口は禍の門

明日から7月。改ページの時がやってきました。この半年を一字で表すと“疲”になるでしょう。何でこんなに疲れるのだろう。歳のせいもありますが、いろいろな理由があるに違いない。この歳になってわかったことは、頭と心と身体は別であること。頭でわかっていても、心がついてこず、身体に影響が出てしまう。何と未熟なことよ、と思いますが心は正直です。年度当初に“いきいきと生きる”を掲げたのですが、掛け声倒れになりそうです。ここは仕切りなおして、後半に臨みたいと思う。無事、事も無し、ということも大切。無事の中で深めることが大切。自分は何を深めることができるのか。いまだ模索中。
2009年度が始まりました。今年度はゲーテを見習って“いきいきと生きる”、これでいきたい。ただし、最近フィールド調査の自信がなくなってきましたので、カントのように書斎でも世界で起きていることをきちんと理解し、世界の理解を進めたい。ここで、カントの至言を再掲しますと、“地球の観察には三通りあり、第一は数学的観察、第二が政治的観察、そして第三が自然地理的観察になります。自然地理的観察では様々な対象を物理学のような厳密さ、完全さで扱うのではなく、いたるところでいろいろなものを探し出して、比較し、計画を練る旅行者のような知的好奇心で扱う”。リモートセンシングを使ってカントの世界観に近づきたいと思います。
あっという間に2008年が終わり、2009年を迎えました。ここ数年における自分の考え方の変化で重要だと思うなことは、世界観、自然観が変わってきたことです。それは普遍性とか真理といったものは、どこでも成り立つから重要というよりも、それだけの重要性しかない。その上に載る個別性こそが風土を理解し、問題があればそれを理解し、解決するために最も重要であるということです。2008年に起きた食の安全、食糧危機、石油価格高騰、金融危機、派遣切捨て、といった問題を理解し、解決するために必要なことも同じ認識であるように思う。2008年の問題は早急に解決を計るとともに、その経験を風化させてはならないと思います。

2008年12月までの書き込み


「アフリカ=可哀想」図式やめよう

朝日の投書欄から。これはずっと考え続けている課題のひとつでもある。アフリカにはアフリカの暮らしがある。まずそれを認める。欧米的な進歩史観に基づくとプリミティブな生活は可哀想ということになるのかもしれない。しかし、タンザニアの農村で見た人々の笑顔は忘れられない。不幸というのは特定の幸せが前提となる。不幸といっても相対的なもの。絶対的な不幸の定義などない。同様に絶対的な幸せも定義できない。地域の中で分相応の暮らしをしている民に対して我々の提案を勝手に押し付けることはできない。地域を尊重し、地域を理解し、その上で我々ができることを考えなければならない。市場経済の中で地域の民をマーケットと考えることが“不幸”の根っこにあるのだが、金融恐慌を経験した世界は新しい世界に移行することができるだろうか。(2009年6月30日)

楽農報告

昨日の午後は日大文理学部で開催されたシンポジウムに学生と行くために、朝からジャガイモの最後の収穫をやっておきました。今日の天気も心配だったから。午前中はジャガイモの跡に、ブロッコリー4株、キャベツ4株を植え、シシトウ、オクラ畑の空きスペースにピーマンを2株植えました。メロンの畝を拡張して藁をしきましたが、葉がれも多くて少し心配。農薬の勉強をする必要を感じる。畳半畳ほどの空きスペースを耕して、ミニ大根と、菜っ葉の種を蒔く。収穫が途切れないようにするため。昔父が作っていたアスパラが一本ヒマワリ畑に出てきたので、アスパラの圃場に移植。昨日採りすぎたキュウリは今日はあまり収穫なし。黒丸(愛犬)が茶豆におしっこを散布。この茶豆は美味しいに違いない。一通り作業が終わったら雨が降り始め、本降りになった。ナイスなタイミングでした。来週からは秋蒔きの野菜のポット栽培を考えることにします。午後は高谷好一著「多文明共存時代の農業」、農文協、2002、を読む。いずれ感想を報告します。(2009年6月28日)

科学リテラシー

今週は報道等で科学リテラシーに関する議論がいくつかあったように思います。新型インフルエンザに関する報道と社会の応答、足利事件のDNA鑑定に関することがきっかけとなってのことです。まだまだ十分とはいえないと思いますが、こういう議論が起こるということは日本の社会の健全性を表しているかなと思いました。事実が認識されず、右往左往する状況、過度な科学技術に対する信頼性に由来する過ち、などが繰り返されるようだったらまさにオルテガ、小林信一の言う「文明社会の野蛮人」の出現です。文明は衰退に向かうというが、人というのはそんなに愚かなものではないとも思う。科学に対する健全な議論を深めていかなければ。やはり、まず教育だと思う。研究も大事ですが、予算取得のために研究課題を後付するのはどうかと思う。小さな課題でも重要な課題はたくさんある。“Science for All Americans”の序文から科学リテラシーの説明を引用しておきます。(2009年6月27日)

科学リテラシー(自然科学、社会科学と同様に数学や技術も含む)は、様々な側面を持つ。そこには、自然界をよく理解しその一体性を尊重すること、数学、技術、科学がそれによって相互依存する重要な方法の一部に気付くこと、科学の基本原則や要点となるいくつかの概念を理解すること、科学的思考法を受け入れる能力を持つこと、科学・数学・技術が人間活動であり、そのことがその長所と短所について何を意味しているかを理解していること、科学知識と科学的思考法を個々の、あるいは社会的な目的に利用することができること、などが含まれる。

ま、いいか

私はこれが大好き。あの上戸彩とオグシオの出てくるCMで、「ま、いいか。だって元気があるってことは、すばらしいことだから、だから」が大好き。やなことがあっても、「ま、いいか」ですませてしましてしまえばよい。実は、これぞ日本的な問題解決の方法。いろいろな考え方があるからいったん受け止めてから、「ま、いいか」、で解決をはかればいい。それでも、誤解ってやつはあんまり気分がいいものではない。誤解はたいてい自分がこう思うのに相手がこう思わないのはけしからん、ってことから出てくる。様々な考え方をいったん受け止めて、おかしなこともまずは相手の立場で考える態度があれば、対話で解決できる。その対話が勇気がいることなのですが。ま、いいか。(2009年6月24日)

アフガニスタン支援一考

ニュースでアフガニスタンに派遣された文官が小学校建設プロジェクトに関わる話題がありました。それ自体はとても良いこと(Good Job!)だと思います。ただ、生徒たちが緑あふれる村を見下ろす丘の上でシートをひいて勉強をしているシーンがありましたが、あれは視察向きに行われたことではないだろうか。私だったら村の中の日陰で子どもたちに学ばせたい。雨は少ないのでブドウ棚と黒板があれば結構快適な教室になります。これから小学校が建設されることになると思いますが、立派な鉄筋コンクリートの建物になるのだろうか。農村社会の人たちには建物を建てる技能もあるはず。その技能を生かして材料や予算を支援するというやり方になるだろうか。20年以上前にタンザニアの農村に行ったとき、棟梁と称する方がいて、材料を準備したらなんでも作ってくれたことがありました。ちょっとしたニュースですがいろいろ考えることがあります。(2009年6月23日)

楽農報告

お見舞いのお土産にするために雨の中収穫をしました。キュウリは毎日十分な収穫があります。蔭に隠れていたキュウリの一本が巨大化していたのは笑えました。人参も狭い土地からずいぶん採れるものだと関心。ジャガイモは昨日全体の三分の1ほど掘り起こしましたが、一週間はまかなえる量でした。先週蒔いたミニ大根が芽をだしている。枝豆は実を付けているが昨年より背丈が小さい。茶豆だからだろうか。メロンも生長はしているが、まだ実は見えない。秋に向けて栽培計画を立てるのも楽しい。(2009年6月21日)

沙漠化研究−モード2で

今日は立正大学で行われた地理学会の乾燥地・半乾燥地研究グループ例会に学生と参加しました。会場では久しぶりに門村浩先生にお会いしましたが、学生は勉強する課程でいずれこの名前に出会うことでしょう。また発表者の一人が立正大学の学長と学生は気がついていただろうか。さて、留学生からは内蒙古と新彊に関する発表があったが、実はこれらの地域に関する研究はたくさんある。そして多くの方々がこれらの地域に関心がある。気が付かずに似たような研究をやることも多くなってきたように思いますが、まさに競争。とはいえ、競争は徒労をもたらす。沙漠化はもう論文のための研究ではなく、実質的な研究に移行する時ではないだろうか。研究の参加者がそれぞれの知識、経験を持ち寄り、問題の真の理解をめざし、解決を共有する態度で臨む研究。個人の役割は相対化するが、解決には近づく。巨大科学の分野ではすでに著者数十人の論文も珍しくなくなっている。個人で論文を書くのではなく、集団の中で知識、経験、能力が認められて参加することにより論文の著者の一員になる研究を環境分野でも始めて良いと思う。大型の予算がなくても、大きな成果は出せるのではないか。これができることを立証してみたい。(2009年6月20日)

ベストポスター・プレゼン賞−崔さん

パシフィコ横浜で昨日開催された地理空間情報フォーラム2009の学生フォーラムにおいて崔斐斐さんがベストポスター・プレゼン賞を受賞しました。2006年の酒井君、2007年の白木君に続いて三人目です。これって結構すごくないですか。このフォーラムは学生が自主的に運営しているもので、私は関わってはいません。賞は投票で決まるので、受賞は学生の実力です。歳をとると、どんな研究が測量業界で受けるかということもなんとなくわかってきてしまうところが悲しい気もしますが、よくやりました。(2009年6月18日)

学生の研究を維持するために言ってはいけない事

企画担当理事から、予算がべらぼうに多いわけでもないのに、なぜこんなに多くの学生を研究指導ができるのか、という質問がありました。思わず答えてしまいそうになりましたが、やめておきました。確かに、学生一人当たりに配分される年間の経費は数万円、博士で十万円程度で、それで研究に足りるわけはない。実は様々な予算でそろえた研究リーソースを使っています。なぜ、それを言わなかったかというと、事務処理上の論理では競争的資金はそのプロジェクトの目的以外に使ってはいけないから。しかし、汎用機器やソフトウエアは少し投資をすれば様々な目的のために継続して使用することができる。これを使うな、というのでしょうか。極めて効率的な税金の使い方です。導入は競争的資金であったとしても、維持管理は経常経費で行っているものがたくさんある。これも本来はいけないこと。まだまだ使えるリソースをプロジェクトが終わったら廃棄しなければならないのか。そんなことはおかしいでしょう。だから学生の研究を維持するためには、これは言ってはいけないことでした。また、学生は大人として、研究のパートナーとして研究に当たっていただくことにしていますが、これもいけないことだと権力から厳命されたことがあります。本質的に重要なことは真っ向から議論しなければ組織はよくならないのですが、あまりにおかしいことはついやぶへびにならないか、と思い黙ってしまいます。(2009年6月17日)

役員との意見交換会を終えて

考えていたことをすべて述べることはできませんでしたが、教育の重要性、小さな研究の重要性について発言はできたと思います。学生が多いということはニーズがあるということで、それは社会のニーズでもある。すでに人材を国内外に送り出しており、それが研究面にもフィードバックされてきた。研究組織であるCEReSの教育機能をオーソライズしていただきたい。また、共同利用研究はリモートセンシングに対する社会の期待の実現である。小さな、それもトランスディシプリナリーな研究をたくさんこなしていることの意義をもっと伝えていかなければならない。社会における千葉大学の価値の創出になると自負しています。言いそびれたことは、カリキュラムの問題。環境研究能力を醸成するためのカリキュラムが千葉大学では十分ではない。社会のニーズに合わせてカリキュラムを構築することも必要ではないかと言いたかったのですが、人事も関係するので難しいことは承知。それから留学生のこと。意欲のある留学生を千葉大学が引き受けて、社会に送り出す。ある学問分野を深める研究者というよりも、専門家として母国あるいは国際的に活躍できる人材の育成はCEReSが機能として持つことができるし、実際そうやっている。話の中では大型研究教育プロジェクトに関する話題が出てきたが、大型プロジェクトの推進にはシャープな思想が必要。それが研究者の自然観、地球観と異なると、それは研究のための研究、予算のための研究になってしまう。常に予算を取ることを宿命付けられていると、いずれ研究者の個性である思想はつぶれてしまう。そこに、大きな疑問を感じます。(2009年6月17日)

役員との意見交換会

明日、行われるのですが、予め用意された課題が「定員削減計画の検討と人材確保・組織に関する将来計画」とあります。結構深刻な課題で、じっくり考えておかなければなりません。/[1.予算全体の配分から考えた人件費確保の施策]:経理上の技術は置いときまして、必要な人材を確保する場合の必要の優先度をどう考えるか。私は学生のニーズを主体に考えたい。それは社会がどんな人材を求めているか、ということにもなるはず。この観点からすると、「与えられた課題に対して持てるだけの知識、経験を総動員して解決を図ることができる人材」。狭い領域に深く入り込むことでないことだけは確か。物品費も検討対象とのことですが、複数部局で使用できる機材のありかたについて中期計画に記載はあるが、施策に乏しい。まずはニーズをきちんと吸い上げること。/[2.重点化領域の創成とそれらに対する特別措置の実施]:自然科学研究科が解体されてから学問の細分化がますます進行し、分野を超えた取り組みがやり難くなってしまった。環境学のような融合科学に取り組める場がほしいと切に思います。/[3.学科統合などを含めた組織改革]:これこそ千葉型環境学の創成です。問題に対して複数の分野、部局が協働して解決を共有することができる組織の創成。どこかが達成した途端に敗者になるような研究ではなく、小さな数多くの問題をこつこつ解いて、理解を深めていく分野。環境学はまさにそういった分野。カリキュラムの縮小とありますが、現状はカリキュラム不足。学生に学んでほしいことがカリキュラムに準備されていない。/[4・ポイント制]:これは勉強不足、情報不足でよくわかりません。(2009年6月16日)

地球温暖化寄附研究部門シンポジウム終了

なかなか良いシンポジウムだったと思います。世に地球温暖化に関するワークショップ、シンポジウムは数多あれど、こんなに幅広い分野を包含するシンポジウムはなかったのではないか。地球温暖化をはじめとする環境問題は本来モード2科学であり、様々な分野が協働して新しい知識生産にあたるわけですから当然です。今までの経験ですと、人によっては、内容に一貫性がない、ばらばら、といった評価もあるかもしれない。それは実は評者の狭い世界観を表明しているに過ぎないということも含めて、強く主張していかなければならないし、世の中だんだんそうなってきているような気がします。(2009年6月15日)

楽農報告

ズッキーニの生長はよいのだが、実が腐ってしまう。思い切って葉を間引き。茎の中は空洞で、水がこぼれ落ちるのに感激。キュウリの収穫が始まる。まだ小さいキュウリがおいしい。ジャガイモも収穫。実はあまり大きくないが、数本収穫すると一週間分くらいは採れる。ジャガイモの跡地にミニ大根を蒔く。冬まで、収穫を絶やさないようにしたい。メロン畑に藁をひく。藁は一束700円で結構高い。ヒマワリ、朝顔をそこここに移植。花が楽しみ。中耕、施肥を行い、本日の作業は終了。(2009年6月14日)

インターンシップ制度の前提

理学研究科に修士課程対象のインターンシップ制度があることを知りませんでした。確認したら確かにシラバスに書いてありました。学務担当から実施可能な企業に関する問い合わせがあったので、一社の情報をお知らせしましたが(これは企業が自ら行っているインターンシップです)、単位認定について相手企業から断られたそうです。個々の大学のためにやっているのではない。これは当然だと思います。インターンシップは相手企業に負担をかけますので、まずは信頼関係の醸成、納得していただくカリキュラムの提示、学生への周知、等の作業を行ってから実施段階に入らないと、相手に対して失礼です。学務の方には申し訳ないですが、組織として取り組みに対する本気度がまだまだ少ない。一方、中期計画には専門性を活かした就職という文言があったような気がします。大学人としてこのことの実質的な意味を問い直したい。社会に対して役に立つ学問をやっているのであれば、社会に対する働きかけがもっとあってよい。論文を書くことのみが崇高な行為であるなんて意識から脱却して、もっと社会と関わりを持たなければならない。社会における技術者の地位を高める努力をするのが大学人ではないかな。(2009年6月13日)

思想という言葉

実はある学生から、“思想”には“どこか危険な個人のふるまい”、を想像させるというコメントを頂きました。私自身もそのような感じ方は理解でき、地球観や自然観、社会観、人生観、いろいろ考えては見ましたが、“思想”でいいかなと思い、使っています。広辞苑をひいても第六版のAの(ア)は適当な意味だと思います(セイコーの電子辞書を使っています)。人がこのように感じてしまう背後には近代社会成り立ちの歴史があるのかも知れません。近代社会には欧米発の思想、“世界はより優れたもの(すなわち神の創った世界で欧米が最も近い)に向かって進歩する”、“(神の創った)普遍的な規範に基づき人を統治する”、という考えがあるように思います。だから個人が思想を持つことは好ましくなかった。また、市場経済が出てくると人は部品であることが支配者や経営者にとって一番都合が良い。テイラー・フォードシステムがこのことを決定付けた。だから、思想は危険なものという考え方が出てきたのではないだろうか。今回の経済危機は社会の規範を転換するチャンスだと思います。一方、思想がなんとなく怪しいという雰囲気を持ってしまうもうひとつの理由は、論理的な思考力、自分で考える姿勢が身についていない、ということはないだろうか。そうだとすると、大学はその最も重要な機能を果たしていないということになる。(2009年6月13日)。

思想の重要性

今週も早週末。梅雨に入りましたが、今日はうす曇。湿気がいやな季節になりました。今週の注目すべき出来事は講義のレビューシートと質問票。総合科目でテストはなじまないので始めたのですが、学生の考え方がわかってとてもおもしろい。WEBで返事を書くことにより、若干は双方向のコミュニケーションに役立っているように思います。有益な機能として自分の考え方の確認になることもある。ここ数年、人の考え方だけでなくサイエンスといえども思想(あるいは自然観、地球観、人生観、社会観、...)に大きな影響を受けていることを強く感じ、あらゆる場面で相互理解のためには相手の思想を理解することだとの思いを強くしています。自分の考え方を一方的に伝えるだけでなく、批判的なコメントも期待しているのですが、今のところ強い異見はないようです。私の考え方は私独自のものではなく、世の中の流れを感じて、かつ自分の感性と共鳴する部分があり、干渉により高められて(深められて)いるように思います。この流れをもっと強くしたいと考えていますが、さてどうしたらよいのか。(2009年6月13日)

水俣病の政治学−熊本県知事 蒲島郁夫氏

朝日新聞のインタビューから。川辺川ダム建設白紙撤回でも有名な蒲島氏のインタビュー記事ですが、いろいろ納得するところがあります。

理想主義と現実主義の絶妙なバランスこそが政治。

なるほど。これは理学と環境学の関係と同じかも。人と自然の関係における問題を扱う環境学では、常に現実が重くのしかかってくる。でもそれも科学だと思う。一方、理想を追うのが理学。問題は百点満点を求めて達成まで時間をかけるのがいいのか。80点かもしれないが、苦しんでいる人々に応えるのがいいのか。60点で折り合いを付けなければならない場合もあるだろう。野外、現場が対象となると、普遍性を得るための理想的な状況を得ることは難しい。環境学と政治は似ている。

水俣病はまだ解決していない。

私も発症までのメカニズムの理解と問題解決はいかに異なるか、という説明のために講義ではよく水俣病を引き合いに出しますが、現場の方の言葉は重みが違う。メカニズムだけで考えると、チッソをやっつければよいということになりかねない。しかし、地元の不安はチッソが存続するかにあるという。チッソは雇用も生み出している。問題は包括的な視点を持たなければ理解さえ難しい。そして、時間が大切。今救わなければならない方々がいる。時間感覚の大切さは地球温暖化問題も同じ。危機の原因を地球温暖化に求め、“Stop!地球温暖化”も間違いではないが、今改善すべきことを先送りする動機になってしまったら本末転倒。

たとえ人数が少なくとも、その人たちが抱える不幸の量が多数の人たちの幸福量よりも重い場合がある

文章の中に、総幸福量という語がでてくる。なるほど。多数決により数の論理で決めていたことも、質に着目して、総幸福量で計れば異なった見方が出てくる。民主主義の欠陥ともいわれる多数決主義の弊害をなくす重要な考え方だと思います。少数者に思いを致しつつ総幸福量の最大化を図る。しかし、どうやって実現するか。やはり、対話が最も重要で、信念と説得により総幸福量を最大化する。大学人としては教育が最も有効な手段なのではないかと思う。(2009年6月10日)

『災害と空間情報』終了

三年間続けた一年生向けの講義のひとつが今日で終了。最終日ですので予想はしていましたが、学生であふれかえり、私語が治まることはなかった。この講義では自分と自分を取り巻くものとの関連性を意識することを重視しました。それが災害を避ける秘策と考えたから。私語は関係性を意識しない世界で行われるものですので、今日は徹底的に注意しました。しかし、学生もたいしたもので、まったく動じない。これもアッパレかも知れませんが、そういう学生は社会に出たからどういう人生を歩むのだろうか。関係性の大切さは自分が苦境に陥ったときに身にしみてわかるはず。それでも、きちんと聴いてくれる学生には私の考えを伝えたくて、何とかやってきました。ただし、一方的に伝えるのではなく議論をしたい。何とか学といった体系が出来上がっている学問は一方的に伝えることができる。しかし、環境や災害に関わる科学は人の思想も判断のより所になる。三年やりましたので、来年は少人数クラスで議論をしてみたい。自分の得るところも大きいはず。(2009年6月9日)

世界最先端の研究って何だろう

朝日朝刊から。国が重点的に270億円もの投資をするそうだ。でも、最先端って何だろうか。それは、大きな経済効果を生む研究とノーベル賞のような国威発揚に繋がる研究です。トップダウンで実施する政策ですので、そんなことは自明。科学の成果の重要性とはあまり関係ない。重要性の判断は評価者の思想によって異なる。一方、役に立つ研究ってなんだろうか。人の安心を生み出す研究とは。いろいろな研究が考えられますが、人と自然の関係性を明らかにする科学があるのではないだろうか。原因から結果を予想するのではなく、結果から多様な原因とその関連性を探求する科学。そんな科学への支援もほしい。たとえば、270億円から47億円を都道府県に配分し、各自治体は一般公開審査で1億円の配分を決めるなんてどうだろう。あるいは、同じ課題で複数の研究を地域ごとに採択するとか。環境問題でもいいし、雇用問題でもいい。別に欧米の普遍性を持ち出さなくとも解ける、いや、普遍性では解けない問題の解を積み重ねる研究ファンドがあれば、日本は良い国になるだろうに。(2009年6月9日)

アジアのコメ生産量、最大9.9%減 温暖化進めば

asahi.comで見つけた8日のニュース。IPCCの第4次評価報告書(07年)の複数のシナリオに沿い、作付面積・時期や品種を変えずに、アジアのコメ生産量がどう変化するか推計したという。変化に対して何も対策をとらないなんて、人はそんなにおろかではないと思う。変化があれば必ず工夫をする。それが人です。いつか述べたように、気候変化に対しては農家や農業技術者はちゃんと工夫をして対策を練っている。米の問題にしても、新しい品種はできているし、栽培方法でも対応策はある。現代農業誌に現実の経験としてきちんと書いてある。むしろ問題はマーケットや流通のあり方にある。為政者、科学者と現場の分断が進んでいるのか、ジャーナリズムが未熟なのか。最悪のシナリオが環境言説化して、政策に影響を与えるようでは、日本の政治も三流だと思う。科学者も情けない。そうはならないことを信じているが。(2009年6月8日)

細る資金あえぐ国立大

これは朝日の記事ですが、『法人化で毎年減「もう限界」』、と続きます。確かに、状況はかなり厳しい。しかし、「消耗したカーペットでマウスパッド」はちょっと、と思う。福岡教育大に聞いてみたいところ。こういう面白おかしい記事は真の問題を隠してしまう。大学人としてどんなに予算がなくとも決して切り捨てられない部分がある。それは教育。資金がないからといってやめるわけにはいかない。現実は、様々な資金を流用して教育を維持しているのだと思う。これが表に出たら、たとえば競争的資金の目的外使用、なんてことになるかも知れない。たとえば、です。会計規則では一物品一目的が原則らしく、お金はあるのに更新できない、修理できない、なんてことがあり、無駄をせざるを得ない場合もありますから。しかし、事情は個々の事例で異なる。個別性を重視しない姿勢が、態勢をどんどん悪くするのではないだろうか。(2009年6月8日)

