口は禍の門

2014年度もあっという間に半分が過ぎ去った。梅雨明けはまだ先だろうが、あっという間に夏が来て、秋が過ぎ、冬を迎えて、今年も終わる。時間の流れについて、こんな感覚が強くなってきた昨今であるが、それでも何かを目指して生きて行かなければあかんなという思いはまだまだ消えていない。(2014年6月30日)

新年度が始まりました。桜も咲き誇っていますが、今年度は何を考え、何を実行するか。まずは福島そして印旛沼流域圏にさらに深く関わっていきたいと思う。美しい村を創るために。村は様々な関係性の無事があるところ。人、村、自然、社会の関係性が無事であることが安寧につながる。ところが、“ムラ”は外の世界との関係性を断って、外のリソースを収奪して自らの願望を達成する場所。自分のいるところは“ムラ”ではないか。常に自問しながら外の世界と交流を進めたい。(2014年4月1日)

2014年はどのような年にしたいか。この3年間、様々な体験があった。入り込まなければ見ることはなかったものも見た。新たな出会いもあり、世界が広がった。そこでまず思ったことは人生の終盤になって後悔しないということ。大学という特殊な、社会に対して責任ある職場にいる身として主張すべきことは主張し、やるべきことをやっていきたいと思う。どんなに青臭いといわれようと、理想と現実の前では理想を先に持ってこないと変わるべきことが変わらなくなってしまう。大学人の特性として“わがまま”ということが挙げられるが、この性質を活用して行きたいと思う。(2014年1月1日)

2013年12月までの書き込み


大きな世界と小さな世界

今日は職場の拠点運営委員会であった。これは職場が文科省の共同利用・共同研究拠点として位置づけられているため、外部の先生方に運営に関するご意見を頂きなさいという文科省の指令によるものである。いろいろご意見を伺うことができてありがたいのだが、個々の先生方の世界、すなわちエンジニアやサイエンティストとして関係性を持っている範囲で構成される世界は決して広くはない。このことに気がついている先生もいるが、気がついていない先生もおられる。そして、気がついていない先生ほど自信たっぷりに自説を主張することができる。結局、世の中はこういう方々によって引っ張られていく。ここで議論すべきなのか、わからない。世界の違いは本質的な自然観、社会観の違いにつながる。議論して、対立しても得られるものは少ない。形式的な会議をやったことになれば、それは我々にとってメリットになる。しかし、せっかく遠くから来て頂いた先生方には失礼である。そもそも職場のあり方について職員自身が一貫した考え方を持っていないことが問題なのであるが、一貫性を持つことはまず不可能であろう。とはいえ、何か共通の目標を設定できないものだろうか。(2014年6月30日)

散文的な未来と固まった未来

こんな天気の良い日は外でやりたいことがたくさんあるのですが、痛風が完治していないため家で静かにしています。そこで、昔買った本を読み直しているところなのですが、内山節著「地域の作法から」(農文協)から私が共感する部分を再掲します。

@自然の恵みを受けられなくなる社会をつくってはいけない
A農業をはじめとする一次産業が滅ぶような社会をつくってはいけない
B手仕事の世界は残さなければならない
C暮らしをつくる労働を残す必要がある
D人間はつねに共同性の世界を必要とし、そうである以上、共同性の世界はつねに再創造されつづけなければいけない

現代社会の都市域の暮らしの中におりますと、個人的に強いシンパシーを感じる部分です。これらの作法は内山自身も言っていますが、散文的な表現です。内山は未来を散文的に見ており、だから、目標をたて、それを実現するための計画をたて、PDCA(Plan-Do -Check-Action)なんて声高に叫びながら自らの行動を決めていくやり方に疑問を呈しているわけです。しかし、文科省は国立大学法人に対して中期計画・目標を設定させ、それがどれだけ実現されたかで評価を行う。そろそろ次期中期計画を立てなければならないのですが、それは散文的であってはならないわけです。外形的で、成果がはっきり見える固まった未来をつくらなければいけないわけです。私も歳をとり、そんな計画を立てなければならない立場にあるのですが、未来に対する考え方がお役人とは違うようです。お役人が何を考えているか予想し、その考え方に寄り添いながら自らの仕事を決めていく、そんなやり方で大学は良くならないし、何よりも研究活動を減退させ(研究屋のための研究事業にとっては良いのかもしれないが)、学生に対する教育機能を損なうことになるのではないだろうか。学生は教員の背中を見ていますから。頭は痛いのですが、梅雨前線も南にあり、今日の風は爽やか。(2014年6月15日)

研究はマジックワード

理研や医薬バイオ界のゴタゴタを傍観していると、研究とはいったいなんなのだ、と思ってしまう。研究はマジックワードであり、皆さんそれぞれ勝手な解釈でお使いになっている。広辞苑(第六版)を紐解くと、「よく調べ考えて真理をきわめること」とある。最近のゴタゴタは研究ではなく、開発なのではないか。そこに、地位、名誉、金がつきまとい、それが人を惑わせる。しかし、開発が悪いわけではない。ブダペスト宣言によると科学の目的には4つあり、“開発のための科学”もある。しかし、そこには地位、名誉、金のため、ということは入っていないのではないか。地位、名誉、金を目指す“研究”はビジネスとして、研究とは分けてほしいものである。真理には「倫理的・宗教的に正しい生き方」という意味もある(広辞苑)。環境学があるとすると、それが目指す真理はこういうものなのだろう。(2014年6月14日)

研究屋にはなりたくないものだ

教授ですので、組織の運営、行く末などについても考えなければなりません。その時、どうしても文科省や大学の意向も汲み取らなければならなくなる。抽象的な目標を掲げる御上を満足させるために何をやったらよいか、という思考になる。数十年の研究者・教育者としてのキャリアから生まれた信念に基づく目標ではなく、御上が悦ぶ“外形的”な目標を達成し、組織の存続と、あわよくば予算や人を獲得することが目的となってしまう。こういうやり方に適応している方々もおられるが、環境を標榜するのであれば、適応してはあかん。人が中心にいない研究・教育は環境とは関係ないものである。昨今、バイオ、薬学、医学の分野で吹き出してきた地位、名誉、金を目指す研究の破綻を真摯に受け止め、“外形的な”目標ではなく、研究者、教育者として、そして社会の一員として達成すべき目標をしっかり掲げなければあかんのではないかな。研究屋にはなりたくないものだ。(2014年6月11日)

釜石の記憶

今日は一日中デスクワークの予定でしたが、買ってあった「遺体」(石井光太著、新潮文庫)を読み始めたらやめられなくなり、一気に読んでしまいました。途中からYouTubeで釜石の311の状況を流しておりましたので、身心は一時311に戻っていました。釜石には2011年8月始めに訪れ、鵜住居地区まで行きました。当時は福島に目が向いており、鵜住居で起きたことは不勉強でした。改めて当時の光景を思い出しながら、彼の地であったことを反芻しています。釜石は1998年に家族旅行でも訪れておりましたので、沿岸部の変貌は心を動かされるものでした。2013年2月には当時災害対策の陣頭指揮を執っていた方と一献傾ける機会があり、人の心のあり方を深く考えさせられた事もありました。一方、群馬大の片田先生の貢献も伺っており(先生は奇跡ではないと強調されておりましたが)、ひとつの地域で様々な物語が進行して今があるのだなとしみじみ思います。外者の私がとやかく言うことではありませんが、単なる悲劇だけでなく、それ以上のものが残されたのではないでしょうか。私が仏教徒かどうかは怪しいのですが(一応、寺は浄土宗)、仏教の教えを学びたいとは常々思っており、運命や宿命には逆らわずに受け入れて生きていきたいと思っている者です。東日本大震災は大きな災害でしたが、人間を鍛えるという側面もあったのだろうか。新しい芽が出たのだとしたら、従来からある強い世界に押しつぶされないよう微力を尽くすことができたらなと思う。また、釜石に行きたくなってきました。(2014年5月6日)

青切符で罰金

いや、もう30年ぶりに青切符を切られてしまった。普段ほとんど走らない場所で、何気なく右折したら、そこは右折禁止でした。じっと物陰から見張っていたのですね。後ろの車も私と同時に捕まっていました。警官の仕事は大変だなとつくづく思います。若い警官でしたが、誇りを持って仕事をしているだろうか。もちろん、誇りを持っているのだと思うが、頭の中では誇りを持っているということになったかどうか、という思考に支配され、誇りを持ってやっているということになる、のだと思います。私が悪いのですから文句を言われる筋合いはない、ということではあるのですが、未然に防ぐ、うまいやり方はないのかなと思います。罰金7000円は痛い。(2014年5月5日)

研究は何のために

理研が論文2万本を点検するという(日経ニュース)。世間はさもありなんと思うかも知れないが、研究という行為に対する大いなる価値観の変更を迫る一大事変だと思う。研究とは新しい知識の生産であり、人類がその知識を共有する過程は性善説、すなわち信頼が前提としてある。理研の行為はそれを壊すものである。理研では研究という行為の目的が地位と名誉にあると主張していることと同じではないか。その先には開発、そしてマネーの陰がちらついているように感じる。理研の業務は我々一般の研究者が行っている研究とは異なるものである。信頼に基づく研究の作法を維持していくために、研究者は声を上げなければならないのだがどうしたら良いのだろうか。少なくとも学術会議は何らかの声明を出すべきではないか。 (2014年5月4日)

