口は禍の門

2010年も終り。この一年を振り返ると、どうも大きな変化の始まりだったような気がする。あまり良いことはなかったが、それが変化への起爆剤になっているような。変化とは一気に起きるのだが、その前にも草の根で徐々に圧力を高めながら吹き出す時を待っているものではないか。安山岩質マグマの火山のように。こういう時こそ、マグマの活動を注視しながら、確固たる世界観、自然観、社会観に基づく独自の主張を確立しておかねばと思う。(2010年12月31日)

とうとう10月。今年も後わずか3ヶ月。時の経つのはなんて早いのだろうか。ただ、暑さは去り、空気は爽やかになってきた。秋は復活の季節、と行きたいものだ。今回の訪中では国と国、人と人の関係について考えた。二年ぶりの石家庄の発展ぶりは驚きであるとともに、すぐ近くで私と同じ日本人が拘束されていることは私を神妙な気分にさせた。でも、そんなこととは関係なく、中国の方々には熱烈歓迎して頂き、貴重な情報交換ができた。拘束された方々には同情するが、国家間の覇権争いとは別の、協働によりお互いが学ぶことができる関係がそこにある。不幸な出来事はこれからも起こるかも知れないが、人と人の関係が保たれていれば、国と国の関係もいずれ良い方向に向かうだろう。(2010年10月1日)

2010年も半分が過ぎてしまいました。どんどん老いていきますな。梅雨のまっただ中ですが、この時期、紫陽花が美しいと思う。曇り空の柔らかな光に本当に良く映える。鬱陶しい天候ですが、神様はちゃんと息抜きも用意しているのだろうか。紫陽花といえば、ギターデュオいちむじんの演奏が好きなのですが、この曲は岡崎倫典のトトラの島とちょっと似ているような気もします。暮らしの中の息抜きは大切だと思いますが、自分および社会の中に息抜きを罪悪と考える精神構造があるように感じる。ここを乗り越えなければならんと思う。(2010年7月1日)

2010年6月までの書き込み


年賀状はいつ書くか

今年も今日で終わり。なんと短い一年だっただろうか。ただ時のみが駆け抜けていく。常に何かに追われて“ゆとり”というものを感じる暇がなかった。仕事の積み残しがあると、それだけで追い立てられているようで、“ゆとり”がなくなる。今も年賀状の構成を思案中。これも私を落ち着かなくさせているのですが、そもそも年賀状は正月休みにはいってから、落ち着いたところで書けばよい。いろいろなことを思い出しながら、ゆっくり書き上げる。となると元日には届かないがそれでもいいのではないか。正月はしばらく会っていない人々のことを思い、松の内が終わる頃までに届けばいい。そうすれば二回人のことを思い出すことができる。年末は忙しすぎるので、このタイミングが良い。でも、正月に届かないとあいつはいいかげんな奴ということになっちゃうかも。そんなことを考えるから“ゆとり”がなくなる。来年はゆっくりと生きたいものだ。“生き方”がしっかりしていれば良いのだ。(2010年12月31日)

斜陽の年−興隆、衰退そして再生へ

これは朝日の社説の題目です。戦後の貧しさから高度経済成長、石油危機、バブルとその崩壊、そして金融危機。人生をこの年表に書き入れると、人の歴史は実に様々であることがわかる。世代間の理解はまず歴史的背景を知ることから始まる。さて、この閉塞した状況から抜け出すにはどうしたらよいか。社説では「斜陽の気分の中で思い起こすべきなのは、私たちはなお恵まれた環境にいるということだ」と述べている。「地球生きもの会議」はこのことを再認識させてくれた。「国破れて山河あり」(杜甫)。従来の価値観からすると「破れた」なんてことになるかもしれないが、新しい価値観によれば「破れて」はいない。むしろ、「山河あり」は日本の自然がもたらしてくれた(たまたま得られた)勝利でもある。自然の恵みは享受するとともに、これは損なってはいけない。だからこそ、「愛知ターゲット」のミッションを達成するために、まずは2020年に設定された目標達成を貫徹させなければならない(2050年までは生きていないでしょうから)。やっぱ、これかな。来年の目標は。(2010年12月29日)

テニュアトラックは大学の向上に役立つか

テニュアトラックを導入するか、年明けまでに返事をせい、という指令が飛んできた。消極的ながら、ありがたく受け入れさせて頂くということになると思うが、さて、テニュアトラックは大学のレベルアップにつながるだろうか。この制度で採用される若者はテニュア准教授への道筋が明示されていることになる。准教授人事(があるとすると)は原則競争ですので、競争参加者は他にも多数いることになるが、テニュアトラックに乗ればプロモーション競争のスタート時点で一歩先んじることになる。これが組織に対してどんな影響を及ぼすか、恐らく何も検討されていないでしょう。あるいは、この制度の推進者である競争に勝ち抜いたエリートに一蹴されることになる。テニュアに乗った方の人間力に依ることになるのでしょう。その前に、テニュアに乗るためには論文数競争にうち勝たなければならない。そして、神経をすり減らして研究をやって、厳しい評価を受けてテニュアになる。結局、テニュアトラックはスーパーマンでないと耐えられないということになる。これからはこういうキャリアパスが一般的になるかも知れない。でも、それは日本の大学の力を向上させることになるのだろうか。テニュアトラックを実施する前に大学行政がやるべきことは山ほどある。まず、日本と海外の現状の分析。この制度を軌道に乗せるためには何が必要か。恐らく、事務組織の強化、研究補助職の強化、大学運営の効率化、組織論も再検討、そして学問の役割に対する正しい理解が不可欠。文部科学行政は何を焦っているのだろうか。背後には役人のための科学、科学のための科学、地位・名誉のための科学、の相互作用で流れが止められなくなっている現状があるのではないだろうか。大学を良くするための実質的な議論がほしい。大講座制の再検討、科学の役割に対する議論、評価の方法に対する議論、等々。もちろん、やっていることはわかるが、精神論を振りかざす主張に屈しているのではないか。精神論に振り回されているようでは大学行政は時代遅れといっても過言ではあるまい。本来、様々な分野の専門家である大学人が協働すれば答えは見つかるはずなのであるが。(2010年12月28日)

職員の生き方が学生を育てる

というワークショップの案内が流れています。筑波大学主催で、少人数のセミナー形式、概ね50歳以下という参加条件がついていますので私はすでにはずれています。いや〜、老いを感じますな。さて、教員の生き方が学生の意識に好ましい影響を与えることは実際にあると思います。それは「たくらまない教育」(2008年2月19日参照)。教育しているなんて少しも思っていないのに、いつの間にか、誰かが誰かを教育しているという教育(原田津、「村の原理 都市の原理」、農文協人間選書)。いろんな事例があると思いますが、経験を共有するための仕組みができれば役に立つと思います。もちろん、人のココロに関する事柄なので、実践は難しいかも知れませんが、“経験の共有”は同じ目的を共有した組織、グループの中ではとても大切なことのように思います。一方、教員側の勝手な思い込みには注意せねばなりません。真理を探究している姿を見せれば学生は感動するんだ、なんてことをおっしゃる方もおられる。幸せな大学人の姿を見せつけられても、今の学生は感動はしないでしょう。それよりも、社会との関わりを明らかにし、社会の中で自分の位置づけを明らかにし、そして役に立っている、お世話になっているということを学生に見せることが重要なのではないかと私は思う。ちょうど、昨日は大学と社会の連携について述べましたが、社会の中の私、社会のための私、という生き方を見せることが学生にとっては最も示唆的なことではないだろうか。(2010年12月28日)

大学教育と職業との接続を考える

というシンポジウムがあったそうな。朝日朝刊より。就活が教育に多大な影響を及ぼしていることは事実であるが、産業界からは「大学教育と企業が求める学生像にずれがある」との指摘も。歴史的経緯から見ると、企業の身勝手な変心ともとれるが、大学が時代に即応していないことも事実。大学と社会の接続は真摯に取り組まなければならない喫緊の課題であることに違いはない。面識はありませんがうちの広井さんが、「本当に優秀な学生が内定を得られていない」と指摘。これは私も感じているところですが、社会全体に同様な問題がある。それは実質的な評価を行う能力が社会全般で退化していること。その結果、いろいろな評価、選抜が実力より運に左右されるようになり、社会システムの信頼性が損なわれている。ここを掘り下げねばならない。東北大の北森さんは、「日本の企業の多くが博士課程の教育を軽視しており、...」と指摘。そうかもしれないが、大学側にも責任があるのではないか。研究者の論文至上主義が根っこにないか。研究は高度化したが、社会との乖離が大きくなった、こんなことがないか我々は謙虚に大学のあり方を見つめ直さなければならない。まずは、北原さんが冒頭で指摘しているように、「学生が身につけるべき基本的な素養を明らかにし、質を保証する必要がある」。これは大学レベルの理念だけではなく、研究室レベルで具体的な項目を挙げて取り組むべき。私も新年度に向けて準備しようと思う。(2010年12月27日)

未理解から理解へ

東京のある自治体が運営するゴミ焼却場で、煙の排出が始まっているという朝のNHKニュースを見ました。日本は高度経済成長期の公害を経験しているので、煙突から出る煙には嫌悪感を感じる方も多いと思います。そのため、焼却施設の高層煙突から煙を出すことはなかった、煙を出さないようにコストをかけて処理していた、ということを知りました。その煙は実は水蒸気なのですが(もちろん、有害物質はコストをかけて除去しています)、水蒸気が見えなくなるように年間に一億円も維持経費をかけていたという。しかし、昨今の経済事情と、地球温暖化対策の後押しを受けて、煙を出すことにしたと。水蒸気とわかっても不安を訴える住民も紹介されていましたが、地域における物質循環を理解し、受容すべき点は受容するという“理解”の時代の始まりではないか。自分が参加している都市システムの中では、もはや根拠のない情緒的な主張は知識基盤社会の中では時代遅れと見なされる。そんな、“未理解”の時代から“理解”の時代への変化が少しずつ始まっている、そんなことを予感させます。自分がメリットを享受している都市システムの仕組みを知らなければ“文明社会の野蛮人”ですから。となると、知識、経験のメッセンジャーとしての環境学者の役割はますます大事。(2010年12月22日)

ぶ、ぼ、へ、ば、ぽ、す、ぷ、ぴょ

これはすべておならのおと。朝日、天声人語より。いいですね。谷川俊太郎さんの詩を再掲すると、<いもくって ぶ/くりくって ぼ/すかして へ/ごめんよ ば/おふろで ぽ/こっそり す/あわてて ぷ/ふたりで ぴょ〉。いろんなおならがある。ぴょ、なんてのは初めて知りました。天声人語の趣旨とは違うのですが、いろいろある、というのが大切だと思う。いろんな場合、いろんな考え方を受け入れて理解することは環境学の基本でもある。でも、<普遍的なおならの音>、を志向する姿勢がまだまだ世の中には多い。それではおならは理解できないぶ〜。今日の天声人語は「わんわん」、「にゃー」から始まるので2007年11月23日に書いたことを思い出しました。「『世界の犬がワンとほえた。調べたら日本の犬もワンとほえた』。そんな後追い研究はするな」。ノーベル賞も期待された山中さんの言ですが、よく調べてみたら世界の犬はワンとほえていなかったということに実際はなるでしょう。いろんな声がある。これを認めることが現実の理解に繋がる。いろんな場合、いろんなおなら。それを認めることが相互理解のきっかけとなり、安心社会への道筋のひとつともなる。みんなちがってみんないい。金子みすずもいいました。(2010年12月16日)

点の攻防−科学と技術の間には

朝日朝刊から。総合科学技術会議は第4期科学技術基本計画」の草案で「科学・技術」ではなく「科学技術」としたそうだ(・ナカグロがあるかないかが問題)。日本学術会議は「科学・技術」とするように勧告を出していますが、私は「科学技術」で良いと思います。再掲ですが、私は「科学技術」と「科学」があるのだと思う(2010年2月9日参照)。もはや科学と技術は一体不可分。分離することに格段の意味はない。一方、“純粋”科学としての「科学」はあるが、それは(広義の)科学の文化的側面であり、科学者の道楽(2010年7月15日参照)でもある。(広義の)科学の中には「社会の中の科学、社会のための科学」(ブダペスト宣言)もあることを意識し、科学が人類の福祉の向上に資することを情緒的ではなく論理的な表限で、かつ日本および世界の現状の中に位置づけた上で主張しなければならないと思います。下世話な話ですが、学術会議の言うように科学と技術を分離することでサイエンティストが予算面で得することは実際ないんじゃないかな。背後には地位と名誉のための科学という本音とサイエンティストの意識する“世界”の狭さも見え隠れしているような気がする。ご異見お待ちしております。(2010年12月15日)

拓郎も悩んで大きくなった−時代は変わる

毎朝聴いているラジオ番組、垣花正「あなたとハッピー」ですが、今週は黄金“吉田拓郎”伝説。“結婚しようよ”がヒットした後、8000人を前にした武道館コンサートで、「帰れ」コール。フォークソングでカネを得たことに対する批判。さすがの拓郎もココロが折れそうになった。救ったのは女子中高生の「歌って」コールだったという話。時代の雰囲気は確かに「帰れ」であったことは理解できる。しかし、時代もすぐ変わる。The Times They Are A-Changin'. ボブディランも歌っている。そういえば武道館でディランを聴いたのも同じ頃だったのではないだろうか。あれから40年近く経った。時代は変わり、人の気分もすぐ変わる。時代に流されている様は哀れである。変わらないものを深める。それでいて時代の先を行っている。そんな生き方が理想ですが、時代の先を行ったかどうかは後になってわかるもの。今は思うところを粛々とやるのみ。(2010年12月14日)

健全な水循環をめぐる千葉県における協働

千葉県が主催する“印旛沼勉強会”に参加してきました。実に勉強になりましたが、いくつか印象に残った話があります。国営印旛沼二期事業の説明で、用排水機場や水路の老朽化が進んでいることがわかったこと。この問題は日本全体の問題でもありますが、低成長期に入った現在、問題解決は容易ではない。新しいシステムを作り出すために、この国の目指す道を明確にしなければならない。経済成長に期待するだけでは破綻への道だと思う。農業用水路網の上に都市開発が行われ、水路の補修が困難になっているとは。何とか協調することはできなかったのだろうか。その他、様々な話を聞くことができ、大変ためになりましたが、やはり、コンテンツが多すぎるといった意見が出ていました。私はいろいろな話を聞くやり方で良いと思います。様々な事情を知り、それらの間の関係性を探索することから新しいやり方、施策が見えてくる。個々のコンポーネントに分割して、いくつか拾い上げて議論するのはデカルト・ニュートン的な科学をやってきた者の考え方で、地理や環境をやってきた者は包括的に現状を見ようとする。この視点を大切にして、世の中でも醸成させなければならない。教育・啓蒙はますます大事。懇親会では印旛沼の環境活動に尽力している老師と話しましたが、TPPには賛成だという。酒の席でそれ以上議論を深めることはできませんでしたが、TPPについてはもっと視野を広くしてその是非を考えねばならんと思う。私はTPP反対派。それにしても健全な水循環、里山、生物多様性といった課題をめぐる千葉県における協働はすばらしいと思う。(2010年12月9日)

何より競争が大事 評価にさらされ成長...でいいの?

朝日オピニオン欄、「世界の舞台で戦う」から。ノーベル賞を受賞する根岸さんの記事ですが、このタイトルは嫌いですね。戦う、競争、評価、成長といった私の嫌いなキーワードが並んでいます。確かにある程度の競争は必要。負けることも時には人間力を磨くには有益。しかし、度を過ぎた競争、代替え案のない負けは人を不幸にするだけ。今は負けたらすべてが終わる時代。競争は闘争になってしまう。競争が闘争にならないような案配が大事。根岸さんは科学者の道楽で成功した果報者だと思う。“環境問題は化学で解決できるか”、という問いに、“環境を壊してきたのも、直すのも化学であり科学です”、と。この自然観、世界観を否定することはできないが、私の自然観、世界観とは異なっており、恐らく私の方が今の時代にあっていると確信しています。環境は人と自然の関係。環境問題は人と自然の関係に関する問題であり、“物理”がわかれば問題は解決するというのは幸せな科学者の妄想に過ぎない。もっと“世界”を広く見てほしい。“化学や科学”は問題解決のための一部の手段に過ぎない。問題を解決するのは競争ではなく協働。様々な分野の方々が参加する“問題解決を共有する枠組み”の中で、化学や科学が一つの役割を果たす。競争から協働へ。そんな社会に変えていかなければ、幸せになるのは競争に勝ったごく一部の人に過ぎなくなる。(2010年12月7日)

権力でなくプロ必要

朝日朝刊、「文化変調」欄から。いや、ほんとうにそう思います。プロすなわち専門家が活躍できる社会こそ、努力が報われて人が幸せになれる社会であり、低コストで安全・安心を実現できる社会ではないかな。記事は評論家の山崎さんによるもので、「権威たたきつぶす流行に歯止めを」という副題で、大学、医師、マスコミ、検察、そして「壇」といったものの権威を叩き潰すことをやめなければ、文明は無政府状態に陥ってしまうという指摘。権威を認めず、評価せずに叩くという風潮は確かにあるかもしれないとは思うが、それは権力と権威が乖離した場合。権威を尊重する雰囲気はまだ残っていると信じたい。権威は地位でも、権力でもない。地位、権力と乖離した権威であれば叩き潰すのに躊躇はいらないと思う。この記事で使っている「権威」の意味に違和感を覚えたので、広辞苑で引くと、権威には2つの意味がある。@他人を強制し服従させる威力。Aその道で第一人者と認められていること。この記事で使っている意味は@だろうか。私はAの意識が強い。第一人者としての“人間力”として“権威”が生じるといった意味で使っていました。皆さんはどうだろうか。日本語も難しい。(2010年12月7日)

年越し準備

来年のために、この時期に買っておかねばならないもの。それは「犬川柳カレンダー」。柴犬ファンの私としてはこれが部屋にないと落ち着きませぬ。今年もアマゾンで購入しました。以前は、お茶の水の丸善の前のワゴンで購入することが多かったのですが、最近は東京へ出る機会も減り、昨年からアマゾン頼りになりました。そうそう、昨年は書店で買いそびれて、あわててアマゾンで探したのだった。この犬川柳にはホント教えられます。2011年版のお気に入りは、「へこたれぬ 気がつかないから へこたれぬ」。いや、その通り。このKTは強さの秘訣だよな。KYも。学界のリーダー格にはKTが多い。いやいや、研究者という存在がすでにKTなのかも。ものごと考え過ぎちゃいかんよ。と思いつつも、つい考えすぎて、気苦労ばかり。来年も犬川柳カレンダーで癒されよう。もちろん、うちの黒丸が本命ですが。(2010年12月2日)

実りある就活のために

朝日朝刊より。表記のタイトルの公開シンポジウムの報告。心に留まったフレーズについてコメントしておきます。●本当の問題は、大量の新規学卒者が就職できなくなった従来型のシステムの機能不全(小美川):科学技術の進歩は人にゆとりをもたらすはずだった。確かに省力化は進んだが、雇用の問題を抱えてしまった。根本には競争を旨とする市場経済がある。我々は別のシステムに移行しなければならないと思うが、すでに新しい潮流はある。若者はそれに気づき、一歩踏み出すことも選択肢に入れて良いと思う。●「負担・不明・不安」、業界に関するリアルな情報を入手しにくい(寺岡):スリーエフは社会心理学で説明できるかも知れない。心理学者はもっと発言してほしい。大学は業界と連携し、情報発信に務めるとともに、若者は正確な情報を収集する力も磨いて置かなければなりませんぞ。会社は知名度だけで評価はできません。●「子供サッカー」はやめよう(勝間):これも心理学の問題。一端落ち着いて自分を取り巻く状況を俯瞰してみよう。競争は避けられないが、実のない競争に突入しないように。●大学4年間でどういうことをやれば満足できるか考えずに過ごすのは、自分の生活の放棄(出井):これは人生の放棄と言っても良い。自分の考え方を確立し、主張できるようになるためには、やはり経験と知識は必要。それを得るために大学の4年間はある。●たとえばソフトエンジニアになりたいのに、居酒屋バイトでいいのか(牧原):求人がなければしょうがないことではありますが、どんな職種でも経営者の立場で考えながら仕事をやれば何かしら得るものはあるかもしれない。●職歴のない人の専門能力を評価することは不可能。人間力だ。(牧原):人間力の定義は難しいが、魅力に繋がる何か、それが人間力なのだろう。●企業に入ったら正解のない仕事ばかり。(出井):これこそ若者に意識してほしいこと。体系化された〜学をベースにして新しい知識を生産する訓練が卒論。だから卒論は大事。●電車の遅れが10分くらいだったら学生の不注意。(勝間):これも充分意識すべきこと。何でも認められると思ったら大間違い。笑顔で“良いですよ”といわれても、実はすでに評価されている。このことに気づくべき。(2010年11月29日)