楽農報告

今日は、ゴミ穴を埋めた一畳ほどの土地に向日葵の種を播く。また、アスパラが出なかった場所に菜っ葉の種を播く。ズッキーニは収穫を始めているが、一本だけ20cmくらいまで成長したものがあった。小さいものをいくつか収穫して晩ご飯のおかずに。キュウリは順調。メロンも順調。ジャガイモはまだ小さいが地上部が枯れ始めたので少しずつ収穫を始める。メイクイーンは淡泊な味。インカのめざめはホクホクしていて美味しい。今日も畑でニンジンをとっては生で食べている。胃腸にいいかも。畑を眺めていると落ち着く。(2009年6月7日)

「厭」と「不幸」は違う

朝日の読書欄、京極夏彦氏の「どんな状態でも幸せはある」から。長く教員生活をしているといろいろな学生に出会う。あの時の出来事はこのことだったんだな、と思う。自分探しをしているという学生。評価のために研究論文を書かなければならない。でも、それは自分のやりたいことではない。「不幸」を押しつけられている。また、ある学生は自分のやりたいことをやっていれば良いという。研究には手続きがある。その方法を伝えることが指導であるのだが、その学生の趣向と異なってしまうのは「不幸」なのか。それが「厭」でも、研究とは何か、を伝える努力を続けていくのが大学の教員。研究の手続きは社会で応用できる。ところで、京極夏彦氏はずっと年下なんだな。「人間って、どんな厭な状態でも幸せになれるはず。幸福も不幸も個人の問題でしかないことは疑う余地もない。何事も努力で面白くなるんですよ」。これを残しておきたい。(2009年6月7日)

折り合い

あっという間に週末がやってきた。今週は紫陽花がきれいになった。今日は雨ですが、入梅も間近。こういう日はじっくり書を読むのに適している。現実は雑用日ですが。今週、思ったことを留めておきます。/めげちゃだめか。いや、めげてもいい。それでこそひと。めげながらも何かを得ていってほしい。めげたとき、見守る人がいることが本当は大切。自分を厳しく律してめげずにがんばるのもいいが、その態度をひとにまで要求してはいけない。自分の信念なんて、多様な考え方の中でどんどん相対化する。それを知ることも大切。/今週は高田渡の“系図”と、渡・漣親子のコラボCDを入手。だんだんはまりつつある。高田渡の人生がだんだんわかってくるにつれ、ますます魅せられてくる。彼は競争とは無縁の人、欲はあったが、欲の方向が普通の人とは違った。そんな生き方は他人のこと。現実社会では競争の中で生き残らなければならない、なんて考え方も勘違いなのではないかという思いを強くする。/多様な考え方といえば、大学人の考え方、企業人の考え方、なかなかコラボできないことを実感。どちらももっともなのだから、うまく折り合いを付ければよいのに。大学人の強すぎる研究志向もCSR(企業の社会的責任)をうまく使って折り合えるように思いますが。重要なことは対話。(2009年6月6日)

競争は利便性を高めたか

宅急便指定の書類があったので、南門近くのサンクスに行ったら郵パック以外は扱っていないとの事。以前は宅急便のクロネコマークがそこかしこに見られたのに。郵政民営化で宅配業界の競争も大変だと思うが、ユーザーがないがしろにされているな、と感じてしまう。そういえば、昨日はフリーランス(ロータスのプレゼンソフト)のファイルを読むためにわざわざ古いソフトをインストールして、昔のファイルを読み込みましたが、ずいぶん時間がかかりました。私は良いものを自分で選んで使う主義ですので、ソフトではこれまでにもずいぶん苦しめられました。WordPerfectがMSとの戦いに敗れ、今は一太郎を使っています。Wordと比較して何とさくさく動くこと。表計算も123がなくなり、今はOpenOfficeを使っています。それでも、事務仕事のためにWord、Excelはきちんと購入して持っています。なんと無駄なこと。MSの圧力によるライセンス調べで多大な時間を浪費していることが何と空しいことか。それでもMS製品を使わなければならない。競争は勝者を富ませますが、敗者やユーザーは蚊帳の外。競争に参加していたつもりが、いつの間にか敗者になって放り出されていた、なんて笑い話なんですが現実ですね。宅急便からずいぶん話が飛びました。クレーマーになっているということは精神的に健全でないということ。心せねば。それにしてもMS-IMEのおばかなこと。1ライセンス1マシンをきちんと守っているので、今これを書いているマシンはMS-IMEで漢字変換しています。(2009年6月5日)

エコ感覚を深める

5月の新車販売台数でプリウスがトップになったそうな。4月はインサイトでしたが、今や新車の8台に1台がハイブリッドだという。ハイブリッド車が売れているということは、家庭部門における二酸化炭素排出量は時間をかけて少しずつ調整されていくということだと思います。省エネ家電に対する関心も高いと思いますので、そうなるでしょう。これでよいと思います。人が自分で維持できる範囲で少しの豊かさを享受することを妨げてはいけない。日本はまだまだ庶民の購買力はある。何とかしなければならないのは弱者、敗者に冷たい世の中になってしまったこと。一方、エコに対する感覚がまだ十分深められていないことは問題だと思う。千葉大の生協ではレジ袋は有料ですが、はし、フォーク、スプーン、ストローは頼みもしないのについてくるし、過剰包装の食品も多い。なんのためのレジ袋削減か。行動には、気分ではなく明確な理由、思想が伴ったほうがカッコいい。今日のJ-Wave(環境に関心が高いFMラジオ局)は風力発電による電力を使っているそうだ。風力はエコだろうか。ちょっと前の現代農業誌の投書に、近くに風力発電施設ができたが、取り付け道路の建設で山が荒れて、渓流の水も少なくなった、とあった。斜面土層の連続性が道路で断たれたら十分考えられることです。電車だって、首都圏のJRは信濃川の生態系と人の暮らしを変えた上で電力(の一部)を得ていることが明らかになったばかり。取水禁止になって火力依存は高まっている。人の暮らしは何かを犠牲にして成り立っている。その何かを知ることからエコを始めたい。また、いろいろな場合があることも重視したい。普遍的な方法でエコを実現、なんて考えてしまうと必ず誰かが悲しむことになる。(2009年6月5日)

挑戦的萌芽不採択報告

この欄では何でもオープンにしてしまっていますが、今日は科研費の不採択理由の通知が届いた話。新しく設定された「挑戦的萌芽研究」に応募しました。課題名は「異分野協働で問題解決を共有する新しいサイエンスの創出−硝酸態窒素問題を例に−」でした。内容は自信があったのですが、惜しくも不採択。惜しくもというのは通知によると不採択課題の中で上位20%に入っているとの結果だったから。挑戦的萌芽は応募件数が13,336件で、採択が1,640件。私が出した環境影響評価・政策では27件の応募で、4件が採択されたとのこと。今から思えば環境動態で応募しておけばよかったとも思う。つい、異分野に挑戦してみたくなったのが災いしたかもしれません。とはいえ、採択されたら大変でした。地下水の硝酸態窒素汚染のメカニズム解明だけでなく、どうすればよいか、住民はどうしたいと思っているか、まで踏み込んで解決を共有する場を作ろうと思っており、これまでやったことのない手法をとる必要がありました。地域のコミュニティーに入っていくことと、アンケート調査の解析です。幸いもうひとつの科研が採択されていますので今年は予算面では余裕はできました。この課題はじっくり取り組んで行きたいと思います。(2009年6月4日)

大学の役割、専門家の役割

京都教育大学で起きた集団準強姦事件に対する大学の対応が問題になっています。私が経験したある類似の出来事について弁護士の考え方を伺ったことがありますが、責任の順番はまず加害者、それは学生であり成人でした。次にクラブの顧問、そして大学となるそうです。対応によっては犯罪にもなり得たことから、この順番は妥当だと考えています。今回の件では、被害者は辛いだろうが、まず警察に通報すればよかったと思う。そこには性犯罪に対する専門家がいるはずで(本来いるべき)、人権に配慮した対応があるはず(あるべき)。それができずに相談された大学は、被害者のこころに配慮したうえで、すぐ警察と協働すればよかった。犯罪ですから。問題があるとすると大学には個別の問題に対応できる専門家がいないこと。大学の教員は研究者でしかありません。大学にも個別の問題を理解し、解決に導くことができる専門家を配置すべき。専門家を大切にしてこなかった日本社会のゆがみがここにもあるのではないか。次に、成人の問題がある。今回の加害者グループには未成年も含まれているようですが、大学生です。大学生は子どもか大人か。これは明治以降、日本社会があいまいなまま放置してきた問題です。私は成人は18歳で良いと思う。成人後は大人として大学生を遇するということで良いのではないか。社会のルールに従って生きるということ。総体としての大学に学生のしつけを押し付けるべきではない。もちろん、我々は生き方を伝えたいと考えている。しかし、それは個人、研究室レベルでしか行うことができない。生き方は多様であり、特定の考え方を押し付けるものではない。学生が自ら選ぶべき。だから、その生き方を常にオープンにしておくことも必要。(2009年6月3日)

講義中のコンピュータートラブル

普遍コア科目「災害と空間情報」で、またやってしまいました。今回は電源ケーブルを入れ忘れ、バッテリー切れ後、再起動したらいつものクラッシュ。復旧してもプロジェクタにつないで解像度が変わると再びクラッシュ。最後はその場でPDFに変換して、Acrobatで実施。10分以上ロスしました。OpenOfficeは好きなのですが、どうも不安定。恐らく回復後はOpenOfficeをいったん終了して、再起動すれば良かったかもしれない。こういう事態を予想して、講義前にPDFを作成しておいたのですが、なぜか入っていない。恐らく別のフォルダにセーブしたに違いない。災害に会うとはこういうことかも。どんなにセーフティーネットを張っても事故が起きる時は起きる。宿命を受け入れるというのもひとつの考え方。でも、こういう事態を経験すれば、スキルが増す。講義では災害をイメージできるようにと話しているのですが、やはり的を得ていると思います。こういうトラブル後は頭が混乱して、伝える情報量が減ってしまう。でも、大学の講義なのでこれでもいいという考え方もできる。考えるきっかけを得て、自分で膨らましていくのが大人ですから。とはいえ、なんとなく指示待ちの雰囲気が伝わってくるのが昨今の学生。最後の詰めは卒論でということになりましょうか。(2009年6月2日)

楽農報告

今日は畑の間を花で飾ろうと思い、朝顔とヒマワリの種をポット蒔きしました。最後のラディッシュの収穫をしましたが、ずいぶん楽しめたので、またミニ大根の種を買ってきました。また、暑くても採れるという菜っ葉の種を購入。ズッキーニは収穫が始まりました。初めて食べましたがこれはなかなかいけます。連作障害はない様なので来年も予定します。夕方愛犬を連れて近所の貸農園の視察。うちは土地の集約化がまだまだ足りないような気がする。少なくてもいいから種類を増やして長期間、できれば通年の収穫を目指したい。(2009年5月31日)

カレセン

あと数時間で5月も終わり、2009年前半最後の月に入ります。この半年あまり進歩はなかったし、自分の歳というものにますます自信がなくなってきた。偶然たどり着いたサイトで「カレセン」という言葉に出会った。枯れたおじさまということなのですが、結構人気らしい。その条件が書いてあったが、「一人の時間をもてあまさない」−趣味はあるが、時にもてあますことも−「路地裏が似合う」−好きだが、似合わないだろう−「ビールは缶より瓶、ペットは犬より猫が好き」−缶が面倒くさくなくて良いし、ペットは絶対犬−「ひとりでふらっと寄れる行きつけの店がある」−こういう店がほしいと思うが今のところなし−「さりげなく物知り」−これは不明−「金や女を深追いしない」−これは大丈夫ですね−「人生を逆算したことがある」−最近よく逆算します−「自分の年齢を受け入れている(若ぶらない)」−受け入れられずに悩んでいます。となると、私は二勝六敗でカレセンにはなれないですね。もちろんもてるカレセンになる必要などないのですが、ただひとつ重要なことは最初の条件、さみしさに強くなることではないかと思います。(2009年5月31日)

太平洋プレート二股

朝日朝刊から。日本列島の下に潜り込む太平洋プレートが近畿周辺の地下で二股に裂けていることが海洋開発研究機構(JAMSTEC)の解析でわかったそうです。サイエンス誌で発表ということですから、形式的な評価としてはきわめて高いものになります。フィリピン海プレートが四国地下で二股に裂けている(と考えざるを得ない)という発表をだいぶ昔に聞いたことがありますし、考え方はあったことは新聞にも書いてありますので、今回も研究の過程ではよくあるように、誰でもそうだろうなと思っていることをきちんと実証したということだと思います。これが研究です。今回の成果は長期間蓄積された地震データの解析によるというが、この結果に至った功績は、個人あるいはグループによる地震波データベースの整備の努力、データ解析能力および計算機環境の整備、データへのアクセス性、等々複数の要因が考えられます。成果へ至る諸段階の努力はどう評価されているか。ポスドク問題と絡んで非常に興味があるところです。(2009年5月31日)

君たちの幸せが世界の幸せを作る

今日は卒業生(博士課程ですから修了生か)の白木洋平君の結婚式でした。彼はよくがんばりました。披露宴でスピーチのトップバッターだったのですが、私は原稿は作りませんので、何を言ったか、思い出しながら(そして、若干推敲しながら)備忘録として留めておきます。(2009年5月30日)

洋平君、奈津子さんご結婚おめでとうございます。私と洋平君の付き合いは博士課程の三年間でしたが、彼は“こつこつ”と良くがんばりました。これは私が好きな態度でもあります。そこで言葉をひとつ贈ります。「望小達大」といいますが、野口英世の書にあります。昨今は望大達小なことも多いのですが、小さな成果を積み上げて大きく達成する姿勢を環境研究者として貫いてください。これから二人の長い人生が始まりますが、如何に生きるべきか。私の好きな短編小説を紹介します。山本周五郎の「風鈴」。人は暖衣飽食をするためでも、金持ちになったり、偉くなったりするために生きるのではない。誰かにとって自分の存在が価値があったという生き方をしたい。とはいえ、現代ですから少しの豊かさを享受して、楽しく、(ゲーテの言葉を借りればいきいきと)、そして誇りを持って生きれば幸せになります。君たちが幸せになれば世界が幸せになります。というのも東洋的思想である仏教(仏教は宗教ではなく、哲学です)では個人を良くすることにより全体を良くするという考え方をとります。これは欧米的な考え方とは逆ですね。すると「グローカル」という言葉は東洋思想に発していると考えられるかも知れません。グローカルは日本の社会学が地球環境問題と対峙するなかで、人の暮らしとのギャップに悩んだ結果出てきた日本発の考え方です。地球環境を良くするためには、まず地域を良くしようということ。世界は一つではない。様々な地域が折り合いをつけながら共存しているのが世界です。世界を良くする普遍的な方法などなく、まず地域が良くなろう、そうすれば世界が良くなる。昨今世界ではいろいろな問題が起きていますが、世界が幸せになるためにはどうすればよいか。ここで述べた考え方を敷衍すると、まず個々の人が幸せになること。そうすれば世界が幸せになる。堂々と幸せになってください。そして、世界の幸せに貢献してください。

氷期−間氷期サイクルの重要性

地下水学会50周年記念行事の講演でもうひとつ気になったこと。氷床コアから復元した氷期−間氷期サイクルの図表が独立に二回出てきました。どちらの講演でもこの図を使って主張されていることは最近の大気中の二酸化濃度がこれまで経験したことがないほどの高レベルであること。これはもちろん重要なことですが、それ以上に重要なことは氷期−間氷期サイクルが過去数十万年にわたって規則正しく繰り返されていることだと思う。過去は未来の鏡だとすると地球は氷期に向かう過程で人為と考えられる温暖化を経験することになった。それとも氷期−間氷期サイクルは今我々の世代で終わったのか。科学は現段階ではそんな結論は出しておらず、ミランコビッチサイクルが再評価されている現在、中緯度の日射量が減少モードにあることから、むしろ氷期に向かう条件は整ったと考えても良いのではないか。ブロッカー仮説により温暖化が氷期への引き金を引くという説も反駁されていない以上、氷期への懸念をもっと主張しても良いと思うのだが、ただ温暖化の状況が異常であると述べるにとどまっている。科学者であるならば、科学の到達点をしっかり認識して、その成果を尊重するのが筋。何度も主張していますが、エネルギー問題、水問題、人口問題が顕在化している現在、人類にとって何よりも恐ろしいのは寒冷化です。(2009年5月29日)

二酸化炭素貯留の効率

地下水学会50周年記念行事に出てきました。スタンフォード大のサリーさんという方が気候変動とエネルギー問題について述べていましたが、気になったことをひとつ。二酸化炭素の排出セクターでは産業部門が多い。そして、ほとんどが工場といった固定排出源からの排出。だから事業所ごとに二酸化炭素貯留を行うと効果が大きい。なるほど。これまで二酸化炭素は面的排出だと思っていましたので、貯留施設は効率が悪いと考えていました。事業所ごとに対策を行うことが意外と効率的かも知れません。これに対して自動車や家庭からの排出は数十年スケールで少しずつ調整されていくのだと思います。ハイブリッドカーや省エネ家電。ただし、灌漑農業におけるセンターピボットのように節水施設がかえって水利用量を増加させたように、エコ感覚を醸成する低炭素対策が個々の需要を増大させては元も子もありません。生き方を説くべきか、普遍的な規範を設定すべきか、人間の賢さが試されている時代のように感じます。(2009年5月29日)

自殺者3万人に思う

朝日朝刊社説から。昨年の自殺者が3万人を超えた。それも11年連続。新型インフルエンザの感染者の100倍近く。自殺に至らなくとも、苦しみを抱えている方々はその何十倍、何百倍もいるはず。その理由は社会のあり方にあり、多くの方々は気がついている。しかし、現代は勝者によって運営される社会ですので、大多数の思いは統治者に伝わらない。現実はこうじゃないかな、と私は思う。では、どうしたらよいか、といわれると難しい。ひとつは視線を変えること。全体から個人を見るのではなく、個人から全体を見る。個人が良くなることが全体が良くなるという考え方は、仏教の教えであった。世界から地域を見ないで、地域から世界を見る。地域が良くなることが世界が良くなること、これはグローカリズムの考え方。地球温暖化から危機を見ないで、危機から原因、要因を見る。すると、今解決しなければならない問題が見えてくる。個々の人、そして地域を大切にする社会が安心社会のあり方のひとつ。(2009年5月28日)

武蔵野タンポポ団雑感

武蔵野タンポポ団のCDがAmazonから届きました。CD2枚以外に2枚組みBOXがあったので注文したら実は同じものでした。対面販売なら間違わなかったろうに、ちょっと損しました。ネット販売は便利ですが、購入は自己責任ということ。自宅近くの新星堂がなくなってからCDの購入が不便になっていますが、街の店は大事にしなきゃあかんなと思っても後の祭り。先日の「永遠の絆」という曲はこのCDでは「あの朝」という題で収録されており、「告別式」は別の曲でした。高田渡読本を読みながら往時の吉祥寺界隈を思いましたが、実は大学4年の時は卒研のために一日おきに吉祥寺経由で三鷹の消防研究所に通っていました。ところが、一度も吉祥寺の街を歩かなかったのはどうしてだろう。団塊の世代の定年が始まり、当時の音楽はまた流行りだすのではないだろうか。(2009年5月26日)

ダメ大学教師の実例ビデオ

Yahooニュースから。学生が不満を漏らすダメ教員をなくそうと、山形大など4大学の教職員や学生がビデオ「あっとおどろく 大学教師NG集!」を制作したそうな。そんなアホなことをやってる場合かいなと思いますが、やっているのも大学教員。まず、ダメ教員がどのくらいいるのか、研究であるならきちんと数字を出してほしい。だいいち、“イケメン学生には「あなたの論文を待っていたの」と猫なで声を出すエコヒイキ教員”、イケメンって男だから女性の教員のこと?そんな教員がたくさんいるの?こういう研究をやる教員を社会心理学の対象として研究してみたい。研究ならば、目的とその重要性を明らかにし、データと手法の正当性を検証し、得られた客観的なデータに基づいて、論理的に正しい考察を行い、結論を導いた上で、その成果に責任を持ってほしいと思います。あるいは報道が誤っているのならば、声を出して頂きたい。報道の内容だけでは学生、教員双方にとって良いことは何もない。(2009年5月25日)

楽農報告

昨日は休日出勤をとりやめたので、キュウリの支柱立てをやっておきました。今日は支柱を補強。キュウリは今のところ順調です。ラディッシュはほぼ終わりましたが、もうすぐズッキーニの収穫が始まります。オクラはどうも成長が良くない。まだ気温が低いのかもしれない。シシトウも成長が悪いのですが、困るのは猫。穴を穿って苗が三本やられました。空いたところに余っていたナスの苗を植える。連作障害がありますが、同じナス科だからいいだろうと思う。秋になったら落ち葉を大量に鋤き込む予定。メロンは花が咲いています。ポットに成長の遅れた苗が残っていましたので、この際移植。茶豆は順調です。アスパラは三本目が出てきました。定着率は3/8でした。田舎に行っていたかみさんがヒマワリの種を持ってきた。今日は雨であまり作業できませんでしたので、来週種まきをすることにします。畑を見ていると心が休まる。(2009年5月24日)

自分が生きた時代

雨の日曜日。昨日、NHKで昭和の番組を見たことで思い立ち、YouTubeで70年代の音楽を検索したところざくざく見つかりました。高田渡はじめ当時フォークといわれた音楽に陶酔していましたが、金もなくレコードもそんなに買えずフォーク雑誌見ながらコードを弾いて歌っていた時期がありました。たまに三ツ矢フォークメイツというラジオ番組で招待券を当てて読売ホールやサンプラザに出かけていましたが、当時なかなか聴けなかった曲がネットで聴ける。すごい時代ですな。著作権が気になりますが。「自転車に乗って」や「生活の柄」が典型ですが、D-A7-Gでたいていの曲が弾けてしまうあのコード進行は楽しかった。確か、告別式というタイトルだったような気がする懐かしい曲はYouTubeで検索したらなぎら健壱の“永遠の絆”。いろいろな人が歌っていたと思うが、私の好きな曲のひとつ。ブルーグラス、カントリーブルースに通じる曲調が好きです。人は生きた時代をずっと背負って生きていく。私の時代は70年代。この際、本格的にのめり込もうと思い、Amazonで武蔵野タンポポ団のCDを注文。高田渡の楽譜集を探しましたが、ない。ムックを一冊見つけて注文。渡さんの曲はコード進行が単純だから楽譜がなくとも結構弾けるのですな。あの頃活躍していた方々も老いた。私も老いましたが、時代を背負って生きていこうと思う。(2009年5月24日)

同じ時代を共有する様々な人生

土曜日は通常仕事に出かけるのですが、今日はNHKアーカイブスの集団就職の番組に見入ってしまい、自宅で過ごすことになりました。高度経済成長期の集団就職は上の世代の出来事のような気がしていましたが、最後の集団就職列車は1975年。私は高校生で、翌年には大学に入ります。集団就職で東京に出てきた方々の最終組と私は同じ世代であり、同じ時代を生きていたわけです。私はワンゲルに所属し、山と写真で充実した高校生活を送っていましたが、同じ時に故郷を離れて、都会で生活を始めた方々がいる。番組では成功や挫折、様々な人生を見ました。人生は確かにいろいろですが、振り返ってみればそれぞれ味わいがある。人生ってのは最後がよければいいもんだと思っていましたら、突然、盧武鉉前韓国大統領の訃報。一国の大統領を務めた方の最期としてはあまりに痛ましい。かつての指導教員を殺めてしまった元学生の状況もだんだんわかってきました。動機は明らかになっていませんが、“自分がどんな仕事に向いているのかわからない”、という報道からは大学教員であれば何となく想像はつく。それにしても人生を台無しにしてしまうとは。人生って何だ、人はいかに生きるべきか、なんてことは若い時期だけに考えることではなく、歳をとってからも転機が訪れたときにふと思い出すもの。どうも様々な考え方が転機を迎えている時代が今なのではないか。(2009年5月23日)

自然の摂理と人の生き方

朝日朝刊に、アメリカで除草剤耐性を持つ雑草が広がっているという記事がありました。モンサント社はラウンドアップという除草剤と、それに耐性を持つ作物の組み合わせで世界の種市場を席捲しているわけですが、ラウンドアップが効かなくなったとすると次の手はどう打つのだろうか。新しい除草剤と新しい遺伝子組み換え(GM)作物の開発が永遠に続くのだろうか。開発にはコストがかかる。そして、自然にGM作物が混入してしまった畑の持ち主を訴え続けていくのだろうか。生命からの反抗、あるいはエンジニアリングによる農業の終焉が始まっているような気がする。一方、新型インフルエンザでは若年層の感染が多いことも気になる。医学の進歩あるいは衛生に関する意識の向上は若年層の免疫機能を損なっているのだろうか。自然を徹底的にコントロールしようとするとコストの増加は避けられない。自然の摂理に従った生き方は現代社会では受け入れることはできないのかもしれないが、コストを永遠に負担し続けることも難しい。いつかカタストロフィックな出来事が起きてしまうような気がします。工業的農業の終焉ならまだいいかもしれませんが、パンデミックは悲しみを生むのがつらい。(2009年5月22日)

