口は禍の門

2008年も秋に突入しました。ススキとブタクサと青い空は秋の風情です。実に気持ちがいい。ブタクサは帰化植物なのに、あの黄色い花は今や日本の秋には欠かせないように感じます。こんな風に人の心もだんだんと変わっていくのだろうか。しかし、変化にも正しくない変化があるだろうな。それを見極めなければいけない時が来たように思います。

2008年も半分過ぎました。HTMLも重くなったので改ページします。最近イアン・カルダー著「水の革命」(蔵治光一郎・林裕美子監訳)を読みました。副題に−森林・食糧生産・河川・流域圏の統合的管理−とありますが、私の目指しているものはこれなんだなと思いました。ただ、私は管理という訳語があまり好きではないので、日本語の場合は−統合的管理と保全−がいいかなと考えています。すっきりしたところで、しばらく考えて研究のフレームをさらに深化したいと考えています。

2008年6月までの書き込み


大晦日を迎えて

“変”であった今年も最終日を迎えましたが、今年は私にとっても大変な一年でした。いろいろなことを考え、そして今、来年について考えていますが、今年最初の書き込みでこんなことを書いていました。「今は地球温暖化が世の中の関心事ですが、防止を唱える前に、問題の現場で人と自然の関係がどうなっているか、近代化やグローバル経済との関係がどうなっているか、見極めなくてはなりません」。その後、食糧危機、石油価格高騰、金融危機、景気後退、派遣切り、等々を経験し、WTO体制推進と地球温暖化対策の矛盾なども知り、この思いはますます強くなっています。そもそもベルトコンベアに象徴される100年前の“工場革命”が人を部品に変えてしまったことが混乱の始まりではなかったか。自由主義経済は結局お金を増やすことだけが目的となり、人の尊厳が重視されなくなってしまった。危機はリーマン以前に始まっていた、なんてよく言われていますが、新しい時代の芽も実は各所に出ている。それに気づき、育てていくことが来年の目標ですが、私などには大きすぎる課題です。しかし、たくさんの小さな努力を尊重し、結びつけ、深めていくという態度こそが新しい時代の態度だと思います。だから、自分のやることは小さくても良いのです。(2008年12月31日)

幸せではない時期があったからこそ

朝日天声人語から。この後は、今の幸せがわかる、と続きます。こんな当たり前のことが忘れられているのが現在ではないか。様々な経験、それが難しいならば広い視野、包括的な視点を持つことの大切さ、それがわからなくなっているのが現代。今年は麻生さんの“カップ麺400円発言”がやけに印象に残っていますが、庶民の生活がわからなければ庶民のために働けないではないか。もっとも麻生さんに限ったことではなく、最近の首相はみなそうです。財界人も同じで、2007年1月29日には御手洗ビジョンについて生活者の視点が欠けているとここで書きました。大学人では違う分野の考え方がわからなくなっている。こんな話を思い出しました。ある分野の論文が20ページあったので、別の分野の方がこれは4本の論文かと質問したそうです。その分野では投稿数が多いため、1編5ページに制限されているそうですが、自分の分野の常識が普遍的で、他の分野でも同じと考える浅はかさ。こんなことが通用している現代はやはり、“変”です。来年は“多様性の認識と、その尊重”が人の生き方として広く浸透する年としたい。(2008年12月30日)

中教審、大学卒業認定の厳格化を答申−普遍性、一般性と個別性の関係

これは当然のことで、私もぜひそうありたいと常々思っています。しかし、なぜそうならないか。その理由のひとつは学生のドロップアウトは教員あるいは組織の力不足として評価されるからです。がんばらなかったから学位が取れなかった、という単純な理由を学生や親、社会が理解できなくなっている。それがどんなにコスト増、負担増になっているかに気がつかず、教員にすべての責任を押し付けている実態があるように思います。だから教員も時には最低の基準で学生を送り出さざるを得なくなる。私が懸念するのは、これでますます講義や論文指導の手順について仕事が増えるのではないかということ。恐らく講義目標とか、厳格な評価法とか、様々な書類作成が増えるのではないか。それも一理あるのですが、私は背後に普遍性、一般性は個別性の上にあるという暗黙の了解あるいは誤解があるように思う。普遍性、一般性を明示すれば個別性にも対応できるというのは大きな誤解であり、普遍性、一般性というのはどこでも成り立つというだけの価値しかなく、その上にある個別性を理解できなければ人に対する教育はできない。一般性、普遍性の上に個別性があり、問題は個々に解決しなければならないのです。書類作成の負担は確実に増えるでしょうが、こういう筋は通したい。これは環境問題も同じ。今年はいろいろなことがあった。食糧、エネルギー、そして金融危機。ここから何を学ぶか。それは普遍性、一般性と個別性の関係であり、世界と地域の関係であり、全体の幸せと部分の幸せの関係、なのだと思う。(2008年12月25日)

お客様のスタンダードと社会のスタンダード

だいぶ長らく書き込みが途絶えていました。ちょっと前に指摘されたことがあるのですが、書き込み回数で私の精神状態がわかるらしい。確かに最近は疲れていました。さて、昨日は「第6回水文過程のリモートセンシングとその応用に関するワークショップ」を田町のキャンパスイノベーションセンターで開催しました。皆さんに無理を言って開催したので、なるべくご迷惑をかけないように自分でできることはすべて自分でやりましたので疲れましたが、楽しいワークショップでした。テーマセッション「災害情報システム」ではさまざまな機関の方にご講演いただけたのは学会あるいは大学主催のメリットだったかなと思います。実は同じような問題意識の元で関連する企画が各所で立ち上がりつつあり、横の繋がりとして集まっていただけたのはタイムリーな企画だったと思います。ひとつ気になったことは、終了したらすぐにうちの学生は帰ってしまったこと。広大や京大の学生や先生方に手伝っていただいて後片付けをしながらこう思いました。学生はお客様というのが千葉大学の方針、少なくとも前執行部の方針ですのでそれに従っているだけですが、お客様というのは自分のスタンダードだけで判断し、行動するものです。しかし、社会あるいは自分が関連する分野、組織のスタンダードを意識し、その中に自分のスタンダードを位置づけるということができなければ、社会人足り得ない。指導教員と大人としての社会的関係が保てなくなり、評価の時点で苦しいことになってしまうわけです。学生を研究に使うな、というのも前執行部から厳命されたことですが、指導教員との協働研究の中で責任を果たすということから学び、社会人として成長していくのだと思います。千葉大学の執行部も変わりましたので、自分も変わらなければいかんと思います。来年は近藤研究室の強化が目標になります。(2008年12月20日)

場当たり補強、選手憤る

東京ヴェルディーがJ2に再降格しましたが、それに対する朝日のヘッドライン。経営陣の場当たり的補強が再建失敗の根源であるという。一部関係者は「クラブを育てる発想がない。イベントの一つとして運営している」と批判する、とも書いてある。この“場当たり”というのが大学の運営に似ているように感じる。書いちゃった中期目標を達成するために、年ごとに場当たり的な施策、イベント的な発想で切り抜けているように思える。何より、長期的な展望がなく、大学がやるべきことを深める行為は評価されることがない。今こそ、社会の要求と大学の仕事の一貫性を考えるべき時が来たと思います。(2008年12月8日)

現実感は大切

前の書き込みで現実感と書きましたが、この“現実感”が大切だと思います。朝日朝刊にありましたが、芥川賞を受賞した楊逸さんの話からの発想。もう十数年も前、楊さんが父に「中国も民主化しないでだめだね」と話したら「中国の十数億の人々におなかいっぱい食べさせるのは大変なんだ」とのこと。こういう現実感は重要だと思う。私の関わる環境問題、特に地球温暖化の分野でも生活の場における現実を飛び越えた論議が盛んなように感じる。経済でも人の暮らしから乖離した、競争至上主義や市場至上主義すなわちお金至上主義がまかり通っていたように思うが、これは考え直さざるを得ない状況になったことは不幸中の幸いだと思う(麻生さんはまだ気がついていないかもしれない)。大学も研究のことばかりでなく、目の前にいる学生のニーズという現実を考えた方が良いと思う。(2008年12月7日)

雇用危機について

昨今の雇用危機はますます深刻度を増しています。一国の政策としては例えば北欧は収入保障、そして日本は雇用保障だったはずです。しかし、国民がみな勝者を目指して規制緩和した結果が今の状況を生み出したと言えます。こうなることはわかっていたという言い方は確実にできるはずであり、間違った政策を正すためには方針転換も憚ってはいけないと思います。そこで、かねてからの主張ですが、第一次産業を基軸として兼業が安心を作る社会の構築はできないだろうか。農村の生活費は住が提供されれば、食は何とかならないだろうか。お米は茶碗一杯が24円。価格が高めに設定されている鳴子の米でこの値段です。一日三食食べるとして年間26280円。これにおかず代をプラスすると総額いくらになるでしょう。地産地消の地域経済の中で幾ばくかの現金収入を得れば何とかやっていけるのではないか。半農半Xの生活から、次のステップが見えてこないだろうか。欧州では農業に対する経済的支援は充実していますが、日本でも兆円規模の定額給付金が出せるのなら、帰農や兼業支援に使えないだろうか。大学人の考えることですので、現実感がないかも知れませんが、是非ともご意見を伺いたいと思います。(2008年12月7日)

評価について

忙しくてしばらく書き込みができませんでした。今週もいろいろありましたが、評価という行為に関する仕事が三つありました。そこで感じたことは、評価とは時に誤解に基づいて行われる行為である、ということ。あるいは評価のための完璧なものさしはないということ。もうひとつは評価の場では信念、理念を明確に打ち出してまっすぐに主張すること。不調を恐れて先延ばしにしたり、逃げたりすると後まで禍根を残します。これは私自身骨身にしみています。自分の考えを伝える努力をすること。自分の頭の中にあることは相手は自動的に理解はしません。人の誤解はほとんどこれ(自動的に理解すると思うこと)が原因です。そして自分の考えと異なった決断が下されても、それを尊重すること。(2008年12月6日)