教授の資質

朝日の耕論から。こんな記事が出るということは教授が信用されていないということだろうか。お三方の主張は@採用基準を厳格化すべきだ(松野さん)、A見識と能力あれば資格不要(蟹瀬さん)、B研究より学生の教育が大事(濱名さん)。主要な論点は社会人教授の是非。Aであれば社会人教員だってかまわないと思う。ただし、“見識と能力”とは、“自身の経験を理論化し、体系の中に位置づけることにより、他の経験と比較・検討ができること”。これができなければ講義はただの個人的な体験談でしかなくなる。経験の理論化、体系化の過程で博士論文は当然書けるはず。すると、@の中にある博士号取得の用件は満たせる。Bは私立大学学長の意見なので、もっとも。大学が何を行うところか、という明確な意志に基づき運営すれば実務家教授でもかまわない。一方、国立大学法人における教授の力とは総合力だと思う。研究、教育、運営などをトータルにこなすことができる力が教授に求められる。准教授までは研究に重点を置き、教育、運営の経験を積めば良い。研究偏重の姿勢が教授職をおかしくしているのではないか。こう考えると、この問題は実に単純明快。(2010年11月27日)

崩れゆく「壇」の権威

朝日朝刊から。日本芸術院の会員は終身制。誰かが亡くなったら、その部の会員が投票し、新会員を選ぶ。自分たちで自分たちの仲間を選ぶ制度。その権威失墜が著しいという。こういうシステム、「壇」はきちんと機能している間は効率的であるが、一端機能不全に陥ると、簡単に壊れる。同じ制度を持つ組織は他にもある。改革後の日本学術会議がそうであるし、国立大学法人の学長選考会議も類似の仕組みを持つようになった。学長選挙は正式には学内意向調査という。「壇」の会員やメンバーの方々には重い責任があるのだが、その責任と権威、権力との乖離が始まるとあっという間に信頼性が損なわれる。「壇」のメンバーが責任を自覚してがんばるか、あるいは、新しい仕組みに移行すべき時期が来たか。「壇」と呼ばれる共同体の終焉。地位や名誉なんて大したものではない。それより大切なものを求める時代の雰囲気が感じられる。となると、学術の分野はどうだろうか。学界という狭い領域の中の評価ではなく、広く社会の評価を受ける時代になったということ。(2010年11月24日)

息子たちの戦争

たまたまテレビ東京「ガイアの夜明け」を見ました。副題は〜親の知らない 新“就活”戦線〜。学生の就活はそりゃ厳しいものだが、新卒一括採用が異様であることも確か。この異様さを払拭するには新しい価値観が必要。型にはめられて窮屈だけど何とか生きていける人生ではなく、皆が豊かさを感じることができる社会、そんな社会を作るための価値観の転換が日本には必要。就活しない選択をした学生もいるという。働く場所を自分で作ることを決心した若者。起業は正直言ってリスキーだと私も思う。社会が支援すべきだが、今までは起業しても、それを従来型の社会の中に埋め込もうとするだけだったから失敗も多かった。今や新しい価値観を同時に作り出す起業の時代ではないか。収入も必要だが、幸福度も大切。お金がなくても幸福度を最大化できる社会はできるはず。番組で「ボラバイト」という言葉を知った。将来農園を運営したいというリエさん。農園でボランティア色の強いバイトをしながら農園経営を学ぶ。こういう人材を支えることができる社会であってほしい。それは、グローバルな市場経済社会とローカルな社会を行き来しながら、双方とうまくやっていける社会ではないか。こういう社会へ繋がる道は絶対あると私は思います。(2010年11月23日)

千葉ニュータウンから千葉エコタウンへ

勤労感謝の日の今日は千葉ニュータウンにある埋め立て工事が進行している谷津の視察に行きました。あんなに美しい風景があるとは驚きでした。オオタカも見ました。何とか谷津の湿地を守りたいという地域の方の願いを聞いてきましたが、課題は湿地を維持する水量が維持できるかという点。物理や数学と違って、野外における現象はなかなかこうだ!とは言えないのが正直なところです。とはいえ、湿地を維持する水量は確保できるのではないかという印象は持ちました。ただし、前提があって、周辺の斜面林の保全と台地面の浸透対策を地域が一丸となって実施することです。今回の視察で感じたことは、開発の際に場の機能が活かされないこと。都市計画では人が考えた機能(都市の利便性)がそのまま現場に埋め込まれ、もともと場が持っている機能が封じられてしまう。谷津は台地の地下水の流出の場として機能しており、台地の地下水がもっとも効率よく排水されるように、谷の形が自己調節されています。そして、谷津は水循環の場、生態系の存在する場となり、気候緩和、洪水緩和、水質浄化、文化的価値といった生態系サービス機能が生まれてきます。しかし、これら多くの機能は都市の中で活かされない。なんとか、谷津の機能を価値化して、それを地域で共有できるようになれば、きっとうまくいくと思います。とはいえ、ここが難しいところなのですが。もう年月もたったので、千葉ニュータウンではなく千葉エコタウンを目指しても良いかなと思います。(2010年11月23日)

場の機能を活かす都市計画

昨日から熱っぽく、今日は朝からくしゃみ、鼻水、頭痛がひどいので暖かい部屋にこもっておりましたが、収穫もしなければならないので、昼過ぎに畑に出ました。ホウレンソウ、コマツナ、チンゲンサイをそれぞれレジ袋一袋ずつ収穫したところで、流れ出る鼻水のために退散。結構とれたので、スーパーで買ったらいくらになるか、かみさんに聞いたら、規格外だから300円とのこと。でも、収穫は2回目なので種代は回収しています。退散してからは部屋でうとうとしながら本を読んでいました。昔買った桑子敏雄著「風景の中の環境哲学」。もっと早く読んでいればよかった。都市計画や河川事業ではコンセプト優位。計画とは、風景からいったん離脱して得られたコンセプトをもういちど空間へ埋め込む作業。そこでは場の機能に対する配慮はないから、利用者もコンセプト通りのものが求められ、その結果、子供のいない児童公園、なんてものができあがっていく。まだ、読み始めたばかりですが、おもしろい本を見つけました。これからの都市計画は場の機能を活かす計画が必要だと思う。千葉ニュータウンで埋め立てが進んでいる谷津に関する相談を受けているところですが、谷津の機能をなんとか残したい。もし、埋め立てられてしまったとしても、場の機能を活かす公園づくりができないだろうか。朦朧とした頭で考えています。(2010年11月21日)

お金のかからない教育・研究、お金を有効利用できる教育研究

事業仕分けでは研究や大学関係もいろいろ物言いがついて、関係者の皆さんはお困りの様子です。こんな背景から、大型研究の頭出しをしておこうという動きもありますが、国の予算がないのは現実ですので、しょうがない。それよりも、お金のかからない、あるいはお金を有効利用できる教育、研究のあり方を検討した方が良い。大型の事業のなかには、研究のための研究事業、地位、名誉のための教育事業に見えてしまうものもあることは確か。お金を必要とする分野、お金のかからない分野をきちんと峻別して、大型事業の一部は仕分け、その代わり小さいけれど重要な教育研究活動を手厚くし、全体として予算縮減をはかるやり方もできるのではないか。日本は経済では他国に追い上げられている。こういうときこそ、お金では買えない、知識、経験の蓄積に務めるべきではないか。そんな課題は、地域の環境、現場科学の分野には確実にある。(2010年11月19日)

一票の格差の意味

7月の参院選で一票あたり最大5倍の格差が違憲と判断されたとのこと。もっともなご意見ですが、この格差が是正されるとどうなるか。国会議員は都市から多く選出されることになる。人にとって世界とは、見渡せる範囲に過ぎない。都市的世界観を持った人々によって国が運営されると、まさに価値観の固定化であり、変化を起こしにくくなる。単なる数字上の格差だけでなく、それがもたらす波及効果、価値観の格差をよく考えてほしいと思います。私は農村的世界観も大切にしたい。根底にはどういう国を目指すのか、という思想が必要なのだが、どうもそれが見えてこない。(2010年11月18日)

自立分散型システム社会

朝日新聞編集委員の尾関さんの記事はいつも興味深く読ませて頂いていますが、今日は「イグの心意気 枠から飛び出した科学に光」。公立はこだて未来大教授中垣俊之さんら6人がイグ・ノーベル賞の交通計画賞を受賞したそうだ。単細胞の粘菌を関東圏に見立てた面上で育てた。えさは都市に置き、山、海、湖には粘菌の嫌う光をあてると、粘菌は東京を中心にアメーバ状に広がり、都市をつなぐ網目模様となった。それは経済性や物流と通信の効率、危機に対する強さを勘案すると理想に近い形だそうだ。「人間も粘菌並に賢い」とのこと。粘菌には中核がない。それぞれの部分がそれぞれ働いて全体としてうまくいく自立分散型システム。これこそ、これからの社会のあり方として常々考えていることですが、この記事でも分権型社会を設計するときのヒントとの指摘がある。日本も自立分散型システムをどうどうと主張してめざしたらどうか。コンパクトシティー、衛星都市構想の実現と良好な農村環境の保全。地域経済圏の確立と、グローバル経済への対応を都市社会・農村社会の分業で実現。都市と農村の“交通(ヒト、モノ、ココロのゆきかよい)”。そうしたら欧米型の強いリーダーシップ社会とは一線を画した新しい社会のあり方として国際社会で立場を築けるのではないだろうか。実現のためには、現実の社会や環境を俯瞰して眺めることができる人材が必要。これこそ大学教育の目標ではないだろうか。(2010年11月18日)

包括的な視点をどう作るか

朝日朝刊から。仕分け第2弾の記事の宝くじ改革の部分にこうありました。仕分け人は国民目線に近い「素人主義」。官僚は現場に精通するプロとして「できることはやった」。両者は平行線を辿ったと。正直言って仕分け人が素人では困りますが、素人目線は参考にはなる。官僚は現場でプロとしてがんばった、というのももっとも。この両者はどこかで交わらなければならない。なぜ交わらないか。同じ朝日の記者有論で安井孝之氏は「ダイバーシティー 多様性高め柔らかな組織に」という記事を書いている。会社も厳しい時代を迎え、変わっていかなければならないが、「価値観が固定化してはどう変えるかもわからない(マイクロソフト社長樋口泰行氏)」。ダイバーシティーを高めなければならない。それは総論賛成、各論反対の段階ではなく、企業の持続的発展のための経営戦略にほかならないと。でも、ダイバーシティー自体はすでにそこここにあるのではないか。気が付かないだけ。包括的な視点から個々の立場、考え方を認識し、それらを尊重し、折り合いを探すことによって、新しい局面が見えてくるし、仕分け対象では価値とムダが見えてきて、どうすれば良いかという議論に繋がる(政治家の好きな、けなしあい、足の引っ張り合いではなく)。結局、包括的な視点をどう作るか、という点が一番大切で、難しいのかも知れない。(2010年11月16日)

女子バレーの不思議

週末は女子バレーを楽しませてもらいました。すべて見たわけではないので、WEBニュースの検索で振り返ってみると、出てくるのは木村さんばかり。いや、別に木村さんでいいのですが、竹下さんや佐野さんももっと出てきて良いんじゃない。あのちっちゃい身体の敏捷でねばり強いプレーには本当に感動します。荒木さんも迫力あったぞ。まあ、不思議というわけではなく、わかるのですが、スポーツを楽しむ観点がちょと違うということか。(2010年11月15日)

楽農報告

今日は持ち帰った仕事をたくさんやらなければならないのですが、季節進行する農作業は先延ばしができません。まずポット蒔きしたエンドウとソラマメを移植。午前中はこれで終わり。午後は、ホウレンソウ、コマツナ、チンゲンサイの収穫、ダイコン、シュンギクの間引き、乾してあった落花生の豆もぎ。結局、夕方までかかってしまった。まあ、満足しましたが、これが定年後だったら仕事に追われる心配もなく、真に充実した一日ということになるはず。朝日朝刊に柏市の「カシニワ」制度の記事がありました。空き地や樹林地を貸したい所有者と、使いたい団体の間で市が仲介するという。こういう制度はナイス。菜園をやりたいと思っている方は多いと思うが、なかなか実現は難しい。遊休地を行政が仲介して、菜園にし、固定資産税の減免を行う。その代わり、景観については行政も口を挟む。高齢者も菜園を持つことができ、健康にも良いし、食糧も作れる。こんな制度ができたら、いいことずくめのような気もしますが、どうだろうか。人口減少、高齢化時代にあたり、都市を徐々に撤退させるひとつの方策として。(2010年11月14日)

おかしい世の中をおもしろく

今週もいろいろありました。様々な出来事を見ていると、なんだか最近、世の中がおかしくなっているのではないだろうかと思う。各国の利害がなかなか調整できないのは、結局カネをめぐる駆け引きだからであり、国内では足の引っ張り合いばかり。もっと皆で支え合うことはできないのだろうか。とかくムダが多いなぁと感じます。人間は過去の経験、特にここ数年の様々な経験から学ぶことはできないのだろうか。昔は強い国が世界を先導することにより何とかなった。今は、各国それぞれ発展し、思惑はそれぞれ異なる。確かに調整が難しい時代になった。そんな時代だからこそ調整型のリーダーシップ、寅さん型のリーダーシップが必要とされているのではないか。日本はそんな時代のトップランナーであってほしい。旧来型の先導型リーダーシップにこだわって足の引っ張り合いなどしている場合ではない。生物多様性条約COP10で調整機能を見せてくれたではないか。調整の難しい時代、我々は何を大切にしたらよいのだろうか。それは地域の価値感ではないか。グローバルともうまくやりながら、地域の中で幸せを見つける。こういう生き方を持てば、世界ともうまく渡り合えるのではないだろうか。そのためには、多様な“世界”を認識できる力が必要。俯瞰的な視点から自らの生き様を見通すことができる眼を持つ必要がある。そうすると、おかしい世の中をおもしろく見ることができるようになるのだろうな。(2010年11月14日)

ハノイ再訪

ベトナム、ハノイで開催されたAPHW(アジア太平洋水文・水資源協会)の学術大会に参加してきました。ハノイは10年ぶり2回目の訪問ですが、それほど変わったような印象はありませんでした。この夏の中国の印象が大きかったせいでしょうか。でも、変わらないということは深まるということ。変わらなくてもそれはまったく問題ではありません(大きく変化した地域もあるかも知れませんが、私が見なかったということでご容赦)。変化の中に安心を見つけることはできるだろうか。安心は変わらないものの中にあるのではないだろうか。ハロン湾で船に乗っていたときに、ご夫婦と子供の三人家族が船で果物を売りに来ました。水上生活者とのこと。教育・医療・年金が保証されていて、わずかな現金収入があれば生活できる社会であれば、それは最高の社会です。あの家族はこれからどういう未来を歩んでいくのか。よけいなお世話ですけど、ちょっと気になる。(2010年11月11日)

ストレスと人間

ヒトはストレスでガンになる。今、遠距離電話で先輩と話していたところです。同級生が胃癌で亡くなりました。彼がストレスフルな生活をしていたかどうかはわかりませんが、最近、まわりで癌が非常に増えてきた。人はなぜ癌になるか。単なる偶然か。いやいやストレスが免疫力を下げて癌になるに違いない。昨日、主観と客観について語ったばかりですが、これは主観ではなく、経験的事実に基づく仮説として提唱しておこう。この仮説が反駁されるまでは、正しいと認めなければならない。これは科学のルール。人が生きていくためにはストレスは不可避だなんて言うけれど、無駄なストレスもあるに違いない。人を育てるストレスもあることは確か。そんなストレスを峻別できてこそ、大学人なのではないかな。(2010年11月5日)

理学部の学生

理学研究科・理学部ニュースが届きました。巻頭の記事で、理学部の学生についてこう述べられています。「理学部の学生は、目先の利益のみに溺れることなく、自然の理を真摯に追求し、以って社会貢献に資する学生だと理解しています」。それはそうだと思います。しかし、学生はいずれ父となり母となり、家庭を支えつつ社会の一員として暮らしていく、そんな若者です。理想はすばらしくとも、掛け声だけでは不幸を産むだけ。社会貢献に資するだけでなく、社会の中でまず生きていかなければならない。そのために、我々は何をしたらよいのか。理学をめぐる現状を正確に分析し、それに基づき、ブレークスルーを達成する道筋を示さなければ学生にとって利はない。大学教員は正規雇用され、生活には困らない。それを充分認識したうえで、自分以外のものの立場に立って考えなければならない。こう考えるとどうしても、科学とは何か、という根本まで立ち返らざるを得ない。そうすると、科学というものが言説で語られるもの以上の広がりを持っていることに容易に気が付く。その中で、理学の役割を明確な言葉で語らなければならない。社会の中の理学はどうあるべきか。真理の探究は尊いものだから、国は予算を出さなければならないのか。価値があるから予算が必要なのか。その価値を示さなければならない。(2010年11月4日)

主観と客観の境界線

あらたにす新聞案内人、『「そうだ」記事は少なくしてほしい』より。作家の水木さんがこう指摘しています。“主観と客観との境界線が相当ぼやけてきているのではないか”。私も日頃より感じていることです。新聞や週刊誌の記事には主観が入ることもわかりますが、最近は度が過ぎているのではないか。主観、気分により物事が判断される風潮が蔓延すると、集団によるバッシングや裁判員裁判など、様々な方面に影響が及び、日本における不幸増殖装置として機能してしまうことを心配しています。大学の卒論では客観的な事実に基づき、論理を重ねて結論を得る訓練をします。大学進学率が高まった現在、主観と客観を峻別する力は日本国民として身につけているはずであるが、どうもそうではないらしい。これは大学が教育機関として機能していないということでもある。もちろん、これは大学だけの責任ではなく、社会全体の責任でもあるが。昨今の海外の情勢を見ていると、日本はますます成熟社会の国として、大人の対応をしなければならないとつくづく思う。それなのに主観と客観の使い分けが苦手だなんて、ここに日本の将来に対する不安を感じます。(2010年11月4日)

楽農報告

今日は力仕事はやめにして、苗の間引きと草取りを行う。ダイコンもちょっとタイミングが遅れただけでずいぶんと生育に差が出るものだと思う。千葉は暖かいのでちょっとくらい遅れても大丈夫と思っていましたが、やはり作期は大切。ホウレンソウは発芽が不均質できれいに育たない。何か秘訣があるのだろうか。間引きしたダイコン葉を塩もみにする。これが美味い。おもしろいのは、エリンギの収穫。衝動買いした、箱の中で育てるキットですが、もう10cmくらいに育ち、大きなものから収穫して食べています。なかなか美味い。庭にホダ木はあるのですが、今年はホームセンターで菌を見つけることができなかったので朗報でした。エンドウとソラマメは順調に発芽しています。来週は出張なので、いつ移植するかが問題。(2010年10月31日)