勉強の目的と関係性の喪失

今日は幕張メッセで開催されている日本地球惑星科学連合大会に朝から出かけ、昼過ぎに大学に戻り、講義が終わってからまた会場に戻るという忙しい一日でした。一年生向けの講義でしたが、終了後に、ある学生が評価方法について尋ねてきました。受講者が多くて立ち席も出ているので、評価方法を変えるかもしれないと先週確かに言ったのですが、なんとなく引っかかるところがあり曖昧にしていました。それは評価方法によって勉強の仕方が変わるのか、ということです。学生に実際に聞いたら、そうだということでした。これは高校で大学入試のために勉強するという姿勢が身についており、勉強の本来の目的が忘れられているということではないか。大学の講義(大学に限ったことではないのですが)は単位をとることが主目的でなく、人生において必要かつ重要な知識を得ることであるはず。このことを指摘したら納得してくれたようで安心しました。講義の目的を勘違いしていると、受講態度に緩みが生じます。自分と講義の関係性を意識できないばかりでなく、自分と周辺の関係性もわからなくなり、その症状のひとつとして私語があるのだと思う。今日は最前列で私語をする学生がいましたが、注意すると“はい”といって、そのまま私語が続く。これはまさに自分と周囲との関係性がわからなくなった状態であり、この講義の目的である“災害を知る”ということと正反対の態度です。どんな場所でも自分と災害の関係性が想像できることが事前に行うことができる有効な対策のひとつです。災害をイメージできるということが、社会の中で関係性を意識しながら暮らす、という安心社会に繋がる態度を醸成するのだと思う。(2009年5月19日)

そのまんまでいいんだよ

「エチカの鏡」という番組で近所のお寺が紹介されていましたが、私も初めて知りました。寺といっても普通の一戸建てで、もと「引きこもり」という住職が運営しています。歎異抄の言葉に感銘を受け、一念奮起して住職の資格をとり、浄土真宗の寺を開いたということ。こんな人生転換のきっかけとなった言葉が「そのまんま...」でした。この言葉は真宗系ではキーワードですが、日本的な生き方の本質を突いている言葉ではないか。これに対する考え方はヨーロッパ系の「人はより優れたもの、すなわち神に近づくために進歩を続けなければならない」というもの。これによって現在の世界、そして日本も動かされてきた。このヨーロッパ的な考え方が現代社会を形成し、ある面で人の幸せをもたらしたのは確か。しかし、この考え方が疲弊してきたことも昨今の様々な危機を通じて明らかになりつつある。この流れが古来の日本の考え方への回帰を進めることになるだろうか。たまたま読んでいた橋本凝胤の本に書いてありましたが、日本というか仏教は個人を良くすることにより全体を良くするという考え方であるという。これに対してヨーロッパ系は普遍的な規範により全体を統治する、という考え方になろう。多くの日本人は後者の考え方を当然として受け入れているかもしれないが、違う考え方、というか我々日本人がもともと持っていた考え方があることにまず気がついてほしい。昨今仏像ブームですが、ブームを通して仏教が宗教ではなく生き方を考える学問であることに気がつく方々が増えてくると、世の中はまた新たな方向性を見つけることができるかもしれない。(2009年5月17日)

楽農報告

今日はシシトウと落花生を移植。これで畑をほぼ使い切りました。種から育てたズッキーニはずんずん育っています。来週には最初の収穫ができるでしょう。メロンも今のところ順調。キュウリの支柱立ては来週に延期。ラディッシュは採れすぎて、今日も数十個口にしました。とはいえ、うまい。日曜ですが大学や研究の仕事をしていないとなんとなく不安になる。まだまだ心がふっきれていないなと感じながら土と戯れています。(2009年5月17日)

大学院教育とキャリア形成

今日は地球惑星科学連合の初日で、終日表記のセッションで話を聞いていました。特に深刻な問題がPD(ポスドク)問題です。博士課程の学生を抱える私にとっても切実な問題で、世の中どのような認識段階にあるのか非常に興味がありました。私の考え方はここでも何度か書いていますが、特定のディシプリンを深めるだけでなく、重要な解くべき課題に持てる力を総動員して取り組むことができる態度をもって事に望めば道は開けるだろう、ということです。だいたい皆さん同じような考えであることは確認できましたが、もっと突っ込んでもらいたかった点も見受けられました。まずは指導教員の意識の問題。研究・論文至上主義は学生を幸せにするか。それから大学院教育のあり方の問題、等々。それらはいずれ議論されることになると思いますが、背後に隠れた問題も予感させました。それは以前述べた教育言説に関わる観点。“PDは皆さん優秀で、研究を推進させるにはなくてはならない存在”という言説はなかなか否定しにくく、だからPD問題を解決しなければならない、きちんとポストを準備しなければならないという主張に結びつきます。しかし、PDがいないと成り立たない研究はその推進体制における構造的な問題を感じさせる。PDの苦労は肯定的に受け取ろうという雰囲気を感じますが、大規模プロジェクト研究は若手研究者の研究企画、遂行能力、そして様々なセクターへの適応能力を醸成することになるだろうか。大学は皆さん最も望んでいるポストではないかと思いますが、教育組織でもある大学で求められている能力と乖離してしまうことはないか。こういうことを主張するとすぐに叩かれそうですが、それは全体解で問題を解決しようとする態度。この問題は個別解を追求する必要もあり、そうしなければ個人の幸せには結びつかないのではないだろうか。まだまだ議論は足りませんが、今後も引き続き取り組んで行きたいと思います。(2009年5月16日)

環境研究のジレンマと共同利用研究拠点の機能

職場で発行しているニュースレターにエッセイを入れたらどうかという提案がありました。こういうのは好きなので早速書き下ろしましたが、残念ながら採択はなりませんでした。もったいないのでここに掲載しておきます。大学というところは教員の数だけ思想やディシプリンがあるといってよい。普段はなかなか融合しないのですが、強い組織というのは異なる考え方を尊重し、多数の考え方を理解しておく。そして、外圧がきたときに対抗できる考え方を直ちに打ち出すことができる組織だと思います。異なる考え方の尊重がないと対立だけが残り、組織の衰退に向かいます。まずは自分の考え方を外から見えるようにしておくことが大切なことでしょう。(2009年5月15日)

CEReSの重要なミッションのひとつは環境研究である。“環境”はマジックワードでもあるが、その本質は“人間あるいは生物をとりまき、それと相互作用を及ぼし合うものとして外界”である(広辞苑第六版)。決して自然という意味ではないのである。人を中心に据えると“人と自然の関係”と言い直すこともできるが、この関係において生じてきた問題が環境問題である。“地球温暖化問題”もそのひとつであり、それによって引き起こされる“人間社会の危機”というベクトルの方向は非常に理解しやすい。しかし、危機から遡ってその要因を探ると、実は様々な要因が複合して危機が生じていることがわかる。地球温暖化の重要性もどんどん相対化される。真の問題解決はどうあるべきか。社会学の表現を借りると、それぞれの分野が個々のディシプリンで動く“問題を共有する”態度ではなく、“問題の解決を共有”する態度が重要となる。それは複数の要因を峻別し、それぞれのセクターが協働して解決を目指す取り組みとなる。これはモード論(ギボンズ、1994)の表現を借りると“モード2”になり、“異分野協働による新しい知識生産”になる。ところが、問題解決を共有する中で個々の分野や技術の役割はどんどん相対化される。モード2では論文を書くよりも議論の過程が重要となり、研究者にとっては困った状況になる。一方、日本はイノベーションにより問題解決を目指している国である。だから、経済成長が必須であった。衛星リモートセンシングも「...国民が具体的に享受できる成果が何であり、政策決定者が政策を提示できる課題解決につながる解析研究を誰がどのように行うかを明示...。そのためにはさまざまな関係機関、研究者が連携して、統一的かつ統合された進め方をする必要があり、...」、「...このようなモデルで、このデータを取得することにより、この現象が理解できて、それに対し、このような政策をとることにより問題解決ができるというプロセス...」(堀川、2007)という考え方はまさにモード1的な日本の科学技術政策を語るものである。しかし、昨今の金融恐慌を経て、問題解決に対する新しい見方も大きく育ちつつある。それはまさにモード2であり、様々なセクターと連携して問題解決を共有することができる全国共同利用・研究の機能がますます重要となってきたといえる。時間および空間情報であるリモートセンシングはアジア各地で生じている問題理解への強力なツールであり、衛星画像を通じた協働をCEReSでは継続して行ってきた。ただし、普遍性による問題解決を目指すモード1を基調とする情勢の中ではCEReSのミッションがなかなか理解されないというジレンマを抱える。しかし、CEReS設立15年を迎えようとしている昨今、研究の深化とともに、卒業生によるアジアの研究拠点ネットワークも目に見える形になってきた。サイレントマジョリティー、草の根の力を結集するモード2によりアジアの環境問題を理解し、解決の糸口を探るゲートウエイとして機能を持つようになってきたと言える。[近藤昭彦]

博士論文、2年連続受け取り拒否され...

突然、ショッキングなニュースが飛び込んできました(Yahoo Newsから)。博士課程の研究は楽なものではないし、研究として絶対乗り越えなければならないある一線がある。学生個人のスタンダードと学術研究分野のスタンダードが乖離していると、学生には不条理感が生じる可能性もある。このスタンダードの乖離を無くするのが研究指導の目的だと思う。これがニュートン・デカルト型の研究だと、自分の位置を見極めることは比較的容易なのではないかと思う。しかし、そうでない科学、モード2科学、関係性探求型科学、といった分野では自分の成果の位置づけが難しいかもしれない。環境学はそういった分野のひとつ。どうすればよいか。私が学位をとった筑波大学では学位審査の中間発表、公開発表は研究科オールスタッフで行っていた。多くの方に研究内容を聞いていただく、こういう仕組みを組織として持つと良い。指導教員以外の第三者からの意見を伺うことが学生にとって自分の位置を確認する良い機会になるはず。千葉大では予備審査、本審査とも数名の教員で実施し、公開発表は個別に実施するため聴講者も多いとはいえない。学会における発表も機能するはずだが、日本ではレベルの低い発表は単に無視されるだけのことが多い。学生、指導教員双方の幸せのために研究室以外の多くの学生、教員の意見を聞く場を組織として持つべきだと思う。ほんの一日時間を作ればよいのだから。複数指導体制と口で言うだけではだめ。(2009年5月13日)

個人の世界観と評価

今日の教員会議で学長補佐によるCEReSの評が紹介されました。研究センターとしてのミッションがよく見えない、と。決してCEReSのミッションは不明瞭ではないと思うのだが、なぜ伝わらないのか。それは評者の世界観によるのだと思う。エンジニア(その方は工学系でした)の世界ではきわめて明瞭なミッションのもとに一丸となって取り組むことは可能だと思う。しかし、CEReSのミッションにおける対象は環境です。人と自然の関係として極めて多様な課題に対応し、多数のセクターと協働しなければならない。工学や理学とは科学のモードが異なる。ここを理解せずして納得のいく評価はできまい。また、多人数が一丸となってひとつの課題に取り組むというやり方は、研究者を研究プロジェクトの中の部品にかえてしまい、大学の研究者の独創性を削ぐことになると思う。こんなところにもポスドク問題の根があるのではないか。さらに、CEReSは教育機関ではない、との指摘もありましたが、大学ですので教育を切り離すことはできないという見方もできるはず。15年にわたる実績でアジア各地に卒業生による研究拠点ができている。これはもう無視できないのではないか。一番重要なことは現実を見て、折り合いをつけるということ。現実を見ない評価者は人がスーパーマンであることを強要し、それが組織の弱体化に結びついていく。(2009年5月13日)

普遍的な規範と心

昨日のテレビタックルが気になります。永住権を持つ外国人に地方選挙への参政権を認めるか、という議論でしたが、その中でカルデロン一家について言及があった。偽造パスポートで入国し、法を犯した以上、強制送還は当然である、とある政治家。しかし、私は10年間何事もなく倹しく暮らしてきたのだったら情状酌量の余地はあるのではないかと思う。“よい”不法滞在というのもあってよいのではないか。ただし、個別の事情を十分勘案すること。これは大変です。普遍的な規範で国民を統治する、というと格好は良いですが支配者にとっては楽です。その政治家は参政権が欲しければ日本国籍をとればよいと主張していましたが、故郷は個人のアイデンティティーであり、暮らしの中で少し希望を聞いてもらいたいだけのためにそれを失うことには多くの方々は躊躇するでしょう。普遍的な規範をよりどころとする社会では心はいつも切り捨てられる。(2009年5月12日)

私の専門は何でしょうか

今日は一年生向けのコア科目「災害と空間情報」が四限にありましたが、講義終了後、“ホームページを見ても私の専門がわからん、いったい何ですか”、という学生が話に来ました。ホームページを見て頂いたことはありがたいと思います。私は専門を聞かれたら一応「地理学・水文学」ということにしていますが、中身は何でもありです。環境変動、人と自然の関係、といえば少しは近いかもしれませんが、何か特別な専門分野があると納得するのは、初等中等教育からニュートン・デカルト的考え方に生徒を染め上げる教育の効果かもしれません。世界を総合的、包括的に眺め、おもしろいこと、重要なことがあれば躊躇せず関わりを持っていくというのは若い頃に感化された地理学の効用かもしれません。以前も書いた記憶がありますが、地理学では神社仏閣から地球環境まで扱う。その幅広い対象の入り乱れる空間の中で関連性を探しだすことによって世界の理解を深めていく。こんな分野というのは理解されにくいのかもしれませんが、近いうちにパラダイム転換がやってくるのではないかと心待ちにしています。(2009年5月12日)

何を勉強すればよいか

早めに卒業研究を始めたいという意欲のある学生の訪問がありました。学科のルールがあるので、あくまでも学生の主体的な行動ということで基本的にはWELCOMEです。ただし、何を勉強するかということでは、何でもということになってしまう。社会に出たときに求められるのは、問題を発見する力そして課題をあらゆる知識を総動員して解く力。たとえば、道路建設の切土によって保存したい植生がどのような影響を受けるか。生態、地盤、水循環、土木、...様々な分野の知識が必要。そして観測には経験により培ったスキルがモノをいう。実は一昨日ある尊敬すべき技術者とこんな話をしたところでした。大学で特定のディシプリンを修めても社会で必要とするのは包括的な知識と経験。仕事を実行するペースも社会に出てから否応なく学ぶことになる。学生は早めに方向を決めて具体的な研究課題に取り組むようにしたほうが良いと思う。現在のシステム(私の所属する組織に限りますが)は三年生までに幅広く知識を吸収するということになっているが、機能しているだろうか。環境という分野は早めに解くべき課題を見つければ、それを解くために結果として広い視野と幅広い知識を得ることができるのではないかと思う。(2009年5月11日)

楽農報告

今日はポットで栽培していたメロンとオクラとナスを移植。先週植えたキュウリ用の支柱を購入(コストがかかる)。ズッキーニは順調だが、ひとつだけ枯れそう。アスパラガスは結局八株植えて二株が定着している。落花生は来週移植の予定。シシトウの苗はなかなか大きくならない。そろそろ土地がなくなってきたが、毎日畑を眺めるのが楽しくなってきました。(2009年5月10日)

会社の求める人材

学会の仕事で東京に出てきました。最近、会社の方に会うとつい“どんな人材を求めているか”、という質問を投げてしまうのですが、今日は環境コンサル系の方。受注する仕事はシミュレーションが多いので、モデルを動かせる人材がいいとのことでした。ただし、現場がわからないとモデルに与えるパラメーターの決定で右往左往することになる。現場ができて、モデルも動かせる人材が望ましいということになります。行政や建設の現場では複雑な現象を扱っているとしても意思決定と説明のために数字を使わざるを得ない。信頼できる結果を出すためには現場とモデルと両方を理解する必要がある。さて、大学はこのような人材育成を行っているか、自省も込めて見直さなければならない。衛星データの解析では現場に行けないことも多い。私は学生の研究論文では序論を重視するようにしています。研究の目的・重要性とデータ・手法が乖離せず、新しい結果をだして、それが目的と結びついているかどうか。現場で起きている現象・問題と研究結果が論理的に繋がれば、現場感覚を多少なりとも醸成することが可能かもしれない。こんなことを考えていますが、話の中で見えてしまうことは発注者側から見た技術者側の地位の低さ。技術者はもっと権威を持ってよい。大学教授はそれだけで権威があると勘違いされることが多いのですが、蓄積された現場体験は技術者の宝であり、もっと尊敬されるべきだと思う。(2009年5月9日)

ゴールデンウィークと地球温暖化

5日ぶりに出勤しました。この休みは自宅で過ごした人も多いと聞いていますが、高速道路一律千円の政策でドライブに出かけた方も多かったと思います。連日渋滞のニュースを聞きましたが、一方でCO2の排出は問題なのではないかとの声もありました。まあ、何も問題はないでしょう。こんなことで地球温暖化を論じるのは環境言説に囚われているといっても良いと思います。ひとが自分の稼ぎで少しの豊かさを享受するのを妨げてはいけない。小型車やハイブリッド車の普及も進んでいる。少しずつ低炭素社会に移行しつつあるともいえる。地球温暖化が問題だと感じたら、まず問題の現場から考えよう。現場で何が起こっているか注視し、我々の暮らしを脅かす問題の要因を包括的な視点から探索してみよう。その際、自分の暮らしと自分を取り巻くものの関連性を意識しよう。要因がたくさんあることがわかってきたら、どれを解決に向けた優先課題にしたら良いか、考えよう。同時に地球の歴史、それも最近百万年程度の歴史を勉強するのも良い。どういう社会を作りたいか、どんな生き方をしたいか。自分の考え方がはっきりしないと解決の手順は見つからない。自分の気分を人に押し付けるだけではだめ。思考の中で地球温暖化による危機は相対化されていく。(2009年5月7日)

大人と子どもの間

これまでに大学が“大人ルール”と“子どもルール”を都合によって使い分けることを批判してきましたが、それは大学というよりも歴史の中で形成されてきた日本人の感覚なのかもしれない。「教育言説をどう読むか」から。明治中期に未成年者喫煙防止法が帝国議会において議論されたときの対象と考えられていたのは“学生”であった。それまで煙草は一人前の証として容認されていたが、近代学校制度が確立、普及するようになると学生であることが一人前に非ずという意識が確立してくる。だから、半人前が煙草を吸うのはよろしくない。しかし、大学進学が一般的になり、法の上では二十歳が成人とされると、非一人前であるはずの学生との間で齟齬が生じることになる。これが大学生を大人でもない子どもでもない曖昧な存在にしてしまった遠因かもしれない。大学の役割を再確認して、学生は大人として扱うという原則でよいのではないか。当たり前ですが、結構難しい。教育言説に囚われ、他者の目が気になると、ひとは“子どもルール”に傾き勝ち。(2009年5月6日)

カリキュラム編成に対する関心

午後になり、雨が降り出して読書には最適な状況になっています。すると、また気になる文章を見つけました。「個性化」と「児童生徒理解」に関する言説の部分を読んでいますが、それはそれで望ましいことには違いない。もう一方で、教育には、“理想とする社会のビジョンを掲げ、その実現のために必要なことを教えていくという側面がある”はずですが、現在この観点は希薄になっており、それを端的に表すのがカリキュラム編成に対する関心の低さだという。大学でも同様な点は指摘可能であり、さらにカリキュラムが教員のディシプリンの枠内に留まってしまうという点も問題だと感じています。大学の教員は研究者ですので致し方ない側面もあるのですが、“科学とは真理の探究”という言説もこの傾向に拍車をかける要因になっているとも思う。どういう学生を育てたいか、という観点が自分のディシプリンの枠内で研究者としてやっていく能力のみで語られるとしたらやはり問題(博士課程は別かもしれませんが)。科学が真理の探究だとしたら、それを可能とした豊かな時代背景がある。科学はもともと技術を支えるものとして同時発生し、当初から科学技術として成立したのではないかと考えています。豊かな時代の終焉を迎え、成熟社会への道筋を探らなければいけない現在、科学は問題解決に対する役割を強化しなければならないと私は思います。学生には解くべき課題に、あらゆる知識を総動員して取り組み、解決の糸口を発見する力を身につけてほしい。これを大学で学んでほしいと思うが、残念ながらそれを可能にするカリキュラムの編成には至っていない。特に千葉大学の自然科学系大学院は三年前から旧来の学部をベースとする組織に戻ってしまい、総合的、包括的な科学の納まる場所が見つけにくくなってしまった。なお、地球惑星科学連合の教育問題に関する委員会では実に真摯にカリキュラム等のことを考えておりますので、これは付け加えておきたいと思います。(2009年5月5日)

児童生徒理解とは

「教育言説をどう読むか」(今津・樋田編、新曜社)を読んでいますが、表記の章が気にかかりました。昨今、学校では問題が起こると“いかに児童生徒を理解していたか”が問われがちですが、それは難しいことでもあり、まじめな教員を苦しめることにもなる。このことは大学でも同じ(本来、児童生徒と学生では対応は異なるはずですが、教育言説の呪縛下では大学は学生を子供ルールで扱おうとする)。しかし、「児童生徒理解」が児童生徒の何を(理解の対象)、どう理解するか(理解の方法)、その目標は何か(理解の目標)、という観点は時代とともに大きく変化してきたという。すなわち、“児童生徒(学生)の心の理解”という言説には普遍性などないのです。大学では教員は評価者でもある。もちろん、初等中等教育でもそうですが、大学は成人同士の関係という点が異なる。だから大学における“学生を理解すること”、は学位を取得するための手続きが粛々と学生によって進められているか、を見極めることがまず優先されなければならないと思う。その前提は研究を実施するためのリソース、議論の機会が現実的なレベルで十分提供されていることであり、その上で学生を指し導くことが教員の役割です。しかし、研究指導のあり方に関して最初から“答えを求める”学生の間の齟齬が生じることもある。大学における指導とは、特に大学院では答えを与えることではけっしてなく、達成の過程を学んでもらうことであり、そこには苦しみだってある。ほとんどの学生は乗り越えて行きますが、乗り越えられないことが不満に繋がった場合にどう対応したらよいのか。教員としての信念と学生との信頼関係しかないのですが、答え(すなわち研究の成果であり、学生個人のオリジナリティーの部分)を与えないことが親からの誹謗中傷に繋がったこともあった。それを容認する組織のあり方にも大きな問題点を感じますが、キーワードはやはり“対話”なのではないかと思う。学級ほど人数の多くない大学の研究室では本来“共感的な心の理解”が可能であり、それを導くのが対話だと思う。親と教員との関係についてもまず対話が可能なはずですが、その時対話が拒まれたのは対話により真実が理解されることが怖かったに違いないと思う。これも弱さであり、弱さは責めてはいけないとも思う。教員という仕事は山あり谷ありですが、学生が壁を乗り越えた時は本当にうれしい。(2009年5月5日)

見えない可能性に対する恐怖

新型インフルエンザは世界中で感染者や死亡者が報告されていますが、この数字をどう読んだらよいのだろうか。交通事故による死傷者数、結核による死者数、そして自殺者数、等々の数と比較すると取るに足らない数字ともいえる。パンデミックに至るかもしれないという可能性が人々を神経質にさせているのかもしれない。これは地球温暖化とも似ている。とんでもないことが起きるかもしれないという漠然とした恐怖が人々を不安にさせる。しかし、地球温暖化の影響とされるものを、現場に視点をおいてしっかり調べてみよう。ほとんどの危機は地球温暖化だけでなく様々な要因が重なり合って生じている。地球温暖化の恐怖もどんどん相対化されるに違いない。新型インフルエンザも暮らしにおける四苦八苦の中に位置づけてから眺めれば、その恐怖も相対化されるのではないか。知識、経験を学ぶことが不安の解消につながり、ここに勉強する意義がある。そもそも、こんなに人が世界を移動しなければならない世の中を何とかしたいものです。人が動かなくても情報は世界の隅々まで一瞬で伝わる時代なのですから。(2009年5月4日)

評価の形骸化

一昨日の話題の材料とした「じゅあ」ですが、同じ記事で鈴木さんは大学の自己点検・評価の形骸化を2点目の問題としてあげています。この問題は確かにありますが、評価が形骸化するのは評価される側だけの問題ではない。評価をする側の問題でもあると思う。実施している評価の方法で、実質的な評価はできるか、現場の立場から検討して欲しい。大学人は評価されることに決してやぶさかではないと思う。評価のために求められた作業で実質的な評価ができるかどうか疑問があるから評価作業が形骸化するのです。大学、特に総合大学は個人商店の集合であり、これは決して悪いことではない。大学を評価しようとしたら星の数ほどある個人商店の評価をしなければならない。一律の基準による総体的な評価では大学の力は量れないし、真の問題を抽出することはできない。これは私の地理屋、環境屋としての世界観、学問観に由来するもの。世界はひとつではない。個性を持つ多数の地域の集合が世界。同じく、研究室の集合が大学。この集合を俯瞰して全体を見通すことができる者のみが大学評価を行うことができるのではないだろうか。(2009年4月30日)