やるべき時にやる仕事

国家公務員の超勤の上限指針が月30時間から60時間に見直されたそうです。大学の教員は超過勤務手当はないので、よくわかっていないのですが60時間分の手当が保証されたということか。でも、現員で超過勤務せざるを得ないほどの仕事があるということは労務管理がなっていないということですので、これはやるべき時にきちんと仕事ができるように手当の裏付けをしたということでしょう。昨今は仕事とプライベートを分けて、決められた勤務時間さえこなせば良いという風潮もありますが、やはりやるべき時にやるべきであり、そういう社会を自由主義経済の時代を生きる我々は否応なく選択させられているのだと思います。それにしても週末は学生が来ない。やるべきことがあり、それが決して進んでいるとは思えないのに。特に評価される仕事(卒論、修論)をしているときはもう少しやっても良いと思うのですが。成果を出す責任にも気が付いていないのか。私は古い人間なのでしょうかね。(2008年11月30日)

自殺について

喪中はがきを書いていますが、母に見せられて一月に亡くなった父の日記を読みました。松岡元農相の件を引きながら、自殺はそんな簡単にできるものではない、とあった。二回目の抗がん剤治療の前に自宅に戻った時に父は自殺を考えたようだ。でも、癌の末期で命の消えかかっているときでさえ、自殺なんて簡単にできるものではないということ。自殺する人は勇気があるなんて思ったこともあるが、その人の追い詰められた状況は我々の想像を遙かに超えたものなのだと思う。私は小心者ですのでとても自殺などできませんが、眠りについた後このまま目が覚めなくても良い、と思ったくらいの経験はあります。その時の苦しい気持ちはもう二度と味わいたくない。少なくとも人をそんな気持ちにさせる行為は絶対にしたくない。お人好しと言われようとも。日記の最後は、もう字が書けない、とありました。痛み止めの麻薬のせいです。その時に人としての父は死んだのだと思います。それから5ヶ月後に父は逝きました。(2008年11月30日)

問題の理解から解決へ

今週もいろいろありました。インドのテロ。ムンバイの事件の直後、「テロは許さん!」といった発言が相次ぎましたが、それだけでいいのだろうか。第一報でも「デカン・ムジャヒディン」といった組織の名前が報道されていましたので、イスラムが関係していることはわかりました。確かにテロは許すことはできませんが、インドのモスレムがどのような境遇に置かれていたか、想像するだけの歴史の知識は持ち合わせています。ここを考えないと問題の解決はほど遠いと思う。そこには人の「こころ」があります。ここがわからないと問題の理解はできない。理解がないと解決はできない。今週は朝日でも柳田邦男氏が「心」について語っています。実は、このことは皆さん気が付いている。しかし、そこを公にできない社会の雰囲気があるとすると、それこそが問題です。私には裁判員候補の通知はまだ来ていませんが、もし裁判員になったら、「こころ」を深く掘り下げてみたいと思う。(2008年11月29日)

米のパン

現代農業誌で米のパンに関する記事を読んで気になっていましたが、パン屋さんで見つけて食べることができました。もちもち米パン。これは美味いではないですか。十分いけます。APECでは、WTO合意を誓約してしまったそうですが、そうすると国内の麦生産は大打撃を受けます。小麦はますます輸入に頼らざるを得なくなり、安定供給に懸念が出てきます。というのは、今回の食糧危機で穀物輸出を停止した国がEUも含めて続出しましたが、食糧安全保障は国連が認めた基本的人権のひとつであり、なんら非難されることではないからです。ならば、日本人は米をもっと食べよう。とはいえ、WTO合意が達成されたら国産の米も危うい。やはり、グローバル経済とは独立した地域経済圏の中で、地域が認める付加価値をつけて、高くても国産の穀物を流通させる仕組みが必要だと思う。(2008年11月25日)

食の安全と見えない真実

朝日の「あなたの安心」に食の安全に関する記事がありました。昨今は中国からの輸入食品が敬遠される傾向にありますが、輸入届出件数に対する違反件数ですと中国は0.07%でタイの0.1%の方が多い。輸入件数が多いから違反件数も多かったといえそうです。アメリカも0.06%で少ないわけではない。ただ、中国は農薬入り餃子やメラニン入り乳製品が具体的な被害を引き起こしたり、事件性も考えられる点で印象が異なるのかもしれない。その事件の真相はまだ明らかにされていませんが、グローバル経済に組み込まれた食品業界の陰で泣いている農家もたくさんあるということもわかってきました。風評やステレオタイプで問題を理解しようとしてはいけない。問題を理解しようとする真摯な態度が必要であり、これこそ成熟社会の市民の取るべき姿勢なのではないかと思う。地球温暖化問題も同じ。大学ができることは見えている部分の背後にある真の問題点を指摘して伝えることではないか。ここに教育の目的があると思います。(2008年11月25日)

WTO年内合意「誓約」、ポスト京都で「協調」

APECに関する二つのニュースのヘッドラインですが、ここに矛盾は無いだろうか。現代農業12月号で拓殖大の関先生がわかりやすく説明していました。再掲すると、熱帯林の伐採と関連するブラジルの大豆収穫面積と中国の大豆輸入量の増加は同期している。中国の輸入量増加は経済発展というよりも、1996年にWTO加盟のために大豆の市場開放をしたからで、所得が減少した中国の農民は泣いている(2008年11月9日参照)。インドネシアやマレーシアでは広大な熱帯林がプランテーションに転換され、炭素の放出を促進しているが、背景にはインドのヤシ油輸入の増加がある。それはインドが1994年から植物性油脂を保護対象から外したことが理由であるが、インドの農民と菜種油産業は壊滅的な打撃を受けた。一国の政策には一貫性が無ければならないが、WTO体制の強化と地球温暖化対策の間にある矛盾点は明確であろう。アジアと南米の熱帯林を守るための効果的な方法は農産物の高関税化なのである。(2008年11月24日)

勝手に提案すること

朝日朝刊の大学評価に関する記事「国の『評価』に不満や提言」の中で千葉大学からの提言として、「行政当局への施策提言の機能を強化」とありました。これは文部行政の仲良しグループに入れてほしいということだろうか。ここで行政を地方自治体とすると、この提言は今でも十分実現できるのではないか。むしろ、どんどん提言して行けばよい。そこで、表記の安藤忠雄さんの言葉を思い出したわけです。日本のいろいろなシステムに綻びが見え始めた昨今、これから必要なのはボトムアップ型提言だと思います。地域発のアイデアをたくさん出して行くことが地方大学の存在意義なのではないだろうか。いいアイデアは勝手に提案していけばよい。現場と大学で問題の“解決の共有”ができた段階でそのアイデアは取り上げられるはず。(2008年11月24日)

つねに、より深きものをめざして

千葉大学憲章にある千葉大学の理念として、「つねに、より高きものをめざして」とあります。この「高きもの」がずっと気になっていましたところ、朝日の教育欄で「『はやく・高く』に抗し10年」という記事を見つけました。名古屋の小学校教諭の岡崎先生が編集している雑誌の創刊の辞に「学校をすみずみまで支配している『はやくて高いことが良きこと』という価値観をいちど凍結してみませんか」とあるそうです。その通りだと思います。価値観とは“思いこみ”の一種で、一度見直すと全く異なる世界が見えてくることがある。そこで、千葉大学憲章ですが「より深きものをめざして」とすることによって大学の本来の機能を発揮することができるのではないだろうか。論文数や獲得予算で見かけの高さを競うのではなく、真に価値ある成果を自信と誇りを持って社会に提出する、また、学生に伝えるべきことを明確にして確実に伝える、小さな成果を積み上げながら、知識、経験を深め、そして伝統を作っていくのが大学教員の仕事ではないだろうか。深めるといっても、狭い領域に入り込むことではない。武蔵野には“まいまいず井戸”という井戸がある。地下水面が深いために、円錐状の大きな窪みを作ってから底に井戸を掘る。深い水を汲み出すためには、その口は広くなければならないのです。法人化以降、こんな大学の姿からは遠ざかるばかりです。(2008年11月23日)

思い込みと苦し紛れ−我々を苦しめるもの

今日は土曜日ですが、休むわけにはいかない。やるべきことが山ほどあるから。通勤路の途中に巨大なパチンコ屋がありますが、朝からどんどん車が入っていく。彼らは幸せだと思う。ウィークデイはきっちり仕事をし、週末にパチンコで楽しむのでしょう。そこに楽しみがあれば立派なレクリエーションだと思う。余暇は自分を高めるためにあり、パチンコなんて時間の浪費、なんて思い込みが人を苦しめる。最も深刻な思い込みは、より優れたもの、普遍的なものに向かって変わっていかなければならない、という思い込み。これは元をたどれば唯一絶対神を信じるキリスト教の考え方であるし、競争から闘争に陥ってしまった行過ぎた市場経済の考え方ではないのか。今日の仕事のひとつは大学の中期計画関連の文書を作ることですが、これはトップダウンの仕事です。このトップの決断に我々は翻弄されているのですが、実はそれは苦し紛れの判断ではないのだろうか。最近の日本の政治や行政を見ているとその観を強くします。結局、我々を苦しめているのは思い込みと苦し紛れの二つ。ここを反省して、新しい社会のあり方を考えなければならないのではないか、などと呟きながら仕事をしています。(2008年11月22日)