どのような社会を我々は目指すか

公開講座終盤の総合討論における“将来シナリオについて”という話では、社会の将来のあり方について、複数のシナリオが考えられている、という点にちょっと安心を覚えました。多くの政治家や財界人による、現在の、たとえば市場至上主義、の延長しか俎上に上らない議論に国民はうんざりしているのではないかな。縦軸にローカルからグローバル、横軸に自然から人工をとると各象限で@メガシティー社会、Aビオトープ復元社会、B里山里海再興社会、Cコンパクト循環社会、が定義できる。さあ、どのような社会を目指しますか、地域で決めることができるのです、ということでした。しかし、地域で決めることはなかなか難しいと思います。私は複数の社会が共存して良いと思います。メガシティーはアジアの特徴ですが、グローバルに対応するためにはメガシティーも必要でしょう。東京をどのような姿にし、そしてどのような機能を与えていくかという議論は必須だと思います。一方で、郊外はコンパクト循環社会として機能させる。そして、里山里海再興社会をそれらの中に接して配置する。これは技術的には可能で、制度的にも不可能ではないと思います。人の収入の均質化は難しい。メガシティーに住み、世界を相手に年収1000万円を目指す人々、郊外に住んで年収は低いが安心社会で暮らす方々、これで良いのではないか。カネの格差は心の安寧で補うことができる社会は理想的すぎますが、現実的な選択でもあるのではないか。この時、グローバル経済が地域に影響を及ぼさない仕組みも必要。地域通貨を核にした地域経済圏で実現できないだろうか。政府は医療と福祉の制度改善にさらに取り組んでほしい。そして教育、学習が重要。モード2的な分野の教育が大学でできれば良い。カネの格差がココロの格差にならないように。(2010年10月30日)

里山とは

台風が近づいているのですが、千葉県の環境研究センターと生物多様性センターの主催する公開講座に出席してきました。参加者から里山の定義に関する質問がありましたが、まだ確固たる定義はないようです。私なりの定義では、@人が利用し、恵みを受けながら保全していること、Aその結果、新しい生態系が成立していること、Bそして、神様がいること。神様とはアニミズムの神様、精霊。欧米では@、Aはあり得るが、基本的に森は魑魅魍魎のすみかであったと思う。森を切り開いて成立したヨーロッパの麦作、放牧が森をヒトの世界とは隔ててきた。Bは日本だけでなくアジアの森林地域において共通する思想。里山の定義はBを神髄としたいところであるが、そうなると欧米の都市近郊林を外してしまうことになる。ここは妥協して@、Aの定義を使って良いと思う。(2010年10月30日)

太陽熱と太陽光−その2

太陽熱利用に付いては安井至氏がどこかで述べていたと記憶しており、探したらありました。あらたにす新聞案内人の2009年4月2日。再掲します(掲載に問題があったらご指摘ください)。

(産総研と米国の国立研究所の先端技術に関する包括的連携関係から外された分野の) もう一つが給湯関係の技術だろうか。家庭のエネルギー消費の約30%を占める給湯技術は、日本のヒートポンプ型給湯器もガス給湯器も、世界最高効率である。しかし、これもメーカー主導型であり、取り上げられなかったのだろう。

 給湯で省エネと低炭素化を目指すとしたら、日本の現状では、現時点でかなり少なくなってしまった太陽熱温水器がもっとも合理的で、特に、都会での壁面設置型が開発され、大量に導入されるべきである。

 この開発は、先端技術ではないという理由で放置されているが、超長期に渡る設備の信頼性を確保することが必須という面では、挑戦に値する課題である。

 この給湯技術のような、足が地に着いた技術を磨くことが、俯瞰的に見ると、実は重要である。このような隠れた技術の重要性は、個別の技術開発だけに従事する専門家にはなかなか理解されない。自らの分野の重要性だけを主張する専門家が多すぎる。

このことを仕分け人が理解して、経産省でやったら、ということだったらすごいと思います。改めて読むと、自らの分野の重要性だけを主張する専門家が多すぎる、という指摘も確かにそう。でも、けっしてずるかったり、したたかというわけでもなく、単に世界が狭いだけという場合がほとんど。これも情けない。(2010年10月30日)

太陽熱と太陽光

仕分け人のいうように、同じエコだから同じところで所管した方が良いのだろうか、また、同じエコなのだろうか。太陽熱利用は成熟した技術。家庭用の給湯器はその気になれば自作もできる。海外に製品を売り込むわけにもいくまい。太陽光利用については発電パネルの開発、製造は御上の大好きな経済効果に結びつく可能性もあり(海外に負けていますが)、給電システムとして一体化した売り込みもあり得るのではないかな。エコな部分、すなわち省エネマインドに関する部分は環境省で所管し、ビジネスに関わる部分は経産省という区分けならわからんでもない。さて、私が不勉強なのか、それとも仕分け人が不勉強なのか。“環境省の担当者は明確な違いを説明できず...(毎日配信、Yahooニュース”)、という点がまた腑に落ちません。事業を進めるからには関わる知識と確固たる思想が背景にあるはず。役人も不勉強なのか。日本という国自体が歴史の法廷に立ってしまっているのではないか。学者、サイエンティストは情報の発信に務めるとともに、情報の流通を円滑化する科学ジャーナリズムの奮闘を期待したい。日本を素人が気分で運営する国にしたくはない。でも、これが民主主義なのかもしれないなぁ。(2010年10月30日)

スーパー堤防仕分けその意味

スーパー堤防も仕分けられたそうな。それはそれで良いのですが、その背後にある国造りの思想が報道では見えてこないのが気になります。都市には一滴たりとも洪水は入れない、という明治以降の政策はすでに10年前に河川法、水防法の改正により見直されている。この政策をさらに進めるために、スーパー堤防はいっさいやめる、というのも一策です。とはいえ、浸水を受容する都市のあり方についてはまだ十分な議論とコンセンサスはない。これをやるきっかけとして仕分けがあるのなら、それはよろしい。もともとスーパー堤防は水を完全に止めるわけではない。破堤はないが、越流はありえる。破堤よりは越水のほうが被害が少ないという考え方。そうなると、コストと建設に要する時間が効果に見合わないという意見ももっとも。浸水は受容しないのが現在の市民の考え方だとすると、カミソリ堤防の復活なんてこともあり得ないわけではない。それは前進か、後退か。人口減少、成熟社会を背景として、都市のあり方と治水を関連させて考える必要があろう。土地利用の誘導。それは数十年から100年スケールの計画になる。これを市民、国民は受容できるか。政治家、役人、国民がそれぞれ100年の計を持つことができるか。そこが問われている。(2010年10月29日)

報道の背後の真実

気になるニュース。広島市の市立中学校で校長が謝罪したそうな。読売配信Yahoo!ニュースより。教諭二人が生徒の言動を5段階で評価する基準を作ったそうです。それはそれでよろしいのではないか。基準は公開してはいけないということか。昨今は基準を明確化せよとのお達しもある時代ですが、中学生に対して基準を開示することが問題だろうか。しかし、明記された基準というのは教育のためのコンテンツである。一般的な表現なら良いが、段階を付けるとダメなのだろうか。もちろん、「君は××」なんて言ってしまうのは配慮に欠ける。ただし、教諭にそこまで言わせた背景は何なのか、傍観者にはわからない。報道はそこまで伝えていないが、問題の本質を理解するためには、そこを知る必要がある。保護者の抗議も、基準を書いた紙を見たことによる、と書いてある。基準を作ったことをけしからんと主張し、校長が謝罪したとも読める。校長が何に対してどういう判断で謝罪したのだろうか。この記事の読者は評価そのものが悪なのか、と思ってしまう方も多いかも知れない。この記事自体がその可能性を表している。こういう予断を持つことにより、人は不幸になり、組織は弱体化していく。事実の背後にある真実は伝えられることはないが、察する力が必要だと思う。(2010年10月28日)

地域の顔としての千葉大学

顔が見えないということは自他とも認める千葉大の一大特徴になっています。今日は第18回印旛沼流域水循環健全化会議でした。いきなり一番前、それも委員の方を向いて座る席に割り当てられ、居心地はよろしくなかったのですが、様々なステークホルダーが目的を共有して議論する場で多くを学ぶことができました。これを次の実践に結びつけていきたいと思います。取り仕切る虫明委員長の力量は大したものだと思います。千葉大の顔が見えない、これは懇親会の席でご指摘頂いたことですが、世界の中の千葉大といった主張はわかるのだけれど、地域の中の千葉大の影が薄いということ。その通りだと思います。それは、科学とは何か、という根本課題に対する共通の認識が深められていないからではないか。首都圏に位置するそこそこの大学で、少子化、低成長の時代における自らの存在意義をまだ深刻に捉えられていないのかも知れない。知識のための科学に最大限の価値を与え、ややもすると地位、名誉のための科学と区別が付かなくなっている。科学という行為について、振り返って世界のコンセンサスを知り、けっして一つではない、それぞれの科学に対する成果を評価する力量を身につけなければなりません。「社会の中の科学、社会のための科学」は世界の科学者が納得した科学の姿の一つ。そして、私はこんなこと書いている暇があったら、実践に励まなければならん、と思っています。(2010年10月27日)

里山はなぜあたたかいか

里山という言葉のひびきはとてもあたたかい。なぜだろうか。「自然はきびしい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる」。民俗学者、宮本常一のことば。昔スキーをやっていたころ、しんしんと雪が降るなか、リフトから見た落葉広葉樹の林は美しいのだが、同時に厳しさも実感させたことを思い出す。しかし、そこに小屋があり、煙突からたなびく煙を見ると、とたんにあたたかくなる。人の手が加わった自然、人と自然の共同作品が里山である。そこには人、自然、神様、いろいろなものとの協働がある。だから里山はあたたかい。その協働に参加すればもっとあたたかくなる。人の生き方を考えるきっかけを与えてくれる。だから里山は大切。自然地理学の講義で、里山を説明しながらふと思いました。 (2010年10月26日)

楽農報告

備忘録として記録に留めておきます。今日は京葉ホームセンターで仕入れてきた1束498円のタマネギの苗を植え付け。その時衝動買いしたグリーンピースを播種。種を余らせてももったいないので播種の間隔が狭かったかもしれない。周年栽培を目指し、コマツナを播種。一週間ではあまり変わらないかも知れないが、ソラマメとエンドウを時間差でポット蒔き。一気に収穫があると採りきれず、消費もできないため。先週蒔いた種はもう芽が出ている。芽が出ている作物の間引き。これまで間引きをきちんとしなかったため、ずいぶん作物をムダにしている。ダイコンは順調ですが、カブは発芽、生長にむらがある。土のせいだろうか。週末農業だからしょうがないかもしれないが、土地の面積の割には収穫が少ないような気がする。これからは収量アップが目標。土づくりと施肥管理が重要だろうか。(2010年10月24日)

オープンであること

何かおかしいなぁ。学長候補者が二人出て、選挙運動が始まっていますが、実は候補者(第一次候補者という)は三人いた。こんな情報が流れてきました。学長選考会議で何が話し合われたのか我々には全くわからない。大学法人化後、手続き的には選考会議で候補者(選挙というか意向調査に進む第二次候補者)を勝手に決めることができるのだとは思いますが、その過程が見えなければけっして組織の志気を高めはしない。ここにリーダーシップに関する根本的な勘違いがあるような気がする。欧米のリーダーは頂点に立つと同時に、誰のリーダーであるかを意識し、幅の広い分野に対応できるブレーンを抱え、異なる意見を持つ勢力と調整しながら組織運営を進める。リーダーになったら何でもやってよい、なんてことは勘違い。学長選考会議で外されたということは、「人格」、「学識」、「運営能力」の面で欠陥が認められるということ。その方は私もよく知っておりますが、大学運営に関してしっかりした考え方を持っている方です。むしろ、優勢な勢力(あるのかどうだか、よくわかりませんが)と異なる考え方であることが理由だったのか。こんな風に思わせない運営が一番良い。考え方はオープンであることが一番。オープンであれば、必ず賛同者も現れます。対立者も出てくるでしょうが、議論にて解決するのが民主化された現代社会。オープンにした上で、負けてしまったら、これはしょうがない。私は、“しょうがない”という言葉が好きです。正しく負けたら、しょうがない。草の根が強ければ、また、世の中変わっていくでしょう。最近、なんだか日本全体がおかしいような雰囲気。この中からすでに芽は出ている日本型リーダーシップが育っていくことを期待します。(2010年10月22日)

地上の星

朝の通勤時にはニッポン放送を聞いています。“垣花正のあなたとハッピー”。9時頃から始まる“あなたが知らない黄金歌謡伝説”の今週のゲストは中島みゆき。今日は「地上の星」のエピソードでした。ハンドルを握りながら思わず涙しました。みんな空の星ばかり見ているけれど、地上にも星がある。主題歌を依頼された時、NHKから渡されたプロジェクトXの番組資料を読んで、自分は何も何も知らなかった、と思わず土下座したそうです。地上の星はどこにいったのだろう。見えなくてもいい。どこかで私を見ていてくれる。こんな感性は日本人の中に確実にある。ところが、昨今は空の星をめざせという。実は空の星も多くの見えない地上の星によって支えられている。そして評価されたいなんて思わない。あぁ、こんな人に私はなりたい、というのは宮沢賢治のパクリですが、皆さん同じだと思う。ちょっと足を踏み外すと、あっという間に生活が維持できなくなる今の社会の仕組みを少し改めれば、あちこちで地上の星が輝くことになるのではないかな。(2010年10月21日)

英語と文化の分断

疲れてばかりもいられないので、今年は久しぶりにAPHW(Asia Pacific Association of Hydrology and Water Resources)の学術大会の講演を申し込みました。ハノイですので、発表を一つしてあとはベトナムの空気に触れながらまったりと勉強してこようと思ったのですが、プログラムが届いたら、なんとチェアに割り当てられているではないか。プログラムによると昔の主要メンバーがまだがんばっておられる。近藤が来る、では仕事をやらせようということでしょう。しょうがないっすね。となると英語をなんとかせねば。最近は英語を避けており、能力がだいぶ下がっています(もともと高くないのですが)。普遍性を議論するには英語でいいが、環境や災害の本質に迫ろうとすると、普遍性をベースとして、その上にある地域の個別の事情に深く入り込まなければならない。英語の文化、すなわち普遍性を至上のものと捉え、技術で問題を克服しようとする思想が問題の理解と解決を遠ざけると感じていました。しかし、今日の朝日のオピニオン欄、鳥飼久美子さん(私の世代にはなつかしい)の考え方を読むと、もう英語と文化の関係から脱却し、両者を切り離した世界共通語としての英語を使いこなさなければならないということを強く感じます。正しい英語、米語である必要はなく、まずは意志が交換できれば良い。9月3日にもあるように、英語を使う「幸せな奴隷」にならないよう、英語を道具として使いこなす態度を身につけなければならんなと思う。大学では地位、名誉のための英語、といった雰囲気をまだまだ感じます。(2010年10月20日)

15年間霜取りなしの冷蔵庫に学ぶ

これは記録しておかねばなるまい。1995年7月に千葉大学に着任したときに買った冷蔵庫を15年間使い続けています。霜取りは一度もやらなかったため、製氷室は完璧に氷に占拠されておりました。日曜日に停電があったので、氷が融けて、月曜日に水浸しの床を発見しました。そこで、今回は完全に氷を除去しようと思い立ち、冷蔵庫を止めて待つこと三日、ようやく氷の塊がとれ、冷蔵庫はすっきりしました。夏は過ぎましたが、アイスクリームも保存できるようになりました。この三日間、少しずつ融かしては水を回収する作業を続けていましたが、最後は氷塊を一気にはがすことができました。ここで思いました。氷は徐々に溶けて、最後に一滴の水になるのではない。ある段階で一気に崩壊し、なくなる。一万年前に氷期が終わり、徐々に氷が融けて氷床が後退していくが、最後は一握りの氷となるわけではない。融解の途中で崩壊によって一気に氷床は縮小する。こういうことなんだな〜と改めて思う。考え過ぎか。(2010年10月20日)

ハラスメント防止に関する講演会

大学が開催する講演会で、出席がとられ、部局評価にも使われるかも、ということで聞きに行く予定でしたが、やはり時間の余裕がなくてさぼりました。演題自体は人ごとではなく、関心を持つべき課題であるので思うところを書いておこうと思います。ハラスメントがよろしくないのは当たり前。そんな話は聞きたくない。不遜なやつと言われそうですが、私には誇るべき経験がある。では、どうすれば防止できるか。教育問題の「いじめ」の場合は「加害者」、「被害者」、「観衆」、「傍観者」の関係が重要。問題の解決には「観衆」、「傍観者」の態度がきわめて重要になります。ただし、大学の場合は皆さん大人です。独りよがりな正義感により、ハラスメントの意識なしで行為に及んでいることもあるでしょう。ここで重要な役割を果たすのは「調整者」です。双方の考え方を聞き、専門性に基づき、折り合いを付ける役目です。千葉大学の場合は、「調整者」の機能がない点が問題です。調整はしていると言われるかも知れませんが、やっているのは担当者であり、専門家ではありません。ここにも誰も幸せにならない担当者の悲劇、不幸増殖機能があります。この講演会の講師の肩書きに「臨床心理士」とあります。こういう専門があるのであれば大学として専門家を雇用して問題にあたってほしい。とはいえ、専門性はどのようにして身に付くのだろうか。ハラスメントも環境問題と同じで、個別性に深く入り込む分野。教科書を読んで実戦力が身に付くものでもない。経験を積んだ専門家は多くはないはず。ハラスメント問題を避けるためには、やはり人付き合いかな。それと、権力に対抗できる勇気。一言でいうと、人間力、かな。(2010年10月20日)

学者に向かって書くな

昨日は研究評価の件で半日つぶれてしまいました。やれやれ。評価というのは誰に向かって行うものなのか。あるいは研究は。資料には議論はしていると書いてありますが、結果が書かれていない。おそらくコンセンサスが得られていないのではないか。今日の表題は出版ダイジェストの第2205号で、民族写真家の須藤功さんが、民俗学者の故宮本常一の言として紹介されたものです。原稿を書き上げたが、宮本さんは「まだ学問的だ。だれに読んでもらいたいと思って書いたんだ」と。学問的とは、学者を意識して書いているということで、学者に向かってものを書くな、といわれていたそうです。現場に入って、「あるく みる きく」を旨とする民族学は地域の人々とともにある。だから、地域に向かって発信するのは当然だと思う。でも、大学の研究は違うよ、という声も聞こえてきそう。成果を研究者が読む論文でオーソライズしなくちゃ、と。研究という村の中ではもっともですが、現実の村、もっと広い世界、現場ではどうか。須藤さんは言う。「それを読んだ人が、その事実のなかに自分の生活に役立てる何かを発見するということもあるはず」。研究の世界と現実の世界、どんどん融合を進めなければならないのですが、どうも「評価」がそれをじゃましているのではないか。 「宮本常一とあるいた昭和の日本」全25巻の紹介記事から。ほしいのだけどちょっと高い。(2010年10月19日)

研究評価の多様な軸

今日の「研究評価活動に関する意見交換」では好き勝手な発言をしてしまった。的はずれでなかったことを祈ります。一番言いたかったのは評価軸のこと。大学における研究は科学の研究であり、科学には複数ある。ブダペスト宣言では4つ、それを簡略化した学術会議でも2つを設定しており、それぞれで評価軸は全く異なる。まず、評価すべき対象である研究あるいは科学とは何か、に関するコンセンサスを持った上で、評価を議論してほしいと思う。何を評価するか、何が評価されるべきか、これがなければ評価はできないというあたりまえのこと。競争ではなく協調、協働を重視する意識があれば、もっとうまくいくのではないか。そういう科学だって現にある。科学は多様であり、科学の価値も多様。尊重をベースにした評価軸、甘すぎるかもしれないが、競争を気にしすぎるのも問題。教育に関する話題も出ましたが、教育は研究とは別のものではなく、環境問題の解決を共有する分野では、教育は問題解決への道筋でもある。研究という行為は社会によって支えられており、研究はもはや研究者だけのものではないということを認識しなければならない。成果の正しい評価は、個人、組織、社会、国の成熟度に関わる。ここが問われている。(2010年10月18日)