楽農の記録

今日はキュウリを移植。苗が多いので、2列で各列10本植えました。ちょっと密かもしれない。ジャガイモの芽かきをし、土寄せ。ズッキーニは順調に生育中。追肥実施。二十日大根は現ロットは収穫終了。次のロットも順調に生育中。なす、ししとうの苗がなかなか大きくならない。メロンの苗が先日の風で傷んで、ちょっと心配。落花生が意外と発芽率が低い。おくらの苗は順調だが、数が多いのですでに予約殺到(というほどでもないが)。日陰になるので、栗の木を剪定。昨冬枯れてしまった金木犀のカット。明日は右腕は筋肉痛だと思う。(2009年4月29日)

博士課程のカリキュラム

大学基準協会が発行する「じゅあ」というニュースレターが届きました。その中で大学評価委員会委員長の鈴木さんが書いた記事で気になる記述を見つけました。平成20年度の評価を実施して鈴木さんが気付いた問題点として“大学院教育が必ずしも実質化されていない”ことを挙げています。これは私自身も感じていることではありますが、それは教員がサボっているということではなく、旧来の学問体系の中で新しい分野が生みの苦しみを味わっているといった方が良いと思います。鈴木さんは、「博士課程のカリキュラムが体系的に編成されることはなく、教授と学生のマン・ツー・マンによる不定期かつ散発的に実施される研究指導・論文指導が中心」であることが問題と述べています。何が問題なのだろうか、どこに問題があるのだろうか。まず気がつかなければならないことは博士課程は学部教育とは目的が異なること。知識を得ることに加えて、知識を生産する能力を修得することが博士課程の重要な目的。専門分野に深く入り込んだ個々の博士課程の学生にとって有効なカリキュラムは大勢を対象とした一律のカリキュラムではなく、個人メニューとしてのカリキュラム。だから、マン・ツー・マン指導は最も効率の良い指導法です。もちろん、かつてのような放任主義は学生自体が昔とは変わっていますので、現在ではあまり好ましいとはいえない場合もある。博士課程の三年で学位を取れるような工程表をきちんと明示する必要があるが、それは教員から提案はするが、与えるものであってはならない。与えられた予定をこなすだけでは博士課程の目的を十分達成することはできない。こんなことを感じるのは私が環境を扱っているから。環境学には体系はない。環境、すなわち人と人間の関係に関わる問題はあらゆる要因が積分されて発現している。結果から多数の要因を探り出す逆問題。この分野に体系的なカリキュラムを持ち込むことはできない。大学評価委員長の発言として“博士課程のカリキュラム”が一人歩きしないことを切に望みます。もし、今後の課題とするならば、大学院組織の再編成まで視野にいれた議論でなければならない。たとえば、既存の研究科だけでなくヴァーチャル研究科を設立する。兼務教員(もちろん専任がいてもよい)は誰でも受講可能な科目をひとつ用意し、博士課程の学生は自由に講義を選択するといった案はどうだろうか。自然科学系で環境を専攻する学生はその専門分野を深めるとともに、経済学、社会学、建築、デザイン、等々の講義も受講できる。こんな研究科を作れば、その大学の問題解決能力は格段に向上するだろう。(2009年4月28日)

教育指導のあり方をめぐって

教員の行為が体罰かどうかをめぐって争われていた裁判で、最高裁が「体罰にはあたらない」として原告が逆転敗訴したという。問題の重要性が社会に認知されてきちんとした議論が行われるようになるまでには長い年月がかかる。今回、「目的、態様、継続時間等から判断する」と一定の基準が示されたことは、個別性を重視するという方向性の表れと考えてよいだろうか。それにしても、最高裁判決までの7年は短くはない。原告、被告双方にとって苦しい7年であったに違いない。普遍性(実際には単なるステレオタイプ)で判断を下そうとすると誰も幸せにならない。個別性に向き合い、対話をすることが一番大切なのだが。ちょうど、今津・樋田編「教育言説をどう読むか」(新曜社)を読み始めたところでした。ある出来事をきっかけに教育問題に関心を持つようになったが、大学というところは教育機関でありながら、教員は教育の専門家ではなく、初等中等教育以上に教育言説に振り回されやすい組織といえます。教育に対して自身のスタンスを明確にする必要性を強く感じています。(2009年4月28日)

タバコの成人認証システム一考

Yahooニュースでタスポに関する記事を見て、また思い出したので書き留めておきます。それは顔による成人認証システムを持つタバコの自動販売機で10歳の児童が購入できてしまったという件。開発した技術者は顔で年齢を判断するシステムの精度が100%なんてあり得ないことは知っていたはず。でも、発注者側の技術に対する過信、受注したい企業側の事情によって製品になってしまったのではないか。そして、未成人が認証されたことに対する世の中の反応。これはまさに“文明社会の野蛮人(オルテガ、小林信一)”の現れではないか。文明は衰退に向かっているのかもしれない。(2009年4月26日)

内需志向、発展望めぬ−発展て何?

朝日朝刊から。日本製鉄連盟会長の宗岡さんの発言。「人口が減少していく国で内需に頼るだけでは発展は望みがたい」と。発展するしか我々の進む道はないのか。ところで、“発展”とは何だろうか。“発展”というと格好良いが、具体的な像は示されていない。ここを明確にしないと、何を目指しているのかわからない。実は財界人、あるいは鉄鋼人の視点でしかないのではないか。真に目指すのは個々人の幸せ。これ以外にあるだろうか。どんな発展が必要なのか。包括的な視点からの議論があって良い。私は内需こそ、幸せの原点だと思う。(2009年4月26日)

人間は人間を評価できない

今週は草g君の件でいろいろ考えさせられます。鳩山総務相も言いすぎた感がありますが、その後、言ってくれました。その通りだと思いますよ。忘れないでください。我々は常日頃から評価の嵐に翻弄されている立場ですが、評価されて幸せになったことはあまりない。普遍的な評価の規範などないから。結局、決められたことをやったかどうかで評価されるのですが、決められることの重要性の議論が十分深められずに決められているところに最初の問題がある。大学の中期計画などその典型。次に、決められてしまったことをやることを義務づけられることで、仕事の中で人がロボットになってしまうことが問題。こうやって組織の活力はだんだん削がれていくのではないか。ところで、草g君の件で、騒いだのは結局誰だったか。(草gと漢字で書きました)(2009年4月26日)

サイレントマジョリティーの見方と人間力

草なぎ君のことについては、ほとんどの方は暖かいまなざしで見守っている、という感じではないでしょうか。痛烈に批判した某大臣もおりましたが、皆さん建前は一応批判(そうしておかないとノイジーマイノリティーに叩かれてしまう)、本音はしょうがねーな、これからがんばれや、といったところでしょう。こんなことやらかしてしまったのが嫌われ者でしたら、徹底的に叩かれ、抹殺されることになりそうですが、今回そうではないのは草なぎ君の人間力かなという気もします。私は普遍的な規範に基づき統治する、という考え方は大嫌いで、いろいろな出来事は個別の事情を理解して柔軟に対応する態度でありたいと思っています。とはいえ、これが機能するには社会を構成する個々人の人間力が前提ということになりますな。成熟社会に向けて、我々が深めなければならないのはまさにこの点にあると思います。(2009年4月25日)

生まれ変わった阿修羅の時代

今日は夕方、本郷で会議がありましたので、一時間早く出て国立博物館の阿修羅展を見に行きました。平日なので空いていると思ったのですが、入場まで十分待ちで、会場内も人の肩越しに拝見する状況(私は並ぶのが嫌いなので)。でも、こういうものが好きな日本人の心情は好ましいと思います。その後の会議ではある学会連合の運営で水文分野の影が薄いので一言申し上げようと思っていたのですが、話をすることで理解、折り合いを付けることができました。これからの時代は対話が大切。圧倒的に強いものが全体を引っ張っていく時代は終わったのではないか。阿修羅は帝釈天と戦争して常に負ける存在。修羅場から抜け出して、新しい対話の時代に入れば阿修羅の顔も穏やかになるではないか。清酒の阿修羅はなかなかの美味でした。なお、波羅門立像がなかなか良かった。(2009年4月24日)

続こころ

草なぎ君やっちまいました。以前にも書きましたが、こういう時、人の対応には二通りある。個人を責める人と、なぜこんなことをやってしまったのか、と背景まで考える人と。前者の態度から出てくるのは見かけの問題解決。後者の態度からは人の社会で真に解決すべき問題が見えてくることもあるでしょう。行為の背景を想像し、見守るということでよろしいのではないか。あれだけの実力がある方だから。きっと復活してくれるでしょう。もちろん、公衆の面前で裸になってはいけない、騒いではいけない。こういう法があるから罰せられるわけですが、これは倫理に近いような気がする。法や決まりがあるからダメということでは、秋田のお祭りで射的が突然禁止になったそうな。そういう決まりがあったそうですが、射的が射幸心を煽るからということらしい。では、金魚すくいやくじは射幸心を煽らないのか。でも、決まりでは射的だけが禁止になっているからということ。歴史や背景を考えて、柔軟に対応するということがなぜできないのだろうか。心を排除して、普遍性で人を統治するという原則にとらわれているかぎり、誰でも突然悪者になってしまう可能性を排除できない。こんな社会は安心社会と言えるだろうか。(2009年4月23日)

こころ

最近、幸せだとか心だとかばかりいって女々しいやつだと思っている御仁もおられるかも知れない(女々しいという表現はジェンダーフリーの時代、問題かもしれませんが)。しかし、やはり大切。講義準備のために、高橋裕先生の新版「河川工学」を読んでいたら、伝統工法の評価の節にこうありました。「...自然材料の利用は維持管理が容易でないが、綿密な維持管理のためにつねに河川を観察する機会を与えてくれる。それを煩わしく考える“こころ”からは、河川に親しみつつ技術を向上させる動機は失われる。...」(P186)。自然とうまく付合うためには“こころ”のあり方が大切。けっして、経済成長が必要なイノベーションだけが問題を解決するのではない。(2009年4月22日)。

幸せ

幸せの丘と、不幸せの谷がある。シッタカブッタさんは不幸せを一生懸命埋めようとしている。不幸せを埋め終わったときに気がついたら、幸せの丘もなくなっていた。不幸せがあるからこそ、幸せがある、というのは自分の心の幸不幸で、人が自由自在に生きられた時代の話。最近は心のあり方だけではどうしようもできない不幸が存在する。死刑を宣告された人、死を選んでしまった人、この一日の間のやるせない出来事を知り、人の幸せについて考えてしまう。(2009年4月22日)。

評価方法が気になる学生

新学期が始まり、講義も始まりましたが、評価方法を気にする学生が尋ねに来ます。「出席しなくても単位とれますか」、「試験はやるのですか」、「試験は簡単ですか」、...。その学生の関心は講義の内容にあるのか、それとも単位しか頭にないのか。そもそも、こんな質問はアリか。単位を揃えて、卒業資格だけ得ればよい、なんて時代はもう終わりにしたい。教員は重要なことを伝えたくて、講義を企画する。学生もそれを理解するために努力する。これが大学における講義の理想的な姿ではないかな、と思うのですが、昨今はあまりにも学生側が受身に過ぎる。一方通行で伝えられる情報量より、双方向コミュニケーションで引き出される情報量の方がはるかに大きい。教員の講義が下手だなんていっている場合ではないのですが。もちろん、教員は伝えたいことのために努力をしている。今、就職活動で苦労している学生は受身の姿勢が強すぎるのではないかな。大学で学んだ知識、経験に基づいて主張していけば、認めてくれる会社は必ずあると思う。人材は不足しているのですから。(2009年4月21日)

今日の楽農報告

備忘録としての報告です。苗はまだ小さいので、今日は畑を耕して植え付けの準備をしました。最近、二十日大根の収穫が始まっていますが、たいてい畑で採ってそのまま口の中に直行してしまいます。実にうまい。すぐになくなってしまいそうなので、まだ小さい茶豆の間に残りの種をすべて蒔きました。連休明けには収穫できるでしょう。午後は読書。アマゾンで見つけた絶版の「有限の生態学」をもう少しで読みきるところ。宇宙船地球号という言い方があるが、実は地球は宇宙船とは異なる。地球は大きなストックあるいはバッファーを持ち、その中から一部を取り出して使うシステム。宇宙船はストックを持たぬ緊張のシステム。となると、フロー依存型人間圏、ストック依存型人間圏(松井孝典)という認識も修正の必要があるか。フローを利用するにはストックが必要。そのストックを何に求めるか。太陽エネルギーだったら持続可能か。しかし、石油の代替になるだろうか。となると、共貧のシステムへの移行は必至。共貧のシステムのもとの社会は競争社会であってはならず、お互いに譲り合う協調社会でなくては持続不可能。我々は縄文の生活に戻ることはできない。しかし、果てない欲望を実現させるだけが幸せとはいえないことも明らか。(2009年4月19日)

外国人は英語とは限らぬ−その2

修士課程の英語プログラムの申請にあたり、個人調書を作成しましたが、その中に大学院生、特に留学生への指導に対する考え方を書く欄がありました。これを誰が読むのか、どう評価するのか、よくわかりませんが、こんな風に書いてみました。

地球の観察には哲学者のカントによると三通りあり、第一は数学的観察、第二が政治的観察、そして第三が自然地理的観察となる。英語による教育は第一の態度に偏りがちになり、普遍的な自然の理解は進むかも知れないが、地球-人間圏で生じている様々な個別の問題への対応は難しくなる。環境問題にアプローチするには第三の自然地理的観察、すなわちカント流にいうと“いたるところでいろいろなものを探し出して、比較し、計画を練る”という態度が必要となる。このような態度を醸成するには、地域性の理解が欠かせない。まず日本で蓄積されている膨大なフィールドにおける知識・経験の一部を英語で伝えることにより、日本の知識ベースの価値を伝え、日本語に対する興味を惹起させることが英語コースの目的と考えている。これにより、日本の知的資産を吸収することができ、また地域性を理解することにより、修得した知識・技術を異なる地域に誤って適用することがなくなる。同時に第二の態度を理解することにより、包括的、総合的な視点を身につけることができ、大学院で学んだ知識・技術を総動員して具体的な問題解決にあたることができる高度職業人を育成できる。

ちょっとふざけていると思われる危険性も無きにしも非ずですが、本心でもあり、それだけの経験を私はしているということだと思います。かつて、日本で学びたくて一生懸命日本語を勉強して来日した方がいました。岩手で日本語を学んだのでちょっと東北弁が入っていました。修士課程は千葉大学を志したのですが、試験に英語問題があるということであきらめてしまったことがあります。正月に年賀状が届きましたので、日本で学ぶ目標は達成しているようで安心しています。ある留学生は(他の分野ですが)博士課程まで進学したのに、就職したのは英語で論文を書く負担からと聞いています。その学生は英語は四ヶ国語目でした(民族の言葉、国の言葉、日本語、そして英語)。私のもとで学ぶ留学生も英語の試験問題には苦しめられました。もちろん、英語力は必要だし、重要。ただし、留学生30万人計画の中身が英語による教育だけだとしたら、あまりにも思想が貧困。日本の知識、経験をどう海外で生かすか。もう少し実質的な議論があってもいいのではないか。(2009年4月18日)

外国人は英語とは限らぬ

朝日の「声」欄から。トルコからの留学生のケマルさんは白人の容貌をしているのでしょう。街で出会う日本人は一所懸命英語で説明しようとしてくれる。しかし、ケマルさんは英語を母国語とせず、日本語を学ぶために日本にいる。せっかく日本語を勉強しているのにがっかり、とのこと。こんな誤解をするのは一般の方々だけではない。大学人でさえわかっていない。留学生30万人計画で予算がつくかもしれない、だから、今のうちに英語コースを作っておこうと教員にロードを押し付ける。しかし、私のまわりにいるたくさんの留学生は日本で勉強したくて一生懸命日本語を勉強して日本にやってきた。だから、私は彼ら彼女らに日本の知識、経験を伝えることができる。母国語、民族の言葉を使い、さらに日本語を学んできた留学生にさらに英語の負担(つたない英語の講義を聴くつらさ)を押し付けるのは指導教員として忍びない。物理学や化学といった普遍性を追求する科学の分野では英語だけで済ませることは可能だろう。日本でもアメリカでも同じ勉強ができる。論文競争で勝ったところが優秀ということになり、そこに行けばいいが、そこが日本である必要はない。しかし、環境学は違う。地域の特徴を深く理解することから、問題解決の糸口が見えてくる。その成果は普遍性を尊ぶ英文ジャーナルにはなじまない。日本語で蓄積されている膨大な知識、経験を留学生に伝え、国に帰った時に役立てて欲しい。普遍性によって成長してきた世界の限界はもう見えているのだから。もちろん、英語を読む力はあった方が良い。普遍性は文献から学ぶことができる。個別性、それもたくさんの個別性を日本語の文献から学んで実践で役立てて欲しい。(2009年4月16日)

まだ森から抜け出せていない

ああ、やはりオバマさんは欧米人だな、ということ。14日昼のジョージタウン大学における演説から。マイナス成長が続くアメリカ経済の現状を“森”でたとえたわけですが、日本人だったら“沙漠”とたとえるかもしれない。日本人にとって森は上手に付合って恵みを得る対象であり、神が住む領域でもあった。里山は人の領域、奥山が神の領域になります。一方、欧米人にとって生業である麦作、牧畜を行うために森を切り開く必要があり、森を追われた狼は童話で悪者になり、森は魑魅魍魎の世界であった。ちょっとした表現から人の心の深層が見えてくる。(2009年4月16日)

トムソン・ロイター日本の研究機関ランキングで千葉大学は総合16位

こんな案内がありました。国内総合16位は悪くはないと思いますが、世界では305位となり、そんなに嬉しくない。あまり意味のない数字ですが、きっと数字だけが一人歩きしていくのでしょう。このランキングは論文の引用件数に基づいていますが、引用で評価できるのはニュートン・デカルト型科学、モード1型科学、普遍性探求型科学、等々と呼ばれるタイプの科学です。人の暮らしに関わる“問題”を扱うモード2型科学、関係性探求型科学、といった分野の科学はそんなに引用があるはずがない。個別性、地域性を重視するから。先日、国土交通省の勉強会で英語の論文が引用されていないことが指摘されていましたが、当然であり、日本の地域の問題に関わる文献は英語ではなく日本語で書かないと地域には還元されない。普遍性によって問題を解決するという思想のもとでは論文は英語で書いたほうが良いが、普遍性では地域の問題を解くことは難しい。問題解決型の論文はその国の言葉で書くのが良い。小さな研究を積み重ねる態度が環境や災害といった人と自然の関係を扱う分野で必要。その積み重ねの中から普遍性が峻別できたら、その時に英語の論文を書けばいい。(2009年4月15日)

パスポート更新

2月に失効していたパスポートを更新しました。ICチップが埋め込まれた硬いページがあり、今までのようにお尻のポケットに突っ込むことができなくなり、ちょっと不便。10年前の写真と比べると明らかに老けているのは、生老病死、逃れられない必然的な苦しみですのでしょうがない。自信がなさそうな顔は精神の修養が足りないから。さらに精進が必要。(2009年4月15日)

人の乗り物

痴漢裁判逆転無罪というニュースがありましたが、無罪になった男性のうれしさは察するに余りあります。一方、主張が認められなかった女性の気持ちも理解できます。真実はわかりませんが、真に解決すべき問題は別のところにあるのではないか。そのひとつは“通勤”だと思います。身体が触れざるを得ない満員の通勤電車は人の乗り物といえるだろうか。そこでは人は荷物と化してしまっている。1世紀前のベルトコンベアの登場により人が部品となってしまったことから始まった人の悲劇はそろそろ臨界に達しているのではないか。様々な危機に見舞われている現在、今まさに未来社会のあり方についてパラダイム転換を行う時期が到来したと感じています。それにしても最高裁まで戦った男性の強さには敬服します。以前、不条理な誹謗中傷に悩まされていたときに弁護士に相談したことがありますが、裁判というものは自身の正当性を徹底的に信じ、相手をこれまた徹底的に批判し、ゲームに打ち勝つ強い精神力が必要ということがわかり、あきらめたことがあります。勝ち負けのある裁判は日本的精神風土にはなじまないのかもしれません。しかし、我慢はすべきではなかったと今では思っています。これからは対話の時代でなければなりませんから。我慢は決して美徳ではない。シッタカブッタにも書いてありました。(2009年4月15日)

地球温暖化と危機、どっちが先か

今日のゼミにおける発言から。地球温暖化による危機が喧伝されているが、確かに地球温暖化を先に持ってくると、それによって引き起こされる危機は大変なことで、何とか地球温暖化をとめなければいけないということになる。しかし、危機を先に持ってくるとどうなるだろう。ある危機の要因はひとつではなく、危機はたいていの場合、複数の要因が組み合わさって生じている。たとえば、水害は地球温暖化による降水の変化だけでなく、土地利用のあり方と大きな関係がある。食糧問題も農を産業としてグローバル化したところに一番の問題がある。水没するとされているさんご礁の島々の現状も、人の暮らしが市場経済に飲み込まれていることが危機を大きくしているといえる。その他、様々な例を挙げることができるが、危機を先に持ってくると複数の要因の中で地球温暖化の重要性はどんどん相対化されていく。すなわち相対的に小さくなってくる。今解決すべきことは何か。地球温暖化以前に解決すべき問題がたくさんあるのではないか。研究者は地球温暖化の現場検証を徹底的に進める必要がある。(2009年4月13日)

楽農報告−肥料雑感

今日はポットで育てていた茶豆とズッキーニを畑に移植。種から育てたので苗1本あたりのコストは10円くらいになりました。市販の苗の10分の1以下のコストでできましたが、気になるのは肥料です。鶏糞、牛糞、化成肥料、等々を買い込んであり、適当に畑に撒いてすき込んでいます。恐らくこれが一番だめで、硝酸汚染の根源を自分で作っていることになります。雑草も一緒にはやし、すき込む、またスポットで施肥して量を減らしたいとは思っているのですが、作物ごとに管理が必要でなかなか実施まで至りません。少しずつスキルアップしていきたいと思います。最後に、落花生の種をポットに撒いて本日の作業は終了。落花生は連休ころに植えつける予定。昨年は肥料の高騰で日本のみならず世界の農家は大変な年でした。しかし、これでわかったことは、これまでは肥料はやりすぎであったということ。堆肥等、自前の肥料も見直されています。施肥管理をきちんと行えば、コストを削減でき、窒素汚染も防げるとなると、肥料の高騰も悪いことばかりではない。とはいえ、昨年のケニアのトウモロコシのように、モノカルチャー地域で、GM種子から農薬、肥料までをバイオ企業に依存している地域の農業は大きな打撃です。さて、グローバル市場経済の中の農、産業としての農、人の暮らしに関わる農、人と自然の関係に関わる農、これらをきちんと峻別して、守るべきものは守っていかなければなりません。(2009年4月12日)

技術者の地位の向上が必要

朝日の「私の視点」欄で技術士の井上さんが、道路橋の老朽化について重要な主張をしています。橋に限らず様々な基盤施設の老朽化は行政の中で指摘されていますが、施策が追いついていない。根本の問題は「金と技術者」の不足。安全管理に関する日本の構造的な問題を指摘なさっているが、再掲すると「ミス防止は個人の責任だとして複数の人間がチェックせず、危険性が顕在化しない限り企業や自治体の仕事を国が監督しない」という構造が問題。井上さんは自治体に点検を義務付けると同時に、技術公務員の配置などの財源を確保すべきと述べている。まったく同感であり、金がないし、わからないから、なんて言っている場合ではない。一方、大学人として私自身は忸怩たる思いがする。学問や技術を学生に伝えることはやっているつもりだが、それが社会で役立っていないということ。送り出した学生の地位向上に役立っていないということ。もちろん、自分を責めるのは筋違いだが、大学人は学問の成果を社会で活かすことに力を注ぐべき。こういった主張にこそ“教授”という肩書きを使っていい。大学人はちやほやされてちょうしこいている場合ではないと思う。大学で伝える学問、技術が社会で使われるようになれば、就活問題も緩和されるのではないか。大学で身に付けた学問、技術で勝負できる社会。こういう社会を作りたい。ところで、別の記事で『耐震「日本に学べ」』。イタリア中部地震は大変な被害になったが、今建物の耐震を日本に学べとの声が強くなっているという。確かに建物は人々の関心が高い。人々の関心、気分をいかに重要な課題に向かわせるかが重要だが、継続してこれを行えるのは大学か、マスコミか。大学は科学ジャーナリズムを育てることをもっと意識していい。(2009年4月11日)