福島との関係性

連休前半は学会で横浜に滞在していました。毎晩大勢で飲みにいくと金がかかるので一人で場末の飲み屋を探して、野毛の商店街をさまよっていましたが、場末というのは良い意味ですのでご容赦ください。みなとみらいの洒落た店はどうも性に合わない。さて、学会で福島について話しているとこんな場面に良く出会う。(避難している方々は)戻ったの。そう、まだなの。じゃあね...。自分の経験に基づく主観的な思いですが、都会の研究者、国の行政担当者は“対象”との間の関係性を断つことを作法だと思っているように感じます。それとも、思いは心に秘めているのか。そうに違いないと信じつつ現状の伝達を続けていくのが仕事なのだろうと思う。(2014年5月2日)

異なる世界観、地球観、自然観の交流

フューチャーアース(FE)というのは次の10年間の地球環境研究イニシアティブです。リオサミット以降、各国は膨大な予算を注ぎ込んで環境研究を推進してきたが、環境は良くなっていないではないか。これからはステークホルダー(当事者で良いと思います)と研究者が一緒に立案し、研究を推進する問題解決型の研究を推進しなければならない。これがFEの考え方であり、これには全く同意しますので、その実現に向けて微力を尽くしたいと思います。今日はFEに関するシンポジウムに参加していましたが、FEの具体的実施は地域ごとの課題に研究者と当事者が一緒になって問題解決にあたるプロジェクトが主体になるだろうが、“それでいいとは思わない”、という主張が講演者からありました。そんなことはありません。それしかないのです。グローバルはたくさんの地域から成り立っている。グローバルをよくするためには地域が良くなること。地域が良くなればたくさんの地域の総体としてのグローバルが良くなる。これは環境社会学や地理学など、現場で問題に取り組んできた研究分野の世界観であり、個々の研究をグローバルというフレームの中に位置づけるのが研究者の仕事です。講演者はグローバルモデルを使いこなす世界的視点を持っている優れた研究者ですが、その根本には実体としてのグローバルの存在を前提とする世界観がある。FEの実現にはまず異なる世界観、地球観、自然観の交流と相互理解が必要なのだが、研究者はなかなか議論をしようとしない。それは研究者は対象との関係性において価値観を排除するのが正しい姿勢であるという言説があるからではないだろうか。地球をモデルで近似できるというのも一つの価値観であるので、研究者の思想は価値観にすでに取り込まれている。価値観だけでなく、哲学、倫理を取り込むことを前提に地球環境を良くする方法を考えようというのがFEの精神であるので、我々はまず世界観、地球観、自然観そして社会観に関する議論を始めなければならないと思うよ。(2014年5月1日)

反省と正しい信念があれば、評価も変わる

朝ドラではなちゃんが先生の作文を写して褒められてしまった場面を見て、小保方さんと言ったら、かみさんにこっぴどく叱られてしまいました。冗談です。ごめんなさい。人間ってこんなものなのです。小保方さんを巡っては、無関心と論点がずれている意見を除けば評価は二部している。非常に厳しい意見をおっしゃるのはサイエンティストが多い。それは完璧に理解できますが、日本の社会は競争を是認し、敗者は排除されることを諒解しているわけではなく、異なる論理に基づく世界も確実に存在している。一方で暖かいご意見もたくさんありますから。人というのは時に過ちを犯すものですが、それを容認できる懐の広い社会であればよいなと思います。とはいえ、私も競争社会の中にいますので、成功者が作り出す世界もあって良いと思います。ただし、その世界がムラになってはいけない。村は様々な関係性を大切にする世界ですが、ムラは強固な城壁を巡らせて外から資源を収奪し、独自の価値観を強固に打ち出す世界、こんな風に思います。理研はムラなのかもしれない。異なる世界(人が関係性を持つ範囲で形成される固有の世界)の存在を意識し、それらを尊重し、異なる世界の間を行き来できる精神的態度を持つこと、これが大切なのだと思います。それにしても2時間半の会見は見事というほかない。あのつらい時間をよく乗り切った。今朝のラジオで中森明夫が、小保方さんはSTAP細胞に恋している、と言っていた。人の評価は簡単に変わる。反省と正しい信念に基づき、がんばってほしい。(2014年4月11日)

社会学の課題

先のニュースの関連記事で1日付けの毎日の記事を読みました。嘉田滋賀県知事は日本の基礎研究に対するコメントで、「行き過ぎた競争は研究者の世界ではいいことはない。構造的にも反省すべきだ」と述べたとのこと。嘉田さんは日本における社会学の一分野としての環境社会学を作り上げてきた研究者でもあります。環境社会学と同様に、科学技術社会学(仮称)も社会学における重要な課題となるのではないだろうか。ぜひとも社会学者は科学技術と社会に関する問題の理解と解決を深めるために新分野を開拓してほしいと思います。とはいえ、もうすでに存在しているのかもしれません。調べてから発言せい、と言われそうな気もします。環境社会学が扱ってきた公害問題では研究者も重要なプレイヤーの一つであるし、原子力災害はまさにそうなってる。個々の研究者だけでなく、研究者コミュニティー、研究組織のあり方と社会との関わりといった観点で日本の近代化、ポスト近代を捉えてみたいと思う。(2014年4月7日)

早大先進理工学研究科−すべての博士論文を調査へ

このニュース(読売Yahoo)に私は強い危機感を覚える。基本的に研究は研究者コミュニティーにおける信頼によって成り立つものである。早稲田の行為は研究の成果というものを、人類にとっての普遍の知識、地域に対する深い理解、あるいは世界科学会議におけるブダペスト宣言の精神のような前向きな行為ではなく、とてつもなく矮小なものとして捉えているように感じられる。結果として、地位、名誉、そしてお金、組織のメンツ、そんなものを取り繕おうとする愚かな行為になってしまうのではないかと懸念しています。背景には日本が足を引っ張る社会になってしまったという現実もあろう(事あると批判されてぼこぼこにされる)。嘆かわしいことであるが、一方で研究者コミュニティーもこの問題を真摯に受け止める必要はある。ただし、組織の責任逃れで終わらせることではなく、社会全体の構造的な問題として扱い、よりよい日本の社会を創る方向に進まなければならない。何らかの反動が大学全体にくるだろうが、上に立つ者がが楽して、下々の負担が増えるようでは社会はよくならないと思うよ。(2014年4月7日)

個人の諒解の違い

先週届いていたユニオンニュースを眺めていたら、「給与減額訴訟を支援する署名を提出」という記事がありました。国立大学法人では東日本大震災復興予算捻出のため給与の1割削減が続いていましたが、これが問題だというのです。ようやく今月から解除になったところですが、私自身は復興支援のために給与の1割を拠出することは諒解できる。しかし、諒解できない人もいるので訴訟になっているわけです。諒解できない理由はなんだろう。人が個人に分断され、様々な関連性が断ち切られた状況では、東北支援は他人事と感じられるのだろう。暮らしが優先で、それどころではないという考え方もわからんでもない。しかし、公務員(および公務員に準じるもの)として、また国、社会、コミュニティーの一員として被災をわがこと化して考える精神的態度があれば、1割減額は何とか容認できるのではないか。そのほうが幸せに近いと思う。それより、国民から集めた予算がどう使われたのか、という点の検証に力を注ぐべき。人が個に分断された状況で幸せや成功を掴むという行為は競争社会の中の行動原則。違う原則に移行しても良いのではないか。(2014年4月5日)

女性の力は偉大なりー縄文の力

印旛沼流域窒素勉強会と称する活動で富里に行ってきました。最近はNPO「富里のホタル」の方々と天神谷津と呼んでいる高崎川支流の谷津でいろいろ企んでいます。それにしても女性の力は偉大だなと感じます。ここでも、印旛沼流域圏交流会でも主力は女性です。それは縄文パワーではないでしょうか。1万年続いた縄文時代は戦がなく、平和な時代でした。それは気候が温暖で、食糧に不自由はなく、長期間貯蔵する技術もなかったので蓄積された富を巡る争いもなかったから、なんて説明していました。ところが、それは女性の力だったのかも知れません。上田篤著「縄文人に学ぶ」(新潮社)によると、縄文時代は母系制社会であった。男女の関係は「妻問婚」であり、男は放浪の旅に出ていた。男には子供がない、というか認知できない。その結果、母たちはすべての子供とその子孫の安寧を願い、ために血族集落つまり家が持続され、社会は安定した。世の中が乱れるのは父系社会になってからなのですね。今日は雨の予報でしたが、午後からはすっかり晴れ、春の谷津を堪能し、富里のカタクリ、福寿草、センダイタイゲキの自生地も見せて頂き、安寧な一時を過ごすことができました。女性にすべてをゆだねて後からくっついていけば、そんな楽なことはないのですが、いやいやそうも言ってられません。少しはがんばらんと。(2014年4月4日)

30代研究者は未熟だろうか

ノーベル賞受賞者の山中教授が医療分野の研究開発の拠点の設立をめぐる国会審議のなかで、「30代研究者は未熟な人間」といったそうだ。それはちょっと違う。「能力が低い(伸びしろがあるということ)」と「未熟」は違う。30代は研究者としてはまだまだこれからだろう。しかし、研究者としての精神的態度、研究のルールについては学位取得時に確立していなければならない。研究という行為の様式において未熟であるのなら、研究者として生き残りはない。若い研究者に支援が必要だというが、どんな支援が必要なのか。研究ノートをチェックする人の雇用が挙げられているが、どうも研究という言葉が同床異夢になっているように思う。私の“研究”と、チームワークが必須となった巨大科学の“研究”は全く異なるものになっているということ。再生医療の仕事は研究というより開発なのではないか。それも、地位、名誉、金に直接結びつく開発。だとしたらリーダーは実績を積んだシニア研究者が勤めるべきではないか。“いい人”になりたくて若者を出汁に使うより、指導者としての役割をきちんと果たした方が良い。若者は先を行く者の背中をしっかりみているのだから。理研の方々は自分の背中を意識してほしい。(2014年4月4日)