楽農報告

この時期、がんばらなあかんので、先週に引き続き畑作業に精を出す。がんばったおかげで、順調に種まきはできました。今のところ、源助ダイコン、三浦ダイコン、聖護院ダイコン、辛みダイコン、三十日ダイコン、赤カブ、白カブ、ホウレンソウ、小松菜、シュンギク、小チンゲンサイ、タマネギ、小ハクサイ、菜花、スティックセニョール、ニンニク、そしてイチゴは昨年の株を分けたもの。好きなのでダイコンが多くなってしまう。今年はピーマン、オクラは不調でしたが、シシトウ、ナスはまだ採れそうです。接木苗のナスは、基株が成長し、変わった実がつき始めました。白ナスだという。サツマイモを収穫しましたが、たいした量は採れませんでした。冬瓜の葉に覆われて、光合成できなかったからかも知れません。冬瓜を片づけてからサトイモも元気になっています。この場所は四年前までは半分は竹藪と資材置き場でしたが、だんだん畑が良くなってくることが実感できます。畑は一朝一夕にできるものではなく、農を積み重ねることによってできるもの。大切にせにゃあかんと思います。(2010年10月17日)

もったいない・ありがたい・おかげさま

環境社会学会のニューズレター(No.57)で見つけました。岩手県葛巻町で行われたセミナーの報告なのですが、葛巻町はとっても良いところらしい。この三つの言葉こそ、日本の農山漁村の人々の精神の基底にあり、持続を可能としてきた合い言葉。昔は街にもあったが、今は失われてしまった安心製造装置。たとえば、野菜が余ったのでもったいない、そこでおすそわけ、もらってありがたい、わたしからもおすそわけ。こんなことで個々の畑は小さくとも村全体で自給できるシステムになっている。生きているのはみんなのおかげさま。なんてことが村ではあるだろう(内山節の著作からの連想)。それぞれの言葉の関係性は無限ループになっているのですが、おかげさま、が特に良いですね。私がいるのもあなたのおかげ。あなたは人だけでなく、自然や、神様・仏様まで含まれます。今は人の先を行くことが推奨される世の中ですが、私が勝ったのは(負けた)あなたのおかげ、とは言うだろうか。日本の精神ではありですが、欧米思想ではどうだろうか。負けたのは個人責任。負けたら終わり。アメリカの保険制度改革に関する議論や、ヒーローものでばたばた倒れていく一兵卒を見ていると、欧米思想は冷たいものだなと思う。もちろん、そうでない面もたくさんあるし、アーミッシュなんて方々がいることも知っていますが、基層にあるのは勝者賞賛の思想だろう。おかげさま、と唱えることで幸せが生まれるような気がする。(2010年10月16日)

チリ落盤事故に想う

地下700mからの帰還は世界中から喝采を浴びた。70日は本当に長かったが、多くの方々の協働による成果が実を結んだこの快挙に拍手を送りたい。いろいろ考えさせられました。今回感じたことを書き留めておきたい。
●チリで悲劇が初めてハッピーエンドで終わった(ラジオで聞きました)。多くの方が犠牲になった政変や地震。チリでは悲劇は悲劇で終わるのが当たり前であったが、今回初めて悲劇が幸せな結末を迎えた。これがチリ国民を勇気づけた。歴史を知らないと人の心はなかなかわからない。世界を理解するためには時間・空間の視点が大切。
●技術者の誇り。アフガニスタンから駆けつけたボーリング技術者、彼がすごかった。技術に誇りを持ち、社会がそれを尊重する空気が欧米にはある。日本では技術者としての誇りはあるが、世間からは業者として扱われる。これは日本の持つ不幸増殖機能のひとつ。これをなんとかせねば。大学が行動すべきことだと思う。
●リーダーシップ。ルイスさんのリーダーシップを賞賛する声がやまない。さすが“ドン(親方)”。ここで思う。このリーダーシップは欧米型のそれであるが、もしフーテンの寅さんがいたら。あっちに行って話を聞き、こっちで励まし、また、あっちでは“それをいっちゃーおしめーよ”と、まるくおさめる。これもあり得るのではないか。日本では欧米のまねをしても、地位、責任、権力、権威が乖離しており、中途半端なリーダーシップで終わる。日本的なるものを大切にせにゃあかん。
勝手なことを書きましたが、救出された方々の今後の幸せを祈りたい。なお、救出のために坑道に入り、最後に出てきたゴンザレスさんが偉い。また、鉱山の労働環境も考えなければいかん。近代文明を支えているわけですから、人ごとではありません。(2010年10月15日)

誰かのために、何かのために

ノーベル賞に引き続いて明るいニュースだった。地下700mからの帰還が始まっている。事故に遭われた方々の苦しみは察するにあまりあるが、彼らを助けようと鉱山に集まった方々の得たものも大きいのではないか。誰かのために、自分が行動すること、そして報われることほど、人の心を満たしてくれる行為はない。報われなくとも、誰かのため、何かのために、自分がいて、それが認められているということ。この意識を共有できていれば、それが安心社会の姿なのではないだろうか。といっても、これからの生活がどうなるか。そこが心配。(2010年10月13日)

ノーベル賞受賞おめでとうございます

久々に明るいニュース。こういうニュースは日本を元気にさせる。さっそく、受賞者から若者に対するエールが送られているようだが、ちょっと待ってほしい。若者が元気がないのは若者が悪いのではなく、社会全体の問題。日本のシステム全体を俯瞰して問題点を指摘してほしい。それでこそノーベル賞受賞者。基礎科学の重要性を情緒的に語るのも注意してほしい。科学者だったら科学の守備範囲をきちんと認識して、全体の中に位置づけたうえで自分の研究の重要性をわかりやすい言葉で説明しなければなりません。科学の重要性を説明するには思想が必要。地球観、世界観、自然観を明らかにして、科学のポジションを明らかにする。それが、どんな未来にしたいのか、という意志につながる。(2010年10月7日)

研究評価におけるPDCA

文部科学省では『「研究マネジメントに活かす評価」をテーマとし、研究マネジメント(PDCAサイクル)における評価のありようや、評価を研究マネジメントに活用するにあたって直面している課題等の情報収集と分析を行い、国全体としての評価システム改革の推進に資することを目的として』意見交換会を行うそうです。うちのセンターでも今月中旬に予定されています。PDCA(plan-do-check-act)サイクルはももともと事業活動の管理業務を円滑に進める手法の一つ。ということは、ここで評価される研究とは“研究事業”ということになる。事業でしたら失敗は許されないので、厳密な管理が必要なのは当然。しかし、研究事業は研究者や現場の幸せには結びつかない場合も多い。研究とは何か、という基本的考え方が役人と我々の間で共有されていないことが問題だと感じます。役人が考える研究は、「開発のための研究」ではないか。もし、「知識のための研究」も含まれるとすると、それは地位、名誉を目指す研究で、国としては外交に活かすための研究。利害が一致した研究者は幸せになるだろうが、その他の研究者、特に環境や現場を相手にする研究分野は評価軸からはずれることになる。たまたま農村計画学会誌最新号の座談会の記録を読んでいましたが、現場から評価されたいし、論文も書かなければならないジレンマ、が綴られています。こういう分野では主役は研究者というよりも現場に生きる人々や生態系。問題の解決を共有すると、そのアクションは協働ということになる。協働の中で役割が評価されるのがこの分野における喜び。評価軸は論文だけではなくなる。科学のモードの違いに対する認識を科学行政にも浸透させなければならない。今回の意見交換会には見えられませんが、委員の中に小林信一さんの名前がある。この方は「文明社会の野蛮人」や「モード論」の小林さんではないだろうか。この方がいれば、現場からの要請と実践を旨とする研究活動も評価して頂くことはできるだろうか。(2010年10月6日)

社会の中の科学、社会のための科学

日本水文科学会のシンポジウム「身近な水の硝酸汚染−総合科学としての水文科学の役割−」では、自分の考え方を思いっきり述べさせて頂いた。今回は「硝酸汚染」が課題でしたが、この課題を「問題」として捉えたい、と最初に述べた。問題として捉えるからには、解決を志向するのは当然ですので、「科学」を一セクターとして含む、問題解決を共有する枠組みの中で、硝酸汚染を考えたいと思ったわけです。しかし、その過程で「科学」の役割は相対化する。とはいえ、科学の役割の相対化は研究者にすんなり受け入れられるものではないということもわかる。イノベーションにより問題を解決する、というこの国の政策は科学者にとっても目標であり、チャレンジでもある。何より、学会という場では科学の役割の重要性を疑うことなどありえない。一方で、問題は現にそこにある。解決は志向されなければならない。知識のための科学は科学者の道楽とも言える。道楽の重要性と役割が社会に認められなければ予算は保証されない。解決に向けて迂遠な経路をとるのか、解決に直に立ち向かうのか。私は今ある問題については協働を通じて対応したいと思う。だから、科学はもっと謙虚になって良い。けっして科学の重要性が否定されるのではなく、役割が相対化されるだけなのですから。(2010年10月3日)

デジタル教科書問題

文科省の「学校教育の情報化に関する懇談会」では、この夏以降デジタル教科書導入の話が急速に進展しているそうだ。小中高校で紙媒体の教科書をなくし、情報端末で授業を行うとのこと。時代の流れもありますが、私は大いに不安を感じます。教科書がデジタル化されると、知識が消耗品になってしまう。暗記のために使うのならば効率的かも知れないが、思考力を養わなければならない初等中等教育の段階では何かしらの負の側面があるように感じる。ヴァーチャルな世界を行き来することで(デジタル映像の利点が主張されている)、知識を蓄積し、知識間の関係性を把握する力を醸成し、そして知識を作り出す力を身につけることができるだろうか。また、情報端末はブラックボックスである。壊れたらお手上げ。修理は国が責任を持って行うのだろうか。中身のわからないブラックボックスに依存するのはまさに文明社会の野蛮人。子供たちが情報端末を持って小学校に通う、なんて光景は鉄腕アトム世代の夢ではないか。充分に文明が発展した現在、どうも子供の頃に思い描いた未来とはちょっと違っていることに皆さん気が付いている。文明の進歩は人にゆとりを与えなかった。情報端末の利用はそのシステムが正常に作動している間は良いが、一端壊れると復旧するまで大きなストレスが加わる。紙媒体の教科書。手に取るだけで知識を取り出せるプリミティブな教科書こそ、もっとも堅牢で確実な知識を与えてくれる。どうも、この政策は十分な議論は行われていないようだ。現場を知らない政治家と産業界が経済政策として教育分野を巻き込んでいるような雰囲気がある。現場を身体で感じることが政策提言の第一歩であり、現場を知ったものが提言する政策、これに勝るものがあるはずがない。なにより、経済ではなく教育を先に考えることが大切。最後に、あるMLから尊敬すべき高校教師の言葉を引用しておきたい。

デジタル教科書問題にまつわる議論についての資料を読んでいると、日頃に教室で感じる問題点からはるかに遠いという感じがしてしかたありません。国の教育行政がこんなことに時間と金と、彼らなりの熱意を消費しているかと思うと暗澹なる気分になります。

引用は問題かも知れませんが、まったく私も同感ですので、すべての責任は私にあることを明記しておきます。(2010年9月30日)

研究における実践の評価

中国、河北省に行って来ました。主な目的は白洋淀という湿地帯の調査。最近は閉鎖性水域の水質汚染がテーマの一つとなり、千葉県の印旛沼と白洋淀を対象にいろいろ調べています。普段から衛星データは見ていますが、現場に入ると湿地帯を取り巻く様々な人と自然の関係に関する事情があり、水質を改善しようとする様々な試みも行われていることがわかる。衛星データだけではわからないことがある。そこで現場を体感しに行き、22カ所の河川水、湖沼水、地下水を採水してきました。さてどのようにして論文を纏めようか。ここが難しい。水質の悪化問題を解決しようという目的が共有できたら、もう論文は私的で些細な目標に過ぎなくなる。地域の経験を共有し、小さな試みを積み重ねて行くことによってのみ問題を解決に導ける。もちろん論文は研究者にとっては大事なものなのですが、研究の評価は論文だけだろうか。モード1科学とモード2科学が共存するためには、論文だけでなく、実践という評価軸が必要なのではないだろうか。モード1科学の評価は論文でよい。モード2科学は実践が大切。実践を通じて問題の解決を共有するモード2科学が振興することで世界は良くなる。中国でこんなことを考えました。(2010年9月29日)

科研費監査

科研費の特別監査というものにあたったそうで、担当の方との予算の執行状況についてインタビューがありました。事務手続きは何でも自分でやっているのですが、私に秘書がいないのが意外、といったニュアンスが担当の方との話の中に感じられました。確かに、秘書さんがいれば、多くの雑用を任せることができる。しかし、週数回お願いしたとしても年間数十万円はかかります。校費では賄えません。校費は教育資金として不可欠です。秘書のいる先生方の状況は知りませんが、大きな研究プロジェクトで予算を工面しているのだと思います。私もかつては大きな予算に挑戦したこともありますが、今では大きなプロジェクトはやりたいとは思わなくなっています。大きな予算ではどうしても国の論理に従わなければなりません。すなわち、イノベーションによって問題を解決するという姿勢。しかし、災害や環境は普遍的技術だけで問題が解決できる分野ではなく、経験知の世界で、個々の課題に深く関わると同時に、様々な分野との関連性を探求しなければならない分野。見た目の良い成果はすぐには出ません。地域のための科学をやりたいと考えると、小さな課題をたくさん抱えることになる。秘書さんの予算は出てこない。当然、個人営業になる。それにしても秘書さんがいるということは一種のステータスなのだろうか。そういう感覚があるとすると、大学はちょっと危うい。とはいえ、私自身のひがみも入っていることは確実。二つの立場を俯瞰しながら、社会のための科学をどう実現させるか、考えていきたい。(2010年9月24日)

どっこい生きてた

朝、黒丸と畑の見回りに出たら、一昨日蒔いたばかりのダイコンと赤カブの芽が一列に並んでいるのを発見。小カブも芽が出ている。ダイコンと小カブは昨年の種だったので出芽するか心配だったのですが、生きていたんだなぁと安心。そして、なんとなく感動。猫の足跡が点々とついているのが憎ったらしいのですが、はよ猫に負けないほど成長してほしい。ホウレンソウは出芽が遅いので猫に荒らされないか、心配です。今週、来週と週末は仕事ですので、10月の連休にはまた種まき、作付けをやりたいと思う。明日は休みですが、朝から法事に行かなければならないので畑作業は恐らく無理。やることが山ほどありますからね。休日に仕事はしたくないと思うのですが、世の中の“できる人材”というのは休日なんて関係ない。それは、やるべき時にやる、ということなのか。仕事の段取りが悪いのか。仕事中毒なのか。低成長時代に入り、ここはじっくり考えるべき時代がやってきたのではないかな、と思います。(2010年9月22日)

ストレスの原因

私のストレスの最大の原因は仕事を先延ばしにすること。やりたくない仕事は先延ばしにする癖があり、それが自分を苦しめる。今日も、いよいよせっぱ詰まってあちこちにお詫びのメールを出して、原稿を集める作業を始めました。すぐにやってしまえば良いのに、と自分でも思いますが、やりたくない、という気持ちが強くなってくるとどうも先に進めなくなる。これは、何とかという病気の症状かもしれん。でも、懸案事項が片づいたときは気分がすっきりする。という間もなく次の問題が出てくるのですが。研究・教育、この本来の業務に没頭できたらどんなにか幸せか。(2010年9月21日)

楽農報告

暑さのため、しばらく畑に出ていませんでしたが、秋野菜を始めなければなりません。いろいろやるべき仕事もあり、また弱った身体にはきついのですが、鋤鍬を振り上げ、畑を耕し、種まきを始めました。ダイコン、カブ、ホウレンソウ、ハクサイの種を蒔き、ニンニクを植え付け。土づくりがいい加減なので心配なのですが、とにかくスタートでき安心。蔓延ったカボチャ冬瓜の蔓をだいぶ整理しましたが、その実は充分楽しませてもらいました。次はサツマイモの収穫が楽しみ。残った畑に堆肥を入れて土づくり。エンドウとソラマメに供える。昨日から始め、今日は体中が筋肉痛ですが、作付けた畑を見ていると心が安らぐ。(2010年9月20日)

世界の境界

北海道、厚岸の別寒辺牛湿原で調査を行ってきました。晴天に恵まれ、いろいろなものを見て、様々なことを考えながら、森や湿原をめぐり、水を採ってきました。鹿やキツネをはじめ様々な生き物との出会いがあり、今回はタンチョウの舞いも見ることができました。ヒグマにはお会いできなくてよかった。湿原を流れる河川水を採るとともに、牧草地に近い最上流域でも採水し、これから窒素濃度を測る予定です。研究のストーリーとしてはいくつか考えられますが、フィールドはまず体験し、実践を積み重ねる必要がある。結果から仮説を立てることができたら、また来年再訪しよう。多くの方々にお世話になりながら、話をする中で新しいアイデアも湧いてきます。これもフィールドの効用の一つ。楽しい調査も終わってしまった。今は自宅でくつろいでいますが、今日の昼は標茶の京大研究林にいた。今は1000km離れた千葉。あの森林や湿原が夢だったような気がする。交通機関の発達で人の移動は楽になったが、それによって様々な“世界”が近くなったというよりも、“世界”の境界がはっきり意識されるようになったのではないだろうか。それがどういうことなのか。考えてみる必要があるように思います。(2010年9月17日)

研究に対する情熱と思慮−熟年研究者の主張

研究者の世界では学術誌のインパクト・ファクター(IF:どれだけ影響力があるか)、論文のサイテーション・インデックス(CI:どれだけ引用されたか)が評価のひとつの基準になっています。今日の水文・水資源学会の夕方の「国際誌フォーラム」では、このIF/CIについていろいろ話を伺うことができました。私も歳をとったし、論文も書いていないのでIF/CIなんてものは煙たくなっているのですが、ここでチャーチルの言葉を思い出しました。「20代でリベラルでなければ情熱が足りず、40代で保守でなければ思慮が足りない」(2008年11月21日参照)。研究者の世界では、「若者がIF/CIを気にしなければ、情熱が足りず、熟年がIF/CIを気にするようでは思慮が足りない」、なんて言えるのではないでしょうか。IF/CIはサイエンスの成果の尺度ですが、サイエンスとは何だろうと考えると実は非常に広い意味を持っている。世界の科学者のコンセンサスである「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」(ブダペスト宣言)では4つの科学について記述がある(2010年5月7日参照)。サイエンスを4つの中の一つ「知識のための科学;進歩のための科学」(文科省HPによる訳)と捉えると、科学は普遍性を追求することが任務となり、世界中で同じ目標に向かって競争する中でIF/CIは適当な指標になる。一方、ブダペスト宣言の4番目「社会の中の科学、社会のための科学」を強調すると、IF/CIで計れない科学も確かにある。問題を扱う環境科学や災害科学の分野が該当するだろう。時間軸・空間軸で見なければ理解できない対象を扱う分野、様々な分野の方々と問題の解決を共有する科学の分野。これらの科学はIF/CIでは評価できず、よって評価されず、科学技術政策から取りこぼされる。しかし、問題の解決に最も近い分野であり(メカニズムがわかれば問題が解決するわけではない)、科学の目的である人類の福祉に直接関わる科学の分野である。科学者は熟年になったら俯瞰的な視点から自らの行為を振り返ってみる必要がある。思慮は足りているかどうか。(2010年9月7日)

知識が欲しい

Yahooニュースから。早稲田の学生がカンニングの行為をTwitterに書き込んだという記事を読みました。担当教員が見つけて指摘すると、本人は情報を削除したとのこと。記事に対するコメントは真っ当なものが多く、安心しましたが、こんなのを見つけました。「社会人になったら、切実に知識が欲しいと思うようになった」。「自分に知識が足りないと実感する場面に毎日遭遇する」(reiさん)。お気持ち拝察いたします。社会では自分の考え方を持ち、それに基づき判断していかなければならない。考え方を持つための知識と経験は不可分のもので、知識は経験を補い判断を助ける。知識、経験がなければ、判断は賭となり、未来を描くことが難しくなる。知識と経験で未来を思い描くことができれば、人生は納得できるものになるのではないかな。カンニングなどしないで、自力で知識を身につけることが如何に大切か。大学在学中に気が付いて欲しいと思います。(2010年9月4日)