地方の多様性が日本を救う

朝日の経済面でこんなタイトルのコラム(経済気象台)を見つけました。地域を活性化させることで日本を良くしようという思想は経済分野まで浸透していると考えてよいでしょうか。「ヒト・モノ・カネを大都市圏に集中させることが日本経済の効率性と成長性を高める」という主張に真っ向から疑問を呈して、多様な地方を生かすことが経済社会の持続性や成長を支えてきたのだという。その通りだと思う。「ヒト・モノ・カネ」という表現は浜矩子さんの文章を思い出させる。彼女も新刊の「グローバル恐慌」(岩波新書)の終章で「地域経済・地域共同体」について言及している。たとえば、九州が独自通貨を持つこと。確かに「地域通貨」の作る社会では「ヒト・モノ・カネ」の関係が明確であり、人は自分の払うコストの中身を理解できる。高いコストの背後に、たとえば地域の環境を良くする、といった機能が見えれば人はコスト負担もいとわない。地域はよくなる。「ヒト・モノ・カネ」の分断を修復するには小さな社会がいい。社会同士は関連性を持ち、より大きな社会、国、グローバルを構成する。しかし、けっしてひとつの“グローバル”があるわけではない。昨今の金融恐慌はグローバルをひとつと考えたことも一因。世界はひとつではなく、多様な地域からなる。この多様性を尊重しつつ、まず地域から良くなることが、より良い世界に繋がる。これは環境社会学から出てきたグローカルの原義そのものです。(2009年4月10日)

科研費採択

個人研究について書いたら早々に科研費採択の通知がありました。千葉大学に来てから連続して科研費の採択が続いていますがなぜだろう。対象は一貫して中国、特に華北平原で、その都度重要と考えたことを主張してきました。大きな予算申請もしたことはありますが、一貫して“個人研究”の範疇で実施してきたといえます。もちろん、千葉大、筑波大の水文グループが背景にあったのですが、運営は個人研究でした。この間、いくつかの大プロジェクトが現地を通り過ぎていきましたが、いよいよ頭にためたアイデアを実現する時が来たのかもしれません。そんなアイデアは、とっくの昔に吐き出しておくべき、なんて声も聞こえてきそうですが、どうも私は昔から自分のペースを変えることはできない性質のようです。時節というのは追い求めるのではなく、なんとなくやってくる。だから競争は大嫌い。天にお任せというのが一番いい。ただし、若い人は勘違いしないように。布石は常に打っておかなければいけません。(2009年4月6日)

個人店は長い年月で育つ

朝日求人欄から。新宿駅ビル地下で「ベルク」という店を経営する井野さんの言葉。だからかけがえのない存在だと思う、と続く。1年足らずで進出や撤退をする大型チェーン店の思いやりのなさとは訳が違うんだと。これは個人研究室の運営とよく似ている。記事の冒頭、「すべてはお客様のために、と言うはやすく、それを実現するには果てしない個別の工夫があるのだろう」、とある。お客様は学生と読み替えることができる。「人を使い教育し、商品を工夫し、お客さんの気持ちをとことん考える」。これは学生を教育し、アイデアを練り、独創的な研究で、社会のニーズに応えること、と読み替えられるだろうか。「同じ店は二つとない」。同じ個人研究室も二つとない。個性的であることが重要。「個人店は商文化の要」。個人研究室の成果は文化を深めることに貢献するといえないか。大型研究プロジェクトは大型チェーン店と同じではないが、研究期間は短いことは確か。研究が終わった後も継続して、最後に文化を深めるのはやはり個人研究ではないだろうか。(2009年4月6日)

楽農報告

今日はオクラとキュウリの種をポットに蒔きました。苗ばかり作っており、なかなか植え付けにいきませんが、発芽と成長を見るのも楽しい。畑には消石灰を撒いて植え付けの準備を進める。マラソン道路の桜が八分咲きで、黒丸(黒巻の柴)をつれて遠出。「ブッタとシッタカブッタ」全三巻を読み切る。時々どきっとすることが書いてある。今日は留学生がひとり成田に着いたはず。緊張していることだろうが、同郷の留学生に迎えを頼んでいるので安心。ギターの練習に励む。基礎をやらないとだめだと思う。仕事病にかかった心身では“仕事”をしない平和な一日は“不安”でもあるが、そのまんま受け入れることをブッタさんから学ぶ。(2009年4月5日)

東大、会議は5時まで

朝日朝刊で見ました。適切なワーク・ライフ・バランスを実現するため。育児や介護は他人事ではありませんのでこれは良いことだと思います。人が組織の部品とならずに、いきいきと仕事をするためにもワーク・ライフ・バランスを見直すのは良いこと。わざわざこんなことを決めなければならないのは夜遅くまで仕事をすることが正しい態度であるという認識が染み付いているから。私などはのんびりやっていますが、それでも規程の勤務時間を8時間/日とすると週の残業時間(教員には残業手当てはありませんが)は16時間、月では64時間になります。私は少ないほうだと思いますが、すると大学教員は過労死レベルの80時間/月を超える先生方はたくさんおられると思います。一般事務職や営業ではないのでストレス度はそれほどでもないと思いますが、働きすぎの感はあります。なぜ、こんなに働かなければならないか。それは競争に勝つためだと思います。大学教員は論文競争、予算獲得競争、といったことになりますが、それは正しい競争なのか。研究とは人に褒められるためにやっているのではない。研究者としての職の安心を担保するために論文を書いているのではない(とはいえ、論文が出るとほっとしますが)。金融恐慌以後の社会は“競争”の意義を見直さなければならないと考えていますが、競争よりも理念、信念、世界観等の考え方の主張と議論が大切なのではないかと思います。(2009年4月3日)

就活スタンピード現象

朝日朝刊声欄の大学生の方からの投書。この不況の時期と卒業が重なった学生は大変だと思う。就活に参加していなくては不安でたまらないのだろう。雪崩のように就活に向かうスタンピード現象が起きているという。それがゼミの運営にも影響を与えているという。ゼミか就活か、学生にとっては究極の選択のはず。しかし、就活を選ぶ学生がほとんどのようだ。適当にやっても卒業はできるという認識があるかもしれない。そこは教員として忸怩たるものがあるだろう。本来は大学で学ぶべきことを身につけた学生だけを社会に送り出したいのだが、大学の仕組みがそういう判断をする教員を応援するようにできていない。結局、就活は会社、学生、教員のすべてに負担を与えている。どうすれば良いか。社会に出る心構えができているかどうかは面接すればすぐわかるのだから、ここは大学が組織として卒業要件を満たさない学生は卒業させないことを明言すれば良い。しかし、あまい教育言説を振りかざす輩が出てくるとまじめな教員の真摯な思いは簡単に打ち砕かれてしまう。(2009年4月2日)

食糧危機途上国で拡大

もうひとつ朝日の記事から。食糧危機に対する国民の解釈はどうなっているのだろうか。人口増加、経済発展により供給が需要に追いつかず、高騰したと考えているだろうか。記事をじっくり読めばわかりますが、食糧危機はそんな単純な図式だけで説明できるものではない。グローバル経済のもと、農業を産業に変えてしまったこと、農業セクターをグローバル企業の市場にしてしまったことに根本的な原因がある。こういう話は講義や講演会でやっていますが、認識は二極化しているように感じる。もちろん社会の動向をきちんとモニターしている教養人には自明なことだと思いますが、様々な分断が進んだ市井ではけっして十分理解されていないようにも感じます。グローバル化は様々な分断を進め、たとえば食と人の分断は自分が食べている食品の背後にどのような真実があるか、わからなくしている。しかし、ここを理解しなくては食の安全保障はありえない。(2009年4月2日)

風力つかめぬ日本

朝日の朝刊から。エネルギーはEPR(Energy Profit Ratio)、すなわち利用できるエネルギーと生産に使われたエネルギーの比が大きいほど効率的なエネルギーですが、エネルギーにはもうひとつ輸送に対するコストがその価値を決める重要な指標になります。風力は適地が限られているために長距離送電の技術的課題がありそうですが、いつか沙漠研究誌で中国では内蒙古から北京まで2000kmを送電しているという記事を読んで、長距離送電に対する技術的課題はクリアできたのかなと思っていました。しかし、日本では地域ごとの電力会社に分割された送電網が風力による電気を送るネックになっているという。一方、アメリカを含む諸外国では国全体、国境を越えて送電が行われている。日本は地域電力会社の個別の事情により地域を越えた送電が制限されている。日本がアメリカに追従して新自由主義の呪縛にとらわれている間に、アメリカはCHANGEしてより広い視野からエネルギー政策、環境政策を推し進めようとしている。太陽光発電も同じ。日本では普及へのインセンティブが湧かない仕組みになっている。住宅に太陽光発電システムを導入しようとしても、電力会社は総電化でなければ余剰電力は買い取らないという。ライフラインは複数のシステムが補完しながら機能するのが最も安心。しかし、企業の利益のために選択肢は狭められる。日本はこんなことをやっている場合ではないのですが。歴史を振り返ると、アメリカが栄えた時期は政治が経済に介入した時期であるという。今、オバマ政権が明確な理念の下、経済に介入してアメリカが復活したとき、日本はどうなっているか。(2009年4月2日)

新旧交代

新年度が始まりました。まずはメインチェアで使っている座布団を交換させて頂きました。この座布団は1987年10月1日に東京都立大学理学部に着任した日に、東急都立大学駅下の京急ストアで買ったもの。以来、21年と6ヶ月にわたり、私の尻の下に敷かれてきたものです。それにしてもよく使ったものです。決して上質、高級なものではないのですが使い続ければ、こんなに長く使える。ボロボロですが、再雇用して作業椅子でしばらく働いてもらおうと思います。新しい座布団は先日、下取りに出した車で使っていたもの。この車は父が71歳のときに購入したもので、ナンバーも71番。次の車は81歳まで乗るつもりで購入した81番のナンバーを持つ車ですが、数ヶ月しか乗れませんでした。さて、新しい座布団は少なくとも私の定年まで使うことになるでしょうか。すると、後14年。そこまで私自身が持つかどうかの方が危ういかもしれない。(2009年4月1日)

いきいきと生きる

あっという間に2008年度も終わろうとしている。相変わらず体調はよくないのですが、それはかつて自分の心身に大きな影響を与えたもののせいにしているからだろうと思う。もう決別の時期であり、この節目にChangeしなければならない。最近、批判ばかりしているが、それはゲーテに言わせると、「自分が無気力になり非生産的になると、人のことを気にし、人をねたむほかには、することがなくなる」ということなのでしょう。2009年度は気力を高め、生産的にならなければならない。「人間のことを考えるな。事柄を考えよ」。自分の態度や行動を決定するのに対人関係に心を奪われてはならない。「敵があるからといって、私は自分の価値を低く考える必要があるか」、「自分を実際以上に考えることと、真価以下に見積もることは、ともに大きなあやまりである」。ゲーテの箴言集はたくさん出ているが、今読んでいるのは講談社現代新書の「いきいきと生きよ(手塚富雄)」です。古い本ですが、座右の書になっています。この「いきいきと」というのが大切だと思う。いきいきと生きるためには、自分を高揚させる努力を続けていなければならない。いきいきと生きることによって、未来が開ける。「いきいきと生きる」が2009年度の合言葉。気力を高め、生産的にが目標。(2009年3月31日)

身の納まり

朝日新聞、天声人語でいい言葉を知りました。幸田文さんからの引用で、「若い者に、自分の安らかな余生を示して安心を与え、良い技術を受け継いでもらわなくてはいけない」。出入りの畳職人が口にしたそうです。世の中には様々な職場、職業がありますが、寒々しい状況を見せるようではその仕事の将来は危うい。我々大学人も幸せであることをもっと若者に見せなければならない。ただし、世に疎い「幸せな大学人」になってしまってもだめ。がんばりすぎて心身を壊すというのももってのほか。個人の幸せが基本ですが、今の社会では組織の幸せに繋がらなければ、それも不幸。大変難しい課題ですが、社会全体で考え、コンセンサスを形成する努力をしなければならない。社会や組織を動かすには思想が必要。大学教育でもっと思想を扱っても良いのではないか。グローバル経済、市場主義、なんてものも背景には時代を支配した思想がある。今の政治、経済や教育の閉塞状況を抜け出すには、新しい思想が必要なのではないか。サイエンスが思想とは独立と考えるのも大きな勘違い。(2009年3月30日)

続楽農報告

今日は、ごちそうなすと改良シシトウ(サカタの種の商品名)の種をポットに巻きました。落花生の種まきは延期。枝豆、ズッキーニ、メロンの発芽は順調です。植え付け前の準備のため畑を耕しました。腰にはきついのですが、鍬の扱いには確実に慣れてきたようです。ところで、軽自動車納車。これで我が家のガソリン消費量はぐっと減ります。けっして贅沢ではない分相応の暮らしを目指していますが、端から見たらまだ贅沢かもしれない。でも“少し豊かな暮らし”は人それぞれで定義が違っていい。言説にとらわれない実質的なエコな暮らしを目指しています。(2009年3月29日)

日本は「友情」、欧米は「知識」

Yahooニュースから。内閣府が学校に通う意義に関して若者に調査を行った結果。「友情」というのは非常に美しいが、日本の若者のある種の脆弱さ、あるいは社会との分断を感じてしまいます。「友情」は確かに力になる。しかし、現実の社会で直面する問題の解決の糸口を与えるのは知識や経験。ここに勉強する意義がある。ただし、知識といっても原理やディシプリンではない。原理がわかれば問題は解決できるというのは日本の政策の源流でもある。教育もニュートン・デカルトタイプの学問を重視してきた。だから、原理により問題解決の道筋は予定されており、自分が勉強しなくても自ずからわかる、誰かが解決してくれると考えるとしても無理はないかもしれない。しかし、現実の問題は個別性を帯びており、それぞれの問題は深い。これを原理で解こうとする姿勢が多くの涙を生むことになる。多くの知識、経験を学んでおく必要がある。もっとも、日本人も2位が「知識」でした。ただし、「自分の才能を伸ばす」という項目を日本人は5位というのは気にかかります。まだまだ分析する要あり。(2009年3月28日)

大学の危機管理

Yahooニュースで酒の一気のみで亡くなった学生が5人いたことが報じられていましたが、被害者の親は大学側の危機管理能力を批判していました。私も他人事ではない経験をしていますので(2008年7月4日参照)、親の気持ちは痛いほどわかります。しかし、実際に事件が起きたときに大学にどこまでの責任があるだろうか。未成年者への飲酒強要は罪ですが、大学は一気のみの危険性を指摘するキャンペーンくらいはやっているはず。成人同士の飲酒で事故が起きたときは責任はどこにあるか。まずは個人でしょう。昨今の大学は大人である学生の“しつけ”にまで責任があることを明言しているように見えますが(2009年2月16日参照)、それが正しい姿勢だろうか。こういう姿勢が脆弱な若者を生み出す一因となっているような気がします。大学は都合に応じて子供ルール、大人ルールを使い分けるのではなく、大人ルールを徹底する態度が必要なのではないか。(2009年3月28日)

盛り上がる話題

春の学会シーズンは他大学の先生方と話す機会が増えるのですが、お互い盛り上がる話題が二つあります。ひとつは学生の問題。確かに若者は昔とは変わったことは事実。そして一度問題が起こると教員は大学までも敵に回すことになる。大学当局は教育に関しては素人。権威を取り繕うことしかできないため、教育言説に振り回されることになる。近くに理解者がいない限り、教員に与える痛みは計り知れない。もうひとつは、大学管理の問題。特に評価に関する仕事は典型。今の評価システムは組織や教員個人がやるべきことをきちんとこなしたとしても、それを評価する仕組みがない。評価されるのは新しいこと、大きなこと、そして目立つこと。その結果、教員はどんどん疲弊していく。どこに問題があるのか。それは欧米をまねしてリーダーシップ型の社会を目指したが、リーダーたる人材がいなかったということ。リーダーがだめでも負担を抱えながら大学も社会も何とかやっている。これが日本型社会の底力なのだが、リーダーシップがかえって重荷になっているのが今の日本の現状ではないだろうか。欧米型にとらわれず、日本型を目指す選択肢もある。大学としてやるべきことをやればよいのだが、その評価は総体としての大学ではなく、個別の研究室ごとでなくてはならないのではないか。とはいえ、それも困難。ここに地球環境問題と地域環境問題の関係と同じ構図があります。(2009年3月28日)

若い研究者はリスクをとれるか

朝日朝刊に「若い研究者リスクとって」という見出し。朝のNHKニュースでも見ましたが、ノーベル賞受賞者の下村侑さんがいまの若い研究者に「リスクとろうとせず、難しいことをやろうとする元気がない。努力が足りない」と言ったそうです。報道の段階でどこまで発言がゆがめられたかわかりませんが、本当にそう言ったのだとすると現実は違うと思います。日本の若者がリスクをとらないとしても、それは若者のせいではなく、研究の道に入るリスクを高めてしまった我々おやじ研究者世代にあります。若者には未来があり、暮らしがある。リスクをとれるはずがないではないか。若者には十分夢も希望もある。リスクをとれる研究ができるように社会全体で応援しなければならない。大衆はその話題の対象をスーパーマンであるべきと考えがちですが、良識ある研究者であれば、この問題を俯瞰的な視点から眺め、解決すべき点をきちんと指摘すべきではないか。私は人の幸せを追求する、すると文化が深まり、サイエンスの価値が高まると考えています。この恐慌の中でその芽は出つつあるのではないか。もっとも、今は文化としてのサイエンスではなく、問題解決を共有できる広義のサイエンスを振興させたいと考えています。そうすることによって若い研究者が活躍できる場が広がる。(2009年3月24日)

楽農報告

農事暦管理のための備忘録です。今日は、ジャガイモ「インカのめざめ」を一畝、18個を植え付け。枝豆は発芽が始まったよう。メロンも発芽しかかっている雰囲気。ズッキーニはまだ発芽の兆候なし。来週はまだ早いのですが落花生の種をポット蒔きする予定。二十日大根は元気に育っています。椎茸の成績が良いのでほだ木を二本追加。ついでにナメクジ対策の薬を購入。ホームセンターではまだ苗はあまり出回っていません。出回る前に土地がなくなりそうです。(2009年3月22日)

分断の修復−未来への課題

週末は中谷巌さんの「資本主義はなぜ自壊したのか」に続いて浜矩子さんの「グローバル恐慌―金融暴走時代の果てに 」を読んだのですが、経済オンチの私でも昨今の金融恐慌についてよく理解することができ、ためになりました。今回の恐慌ではヒトとモノとカネのデカップリングこそが最も重要な問題点。デカップリングは日本語の分断。中谷さんも著書で幸福という言葉を何回も使っていましたが、人と経済活動の分断を指摘しているのだと思う。面白いと感じたのは、終章で浜さんは地域経済について言及しています。グローバル時代なのだからひとつの世界の中で競争して生き残るといった主張ではなく、地域だという。これこそ、昨今だんだんと強さを増している大きな潮流だと思います。私が都合よく解釈しているだけかも知れませんが、地域における活動はだんだん強まっている。地産地消、農産物の直売店、等々数字で表現される経済指標の世界には登場しない、いわばGNH(Gross National Happiness)のような指標で評価できる活動が広まりつつあるのではないか。カネの量で測れない幸せを評価すべき時期が来たと思う。これからの時代は分断の修復がキーワード。環境問題も人と自然の分断ですから。(2009年3月22日)

良いときは自分の力でないことが多い

NHK朝の番組「経済羅針盤」で伊那食品工業が紹介されていました。会社の目的は「人を幸せにすること」、なんて話を会長の塚越さんから聞き、膝を打っていたところですが、その中で表記の言葉が出てきました。なるほど、今が不調でもそれこそ自分の力、分相応のところにいるだけ。かつてよい時期があったとしても、それは助けられていたということ。精進して自分独自の世界を持つことが大切。所属する組織の方向性と合わないと感じることもありますが、今の自分は研究だけでなく学生に対しても責任がある。学生は社員みたいなものですから、学生の幸せが組織の幸せになるはず。伊那食品工業は寒天製品の“かんてんぱぱ”で有名ですが(かみさんが長野県人だから我が家的には有名)、まさに三澤勝衛の言う風土産業だと思います。地域の特性を生かし、少しの豊かさを享受し、誇りを持って暮らす。少しの豊かさと書きましたが、この会社はブームにのって急成長はしない。あえて成長を抑える。永続することが会社の価値だから、という。永続することは深まることですが、人の幸せが深まるってなんてすばらしいことでしょう。組織のあり方として参考にしたいと思います。(2009年3月22日)

勝ちと幸せ

今日は休日ですので中谷巌さんの「資本主義はなぜ自壊したのか」を読み切りました。そこに書いてある主張は近年、社会学、哲学、思想等の分野からの発信を強く感じる考え方と共通する部分があるように思います。代表的なものは哲学者の内山節さんの一連の主張。こういったグローバル経済とは一線を画す地域を核とした新しい社会実現に対する要求がだんだんと強まっているように感じています。結局、市場経済の信奉者は勝つことが幸せになる前提条件であり、敗者は蚊帳の外ですが、新しい社会では経済的に勝たなくても人は幸せになれる。人はどちらの社会を望むか、自明なような気がします。(2009年3月20日)

国の仕事

国交省の「土地分類調査の利用可能性に関する検討会」に出てきました。土地分類調査では1951年施行の国土調査法に基づき、様々な主題図が作成されてきました。基本調査は概ね完了し、継続・更新を考える時期にきています。私は国民の安全・安心を担保する国の仕事として今後も取り組んでほしいのですが、やはり予算の壁が高い。国土調査成果図表は様々な用途に使うことができる基盤情報です。しかし、“明確な目的と大きな成果”が昨今では財務当局が予算をつける条件となり、何とかそこを主張しなければならない。何百何千何万の小さな、しかし地域にとって重要な情報を読み取ることができる貴重な基盤情報の作成は国しかできない国の仕事ではないだろうか。何に役に立つのですか?...何にでも...では、具体的には何ですか、そこで二三の例を挙げただけでは素人である財務当局には強い印象を与えられない。しかし、実際には数多の小さな成果があり、どれも地域の安全・安心にとって大切な成果。どうも最近は国の仕事のあり方に関する考え方が誤った方向に行っているように思う。国交省の担当官の土地分類調査に対する思いを何とか支援していきたい。世の中には普遍的なものが重要という勘違いがありますが、大学人として私は小さな、でもたくさんの成果の積み重ねが数多の地域の安全・安心を担保することを主張していきたいと思います。(2009年3月19日)

人の死に様、生き様

田舎の叔母の葬儀に参列してきました。最期は病院でしたが、痛みに耐えるのがさぞかしつらかったろうと思います。父もそうでしたが麻薬で痛みを抑えながらただ死を待つのみになった状態は我々には想像できません。生きているときにどんなつらいことがあっても、最期が幸せならばそれでいいなんて思っても、病院で死ぬ現代人はつらい最期は免れられないのではないか。いつかも書きましたが、今から自分の死に様を考えておく必要があります。それが生き様に繋がると思うからです。施主の叔父も身体を壊しており、つらそうにしていますが、笑顔を大切に、と話してくれました。その通り、笑顔ほど生きている人にとって大切なものはないのではないか。別の叔父は耳が遠く、現役時代は辛いことも多かったと思いますが、今は引退して楽しそうに趣味にいそしんでいます(いろいろ大変なこともあるのは知っていますが)。趣味を持てといわれましたが、この点は私はなんとかなるかも知れません。もうひとつは地域との付き合いを大切にせよですが、これは私には問題ありです。叔父はたくさんいるのですが、ある叔父は不況で生業をたたんで就職したらそこも不況で潰れ、退職金で二種免許をとり、タクシードライバーをやっています。とにかく明るく元気をいただけます。毎朝腕立腹筋背筋100回、縄跳び500回やっているそうで、これが元気の源です。笑顔と体力が大切。久しぶりにいった本庄の町はちょっと寂れた雰囲気もありますが、郊外には良好な農地がまだ残っており、大都市とは違う生き方があるような気がします。住があり、畑があれば、兼業で何とかやっていけるのではないか。都会の住人の甘い認識かもしれません。納骨では“おじゃんぼん”といって棺車を最後尾にした行列が灯篭の周りを三周してから墓に収められます。地域の方々との共同作業が残っているのは本庄でも久々宇地区だけになったそうですが、久しく経験したことがなかったような暖かい思いがこみ上げてきます。私も歳をとり、周りも齢を重ね葬式も増えてきましたが、死に様、生き様を見直しながらなんとかやっていきたいと思います。(2009年3月18日)