「未来のことはわからない。しかし、われわれには過去が希望を与えてくれるはずである」。その2

ひとつ前の書き込みは過去を100万年スケールで捉えましたが、数十年スケールで捉えるとまた別かもしれません。それは昭和30年代以前の農山村。人と自然と村がよい関係であった時代。地域ベースのフロー消費型社会で、人が誇りをもって、自由自在に生きることができた時代。もちろん、過去に戻るべきというのではない。この時代の良い点を学び、現在の知識を同時に生かして、安全安心社会構築へ希望を見出すヒントを探すことができるのではないか。昨日、20代のOLに山登りやトレッキングが流行しているというニュースを聞きました。団塊の世代の帰農も盛んです。直売所も元気。単なるノスタルジーかも知れません。でも、研究する価値はあると思います。(2008年11月21日)

「未来のことはわからない。しかし、われわれには過去が希望を与えてくれるはずである」。

もうひとつチャーチルの言葉。とすると、人類にとって地球の将来に希望を見出すことは困難。なぜなら、地球温暖化しようがしまいが次にくるのは氷期に向かう寒冷化です。人にとって寒冷化ほど怖いものはない。ブロッカー仮説、ラディマン仮説を反駁する新しい仮説はまだありません。何より、過去何回も繰り返してきた長い氷期と短い間氷期の繰り返しが、今終わったと考える証拠は何もない。今、人類がなすべきことは寒冷化に備えることだと思います。それは科学技術だけではない。確固たる思想を持つことも重要だと思います。とはいえ、寒冷化が深刻になるころには地球人口は相当減っているかもしれない。それが唯一の解決策であり、自然とそうなっているのかもしれないなあ。それはいつのことだろうか。ずっと先のことなので、数十年スケールで温暖化の影響を憂慮すべきというのが現在の論調ですが、現場にはそれを乗り越える力はあると思うのです。今でも様々な地域の取り組み、工夫がある。それらの活動はどれだけ認識されてるのだろうか。(2008年11月21日)

「20代でリベラルでなければ情熱が足りず、40代で保守でなければ思慮が足りない」

偶然、心に留まる言葉を発見しました。チャーチルの言葉だそうですが、これを知って思いました。私は50代になりましたが、若いときほど科学技術に夢を託すことはなくなった。若いときは屈託なく未来を考えることができたが、歳をとると現実が見えてくる。解くべき課題の優先順位が変わってきたということなのだろう。あまり夢を持たなくなったようにも感じるが、私は夢とは実現すべきもので、実現までのマイスルトーンを描くことができるものでなければならないと考えている。そうすると、夢がなくなったのではなく、あるべき未来の姿が変わってきたということだけかもしれない。歳をとって、考えが深まってきたのなら保守的であろうとかまいはしない。(2008年11月21日)

600万本の植林

今朝、J-Wave(ラジオ)で聞きました。マケドニアで600万本の植林を、それも一日で行ったそうです。すごいですね。バスでそれぞれの担当地に向かい、植林をなさったという参加者は十分満足したと思います。しかし、とすぐ私はひねくれたことを考えてしまうのですが、植えた木が順調に根付いて成長を始めると、地域の河川流量は確実に減るでしょう。蒸散は水資源の喪失に繋がります。牧草地のような場所で、森林土壌が失われている場所では、森林が水源涵養機能を発揮するとしても数十年はかかると思います。雨の少ない地域であれば、森林による一方的な水の消費も考えられ、そもそも樹木が十分成長するかもわかりません。600万本ということは、1m間隔で植えると3km四方、実際には10km四方くらいでしょうか。流域面積では100km2スケールで小さくはない。下流域で水利用がなされていると、問題を生じるかもしれません。植林活動というと美談といった雰囲気もありますが、環境問題に科学の成果を生かすためには、こんな野暮な議論も必要なのだと思います。(2008年11月21日)

卒業生の進路

そろそろ第二期の中期目標・中期計画を考えなければならない時期ですが、研究科から回ってきた目標案にこんなのがありました。「卒業生の専門性を生かした業種への就職率向上を目指す」。私もこうありたいと常々思っていることです。しかし、大学人には相当な意識改革が必要になるのではないか。マーケットの状況を把握してそれにあったコンテンツを提供していかなければならない。同時に、マーケットを大学人自らが作っていく努力も必要。研究だけに現を抜かしているわけには行かないのです。社会が要求するカリキュラムを構成するためには人事計画もしっかりしたものを持たなければならない。この中期目標案は“言うは易し、行なうは難し”といった内容を含んでいるが、そこまで意識されているのだろうか。対応する中期計画の具体策が必要だし、何より、就職率が数字で現れることが後々効いてきます。それでも、私はこの中期目標を目指してがんばりたいと思うのです。(2008年11月20日)

地球温暖化に対する考え方

CEReSでは地球温暖化寄付部門が発足し、設定される3つの課題のうち、2つは活動を開始しています。今、残されたもう一つの課題について検討していますが、いろいろな考え方がある。感じるのは地球温暖化という“問題を共有”しているということ。それぞれの分野のディシプリンに基づいて主張するため、共通点が見出せない。狭義のサイエンスというのはシャープな領域に入り込んでいく性質があるので、当然なのですが、ここで、地球温暖化の引き起こす“問題”に注目し、その“解決の共有”を考える。すると、まず問題とされていることを検証しなければならない。研究という行為の動機、前提となっているものが事実であることが、研究の基本であり、前提が崩れたら後の研究成果はすべて崩れますから。地球温暖化の影響とされていることは本当に温暖化の影響なのか。これを検証することが私の地球温暖化研究のスタートと考えています(これに過去30年のリモートセンシングの成果が使えます)。こういう検討を行うと、地球温暖化の影響とされていることの多くは温暖化と関係ない社会的な問題であることが多いことがわかります。我々はまずステレオタイプや神話から抜け出さなくてはならない。なにせ我々は科学者なのですから。議論は長くなるのですが、結論を述べると、地球温暖化をはじめ様々な変動が我々を脅かす時代、地球人は賢くならなければならないということです。いろいろなことを知り、そこから自らの生き方を見出さなければならない、そのためのコンテンツ提供が研究者の役目であっても良い。(2008年11月19日)

モンスターペアレント対策で都初の専門部署設置

YAHOOニュースから。専門部署設置ということは相当深刻な問題になっているということですが、こういう記事は気になります。私も数年前に定年もまじかなある親から誹謗中傷を受けて以来、心身のバランスが壊れたままです。大人ですから疑問を持った本人同士が意見交換できるはずですが、なぜそれができないのか、不思議でなりません。きちんと法的に対処すべきだったと思いますが、我慢は美徳という観念が邪魔をし、結局心の中にもやもやを抱え続けることになる。最近、人の一生は有限であるということを身にしみて感じる。どこかで抜け出せなければ自分の与生(造語です)がつまらなくなる。こんな損なことはありません。最近ますます意地っ張りになっているような気がします。(2008年11月18日)

オーガユーアスホールとは

NHKラジオで女性アナウンサーがこういうのを聞いてびっくりしましたが、バンドの名前でした。アスホールとはけつの穴、オーガはogreで恐ろしい人という意味だそうだが、土に関する仕事をしたことがある私はaugerのほうがなじみがある。すると、オーガユーアスホールとはお前のけつの穴掘るぞ、というおぞましい意味になるので、それがごく自然に女性の口から出てきたことにびっくりしたわけです。どういう由来があるのでしょうか。ポルノグラフィティーもグループ名としてはどうかと思うが、私が無知をさらけ出しているだけでしょうか。それなら笑ってごまかすだけですが。(2008年11月17日)

国立大学法人の格差拡大−「競争と評価」に対する勘違い

朝日新聞のアンケートの結果に関する解説記事がまたでていましたが、教育を競争と評価に巻き込んでしまった点と、それに対する勘違いにまた大きな問題点があると思います。昨今は競争的資金の獲得が大学のステータスになってしまい、予算獲得が目的化してしまった観がありますが、教育予算までもが競争になってしまった。教育は短期的な大規模予算でよくなるものではないが、資金自体は変化を起こす起爆剤になるとは思います。しかし問題は資金を獲得した後にあり、実施段階以降に大学と獲得分野の協働のアクションがなければ問題です。わが千葉大でも大学院GP「地球診断学」が採択されたことは評価の場面で利用されているのですが、大学のサポートは寂しいものでした。本来、文部科学省がスタート資金を提供し、あとは大学として維持・発展させていくということが前提になっていたにもかかわらず、大学負担分の資金は大学からは出ず、メンバーでなんとかまかないました。私自身は寄付金経理から60万円、研究科予算の振り替えも含めると100万円以上も支出しています。中期計画期間の成果としてこの大学院GPが出てくるたびに複雑な心境になります。地方大学は格差が広がっているという前に、大学運営に明確な理念を打ち出し、具体的な策を講じるべきではないか。なによりもチャンスを生かすべき。資金がないからできない、ではなく、資金がなくてもできること、やるべきことも同時に考え、きちんとやっていくという態度も必要だと思う。(2008年11月17日)

環境悪化、だからどう考えるべきか

「環境は悪化し、生息地は消えて、動物たちを追いつめている」。朝日の天声人語にありました。文章全体は美しいが、環境悪化を情緒的にとらえるだけでは問題は解決しない、というか理解すらできない。解決は難しいが、その前に理解の段階がなければならないと思う。水や大気は汚れ、動物の生息地が奪われたことが人間社会のあり方、そして自分自身にどう関わっているか、この関係性を突き詰めることが理解につながるのではないか。その関係性が倫理的に容認できるか考える必要があろう。この考察の中から真の問題が見えてくるのではないか。人間は様々な動植物たちと折り合いをつけながら暮らしていかなければならない。折り合いの中で涙も流れることもあるだろう。でもそれを容認して生きていく態度も真の問題を解決した後は必要になるはず。(2008年11月15日)