楽しんで暮らす

あっという間に2013年度も終わり。明日から新年度が始まる。今年度も何かに追われるようにばたばた過ごしてきた。自分の精神の弱さに起因することではあるが、次年度は仕事も暮らしも「楽しむ」を前に持ってきて過ごしたい。何を甘っちょろいことを言っているのだ、という批判も聞こえてきそうだが、未来を良くするには今を良くする、人の幸せは自分の幸せから、世界平和は地域の平和から。この考え方を貫きたい。とはいえ、それもなかなか大変なこと。世の中ではなく、役人や管理者を幸せにするための仕事がどんどん降ってくる。勇気を持って立ち向かおう。(2014年3月31日)

同じ結論、異なる方向

ベビーシッター事件を巡り、鈴木宗男氏「乙武さんの人間性を疑います」に対して、乙武氏「断罪することが仕事でしょうか」。「親として無責任な面があったのでは」という宗男さんに対して、乙武氏は「政治家がすべきは母親叩きではなく、母親がそうせざるを得ない社会状況を改善することでは」と反論。詳しくはWEBを読んでください。二人の主張の行き着くところは同じなのに、なぜか激突している。それは、一般性に準拠するか、個別性を重視するか、そして後者の場合、性善説に立つか、性悪説に立つか、という考え方の違いによって説明できるように思う。宗男さんは一般論に基づいて判断し、規範的ともいえる。乙武さんは個別性を重視し、その背後には性善説があるのではないか。私は乙武さんの考え方に共感します。結果として子供を失った、その背景には深い真実があるのだろう。そうせざるを得なかった事情を斟酌し、次に再びこのようなことが起きない社会にしなければならん。宗男さんの立場だと、解決法はトップダウンになる。しかし、それで個々の問題は解決しない。人間の行為に対する極めて単純な仮定が前提にあるから。個々の問題を解決するには、個別性に深く入り込み、背景、真実を明らかにしなければならない。その積み重ねの先に問題の解決がある。現実の解決は、この二つの立場の間で折り合いを見つけるということになる。82014年3月26日)

学生諸君へ

第5回大学改革シンポジウム報告書なるものが届いた。今回は(も、かもしれないが)学生が講演している。そのスライド資料を見ると、ちょっと気になることが書いてある。ある学生による「私の見た・聞いた現状」として次の記述があった。@大学でやったことなんて役に立たない、A就職のための通過点に全力を出さなきゃいけない意味がわからない。この現状に対して、「やり方や実践方法がわかれば楽しいのでは」という提案。まず@は大いなる勘違い。社会に出てからきっと大学の価値がわかるに違いない。大学生のうちに、納得できる自然観、社会観、地球観、をしっかり身につけておくこと。それが教育目標でもある。それを伝える努力を我々はしているし、学生に対しては常に門戸を開いている。Aも自分がしっかり諒解できる“〜観”を身につけていれば意味は自ずからわかるはず。何より、就職は目的ではなく人生の節目に過ぎない。これらの現状に対して、「やり方や実践方法がわかれば良い」、ということですが、積極性、主体性を身につけよ、と言いたいですね。大学は学ぼうとする者に対しては最高のリソースを用意して待っているのですから。私の研究室にも他学部の学生が出入りしてますよ。別の学生の講演で、「学科を超えた学習が重要になってくる」との意見もありましたが、その気になれば壁は乗り越えられるのですよ。私のところでは、兼務・兼担の理学部だけでなく、工学部、園芸学部、さらに看護学部との連携もあります。教育学部の学生も今年は2人議論に来ましたね。どんどん考え方を教員にぶつけてみてはいかがですか。ぶつけた上で教員を評価しても良いではないですか。まずは自分の意見を表明すること。ここから始まります。(2014年3月24日)

大学教授はむっつりスケベが多いか

小保方さんに対するバッシングが度を超してきたような気がする。そのコンテクストの中で、「大学教授はむっつりスケベが多いから」という記述をWEBで見つけた。この命題は正しい。しかし、「むっつりスケベならば大学教授である」という命題は偽である。なぜなら、「男の99%はむっつりスケベである」という命題は正しい、と信じられるから(残りの1%はあからさまなスケベ)。よって、表記の命題は意味がない。もちろん、「男の99%はむっつりスケベである」が偽である可能性もあるが、そんなこと信じられん。といっても、証明することは不可能。ま、このように世の中には論理的に説明できないことがたくさんあるのである。もっともらしい主張も個人の主観であることがほとんど。ここを切り分けて考える力を身につけてほしい。その前に、STAP問題に対する議論の本質を忘れちゃいかん。(2014年3月23日)

異なる世界

沖大幹著「東大教授」を読んだ。タイトルに引きつけられて読んでみたが、何となく読後感がもやもやしている。何だろうと考えていたが、沖さんの世界と私の世界があまり交わらないことが理由なのかも知れない。世界とは人が関係性を持つ範囲で構成される。その世界があまり交わっていない。異なる世界が風船の様にふわふわ浮いているような気がするのだ。もちろん、多様な世界があって良く、すべて尊重すべきである。世界観、自然観、環境観の違いが基層にあるのだが、それをうまく記述しなければならない。それが、当面の自分の課題であるといえる。(2014年3月21日)

自分で学ぶべきこと

朝日、声欄から。論文の書き方を教えてくれないと嘆いている君。君が研究者志望だとすると、すでに出遅れているぞ。歳からすると修士課程だと思うが、すでにたくさん学術論文を読んでいるだろう。その課程で、論文の様式、ルールは自ずから学んでいるはず。論文の構成は実は単純なものだ。論文の基本構成は、@目的、Aデータ・手法、B結果、C考察、D結論、だ。@では目的はなぜ重要か、をレビューの結果に基づき、記述する。データ・手法は読者が追試できるように記述する。結果は新しい成果でなければならない。論理的な考察を経て生み出されたものが結論になる。後は、文献の引用の仕方、文献リストや要旨のき方は雑誌ごとに決められているので従えば良い。教えてもらわなかったからできなかった、という言い訳は社会では通用しない。先に気づいた者が先に行く。心してほしい。(2014年3月21日)

つまらない仕事

書き直しを命じられました。文科省の事業が3年目に規制庁に代わったので、2年前に提出した物品の無償貸与申請書を書き直せとのこと。その中の、「貸付を希望する理由と目的」の項をこのように書きました。

委託事業の目的である、放射性セシウムの移行モデル構築と、沈着量の将来予測、に関わる研究業務を実施するため。

ところが、これではだめで、「○○○の高度化」と書きなさいという指示。役人は本当に「高度化」が好きである。しょうがないからこうしました。

委託事業の目的である、放射性セシウムの移行モデル構築と、沈着量の将来予測、に関わる研究業務を実施し、原子力災害による避難地域における環境回復、復興に関わる施策を高度化することを目的とする。

さて、受理されるだろうか。読み返したら目的が2回出てきているのは格好悪かったが。そもそも借受希望期間の欄が「物品貸付承認の日から平成26年3月31日」となっている。これは返却する物品だったのか(パソコン一式)。自分のものになった気でいたのはあまかった。期限に一月もない時期にばたばたと指令が来て、余計なことを書かされる。規制庁も縦のヒエラルキーの中におり、担当がなるべく足を引っ張られないように、保身のためにやっていることに違いない。「高度化」という文言を入れろ、というのも「事業が成功した、ということになったかどうか」を担保するためであり、日本を蝕んでいる重篤な病である。誰が足を引っ張るというのだろうか。ノイジー・マイノリティーであるクレーマーが恐ろしいという気持ちもわかる。でも、正しいことを主張するのであれば必ず味方はいる。クレーマーも確かにいるが、あなたが守られないということは日本人の民度が落ちているということ。役人だったら国民のための仕事という信念、意識を明確にし、下々の時間を奪わないようにしてほしいものだ。(2014年3月17日)

博士課程における教育とは

朝日新聞デジタルの、『「小保方氏個人の問題だけではない」教育の重要性指摘』という記事にある、「大学院での教育が十分だったのか疑問」という指摘。これは研究という行為の方法を博士課程でしっかり教育しているのか、という疑問なのだと思うが、この記事を書いた記者は研究についてあまりご存じないのだろう。博士課程は研究者のインターンシップのようなものであり、社会人としての研究者ではないが、学生以上の存在である。博士の学位をとるためには学術雑誌に論文が採択、掲載されることが一般的な条件であるが、研究を行い、論文を書き、投稿し、査読結果に対応し、受理される段階で研究と論文執筆に関するルールを身につける。OJT(On the job training)によって学生は研究のルールを学んでいくのである。このルールが身につかなければ学位は取れないし、就職もできない。大人に向かって赤は止まれ、青は進め、などと教える必要はないのである。こんなことで、文科省から大学院教育について様々な指示が出て、忙しくなったらたまったものではない。お偉い人がいい気持ちになるだけである。13日にも書いたように、何のために研究をするのか、誰のための研究なのか、禄を食んでいる研究者ならば、この点を明らかにし、発信すべきではないだろうか。マスコミはそれを評価できる力を身につけて欲しい。研究には、研究者自身の探究心に基づく研究と、人や社会のための研究がある。探究心の重要性、“人や社会のため”への道筋、がきちんと説明できることが重要であり、科学ジャーナリズムはここを追求することが仕事である。単なる解説者ではつまらん。論文をいっぱい書いて偉い、たくさん予算を取って偉い、外人さんのともだちがたくさんいて偉い、それを見てすごい、だけではだめなのである。(2014年3月16日)