青空

それにしても暑い。天気が良いので青空がいいですな。エアコンの効いた車の中から眺めているだけですので勝手なものですが、それでもいい。この青空の中で飛び回る元気があればもっと良い。体調も良くないし、老いたなぁと思う。青空もきれいだし、気分もいいのでちょっと遠回りですが新設の穴川交差点と14号をつなぐ新道を走ってみました。あっというまに、14号どころか、そこを超えて幸町に到達してしまいました。確かに便利にはなったけれど、穴川交差点の渋滞をどれだけ緩和できるか、ちょっと疑問。青空といえばエノケン、そして高田渡の「私の青空」が好きですが、ちょっと調べてみました。原曲は英語なんですね。青空とは実は我が家のこと。だから、もとの英語では"Blue Heaven"。この歌詞・曲ができたのは1924年。アメリカでは農作物に余剰が生まれ、経済も好調でこの頃から投機熱も高まっていく。一時の幸せを堪能していた時期。そして、世界大恐慌。幸せの山を越えると、不幸の谷が待っていた。そんな時期の歌なんですね。だから幸せも控えめが良い。普通で平坦なのが最高。草食系おやじと言われそうですが、思慮深いおやじの目指す社会は、未来への選択肢のひとつ、とありたいものだ。

夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
日暮れてたどるは 我が家の細みち
せまいながらも楽しい我が家
愛の日影のさすところ
恋しい家こそ私の青空
(堀内敬三訳詞)

YouTudeで“高田渡_私の青空”を見ましたら、息子の漣さんがスチールギターを弾いていました。渡さんも逝ってしまったなぁ。家族が一緒に過ごせる時間は以外と短い。(2010年9月4日)

「幸せな奴隷」になってはいけない

朝日「オピニオン」欄から。筑波大の津田さんによる主張。英語は格差を生み、差別を生む道具になっていると。私も同感です。確かに英語は国際共通語ですが、それはあくまで道具としての英語。我々日本人、あるいはアジア人には日本およびアジアの思考がある。その思考はローカルな言語によって培われてきたもの。多くの方々は、英語を使うという行為が、時に英語世界の思考の追従になることに気が付いていない(環境研究者の観点からの感じ方です)。普遍性に対する議論には共通の言語が不可欠ですが、普遍的なものを目指す行為のベースにはヨーロッパ思想がある。鈴木秀夫流にいうとヨーロッパの“沙漠の思考”。これが近代文明を育んできたのですが、そろそろ次のフェーズが見えている。それは地域の文化に根ざした安心社会ではないか。そこはローカルな言語の世界。湿潤アジアでは“森の思考”の世界がある。人が依って立つ思考、思想を意識した上で、グローバルに対応するために道具として英語を使うという態度が必要だと思います。研究者の世界では、まず日本語で論文のプライオリティー(先取権)をとる。その後で、英語で主張すれば研究の能率があがる(一部の競争志向の分野を除く)。日本人が日本語駆使して“うまくやる”という態度が日本人には必要だと思います。そうならないのは優秀病患者がいるからで、優秀であることを担保するために英語を使うなんて本末転倒。英語にこだわるほど、研究が矮小化し、人間社会の課題から遠ざかる(真理の探究ほど至高な行為はないという反論が聞こえそうですが、“社会の中の科学、社会のための科学”も研究者に課せられた現実的課題)。もちろん、数学や物理のような普遍性探求型科学は英語で勝負してよい。しかし、環境や災害といった関係性探求型科学では、ローカルな言語を使って地域の個別性の中に深く入り込む態度が必要。俯瞰的に世界を見よう。すると、“Happy Slave”、 支配されている側が支配されていると感じない状態が見えてくる。これからは普遍的なものよりも、地域固有のものが大切にされる時代。英語と地域の言語、どちらも大切にして、“うまくやる”ことがこれからのやり方なのではないかな。(2010年9月3日)

「有限の生態学−共貧・共栄・緊張のシステム」いよいよブレークか

私自身非常に共感し、講義でも使っている表記の3つのシステムは栗原康著の岩波新書「有限の生態学」からの引用です。すでに絶版なのですがアマゾンで1円+送料340円で買ったものです。息子が海洋生物をやっているので貸したところ、なくしてしまって、困っていました。まあ、安いのでまた買おうと思ってアマゾンのサイトを見たら、なんと最安値が\2,845-、最高値が\3,499-となっているではないか。栗原氏の思想が世に浸透してきたということだろうか。石油に依存する共栄のシステムは終焉を迎えつつある。石油に変わるエネルギーは今のところない。となると、地球社会は共貧のシステムか緊張のシステムを選択しなければならない。恐らく社会の進化という観点からは最先端を行く日本の政策が揺れ動いているのは、この考え方がないから。一番にならなくても、分相応の幸せが得られる社会を目指すのか(共貧のシステム)、一番を目指して競争を続けるのか(緊張のシステム)、ここの判断が政策を決める。とはいえ、緊張のシステムを目指しながら、それに気が付いていないというのが現状だと思う。私は共貧と緊張のシステムを農村と都市に置き換えて、両者が関係性を持って共存できるシステムを考えています。これしかない、と思うのですが、そのうち世の中で同じ考え方がどんどん出てくるのではないだろうか。そんな予感がします。ただし、社会が知的な成熟社会になることが前提で、昨日の書き込みにある「文明人」に日本人がなることが前提になります。となると、教育がますます重要になってくる。(2010年9月1日)

「文明社会の野蛮人」仮説の検討

私は講義で「文明社会の野蛮人」に言及することが多いのですが、小林信一さんの表記の論文を偶然見つけました。副題は「科学技術と文化・社会の相関をめぐって」、出典は研究・技術計画学会の第6巻、4号、1991年の論文です。備忘録としてオルテガの仮説を再掲すると、「科学技術文明が高度に発達すると、かえって科学技術を志向する若者が減る事態が発生する」。この仮説を検証したのですが、結論は、オルテガの指摘した逆説的事態は必然的に発生する。となると、近代文明は衰退に向かっているということになる。オルテガからすでに80年、この論文からもほぼ20年が経った現在、この傾向はますます顕著になっているのかも知れない。ちょっと古いですが、2008年2月3日には内閣府の調査で問題解決を科学技術に期待する人が急増という記事から「文明社会の野蛮人」の増加に対する懸念を書いていました。最近気になることは、コンピューターを使いこなせる学生が意外と少ないこと。コンピューターは創造のための道具であり、固定された使い方はない。一方、若者は携帯のような民生用の機器は実にうまく使いこなす。機能が決まっていて完成されたものに対する受容性は高いということ。これは、この論文によると、“科学技術の成果に対する受容性”は高いが、“科学技術のプロセスに対する関心”が低いということになり、“科学技術に対する態度の4類型”の中の“文明社会の野蛮人タイプ”に属することになる。一方、“文明人タイプ”は両者が高いタイプ。スターウォーズでは、登場(宇宙)人物たちが自ら宇宙船を整備し、街にはジャンク屋があふれている。こんなのが実は文明のあるべき姿だったりして。若者批判になっちゃいましたが、ここを乗り越えた若者もたくさんいる。こういう若者はすぐわかる。これぞ、企業がほしい人材ですぞ。なお、“科学技術の成果に対する受容性”も、“科学技術のプロセスに対する関心”も低いタイプは“高貴なる野蛮人タイプ”。これはこれですごい。(2010年8月31日)

環境学分野の展望

日本学術会議の日本の展望2010から、環境学分野の展望を読んでみました。まず環境学の定義がないのがちょっと気になりました。環境はマジックワードで統一された定義がない、というか重点分野として予算化されるようになってから誤用が増えている用語ですので、きちんと考え方を示した方がよい。私は環境学を人間と自然の関係の観点から捉えたい。さて、内容は産みの苦しみを感じます。基本的考え方は「環境の持続性」、「社会の持続性」、「文化の持続性」を軸に、「自然共生流域圏」で包括するという考え方ですが、分野ごとにうまく棲み分けてしまった印象を受けました。環境学は学ですので、ディシプリンなのですが、物理学や数学の学と異なり、体系化は難しい。環境学は考え方の枠組みと考えた方が良く、問題ごとにたくさんの枠組みがあると考えた方が良い。例えば、水俣病問題を例にとると(8月5日参照)、様々な分野の協働によってのみ、問題の解決に向けた、問題の理解が達成できる。その枠組みは流域の範囲をはるかに超える。問題の枠組みの中で各分野が協働して問題の解決を共有する、これが環境学のあり方ではないか。解くべき問題、すなわち枠組みも多数なのですが、問題の解決(理解)を蓄積していくと、新しい世界観が見えてくる。そんな学問分野だと思う。(2010年8月29日)

楽農報告

暑いのですが、収穫はやっておかねばなりません。ナス、オクラ、シシトウとゴーヤを袋いっぱい収穫。人参はどうも大きくなりません。葉っぱの影から巨大化したカボチャ冬瓜を発見。直径は約30cm、高さ約20cmでした。そろそろダイコンの種まきの時期ですが、こう暑いとなかなか蒔けません。といって先延ばしにしているのですが、ほったらかしでもまあまあの収穫はある。そろそろ玄米先生に宅地開発には家庭菜園を義務化する法案を提出して頂く準備は揃ったかな((C)玄米先生の弁当箱)。(2010年8月29日)

パンダに日本名はいらない、か

朝日土曜の莫邦富さんのコラムはいつも楽しみしています。来春、上野動物園に中国からパンダが来ますが、「都が日本での名前を公募する予定」ということに対する批判。8月6日の声欄からということで、私も覚えています。私もわざわざ日本名を付けなくても良いかなという気もします。日本はかつて創氏改名なんてこともやっていますので。でも、付けても悪くはないとも思います。都が日本名を付ける理由をきちんと説明できれば良い。それよりも、この企画の決定プロセスが気になります。上司の思いつきで発案され、部下が一生懸命企画化する。ただ、それだけ。日本の社会の意志決定プロセスにはこのパターンが多いのではないだろうか。オバマ大統領に思いつきはあるのだろうか。しっかりとしたブレーンのチェック体制があり、重要な政策にはシンクタンクがきちっと機能しているのではないか。だから、ぶれない。ここが気になる。(2010年8月28日)

人生は勝ち負けなのか

朝日土曜の“be on Saturday”にアンケート「競争は好きですか?」の結果が載っています。“はい”と答えた方は43%、“いいえ”の回答は57%で、“いいえ”は女性に限ると7割近くに迫ったとのこと。それぞれの理由のトップ3について見てみます。“はい”の理由のトップは「努力が報われる」。なるほど、うまくいけばね。この理由の主語は“私”ですが、(敗者かも知れない)“あなた”をどう考えるのか。ここの議論も必要だと思う。そんな議論から出てきたのが公益資本主義(1月5日参照)なのかもしれない。また、どう報われるのかも大切。競争で得られるのは名誉、お金?次が、「自分の実力を知りたい」。これは危ない。自分の実力がその分野の中で位置づけられていなければ、競争参加は単なる無謀な賭け。研究者だったら知識、経験を基に仮説を持つ、企業家だったら資金と信用を基に見通しを持った上で競争に参加すべし。三番目は「全体の向上が期待できる」。昨今の世界における建前と現状の乖離を認識していない。格差社会でも平均値が上がれば良いのだろうか。一方、“いいえ”派のトップは「心おだやかに生きたい」。これは誰も否定できない。万人の権利だと思う。二番は「人と比べることは意味はない」。というよりも、尺度は多様である。三番目は「公平な競争などあり得ない」。尺度がなければこれも現実。さて、私は“競争は嫌い”派。とはいえ、現実には競争はさけられない。大切なことは実のない競争をさけること。どうも世間では時代の精神や言説に流されて実のない競争に突入していく人が多いようにも思う。俯瞰的な視点を持つこと。そうすると実のない競争、実のある競争が識別できる。あるいは、まだ注目されていない重要な部分が見えてくる。そこに、全力を投入すればよい。あとは、ストレス社会を受け入れて、うまく折り合いを付けて生きていければ良い。(2010年8月28日)

心にスイッチを−共同体の再生

今日の朝日の社説のひとつは、「変われ 高校生−心のスイッチ入れる方法」。日本の370万人の高校生のうち、3人に2人が「自分はダメな人間だ」と感じ、10人中7人は「あこがれている人がいない」と答え、毎年7万人が中退するという。大人になる手前で縮こまっている若者たちに、心のスイッチを押せるのは誰だろう、という問いかけです。確かにこれは由々しき問題だと思います。社説の中では、「カタリバ」、「わかもの科プロジェクト」、「ブラストビート」といった若者による活動が紹介され、最後は、「教育という分野で「新しい公共」を担い始めた新世代。彼らが活動しやすい社会づくりを、そのまた少し先輩の大人として、考えていきたい」、と格好良く締めくくられます。若者に対する応援なのですが、若者にがんばれや、といっているだけでは何となく物足りない。社説の中で取り上げられている活動は、一言でいうと、触れ合いとか関係性の認識といった行為ではないか。今の時代の最大の問題点は競争社会の中で個人が孤立していること。人が機械になり、部品になっていくことが、未来を描きにくくしている。それが高校生や若者の希望を失わせている。こうなったのは共同体を壊し、関係性を断ち切ることによって推進してきた近代化の帰結なのではないだろうか。それに対する反駁が始まっているとすると、それは共同体の再構築に対する主張になるのではないか。大塚の共同体理論(岩波現代文庫)から内山の共同体理論(農文協)への転換なんて言えるかも知れない。「新たな公」とか、「新しい公共」という用語が一人歩きを始めているが、その中身を吟味して、応援すべきはしなければならない。勉強せねば。社説の著者は気づいているかどうかはわからないが、“もう一つの社会”(8月9日を参照のこと)への転換が意識の中で始まっているのかも知れない。(2010年8月27日)

社会のための科学の実現と科学哲学

もうひとつちょっと気になるやりとりを思い出しました。世界の食糧生産量予測をモデルで行う際に、どこにどんな作物が栽培されているのかがわからないという。地理学では作物の分布はだいたい把握していると私。でもデジタル化されていないではないか、それではモデルで使えないと。では、誰がデジタル作付けマップを作るのか。地理分野でも取り組みはある。ただし、複雑なものを複雑なものとして捉える地理学的な世界観のため、経験的知識は蓄積されているが、一枚の主題図としては纏めにくい。特に、アジアの土地利用は複雑であるし、年ごとに作付けの変化もある。市場の影響も受けて、どんどん変わっている。現場の経験が普遍的な主題図を作ることをためらわせる。しかし、グローバルな視点からスタティックな世界として土地利用を扱っている研究者にはそれが物足りない。両者の間には深い溝がある。モード2の枠組みの中に皆さんが入っていれば協働ができるのだが、モード1の中で立場を主張されても、その科学の守備範囲の外を見ているものにとっては不可解なだけ。こういう状況は打破していくことこそ、環境科学の本筋なのですが、研究領域が確立していると、そこから出ることに皆さん躊躇する。サンデルさんの政治哲学がはやっていますが、科学哲学ももっと振興させないとあかんのではないかと思っています。それが社会の中の科学、社会のための科学の実現につながる。哲学とはいっても、自然観、地球観、社会観に対する議論に基づき、目標が共有できて、折り合いの探索ができればよい。(2010年8月26日)

食糧安全保障とリモートセンシング

 「食糧安全保障分野の地球観測衛星利用研究会」というJAXAの会合に出てきました。どうも議論がしっくりこないので、思うところを書き留めておこうと思います。食糧安全保障分野に衛星画像の利用を組み込むには、まず食糧市場、穀物市場の構造を明らかにする必要がある。衛星計測から出てくる作付け面積や収量といった情報がどんな状況と関係しているのか分析しなければならない。穀物等のグローバル市場におけるフローを知っておけば、影響範囲がわかる。なんて思ったのですが、市場の分析は結構難しいらしい。次に、予測は水資源、エネルギー、政策、農業資材、といった項目との関係性を把握しないとできない。地域性に支配される営みですので、地域ごとに解析を進める必要がある。しかし、グローバルがわからないと地域もわからない、といった意見も出る。もちろん、スケールアップ、スケールダウン両方のアプローチが必要なのだが、背景に異なる自然観、地球観も伺える。根本部分の合意があるかどうかが不明なのは、食糧安全保障は食糧の絶対量の不足に対する懸念なのか、生活の質に関わる問題なのか、ということ。私は現時点では後者だと思う。日本で想定できる食糧不足問題は、金融恐慌のようなあるきっかけでグローバル市場におけるルールが反故にされて、食糧が高騰すること。二年前の食糧危機を見ればわかる。国内における食糧のフロー、特に地域ごとのフローを頑健なものにしておけばこういう事態は防げる。となると、重要なのは政策であり、外交。その時々の穀物の生産の状況は衛星から概略わかる。それを背景に政治家や役人が外国と交渉するというのがもっとも現実的な衛星データ利用ではないだろうか。いろいろ勉強もしました。世界の米市場における主流は長粒米。日本の短粒米は特殊な存在なのですが、美味しいので、ビジネスに繋げることができる。かつて米の種の国外持ち出しはいい加減だったそうな。日本の米もずいぶん海外に持ち出されて栽培されているとのこと。これこそ生物多様性条約COP10における重要な議題の一つではないか。遺伝子資源の権利をどう守るか。ちょっとえげつないですが、大国の中でうまくやって行くには主張も必要。こんなことを考えておりましたが、帰りには東京駅中の全国の酒を取りそろえている酒屋でめずらしい酒を買って帰りました。(2010年8月26日)

パキスタンの水害を考える

最近は災害に関するちょっとした仕事が増えてきました。今日は季刊誌SORAの減災診断という記事の校正。今回は沖積低地をわかりやすく説明したいのですが、同じ意味の用語が何通りかある。ここの整理が必要だなと感じる。こんなことをやっていたら、テレビ朝日と称する方から電話がありました。パキスタンの水害について話を聞きたいと。特に調べているわけではないのですが、JAXAの画像を見た印象を気分でお話ししました。氾濫域はインダス川の氾濫原であり、いわば洪水によって形成された地形の部分が湛水しているということ。雨期と乾期があるので、雨期の洪水は時々水害になるのは宿命。こんな話をしたのですが、多くの方が被災しているので冷たいやつだと思われるかも知れません。では、そうすれば良いか。上流が変動帯のヒマラヤですので、堤防を作っても河床上昇で治水安全度は長くは保てないだろう。一方、洪水氾濫の次の年は豊作になる可能性が高い。村ごとに輪中堤のような施設で洪水に対処する、あるいは水塚や水家のような避難所を配置する、そして、ある程度の湛水は許容する、なんてことが考えられます。その上で国際社会はサンダーバード(国際救助隊)を実現させる。実際、自衛隊は行っていますが、日本は兵器ではなく災害救助に特化した設備を持てないだろうか。多くの方々が亡くなっていますが、この地域における問題(かどうかも悩ましいのですが)はイスラム教の考え方ではないだろうか。すべては神の思し召しである。これが具体的な被災行動を遅らせる要因になっているとの報告を読んだことがある。地域には地域に適した暮らしがある。それが、先進国の基準にあわないので貧困、脆弱と考える。ここの認識を深めなければならないと思っています。ここで書いたことは私の気分であり、正しいとは限らない。災害や環境に関わる問題は現場ベースの協働を旨としなければならない。(2010年8月25日)

谷田・武西・戸神の谷津報告

千葉ニュータウンに隣接する谷田・武西・戸神の谷津で湧水と水流の流量を測ってきました。車の気温計は結構正確だと思いますが、昼過ぎの外気温は最大で38°に達していました。しかし、里山の中は30°前後。何とか、この冷気を使うことはできないだろうか。おそらく、樹冠の正味放射(吸収する正味の太陽エネルギー)は大きく、顕熱(空気を暖める熱)も大きいに違いない。冷気は樹冠の下にある。人がそこに行くしかないだろうか。まずは谷津は谷津として残すことが大事。雑排水は流さない。保全された、あるいは再生された谷津をうまく都市の中に配置できれば、少しは快適な温度環境を作ることができないだろうか。それにしても、花や虫、動物がたくさんおった。オニヤンマの大きいこと。メダカの群れも久しぶりに見た。日本アカガエルは今春はずいぶん孵ったそうな。アメリカザリガニは外来種である点が悩ましいのですが、日本の風景になじんでしまっている。ヤゴや沢蟹もたくさんおった。途中、膝の上をチクンとやられましたが、ズボンにバラの花が咲いているのを後ほど発見。帰宅してから見たら内出血で青あざのようになっていました。ヘビを疑い調べましたが、牙のようではなかったので、おそらく野バラのトゲが深く刺さったのでしょう。それにしても、体力の低下を実感。何とかせねばとは思いますが、エアコンの冷気にまったり浸かっていますと、またやる気がなくなりますな。こんなことで良いのかと思いながら。(2010年8月23日)