権力者と百姓

先輩たちと一杯やりました。この歳になると様々な不条理、理不尽な経験も積むようになり、互いにいろいろな話をしましたが、その中から見えてくるのは批判を恐れる権力者、そのために言説に捕らわれる権力者。それに対して、言い返すことができなかったのは私自身の弱さでもあるのだが、それは生業が一つしかないからではないだろうか。国立大学法人化後、権力に対する誤解が生まれ、守るべきものを持つ人はクビを恐れるようになった。ほんとうはそんな恐れることではないのですが、人の心というのはそんなもんです。そこで、思う。かつての百姓というのは様々な職能を持っている人という意味であった。江戸時代の農民は実は土地に縛られた弱い存在ではなく、その職能によって都市でも暮らすことができた存在であったらしい。領主が理不尽なことを言うと、彼らは村を捨てて都市に逃れることもできた。これには領主が困ってしまいます。現代の多くの苦しみは人が百姓ではなくなったことにあるのではないか。(2008年11月14日)

国立大の9割「法人化以降に格差拡大」 

朝日新聞が行ったアンケートですが、研究志向が強いと格差が余計大きく見えてきます。しかし、大学の機能は研究だけではなく教育もある。予算がなくても学生に実質的な教育を行う方向もあるような気がする。これを言ったら文部科学省の意のままという気もしますが、最近は教育を何とかしたいと思うのです。研究の楽しさを伝えるのも結構だが、自分と社会の関わりを意識させる、社会に役立つということを実感させる教育をやってみたい。すでに私立大学では行っていることかもしれない。中途半端に研究志向が強い国立大学法人は世の流れから取り残されてしまうのではないだろうか。(2008年11月14日)

柴犬の犬川柳カレンダー

今日は午後は東京で会議でしたので、ひょっとしたらあるかと思い、御茶ノ水の丸善に寄りました。やはり、ありました。犬川柳カレンダーの柴犬版。これで安心して年を越せます。柴犬はかわいい。うちの柴は飼い主に似て、情けない黒巻きの柴です。一生柴犬と付合っていくことでしょう。(2008年11月13日)

自生するGMナタネ、真の問題点は何か−食と職の危機

朝日夕刊の環境エコロジーに『自生する遺伝子組み換えナタネ 国「安全」市民は「不安」』という記事がありました。輸入したナタネの陸揚げや工場への輸送時にこぼれ落ちて、日本の各地で自生している場所が見つかっています。このことの問題点はなんだろうか。記事にあるように食の安全性、生物多様性への脅威だろうか。これらの点についてはまだわからないことも多く、研究者の仕事が残っていると思いますが、私は真の問題点はGMナタネの知的財産権の運用にあると考えています。2008年1月11日以降、何回か書いていますが、除草剤に耐性を持つGMナタネの権利を持つ巨大バイオ企業であるモンサント社は、それが勝手にこぼれたり、飛んできたものであっても畑に混入したGMナタネは違法栽培とし、カナダやアメリカで農家を訴え、勝っているという現実があります。こんな理不尽なことはあるかと思います。農業が産業になり、お金を増やすことが目的となった企業が自分たちの権利を主張して、人の職と食に脅威を与えている。記事ではこのことにも触れてほしかった。日本ではナタネの大規模農家は少ないと思うので、訴訟はないかもl知れませんが、ほかの農産物に敷衍して考えると、日本の食の危機のひとつのシナリオになります。GM農産品は安い製品という形で我々の生活にすでに深く浸透している。我々は恩恵も受けているわけですが、農には産業としての農と地域の人、自然、社会の良好な関係を保つ機能もある。この第ニの農、というか農の本質的な部分について我々はもっと知る必要があるのではないだろうか。食と人の分断を修復しなければならないと思います。(2008年11月12日)

観測システム転換期−アメダスやひまわりは維持可能か

我々の生活に不可欠な基盤システムになっているアメダスや気象衛星ひまわりの維持管理や更新に問題が出てきたようだ(朝日朝刊から)。日常の生活がコストのかかるシステムに依存するようになったということは緊張のシステムの中で暮らしているということで、人にとって滞りなく継続することは難しいことなのかも知れない。「機械化、ミス誘発」なんて見出しも緊張のシステムの限界を語っているようなもの。国は何とか維持・管理・更新に努めて欲しいが、同時に気象災害に関する知識を人々が十分に持つ必要がある。安全・安心を担保するのは一つのシステムではなく、相互に補完する複数のシステムだから。人が災害や土地の性質について良く知った上で、防災情報を活かすということ。12月19日に開催する「水文過程のリモートセンシングとその応用に関するワークショップ」では防災情報に関するセッションを開催する予定。今やるべきことは情報や知識、経験の共有のあり方について考えること。気象情報が無くても災害を避けられる暮らしの知恵を大切にしたい。共貧のシステムによる暮らしもシナリオとして考えておくべき、なんてことを言っても反発されるかも知れないが、あらゆる可能性を考えておく必要がある。(2008年11月11日)

真の問題理解−ステレオタイプからの脱却

環境問題、地球温暖化問題といった“問題を理解”し、“解決を共有”するためには問題認識に対するステレオタイプを払拭しなければならないと考えていますが、そのようなステレオタイプにまた気がつきました。現代農業12月号、関さんの論文。昨今の食糧不足では、“途上国の経済発展に伴い、需要が増大し、輸入量が増えたため”、という説明を良く聞きますが、どうもそうではないらしい。輸入増加の理由は経済発展というよりも、農産物輸入の自由化であり、その背後で農民は泣いている。中国が大豆輸入量を伸ばしているのはWTO加盟のために96年に大豆を関税化(市場開放)してからであり、その結果、中国の大豆農家の所得は著しく減少しているという。そういえば、昨年、中国東北地方の三江平原で、政府が大豆を買い上げないことを訴える農民がいた。その時は意味がよくわからなかったけれど、今はなるほどと思う。WTO体制の陰で農民の困窮化が進むのは中国だけではなく我が国も同じ。韓国もタイもどこも。マスコミは今こそ、「不都合な真実」を真っ向から取り上げてほしい。(2008年11月9日)

収穫の秋−楽農の成果

今日は、落花生とさつまいもを収穫しました。適当に植えた落花生は十分な量の収穫で、しばらく楽しめそうです。手をかけずに苗を植えただけのさつまいもは、やはり収穫は少なかった。きちんと耕して、土を盛ってやればもっと採れたと思います。でも、固い土で育った芋は実に多様な形をしており、これもまたおもしろい。育つ環境が厳しいと、芋も個性が出てくるということか。人の社会ではどうでしょうか。(2008年11月9日)

七人の賢者ご意見番に−ノーベル賞の権威とは

朝日の一面の記事ですが、「基礎科学力強化懇談会」ということで、塩谷文科相が研究環境や研究支援、人材育成のあり方についてノーベル賞受賞者に話を聞いたというもの。どうしても気になってしまうのですが、ノーベル賞は科学のほんの一部の分野の賞だということに塩谷さんは気がついているだろうか。参加者の皆さんは物理学賞、化学賞の受賞者だと思うが、物理、化学を強化すれば問題解決力は身につくだろうか。科学とは真理の探究で、問題解決とは別という考え方もあるが、問題解決を望む、人の科学技術に対する期待度は高まるばかり(2008年2月3日参照)。原理がわかれば問題は解けるはず、という思い込みはないだろうか。原理や普遍性は物理や化学の扱う理想化された世界の理解には役立つが、複雑、多様な現実世界では役に立たないことが多い。地球温暖化も含めて昨今は解くべき重要な問題が山積しているが、現実世界を理解する科学を振興することが解決への近道だと考えています。(2008年11月8日)

身の丈にあった暮らし

朝日の声欄で見つけましたが、自分の身の丈にあった暮らしとはどんな暮らしだろうか。今の地球人は地球温暖化という大問題に対処しなければなりませんが、そのための方法は単純で、身の丈にあった暮らしをすることではないかと考えています。でも身の丈にあったとはどういうことか。人と自然と社会が無事な暮らしの中で、少しの豊かさを享受して満足して生きること、なんて考えています。少しの豊かさが大切だと思うが、豊かさと贅沢の違いは何だろうか。今や、エアコンを使う、車を使うといったことも度を過ぎなければ贅沢とは言えないと思う。情緒的に“倫理的”な暮らしを強要するのは間違い。日本ではほとんどの市民は身の丈にあった暮らしをしているのではないだろうか。ただ、がんばる、ことを是とする社会の中で競争しなければならないことこそ、人の身の丈にあっていないといえるような気もします。多様な生き方を安心して選べない社会が人に身の丈を超えたものを選ばせるのではないだろうか。(2008年11月8日)

いかに生きるか

最近はいろいろなことが起きますが、いかに生きるべきか、なんてことを考える、というか確認するいい機会だと思います。今日の朝日では中曽根さんが、モラルなき拝金主義、を批判していました。今の市場経済はお金を増やすことのみが目的になった感がありますが、本来そこにはモラルが必要なのです。世界を一つのグローバル経済で動かすには性善説に基づかなければなりません。世界の各地で足りないものを補い合いながら暮らしのコストを下げるのが本来の市場経済だと思います。ここに、お金を増やすことが目的の操作が加わると安全・安心は脅かされ、いずれは破綻に結びつくわけです。また、朝日の異見新言コーナーでは、農業で食べていける水準に食の価格を引き上げるべきという意見がありました。その通りだと思います。そのためにはグローバル経済とは別の、地域を核とした経済圏を作らなければなりません。住民がコストの中身を知って、負担することを厭わない、そんな社会が求められているのではないだろうか。これからの時代は地域の時代だと思います。個性を持った多様な地域が折り合いをつけながらうまくやっていく。そもそも世界は一つではないのだから。(2008年11月8日)