楽農報告

この週末はこの春初めての畑仕事だった。まず、ピアンタのオイルを交換、固くなった土地を耕し、まずはジャガイモ、エンドウ、そしてイチゴを植えた。これから春に向けて少しずつ野菜を増やしていく予定。(2014年3月16日)

できることできないこと

今日は卒業生が一席設けてくれた。そこで、学生に社会人になって気づいたことは、と質問。「学生の時はできることとできないことを自分から切り分けていたけれど、就職してからはそんなことは言ってられない。とにかくやるしかないということ」。がんばれ。飲み過ぎで明日が心配な状況。ところで、今日は阿武隈の放射性物質のメジャー・フォールアウトから3年。(2014年3月15日)

研究界の犠牲者かも

小保方さんはいったいどうしてしまったんだろう。出てくる事実は研究者の行為としてはちょっとおかしいことが多い。小保方さんに対する詮索が激しさを増しているが、真実はどうなのか。そこには研究者の世界の大問題があるのではないか。昨今の研究界における評価は論文数、獲得予算額、外人さんとのつきあいの数、によってなされる。研究成果や研究者の価値を正当に評価できる人材がいなくなったことがその原因であるのだが、これによって研究は地位と名誉が目的となってしまった感がある。研究は大きな予算がつくプロジェクト型が主流となったが、プロジェクトは失敗することはない。力のない評価者が相手であるので、研究が“うまくいったか”、ではなく“うまくいったということになったかどうか”という点に労力が注ぎ込まれ、“うまくいった”ということになる。政治の世界を見ているようである。こんな世界で育てられる若者は、プロジェクトのために、常に“優秀”という看板を背負わされ、研究というよりも“研究事業”を成功させることに秀でた有能な指導者の元で、“優れた研究ができたかどうか”、ではなく、“優れた研究ということになったかどうか”、ということを達成するために、時間を使う。こんな風にして育った若者がすでに中堅以上に就いていることも問題の根を深くしているのではないか。“若い”ということが十分な検討を経ることなく評価の対象になり、指導者は自分の名誉のために若者をおだてる。みんなが業績病にかかり、とにかく論文を書こうとする。大型研究は個人では対応できず、研究が集団研究になる傾向にあることも問題を複雑にしている。全体を俯瞰できる指導者が少なくなっている。チーム内の意志疎通も希薄になっていやしないか。我々研究者は何を大切と考え、解こうとするのか。それは何に対して価値があるのか。問い直さなければならない時期に来ている。小保方さんは犠牲者なのかもしれない。ここに書いたことは私の想像です。論文ではありませんからね。反論あったらお待ちしております。(2014年3月13日)

日本人の自然観を取り戻す

規制庁の受託研究(放射性物質の分布状況等調査)の報告書の査読結果の修正を終え、提出した。この仕事はおそらく世界の中の日本という立場からは重要なのであろうが、問題の現場との関係性は希薄であったと言わざるを得ない。“御上”側の仕事であり、我々は御用学者と言われてもしょうがないなあ、と思う。これまで、検討会に参加したり、文書の査読結果を受け取ったり、多少の関わりを持った中で感じたことは、担当者である研究者や役人の自然観が極めて演繹的で単純なものになってしまっているということ。世界は微分方程式で演繹的に記述できるものであり、現場の観測・観察情報も演繹的思考の中に当てはまらないと、おかしいんじゃないの、ということになる。マクロな視点ではそれなりに機能したのかもしれないが(例えば、航空機モニタリングによる避難区域の線引き)、ミクロな視点が欠けているため、多様な現場に対応できない。この事業はまだ続くようだが、私はこれで終わりにするつもり。大学の研究者であるので、現場に密着した研究を実施しなければならんと思う。もうひとつ、現場に立脚した正しい自然認識を社会に伝えていかなければならんと思う。日本人(都会人といっていいかも)の自然観を取り戻すことがこれからの重要な仕事になると思う。(2014年3月8日)

人生狂わされたのに

Yahoo,毎日新聞から。カネミ油症事件の控訴審で原告敗訴。「何十年も苦しみ、人生を狂わされた被害者に司法は寄り添っていない」と、原告団共同団長の森田安子さん。水俣病、イタイイタイ病、森永ヒ素ミルク事件、などなど、文明の恩恵を受けた多くの人々の陰に、犠牲になったたくさんの人々がいる。そして福島でも。我々は犠牲のシステムの中で生きている。多くの涙を踏みつけて生きている。自分が犠牲者になったときに、諒解できるだろうか。そんな人はいないだろう。だから、犠牲者の涙は人ごとではない。(2014年2月24日)

ささいなこと

なんてことはない。ある農事法人にイベントの相談に出かけただけなのであるが、外から見ているだけだった世界に少しふれることができたということは貴重なことである。こんなことがうれしいと思うのである。(2014年2月24日)

クロノキオク

いやいや、泣いてしまった。最初はオドロオドロした妖怪ものかと思ったら、実は愛であった。くろは家と家族を守ろうとしたのであった。詳しくはビッグオリジナル2014.3.5号を。黒丸(うちの家族の黒柴です)も近藤家を守ってください。私もあなたを守ります。(2014年2月20日)

反知性主義

朝日朝刊より。佐藤優さんによると反知性主義とは、「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」、である。このような態度があることは、私も世の中の様々な局面で感じていることである。客観的な証拠、正当な論理に基づき判断するのではなく、気分が判断を左右してしまう。こうなってしまったのは大学にも責任があるのではないかと思う。例えば、卒論。卒論はまさに「知性主義」の訓練といっても良い。学生は最初の段階では、“私は〜と思う。だから、〜である”、という主観的な論理から始まる。この段階から実証性、客観性を重んじる態度を醸成していくのが卒論の機能でもある。“私は〜を重要と考える。なぜなら、〜だから”、という主張ができるようにしたいのだが、うまくいっているという自信はない。その理由の一つは、学生にとって卒論より重要なことがあること、評価者は達成目標を高く設定できないこと、がある。落第させるということは、極めて大きなエネルギーを要することですので、適当なレベルで認めざるを得ないわけです。もちろん、きちんとやっている教員もおられることは承知していますが、現実はそう単純ではない。大学の機能低下が反知性主義を抑制できない要因になっているという点について省察し、行動に結びつけなければなりません。(2014年2月19日)

家族農業の未来

農文協に注文していた本が届いた。「家族農業が世界の未来を拓く」。日本の政策決定者たちがとろうとしている農業政策は、国民に十分な食料、雇用、生計を提供できることができるのか。それは否だろうと私も考えます。欧米の映画を見るとよくわかるように、それは成功者、ヒーローの物語で、陰で支える兵士や民に光が当たることはない。日本の農業構造改革も、企業家には光が当たるが、農業を放棄せざるを得ない方々の未来については何も語っていない。小農を駆逐しながら、新たな雇用を確保することは現実的には極めて困難である。小農、家族農業を守ることこそ日本人の暮らしを守ることなのではないだろうか。(2014年2月18日)

限界を超えて−なんとかなる

今日は高村先生の最終講義でしたが、導入はローマクラブの「成長の限界」でした。70年代に予想されたことが現在その通りになっているという。いずれ限界は来るのだろうか。私は成長の限界はグローバル思想あるいはヨーロッパ思想から出てくるものだと思う。システムダイナミクスは単純なシステム(複雑な相互作用を計算できることにはなっているが、システム間の相互作用の認識になると人間側の能力を遙かに超えるのではないか)に対する演繹的な思考から導き出される結果です。地球は一つで、一つの時間軸で進行するという基本的考え方がある。しかし、現実は世界は絶対的多数の地域から成り立っており、異なる時間軸が存在する。例えば、ある半乾燥地域の代表的な水収支を考えると、年単位の収支計算では必ず水不足が生じ、持続可能ではない。しかし、時間刻みを月、日、時間と短くしていくと水収支の余剰が出てくる(浸透のメカニズムが関係しているが、ここでは説明は省略))。これが地域固有の条件のもとで地下水涵養を生じさせる。だから、乾季でも人々は井戸の水で暮らすことができる。持続可能性を壊すのは近代化による生活習慣の変化である。これはタンザニアで実感したことであるが、その他の地域でも現場に身を置くことによって確信を深めることができた。水に限らず、食糧でもそうである。食糧安全保障を脅かすのは生産量というよりも市場経済の元での流通、コストである。「限界」は対象をグローバルからローカルに移すにつれ、ぼやけてくる。ローカルには持続可能性を担保する様々な条件、仕組みがある。耕地面積の少ない山村が数百年にわたって持続されてきた自然の恵みの享受と、「おすそわけ」の習慣があったからではないか(内山節からの引用)。地域でまかなうエネルギーも地域にはある。都市に集中させようとするからコストがかかる。「限界」の背後にある思想を理解し、「限界」に囚われずに、持続可能な社会を構築する義務が我々世代にはある。その社会はローカルを大切に思う心から生まれてくるものではないだろうか。高村先生は、講義の最後で「なんとかなる」で締めくくられましたが、私もその通りだと思う。ローカルな社会がある限り、何とかなるのであり、ローカルを大切に思う心を醸成していくことが環境学者そして大学の役割でもあると思う。(2014年2月17日)