工学的適応・環境適応と空間スケール

今年度最終回となりました国交省の広域的洪水監視システム勉強会に出てきました。ゲリラ豪雨などという言葉も生まれた現在の治水の課題は、中小の河川の洪水にどう対処するかということです。大河川は工学的適応による予測システムが機能しますが、何にもない中小河川はどうするか。徹底的に工学的適応を推し進めるというのはチャレンジですが、実質的ではないように思います。数多ある中小河川では人と河川の関係を修復することによって未然に川の振る舞いを予見する、システムというより教育・啓蒙により対処するのが良いのではないか。空間スケールにより適応の考え方を変える階層的な思想が河川管理に必要なのではないかと思いました。人が自然の仕組みをよく知ることが、災いを避け、時には恵みを受ける基本だと思います。(2009年3月17日)

資本主義は人間を幸福にするか

中谷巌さんの「資本主義はなぜ自壊したのか」を読み始めました。まず気がついたことは幸福、幸せという言葉が随所に出てくること。経済活動の目的とは何かを考えたときに、利潤の最大化ではなく人の幸せの最大化に思いが至ったということだろうか。この場合の人というのは総体としての人ではなく、個人としての人でなければならないと思います。明快な理論によって新自由主義を推進する経済学のもとでは、人は人格を持たない総体としての「ホモ・エコノミクス(経済人)」。しかし、現実に泣き、笑うのは個としての人。個人が幸せになることが、全体の幸せに繋がる。小さな幸せを積み重ねることを我々は今やるべき。これはまさに地球環境問題と同じ。地域が幸せになることが地球が良くなること。グローカリズムの考え方です。なぜなら、世界は地域がたくさん集まってできており、世界はひとつではない。地球にはたくさんの人が暮らしており、総体としての人などないのです。(2009年3月16日)

英語プログラムの目的は

今日は休みですが、メールで大学院修士課程の英語プログラムの申請書類に関する連絡が飛び交っています。結局、外国人教員を確保しなければならない様ですが、たった一、二週間で立案しなければならない中、外国人の個人名を挙げるのは困難です。トップダウンの指令を予測して普段から心がけておけ、という声も聞こえてきそうですが、もうそんなバタバタの時代は終わりにしたい。英語プログラムを組む目的は何か、どんなニーズがあるか、どんな教育を目指しているのか。こういう検討に基づく提案をしたい。私は英語というより留学生向けの日本語プログラムの充実に力を注ぎたい。日本が好きで、日本に留学したくて日本語を勉強している学生がたくさんいる。英語で語れる学問でしたら、わざわざ日本に来る必要はありません。今回のプログラムには大学の存続もかかっているそうですが、英語プログラムがあることが権威と考える態度はないだろうか。こんな穿った見方は健全ではないですが、望んで日本にやってくる学生のためにやるべきことをやりたいと思う。とはいえ、学生減少の時代ですので中期的には英語プログラムは必須だと思います。準備を怠らないようにしなければなりませんが、やるべきことが多いですな。(2009年3月15日)

不況の時代に何を優先させるか

近所のなじみのスタンドに給油にいったら、今月一杯で閉店だそうです。不況は全体にじわじわと押し寄せているのではなく、特定のセクターに先行して広がっている模様です。これは地球温暖化の影響も同じ。不況を感じさせないセクターもありますが、万策尽きた方々も増えていることも確かだと思います。こんな時代に何をすべきか。短期的には衣食住の確保ですが、やはり住が優先されるべきではないか。それが職につながり、衣食を充実させる。長期的には教育も重要課題のひとつ。家庭の教育費負担は半端なものではなく、時代の巡り合わせによって機会が失われる事態をなるべく少なくしたい。政治、行政がやるべきことはたくさんある。その一つは奨学金。こういうところに予算を使ってほしい。そして、どんな未来社会を作っていくか、議論が盛り上がってほしい。千葉県知事選が始まりましたが、ここを聞きたい。(2009年3月15日)

主張がぶれるということ

朝日朝刊で中谷巌さんに関する記事がありました。中谷さんの転向(できればこの言葉は使いたくないのですが)は賛否両論あるようですが、人の主張はその人の持つ経験の現れであるように思う。竹中平蔵さんの主張は成功した経済学者の世界観に基づく主張に過ぎないのではないか。中谷さんは成功者なのですが、それまでの自分の世界の外側が見えてしまったのではないか。考えがぶれるということは、考えの元になるその人の世界の広がりが変わったということです。市場経済の社会の中で経済不況に苦しむ人々の体験が自分の経験として見えてきたのかもしれない。人の苦しみというものは目に見えても、自分の経験として共有できる人は少ない。私は考えがぶれる人もその理由を考え、場合によっては評価したい。ぶれる、という表現はあまり語感が良くないのですが、これはCHANGEでもありますから。(2009年3月14日)

普遍的な規範により統治される社会

日本に残ることになったカルデロンのり子さんとフィリピンに送還されることになったご両親について何とかならないのだろうか。法務省の主張はもっともなのですが、その背後には“普遍的な規範により統治する”という考え方がある。これが近代社会を作ってきた基本的な思想なのですが、普遍的という語はどうも人の蔭が薄い。あらゆる問題にはそれを生じさせる背景があり、問題の解決のためにはまず問題の理解が必要。一つ一つの問題は個別性と深みを持つ。これは普遍性とは対極の存在で、普遍性により問題を解くためには人の心を排除する必要が出てくる。すると、統治はできても、問題の本質的な解決にはならない。個別の事情はもっと配慮されて良いのではないか。こういう問題にこそ裁判員制度を適用して、多様な側面から個別の問題について判断する道を残しても良いと思います。(2009年3月14日)

全面停止、ごみ「限界」/平塚市の焼却場

Yahooニュースから。これは結構重要な出来事ではないだろうか。まず、都市の便利な生活を維持しているものとの関わりを突然理解した市民がいたとしたら、それは“文明社会の野蛮字人”からの脱却で、人とごみの分断の修復に繋がれば、新しい社会の構築に繋がるかもしれない。現代の社会を維持する仕組みが“緊張のシステム”の元で維持されていることをよく考える必要がある。また、施設の老朽化問題は焼却場に限らず様々な社会基盤の共通の問題。人口減少、成熟社会の今後はいかにあるべきか、考えるきっかけにしたい。他人事ではないのです。CHANGE!(2009年3月13日)

調整型リーダーシップ

文科省の共同利用・共同研究拠点の申請も間近に迫りましたが、事務方には組織が一丸となって喧々諤々の議論をして申請書を作成しているとは見えていないかもしれない。ある発言をきっかけに感じたのですが、実はそんなことはない。我々の扱っている対象は“環境”であり、環境研究を行うには思想がどうしても必要となってきます。しかし、多数の思想は尊重すべきもので、対立させるものではない。各思想のバックグランドを知り、包括的、俯瞰的な視点から主張の理由を理解すればそれはよくわかる。今回の申請書は担当者が中心となって書いていますが、恐らくその方は調整型のリーダーシップを持っていると思います。その文書を見ながら異なる思想を持つ我々は“折り合い”がつくかどうかちゃんと確認している。それがどうも事務方から見ると頼りなく見えるのかもしれない。環境研究を念頭においていますが、もし研究組織がひとつのシャープな方向を目指すとすると、それは組織としても大学の研究者としても滅びの道です。大学の研究は多様性を常に内部に保持しておく必要がある。時代ごとに折り合いをつけながら、その時代の思想を担っていく、かつ次の時代へ向けた芽も顔をだしている、こんな組織が持続可能な組織だと思います。もちろん持続可能なだけではだめで、存在する価値がなければなりませんが、リモートセンシングを核として様々な分野、セクターと知識・技術を交換している組織は他にはない。そこが、CEReSの価値だと思うのですが、“評価者”の世界観が異なれば、その価値は評価されない。偏った世界観に支配される社会にいかに適応すべきか、それは個人と組織では恐らく答えが異なりますから困難は多い。“偏った”と書いてしまいましたが、18世紀を生きたカントでも地球の観察には三通りの態度がある述べています(1月7日参照)。この三つの態度のバランスを取り戻すことが、これからのCHANGEの時代の課題ではないだろうか。(2009年3月12日)

不正取水で水利権を失ったJR東日本

朝日朝刊から。十日町の宮中ダムの水門が開放され、信濃川の下流にとうとうと水が流れる写真が掲載されていました。水を取り戻した信濃川はこの流れを将来も維持することができるだろうか。それとも、首都圏の電車の運行に支障がでて、また取水が認められるようになるだろうか。現代社会を維持するために人と自然の間で折り合いが付けられていた部分が現れてきました。都会の便利な生活が、遠く離れたところの水循環、生態系、そして人の暮らしを変えることにより維持されていたということが明らかになってくる。これに対して、人は何を思うか。現代社会のあり方を包括的に見る視点を得ることができるだろうか。(2009年3月11日)

大学の人材不足留学生で補う

朝日朝刊から。日本の大学に進学する留学生、特に中国が増えているという。私のところも来年度の留学生は8人で、うち5人が中国です。これは楽しい。少子化の時代、大学は留学生確保に力を注いでいるというが、そのモチベーションのひとつに「世界レベルの研究を維持するため」との考えがあります。日本人が博士課程まで進学しないのは、きわめて単純なことで、未来に希望が持てないから。教育・研究に関する政策、大学人の教育・研究に対する姿勢、博士に対する社会の評価、等々考えなければならない点はたくさんある。そこを検討しないで人材確保のために優秀な留学生を呼び込む、というのはちょっと短絡過ぎる。大学の教員は確かに研究成果で評価される研究者ですが、その前に教育者です。教育には多大なるエネルギーが必要。自分でどんどん研究を進めて論文を書いてくれる留学生がほしい、というのが本音だったらとんでもないこと。研究はさておいて、留学生、もちろん日本の学生にも実質的なカリキュラムを提供することに力を注がなければなりません。(2009年3月11日)

安全か環境か−人と川の分断の修復

以前書いた論文で、新河川法施行後は地域の住民は安全より環境を重視したら、治水安全度については地域で知恵を出さなければならない、といったことを書きました。これについて国土交通省の方からご意見をいただきました。河川管理者は治水・利水・環境をともに重視するということ。ジャーナリスティックな書き方をして申し訳ございませんでした。地域住民が計画以上の治水安全度を担うというよりは、私は人と川の分断を修復することにより、災害を予見し、減災を達成できる、こんな姿を考えています。災害や環境問題の根本には人と自然の分断があり、この分断を修復することが安心社会へ向かうひとつの道ではないか。安全にはもちろん工学的適応を考えてよい。ただ、人口減少、成熟社会を迎えて、日本の将来をどういう方向に変えていくか、ロングレンジで考え始めてよい。今年はCHANGEを考える良い機会ですので。一方、利水については地域負担のシナリオも見え始めているような気がします。(2009年3月10日)

破綻するグローバリズム−世界の小農に宿る「自給の思想」が未来をひらく

WBCは残念でした。先ほど、竹中さんに関する書き込みをしましたが、世の中、二つの考え方がますます強く現れているように感じます。ひとつは竹中流の考え方ですが、もうひとつは地域を核としたコミュニティー社会を作ろうという考え方。表題は出版ダイジェストの2月1日号からですが、現代農業誌の1月号から抜粋したもの。暮らしをどう捉えるか、幸せとは何か、こういった課題に真剣に取り組むとまた異なる世界が見えてくる。どちらが正しいではなく、人が暮らし方を選択でき、時には行き来できる社会が構築できればいい。緊張のシステムと共貧のシステムの共存、それは都市と農村の関係として実現できるのではないだろうか。(2009年3月9日)

竹中さんと中谷さん

今朝の朝日で竹中平蔵さんのコラムを読みましたが、この方は徹底した現実主義者であり、グローバル資本主義は絶対であり、成長必至の考え方が前提であることがよくわかります。しかし、竹中さんの主張の中には“暮らし”の影が非常に薄く感じる。聞き手も「脱成長型」の選択肢を問うていますが、“国民は景気をよくして欲しいと常に言っているじゃないですか”、と切り捨てている。暮らしを良くするためには(現システムにおける)景気をよくすることしか手段がなくなったとしたら、そこにこそ問題があるのではないだろうか。一方、『資本主義はなぜ自壊したのか」を著した中谷巌さんは(まだ読んでいませんが)、人の幸せまで踏み込んで考えるがゆえに資本主義の限界に考えが至ったのではないかと思います。二人の論客の立場を分析して見たいと思っています。(2009年3月9日)

春間近楽農始動

今日は天気は悪かったのですが、畑に少しずつ植え付けを始めました。まずアスパラガスを八株、これは収穫までは数年かかるため、二十日大根も種まきし、短期的な楽しさを確保。難しい作物にも挑戦ということで、メロンの種を購入し、ポットに植えました。毎週ホームセンターをチェックし、苗が出回り始めたら少しずつ種類を増やしていきます。いろいろな作物を試みている中で最近の驚きは椎茸です。一昨年白州でサルの被害にあった榾木をもらってきたのですが、先月打ち込んだ菌がどんどん成長しています。ひっくり返したり、叩いたり、霧吹きしたりしてようやく出てくるものだと思っていましたので驚きです。これから暖かくなるとナメクジ対策が課題です。これから夏に向けて作物を増やしていきますが、農を基本とする生活はどの程度可能か。自分のスキルを高めながら確認してみたいと思っています。(2009年3月8日)

ハラスメント防止ステッカーの効果は

大学から二種類のハラスメント防止ステッカーが配布されました。さてどの程度の効果があるのだろうか。一番重要なことは実績報告書に書けるということだろうか。大学は恐らくハラスメントに対処するどころか、深刻なハラスメントに気がつくこともないでしょう。考え直さなければならないことは問題というものの捉え方にあると思う。普遍的な方法により問題が解決できるというのは現代の自由主義社会を動かしている思想そのもの。実は問題は個別にあり、個々の問題はそれぞれ深みを持っている。個別に対応できる能力を持たなければハラスメント防止委員会などあっても機能するはずがないと思います。(2009年3月6日)

オートバイは中高年の脳を活性化

脳トレで有名な東北大の川島教授がまたやってくれました。オートバイに日常的に乗ると脳機能の向上や心にポジティブな影響を与えるとのこと。私もバイクから降りて20年以上。結婚前はSUZUKI GSX400Eに乗っていましたが、バイクにまたがってひたすら走るときの気分、爽快とはちょっと違う非常に落ち着いた集中した気分は心に落ち着きを与えてくれました。股の間にタンクを挟んで、二気筒の心地よい振動を感じながら坦々と走り続ける時の気分、思い出しました。それにしても最近のバイクは高いし、金はないし、やはり夢でしょうか。ガソリンがもっと高くなれば可能性もでてくるか。そのときはスーパーカブになるでしょう。でも、やはりタンクを股に挟んで走りたい。(2009年3月5日)

持続する思惟

研究センターの共同利用・共同研究拠点申請も締め切りが迫り、申請書作成も最終段階に入ってきました。認められれば平成22年度から新制度による運営が始まりますが、拠点の活動に対しては半分以上が学外の委員からなる運営委員会で議論されます。しかし、我々の活動が運営に責任を持たない学外の方々の意見、場合によっては気分によって決まるということは大学人のあり方としては考えられない事態だと思います。ゲーテの言葉を借りますと、我々としては“持続する思惟”、すなわち、こう生きたい、こう社会に貢献したい、といった明確な意思を持つことだと思います。今日の会議で話しながらふと思いましたが、我々が目指しているものは問題の理解・解決だと思います。しかし、それを実現するためにはひとつのディシプリンでは不可能です。我々はリモートセンシングのためのセンサー開発、情報抽出そして環境解析を融合させることにより、“問題”という枠の中の大部分を占めようと努力している。それでも不足する部分を共同利用研究で埋めるということになります。解くべき“問題”はたくさんあり、それぞれが深い。しかし、多くの多様な解くべき課題に真っ向から立ち向かうという態度はデカルト主義になじんでしまった現代の評価者には理解が困難かも知れません。シャープな目的に向かって戦略的に進め、というと格好いいですからね。それでも主張を続けていかなければならないのですが、大学の研究者が自分勝手と思われる理由はこんなところにある。堂々と自分勝手な主張をしていけばよいのでしょう。(2009年3月4日)

大学院の英語プログラム

千葉大学では大学院修士課程の英語プログラムへの提案をほぼ強制的にやらされるそうです。これは留学生30万人計画、道州制移行時の千葉大学の存続の可否なども絡んでいるとのこと。英語教育は確かに重要ですが、国際化=英語、留学生=英語話す、なんてステレオタイプに基づいて進められると現場には大きな負担を強いることになると思います。私の研究室の留学生は次年度はなんと8人になってしまいますが、皆さん英語は苦手で一生懸命日本語を勉強して日本にやってきました。一部の学生は国の言語、民族の言語、日本語、そして英語を学ばなければならず負担は軽くない。私が日本語を奨励していることもあり(背景に英語苦手意識あることは認めます)、日本語で意思疎通ができます。これは実に重要なことで、日本の知識・経験を伝えることができるし、日本語の文献から情報を得ることができるようになります。日本はアジアで最初に自国語で科学を語ることができるようになった国です。しかし、普遍性を追求する分野では主要言語を英語に奪還されてしまった。一方、現場に深く関わる学問分野においては日本は知識・経験を深めて膨大な情報が日本語で蓄積されています。留学生に英語で教育を行うことはまあよかろうと思います。我々は日本の知識を英語に訳して伝える努力をすべき。その知識の背後には膨大な日本の情報ベースがなければならない。そして実際に現場から得られた膨大な知識情報が存在する。留学生はそれに気付き、日本語を勉強することにより、膨大な知識にアクセスすることができるようになり、それが日本の海外貢献になる。こうなれば理想的ですが、単なる研究者の優秀病で、英語でやっていれば権威が保たれるなんてことで事業が進められたら一番困るのは学生です。特に今回の提案は修士課程対象で、千葉大の中期計画には修士課程は高度職業人養成が掲げられているのですから。(2009年3月3日)

洪水に対する適応策

今日は国交省の広域洪水監視システム勉強会に出てきました。水害による被災を何とかして減らしたい担当者の熱い思い、また現在の技術の達成段階等がわかり非常に勉強になりました。土木系の方々が主でしたので、その内容は技術革新、イノベーションにより洪水予測を行う立場なのですが、私は得られた情報を地域の住民が受け止め、解釈し、行動に移すための情報システムのあり方について話しました。私は成長とイノベーションにより問題を解決するという立場にはいつも批判的なのですが、文明社会に生きている以上こういうやり方も否定することはできません。安全を生み出す技術も大事、同時に技術を使いこなす人間の意識も大事、両方をうまく組み合わせる、そして人口減少、成熟社会に向けてどのような治水対策が好ましいか、いろいろな考え方の間で折り合いをどう付けるかがこの問題の課題だと思います。今後予想される大雨に対して、工学的適応と環境適応が考えられますが、もうひとつの適応、それは社会的適応というか、なんというか人の生き方に関わるアダプテーションがあるように思い、ずっと考えています。(2009年3月2日)

博士課程の役割

大学の第二期中期目標・中期計画案の文書を読み始めました。まず大学の役割として“専門的職業人の養成”を挙げていますが、それは正しいと思う。しかし、それは博士課程でも同じだと思う。目標には“博士課程では研究者の養成を進める”とあるのですが、研究者とは何だろうか。ノーベル賞の田中さんのような会社の研究者の世界はわからないのですが、理学系にありがちな“研究とは真理の探究”といった言説に囚われた研究者だったら生き残りは難しいかも知れません。現在の日本では大学の研究者のマーケットは小さい。海外では博士の学位は専門的職業人の証です。多くの国で博士号取得者は高度専門的職業人としての誇りを持っている。欧米でも起業のために学位を取得する方はたくさんいる。繰り返し述べていますが、博士課程の学生は研究一筋ではなく、社会のニーズもよくリサーチして将来の展望を得て頂きたいと思います。博士号の価値をもっと高める努力をしなければならないと感じています。(2009年3月1日)

フォロワーシップ

朝日の読書欄から。中竹竜二著「リーダーシップからフォロワーシップへ」(阪急コミュニケーションズ)に対する清野さんの書評から。フォロワーシップ、なるほどと思う。欧米式のトップダウン、強いリーダーシップが尊ばれる昨今の状況の中で、日本人のリーダーたちの苦悩も諸所で感じられるようになっている。その苦悩は組織の中に呼応者がいないことにある。フォロワーシップを認めることにより、志を同じくする呼応者との協働を達成することが大切。だからこそ統率者には明確な思想が必要だと思う。老荘思想の中に、いるかいないかわからない君主が最上の君主である、という考え方があったが、その君主は明確な思想と徳を身につけているに違いない。書評だけ読んで思ったことを書いているので、誤りがあったらあしからず。(2009年3月1日)

難しいことは簡単に

またまた一週間が経ってしまった。今週は月曜に飲みすぎて三日間断酒をしたことが特筆できますが、もう飲み始めてしまいました。さて、今週ひとつ気になったことは学生、それもまじめな学生ほど簡単なことを難しく表現するということ。簡単なことをまず数式で説明しようとする。間違いではないのですが、順番が違う。ここで、25日にも書きましたブッタさんの四こま漫画のひとつを思い出しました。彼女に告白するブタさんが、“交感神経が刺激されて...糖とアドレナリンが上昇...”と自分の心を説明して、ふられる。すると、“副腎からアドレナリンが...”で悲しみを表現。これではブタさんの思いは伝わらない。好きだ!悲しい!でよい。研究も似たようなもの。同じ蛸壺に深く沈んだ科学の“最先端”を行くもの同士は数式で理解しあえるかもしれないが、複雑多様な現場を扱う分野ではまず現象の実態を身体で感じて言葉や映像で表現し、それをやむなく定量化、定式化する必要があるときに数式を使えばよい。科学の本質は真理の探求などと思い込んでいると、数式で記述できる理想世界しか見えなくなり、現実に対応することが難しくなる。ところで、“難しいことは簡単に”はウェザーニュースの石橋会長がよく言っていることで、続きがあるのですが、それはまたいずれ。(2009年2月28日)

人の心の劣化の修復から−その後

複雑な気分です。先日傘を盗られたことから、人の心の劣化を修復しなければならん、などと言いましたが、その傘が見つかりました。今日は、何人かの帰国する外国人研究者の送別会がありましたが、早めに会場を出たらその傘が干してありました。ちゃっかり自分のものにして使っていたということです。さて、どうしたものかと思いましたが、もって帰りました。ところが骨が一本折れていてちょっとがっかり。それにしても、自分の物ではないものを堂々と使うということはどういうことなのだろうか。よく壊れた傘が落ちていますが、盗んだことの罪悪感から用を足した後は捨てざるを得ない盗人の心情かと思っていました。私も緩い態度が好きで、倫理を振りかざすのは好きではないのですが、やはりこれは倫理観がなさ過ぎる。人の心の修復は重大な現代の課題です。(2009年2月27日)

歳をとってわかること

この冬は確実に変わったことがひとつあった。それは寒さに対する耐性がなくなったこと。気温の数字はたいしたことないと思う時でも、やたら寒さを感じる。風をひいたときの寒さではなく、心底寒いといった感じ。やはり歳でしょうか。夜は例年より布団をたくさんかけているのですが、寝ていても結構寒い。やはり歳でしょうね。若いころは寒がっている年寄りをかっこ悪いと思ったこともありました。いざ自分が十分歳をとってようやくわかることがある。人を気遣いながら、自分はもっと背筋を伸ばすようにしようと思う。(2009年2月26日)

自分の喜びが大切

娘が仏教系の高校に通っており、仏教の授業で使う4コマアニメの教材を持ってきました。そのひとつでブタがギターを弾いている。ギターを弾くと皆がカッコいいとかステキと言ってくれるから。そこで、ブッタさん(もちろん仏陀)が、あなたの喜びはギターを弾くことにないのか、と尋ねブタは黙ってしまう。私はギターを弾いていれば楽しい。下手ですが、頭の中ではエラーは自動修復される。脳の機能はたいしたものです。一方、仕事はどうだろうか。仕事を楽しくやることができればこんな幸せ、喜びはない。しかし、評価というものがあり、それも他人の評価基準、場合によっては気分によってなされる。世の中、大きなこと、カッコいいことが尊ばれる。そんな評価に流されてはいけないと思いつつ気分は沈む。人生常に絶好調ということはないのだから、たまには落ち込むこともあっていい。それが許されない社会が人を不安に陥れるのだな。昨今の経済危機はパラダイムシフトを生み出さないだろうか。というか環境研究者としてパラダイムシフトを生み出すことが世の中の幸せに対する貢献になるのではないか。とはいえ、これもでかすぎる。小さくても自分のやれることを、やるしかないのでしょう。(2009年2月25日)