楽農報告

暑くて外に出る気分にならない。終日、家の中で過ごす。今日は黒丸(情けない黒柴)の八回目の誕生日。誕生日プレゼントはすでに夏布団を贈ってあるので今回はなし。ただし、ごはんにおかずを付けることにする。夜は玄関犬なのですが、最近は内犬になりたいようで、抗議の声を挙げています。いや、先日、廊下にマーキングしたので、そこまでは自分の領地であると主張しているのかもしれん。しかし、かみさんから家内永久追放の刑を受けてしまいましたので、家の中にはあがれないことになってしまいました。何とか手柄を立てて恩赦を狙ってほしいと思います。(2010年8月22日)

徴農制ナイスです

はたちを超えた男女は一年間全国の農村へ配属され、現地の人たちと触れ合いながら農作業に従事するという農水大臣の政策。その結果、農業の担い手不足の問題も、食糧自給率の低下も一気に解決。この成功に目を付けた総理は農地を国有化、オール機械化推進を決定。世界一の農業大国を目指す。それに対して玄米先生は...。ビックコミックオリジナルの玄米先生の見た夢でした。いろいろ勉強になります。農作物は“のうさくもつ”と読むと自然とともにあるもの、つくるもの。“のうさくぶつ”になると人工的な工業製品と同じ。農のつくるものは“もつ”であれば人の心を豊かにできる。玄米先生曰く、これからは“成長”ではなく、“持続”させることが大切。やはり、二つの世界がだんだん顕わになってきている。日本はどんな道を選ぶか。(2010年8月20日)

エアコンと生存

昨今のニュースで看過できないことはエアコンも扇風機もない部屋での孤独な死が報じられていること。熱中症による死者はすでに100人を超えている。エアコンは我々に快適をもたらす文明の利器であるが、いまや生存のための機器になってしまったのだろうか。エアコンを購入、維持できない世帯は世の中に確実に存在し、それは命の危機に脅かされているということ。これを地球温暖化に関連させても、苦しんでいる方々には何の足しにもならない。まずは、可能な限りの熱中症対策を行政が進めると同時に、長期的な視点で対策を考えなければならない。根本には市場経済があり、日本の経済成長モデルがあり、そのために都市を形成して住まなければならない事情がある。都市域はこれまで自然の機能をあまり考慮せずに拡大してきたことが、高温化をもたらした原因のひとつである。人口減少時代に入った今、自然の機能を活かす都市の形成を目指す必要がある。居住地に十分な空間をとり、風が抜ける構造、郊外では都市を撤退させ、農村、里山との適切な配置を考える、なにより、窓を開けて寝ても安心な社会の構築、など。いろいろ考えはするのだが、どのようにして達成するか、道筋がよくわからない。研究成果を積み重ねて、それをベースに広く発信する努力をするということが研究者にできること。(2010年8月20日)

百日紅の花

この季節は百日紅(サルスベリ)の花がとてもきれいです。赤、ピンク、白、いろいろな色がある。家の庭にもあるし、うらのマラソン道路沿い(習志野市)の街路樹としても植裁されている。街のあちこちで見かける。毎年見ているはずなのに、なぜ多様な色に気がつかなかったのだろう。不思議でならない。今までは気にしていなかったということですが、今年は心のあり方が変わったのだろうか。(2010年8月19日) 

本質を見抜く力

これは養老孟司の対談集(PHP新書)のタイトルですが、副題に−環境・食糧・エネルギー−とあるので見過ごせなかったこと、目次で「地理学が不当に貶められている」なんて節があることを発見してしまったものですから、即購入しました。氷見山先生(北海道教育大学)の日本列島土地利用図も採録されており、感心するとともに、いろいろ勉強させて頂きました。しかし、私が把握している分野では、まだ実態認識が深められていないな、気分で述べているな、と思われる部分も散見されます。“気づき”が本質的かどうかは直ちにはわからない。“気づき”は“検証”を経て、“仮説”となるのが科学の方法なのですが、もちろん、“気づき”の中に本質がある場合もある。まあ、こんなこといってもしょうがない。個人の守備範囲は狭いことを認めることが大事。環境に関わる分野では多くの異なる分野の方々との議論と現場体験を通じて“本質”がようやく見えてくるのが常。自分の守備範囲は常に確認しておく必要があります。この本から学んだことも多いのですが、農業に関する部分はちょっと狭量だなと思います。対談者の方は元農水省の役人ですが、兼業農家が嫌いなようです。主張は論理的かも知れませんが、机上の論理であり、あまりに現場の経験と個別性に対する配慮がなさ過ぎるように思う。なぜ、農家が耕作放棄するか、なぜ土地を手放すか、様々な背景から理由を探索しないと“本質”はわかりません。そもそも大規模農業経営は日本の土地条件にはあうとは限らない。農水省だって、大規模経営が効率的とは限らないことは認めているではないか(稲作では3haあたりが家族経営の限界で、大型農機の導入と雇用が発生すると効率は下がるという)。広大な半乾燥地域における欧米の機械化農業に日本が太刀打ちできるわけがない。例えば、新潟平野を少数の大企業で営農するとしたら、離農した方々の雇用はどうするのか。中山間地はどうなるのか。“本質”とはこういう議論を通じて見えてくるもの。でも、私の見方にも一方的な側面はあるはず。“本質”という言葉は慎重に使わなければあかんなと思う。(2010年8月18日)

水問題と食糧問題の背景

朝日に「中国成長-水問題に直面」という記事がありました。その中で「仮想水」が大きなコラムで紹介されています。水問題の専門家の吉村さんはこういう。「将来的に『仮想水』の算出方法が整備されれば、『温室効果ガス』で日本が他国から排出枠を買うのと同じように、仮想水資金に多額の資金を支払う事態もあり得る」。これは熟慮した方がよいと思う。紙面では地域間の主な「仮想水」貿易と題するダイアグラムが紹介されています。日本は東・東南アジアに一括されているようであるが、ここに北米およびオセアニアから大きな仮想水流入がある。これは飼料用も含む穀物と肉類が大部分だと思います。その大産地はアメリカとオーストラリア。私の講義でも触れていますが、これらの国は市場主義経済の国。利益が生まれるから輸出している。利益が出なくなれば、あるいは安全保障上のメリットがなくなれば(アメリカの農業は補助金によって成り立っているといってもよい)輸出しなくなり、困るのは日本。バイオエタノール用の穀物生産に一気に切り替わる可能性もあります。ここで「仮想水」を論拠にして値上げのインセンティブが高まれば、米豪両国にとっては非常に好ましい事態です。ここで、日本が国内の畜産や穀物・豆類生産を奨励すれば、WTO体制を背後にさらなる関税圧力が日本に加わると思われます。そうなると日本は将来にわたって、食糧の輸入を続けなければなりません。アメリカ、オーストラリアからの食糧輸入の未来持続性が担保されればよいとの考え方もあり得ますが、そのような外交努力は為されているだろうか。先の食糧危機の時に各国がどのような対応をとったか。ここを肝に据えなければなりません。アメリカとオーストラリアの農地は半乾燥地域にあります。食糧生産の持続性は不確か。仮想水によるコスト上乗せの機会は両国にとって天の恵みであろう。日本はどうすればよいのか。ここで注意しなければならないのは、日本にとってこの食糧問題は食糧不足問題というより生活の質に関わる問題であり、生存の問題ではないということ。日本は食糧の絶対量は確保できる。米と野菜は自給できるということ。ただし、肉類やパン、麺の供給にしばらく支障が出るかも知れません。ビーフステーキが高くなることは生存の問題ではありません。畜産や穀物は国内産業を育成しておく必要がある。西南日本では冬小麦をメインの穀物にしている農家もあります。コストでは大規模経営が可能なアメリカ、オーストラリアに日本はかなうわけがない。しかし、日本で生産すれば安定供給が可能であり、雇用の問題にも貢献できる。さてさて、日本はどうすればよいか。今、日本が必要なのは確固たる日本の考え方に基づく政策と外交。欧米思考と対峙できるアジア的思考による政治・外交だと思います。なお、記事の主題は中国の水問題でした。中国が直面しているのは水不足による生存の危機ではなく、生活の質の問題。シャワーや水洗トイレが使えなくなると困るということ。この点に注意してください。資源は地球上で偏在している。この“非公平”をどう乗り越えるか。前世紀まではパワーでした。そろそろ、人間の叡智が登場しても良いのではないだろうか。(2010年8月17日)

戦争から何を学ぶか

池上彰の戦争を考えるSPを見ました。貴重な映像をたくさん見ることができましたが、番組の作りとしては可もなく不可もなくといったところでしょうか。サラエボの現状は非常に勉強になった。しかし、その後、湾岸戦争やイラク、アフガンを我々は経験している。中東における問題は単純なストーリー性のある番組には不向きなのだろうか(単に取材が困難ということかも)。それならば、アジア・太平洋戦争も同じこと。当時の世界の資源、エネルギーを取り巻く状況、植民地と市場経済、人の考え方、特にヨーロッパ史観と人の行動の関係、などなど、様々な複雑な背景があるように思う。複雑なものは複雑なものとして受け止めないと理解はできない。一つ確実に言えることは人は人を殺してはいけない。これは私の信念であるが、世の真理にはまだなっていないようだ。(2010年8月15日)

楽農報告

あいかわらず暑いので畑は代わり映えしない。完熟したゴーヤを葉っぱのカーテンの後ろから多数発見。実は結構甘い。二個目のカボチャ冬瓜を収穫。最初の実よりも大きい。重くて片手で持つときつい。夕食に最初にとった実を頂いたが、中身は冬瓜でした。冬瓜のスープは美味しい。今朝、テレビで満願寺トウガラシの番組があった。大きさは20cmくらいになり、甘いとのこと。ストレスがかかると辛くなるというが、うちのももう少し時間をかけて大きくしてみようと思う。ちょっと目を離している隙に、オクラが大きくなりすぎ。シシトウは順調。ナスは日焼けして小さい。トマトも弱ってきた。収穫は息抜きで、うちに持ち帰った仕事に戻る。大学教員の仕事は独立した仕事がたくさんあって、労務管理とは無縁。あちらをたてればこちらがたたず。胃が痛い。(2010年8月15日)

猛暑・水害「温暖化で増えるかも」専門家

小沢環境相は国内外の異常気象と地球温暖化の関連について専門家4人を集めて見解を聞いたそうだ。朝日の記事の見出しは猛暑と水害が併記されているが、猛暑はハザード、水害はディザスターである。ハザードはディサスターの誘因になる。一方、ディザスターを引き起こした原因(素因、誘因を含む)はそのハザードだけでなく様々である。地球温暖化問題を考える際に、もっとも重要であるが気づかれていない(あるいは主張が避けられている)観点である。専門家は「温暖化のみでは説明できないが、今年のような猛暑や洪水(洪水はハザードであり、ここは水害を使っていませんが、水害は記者が使ったのだろうか)が、温暖化で今後増える可能性がある」と指摘したとのこと。これは正しい。しかし、ハザードをディザスターにしない智慧がこういう議論の中で埋もれてしまう。人口は減少局面に入り、成熟社会を目指さなければならない日本が先例を示すことができる政策がここにあるはず。自然を知り、自然を意識し、自然と共生(ともいき)できる社会、それをよしとする意識の醸成、かつ得られるものと失うものの価値をきちんと評価できるリテラシー(強者のいる国際社会の中における日本のあり方に関する確固たる考え方)、まだまだ議論が足りないと思う。今後も同様の会議を定期的に開いて温暖化が健康や農業、生物多様性に与える影響などを聞くという。これは地球温暖化の“問題”の側面も含むということ。小沢さんは地球温暖化問題については社会学や、哲学、地域研究、等々、こんな分野の見解も聞いてほしい。表にあって見えている分野だけでなく、隠れている分野も俯瞰する姿勢を備えてほしい。すなわち、温暖化との関連性を包括的に捉えること。もともと環境学はそういう分野。それがわかってこそ、環境相。(2010年8月12日)

豊かさと安全

中国甘粛省甘南チベット族自治州舟曲県で大規模な土石流が発生し、甚大な被害が報道されています。Google Earthで現場を見ると、舟曲の町の背後に断層地形か組織地形、あるいは地すべり地形ともとれる変な凹型の地形が見えます。 舟曲の町はこの谷と、北から入る谷の二つが形成した土石流扇状地の上に立地していると思われます(訂正:この部分の下流側が被災地でした。被災地では土石流扇状地はあまり発達しているようには見えないが、上流域に地すべり地形が認められる)。だから、土石流はけっして想定外の災害ではなかった(もちろん、後から言えること)。この地は山地における貴重な緩傾斜地だったのだと思います。だから、ここに都市を造った。では、なぜ都市を造らなければならなかったのか。北京政府の政策は別として、貨幣経済、市場経済を機能させるために都市が建設されたと考えられないか。それは“豊かさ”を求めるための必然なのだろうか。地域に分散して暮らしていれば、土砂災害の危険も分散される。しかし、物質的な豊かさでは都市にはかなわない。土地の条件は世界の中で公平には分布していない。さて、どうすればよいのか。(2010年8月10日)

ダブルスタンダード社会

「共同体の基礎理論」(内山節著、農文協)の対談の部分にある、“ダブルスタンダードをもって暮らす”という表現が気になります。「いまの大きな社会システムが現に存在することは所与として、それと折り合いをつけながら、一方でまた別な手段を探る」。財務省の中井さんの発言で、そのためのお金のあり方について思考しています。私も都市的社会と農村的社会の二つの社会が共存し、相互に交通できる社会が望ましいと考えています。都市生活者はグローバルの視点で活動すると同時に、時にはローカルな生活で心を癒す。グローバルは競争社会ですから、競争で負けた人はローカルな生活に戻るもよし、リハビリして競争社会に復帰するもよし。ローカルでは低コストで暮らせる安心社会を実現。衣食住があればお金はなくともなんとかやっていける。今や経験を代替えする知識は巷にあふれている時代ですので、ローカルに身を置いてもグローバルの動きを知ることができる。日本人が二つの社会を行き来する精神的習慣を身につければ、可能な未来として想定できるのではないだろうか。こういう考え方は草の根で少しずつ力を増しているような気もする。高齢化、人口減少、成熟社会における未来方向性はこれしかないように思うが、こういう精神的習慣を醸成することが最も困難な課題だと思う。“成長”を主軸に解決を図ろうとする方々は都市的社会しか見えていない。自分の見える範囲が“世界”なので、グローバルを唱えていようとも、それはローカルな発想に過ぎない。様々な世界を俯瞰的に見ることができるということこそ、グローバルな視点なので、二つの社会を行き来できるということこそ、グローバルということになる。(2010年8月9日)

楽農報告

最近は暑すぎて畑に出る気がしないのですが、収穫だけはしなければなりません。諦めているキュウリですが一本収穫。ナスは相変わらず小さい。水やりが足りないだろうか。ピーマンも小さいので収穫は先延ばし。トマトも元気がない。シシトウは順調。ゴーヤのカーテンをそっとめくると結構なっている。ゴーヤの食べ方を工夫しなければ。カボチャと冬瓜を並べて植えてあるのですが、形はカボチャ、色は冬瓜、人の頭ほどもある不思議な実を収穫。仏壇に供える。今日は祖母の命日。最後のほうれん草を収穫。三十日ダイコンも小さいがすべて収穫。人参の収穫はそろそろですが、畑も寂しくなってきました。(2010年8月8日)

オープンキャンパス

今日は地球科学科のオープンキャンパスで環境リモートセンシング領域のポスターの説明役を務めましたが、ポンとポスターがあり、高校生がやって来たら説明する。どうも間を保ちにくい。もっと準備すべき情報があった。高校生には研究の話をするよりも、何を学ぶことができて、何の役に立つか、ということをきちんと示せれば良かった。とはいえ、自分の分野だけだったら面白おかしく大切なことを伝えられるかも知れない。しかし、組織となると、それが難しい。個人の研究者の集団の悲しいところです。私立大学だったら、一つの理念のもとに教員が協力し、かつ、これから受験する高校生の側に立って、行動できるかも知れない。“個の集団”の良さもあるのですが、未来のことを考えるとこれで良いのかという気もする。ただし、一丸となれる組織は“強い”部分に集約されてできあがるもの。弱い部分はどうなるのか。一番足りないのは教育・研究の理念に関する議論。これができれば組織は変われるか。いやいや難しい。異なる考え方との折り合いの付け方に、研究者は慣れていない。(2010年8月7日)

環境研究と環境問題

今日は前期最後の講義でしたが、(狭義の)環境を対象として研究することと、環境問題に対峙すること、の違いを水俣病を例に説明しました。水俣病のメカニズムは科学が解明した。しかし、問題としての水俣病は、病気による身体的、精神的苦しみ、支える家族の苦しみ、加害企業であるチッソから給料をもらっているジレンマ、地域共同体のあり方と差別の問題、日本の高度経済成長、等、様々な要因の重なりあったものとして出現している。問題を理解するには包括的な視野が必要だという話だったのですが、チッソが日本の高度経済成長に一定レベルの貢献があったことは事実であろう。現在、我々が享受している(物質的には)豊かな生活も高度経済成長の恩恵である。我々は日本という社会の中で関係性を持って暮らしている。社会の成員として我々も水俣病に対する責任はあるということになる。これはサンデルさんの戦争責任に対する考え方と通じるように思う。だから、我々は水俣病を“我がこと化”して考えなければならない。自分とは関係ないこと、ではないのである。社会と個人のデカップリングをどう修復するか。これが次の社会へ移行するための最初のステップではなかろうか。(2010年8月5日)

楽農報告

ここのところ暑くて新しいことは始めていないのですが、収穫はぼちぼち。ただ、蔓キュウリは終わり。昨年は収穫期はもう少し長かったのですが、やはり連作障害かも知れません。シシトウ、ピーマン、ナスもぼちぼち。ピーマン、ナスは実が小さいのは土のせいだろうか。今日はゴーヤの初収穫がありました。二株しかないのですが、壁のように茂っている中をのぞいたら実がたくさんついていました。人参ももうすぐ採れそうです。晩のおかずはゴーヤ・チャンプルー。(2010年8月1日)

成長に対する疑問

昨今の世の中の論調は“成長なくして幸せなし”、に席巻されているような雰囲気ですが、ほとんどの場合、これは社会心理学で説明でき、無難を指向する人の性癖ではないかと思っています。叩かれないように無難なことを言っておこうということ。“成長”に対する疑問は時折耳にしますが、今日の朝日、天声人語にもありました。開発や発展を問い続けるフランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュさん(70)の言を再掲すると、「私が成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている」。つましくも幸福な社会を目指すべきだ、という主張です。こういう主張を確固たるものにしていくためには、まず衆目の元で主張して議論しないといかんのだろうなとは思う。勇気も必要だし、幸せまでの明確な道筋を示すことも必要でしょう。“強い相手”がいる以上、理想と現実の間の折り合いも必要になる。さて、どうするか。ところで、〜のための〜が目的化される、ということが不幸増殖装置の機能の一部なのだなと思う。二つの〜には同じ言葉が入ります。(2010年7月31日)