人と自然の良好な関係の修復

今日は、RESTECの上林さんが企画した「衛星画像情報を利活用した市民による自然再生と地域再生のためのリテラシー普及」といワークショップに参加してきました。NPO法人アサザ基金、C.W.ニコル・アファンの森財団、FORESTTHREEといったグループの方々のお話を聞いて、地域における人と自然の関係の修復に関する取組を知り、感じ入るところがありました。政治は都市および世界を中心に動いていますが、ちゃんと地域の取組は行われている。一つ一つの活動は小さいかも知れないが、大きな流れはできている様に感じます。(2008年11月6日)

理屈や効率を超えて

人の生き方というのは理屈や効率を超えたところにあるんだな。今の社会は何でも理屈で効率を説明しなければならないから、何をやりたいかわからなくなった若者が増えているのではないかな。理屈で考えようとすると知識や経験が必要なんだけど、それが十分でない段階で考えても答えはなかなか見つからない。ではどうしたらいいか。何かきっかけを見つけて、あとは信じることでしょう。信じたら後は一心不乱に取り組む。そうすれば新しい世界がたいてい開けます。小さな壁を一つ乗り越えたということ。人生は壁を乗り越えて進むこと。乗り越えるたびに成長がある。白州の森を見て考えました。(2008年11月4日)

サントリー白州の森にて

山梨県北杜市にあるサントリーのナチュラルミネラルウォーター工場を見学しました。水を育むために手入れされていないカラマツ林で間引きをし、流域を少しずつもとの落葉広葉樹に戻しているとのことです。私も好きですのでボランティアでやりたいくらいですが、森林の保全で水を育むことができるかどうかは実はやってみなければわかりません。外観が美しい森林はそれ自体がプラスの機能といえますが、ちょっと穿った見方をしてみます。カラマツは落葉ですので、樹種を転換しても蒸発散量はあまり変わらないかも知れません。森林保全で植被率が高まり、蒸発散量が増えたら水利用の観点からは損失になります。また、花崗岩は厚い風化土層を形成しますので、その浸透能は大きく、土砂移動を止めることさえできれば、涵養機能を維持できるかも知れません。しかし、フォッサマグナの西縁、糸魚川静岡構造線の大坊断層が走っている場所ですので、もともと流域の土砂生産量は多い。それは河床の形状を見ればよくわかる。よって、数十年に一回は崩壊、土石流の洗礼を受ける。森林は大打撃を受けるでしょう。だから、どうだという結論が無いのですが、こういうことを理解して、それでも山を守っていくのは理屈を越えた人の営みなのではないだろうか。理屈や効率ではないということ。続く。(2008年11月4日)

種子戦争を勝ち抜け

朝日に折り込みのGLOBE3号のタイトルですが、戦争といっても相手を打ちのめすまで続ける企業間の闘争のことです。確かにGM(遺伝子組み換え)種子を巡る巨大企業間の闘争は一般の農民まで巻き込み、戦争といっても過言では無いように感じますが、利益の最大化を目指す市場原理のもとでは闘争が必然なのでしょうか。人の命に直接関わる食にまでこの競争原理を持ち込む必要があるのだろうか。競争より協調というわけにはいかないのでしょうかね。戦争という言葉を違和感なく受け入れてしまう我々の感覚にも問題はないだろうか。世界同時不況に見舞われた昨今、今までの考え方を見直すちょうど良い機会が巡ってきたと思います。記事によると、野菜は地域性があるためGMには向かないそうですが、ちょっと安心しました。野菜まで巨大バイオ企業に支配されてしまうと、我々の食卓は実に味気ない、画一化されたメニューになってしまうでしょう。農業は産業となり、モノカルチャーが効率的だから。やはり、来るべき時代は地域の農を守って、食の多様性も守って行かなければならないと思います。(2008年11月3日)

ステレオタイプとしての普遍性

今日は同窓会がありまして、たっぷり飲んでしまい、酔った勢いでいろんなことを話しました。その中でこんなことを言ったことを記憶しています。普遍性とはどこでも成り立つということで、その程度の重要性しかない。これは哲学者の内山節さんが言っていたことなのですが、ここで私の考え方を確認しておきたいと思います。普遍性がわかれば問題が解決するのではなく、普遍性は最低基準に過ぎず、その上に積み上がっている個別性が問題解決には決定的に重要ということ。例えば、地下水や土壌汚染を考えると、地中水の運動方程式は数十年前にできあがっている。これを解けばすべて解決というわけには行かないのは、我々は汚染の起こっている場所の地盤の条件についてはすべてを把握することは困難であるから。予期せぬ“場合”も生じることがある。伊藤ハムの地下水汚染問題については、ある新聞からの電話取材がありましたが、井戸のケーシングを通した漏水の可能性もあるとコメントしました。くみ上げた地下水から汚染物質が検出されたとの報道から予断が生まれる可能性もあります。要は、水の動きの原理がわかっても、汚染を予測するために必要な情報は一般にはわからないことは多々あるわけです。一方、わからなくても、経験を積んでいけば個人の能力として予測できることもあります。これは現在の主流のデカルト・ニュートン的態度では理解できないことなのかも知れません。(2008年11月2日)

地球温暖化の日本への影響

学生の郭君が環境省の公開シンポジウムに参加し、パンフレットを持って来てくれました。地球温暖化は皆さんの関心の的ですが、ブロッカー仮説、ラディマン仮説に関する話がないのはなぜだろうといつも思う。1万年先よりも100年先の方が大事なのは確かですが。私は人が一番恐れるべきことは温暖化よりは寒冷化だと思う。エネルギー問題、人口問題、そして食糧生産や乾燥・半乾燥地域の水問題、等とあわせて考えると寒冷化したら人類の生存は危うい。そして、ブロッカー仮説、ラディマン仮説を反駁する新しい仮説はなく、温暖化してもしなくても地球は氷期に向かうことになる。温暖化の真の恐怖は寒冷化にあり、そこを見据えなければならない。その前に自分の生きている間に温暖化に起因する災害が増えるのは困るという考えもあるだろうが、昨今の被災のほとんどは温暖化とは直接関係ない社会の問題、自然現象に対する人の勉強不足に起因している。温暖化と安易に結び付けられると、現場における問題の解決が遅れるばかりだ。温暖化による農業生産への影響も、現場の実態からは離れているように思う。農業の当事者は栽培方法の変更等によりきちんと努力して対処している。米では高温には「あきまさり」、中山間地には「東北181号」といった品種の使用もある。障害は消費者のブランド米信仰。温暖化に対処しないのは研究者のモデルの中だけであり、そもそも農業を市場経済の中の産業として捉える考え方の再検討が必要だと思う。いたずらに地球温暖化の恐怖を煽るのではなく、研究の成果、現場の実態を正確に認識して、総合的、包括的、俯瞰的、そして冷静な視点で人の未来を考えながらも、今を生きる人の暮らしの少しの豊かさを考えることができる態度こそが、人口減少時代を迎えた成熟社会を生きる日本の我々がとるべき態度だと思う。ぜひとも皆さんの意見を頂きたいものだと思う。(2008年10月31日)

モルディブ大統領選−珊瑚礁の島の未来

モルディブ(モルジブではなくこっちにします)については10月4日にも書きましたが、モルディブ初の民主的大統領選で現職を破り、新顔のナシードさんが当選しました。珊瑚礁の土地条件、地球温暖化による海面上昇の懸念、観光立国と富の配分、観光を通じた高CO2排出国との関係、考えるべきことがたくさんあります。ぜひとも脆弱な島国のあり方について、方向性を示してほしい。豊かな国に住む我々が、こうしろなんて言えません。未来に繋がる可能性を示してほしいなと思います。(2008年10月30日)

高校入試−不適正選考で校長解任

平塚で髪型や服装の乱れを理由に受験生を不合格にした校長を解任した件ですが、どうも気になります。面接点が悪かった、ではだめなのだろうか。報道では、実に美しい主張をして元校長を批判する場面もありますが、現場ではいったい何が起きていたのか。年に100人も退学する高校であり、教育指導は並大抵の苦労ではなかったはず。こういう問題があると世間は現場の人間はスーパーマンで無ければならないような主張をしますが、教員だって普通の人間です。神でもないし、聖人でもない。個別の事情をよく知らなければ、批判などできないのではないか。美しい主張には普遍性があります。しかし、普遍性で現場の問題は解けない。個別性に深く入り込んでいく必要がある。やはり、教育と環境はよく似ている。(2008年10月29日)

千の“風が吹けば”−因果関係の連鎖

株価の低迷が続いていますが、底を打ったのか、まだ下がるのか、エコノミストの考え方も多様です。その説明は“風が吹けば桶屋が儲かる”方式の因果関係の連鎖であるように思えます。皆さん、言っていることはもっともですが、結論は異なる。まさに、千の“風が吹けば”がそこここにある。この思考法はデカルト・ニュートンタイプの演繹法と言って良いと思いますが、予測の精度はエコノミスト個人の世界の広さに依存してしまう。様々な要因を包括的に捉えて、要因間の関連性を検討するといった思考方法はとれないだろうかとも思うが、皆さん、そうしているつもりなのでしょう。この広い視野というのが私の理想でもあるのですが、それほど簡単なことでは無いこともわかります。いっそ、人には予測不可能と言ってしまうのが正解かも。この問題、地球温暖化予測ととっても良く似ている。(2008年10月29日)