人の心の劣化の修復から

実は今日は傘を盗られました。気に入っていたのですが。一日中シンポジウムを主催していて、会館の傘たてに置きっぱなしにしておいたところ無くなっていました。グレーの縁取りがあって、BRIDGESTONEのロゴ(タイヤ館でもらった傘ですので)、使えば目立つし、柄も一度割れて接着剤で補修してあったので、いい傘とはいえない代物です。置きっぱなしにする方が悪いという意見もあるのですが、置くべき場所に置いてあった傘が盗られることを当然とする風潮は大問題です。盗った輩は罪悪感はないのだろうか。人の心がここまで劣化している現在、まずやるべきことは人の生き方の再確認ではなかろうか。ストップ地球温暖化とかエコな生活とかに行く前にやるべきことがある。人として真っ当に生きていればやっていける社会にすること。そうすればいろいろな問題について折り合いを見つけることができるはず。(2009年2月23日)

主張しなければ権利を侵食

Googleが書籍の全文検索を始めた記事から。外交やビジネスの場におけるアメリカの交渉のやり方を見ていると、一見理不尽と思える要求でも重要なことは相手が認めるかどうかであって、交渉の結果、相手が認めれば正当な行為とすることができる。論理的には正しい。こういう社会ですと、“相手の主張が無ければ自身の行為が正当化される”、また“主張することによって自身の権利を守る”という態度が身についてしまうのでしょう。相手の考え方を尊重し、個別の事情を察しながら折り合いを見つけるという日本的な態度はアメリカ的な態度の前では歯が立たない。YouTubeも時々利用する私としては悩ましいが、主張しなければ権利が侵食されてしまう社会はなんとなく居心地が悪い気がする。(2009年2月23日)

研究と開発−急ぐのはどっち

普段はあまり行かないスーパーでかみさんが買い物をしている間、ぶらぶらしていましたら焼き鳥のいい薫り。速攻で注文しましたが、そこのおやじは脱サラ組らしく、しきりに競争社会の世知辛さを説いておりました。その競争というのは何のためにあるのだろうか。研究の世界でも競争に追いまくられていますが、論文競争にどれだけの価値があるか。競争必至の分野は実は研究というより開発であり、勝利の先に大きな利権が見え隠れしている分野ではないか。多くの分野は急ぐ必要などない研究でしのぎを削っているのかも知れません。むしろ研究の成果が社会一般に普及還元されていないことの方が問題だと思います。環境や災害といった分野はまさにそう。教育、啓蒙活動に大学教員はもっと重みを置いても良いと思う。(2009年2月22日)

気分で運営される社会

朝日朝刊の異見新言で公務員たたきに対する批判がありましたが、その通りだと思います。公務員を悪として叩くだけで、真に大切なもの、国民にとって大事なものを失っている。そんな“気分で運営される社会”はいい加減にやめにしたい。事実に基づいて総合的に判断するという態度は大学で学ぶべきことです。これが身につかなければ卒論はかけない。大学が大衆化した現代、日本人はこの態度を身に付けているはずだが、どうやらそうでもないらしい。これは大学が機能していないということに他ならないではないか。環境問題におけるステレオタイプ、教育問題における教育言説、どうも同じ根があるように感じる。それはデカルト的な思考方法といっていいだろうか。演繹的な考え方。単純な理解しやすい原理によってすべてが説明できるという考え方。しかし、その原理の適用限界については考えない。そういう頭には物事の本質を主張しても受け入れられない。いつも困るのは現場。こんな図式からなかなか脱却できない。主張は続けていますが、世の中は簡単には変わらない。さてさてどうしたものか。(2009年2月21日)

人間不在の環境学 何を生むか

朝日朝刊で見つけた同志社大の浜先生の記事「人間不在の経済学 恐慌生んだ」からの連想。浜さんの記事はいつも参考になることが多いのですが、今回もそうです。経済学から人間がいなくなったことが昨今の恐慌を生んだという。金融工学の金融は人と人の信用の営みですので、金融工学という言葉には大いなる矛盾がある。なるほど。人がいなくなったことは環境も同じ。地球惑星科学連合の会合では、人のいない環境もあると主張する方も多い。環境は人あるいは生態系とそれを取り巻く周囲の総体であり、環境学は人と自然の関係を学問する科学。環境学に人がいなくなったら何を生むか。それは科学あるいは学問の問題解決能力の喪失に他なりません。もちろん、環境学に人が不在になることはありえません。経済学では経済学を名乗りながら経済学をやっていない方々が問題を起こしたといえます。環境から人をはずした方々もマジックワードとしての環境の力を利用しているだけで、環境の本質に対する理解はない。環境という言葉の持つ意義、力を研究者、大学人として尊重し、復活させなければならないと思います。(2009年2月20日)

「衛星データを用いた環境研究の発展」は小さい課題

文科省に提出する拠点申請文書に関して、学内ヒアリングで目的の部分に対する表記の意見があったそうです。ここで何度も書いていますが、環境を研究することの本質については20世紀を通じた議論がありました。二つの科学の議論とも関連して、ニュートン・デカルト型ではない科学、モード2科学、関係性探求型科学、等々と呼ばれる科学の重要性は問題解決を共有するという立場から現場においては十分認識されています。問題の現場では普遍性による問題解決の限界に直面せざるを得ないから。確かに個々の環境研究は特定の地域の問題を対象にするため、小さく感じるかもしれない。しかし、現場において問題の本質を理解し、現場における解決策を探るためには現場で環境研究を推進しなければならない。現場、すなわち人の暮らしの場です。経済成長、そしてイノベーションによって問題を解決しようとする立場は普遍性により問題を解決しようとする立場に通じますが、その限界についてはすでに十分多くの認識が現場ではある。この点は理工系より社会系の方が進展しているように思います。結局、机上の文部科学行政の中の施策では本質を議論することはできないのだろうか。小さな、そしてたくさんの成果を積み重ね、深い認識に至るというのが環境研究のあり方です。そこからようやく問題解決の端緒が見えてくるものだと思う。(2009年2月19日)

就活それとも就職相談

今日は来客があり、いろいろな話ができてよかった。ある方は会社で面接も担当しているのですが、やりたいことがわからないという学生との面接はまるで就職相談をやっているようだ、ともらしておりました。確かに、大学の現場でも、やりたいことがわからない、という学生が増えていることは実感しています。しかし、やりたいことがわからない、あるいは自分探しをしている、ということはそれまでの人生で何かに集中して力を注いだことがないということを意味しているに過ぎない。面接の場面では、面接担当者の時間を奪って浪費していることにしかならない。ここに就活をする学生は気がついて欲しい。就活は自分の自信のある部分を活かすという態度で臨むべきで、大学はそれを身に付ける場所。自信を身に付ける前に就活してもなかなか難しいのではないかと思うのですが。(2009年2月18日)

スーパーマンが統治する社会

中川さんの辞任は残念でした。しかし、あのメロメロの記者会見では周囲が中川さんの健康状態にもっと気を使ってもよかったと思う。連日の睡眠不足に加えて、風をひいた中での1泊3日の強行軍では相当辛かったろう。それでも権力とそれに応じた責任があるのだから職責をきちんと果たすべきだった、スーパーマンであるべきだったという意見はごもっとも。でも日本人は本来やさしい国民性を持っていたのではないだろうか。屈強なスーパーマンによって統治される社会を望む姿勢は背後に日本とは違う宗教や思想的背景を持つ欧米社会の模倣にすぎないのではないか。大切なことはスーパーマンに託すのではなく、協働して事に当たる姿勢。こんな状況ですが、きっと日本はなんとなくこの難局を乗り切っていく。ここが日本社会のよいところなのではないだろうか。そんなお人好しのことをいってと叱られそうですが、お人好しが一番。日本はもっと本格的なお人好し社会になれば、世界の中で尊敬されるのではないだろうか。(2009年2月18日)

大麻事件と大学の態度

帰宅途中で聞いたラジオで、大麻事件に際して京都大学の理事らが謝罪した件について大学人の態度が問われていました。帰宅してWEBで検索したら確かに頭を下げる副学長、理事らの写真がありました(学長はいませんでしたが)。大人である学生が起こした事件に対して、大学側にどれほどの責任があるのか。謝罪したという事実は、大人のしつけに対して大学が責任を持つことを明言していることになります。大学は成人である学生でも子供ルールで望むということの宣言なのですが、実は社会はそれを望んではいない。番組では大学の学問に対する態度までもが問われていましたが、大学が本来やるべきことをしっかりやってくれというメッセージだと思う。番組では海外では同様な問題に際して様々な分野の先生方が集まり知恵を絞るという事例も紹介されていましたが、日本ではなぜそれができないのか。実はこれが一番正解に近いはず。問題には時代のあり方、社会的事情、等々、様々な背景がある。包括的、総合的な視点から問題の理解を試み、解決の糸口を探るという態度こそ大学が学生に伝えるべきことだと思うのだが。人というのはそれが権力者であってもなんて弱いものだろうか。大学トップの面々は一面では、競争社会の先鋒を担がざるを得ない存在で、大学教員には無理解に基づく要求をせざるを得ない状況も往々にしてある。一方、マスコミだって人を責めるだけではだめ。どうもこの国はみんなが不幸になる構図に囚われているような気がする。違う生き方、行き方があると思うのだが。協働を意識することが大事なのだが、それもできないほど忙しいのかもしれない。(2009年2月16日)

心の環境整備

朝日朝刊の櫻井よしこさんの言葉。本日心に残った言葉としてここに留めておきます。どうも今の社会が必要なことはこれのような気がします。経済問題、環境問題、心の環境整備ができていなければコンセンサスは得られない。しかし、どう整備するのか。トップダウンでこうすべき、なんていってもうまくいくわけがない。様々な考え方があるから。結局様々な考え方を知るということが必要。その前に様々な考え方の存在を認識し、受け入れることができるだけの心の畑を耕しておかなければならない。そして折り合いを付ける能力の醸成。ここに、大学における教育の目的があるように思う。それは、決して「世界トップレベルの...」とか「優秀な留学生を...」などという勇ましい言葉とは違う次元のものであるような気がします。(2009年2月15日)

“変”の時代の態度

昨日は日本地球惑星科学連合の整備委員会に出てきました。法人化したこれからが組織運営は大変になるのですが、中心となってがんばっている方々(本当にそのご苦労には脱帽なのですが)の意識がなかなか個々人の分野を超えて周辺分野までいたっていないなと感じてしまいます。特に災害、環境という課題に対する認識において。このことはしょうがないことではあるのですが、安定運営のために組織を大きくするという使命がある現在、ここは考える必要があるのではないかと感じています。組織を大きくするには、核となる分野の参加者を増やすという方法と、周辺分野を取り組むという二つの方向があります。前者の可能性はすでに高くないと思われますので、後者の方法をとる場合、リーダーは俯瞰的、包括的な視点を持ち、学問分野の再編成、時には自身の学問観の修正も図っていかなければならないのではないかと思います。数年前に地球惑星科学とは何か、という質問をしたことがありますが、そのときの答えは参加する学協会に応じて変わっていくのだ、ということでした。これを実践する時が来ていると思います。ここで、「応用地質」で読んだ記事を思い出しました。それは「応用地質と社会学の融合」(確かこんな感じ)といった内容でした。現場が求めていること、社会が求めていることに敏感に反応し、自身を変えていく態度が“変”の時代に相応しいのではないだろうか。(2009年2月14日)

汽笛の誘う郷愁とこの国のあり方

先ほどから蒸気機関車の汽笛の音が聞こえる。頭もボーっとしているのでひょっとしたら幻聴か、なんて思っていたら確かに聞こえる。WEBで調べてみたら千葉港−木更津間をC57が走るのだそうだ。それにしてもあの汽笛の音はなんと哀愁漂う音だろうか。親父好みです。遠い昔への郷愁も誘う。なんともいえずおセンチな気持ちに引きずり込まれる音色です。私は鉄ちゃんではないのですが、蒸気機関車は大好きで、NゲージのB20と9600を持っています。そういえば、今日の新聞にJR東日本が信濃川の水利権を取り消されるという記事がありました。いけないことをやっちまったわけですが、これは結構大変なことで首都圏の電車を走らせる電力に支障が出ます。この国のあり方、都市のあり方を見直さざるを得ない重要な出来事なのではないだろうか。信濃川からの取水は下流の流況を変え、生態系や地域の暮らしに大きな影響を及ぼしています。水力発電といっても決してグリーンなわけではないのです。文明を維持するために折り合いを付けられている部分が眼に見えてくることにより、人々が社会のあり方を見直すきっかけにならないだろうか。都市はコンパクトに、そして郊外は良好な農村を保ち、交通手段は蒸気機関車、里山が燃料を供給、なんて時代が来ないだろうか。郷愁が郷愁でなくなるかも。(2009年2月13日)

携帯再考

私は携帯は持っているのですが、好きではなく発信専用の不携帯になっています。いかなる場合でもいきなりかかってくるという性質がどうも気に入りません。もちろん、メールならまだましですが。今日は理学部に行く途中、自転車で転び出血している学生がいたのですが、そういうとき携帯がないと手も足もでないし、だからといって処置が遅れると問題です。皆さん携帯は持っているのですから、その場でうまく対応できなければやはり教員としては問題でしょう。今回はたまたま現場を通りがかった教員としては二人目で、最初の方が守衛所や保健センターの番号を持っていたので助かりました。私も少し考え直して、携帯に守衛所、保健センターのアドレスを登録しました。好きではないのですが、世の中そうなっているから、そうせざるを得ない。こういうことが増えてきました。老荘の思想に基づく暮らしが理想なのですが、現代社会ではそうも言ってられない。(2009年2月12日)

地域で支える安心

久しぶりに床屋に行きました。といっても髪を切らなかったわけではなく、最近は1000円カットの店ばかり利用していたので。家の近くのショッピングセンターにできたQBハウスは夜9時まで営業しているので、帰宅途中に効率よく髪を切れるのでそこの常連になっていました。しかし、前回閉店間際に行き、いつもの通り“適当に”とお願いしたら、適当はできぬ、何センチと指示しろとのこと。その前のカットですそだけ短くなり、バナナマンの日村さんのような髪型になっていたのでちょっとお願いしたつもりが相手を怒らせてしまったらしい。そこで、今回は職場の床屋さんに久しぶりで行きました。洗髪や顔そりで時間はかかりますが、スチームタオルは気持ちいい。丁重にやってくれますので時々は床屋で調髪をしたほうがいいなと思ったしだいです。職場の床屋も年配の男性が一人でやっており、いつまで続けられるだろうか。これからまた時々利用させてもらおう。実は自宅のすぐわきに床屋があるのですが、もう何十年も行っていない。高いというのが理由のひとつであり、1000円カットの安さは庶民の味方でもあるのですが、そこで働く若者は十分給料を頂いているだろうか。幸せだろうか。せっかく技術があるのだから、技術は高く評価し、我々はもっと負担しても良いのではないか。地域の床屋は地域で支える地域の交流の場、リラックスの場、なんて考えすぎかもしれないが、きちんとコストを負担して地域の財産(といってもいいと思う)を維持する考えがあっても良い。また髪が伸びたら、久しぶりに近所の床屋さんへ行ってみようと思う。(2009年2月12日)

個人を責める人

今日は追コンでした。そこである先生とこんな話をしました。問題が起こったときに個人を責める人とそうでない人がいる。なるほどと思う。個人を責める人は、自分の規範だけで物事を判断する人。個人を責めない人はシステム全体を俯瞰して問題を見極めることができる人。どちらが人の幸せをつくることができるか。さて、今日の追コンでは学生が順番に話をさせられていましたが、ある学生がその所属する分野は学生を放置するといいました。ここでも個人を責める人と、そうでない人では見方が異なってくるでしょう。学生にはわかりませんが、私にはことの影響が懸念されます。ここで、先日の大田総理のテレビ番組を思い出しました。人の子に拳骨をしていいか。そこで、学んだことは時代背景を考えなければならないということ。昔は人に拳骨をされても、子供を理解し、守る家庭があった。だから拳骨されても取るに足らないことだった。しかし、現代は子供を守る家庭が崩壊している場合がある。拳骨してはいけない場合がある。大学教育もこれを敷衍して考えることができるかもしれない。大学教育においては放置はひとつのやり方。私がある時期を過ごした筑波大や都立大は基本は放置でしたが、巣立った学生は実にしぶといと思う。各分野で活躍しています。しかし、今は時代、家庭のあり方が違う。放置では学生は育たないかもしれない。むしろ、教育など意識しないで協働して研究成果を出す中で意識しないうちに教育が行われているというのが理想です。(2009年2月10日)

貧困と幸福-再考

義理の弟(といっても高校の同級生)が出た番組をビデオにとったので見ろとの親からの指令で、見ました。彼の専門は公衆衛生で、アジアを中心に各地を飛び回っていますが、中でもネパールには長期間滞在して様々な活動を行いました。カトマンズ暮らしは甥っ子たちの少年時代の思い出になっています。さて、ネパールの農村には貧困があるという。確かに、乳幼児死亡率は高い、識字率が低い、十分な医療、教育が受けられない。彼はそんな場所で公衆衛生の普及を進めるかたわら、学校を作ったり、トイレ、これが重要なのですが、トイレを作ったりしている、すばらしい男なのです。私も途上国の農村をめぐった経験は少なからずある。いつも思うのは貧困は不幸とは同じとは限らないということ。貧しくとも自然と良い関係を築き、誇りを持って自由自在に生きる社会であれば人は満足して暮らしていけるのではないか。子供が死んだり、長生きできない社会は問題があるかもしれない。人は死んだら終わりというのは文明社会に生きる我々の客観的な理解。しかし、仏教徒でしたら輪廻転生、命は廻る。死は恐怖ではないかもしれない。そんな社会にはもう戻れないのですから、こんなこと言ってもしょうがないかも知れません。現代社会では貧困もどんどん相対化され、不幸と重なってくる。こんなこと思うのも、前提として自然との関係を良好にすれば、自然から恵みを受けることができるのではないかと考えているから。たとえば、群馬県上野村では里で生活できなくなると「山上がり」をしたという(内山節)。山には何年も暮らせるだけの資源があり、人はそれを取り出す技術を持っていた。ここで思う。貧困にあえぐ地域では自然と人の関係はどうなっているのだろうか。自然は人に恵みを施すことができないほど脆弱になってしまったのか、あるいは最初からそうだったのか。どちらにせよ、背景には社会の側の問題もあるのではないか。人口問題、市場経済の問題、等々。その場合は我々先進国の住民は援助をする義務を負うことになりそうだ。しかし、お金が余っている国から、貧困な国への資金や資材の移動、という形式は長続きしないだろう。各地域で維持可能な仕組みを作らなければならない。地域で人と自然の関係を良好に保ち、貧しいけれど心豊かで誇りを持って暮らせる社会つくりの援助でなければならない。とはいえ、言うだけで実行はなかなか難しい。(2009年2月10日)

指導教員とモンスターペアレント

卒論発表会の初日が終わりました。うちの学生は今日で終わりでほっとしていますが、質疑応答を聞いていると思わずディフェンスをしてしまいそうになるのを堪えるのは結構つらい。卒論とはなかなか位置づけが難しいもので、本人の成果の評価でもあるし、教員と協働の研究成果でもあります。思わず口を出してしまうようではモンスターペアレントと同じですから耐えねばなりません。学生による教員間の代理戦争なんてことにもなったら組織としては好ましい状況とはいえませんからね。とはいえ、デカルト・ニュートン型の科学と違って、地球科学や環境学は教員のすべてが、すべての分野に精通しているわけではありません。誤解に基づく質問も時にはありますが、お互いの理解を深めるにはやはり、懇親会ですかね。明日の卒論発表会終了後は追いコンです。(2009年2月9日)

欧米人の記憶と日本人の生き方

娘が借りてきたDVD「チャーリーとチョコレート工場」を見ました。欧米の映画には恐らく欧米人の共通の記憶というものが反映されている様に感じます。たとえば工場内のシーンは「インディー・ジョーンズ」を思い出させるところがある。迷宮に入っていくイメージや、せんだみつおみたいのが(失礼!)一糸乱れず踊ったり歌ったり。いろんな映画に共通のシチュエーションがある。気になることはチャーリー以外の子供達はどうなっちゃうのということです。チョコレート漬けになったり、紫になったり、ゴミまみれになったり、ペラペラになっちゃったり。欧米の映画はリーダーであったり、ヒーローであったりする主人公以外は扱いが粗末なような気がします。これは欧米の思想の基盤となっている一神教やデカルト主義が背景にあるのだろうか。「インディー・ジョーンズ」のあるシーンではライバルである欧米人とは死を語れるのですが、異民族はいとも簡単に殺してしまう。昨日はテレビで「隠し剣鬼の爪」を見たのですが、欧米型のヒーローではない一介の武士の苦悩を描く藤沢周平はいいですな。ヒーローでもリーダーでもないその他多数がこの世界を作っている。そういう世界で関係性を意識して生きること。これが日本人の生き方だったのではないだろうか。(2009年2月7日)

博士を目指す方々に

ポスドクに関する意見を書いたばかりですが、今日はちょうど博士課程の入学試験でした。私の研究室も来年度は博士の学生が増えることになるでしょう。彼ら、彼女らには研究を推進するとともに、生きる力を身に付けてほしいと思います。環境学を専攻する態度を身に付けることができれば問題ないと思います。それは環境の、多様性、関連性、空間性、時間性、階層性、を意識できるセンス。多様な価値を認め、関連性の中で生きる。小さな一歩、でもたくさんの一歩の価値を認めること。これができれば、あなたを受け入れてくれる場所はたくさんあると思います。(2009年2月6日)

博士学位取得者に有給で就業体験

ポスドク問題に端を発する経産省の施策です。朝日朝刊から。悪くはないですが、根本的な解決にはならないのではないか。問題の根源は、研究者の優秀病、論文志向、科学の蛸壺化、あたりにあると思う。まずは博士課程の指導教員、次に学生の意識改革が必要。昨日の卒論発表会でも“科学とは普遍性の探求”という発言があった。それは正しい。しかし、社会が求めているのは問題の解決です。問題の本質を理解し、解決の糸口を知り、解くためのスキルを持つことが博士課程でも教育の目標になりえると思う。問題解決の過程で真理や普遍性の重要性はどんどん相対化していく。それを知り、包括的、総合的な視点を持つように指導するのが私のやり方(言うだけでなかなか難しいのですが)。普遍性の探求はすばらしい。社会のために直接役立たなくても、文化的価値がある。人が幸せを追求していく段階で深まっていくのが文化ですから、計り知れない価値を持つ。しかし、幸せな大学人の生き方を学生に伝えるだけでは、今の時代、学生は幸せになれないのではないかと思う。私は理学研究科兼務。二つの科学の議論は20世紀を通じて深められたはずですが、ここではもう一方の科学の存在があまりに希薄。(2009年2月6日)

文科省の意向

CEReSは国立大学法人全国共同利用施設ですが、平成22年度から始まる全国共同利用・共同研究施設という体制に加わるための申請の期限が迫っています。そのため、事務方に多大なご苦労をおかけしているわけですが、その中で“文科省の意向に沿う”ということが出てくる。文部科学行政を司る官僚の意向が絶対的なもので、その意向を伝えてくれる働きには感謝のしようもないくらいです。しかし、その意向の背後にはどれだけの深慮があるだろうか。名称の話題になったとき、文部官僚はリモートセンシングという言葉を知らないから、という話があった。教育・研究を良くしようという目的の前にはまず教育・研究の中身を知ることが必要なのではないか。教育・研究は何のためにあるのか。教育・研究の目的がお上と現場で齟齬を来してしまっているような気がする。(2009年2月4日)

健康と安心

最近、目の調子が悪い。痛いし、しばしばする。実は人間ドックで緑内障の指摘を受けており、眼科に検診に行かなければならないのだが、とうとう決心して行って来ました。というのも、急性緑内障では眼痛や頭痛があるということを知ってしまったから。結局、緑内障は今のところ正常範囲で、ドライアイであったことが判明しました。緑内障が進んでいないことがわかったことは一安心なのですが、ついでに近視も出ていること、使用中の老眼鏡が強すぎることがわかりました。文明社会に生きる我々にとってWEBで様々な情報が得られることはかえって不安を増すことになるなあ。なかなか医者にかかる時間が取れませんので、というのは言い訳ですが、仕事を進めないと不安になる状況はすでに病んでいると言えるかもしれません。でも医者にかかるとやはり安心します。待合室で老子を読んでいましたが、その第九章「無理をせずに自然に生きる」、これを実践できれば楽になるのですが、組織の中では自分勝手になってしまう。そうなってしまうのも文明社会で生きているから。第12章「文明の誘惑を退ける」。これはなかなか困難ですが、社会の構造自体が変わればよい。自由そして自在に生きることができる社会。こういう社会に向けた議論も昨今の様々な危機を経験した後に始まっているように思います。こんなことを考えつつ老眼鏡を新調することにしました。(2009年2月3日)