生存と暮らし

今日の学部2年生向けの講義では、まず“環境科学”の定義から入りました。環境科学という言葉は1960年代の公害を背景として生まれ、最初の定義は恐らく茅レポート(1973)。「環境科学は人間を取り巻く環境と人間の生存との関係を研究すること」として登場しています。しかし、生存という言葉に関しては、1987年、ブラジルで開催された国連のワークショップにおける有名な逸話があり、あまり好きではなかった。「あなた方は生活(life)についてほとんど議論をしないで、生存(survival)について多くを語りすぎています。生活の可能性がなくなったときに、生存の可能性が始まるのです」。会議を傍聴していた地元の方のコメントとのことです。というわけで、私は“生存”より“暮らし”や“生活”の方が好きなのですが、日本の1960年代は確かに生存が脅かされている人々がいた。水俣病をはじめとする公害の被害者たち。では、現在は生活や暮らしが語れる時代となったのだろうか。公害が命を脅かす危険性は確かに小さくなった。しかし、社会の仕組みが生活、暮らしを脅かしている。ある日、突然、生存を考えざるを得なくなってしまう人が確実にいる。こんな社会であることが何とも情けないことだと思う。最近の環境科学は先の定義に加えて、「全体像をシステムとして理解した上で、“かじ取りの指針を示す”ことを最終目的とする応用科学」(安成、2009)という側面が協調されるようになってきた。環境科学会誌の巻頭言で国環研理事長の大垣氏も「社会の設計」まで視野に入れる必要性を主張している。これは背景にブダペスト宣言があるが、サイエンティストは真理の探究の重要性ばかり主張するのではなく、社会の中の科学、社会のための科学を意識しなければならない。科学が時代に取り残されないために。(2010年7月29日)

講義は出席することに意義

数学者の故森毅氏は、様々な逸話を残されましたが、朝日天声人語にこんな話が紹介されていました。単位取得に出席を考慮してほしい、という学生にこう答えたそうです。「よっしゃ、出席してないヤツは少々答案の出来が悪くても同情するけど、出席したくせに出来の悪いのは容赦なく落とすぞ」。優等生ではなくスカタンに期待するという姿勢は一般に受け入れやすい。しかし、勘違いしないでほしい。森さんは数学者。数学は時間、空間に関わりなく成立する原理を探究する学問。論理的な思考により学問の深みに達する。余分な知識は独創の妨げ、という言説もわからんではない。一方、災害や環境に関わる学問では、数知れない多様な要因が影響しあった結果を見て、現象を理解しようとする。この学問分野で一番大切なのは経験。経験が認識を生む。とはいえ個人が蓄積できる経験的知識の量はたかが知れているから、本や講義から知識を得て経験の足しにする。そうすると、離れたところにあった知識が頭の中で結びつき、新しい知識が生産されるようになる。原理とか普遍性はベースにあるもので、その上に重なる個別性が現象の特徴を形成し、地域の暮らしに影響を及ぼす。数学とは別のモードの学問がある。問題の理解は“気付き”から始まる。気付きを生むもとが経験と知識です。だから講義は出席することに意義がある。その時は忘れてしまっても、頭の深層に記憶を残すことで、いつかつながるときが来る。科学知だけで世界は理解できない(これが狭義の科学の目的でもあるが)。科学知と経験知の二つを駆使して世界を理解しなければならないのだが、世の中はまだまだ科学知に頼ろうとする傾向が強い。(2010年7月27日)

二つの世界の共存

今日の日経の社説の題目は、「(ニッポンを一歩前に)リスク恐れず世界で商機得る人と組織に 」。中身は非常に威勢が良い。ただ、背後には都市的世界観のみがありそうだ。 世界はグローバルとローカル、あるいは都市的世界観と農村的世界観に二分されているように感じる。問題なのは、この二つがなかなか交わらないこと。この二つの世界は相補的に存在することにより、安心を生み出すのではないか。リスクばかりとって、勝率10割は難しい。7月13日に安井至氏は“あらたにす新聞案内人”において複数のキャリアパスについて述べている。肉食系日本人は海外に出かけ高額報酬をねらい、草食系日本人は国内で生活する。そうしないと、日本の雇用は確保できないと。日本人を二つに分けてしまうことに不安は感じるが、二つの世界をうまく共存させることが、世界を相手にうまくやっていく数少ない方法の一つなのではないかと思う。二つに分けることが格差を生まないためには、教育の力と現場の力で、“考え方”を鍛える必要がある。ハーバードのサンデルさんのような講義で、学生に解説するのではなく、学生が考える講義、これを大学はやらなければならない。いかに生きるべきか、いかに判断するか、という議論を大学でしっかりやっておけば、様々な生き方を尊重し、折り合いを付けながら、世界とうまくやっていくこともできるのではないか。(2010年7月26日)

楽農報告

暑いので畑に出るのが憚られる陽気ですが、そろそろジャガイモの収穫のタイミング。メイクィーンは成長が早く、一月も前に収穫したのですが、先に植えた“インカのめざめ”と“アンデスレッド”、そして後から植えた“シャドークィーン”を掘り出す。“インカのめざめ”は不作でしたが、他二種はまあまあ豊作で今日は昼から芋三昧でした。ホクホクしてうまい。“シャドークィーン”の紫には驚く。地這キュウリは枯れてしまい、ズッキーニもだめ。昨年もだめだったので、理由を解明せねばなりません。大玉のトマトは順調、ナスとピーマンは大きくなりませんが、味は問題ありません。直径20cm程度のカボチャを収穫、ゴーヤは小さいのが一杯なっている。もう暑いので、新たな作物は来月の秋野菜の種まきまでお預けにする。それにしても収穫の山を見ると安心する。こういう感覚が人間には必要かも知れない。(2010年7月25日)

内向きが問題ではない

今日の朝日の社説は「内向きの学生 世界は君を待っている」。留学の勧め、若者に対する応援だが、若者が海外に出ない理由を若者とその親側に置いただけで、問題の全体を捉えきっていない。別に内向きが悪いわけでもない。若者が希望をなくしているとしたら、それは社会全体の問題。その根底にあるのは市場経済のもと、人が部品になってしまい、その専門性が活用されなくなったからとはいえまいか。大学で学んだ専門性を以て、社会に出て行き、勝負できること。こんな社会でありたい。社会は専門家に委ねることができる部分は専門家に任せる。これで無駄も不幸も無くせる。大学は学生の専門性の醸成と社会との関係性を重視する。学生は専門性をバックに社会に出ていく。この流れができあがれば、学生、大学、社会それぞれの努力が報われる社会になる。そうすれば学生の関心も外に向くようになるでしょう。中も外もどっちも大切。(2010年7月25日)

鰻を食べる幸せ

今日は土用丑の日だそうで(間違い、26日でした)、鰻を食べたいと思い、西友に買い物に行きました。このところ暑くなったので鰻弁当を探していたのですが、なかなか出回らない。不足しているのだろうかと心配になっていました。昨日は西千葉駅下ペリエでようやく見つけ、蒲焼き一枚入りが780円、2枚入って1400円少々だったので、安い方(といっても高い)を買ってきました。やはり、鰻不足か。今日は西友まで出かけていきましたら、昨日と同じ鹿児島県産鰻を2枚入りで980円で売っていました。西友の弁当が安いということは学生の間でも良く知られているのですが、やはり安い。私は1100円のさらに高い方の鰻弁当を購入しましたら、鰻が太っていて美味しいこと。満悦しました。なんと、贅沢な。実は宝くじの300円当たり券を纏めて換金して、それで弁当を買いました。得をした気分(実際、得はしていないのですが)。これも幸せってもんでしょう。不幸とは幸せがあるのに、感じることができないこと。1100円の幸せでした。安さの背後に何があるかが本当は問題なのですが、弁当1100円は安いとはいえないな。先日、鰻の完全養殖に成功したという番組を見ましたが、これこそ人の幸せに直結する研究。ちょっとうらやましい。(2010年7月24日)

世界と対峙するためには

平日は“原則”酒なし生活を始めてから(あくまで原則です)、夜中の読書タイムは落ち着く時間になりました。農文協の「シリーズ地域の再生」第1巻の結城登美雄著「地元学からの出発」をもう少しで読み終えます。やはり、日本の中にも“たくさん”の“元気な”、“世界(地域、人が関係性を意識する範囲)”がある。しかし、現実ではこの“世界”は大きく“都市的世界”と“農村的世界”に二部され、前者は後者がよく見えないのではないか。もっとも、これは戦後の日本の成長の結果でもあります。16日に松田公太氏の“日本は元気がない”発言に疑問を持ちましたが、やはり都市生活者の視点は地域以外にあるのだろう。実に元気な地域があちこちにあるが、それは地域経済圏を核とする社会。世界の中で肩肘張って生きていきたい都市生活者とは関係ない世界かも知れない。地域には確かな幸せがあるのだが、都市では海の外の世界に幸せを求めて、右往左往しているがなかなか見つからない。こういう状況はいろいろな分野にある。研究者セクターでは海外を相手にして名誉を求める研究者(科学者)の世界と、地域に深く入り込み問題の理解、解決を協働で達成しようとする研究者の世界がある。後者はモード2サイエンティストでもあるが、前者にとって後者はサイエンティストとは見えないのかも知れない。しかし、後者では名誉など目的ではなく、まず“世界(地域)”を理解することが目的で、問題解決を共有すること自体が幸せである。研究予算の大幅な減額が予想される中、従来型の研究ではなく、モード2型、関係性探求型、地域密着型の研究を進めれば、低コストで“社会のための科学”を実現できる(“知識のための科学”と並ぶ科学のカテゴリーとして)。世界で勝負するためには欧米思想や科学史の理解が必要。世界で勝負するためにもアジア的な思想に基づく社会や研究分野を構築した上で、世界と対峙する必要があるのではないかな。(2010年7月23日)

心残り

世の中にはいろんな人間がいる。自分が正しいから、お前は間違っている。だから、話し合いの必要はない。誹謗中傷、嫌がらせ。ヒーロー気取りの研究室運営介入。権力を使った嫌がらせは大学のガバナンスの未熟さをあからさまにする。これが一番つらかった。その人物がこの春異動していたことを今頃知った。なんて間抜けな。一言聞いてみたかった。あなた幸せですか、と。それよりも、大学人として教育のあり方に関する考え方を聞きたかった。話し合いはできませんでしたが、私と根本的に異なるやり方。学生にすべてを与える教育。何のために...。まあ、巣立った学生が幸せになっていればそれで良い。不幸な出会いでしたが、研究や教育指導のあり方について私自身の考えが深まったのは確か。心残りなのは、私の経験が誰とも共有できなかったこと。この経験が共有でき、議論を行うことができれば、大学の教育力は増すと思うのだが。せめてこの位は言わせてもらおう。馬鹿野郎!(2010年7月22日)

噛み砕いて難しいことを問う

昨日の宮崎さんのオピニオンから再び。サンデルさんの「ハーバード白熱教室」で行われている講義は「難しいことを噛み砕いて解説する」のではなく、「噛み砕いて難しいことを問う」のだという。そして、これが人気の秘密とのこと。大学人として講義は“わかりやすく解説する”ということばかり気にしてしまうが、むしろ、「噛み砕いて難しいことを問う」という姿勢が大切であることを改めて認識。これから「水文学T」の講義に行くのですが、今日は沙漠化の話から入ります。なぜ、水文学Tで沙漠化か。それは、沙漠化が起きる過程には水循環のあり方に対する無理解が深く関わり、それが持続可能性を脅かす可能性があるから(ともいえる)。ここで、水循環のメカニズムだけを説明しても(そもそも地域性のある現象に対して一般性を説明することは困難なのですが)、沙漠化の真の理解には到達し得ないであろう。沙漠化を取り巻く人と自然の関係、地域と国家そしてグローバル社会との関係、科学や医療の進歩の功罪、すべてを俯瞰しないと問題は理解できない。その中で、水循環はかなり重要ではあるが、問題の部分に過ぎなくなる。部分をいくら詳しくやっても、問題の理解、解決はほど遠い。部分と全体の関係の中で、水文学の重要性を理解する必要がある。ここを噛み砕いて問うてみたいと思う。学生は問われたら、まず講義の主題を“我がこと化”して、自分の考えを持って、それを示してほしいと思う。(2010年7月22日)

政治哲学と環境学

先週は、ジョン・ロールズを知り、アメリカの現実を眼前にしてどのような評価を与えられているのか興味が出てきた、と述べましたが(7月19日)、今日の朝日のオピニオン欄、評論家の宮崎哲弥さんの投稿「サンデルの問い 現実を「私たち」から考える」の中にその一つの答えを見つけました。なかなか難しいのですが、自分なりに解釈すると、人は自由である前に、社会の中で関連性とともに生きる存在、完全に自由な個人というのはなく、伝統や歴史を持つ共同体の中に存在するもの。恥ずかしながらリベラル・コミュニタリアン論争というものを今知りました。「ハーバード白熱教室」は噂には聞いていましたが、その演者がサンデルさん。宮崎さんにとってサンデルのロールズ批判(「リベラリズムと正義の限界」、勁草書房)は干天の慈雨にも等しかったという。ベストセラーという「これからの『正義』の話をしよう」(早川書房)も読まねばなるまい。この分野は「政治哲学」というそうですが、環境学と重なる部分があるように思う。きれいごとの環境学は現実を直視しない机上の学問。現場では確かに命の値段に違いはある。科学や医術が幸せをもたらすとは限らない。「これからの正義」とは、リベラル、コミュニタリアンの双方を止揚したところにみえてくるもの、というのが宮崎さんの結論なのだが、環境もいろいろな考え方、価値観を止揚したところでようやく見えてくるものなのだと思う。(2010年7月21日)

理論と行為の間には深淵がある

「ヨーロッパ思想入門」からもう一つ頭に残った表現。「実存の哲学」の章の、キルケゴール(1813-1855)から。「行為の真理は、自分が決断し、選び取り、生きぬくもので、客観的に目の前に転がっているものではない。それだから、全世界歴史を説明し尽くすほどの理論体系を構築したとしても、自分自身がその中に住まなければ、それは雨露をしのぐあばら屋ほどの価値もないのである」。これは科学と現場の関係にも似ている。ある現象について理論を構築したとしても、問題の現場で適用することができなければ、さして価値を持たない。研究上の価値と、実用上の価値は異なる。これはよくあること。たとえば、流体の動きを記述する微分方程式が導出できたとしても、それを現場に適応する際に、必要なパラメーター数が多すぎたり、パラメーターの時間変化、空間分布がわからないために解けないことがある。そもそも、その現象に関わるパラメーターの全体がわからない場合も多く、わかってくると理論式が複雑になりすぎて解が出ない場合も。それでも、問題の現場に身を置き、経験することにより何らかの真理が見えてくることもある。経験知、あるいは生活知と科学知は異なる価値を持つ。(2010年7月19日)

ジョン・ロールズの思想

休日ですが、仕事をしなければと思いつつもやる気がでない(ある種の病気)。家で本を読んでいますが、「ヨーロッパ思想入門」(岩田靖夫著、岩波ジュニア新書)を読みました。一度ではなかなか理解できませんが、終盤に出てくるロールズ(1921-2002)の考え方は大切だと感じる。グローバリゼーションの終焉を迎えた現在(そう思っていない方々もいるが)、異なる民族、異なる宗教、異なる文化の共存を可能にする原理は「寛容」。それは自分と異質なものを承認すること。文化の多元化に直面して、異なる民族、習俗、宗教、文化が平和裡に共存するには共通原理として正義をたてる必要がある。それは、「人間は自由で平等であるべきだ」ということ。人類が経験から獲得した直感的な倫理的規範であり、理論的根拠付けなどできない。これが究極の人間の存在原理。これ以外の普遍性を要求するならば、そこで人々は再び分裂してしまう。自由とは、人生の意味づけが各人の主観にゆだねられているということ。人の能力差は生まれつきであり、理由なき偶然。人々の自由な行動は社会的弱者の利益になるという条件においてのみ、その存立を許される。ロールズはアメリカ人ですが、アメリカの現実を眼前にしてどのような評価を与えられているのか興味が出てきました。(2010年7月19日)

コメントは基本リテラシーを身につけた上で

西日本で水害、土砂災害が相次いでいますが、朝のテレビ番組でコメンテーターが、日本は火山が多いから、水が浸み込まず、鉄砲水が起きやすい、と述べていたように思う。あれっと思った時には話題は変わっていたのですが、この発言は正確ではありません。新しい火山はスポンジのようなもの。水を浸み込ませるから、地下水が豊富。鉄砲水は土石流と洪水の間くらいと考えて良いと思うが(明確な定義はない)、土石流や鉄砲水を起こしやすい地形・地質条件がある。たとえば、花崗岩からできている山地。また、土石流や鉄砲水が作る地形もある。たとえば、沖積錐。これを知れば、その土地でいつかまた土石流が発生することは予見できる。日本は湿潤地域で、かつ変動帯であるという認識も大切。山はいずれ崩れる。崩壊を繰り返して地形は変化する。「土地の性質」は基本的な環境リテラシー、災害リテラシーとして大切にしていかなければならない知識、知恵ですので、あまりお気軽にコメントのためのコメントなどすべきではないと思います。一方、研究者側は基本的なリテラシーを伝える努力をせねばあかん、と思いますが...小さな行為を積み上げていくしかないか。(2010年7月18日)

大学と社会の関係−学生の“見える化”から

昨日の「人生山あり谷ありというが...」は朝日オピニオン欄にあった吉村さんの意見でした。タイトルは「超氷河期の大学生 就活に追われ学ぶ喜びなし」。就活の最中にある学生にレポートの余白に本音を書かせてみると、大学が正常に機能していると納得している若者を見いだすのは困難とのこと。さもありなん。問題は、究極の青田買いを認める社会の側が、日本の将来をいかに展望しているかにある、との主張はその通りだと思う。ただ、大学側もやるべきことをやっているかというと、考えるべき点はある。紙面の隣の欄では「法科大学院 学者教員のあり方を見直せ」とのオピニオン。投稿者の和田さんは法科大学院の修了者の合格率が低い問題で、“司法試験を受けたことがない、そして「研究者」の意識が強い教員”が指導する現制度に問題ありと主張している。これは法科だけに留まらない。「研究者」としてのリテラシーは伝えるが、社会との関係性に関する意識が弱い研究者教員が社会に出て強い学生を育てることは困難であろう。もちろん、これも教員だけの問題ではなく、社会全般の問題でもある。昨今、無駄を削減することが至上命題となっているが、社会の意識変革こそが無駄廃絶の正しい処方箋なのではないか。それにしても、就活は悩ましい問題。私は学生の“見える化”をはかりたい。企業や行政側も積極的に大学側に情報を取りに来てほしい。そうすれば、大学で学んだ知識・経験と業務のマッチングをはかることができるはず。私の今の所の方策は、学会発表推奨とホームページの活用なのだが、企業側で気が付いてくれないだろうか。(2010年7月18日)

人生山あり谷ありとはいうが

実はほとんど平ら。朝日のオピニオン欄で見つけました。もちろん、報道されている貧困や不幸のように、私の視野にない世界もあることは知っている。しかし、全体としてはどうなのか。結構、平らなのではないか。日本は一生懸命不幸の谷を埋めようとしてきた。その結果、幸福の山も低くなったが、平らな社会になった。これは全体としては良いことなのではないか。何かあるものをよしとする風潮、例えば、大企業に就職するとか、競争に勝つとか、こんな価値観さえ捨て去れば日本は結構暮らしやすい社会なのではないか。ただ、ところどころにモナドノックのような高みがあるかと思えば、シンクホールもある。高みに上がっちゃった方々は勝手にやっていただき、穴に落ち込んでしまった方々を救い上げる仕組み、穴に落ちることを防ぐ仕組み、これらを作り上げれば安心社会に移行することができる。その方法は制度ではなく、考え方なのではないか、と最近は思う。もちろん、すぐに実践するには勇気が要りますので、安全な処に居ながら無責任な発言を繰り返すということになってしまうのがちょっと恥ずかしいのですが。やはり、様々な“世界”がよく見えない。特に、深みほど見えなくなるという点が問題だと思う。“世界”全体の見える化が進めば、互いにベクトルが交わらないところで批判する、ということでなく、どうすれば良いかというアイデアが見えてくるのではないか。(2010年7月17日)