主役と脇役

ラジオで華道家の話を聞きましたが、花にも主役と脇役があるということ。百合はいつも主役。かすみ草は脇役。研究者の世界にも主役と脇役があるような気もします。私は少なくとも主役ではないでしょう。では、脇役かというとそうでもない。主役を引き立てるのが脇役ですから。すると私は何者か。一匹狼の狼は理想ではあるが私には似合わない。私は一匹羊かも。群れを離れた羊。こんな弱っちょろい存在はないが、私にお似合いのような気がする。スワヒリ語で羊はコンド−だった。さて、一匹羊は強くなれるか。(2008年10月28日)

科研費申請書のフォーマット

科研費の申請書はもう提出したのですが、ひな形をそのまま使ったので、業績欄が代表者、連携研究者、分担者の順番になってしまいました。実はこのためにわざわざ購入したWORDで、罫線の使い方がよくわからなかったので、全体の枠を壊さないようにひな形をそのまま使ったわけです(私は一太郎使い)。今、事務から問い合わせがあったのですが、そのまま提出することにしました。こんなことが不採択の理由になるようでしたら、その審査分野の将来は明るくありませんから。それにしても、なぜ学術振興会ともあろう組織がアメリカの一企業の製品の使用を推奨するのか。恐らく問い合わせたら、一太郎でまったく同じ書式を作れば良いとの返事が返ってくるのではないかな。しかし、一太郎のフォームを作るコストは研究者個人個人が費やす時間に比較したら微々たるものでしょう。税金でそのくらい賄って頂いても良いと思います。それにしても、釈然としませんな。(2008年10月28日)

捨てられる食品

最近、京都大学の家庭ゴミ調査の話題を良く聞きます。今朝もNHKで見ました。集められた家庭ゴミを分析すると、素材のまま捨てられている食品が多く、最近は加工食品の割合が増えているということ。食糧自給率がわずか40%で、食糧危機の懸念もある昨今、どうしたことでしょう。とはいえ、食糧がたくさん冷蔵庫の中にあるということは、安心につながり、無駄にせず食べることを考えるよりは、新たに買った方がトータルなコストが低い、楽であると考えるのは、お金の収支、効率で行動を決める現代社会の消費者として当然の行動であるという見方もできます。しかし、それを可能にしているのは食品の安さであり、安さを維持するために何が行われているのか、消費者としてもっと知る必要があるのではないだろうか。安さを維持するために緊張のシステムの中で生産されている低コスト食品は実は持続可能ではなく、時として安全を脅かすこともある。食品はもっとコストをかけて良いと思うが、そのコストを誰が負担するか、が問題なのだと思う。社会としてコスト負担をいとわない仕組みがあれば良いのだが、それが市場原理と相容れないものであるならば、もう市場経済とは別の仕組みを考えなければならない。鳴子の米プロジェクトのような。(2008年10月28日)

身近な水の汚染

伊藤ハムが食品加工に使った地下水にシアン化物イオン及び塩化シアンが入り、食品汚染が発生している問題ですが、地下水に関する情報が出てきません。気になるのは深井戸で汚染があったのか、浅い井戸水を使ってしまったのか、という点です。千葉の都市域に住む我々は利根川上流のダムで水利権を作られた水を使っています。遥か那須火山に発する那珂川の水も飲んでいるかも知れません(那珂川の水は那珂導水路、霞ヶ浦、利根導水路経由で利根川に入っていると思います)。その送水、創水(思いつきで浄水まで含めた水道事業の過程をこう呼んでみました)には大きなコストをかけています。しかし、そのコストは永久に負担し続けることができるのか、保証はありません。我々は身近な水、すなわち足下にある地下水をもっと大事にしなければいけないと思うのです。現実問題として都市域の浅層地下水は場所にもよりますが、かなり汚染されています。私の自宅の周囲でもトリクロ、六価クロム、等々事例はたくさんあるのですが、生活用水として使っていないのでいまいち住民の汚染に対する意識は高くありません。生きるために必要な“水”の安全・安心を担保するには複数の水源を持つことだと思います。身近な地下水を大切にして、いざというときに備えなければならない。さて、柏の伊藤ハムの工場で、浅井戸の水を食品に使っていたなら現状に対する認識不足であり、深井戸の水であったら、浅層部からの漏水も考えられますが、深層地下水自体が汚染されていたならば、これは大問題です。我々は貴重な水源の一つを失ってしまったことになります。水質の回復には何十年、何百年もかかります。(2008年10月26日)

楽農の成果

今日は、楽して農する畑仕事の成果ということで、落花生とサツマイモの試し穫りをしました。紅東はひと株から小さいのが三つとれましたが、葉っぱがまだ元気なので収穫は先延ばしにしました。落花生は一番小さいのをひと株抜いてゆで落花生にしましたが、これが香ばしくてうまい。チリワインを買ってきましたが、飲み過ぎました。一気に収穫すると多すぎるので、少しずつ収穫して長く楽しもうと思います。最近、どうも体調が悪く、畑仕事はあまりやっていないのですが、楽農でも何とかなるもんです。農業は生業にしたら大変なのですが、実は適当にやってもある程度の収穫はあるもの。大変なのは数年に一回やってくる不作で、これはプロでないと切り抜けられませんが、楽農であればダメージも少ない。私は使える畑があるので幸せですが、一般にも生業の一部に農を入れる社会ができれば、人はもっと幸せになれるのではないだろうか。様々な場所、分野で変化の時代が予感されていますが、農を基軸とするフロー消費社会を維持しながら、市場経済もうまく活用する社会なんて虫が良すぎるだろうか。(2008年10月26日)

スローシティーという考え方

朝日朝刊でこういう考え方を知りました。私はコンパクトシティーの考え方に賛同していますが、それは欲に駆動される社会は都市の中に押し込めて、そうでない社会と区別したいという想いでもありました。スローシティーと聞いて、とうとう都市もその歩む方向を変えるのか、と思ったのですが、そうではないようですね。やはり、市場経済主義、経済成長により問題解決といった現在の社会に対するアンチテーゼのようです。また勉強することが増えました。それにしても昨今の金融危機で、今の社会のあり方に対する反省の弁をよく聞くようになりました。これは一過性のものなのか、それとも根本的に現在の社会を変える流れになるのか。変える方向で努力したいと思いますが、時代の変わり目であることは確かなようです。The Times They Are A-Changin'。(2008年10月25日)

沙漠化問題の本質

大学院の科目の環境RSUBは論文紹介をやっているのですが、最初は分野の古典的な論文を探して紹介することにしています。今日は沙漠化の課題で発表してもらったのですが、地域研究の論文はたくさん見つかります。しかし、なかなか古典的で重要と思える論文が見つからない。実は、そこに沙漠化問題の本質があると思います。発表では 結局Zha and Gao(1997)の中国の沙漠化に関するレビュー論文を発表してもらいましたが、プレゼン練習としては難しかったかと思います。沙漠化問題は1992年のリオ・サミットで取り上げられたので、地球環境問題のひとつとして重視され、グローバルな観点で言及されることも多いと思います。実は、沙漠化は地域固有の要因により、地域ごとに異なる現れ方をする地域性を持つ現象なのだと思います。ふたつの科学の話をして、沙漠化研究はモード論でいったらモード2科学である、という話もしました。だから、沙漠化研究では多様な観点に基づいたうえで、地域ごとに研究を行い、地域の現象の理解を深めながら、地域ごとの成果を集積していく必要があります。だから、地域研究の成果がたくさんある。個々の成果は小さいかも知れないが、地域にとっては重要な成果です。問題解決を意識した今後の課題は、人間的側面を取り入れること、科学の成果、技術を政策に活用することだと思います。しかし、解決を意識すると、狭義のサイエンスからはどんどん離れていってしまい、これが論文を書かなければならない研究者としてのジレンマになっています。しかし、こういう科学もないと未来に対して科学は責任をとれなくなる。こんな風に考えています。(2008年10月24日)

お年寄りが幸せな社会

お昼に会議があり、来年定年を迎える先生の科研費申請の件について話し合われました。なんでも定年後に科研費を受けるには名誉教授であるか、大学に研究拠点、すなわちスペースが必要なのだそうです。名誉教授も機械的に授与されるのかと思っていたら、最近はそうではなく、部局で推薦されないこともあるそうです。まあ、人によるということなのでしょうか。定年後に大学に居残ることは日本ではどうも好まれないようですが、ここで中国のことを思い出しました。大学や研究所を訪問すると、現役を退いた方々がおり、その方々が尊敬されているなと感じることがあります。中国では(最近はそうでもなくなっているのかも知れませんが)、職場が家であり、退職してもそこに居るわけです。お年寄りは豊富な経験、知識を持ち、会議でも一緒になって議論をします。権威はありますが、権力はない。私などはこういう姿にあこがれますな。そうなるには、研究の場が確保されていて、長年にわたって重要な課題に取り組むことができる環境が必要ですが、昨今の論文競争の中では、実質的な、社会に対して助言のできる知識、経験を醸成することは難しくなっているのではないだろうか。蛸壺の中で偉くたってそんなの関係ねーですからね。だから、権威の伴わない権力が台頭して、大学が衰退化していくなんてこともあるかも知れない。お年寄りが幸せな社会が安心社会の一つの条件だと思います。(2008年10月23日)