日本人のやさしさ

大麻事件で逮捕された若麒麟が退職金が出る解雇処分になったことについて「甘すぎる」という批判が出ているようです。大ばか者で許しがたい罪ですが、若い彼を除名にしなかったのは日本人のやさしさでもあるのではないか。厳しい意見も出ていますが、それは競争社会を勝ち残った成功者の意見なのではないかとも思ってしまうのです。でもWEB投票によると私が見た時点で82%が「甘すぎる」という判断でした。いや、確かにとんでもないことをしでかしたわけですが、厳しくしてどうするの。こういう態度が日本を落ち着かない場所にしてしまっているのではないだろうか。経済危機やいろんな危機を経験した後で、新しい生き方や社会のあり方を考えなければいけない時期ですが、さて、寅さんだったらどうするだろうか。欧米型のリーダーならばまず除名でしょうが。私は甘すぎるか。(2009年2月2日)

第一次産業への流れ

今日はだいたい20平米くらいの畑を耕しましたが、一時間も持たない。そのうち、竹の根っこが出てきて掘り返しているうちにダウン。農業は体力です。春も近いので農作業でリハビリを考えていましたが、情けない。ここにはジャガイモを植える予定ですが、去年の経験からミカン箱数箱分は収穫できるはずです。一昨年はベランダ栽培を試しましたが、まずまずの収穫があることを確認しました。アメリカではグリーンニューディール、日本でも第一次産業への回帰が始まりつつありますが、この流れを失敗させてはいけない。産業としての一次産業にこだわるべきではなく、国際競争力など二の次。まず人が安心して暮らせる社会の構築が先で、それは兼業あるいは半農半Xという生き方が近道ではないのかと考えています。(2009年2月1日)

どんな働き方がいいか

朝日朝刊から。非正規労働者が増えることに賛成か、反対かという問です。いろいろな考え方がありますが、私は社会のあり方により答えは違ってくると思う。市場原理主義、自由主義経済の中での競争至上主義、成長により問題を解決、なんていう背景のもとでは人は部品になってしまう。こんな状況では非正規労働者というあり方には反対です。しかし、人がどう生きたいか、どういう社会を作りたいか、その姿が明確になった場合、多様な生き方を可能にする非正規労働者も悪くないと思います。豊かさと幸福のあり方に関する議論を深めて、世の中を変える原動力にしなければならないと思う。(2009年2月1日)

博士の就職難−その2

博士課程の就職難について朝日に投書が載っていました。職に就くまで11年かかったその苦労は想像するに余りあります。この問題は今まさに解決へ向けて限界状態にあると思います。若手の人生がかかっていますから。私の主張を繰り返しますと、責任は本人、大学院教育、社会すべてにある。一番大きな問題は何かというと、研究者の論文至上主義、優秀病によるつまらない競争により、大学院が蛸壺教育の場になってしまったことにあるのではないか。本人に関して言えば、博士課程に進学することは本人の意思であるのだから、将来について展望は持つべき。自分の専攻分野のマーケットの大きさ、可能性のある職場の探索と現状調査、そして研究界における交流、このくらいはしておくべきでしょう。これは教員側も同じですが。文部科学行政の先見性のなさももちろん問題。こんな時代に教員のやるべきことは、常に社会に向けて研究・教育の中身を発信することではないか。大きな分野に引っ付くのではなく、新しい分野、独自の分野を創造する態度が必要だと思っています。とはいえ、大学院教育では悩むことばかりです。どうも自分は甘いのではないかと悩んでいますが、私自身の主張を繰り返し伝えるのみです。学生自身のスタンダードと社会の求めるスタンダードが乖離していなければ、何とかなる。乖離してしまったら私の力不足であるとともに、学生本人の責任でもある。そうはいいますが、失敗したときに一方的に責められますとつらい。精神の修養がまだまだ足りません。(2009年1月31日)

博士の学位の基準は

今年度後半は6件の博士の学位審査に参加しましたが、今日が最後。ここで学位評価について議論になりましたので、学位の授与条件について調べてみました。昭和28年に制定された学位規則によると博士の学位は、「大学院に4年以上在学して所定の単位を取得し、かつ博士論文の審査及び試験に合格した者、又は博士論文の審査及び試験に合格し、かつ前記の者と同等以上の学力ありと確認された者に授与」とあります。当然ながら論文の中身については言及はありません。その後、昭和49年には学位規則の改正で、博士の学位は「自立して研究活動を行うに必要な高度の能力」となりました。これに基づき、現在の博士は研究者への切符であると認識されるようになったと思います。しかし、昨今は大学院重点化政策により博士課程定員が増加したことを契機として博士の質の低下が問題にされるようになってきました。私の基準は単純で、解いた課題の重要性がきちんと主張されており、論理に誤りがなく、新しい成果を出しており、課程の三年に値する作業量があれば、問題なく学位を認めるつもりです。質が問題にされる背景にはつまらん研究者間あるいは分野間の見栄競争があるように思いますが、それはおいておきましょう。最低の基準はクリアする必要がありますが、論文が“優秀な”ものである必要はないと思います。20代後半を定職なく過ごす若者の人生と未来を考えて可能性に対して学位を出すということも時にはあるでしょう。むしろ社会が博士の評価を下げればよい。末は博士か大臣か、と言われた時代ではないのだから。そうすれば肩の力も抜けて、多様な人生を歩むことができるようになる。博士○合(博士課程で主任指導教員になれるということ)を持つ教員は、どんな考え方を学生に伝えるか、常に発信している必要がある。それが社会の賛同を受けるようになれば、その感化を受けた学生も評価を受けることができるようになるのではないだろうか。博士の学位に普遍的な基準はありません。(2009年1月28日)

自然地理学の知識の効用−安全と豊かさ

自然地理学の試験が終わり、これで今年の講義日程は終わり。教科書を読めば解ける、教科書を読んでいなくても何か書けるような問題を作ったつもりでしたが、あまりできていない。それは、都市生活では自然の仕組みに関する:知識が必要ではなくなったからではないか。現代の都市の安全は莫大なコスト、すなわち税金をかけて維持されている。住民はそれを知らなくても安全な生活を享受できる。これでは勉強する意欲もわかないかも知れない。しかし、時代は変わりつつあるのではないか。自然の仕組みを知らないと、不利益を受ける時代。ひとつは災害です。いくつかの法律改正(水防法や土砂災害防止法など)で今では土地の性質について知らなかったではすまされない。もうひとつは豊かさ。良好な自然に囲まれて自在に暮らす豊かさ。自然とうまく付合って恵みを享受するには自然地理学の知識があると良い。都会の生活は“楽”です。でも、“楽”をいつまで続けられるだろうか。(2009年1月27日)

宝くじと勉強と自分探し

昨日の「深イイ話」で、“眠れないときには宝くじに当たったときのことを考える”、というのがありました。私もジャンボは必ず連番で10枚買います。抽選が終わった後も妄想に耽って楽しんで、次のジャンボを買ったときに当選番号を調べます。これまでの最高当選額は13300円。さて、学生の中には延々と自分探しをし続ける学生もいました。どうすれば自分を探せるのか。ここで宝くじに当たるにはどうすればよいかを考える。答えはひとつ。たくさん買うことです。自分探しも同じ。たくさん勉強すれば、その中に自分のやりたいことがあるはず。100やって1ヒットすればよい。宝くじはまず買う、そしてたくさん買うほど当たる確率は高くなる。自分探しもたくさん勉強して、たくさん経験すれば成就できる。ただそれだけ。自分探しを続ける学生は、自分がどれだけ与えられているのか、これに気がつかない。与えられたことに責任を感じ、しっかり勉強に取り組めば、必ず探し当てることができるんだが。宝くじからこんなことを思いました。(2009年1月27日)

奨学生、苦しさ訴える

YAHOO!ニュースのヘッドラインにありました。経済的に苦しい学生にとっては切実な問題だと思う。何とか国は奨学金の原資を作ってほしい。同時に我々大学人もやるべきことをきちんとやるべき。それは役に立つカリキュラムを提供すること、そして厳密な評価を行い、成績の良い学生には奨学金で報いるといった仕組みがあってよいのではないか。講義に緊張感が生まれます。そんなことをしたら研究の時間がなくなるという声が聞こえてきそうです。しかし、大学も時代に合わせた行動が求められているのではないか。研究に没頭できる幸せな大学人でよいのか。それは誰が望んでいるのか。やはり、何らかの説明責任が要るのではないかと思うこのごろなのです。とはいえ、研究の時間がなかなか取れないことが悩みの種なのですが。それにしても我が子を大学に行かせるということは親にとって大変なこと。実際に子がその歳になると実感できます。留学生の親の努力も大変だろう。できる限りがんばって報いなければと思います。(2009年1月26日)

モンスターペアレントの時代の終わり

朝日の耕論で取り上げられていますが、この深刻な問題はまだまだ解決にはほど遠いのか。この問題は大学でも同じ。がんばらない学生には学位は出せないが、“自分の子は優秀なのだからそれは教員のせい”。こんな論理は通るわけないのだが...。教員に与える苦痛は計り知れない。日本中でこんなことが起こっているのだろうか。しかし、変化の芽も出ているように思う。神戸女学院大の内田さんが言うように、「問題点を指摘し、責任者を糾弾し、変革を求めることが、この国を良くする最良の処方箋」という考え方からの脱却が始まっており、今回の経済危機はその契機になるはず。教員を糾弾すれば何とかなるという時代は終わりにしなければならない。最も重要なことは問題の個別性に向き合うことで、そのためには対話が必要。内田さんの言うように「面と向かって(向かってくれればまだましなのですが)誰が悪いとののしるよりも、協力を取り付ける努力が大切」。まさに競争ではなく協働の時代が始まっている予感がします。それにしても大学人とてモンスターペアレントであることもある。そんな親の起こした問題は競争至上主義に根ざす優秀病が根にあるのではないか。自分だけでなく、自分が関わるものが優秀といわれないと不安でしょうがない。論文数に代表される数字によって自分を守り、他を攻撃する。今日の社説では「大学生の学力」として大学の抱える問題も論じられている。大学は今その力を問われている。つまらない競争、足の引っ張り合いなどしている場合ではないのですが。(2009年1月25日)

寒さに想う−問題の相対化

寒い日が続いています。若いころはなんともなかったのですが、やはり歳をとると寒さがきつい。地球温暖化問題など吹っ飛んでしまいます。けしからんという御仁もおられることでしょう。しかし、問題が山積みの昨今、なぜ地球温暖化問題がこうも注目を集めるのか。他にもエネルギー問題、食糧問題、経済問題、雇用問題、等々様々な問題が存在している。ここで重要な認識はそれぞれの問題は関連しているということ。たとえば熱帯林が伐採されるのは、そもそもWTO体制に原因のひとつがある。平らなアマゾンの牧場を広大な大豆畑に転換すれば、WTOに入るために関税を下げた中国に安く輸出できる。その結果、牧場は奥地に移動して熱帯林を破壊し、せっかく作った大豆が売れない中国の農家は泣いている。問題はどのように解決すべきか、少なくともどのような態度で臨むべきか。それは包括的な視点を持ち、問題間の関係性を捉えること。この過程で個々の問題の重要性は相対化していく。最後は、人はどう生きたいのか、どんな社会を作りたいのか、という議論に収束していく。安心して、誇りを持って暮らせ、少しの豊かさを享受できる社会。人が生きるということは必ずどこかで、何かに影響を与える。その折り合いをどうつけるのか。これを考えなければならない。(2008年1月21日)

大学評価は学生にとっての大学を良くするか

大学評価・学位授与機構による大学評価結果の確認がきました。我が部局の評価は悪くはないのですが、やはり全体として新しいこと、変わったことを行ったことが評価の対象になっているように感じます。いつも思うのですが、こういう評価では大学としてやるべきことを、地道にやったということは評価されにくいようです。この評価結果が予算や人事に反映されるようになったら、さて大学は良くなるのだろうか。誰にとっての大学か。学生にとっての大学は自分の技術、知識、経験を深めるということがメリットだと思いますが、学生の立場からの評価がされにくいように思います。学生というのは総体ではなく、個々の人であるから。小さな個人が集まって学生の総体を構成しており、個人個人の満足、幸せの積み重ねが総体としての学生の満足、幸せになる。総体としての学生を先に持ってくると、多様な個性を持つ個人の満足、幸せからは遠くなってしまうかもしれない。学生個人や研究室といった小さなグループの満足、幸せを個々に評価しなければ全体の評価は本来なしえない。今行われている評価からは人に対する暖かさを感じ取ることができないのですが、どうだろうか。(2008年1月20日)

就職漂流−博士の末は

これは朝日の「新学歴社会」の記事のタイトルです。こんなに大きく書かれたらますます博士課程の進学希望者が減ってしまうことを懸念しますが、文科省の今泉さんが言うように「責任は彼ら自身や大学院教育、産業界・社会などすべてにある」、その通りだと思います。まず学生の視野が狭いということが深刻な問題だと思いますが、その背景にはこんなことがある。研究者の論文数至上主義が研究界を論文製造産業に変えてしまい、数の論理で分野間競争で優位に立とうという姿勢は個々の研究を瑣末なものに変え、博士課程の学生の包括的な問題解決能力を損なっている。研究者としての教員側は分野を強くすれば、分野の中で閉じることができ、就職問題も解決できるので、分野間の競争は激しくなる。しかし優位に立ったとしてもそれはバブルにすぎない(かなり穿った見方ですが、“あると思います”)。私は大学人ですのでまずは大学院教育の問題を考えなければなりませんが、社会との関連をもっともっと意識し、伝えたい。真理の探究に興味があって、社会のことに関心のない研究者は知識をいかに伝えるか、教育・啓蒙にも関心を持つべき。自然を扱う分野は社会との関連をもっと考えてよい。環境は人・生態系と自然との関係なのだから。研究は面白いが、研究として面白いということは重要であるということ。社会や生態系に対する重要性を研究者はもっとまじめに考える必要がある。そして、重要なことは伝えなければ意味がない。一方、社会側の問題としてはトップダウンが強くなったが、トップ側の力量が追いついていないということがあると思う。また、自由主義社会では競争の価値が過剰に意識され、それが大学経営に持ち込まれたことの影響もあると思う。もっともこういった点は2008年の経験に基づき、2009年は見直しの年になると思います(そうならなきゃ“変”)。私は2009年度の目標として学生と社会のコミュニケーションをはかることを挙げようと思う。卒業生にもご足労ねがい、社会感覚を学生に醸成し、人材育成に役立てたい。まずは「応用地学通信」をリニューアル復活させます。(2008年1月18日)

ソフトウエアとソフトウエア業界の健全な発展のためには

大学からすべてのソフトウエアについてシリアル番号までも含めて報告せよという命令が昨年ありました。私の場合あまりに膨大な作業量になるために今まで抵抗していましたが、不届き者(私です)の名前の公表も始まり、つまらんことに時間を使いたくないので事務用のコンピューターについては報告しましたが、3時間ほどかかってしまいました。対価を支払って利用権を得て、メーカーから厳密なライセンス管理を受けて使用しているにも関わらず、なぜこんな無駄な時間を使わなければならないのか、いまだ良く理解ができません。ネットでアクティベートとか、ドングル使用で不正コピーなど不可能になったと思っていたのですが。それにしてもライセンス番号まで大学が把握するとなると、これが流出したときに不正コピーの責任はすべて大学が負ってくれるということなのか。これからは大学がライセンス料を払ってくれるのか。そうなったとしても、使うソフトを指定されてしまったらまた無駄な時間を費やすことになるし、自分が好きなソフトを使いたい。ソフト選択の自由は基本的人権には該当しないのだろうか。私はライセンス料は年間50万円以上支払っており、その管理のために多大な時間を要しています。その上、予算的に継続できるかも難しい状況です。ソフトウエアは道具であり、それを使うこと自体が目的ではない。少しずつフリーのソフトウエアに移行することも始めていますが、私は必要な対価を払うことは業界の発展のためにまったくやぶさかではなく、そしてそれが便利な道具の開発に繋がればこんなすばらしいことはないと思っています。メーカーも大学に脅迫状めいたものを送りつけて、我々の仕事を増やしてほしくはありません。ソフトウエアに関してはメーカーとユーザーの関係がおかしくなっているように思います。(2008年1月10日)

変−お任せの時代の終わり

今週も早終わり。いろいろありましたが、どうしても気になる発言がありましたので書き留めておきます。総務省の坂本さんは年越し派遣村に集まっている方々に対して、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」と述べました。最近は政治家の現場感覚のなさに辟易していますが、行政も同じかと思わせる発言です。しかし、これは特別な方が特殊な発言をしていると見るべきでしょう。多くの官僚はまじめに職責を果たしている。派遣村に集まっている方にもこの発言に該当する方がいるかも知れないが、ほとんどの方はまじめに働いたが万策尽きて集まっている方々だと思う。困っている大多数のために施策を講じるべき。特殊な事例を引き合いに出して政策を進めるべきではない。政治や行政は全体の状況を的確に把握できているのか。ここをしっかり見極めたい。施策が正当かつ公正になるためには人はもっと賢くならなければならない。今年実行すべき変“change”のひとつは、豊かであった時代に通用したお任せの態度を変える、ということかも知れない。(2009年1月9日)

「民意」とは−「意見」より「気分」に近い

朝日の耕論における京大の佐藤先生の意見。確かにその通り。「意見」は時間をかけてじっくり作り上げられるもの。「気分」は熱しやすく冷めやすい。このことを早く自覚すべきであった。「綸言汗のごとし」。権力者の「気分」に左右されていた自分が情けない。きちんと「意見」を持って反論すべきであった。どうも私は人の発言に左右されやすい。誹謗中傷などに左右されずに、自分の「意見」を主張する強さがなかなか身につかない。そんなわけで最近、老荘思想に興味があります。仕事に追われていますが、少しずつ勉強したい。「マンガ老荘の思想」なんて読み始めていますが、マンガも侮れないと思います。(2008年1月8日)

カントの自然地理学とフィールド体験

ふと本棚にある講談社人類の知的遺産43「カント」を手に取りました。学生時代に買ったものですが、それはカントが「自然地理学」を著していたので、どんな人物か気になったからです。カントによると、地球の観察には三通りあり、第一は数学的観察、第二が政治的観察、そして第三が自然地理的観察になります。自然地理的観察では様々な対象を物理学のような厳密さ、完全さで扱うのではなく、いたるところでいろいろなものを探し出して、比較し、計画を練る旅行者のような知的好奇心で扱う、とあります。18世紀における卓見でありますが、現代は三つの態度のあり方に偏りがあるように思います。第一が強い。さて、カントは世界の様々な地域に精通していましたが、実はカント自身は書斎の人で、ケーニヒスベルクに留まり、生涯旅をすることが無かったそうです(榧根勇著「地下水の世界」より)。となると、私が主張しているフィールド体験の重要性はどう考えたら良いのか。中国西域の研究で優れた業績を残している保柳睦美も書斎の人であったという。勉強により他人の経験を自分のものにすることもできるということかも知れません。もちろん前提は包括的な視野、センスを持っていることです。やはり若い人はフィールド体験をした方が良い。思い返せばこの20年の間、私もアジア、アフリカ、中近東の農村をずいぶん回っています。私は衛星画像を持っていますので、後は勉強、情報収集によって地域の経験を積み重ねることも可能だろうか。最近、どうも不調でフィールドに自信がなくなっていますが、ここにわずかな希望を見いだしたい。(2009年1月7日)

いろいろな人生

この春に日本に来る予定の留学生のための書類申請で入国管理事務所に行ってきました。入管にはたまに行きますが、いろいろな国の方々がいろいろな思いでやってきているなと感じます。順番カードをとったら、おそらく中国系の方が自分はまだ記入があるからといって若い番号のカードと交換してくれました。なかなか日本ではないですね。カウンターで憤っている方もいますが、事情があるのだろう。さて、書類は受理していただけましたが、資金を証明する書類が必要だという。裸一貫でやってきてがんばる、なんてことはだめなんですかね。親の在職証明書を後で送ることで許して頂きました。留学生30万人計画実現のためにはまだまだやるべきことも多いと思います。今日は修士課程の学生が博士課程入試の書類を出すはず。彼ら、彼女らの研究計画の実現のためにがんばらねば。(2009年1月6日)

変わらないということ

今日は仕事始めで新年会がありましたが、センター長の挨拶はやはり“変”(change)でした。オバマさんによってパワーアップされて、様々なコンテクストで使われていますが、今大切なChangeは“変わって変わって元に戻る”ということではないかと思います。ただし、“変”な経験(2008年に起こった様々なこと)をした分、元の位置に戻っているのだが高まっている(私は“深まっている”といった方が好き)ということ。今の大学は“変わったこと”をやらなければ評価されないが、やるべきことをやったことが評価されるべき。当たり前なんですが。社会も行きすぎた市場原理主義を反省し、人間の尊厳に戻るべき。変わらなくてもいいんです。変わらないということは深まること(内山節)。人の道も新しいことを考えなくとも、中国の古典にはすべて書いてある。大学は教育・研究を深めることが大事。私はこう思います。(2009年1月5日)

大学の教育は何のためにあるのか

年末にたっぷりと仕事を持ち帰ったのですが、結局三元日はやる気になれず、普通の日曜である今日になって新規開講予定の「水文学T」の講義ノートの準備を始めました。コンサル系の業務でも役に立つ内容を講義したいと考えています。朝日朝刊に「専門学校化する大学」という記事があり、「教養重視か実学か、続く模索」といった議論がされており、ICUの日比谷副学長は「大学の学問は職業のためにあるのではない、ものの考え方や人生を学ぶ教養が大切」と述べています。格好いいのですが、ほとんどの学生は就職して社会に出ます。社会で役に立つ「ものの考え方や人生を学ぶ教養」とは何でしょうか。正しい考え方が社会で常に通用するわけではなく、人生について教員はどれほど語れるだろうか。私は理学研究科兼務ですが、サイエンティストの追求する真理の探究の精神は人生を語るか、また社会で役に立つか。シャープな真理よりも複雑多様な中での折り合いを付ける能力が社会では大切でしょう。これは本質を見極める能力ともいえます(環境問題分野を念頭に置いています)。学生の人生は現実ですから、私は教育も現実的に考えたい。もっとも、私の周りではこういう議論が十分になされていないのが一番の問題です。(2009年1月4日)

書を読めば万倍の利あり≪古文真宝≫

海外の卒業生や、留学生、春から日本にやってくる学生達から年賀状や年賀メールが届きつつあり、ちょっぴりうれしい気持ちになっています。彼ら、彼女らに何を伝えるか、これが常に私の課題であるのですが、宮城谷昌光「中国古典の言行録」で以下の言に出会いました。「学べることは教えられず、教えられることは学べない」。これは中国古典ではないのですが、まさに関係性探究型科学、環境学、現場学、等々の側の立場を代弁していると思います。真理探究型科学では体系が整っているので、教えることは決まっている。しかし、様々な要因の関係性に基づき、結果から原因を探求するタイプの科学では体系などないし、短期的な教育のカリキュラムを構築することも困難。しかし、膨大な知識は書の形で身近なところにある。私は留学生には日本語をしっかり勉強して、日本の文献から知識を得るようにと常々言っており、知識間の関連性から問題の理解、解決の糸口を見つける態度を身につけてほしいと考えています。だから、書を読むことには万倍の利がある。日本の知識を書から得た上で、今度はアジア各地の地域性、風土を理解し、その知識を応用してほしいと思うのです。教員は刺激やきっかけを与えることしかできません。「憤せずんば啓せず、俳(イを小)せずんば発せず」、孔子の啓発です。(2009年1月3日)

文化−人間の幸福を追求していく過程で高まっていくもの

正月休みに本を読んでいますが、宮城谷昌光の「春秋の色」の中に、こんなことが書いてありました。現代社会では人は否応なく競争に巻き込まれ、消耗しているわけですが、それが人の幸福に直結するとは思えない。幸福に繋がるのは協働であり、これが競争の対語だと思う。競争は文明を高めるかも知れないが、文化を高めるのは協働であり、それは幸福を近づける。今年は文化について深く考える必要があると思いました。(2009年1月2日)

新年を迎えて−山本周五郎「風鈴」−

2009年最初の朝を迎えました。お雑煮を頂いた後、まず最初に山本周五郎の短編「風鈴」を読み返しました。私はだいぶ昔に買った大和出版「人は負けながら勝つのがいい」に収められているものを読みましたが、新潮文庫「小説日本婦道記」にも収録されている様です。ぜひ読んでほしいと思います。人は何のために生きるのか。決して暖衣飽食のためではない。偉くなるためではない、お金を増やすためでもない。私は小さくとも価値があった、役に立ったということを積み重ねていきたい。積み重ねるというよりも、深めて行きたい。高みに登ること、人から賞賛されることではなく、ある人にとって私の存在は価値があった、それでいいと思います。(2009年1月1日)


2008年12月までの書き込み