村の孤立と安心

雪景色の印旛沼を撮影するために西沼まで出かけたら、すでに雪はほとんど消えていた。拍子抜けしたが、この雪により社会は大きく混乱した。南牧村では外につながる道路が通行止めになって孤立したことがニュースで何度も報じられている。しかし、孤立は問題なのか。かつての山村であれば、食糧、燃料など、冬への備えは万全で、数日の孤立など何の問題もなかったはずである。孤立が問題になるのは、食糧や燃料を外部に頼っていること、都会へ通勤していること、といった社会の仕組みの問題。医療の問題もあるが、昔の山村では、その精神世界が安心を生み出していた側面もある。時々起こるハザードの対して、社会の許容力をもっと大きくすることはできないだろうか。都市的世界と農村的世界が共存し、両者を自由に行き来できる精神的態度の重要をますます強く感じる。(2014年2月16日)

矛盾なき科学か矛盾のなかの総合か

もう少しで読み終わる「歴史・災害・人間」(下巻)の中の節の題目から(歴博の篠原氏の章)。言いえて妙である。理学の中で環境を語ると、科学とは真理の探求だ、とよく言われたことを思い出す。真理とはこの場合、一般性のことであり、自然現象を要素に分割したその一部におけるメカニズムに過ぎない。矛盾なき普遍性を探すことが理学的な研究だと認識されていた。しかし、“真理”に事象の背後にある隠された事情の総合化により明らかになる真の姿、という意味を持たせると(こちらの方が一般的とも思われるが)、真理の探究は総合なくして達成することはできない。隠された事情には多くの矛盾も含まれるわけである。環境学とは真理の探究だ、と言っても良いくらいである。言葉と背後にある思想を理解することは、研究者にとって大切なことだと思う。(2014年2月15日)

記憶を紡ぐ

アマゾンさんには頼らないようにしようと思いつつ、またお世話になってしまった。ドロシア・ラングの写真集を手に入れた。そこには、「怒りの葡萄」で描かれた世界のありのままの姿が捉えられている。人々の写真を見ていると、何と表現して良いのかわからないのだが、ある種の感動に似た感情が湧いてくる。「かわいそう」と思って、扉を閉じて忘れる、なんてことではあかん。アメリカの歴史の中に位置づけて、よしとするだけでもあかん。何故なら、そこに写っているのは生身の人間であり、それも困難の渦中にある父、母、家族の姿であるから。写真に捉えられた情景を思いながら、ウディー・ガスリーの唄を聴くと、心にジンと染み入ってくる。こんなことでいいのか。案外これがいいのかもしれない。ダストボウルの時代の記憶をしっかり紡ぎ、伝えていくことが基本だ。ウディー・ガスリーは良い仕事をした。我々もまた、この記憶をしっかり受け継ぎ、やるべきことをやっていかなければならない。近代社会の仕組みそして災害によって土地を追われるという構図は福島と同じ。ダストボウルと違うのは現在進行形であるということ。歴史の中に位置づける前に、人の尊厳を守る行動を続けていかなければならないが、記憶を紡ぐための行動がベースとなることには違いないだろう。(2014年2月13日)

ふてくされるなよ50代

 50歳代は人生を棚卸しして、自分を見つめる時期に。朝日朝刊、童門冬二さんのコラム。まさに今の私ではないか。棚卸しして、新しい方向を向こうとあがいているところといった方が良い。童門さんは50代は「公」を考えなくてがならないともいう。会社(大学)にとってよいこと、社会にとってよいことは何かを考える。私もそこを気にしている。大学人の極楽蜻蛉のような生活を定年まで続けるのではなく、50歳を過ぎたら「公」のことを考えたい。50歳を過ぎても研究一本やり、狭い世界の中で大将になっても、その生き様は何とも異常に感じる。社会のための仕事、50歳代までの成果(あればの話だが)を社会に戻すことを考えたいと思う。教育、そしてトランスディシプリナリーな研究(モード2的な研究であり、地域における活動でもある)、これを実現させたい。童門さん曰く、「50歳代でふてくされていてはどうにもなりません」。(2014年2月12日)

ウェーバーの行為の4類型

 人間の行為をその動機にもとづいてわけたもので、@目的合理的行為、A価値合理的行為、B感情的行為、C伝統的行為、がある。このうち、B感情的行為がやっかいなもので、ブラックボックス的に扱われているという。経済学理論でも、人間には感受性は存在しないという仮定がたてられ、そんな人間をホモ・エコノミクスとよんで理論が構築されている。理論的にはそれで良いのだろうが、現実ではそうはいかないことは明らかである。ここを打ち破らない限り、学者は「机上で理屈をこねまわし、訳知り顔で世の中を説く」ということになってしまうのだろう。(2014年2月11日)

学者のステレオタイプ

 ウディー・ガスリーは誰のために歌うか。「富や権力を手にして、何ら不自由のない人たちのためではなく、また、机上で理屈をこねまわし、訳知り顔で世の中を説く学者のためでもない...」。天辰さんによる「ダスト・ボウル・バラッド」のライナーノーツより。私も学者の一人であるが、こんな学者にはなりたくないものだ。富に対しては少しの欲もあるが(笑)、権力、そして地位、名誉などは一蹴したい。それが自分を苦しめる元でもあるから。机上ではなく、現場に身を置き、訳知り顔ではなく、常に学び、一緒に考えなければ、問題は理解すらできない。誰のための研究か。評価社会の中で、多くの”学者”は自己防衛のため、すなわち自分のために研究をせざるを得ない状況にある。そういう状況が学者のステレオタイプを生み出すのだろう。(2014年2月11日)

被災地責任

 これだけだと誤解されそうにも感じるが、とてもいい意味がある(朝日“プロメテウスの罠”から)。全国の支援を受けて復興した被災地は、その災害で得た経験やノウハウを他の地域や世代に伝える責務がある、という考え方。阪神大震災から中越地震へ、そして中越から東日本大震災へ。ところが、原子力災害被災地はどうだ。旧山古志村の復興は3年かかった(復興宣言が出るまで)。ところが、原子力災害による避難区域は3年立っても先が見えない状況である(もちろん、避難にならなかった地域でも)。何より、原子力災害は再び起きてはならない人災である。人は関係性の中で生き、関係性に支えられて生きている。誰でも被災地を想い、支援を思い立つ理由はあると考えよう。ただし、どのようにして支援したら良いのか。国という巨大な壁の前で身動きがとれなくなっている状況であるが、何とか道を見つけなくてはならない。(2014年2月10日)

滅びゆく日本の心意気

 偶然、NHKの番組「ジャパンブランド」を見た。2011年のタイの洪水の後、JICAの専門家として洪水対応、対策をリードした日本人がいたことを知っている(水文・水資源学会における講演)。同じ日本人として誇りに思ったものだ。しかし、その後の具体的な提案に際して日本の企業連合は撤退したとのこと。リスクをとらない利益重視のビジネスとしてこの案件をとらえたということがその根底にあるらしい。タイからすると、日本に“タイのため”という心意気が感じられなかった。何より、タイの事情よりも、日本の事情を優先したということがあからさまになってしまった。極めて残念である。日本はこの10〜20年で大きく変わってしまったようである。かつて日本の提案は、利益よりも、その国のため、ということを優先して行ってきた。そのため、競争に敗れることもあったが、日本の心意気はその地に残った。我々は誇りを失いことはなかった。大先輩の話であるが、自分も現場で感じるところはあった。なぜ、こんな様になってしまったのか。悪しき市場主義、競争社会、拝金主義、足を引っ張る社会、いろいろ考えられるが、世界と日本の歴史、社会のコンテクストの中で考えていきたい。日本の心意気を取り戻すことが日本の再生ではないか。そんなこと言っても金がなきゃはじまらない、という言説を乗り越える必要がある。(2014年2月9日)

個と公の間

 今日は一日雪かきで終わった。普段使っていない筋肉を使ったので、明日は大変なことになりそうな予感。近所の皆さんも出てきて雪かきにいそしんでいるが、ご近所コミュニティーというのは通りに沿ってできあがっていくものということを実感。夕方、近くのスーパーまで買い物に出かけたが、コミュニティーの強さが雪の状況に現れているようにも感じる。個々の家の前は片づいるところが多いが、かえって幹線の方が雪が残っていることも発見。公共空間で雪が残されているということ。都会では個から公の間に、ちょっとした分断があるように感じるが、こういう部分に「新しい公」が必要だろうか。もちろん、実現は簡単ではないが。(2014年2月9日)

「有用基準」、「原則基準」、「共感基準」

 よりよい地域を考える活動の報告会で「協働・連携」をテーマにして行うグループ・ディスカッションの座長を依頼された。なかなか深いテーマである。じっくり考えておかなければならないが、こういう時はいつも環境社会学の教科書にお助けを願うことにしている。「環境社会学」(鳥越晧之著、東大出版会)を眺めていてヒントを見つけましたので備忘録として書き留めておきます。

「環境社会学者の作田啓一は現代社会において人々は3つの行為基準にもとづいていると指摘した。それら3つを、有効性(効率性)を重視する「有用基準」、価値観を重視する「原則基準」、他の生命体とのシンパシーを重視する「共感基準」と名づけている。」

 福島の復興を考えるときに、私は「科学的合理性」、「理念」、「共感」の3つの観点の重要性を強調しているが、若干のニュアンスの違いはあるものの、ほぼ同じ意味と考えて良いだろう。「協働・連携」を達成するためには、理念、すなわちどのような地域を創りたいかという理念(原則基準)、それを達成する方法論として科学的合理性(有用基準)、そして思いを一つにする共感(共感基準)を柱に据えて話し合う必要がある。報告会まで一月あるので、考え方を深めておこうと思う。(2014年2月8日)