「信じられない、考えられない」について

最近、いやな事件や事故が多いのですが、報道では「信じられません」、「考えられません」といったコメントを良く聞きます。アナウンサーの立場では加害者に同情的な発言はできないのだと思いますが、実際はどう感じているのだろうか。いつも気になっていたのですが、弱い人間、未熟な人間が過ちを犯してしまった時に、どんな行動が考えられるか。場合によっては背景にどんなつらい、苦しいことがあったのか。想像するだけの器量は人として持ちたい。加害者を擁護する訳ではないのですが、ここを想像できないと世の中の根本的におかしい部分がそのまま残されてしまうような気がします。来年から裁判員制度が始まりますが、千葉はご指名の確率が高い県です。私はできればやりたくないですが、もし指名されてしまったら、どうしても事件の背景が気になってしまうでしょう。判断が甘くなることもあるかも知れません。ちなみに私は死刑反対論者です。理由は人が人を殺すのは良くない、それだけ。生きて罪を償う方が実は死刑よりつらい。それにしても、三浦さんの事件は何だったのか。生きて、真相を解明してほしかった。でも、それもつらいことだったのかもしれない。(2008年10月21日)

お米の高温不稔

昨日の「お米のなみだ」は高温不稔による凶作を予測した商社が米の青田買いに走るというところから始まっています。稲の高温障害は九州では既に発生しているのですが、同時に対策も編み出されているようです。まずは栽培方法。植え付けを遅らせる、粗植にする、収穫直前まで潅水するといったことで、従来通りの収穫を上げることができるそうです。もうひとつは高温に強い品種。これは既にあるのですが、銘柄の知名度が低いために農協の買い取り価格が低いだけ、こんなことが現代農業に書いてありました。人というのは賢いもので、地域では地域の風土に合った取組がちゃんとある。一番の問題は地球温暖化ではなく、市場経済の仕組みにある。もう多くの方がこのことに気がついているのではないでしょうか。世の中、ちゃんと良い方向に進んでいくのではないかな。(2008年10月20日)

お米のなみだ−鳴子の米プロジェクト

夕方、一杯始めたところでテレビを見ようと思い、新聞のテレビ欄を見たら、おもしろい番組をやっているではないか。NHK仙台放送局10周年記念ドラマ「お米のなみだ」。でも、もう残り時間がない。ということで、ドラマの部分はあまり見ることができなかったのですが、最後の10分で「鳴子の米プロジェクト」の紹介がありました。これでわかりました。去年の現代農業5月増刊「農的共生社会」で読みました。このプロジェクトは1俵1万3千円まで落ちた生産者価格を1万8千円で引き受け、販売価格を2万4千円にする(実は、これでも茶碗1杯のごはんは24円)。農家に米を作る意欲を持ってもらい、米は地域で引き受け、利益は地域に還元する。2万4千円でも購入するモチベーションを地域で持つことにより、地域の食や職の安全・安心を作る、市場経済の仕組みから逸脱したすごい試みなのです。もうひとつは、中山間地に合った米の品種です。標高がちょっと違うと低地稲作のやり方は当てはまらないという当たり前のことが認識され、実行されているのです。こういう地域の取組が広がれば、日本の食や職に不安は無くなるのではないだろうか。(2008年10月19日)

評価基準を持たない評価者

教員の定期評価に関する議論をしましたが、この手の議論でいつも思うことは、評価をする側が明確な評価の基準や思想を持っておらず、結局、評価を受ける側が自ら考えざるを得ないということです。人の考えることはわかりませんので、不毛な議論が続くわけです。論文の数などは典型的で、CEReSでは過去5年間に6件程度としました。これは他部局の基準を見て、中庸をとったわけですが、例えば、融合科学研究科は4年で4報以上、工学研究科は数の記載なし、理学研究科はコースによって異なり、一番厳しいのは化学で7年で10件以上です。ただし、よく見ると論文に限らず受賞や招待講演、外部資金も入っていますね。基準を厳しくしたところが後々羽振りが良くなるのでしょうか。勘違いには注意せねばなりません。定期評価調書という書類を作成せねばならないのですが、わからないのは教育、研究、その他について全体を10として比重を書く欄があることです。これは評価のための書類ですので、どういう割合が望ましいのかという基本的な考え方が無ければなりません。CEReSは研究センターですので、教育の比重が高いのはいかん、いや大学の教員なのだから高くてもいい、といった議論を評価を受ける側がしているのは法人化後のピラミッド型組織としては腑に落ちません。私自身は大学はフラット型組織であるべきと思っているので良いのですが。結局、評価者は、こういう議論を部局にしてもらうのが目的だ、などと言うことになるのだろうか。評価を行う理由は中期計画に書いてしまったから、というのが本音なのですが。私は教育・研究者としては、自らの信念を書いたものを例えばWEBで公開し、社会に評価してもらえば良いと思います。(2008年10月18日)

冷凍インゲン事件−隠れた不幸はないだろうか−

また中国産の冷凍食品から農薬が検出されました。健康被害に遭った方には一刻も早い回復をお祈りしております。冷凍食品は安価で日本人の生活コストには大きな貢献をしていると思います。冷凍食品の生産、流通、販売のシステムに関わっている方々も正当な経済行為の結果として利潤を得ているでしょう。経済システムとしてみると幸福のシステムをいえるかも知れません。しかし、その陰で泣いている方々はいないだろうか。中国新聞の取材によると、日本のポジティブリスト制により、中国の零細野菜農家の経営が成り立たなくなっているといいます(中国新聞取材班、「ムラは問う 激動するアジアの食と農」、農文協)。この件、8月20日、4月11日の書き込みも参考にしてください。安い食品の陰で苦しい生活、転職を強いられている方々がいるかもしれない。ここを確かめたいのですが、もしそうだとしたら農作物の生産の現場が幸せになる仕組みを考えていきたいですね。農業者と消費者そして間をつなぐ市場のすべてが納得して共存共栄する仕組み、可能だろうか。市場経済には合法的な搾取といった面もあるように感じます。ここが何とかならないものだろうか。(2008年10月16日)

蛸壺の再生産2

蛸壺について書いたので、ついでに思うところを述べてみます。人材の再生産を繰り返していく課程で、個人の世界が蛸壺化して、異なる世界が見えなくなっていくことはないか。不思議でしょうがないのは、市場経済の仕組みの不備に起因する食糧危機が起きたにもかかわらず、WTOでは一方的に貿易の自由化が推し進められようとしている。7月の交渉ではインドと中国の反対で交渉が決裂したから良かったものの、日本の政界や経済界では安さとともに失うものが何も意識されていないように思う。私は、日本の農業は大規模化だけでなく、地域の営みとしての小さな農の部分も同時に強化していく策も必要だと思う。政治家も財界人も二世が増えてきて、自分の世界、都市的世界といえましょうか、それと違う世界が見えなくなっているのではないか。見えなくなっているのは地方とか、農山漁村に相当する地域といって良いと思います。今回の金融危機でも基本的なスタンスは変わっていないように思う。安全・安心を次世代社会に向けて作っていくには、蛸壺的思考とも思える経済至上主義、成長至上主義ではない、別の道もあり得ることに実は多くの方々が気がついている。まずはせめて議論に載るように主張を続けていかなければならないと考えています。(2008年10月13日)

蛸壺の再生産かも

今日は休みですので、家でごろごろしながら読み物をしていますが、学術会議の提言「新しい理工系大学院博士後期課程の構築に向けて」に目を通しました。重要な提言が並んでいますが、その中のひとつにこうあります。「提言6 博士号取得者の社会的処遇の改善を図るべきである」。全くその通りです。しかし、社会に受け入れられるためには、大学人は自らの研究・教育のあり方を顧みなければならないのではないか。大学では研究論文至上主義がまかり通っており、論文を量産するために蛸壺に入り込んでいないか。蛸壺の中で「真理の探究」の重要性を唱えても、社会では通用しません。幸せな大学人の生き方を学生に伝えて、蛸壺の再生産をしても、その学生が社会で生きていく力にはなりません。大学人(サイエンティストといった方が良いかも)はもっと社会との関連性を大事にした方がよい。(2008年10月13日)

ミャンマー、イラワジデルタの田植え

5月にサイクロン「ナルギス」の襲来を受け、甚大な被害を被ったイラワジデルタですが、八月には田植えが始まっているそうです。現代農業における冨田さんの報告がありました。去年の僧侶の蜂起以来、外国人ジャーナリストの入国は禁止されているのですが、それでも現地を見たいというその心意気には本当に脱帽します。イラワジデルタの家はもともと竹とニッパヤシで作られていて、必要な材料は針金くらい。家を吹き飛ばされても我々が思うほどのダメージはないらしい。むしろ、鍋釜をなくすほうが大変なのですが、そこは敬虔な仏教国、僧侶がいち早く現地に届けたそうです。こういう社会では先進国の援助により生活レベルを上げて、我々と同じ暮らしができるようにするといったお茶の間のステレオタイプ型の援助が正しい援助のありかたとはいえないかも知れない。異なる文化、文明、歴史、風土のもとでは幸福感、そして死生観までも異なる。どんな援助が望ましいのか。衛星で見ているだけでは答えはでない。(2008年10月12日)

人間として無理をしないこと

今週はいろいろなことがありました。俳優の緒方拳さんが亡くなりました。その臨終の様子が侍にたとえられていますが、そんなに格好良くなくていい。人として苦しんで悶えてじたばたしながら死んでいくのが人でいい。ノーベル賞もありました。益川さんは英語が嫌いということで私もうれしくなっていますが、無理していいこと言わないでもいいですよ。物理のコマ数が少ないなんて言うと、すぐ世の中はそっちに動いてしまいますが、その分ほかの科目が減ります。日本の子どもたちに何を伝えればよいか、深い議論を起こさせるようにその権威を使ってください。金融危機、これを機会にお金の量を増やすことだけが目的となった社会で、人が無理を強いられていることに気づかなければなりません。無理は続きませんし、緊張のシステムは安全・安心を持続的に担保することはできません。いろいろな出来事により、無理をせずに無事に暮らせる社会へ人の関心が向くようにならないだろうか。(2008年10月12日)

