所にクレーンが4基見える。センサーを車の外に設置し、空間線量率を記録しながら走ったが、まだ7μSv/hを超える区間が2カ所確認できた。こんな高い線量率の中に入るのは久しぶりである。双葉、大熊と過ぎるが、普通の平凡な暮らしがあるはずの、何の変哲もない住宅地がバリケードで封鎖されている。この光景は多くの方に見て頂きたい。そして、強制的に奪われた暮らしを想像して、“わがこと化”してほしいものだ。日本の中の地域、そして人を見て、わがこと化できれば、そこに共感が生まれる。原発のあり方について確固たる考え方が生まれるはずだ。一方、原発を再稼働させたい方々は、世界の中の日本を見ている。その視野の中には奪われた暮らし、暮らしを奪われた人は映っていない。世界の中の日本、日本の中の地域、二つの世界が交わらない。ふたつの世界を自由に行き来できる精神的態度を日本人が持てれば、日本は良い国になるだろうに。(2014年9月15日)

FUKUSHIMAは福島だけの問題ではない

学術会議公開シンポジウム「東日本大震災を教訓とした安全安心で持続可能な社会の形成に向けて」で講演してきた。私のタイトルは「山村の広域放射能汚染と 暮らしの回復・復興」。まず、現場における放射能汚染の状況を的確に把握すること、すなわちサイエンスの手法を現場に適用すること。そして、山村における暮らしと密接な関係性を持つ里山流域を選択して、小技術・中技術で放射能対策を実施することを国がサポートすべきという考えである。案の定、山林の除染はできないという意見があった。このような考え方の背後には地域を地図の上で捉えることをせず、したがって地域性も理解せず、そこに人の暮らしがあったという事実にも目を背ける悲しい考え方である。少なくとも、そこにサイエンスはない。近代文明人としてのリテラシーがないと言っているのと同じである。仮に故郷を回復できないとするならば、故郷を追われた人々にどう報いれば良いのか、考えなければならない。自分と関係のない“国”なるものが何かやるはずだという考え方は、あまりにも他人任せで関係性を尊重しない、非近代文明人としてオルテガの言うところの“大衆”の考え方である。講演の中で、まず共感が大切と述べた。そして理念(どういう社会を作るか)を共有あるいは尊重しながら、科学的合理性を基本として環境回復の方法を考える。これができれば日本は変わることができるはず。福島だけの問題ではないのである。(2014年9月7日)

年俸制は何のため

今、国立大学法人では年俸制導入に際して、個人の評価の基準作りが極めて拙速に進められている。それは職員の一定割合を年俸制に移行させなければ運営費交付金を減額するという、文科省の、いわば“脅し”に晒されてやむなくやっている仕事であるが、実にむなしい作業である。年俸制導入の目的は人件費抑制にあるに決まっているので、誰もわざわざ自分から損を取りには行かないのは当たり前である。評価の基準はトップが決めるのではなく、末端の組織が決めることになっているので、今後、同じj程度の仕事でも分野によって給料に差が出るかも知れない。そんな状況が明らかになれば、いくら好きでやっている仕事でもモチベーションは下がり、大学の機能に大きな支障が出るに違いない。評価の最大の問題は、評価の基準を了解できるかどうか、である。とはいえ、大学運営も経済的に厳しい時代になっていることは認めるので、一部の教員だけでなく、教員すべてを一気に年俸制にしてしまえば良いと思う。しかし、現在のトップにはこれを断行できる人材がいないのだろうな、ということは容易に想像がつく。我々教員としては外形的な数値化された評価ではなく、教育・研究に対する基本的な考え方を公にし、それに基づいて成果の評価をして頂きたいものだと思う。何より、評価者が楽をしないこと。評価者は公開して、徹底的に議論を尽くし、評価結果を出すこと。これを望みたいと思う。(2014年9月3日)

“いい人”の悩み

学生指導の局面では教育者として“いい人”を演じがちである。そうでないと、いとも簡単にハラスメントとして訴えられ、組織から孤立させられかねない現実があるから。しかし、学生の将来を思うと、“いい人”を演じても、決して長期的には学生のためにならないことも多い。教員は評価者でもあるので、時には厳しい判断を下さなければならない。その判断は早いほうが良いに決まっているのだが、可能性を持っている学生に対して安直な判断は下せない。結局、優柔不断という感覚に苛まされることになるが、基本は学生を成人した大人として尊重し、自己の責任を徹底させると同時に、伝えるべきことは常に伝え続けることが大切だと思う。ただし、学生がそれを受け取ることができるかは本人次第なのである。この悩みは定年まで続くのだろう。(2014年7月2日)

縦の劣化と横の強化

大学や研究界における最近の事件、出来事は縦のヒエラルキーの劣化が根本にあるように思う。権力の強化が、権威の向上を伴わなかったという現実がある。縦のヒエラルキーを再考し、改善するという方向性も考えられるだろうが、それはヨーロッパ思想が底流にあるように感じる。やはり、東洋人として横の強化を目指すことを考えたい。(2014年7月1日)


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