地層処分は可能か

日本地下水学会のメーリングリストで地層処分技術に関する研究開発研究員募集のお知らせがありました。原子力機構で「深地層における地下水流動特性評価に関する研究」、「深地層における工学技術に関する研究」、「放射年代測定法に関する基礎研究」を実施するとのこと。これらの課題はどれも重要かつ興味深い課題です。研究を進めることには全く依存はありませんが、その先にあるものが「地層処分」ですので考えなければなりません。私もかつては関連する研究を行ったことはありますが、今は科学研究には思想が必要だと思っています。地層処分技術が進歩しても、それを可能にする人や社会の考え方が同じ方向を向いていないと技術を適用することはできません。科学的合理性だけでなく、理念−どういう社会を目指すか、共感−人の思いを受け入れること、を判断の三本柱としたい。最低限の条件は、原子力災害で避難されている方々に対する配慮がしっかりなされて、諒解が得られること(もちろん、今は諒解など得られるわけがない状況です))。これができなければ地層処分は実現しないし、させてはいけない。何よりも原子力機構に雇用される研究者が、個人の自由な考え方を持ち、発信できることが大切です。そうでないと、また原子力村が再生されるだけ。地層処分は完全否定はしないけれど、技術開発と同時に、合意形成のための努力、それも地層処分実施を前提としない議論が行われることが重要であり、哲学、思想、社会学、計画学などを含めた議論の体制がとれるようになること。ここが出発点なのですが、出発点も見つけられずに右往左往しているのが現状。(2014年2月7日)

自分の位置を確認すること

今年も修士論文発表会が終わった。発表者の皆さん、よくがんばったと思いますが、気になることは学生の参加が少ないこと。同じ研究室の学生が聴きに来ているので、分野が替わると学生の入れ替えがある。彼ら、彼女らは何を聴きに来ているのか。発表の内容ならばゼミで聴いているのでわかっているはず。もっと他分野および後輩の学生が聴きに来なければいかんと思う。幅広く研究の成果を受け入れるだけでなく、プレゼンテーションのスキルについて学ぶべきは学ぶ、そして我が身を振り返って、自分がどのレベルにいるかを位置づける。これができるとても良い機会なのですが。世のスタンダードを知ることをしないと、いざ自分の番になって大失敗したり、目標が高くなりすぎて苦しんだり、ゆとりがなくなる。自分がどこにいるか、を確認すること。そうすると自分の進むべき道が見えてきて、小さな壁を乗り越えることができるようになるのだけれどね。(2014年2月5日)

敗者にも光を

妹が持ってきたコミック「美味しんぼ」をしばらく放してしまったのですが、日曜の今日、ようやく読みました。104巻は「食と環境問題」。今回の対決は、天竜川、長良川、築地市場移転、六ヶ所村を題材にして、「究極のメニュー」と「至高のメニュー」のどちらが、個々の問題についてより深く理解し、審査員に示すことができるか。そして、関連する料理を発表できるかという勝負。内容はコミックを参照して頂くことにして、結論として、行政、学者、ゼネコンの関係に言及しています。いわゆる御用学者の功罪の罪を取り上げているのですが、それぞれの問題の場面できちんと主張し、闘っている学者も大勢いるということも忘れないで欲しい。彼ら、彼女らは結果として敗者になったのですが、消えやすい敗者の歴史も是非とも記憶にとどめて欲しいと思います。時代は変わる。敗者復活の時がいずれ必ずやってくるわけですから。そう信じています。御用学者も、時代の波に運良く乗っかって、たまたま国の行政と狭い世界観が一致したに過ぎない。世界が広がれば、考え方も変わってくると思うのですが、地位と名誉を目指してしまった学者だったら、これはだめですね。なお、110巻は「福島の真実@」。お世話になった方も登場しておりました。「美味しんぼ」は単なるグルメ漫画ではなく、社会の問題に切り込む漫画になっていたのですね。ビッグコミックとオリジナルしか購読していませんので気がつきませんでした。(2014年2月2日)

自然が恋人

朝日天声人語で良い言葉を見つけた。「科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである(寺田寅彦)」。今、自然が恋人、と堂々といえる科学者がどれだけいるだろうか。長らく研究稼業をやっていると、評価社会に適応してしまい、予算をとること、論文をかくこと、地位を得ること、が目的になってしまった科学者もたくさんいるように感じる。そういう方は職業としての研究者といえば良いのだろうか。御上が言うからそれに合わせよう、という態度、研究事業が一つ終わると、さて次は何やろうと考える態度、こんな態度は科学者(研究者?)の評価社会適応論を証明するようなもの。また、自然科学者が自然を恋人とするのと同様に、環境学者は現場に身を置かねばならない。環境とは人と相互作用する自然であり、環境問題とは現場における人と自然の関係性に関わる問題だから。現場に身を置かずに環境をやっているという研究者も増えてきた。(2014年1月31日)

やっぱりネイチャー

割烹着の研究者、小保方さん、あっぱれでした。万能細胞、世界で初の作製。最初にネイチャーに投稿したときは却下されたとのこと。だったらさっさと別の雑誌に投稿してプライオリティーを確保すればよいのにな、と思うのですが、やはりこの分野はネイチャーでなければだめなのでしょうか。欧米思想でもある普遍性を追求する科学はやはり欧米発のジャーナルがふさわしいのだろうか。(2014年1月30日)

すべてをオープンに

今日は職場の拠点運営委員会でした。文部科学省の共同利用・共同研究拠点に認定されている組織は、公募で行う共同利用研究や組織の運営について内外の委員に意見を求めなければいけないという“外形的”な委員会です。そこで先日行われた拠点評価について説明しなければならないのですが、御上のつけたB評価の理由については全く明らかにされていないという現状があります。結局、理由については評価委員が資料を読んでいないのではないですかね、ということになり、御上の考え方を想像しながら対応を考えるということになる。こんなことはあり得るだろうか。文科省や評価委員の皆様にはまじめにやれ!と言いたい。でも公開されている評価委員の方々はそれぞれ地位も名誉もある方々で、こんないい加減なことを本当にやっているのだろうか。それもあり得るという昨今の雰囲気もあるが、ひょっとしたらきちんと意見書を提出したのですが、文科省が隠しているということもいあり得るかも。文科省の意向としては小さなセンターはやめて欲しいということがあり、一方的に結果だけ知らせてくるのはそのための戦略かも。こんなことは考えたくはありませんが、きちんと理由を示して議論をしないと、こんな疑心暗鬼も出てくる。いろいろな局面で日本は今こんな状況にある。やはり、すべてオープンが一番。基本的な考え方を明かした上で、折り合いをつけるようにすれば人は諒解できる。オープンマインドで、理念を明らかにすること、現場との共感を大切にすること、、これが私のスタンスです。(2014年1月30日)

化石燃料の輸入代金−数字のマジック

先の櫻井さんの意見広告の中に、「わが国はいま化石燃料の輸入に年間約四兆円も余分に支払っています」とあります。我々はずいぶん化石燃料の消費を増やしているような印象を得ますが、額が多くなっているのは価格の高騰と円安が主要な原因です。輸入量自体はそれほど増えてはいません。正確な数字は財務省貿易統計にあります。化石燃料の使用量をそれほど増やさずに何とかやっているのが日本の現状ですので、このことをもっと主張して、代替エネルギーの開発に拍車をかけることはできないだろうか。本質を見抜いて、数字に踊らされないようにしないとあきまへん。(2014年1月29日)

原発はシングル・イシューか

朝日朝刊に櫻井よしこさんの団体の意見広告が載っていました。原発の賛否を都知事選の唯一の争点としてしまって良いのか、という問題提起です。私は原発に関する議論はシングル・イシューではないと思います。原発問題は、日本の社会をどうするか、という議論の根本にあり、様々な議論の出発点として最重要の課題です。特に首都圏の電力を供給していた福島の現状を捉え、今後どうしたら良いのか、という議論は都会人としての生き方の主張にもつながるビッグ・イシューです。犠牲のシステムにより都会が繁栄することを幸せと考えるのか、人が誰でも公平に幸せを分かち合って暮らせる社会を目指すのか、背後には大きな考え方の相違があります。問題を要素に分けて、個々の要素の中だけで考える姿勢はまさに近代文明を作り上げたニュートン・デカルト的科学の考え方です。原発事故を契機に我々は新しい科学のあり方を考えなければならないし、それは関係性を大切にする科学でなければならないと思います。国家なるもののために、人が切り捨てられる社会は国民にとって居心地のよい社会では決してないと思います。(2014年1月29日)

ピート・シーガー逝く

また、一つの時代が過去になってしまった。私の師匠はPPM、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズといったところなので、私は勝手連の孫弟子なのですが、青春時代に憧れたアーティストの訃報は寂しい。何気なくアマゾンを覗いて、ピート・シーガー、ウディ・ガスリー、カーター・ファミリーのCDを注文してしまいました。アマゾン恐るべし。ついでに注文したウディ・ガスリーの「ダスト・ボウル・バラッド」が気になる。アメリカの1930年代は小農が崩壊して、農業の企業化が進んでいく時代。ダスト・ボウル以前のアメリカ、ジョード・ファミリー(スタインベック、怒りの葡萄)が幸せだった時代をもっと知りたいと思う。バンジョー、フラッット・マンドリンを手に入れたい。また、欲が出てきてあきまへん。(2014年1月29日)

組織の病

昨日の朝日の「プロメテウスの罠」で東電福島第一原発周りの地下水循環に関わる水文科学の立場が取り上げられました。だいぶ記者による脚色も入っているとのことですが、研究者セクターの主張が記事になったということでその行為を称えたいと思います。しかし、トップダウンの詮索もあったとのことで、つらい立場の研究者がいるということを記憶しておきたい。この国の組織は病に罹っているのではないだろうか。トップダウンの指示を鵜呑みにせざるを得ない体制は人を幸せにしない。大学はどう動くか。重要な時期に掛かっているように感じる。(2014年1月22日)