日本は元気がない、か

帰宅途中のラジオで、参院選で当選した松田公太氏が、日本は元気がない、といっていました。そこを何とかしたいんだと。さて、本当に日本は元気がないのだろうか。実は、日本は元気がないということになっている、だけなのではないか。自信がなくなっているという指摘は私もわかる。自信を取り戻して、元気になるにはどうすればよいか。実はほんのちょっと考え方を変えるだけで自信は取り戻せるのではないだろうか。自由主義経済の中で競争で勝たなければ、負けで、負けたら地獄。だから、がんばらなければいけない。これは単なる思い込みなのではないか。まずは、日本のビジョンを持たなければならないと思うが、どうも新自由主義的な考えに流されたビジョンが多いように思う。(2010年7月16日)

知識と智恵

朝日経済気象台より。この二つは相当違う。「智恵というものは、汗を流して必死になって実践する中から生まれてくるもので、汗もかかないで出てくるのは知識にすぎない」(松下幸之助)。その通り。「知識は大切なものだが、こだわると失敗する」。それもそうなのだが、それは知識の使い方によると思う。知識を正しく使うには、「普遍的な知識」、「個別の知識」をきちんと峻別する必要がある。知識が成り立つ前提を忘れるからうまくいかない。普遍的だと思っていたことが実はそうではなかったということは多々ある。環境や災害の分野では普遍性を個別性の上に置くことによる失敗がある。現場では個別性が大事。知識に溢れた現代ですが、知識の使い方には以外と無頓着。近代を支えてきた普遍性をここいらで乗り越える必要がある。(2010年7月15日)

科学や大学の価値の認知

朝日の記者有論「玄人はだし 呼び込む工夫を」より。ネイチャー論文の著者の一人に、山形の菓子メーカーの社長が超新星の発見者として名前を連ねたそうです。編集委員の尾関さんは言う。「公の予算で基礎科学を盛り上げたいと学界が望むなら、理系知の「道楽」に心躍らせる人を増やす工夫がもっとほしい」。研究者あるいは大学はこういう工夫をやってきただろうか。昨今の財政危機では大学も相当な財源の減少に見舞われることになるが、国大協と私大連合は共同で『「新成長戦略」の原動力は「強い大学」』というアピールを出している。しかし、危機を煽るだけで、大学が具体的に何をやるべきか、今何ができるか、という考えは盛り込まれていない。千葉大学も学長緊急アピールを出しているが、「知の拠点」として果たすべき使命とは何か、具体的な記述はない。もっとも、先日の学長・理事との懇談会では大学の価値を社会に認知して頂くにはどうすれば良いか、という視点はあった。アピール自体は多勢についていれば安全という社会心理学的な結果だと思うが、大学の価値を具体化すべき時期がやってきたと思う。それは近代、成長、といったこれまでの社会の根幹にあった考え方の変化を必要とするのではないか。ところで、尾関さんには4月15日にも「科学者は科学の価値を語れ」と題した投稿もあった。こういう編集者は貴重だと思う。(2010年7月15日)

知の三角形

朝日夕刊の「窓」欄に「知の三角形」と題するコラムがありました。10年前の「リスボン戦略」に盛られた理念で、EUのイノベーション政策はこれに沿って進められているという。再掲すると、@科学研究の強化による「知」の創出、A教育による「知」の普及、Bイノベーションによる「知」の実用化−この「知の三角形」を欧州のみならず世界にも広げながら強い知識社会を築く。実にすばらしい。日本のサイエンティストはこれを聞いて、自分の役割は@だから、ますます「真理の探究」没頭にお墨付きを得たと思うだろうか(これができる科学者は社会に感謝すべきである)。10年前と言えば、1999年のブダペストの世界科学会議とほぼ同じ時期。ブダペスト宣言では四つの科学について言及していますが、二つに相互作用はあったのだろうか。リスボン戦略における@が「知識のための科学」だとすると、Aは「社会の中の科学、社会のための科学」、Bは「開発のための科学」となろうか。「平和のための科学」は全体のアンブレラだろうか。どうもすっきりしない。「リスボン戦略」は全体として「開発のための科学」をベースにしていると考えた方がうまく解釈できる。「科学」を包括的に理解しようとすると、複数の目指すべき社会のあり方が見えてくる。経済最優先で豊かな社会を目指すのか、経済も大切ですが、安心を優先させる社会を目指すのか。実は、「科学」はどんな社会にも対応できる幅広さをすでに持っている。モード2科学、関係性探求型科学、...これらも科学である。(2010年7月13日)

楽農報告

先週はあまりに暑くて畑作業をさぼったため、昨日の日曜日は否応なく畑に出ることになりました。トマトの芽かきをやらなかったので、芸術的な樹形になっていますが、大玉の実がつき始めています。キュウリは一日に数本ずつ採れていますが、昨年ほどの勢いはなし。地這のキュウリもほとんど実を付けない。実は昨年度と同じ場所に作付けたので連作障害かも知れません。堆肥さえ入れれば大丈夫と思ったのですが、次シーズンは考えなければ。カボチャも蔓の剪定をしなかったため、元気よく伸びていますが、蔓を切らないと雌花が出てこないということを知りました。やたら葉面積指数は大きいのですが、実は二つです。オクラもようやく根が付いた感じ。収量というのは日射量や気温といった外部条件だけで決まるのではなく、人の農業スキルにも大きく依存する。リモートセンシングを使った農作物の収量予測という分野がありますが、人のスキルまで組み込むことは難しい。実は「食糧安全保障分野の地球観測衛星利用研究会」という会合に出てきました。精緻なモデルで収量予測をすることは、研究としてはチャレンジですが、広域に拡張していくときにはスケール破綻しないように注意しなければならない。グローバルとか大陸スケールの広域を対象として衛星を利用するには単純な方法を考えたほうが良い。収量予測も未来予測ではなく、収量の数値化が目的です。生産量に変換されなくても、簡単な指標で変動はモニターできる。そこから食糧安全保障に関わる情報、すなわち外交に役立つ情報は出てくるはず。現時点における食糧問題は外交で解決できる。今のところ絶対量は不足していない。現実の問題に対応するためには、時間・空間スケールと手法のマッチングが必要だと思う。階層的に考えるということ。(2010年7月12日)

やはり、ぶれてもいいんじゃない

ほんのちょっと待てば参院選の結果はわかるのに、人というのはせっかちなものだと思う。それにしてもちょっとわからないことがある。消費税の議論をしようと言った菅さんを批判して、消費税10%を明言している自民党に流れた有権者が結構いるそうです。選挙は気分なのかなあ。“ぶれる”という姿勢が批判されたとの向きもありますが、ぶれながら良い方向に向かっていくのが良いのではないか。ぶれる過程で理解は深まっていく。“ぶれる”を良しとしない精神は森の思想なのかも知れない。アジア的といっても良い。森の民は真理がどこかに存在すると考える。だから、“ぶれた”ということは、“間違った”ということ。一方、沙漠の思想、すなわち欧米思想では真理は人が論理的に導き出せるもの。だから、もともと“ぶれ”は少ないし、異なる主張の間で議論を行うことができる。私はよく“折り合い”という言葉を使いますが、意外と欧米社会の方が日本社会より折り合い型なのかも知れない。もっとも思想の根幹の部分では折り合いは難しいようですが(だから、戦争になってしまう)。真理は準備されていないのだ、と考えて、きちんと議論する姿勢を日本人はもっと身につけなければならないのではないだろうか。江戸時代には“見試し”というやり方があったではないか。(2010年7月11日)
ここは、ぶれたいと思います。ぶれちゃダメは沙漠の思考。沙漠で水場を見定めたら一気に進む。森の民は、樹林に遮られて見通しが利かない。本来、森の民は少しずつ進みながら(ぶれながら)、進路を決めていた。近年の日本人は思考が沙漠的になったと考えた方が良いということにします。どこかに真理があると考えるのは沙漠の思考の影響ではないか。(2010年8月30日)

カントについて想う

どうも体調が良くない状況がずっと続いている。海外調査にも行かねばと思いつつ、自信がなくなってきている。こもってしまうのはいかん、と思うのですが、そんなときはよくカントを思う。彼はケーニヒスベルクから生涯出ることはなかったのだが(二三のちっちゃい町には出ている)、自然地理学を著し、世界について精通していた。私は“世界”は経験することによって個人の中でイメージができあがると考えています。だから、この世にはたくさんの世界がある。しかし、カントは思惟の世界で世界像を作り上げていった。書物からの情報が経験の代わりをなしえるか。カントの知らない世界はないか。環境、つまり人と自然の関係についてはどう考えていたのか。環境の認識は体験からできあがっていくものだと思う。カントに環境問題という意識はあったかどうか(18世紀のヨーロッパの都市は相当汚かったと思うのだが)。自然地理学をじっくり読んでみるしかない。この数年、心身のバランスが良くないのですが、どうにも不調から抜け出す答えが見つからないうちに何年も過ぎてしまう。自分のキャリア残り10年で何をなすか。見えてはいるのですが、踏ん切りがつかないという状況なのかも知れないなとも思う。(2010年7月10日)

今を良くする−未来が良くなる

今日の環境RSTBも勝手気ままにしゃべったなと思う。ディシプリン学の部分は自分で勉強した方がはるかに能率がいい。学生は今まで知らなかった考え方に触れる、新しい領域への扉を知る、これが講義を聞くメリットだと思う。講義では以前から未来を展望する方法について述べている。@過去から現在を見る(地質学的方法)、A現在から未来を見る(物理学的方法)、B望ましい未来を仮定して現在がどうあるべきかを考える、この三つの考え方がある。Bはバックスキャッターで、最近多くの方々が唱えるようになってきた。恩師の榧根先生は何十年も前からBを主張していたが、巷では相手にされなかったという話を聞いたことがある。時代の精神は変わるものだなぁと思う。しかし、最近の私は、今を良くすることによって、未来を良くしていこう、と考える。無理はしない。分相応の暮らしをしながら、少しの豊かさを享受して、楽しく誇りを持って暮らす。そうすれば今につながる未来も良くなる。ただし、講義資料が古かったので、若干論理の破綻を起こしたかも知れない。今を良くすることを考えながら、環境リテラシーを身につけ、世界と未来を俯瞰しながら暮らしを考える、ということです。氷期−間氷期サイクル、エネルギー問題、食糧問題、水問題、等の環境に対する理解がその前提にあります。環境リテラシー、これを醸成するのが大学の機能でもある。地球温暖化も同じ。今の暮らしを分相応なものにする。納得のいく生き方を見つけ、少しずつ低炭素社会に変えていく。途上国の経済成長(この言葉はあまり好きではないが)は応援しながら、環境リテラシーを輸出し(教育が大事)、人口を抑制し、成熟、安定社会に向けて地球社会の舵を切る。強すぎる未来志向のもとで現在に制約を加えても、うまくはいくまい。(2010年7月9日)

研究における真理とは

環境学分野の研究においては解くべき問題を発見することが最初の関門です。問題の理解には幅広い知識、経験が必要。だから学生は問題の発見の段階で悩み苦しむことになる。物理や化学のようなディシプリン学では解くべき課題は明確であることが多いので、学生は入り口で悩むことは少ないでしょう。ぜひとも問題発見の壁を乗り越えてほしい。ここを経験していないと、単純な思考しかできない、本質を見極めることができない似非環境学者になってしまうかも知れない。学生、特にアジアの学生にはまた、“真理はまだ見えていないが、どこかにある”、と考える傾向が強いのではないか。だから、真理を探してしまう。“自分探し”というのも同じ根があるかも知れない。真理がどこかにあると考えるのは森の思想でアジアの思想。沙漠の思想、すなわち欧米の思想では、論理的な考察の結果到達したものが真理。研究はこちらに近いのではないか。だから我々、研究に携わる者たちは森の民(もちろん沙獏の民、草原の民))であることに誇りを持ちながらも、森の思想、沙獏の思想の両方を理解する広い心を持ち、使い分けていく姿勢を持つことが必要なのではないでしょうか。研究で行き詰まったら、こんなことも考えてみてください。がんばれ学生、留学生。(参考文献:鈴木秀夫著「森林の思考・砂漠の思考」、NHKブックス)(2010年7月7日)

たくさんの世界−その3−

今朝方大雨だったせいか車が多い。今日は七夕なので、皆さん何をお願いするか、なんて話をラジオで聞いた。ある気象キャスターの女性は、晴れを早く伝えたいとのこと。これは都市的な思考だなと思う。都市にとって雨は好ましいものではないが、雨は恵みである世界もある。もちろん、農家のことを思いやるべきであるなんて主張をするつもりはない。いろいろな世界に対する気付きがあればよい。参院選(戦)も始まり、いろいろな方の主張を聞くが、それぞれの候補の世界が垣間見えることがある。もちろん、候補には支持母体があるので当然なのですが、国政を任せる方には様々な世界を俯瞰的、包括的、に眺めることができ、関係性を認識できる方がいいなと思う。そうすると、明確な主張ができなくなるかも知れない。でも、折り合い型政治というのもあって良いのではないかなと思う。寅さん型政治。鳩山さんは近かったかも知れないなと思う。(2020年7月7日)

ホトケドジョウの価値化

このところずっと、頭の中でホトケドジョウがゆらゆら泳いでいます。佐倉の畦田谷津の墓地建設予定地では絶滅危惧II類であるホトケドジョウがたくさん見つかっている。地域の方々のメーリングリストに入れて頂いているので、情報がどんどん入ってくるのですが、墓地の建設は決まっており、どうしようもない。なんとかならんものだろうか。人が暮らしていくためには自然とも折り合いを付けなければなりません。墓地の建設も折り合いの一つ。墓地の建設を前提に人と人以外の生態系の最も良い関係を探さなければならない。谷津の水循環への影響を最も少なくする工法、谷津の機能を損なわないで谷津の水循環をちょっと変える方法、...こんなことが提案できれば良いのですが、それにしても谷津の水循環についてまだまだわからないことも多い。まずはホトケドジョウを可視化すること。その存在を知って頂くこと。そうすれば価値化できるかも知れない。可視化したとたんに乱獲されてしまう危険もあるかも知れないが、環境リテラシーの醸成によりさけることができる。これは大学の機能でもあるので、この面では少しは役に立てるかもしれない。この議論は最終的にはホトケドジョウだけでなく谷津の自然と人の暮らしを包含する社会のあり方に関する議論につながるはず。生物多様性を考えることは、人の生き方を考えること。(2010年7月6日)

ディシプリンの壁

今日は筑波大から李さんを無理矢理ゼミにご招待しました。ここ数年力を入れている硝酸態窒素の挙動に関する専門家であり、千葉大のOBでもありますので。うちはリモセンのセンターですので、ケミカルなことはよくわからない。わからなかったら聞いてしまえば良い、というわけでした。人の話を聞いてアイデアを得ようという行為は姑息だなんていう分野もあるかも知れない。それは論文至上主義の名誉追求型科学の世界のことでしょう。硝酸汚染はもはや社会全体で取り組まなければならない問題だと思う。それぞれの得意分野を持ち寄って“問題の共有”から“問題の解決の共有”に進まなければ“社会のための科学”はできない。“環境”という分野ではその目的を達成する前にディシプリンの壁を乗り越えなければならない現実がある。研究という行為を論文で価値化するだけではなく、解決に進むために協働する時代を迎えなければならない。時代の精神は変わりつつあり、研究者の役割を再確認する時代の到来を感じます。(2010年7月5日)

たくさんの世界−その2

甥っ子が来たので回転寿司の銚子丸へ行く。うちのガキどもは100円寿司ではダメだというとんでもない贅沢者。店は満席で30分も待つ。ようやくテーブル席について食べ始めると、あちこちで一皿525円の大トロを注文する声が耳に入ってくる。豊かだなと思う。なんてことのないふつうの光景かもしれないが、これも世界のひとつ。回転寿司なんて庶民の食物という世界もあるだろうし、回転寿司なんて贅沢で、という世界もあるでしょう。それぞれの世界はなかなか交わらない。社会を形成していく中で様々な世界に対する気づきは必要なのではないか。私がこんなことを思うのは精神に染み込んだ森の民の思想。成功した者がうまいものを食べて当然なのは砂漠の民の思想。森の民も同じと言われるかも知れませんが、成功ということの内容が森の民と砂漠の民では異なる。例えば、競争による成功、協調による成功。ここを突き詰めて考えていないことが、折り合い、配慮、気づきといったことを本来重視するはずの森の民である日本で格差が広がっている理由の一つなのではないだろうか。(2010年7月4日)

たくさんの世界

修論研究の一環で学生と富里方面へ地下水調査に行きました。幹線道路から道を一本入ると広大な畑と、そこここに堆肥の野積や立派な堆肥置場を見つけることができます。地下水の硝酸汚染のことに触れられるのは農家にとっていやなことだろうなと思い、気後れしながら農家の扉を叩く。予想に反して、快く地下水を採らせて頂き、心より感謝。このあたりで水道が来ているのは幹線道路沿いだけで、ほとんどのお宅は上水に地下水を利用している。硝酸態窒素濃度が高いため、高価な浸透膜型の浄水器を行政の補助を受けて取り付けている。あるお宅では導入時に“孫がかわいいでしょ(だからちゃんと設置してね)”と言われたそうです。硝酸態窒素は子供への影響が大きいから。浄水器は老朽化するが、更新時にまた補助が出るかはわからない。一方、都市域の広域水道は税収不足の中、維持・更新に赤信号が点っている。この状況に危機感を持っている都市住民、また、広域水道という便利な施設が日本の中でも偏在していることに気づいている都市住民はどれほどいるだろうか。状況は下水道も同じ。地下水を頂いたあるお宅には下水道は来ていない。吸い込み穴を掘って、そこに下水を流している。近くには国際空港もある東京大都市圏の中にもたくさんの世界がある。知らない世界に気がつかない、無視するのではなく、たくさんの世界の間でうまく折り合いをつけることができる社会を作らなければあかんのではないか、と思う。(2010年7月3日)

横糸の強化

今日は学長、理事らとの懇談会があったのですが、言いたいことを主観的に述べてしまいました。 まずは、横糸の強化。千葉大学は縦糸はまあまあなのですが、横糸がいまいち。これの具体的問題点は環境を志して日本にやってくる留学生が、入学試験でディシプリンの壁にぶち当たってしまうこと。ではどうしたらよいか。具体的な案はなかなか出しにくいのですが、横糸の必要性は充分理解して頂いたと感じる。大学としても、そのことは充分認識していたということでした。地域連携については印旛沼水循環健全化会議や生物多様性ちばけん戦略について述べました。本当はモード2的な研究を千葉大学はもっと奨励してほしい、ということを言いたかったわけです。しかし、私のいつもの癖で話が抽象的になるため、やってるぞ、とのアピールだけにしておきました。ブダペスト宣言の「社会の中の科学、社会のための科学」、日本の展望の「社会のための学術」。千葉大学は総合大学ですので、これらの課題に取り組む力、そして人材はあるのですから。(2010年7月2日)

楽天は何かを失わないか

楽天は社内の公用語を英語にするそうです。結構なことですが、楽天が失うものはないだろうか。日本企業としての根っこは大丈夫だろうか。そんなものは要らないのだろうか。欧米の国際企業は根っこにはヨーロッパ思想、一神教の思想、あるいは沙漠の民の思想があるように思う。欧米人にとっての真理とは、自身の考え方により論理的に導くことができるもの。だから、一見強硬と思えるやり方を貫くことができる。日本人は真理が最初から存在すると考える。これは仏教的な思想でもあるが、そこに逡巡が生まれることがある。また、欧米人は神が作った世界は一つ、あるいは世界は最も優れた世界に向かって進歩している途上と考える。しかし、アジア的な森の思想では世界は一つではなく、多様な世界が存在する。視界を樹木によって遮られる森の民にとって世界を俯瞰することは苦手らしい。自分の周囲が世界である。でも、多様な世界が存在すると考え、それぞれの世界を尊重することから“優しさ”も生まれる。この優しさはグローバルな世界では弱点だろうか。世界のあり方が変われば優しさは強さになるのではないか。そして、現在は時代の精神が変わりつつある時ではないか。ユニクロも英語を社内公用語にするそうですが、楽天もユニクロも旧来型の発展モデルを選んだのではないだろうか。考えすぎですかね。(2010年7月1日)


2010年6月までの書き込み