人の評価は様々

今日は検討会と称する規制庁の仕事の報告会でした。昨日削除した土壌侵食・運搬による放射性セシウム沈着量減少の寄与に対する評価について質問があり、最大10%程度沈着量を減少させる効果がある(ほとんどの結果は数%程度)と答えたら、それなりに評価されました。人により評価は変わる。10%は極めて大きな割合です。検討会委員が数字のマジックに踊らされてはいけないのですが、わかる人はわかるということで少し安心。また、山地斜面において谷の合流部で放射性セシウムが集積し、いわゆる“ホットスポット”、“ホットゾーン”が形成される可能性がある、と述べたら、それもそれなりに評価されたようです。しかし、公開資料に記載すると住民に不安を与えるという意見が出ました(記載はそのままで報告書は提出しましたが)。これは現場と接していないから出てくる意見ではないか。私が述べたことなど山村の民なら誰でもわかる。表に出さずに安心を担保するという行為は現場と交わらない都会の担当者の浅知恵だったわけで、今は情報は公開してきちんと話し合って諒解を形成する時代です。質疑応答をしていると、委員の方々の自然観が垣間見える。ニュートン・デカルトタイプの学者で、演繹的に世界を捉えるという習慣に捕らわれている様に見受けられる方もおられる。それでは現場の問題に対応することは困難だろう。この仕事は今年度で終える予定。次年度は現場主義の仕事に集中するつもりです。(2014年1月21日)

下総の風景

帰りの電車の中で読み終わりました。これは良かったなあ。伊藤晃著、「下総の風景−ふるさと叙情」、崙書房。昭和2年生まれの著者の少年時代の記憶。戦前の、まだ人と自然の関係が良好だった時代の話。でも、下総といっても東葛地方。印旛沼周辺の話も聞きたい。今度、佐倉の老師にお願いしてみようと思う。(2014年1月20日)

農村計画学会「震災から3年」特集号300文字コメント

今日は午前中筑波大まで電車で参りましたので、車中で作文ができました。締め切りが延長になって助かった農村計画学会誌の「東日本大震災から3年:復興・生活再建の課題・成果・深化の展望」に関する300文字コメント。備忘録として書き留めておきます。

阿武隈の山村に広域放射能汚染が起きた時、まず気になったことは都市的世界と 農村的世界の関係であった。その時、山村の復興には何より日本人が両 者を自 由に行き来できる精神的態度を持つことが重要と考えた。約3年間、旧計画的避 難区域に通い、地域と交流しながら国の事業にも参加した。しか し、2つの世界 がなかなか交わらない現実を見ることにもなった。都会の“担当者”たちは縦のヒ エラルキーの世界の住人であり、現場が置き去りにさ れる現状を目の当たりに した。未来のために我々ができることは横のつながりを強化し、多様な生き方を 可能にすることである。それが目指すべき未来 への諒解に繋がる。

ちょっと抽象的だとも思いますが、285文字で思いをまとめました。(2014年1月20日)

素人が運営する国

筑波大で明日の規制庁の検討会の事前打ち合わせを行いましたが、私の結果の一部の削除を求められました。河川流域における放射性セシウムの沈着量の予測計算において、放射壊変のみ考慮した場合と、放射壊変+土砂移動を考慮した場合の流域平均沈着量を比較した結果、流域における侵食による土砂移動は最大で10%程度沈着量を減らせる効果がありました。ところが、この数字が小さいという印象を与え、検討会委員には侵食現象を評価することの重要性が伝わらないから、削除とのこと。ある現象の寄与を比で表すのは科学における表現のひとつです。沈着量の減少分は河川を通じた放射性セシウムの流出であり、それが大きいか、小さいかは絶対量の評価により客観的に行う必要があります。ただし、委員の先生方は主観で判断なさるようです。規制庁の検討会は今回が初めてで、どんな方がおられるのか知らないのですが、研究者だろうか。そうだとしたら科学のリテラシーを持っていないということ。これは個人の問題。役人でしたら、これも科学のリテラシーをお持ちにならないということで、科学の方法論を教えてこなかった大学を含む日本の教育システムの問題でもあるのではないだろうか。とはいえ、表現を吟味して素人を納得させることができる説明を行うことも研究者の役割。来年の予算も絡んで、なるべく刺激したくないというリーダーの思惑でありましょうが、冷静に対処したいと思います。とはいえ、この国は素人が畝いする国なんだな、とつくづく思う。(2014年1月20日)

冬の一コマ

夜、不忍池の脇を通りかかりました。冷えた空気を通して、池の向こうにライトアップされた弁天堂。その遙か先に青く光るスカイツリー、空から丸い月が都会の夜を照らす。絶景かな。しばし、異次元の世界に身を浸す。(2014年1月17日)

冬の感覚

今日は電車でいつもより少し早めの出勤でしたが、朝の街は寒い。歳をとり、寒さは身に応えるのですが、それでも冬は好きな季節です。肌が悴む寒さを感じるときにいつも頭に思い浮かぶのが子供の頃に出会った絵本。それは北国の港だったように思う。全体がシャガールの青のようなトーンで、白くまがいて、寒暖計があったことを覚えている。50年も前のことで、ストーリーはすっかり忘れているが、その絵本の存在だけはしっかり覚えており、キーンとした寒さを感じる度に思い出す。その記憶が私の冬の感覚の一部を形成しているわけだ。もう絶版になっているだろうが、いつか探し出してみたいと思う一冊です。(2014年1月17日)

乗り越える力

国の「教育再生実行会議」の議論で、小中高を4年ごとに区切る「4・4・4」制が検討されているが、その理由が学校生活への不適応を背景とした「滑らかな接続」を目指すという見解にあるという。朝日朝刊「私の視点」欄で中学校教諭の徳嵩さんがこの「滑らかな接続」に疑問を呈している。むしろ、「段差」で「乗り越える力」をつけるべきではないかとのこと。私もその考え方には賛同したい。常々感じていることは、学生が大きな壁に突き当たって挫折するのは、小さな壁を乗り越える努力をしてこなかったから。大人(という言い方も好きではないが)は段差を低くすることばかりに執心し、その結果、自分で乗り越えなければならない時が来たときに乗り越える力が育まれていないということ。その背景には“大人”の“いい人病”があるのではないか。それは足を引っ張る社会に対する防衛機能であるのかもしれない。教育再生実行会議もそんな雰囲気があるのかもしれない。しかし、議論すべき本質的な部分から目をそらし、いい人を演じようとするのはあまりにも無責任であろう。委員の顔ぶれを見ると教育関係の識者も多いのですが、真摯に学生、生徒と向き合っていないのかもしれない。それは異なる世代間のコミュニケーションが希薄であることも原因なのかもしれないなと思う。(2014年1月13日)

若者へエール

今日は大学へは行かず家で調べ物をしておりますが、一寸の休憩にゲーリー・ムーアのパリの散歩道を弾いておりましたところ、本人(2011年に亡くなりました)の演奏を聞きたくなりました。YouTubeで聴き、涙しながら、ついYouTubeにはまりましたが、すごいアーティストを発見しました。suzukimarieさん。お若いのに実に格好いい。桜花さん。小学生なのにうますぎる。メタル姫さんもすばらしい。中学生ギタリストSERINAさんもすごい。ギターだけでなく三味線もおやりになる。若い演奏家がたくさんおられることを発見。若者がんばれや、と思わずエールを送りましたが、この中の何人がメジャーになるだろうか。大変な道のりですが、メジャーにならなくても音楽は一生の宝。どんな職業に就いても心の安らぎを与えてくれるのが音楽。それが強さにもつながる。おやじの一人としてそんな若者を発見して少し安心。(2014年1月12日)

横をつなぐ役割

今日は千葉県環境審議会でしたが、今回から水環境部会長とのことで少しばかり緊張いたしました。まずは正確で格式の高い日本語を話せなければならぬことを実感。日本語訓練を始めねばならぬと思う。さて、私は環境審議会はじめ、千葉県の委員は5種類を掛け持つことになった。これが10年前だったら大学からは“やり過ぎ”と批判されるところであったが、今では地域貢献ということで評価の対象にもなってしまう。大学人もいい加減なものだなと思う。それでも5つは多いのだが、実はどれも関係性がある。県といえども縦の構造を有しており、それぞれの担当ごとに課題に対応している。その中で横の繋がりを見いだして行くのも外部の委員の役割なのかな、と思う。国と異なり、県ははるかに柔軟。よりよい千葉県を目指して微力を尽くせればと思う。(2014年1月10日)

であることになったか社会

国主導のアルツハイマー病研究で改ざんか(朝日朝刊より)。またか、と正直情けなくなってしまうが、その背景を考えなければならない。日本は“であることになったか社会”。安全ではなく、安全ということになったか。優れた成果が出た、というより、優れた成果が出たということになったかどうか。そこに労力をかけてしまう、まったく非効率な社会に日本はなってしまっている。背景にはやはり縦社会がある。閉じた世界の中で、地位と名誉がちらつき、手続き論ばかりが進化する。先日も批判した「外形的」というのはその象徴である。国主導の事業はどうもこうなる傾向があるように感じる。東京を出て現場と関わりを持ちなさいといいたい。アルツハイマー研究者は社会福祉の現場にどんどん出て行って現実を体験してほしいと思うが、研究者だけに責任を負わせるのは筋違い。縦社会の弊害を認め、国が変わらなければならない。国民も足を引っ張る習慣から抜け出さないとこの国はよくならんと思うよ。(2014年1月10日)

国際家族農業年

今年は国連が定めた「国際家族農業年」である。これはすごいことではないか。過去数10年の歴史の結果が今年である。緑の革命による飛躍的な食糧生産量の増加、一方で地域社会が市場経済に巻き込まれ衰退、そして緑の革命の反省が生じ、2008年の食糧危機。その結果、小農すなわち家族農業が再び見直されることとなった。TPPを推進し、農地を集約し、企業的農業で世界に立ち向かおうとしている政治家は歴史の流れをどのように読んでいるのだろうか。家族農業は地域社会、地域の環境を守るだけでなく、日本を守る生業である。人を都会に集約させて社会が良くなる訳がない。この流れを大切にしていきたい。研究者は農業の多面的機能について引き続き研究を深めていかなければならないと思う。(2014年1月9日)

外から見た自分

外から自分がどのように見られているのか、なかなかわからないものである。自分に対する自信がないところが私の最大の弱点だとは自覚はしている。今回のセンター長選挙でも当然大差で敗北すると思っていた。落選が目的であるので、それで良いのだが、何となく寂しいことは否めない。ところが、危うくセンター長になりかけるところだった。理由はともあれ、支持者がいたということをこれからも大切にしていかなければなるまい。施政方針で話したことを思い出しながら書き留めておく。

そもそも私がここにいるのは、センター長候補が複数いないと全学委員会で格好がつかないという外形的な判断。私は「外形的」という文科省用語が大嫌いである。それが縦社会の論理だから。縦のヒエラルキーの中で、現場が置き去りにされる状況をこの3年間見てきた。文科省、大学も同じ。大学改革、各種の評価も縦のヒエラルキーの中での行為で、現場が忘れられる。我々の本務は研究と教育であり、その機能は社会の中で発揮されなければならないが、その実現とは関係のない仕事が増えるばかり。では、どうすれば良いか。それは横のつながりを強化すること。CEReS発足以来、共同利用研究の枠組みの中で横の連携を強め、ある程度成功してきたといえる。しかし、横のつながりは「外形的な成果」は出しにくい。縦社会の現実を見据えながらどうすれば良いか考えたい。組織には2種類あるが、その一つはシャープな目的を持ち、機械のように精密に構成された仕組みを持ち、目的に向かって邁進する組織(もうひとつはモード2的な、目的の達成が共有され、皆がやるべきことを自覚して自然に目的に向かう組織)。この(最初の)意味ではCEReSは組織とはいえない。シャープな部分は衛星データのアーカイブに特化し(日本および世界の中のCEReSの役割)、横のつながりは研究科を通して実現するのはどうか。三角形の頂点がアーカイブ、底辺の広がりで頂点を支える構成が良いのではないか。こんなことを思い描いているが、一番重要なことは環境研究であり、人と自然の関係に関する問題を解決できる力を我々が持つことである。

こんなことを話したと思う。質疑応答では思わず候補になりきって答えてしまったが、一番主張したいことは、組織維持のための仕事、地位と名誉のための研究、それによって上層部に覚えめでたくなることを目的とした仕事はしたくない、ということ。縦社会の中でがんばっている現場の方に、考えを主張できるのは大学人だけだからちゃんとやれ、といわれたことがある。それを肝に銘じて理想を現実の前に持ってきたいと思う。(2014年1月8日)

温暖化で数億人移住必要 食糧難、貧困拡大も IPCC報告書案

球温暖化による海面上昇などで、今世紀末までにアジアを中心に数億人が移住を余儀なくされると予測する国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の最終報告書案の内容がわかった、とのこと(朝日朝刊より)。ちょっと悲しい。人類はまだまだ成熟にはほど遠い。温暖化は確実に進行しており、我々は対応を迫られている。問題の解決に向けて着実に歩んで行かなければならないが、最終ステップまでには、@脅しの段階、A理解の段階、B協働あるいは折り合いの段階を経ると思う。IPCCが始まって20年以上経つのに、人類はまだ脅しの段階にあるわけだ。地球温暖化は物理の問題であるが、地球温暖化問題は地域における人と自然と社会の問題である。温暖化も含む地球環境問題の現場検証は理学系ではなく社会系の分野でも進んでいる。その最も重要な認識は、問題の本質は我々のライフスタイルにあるということ。そのコンセンサスを作るのがAの段階なのだが、まだ道程は遠いようである。でも、Aに至ればBの達成はそれほど難しくないように思う。ただし、マスコミのとらえ方に問題があるかもしれないので、報告書が完成したら精査しなければなりません。(2014年1月8日)

若者の未来

ひょんなことから有能な若者が突然消えてしまった話を聞いた。非常勤の研究員として長く勤めてきたが、不安定な状況に耐えられなくなったのだろう。きわめて残念なことだと思う。何が悪いのか。最近の人事はシャープな要件を提示せずに、幅広く公募して、論文が多い応募者を採用することが多い。これは他分野に対して、当該分野のマーケットが大きいことを示し、自らの優位性をアピールするためである。どうしても人材が論文の書ける分野に偏在し、カリキュラムが偏るなど、大学の運営に影響を与えるようになっているのではないか。ここに大きな課題が存在している。研究組織は外形的な優秀さを求めるのではなく、その分野の未来に向いた方向性を認識した上で、その領域を強化できる人材を採用すべきである。そのためには研究分野のコーディネーターが必要だろう。この仕組みの構築は至難の業であることは重々承知しているが、それができる人材の育成に大学は取りかからないと、日本の未来に禍根を残すことになるだろう。(2014年1月7日)

PHANTOM初飛行

本日、PHANTOMの初飛行に成功しました。PHANTOMとはラジコンのマルチコプター(クワァッドコプター)です。一月以上前に納品されていましたが、忙しくてなかなか飛ばせずにいたものです。ヘリを飛ばすときは、ノーコンに陥ったらどうしようと不安になりますが、DJI(中国のメーカー)のコントローラーは本当に安定している。難なく離陸し、自在に飛行させることができました。今年はマルチコプターを駆使して、研究を進めるつもり。里山の景観解析、農業への応用、生態系リモセンへの試み、最近サボっていたリモセンを今年は充実させる予定。普段はシミュレーターで遊んで、いえ、訓練しているのですが、飛行機のコントロールもうまくなってしまいました。そのうち、固定翼機を使ったリモセンに挑戦したい。低コストな、“誰でも、いつでも、どこでもリモセン”がリモートセンシング技術普及のキーポイントだと思う。農業への応用にしても物理量を厳密に求めなくとも、画像に記録されたパターンから農家は情報抽出ができる。景観生態学においても、画像を撮ることが一番重要。近接リモートセンシングが今年の目標の一つ。(2014年1月5日)

アンプ購入顛末記

実質的に本日が仕事始となりました。休日の仕事はどうも集中力に欠ける。夕方になり、何となく脳みそにスイッチが入り、津田沼までアンプを買いに行くことにしました。最近は鉄弦よりもナイロン弦の音色が好きになり、YAMAHA SLG100Nをよく使うようになっていますが、出力が小さい。RolandのMICRO CUBEというエレアコ用ではないアンプを使っているのが原因だと考え、エレアコアンプを物色していたところでした。実は新製品のYAMAHA THR5を考えていたのですが、Roland AC-33があったら清水の舞台から飛び降りようと思って津田沼パルコの島村楽器に行きました。AC-33はかなり古い機種なのですが、ギターを再開した頃から何となくこれだなと思っていた機種です。書斎がスタジオっぽくなって雰囲気も良くなりましたが、SLG100Nではやはり音が小さく、音量を上げるとノイズが耳障り。プリアンプをかませないとだめかもしれません。結局近いうちにまた出費が生じそうです。TAKAMINE PTU100VNの方は立派な音が出ており、いい感じです。正月休みは職場においてあるYAMAHA G85を持ち帰り、使っていましたが、すでに43年もののビンテージギターになりました。G85の85は8500円という意味です。これは一生手放せないでしょう。今年はギターも自己流から脱して、きちんと基礎練習をやりたいものです。(2014年1月4日)

デリヌルさん来日

卒業生のデリヌルさんが昨晩来日しました。帰国留学生支援事業で3月まで研究に勤しみます。デリヌルさんは新疆師範大学の教授になったところ。近藤研究室の博士課程修了者は中国で2名が教授になりました。インドネシアで2名、日本でも2名が研究職に就いています。インドにも一人おるのですが、最近音信不通。あと、韓国、ヨルダンも技術者として活躍しています。大学人生も最終コーナーが見えてきましたが、人材育成の観点からはまあまあではなかったかなと自己評価したい。残された大学人生において彼ら、彼女らのサポートをせねばなるまい。そこで、方向性の一つとして乾燥・半乾燥地域にターゲットを当て、正月休みに教科書を読み返しているところ。湿潤熱帯も重要なのですが、縁の深い順に取り組みを再開したいと思っています。(2014年1月2日)

新年を迎えて

今年も年賀状を書かないまま新年を迎えてしまいました。日本ではまだ、“おめでとう”というには早すぎるように思っており、無精な性格も手伝って礼を欠いております。ただ、様々なご苦労をなさっている方々には、一緒にがんばりましょうと声をかけたいと思います。とはいえ、自分に何ができるか。また今年も悩み多い一年になるでしょう。サポートというのもおこがましいのですが、その質の変化を目指さなければならないと思います。「足し算のサポート」から「掛け算のサポート」へ(農村計画学会誌32巻3号、稲垣論考より)。そのためにも横のつながりがますます重要になってくると思います。ところが、世の中は縦の社会の論理で動いている。縦と横、うまく折り合いながら、横を強めていく。そんなことができればと考えております。(2014年1月1日)


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