申請された共同利用研究採択の基準

全国共同利用施設になっている研究所や研究センターは共同利用研究の継続のためには新たに申請をして認められるという手続きが必要になりました。そのための資料として公募で行われる共同利用研究の採択基準を明文化するようにとの指示がありました。CEReSの使命の一つは必要としている人にリモートセンシングの技術を伝えること、必要としている人は解くべき課題を持っている人で、その課題に優劣はない。教員との話し合いの上で御提案頂くことになっているので、応募は原則採択されます。これを説明しなければならないのですが、御上の考え方の中には優劣を評価して、序列化して判断するというステレオタイプが無いだろうか。このような考え方は、世界は普遍的なものに向かって進歩する過程にあり、地域、文明によって段階づけられ優劣が存在する、という欧米ローカルの思想の影響のような気がします(欧米の思想界でも昨今はこのような考え方は否定されつつあるようです)。少ない人数(現在CEReSの研究者は10名)で可能な限りの問題を解こうとする努力は認められるべきだ、なんて思いますが、序列化して評価するという暗黙の方針の前ではむなしい。考え過ぎでしょうかね。(2008年10月8日)

グローバリズムに敗北 MS-WORD購入

昨日ですが、とうとうMS-WORDを買ってしまいました。今年は科研を申請しなければならないのですが、申請書のひな形がWORD用しかありません。愛用の一太郎ではどうしても罫線がずれてしまう。家に持ち帰りノートで作業するために、買ってしまいました。今、私の業務用PCにはWORDと一太郎のふたつが入っています。使い勝手では一太郎の方が遙かに優れていると思いますが、グローバル市場の元では良いものが残るとは限りません。そして、利益は一企業に集中する。文科省、学術振興会がアメリカの一私企業の製品の使用を推奨しているのですが、どうも腑に落ちませんね。そもそも申請書は枠の配置や記載事項に関して徹底した規格化をする必要はあるのだろうか。予算申請書もある程度の自由度を認めれば、自由な発想で良い研究が出てくるのではないだろうか。実際、民間の研究助成の申請書には自由度が高く、書きやすい様式があります。形にこだわるということは、相対的ですが中身を軽視するということ。どうも研究がどんどん研究のための研究になっているような気がします。大規模予算などは、申請のための申請という面もある。文科省はハイリスク研究も推進するというが、誰が採択を判断するのか。マーフィーの法則によると、それを判断できる人材はいないはず。(2008年10月7日)

大学教育GP採択のニュースに思う

新聞に大学教育GP(教育に関する競争的資金)の採択が決まったというニュースがありました。採択された方々は精々がんばって頂きたい(“精々”は福田さん発言以降口癖になってしまいました)。私は大学教育の向上を短期的資金に託すのも悪くはないが、根本的な部分に本質的に重要な解決すべき課題があるように思います。もちろん、大学、学部、分野によって事情は異なり、個別の課題というとらえ方もできるかも知れません。私は“環境”を扱っていますが、環境教育においては、問題を発見し、問題発現に関わっている多数の要因を峻別し、あらゆる知識を総動員して問題の解決を図る力を醸成したい。そのための基本的な教育が学部でなされていなければなりませんが、大学には指導要領はありません。よって、教員の存在により、教える内容が決まってしまうという制度になっています。昨今の論文至上主義によって、大学の教員採用はその専門分野というよりも論文の数が重要なファクターとなっています。しょうがない面もありますが、その結果、環境分野に関しては最も基礎的な学科である地形学、気候学、水文学といった自然地理系の分野を勉強する機会が少なくなっています。初等中等教育でも地理や地学を修める機会が減っており、大学教育が追い打ちをかけています。一方、学生側には“環境”分野に対する要望は十分あるように思いますが、基本となる我々の生活の場に関する知識が決定的に少ない現状がある。ここに大学教育における需要と供給のミスマッチがあるように思います。日本全体として自然地理系の知識量が減っていることは、たとえば災害の被害が減らない間接的理由なのではないだろうか。自然地理学的知識で災害が予見できる場所に居住しているとういうこと。河川法、水防法が改正されて約八年が経ちますが、その精神が浸透しているとはいえない。やはり、教育を何とかしなければならないと思いますが、大きな予算が付く短期的なプロジェクトでやるようなことでもないような気もします。(2008年10月6日)

食品の安全・安心と農産物の新しい価値

地域の人々が地域の水循環と物質循環、それと生活や社会との関わりについてもっと良く知るようになると地域の営みがどのように変わるだろうか。ずっと関心を持っておりましたが、富里で面白い試みが始まったそうです(朝日朝刊から)。イトーヨーカ堂が農業生産法人「セブンファーム富里」を立ち上げ、野菜を近隣の店舗で販売するとのこと。生産の場と消費者の分断が修復され、安心な食品供給につながるうまい仕組みだと思います。しかし、活発になってきた地産地消や直売による農産物流通、それは地域の取り組みですが、それに大手が参入することにより価格に基づく市場原理が働いてしまうようだったら問題です。地域の農業は地域の環境形成に大きな影響を持っています。富里は地下水の硝酸態窒素汚染地域です。身近な水の汚染の進行を食い止めるには減肥の必要もありますが、スーパーの店頭に並ぶような形の揃った高規格野菜はできなくなるかも知れない。農業と地域の関係性を理解して環境のためには消費者もコストを負担することをいとわない、形の悪い野菜でも引き受けるといった仕組みができれば地域の環境は良くなるかも知れない。地域ごとに、従来の市場原理主義とは異なる原理による取引、それは利潤だけでなく地域の様々な関係性を復活させ、地域の環境保全も生み出すような仕組みができれば、日本の地域はもっともっと良くなる。いろいろな試みがすでに始まっています。(2008年10月5日)

モルジブの民主化と環境容量

朝日にモルジブに関する記事がありました。この国は珊瑚礁を利用した観光立国の国ですが、国内の富の分配がうまくいっているのかどうか知りたいと思っていました。この国が豊かな国のお客さんに提供するのは、珊瑚礁の見事な景観と都市と同じ生活です。都市的生活には大きな負荷もかかるが、そこは我慢しながら地域の生活の糧を得るという生き方があるかどうか。観光資源を利用して、少しの豊かさを得て、地球温暖化にはある程度の負の側面も許容しながら適応も図る、などということを考えていたのですが、政治・行政システムはそのようには機能していなかったようです。ここで、環境容量という用語を思い出しました。これは定義は曖昧なのですが、ここでは珊瑚礁の機能、地域の生態系と人の暮らしを維持することのできる容量としましょう。環境容量には最大値と持続可能容量があると思います。環境劣化にも時間がかかるからです。すると、モルジブではすでに持続可能環境容量を超えた利用が行われているのではないだろうか。ここを明らかにしなければならない。そうなった場合、この国の人々はどのような生活を選択するべきか。資源は世界の中で偏在しており、そのため、世界ではどこでも同じ消費レベルの生活を営めるわけではない。先進国は、いざというときには何とかしますから、あなた方は質素な生活をしてください、なんておこがましことは言えないだろう。確かに共貧のシステムは不幸のシステムではないので、貧しいかもしれないが、安全・安心な社会を築けるかも知れない。しかし、地域の人々がどうしたいのか、それが一番重要である。とはいえ、我々研究者がこれを考えるには科学のパラダイムを変える必要がある。現状では少なくとも考えるための情報を提供するのが研究の役目かなと思う。だから研究は問題に対しては中立な立場を取らなければならないのだが、地球温暖化問題に対してはそうなっているだろうか。(2008年10月4日)

地球温暖化寄附研究部門始動

CEReSでは今月から(株)ウェザーニュースによる寄附研究部門が始まりました。私がどのように関われるのかはわかりませんが、おもしろい活動にしたいですね。地球温暖化が対象ですが、科学者の心構えとしては、地球温暖化問題に対するステレオタイプ、神話、誤った言説からは独立でありたい。なぜなら、現時点で確実なことは、温暖化しなかったら地球は氷期に向かい、それは人類にとって大いなる災いであるから。最終的な結論は我々が分相応の生活をすることに尽きるのではないか。地球温暖化問題を呼び水にして、現在解くべき問題に人々の関心を向けることが、この部門の重要な使命だと私は考えます。それとも、進歩、成長、イノベーション、が地球温暖化問題を解く唯一の手段なのだろうか。(2008年10月2日)

研究することの意味

今回の訪中の目的の一つは、新しい研究課題を見つけることでした。もちろん、解くべき“問題”は多数見つけたと思います。しかし、外国人である自分がその解決にどのように関わることができるのか、極めて難しいという感触も同時に得ました。問題という観点からは中国の方々はそれを協働して解く人材の集団、技術、経験、知識、そして資金をすでに持っている。日本人としてそのグループに入るためには日本発の技術、経験、知識、資金が必要ですが、既に差は小さくなっており、地域における問題解決ではやはり地元の方々に分があります。一方、純粋科学の観点からでしたら協働して研究ができる場はあると思いますが、論文を書くということが目的化すると“問題の解決”からはどんどん離れていき、最近の自分はこのような状況に疑問を持つようになっています。研究者というのは研究の世界に閉じこもって競っていれば良いのだろうか。勝手にやっている研究で良いのか。出口の見えない小路に入り込んだ様な気がしていますが、それならばもっと日本を対象とする研究を推進すべきだという考えも強くなっています。(2008年10月1日)

アメリカの金融危機

中国から帰ったらアメリカ金融危機のニュース。これにはびっくりしました。市場経済の目的はお金の量を増やすことであり、その手段は何であっても良い。ものが生産されたり、無くなったりしたわけでもないので資金量が増えたり減ったりするということは私には理解しかねますね。安心社会構築のために、市場経済とは異なる経済システムに移行あるいは両システムが共存すべき時期が来たのかも知れません。(2008年10月1日)

中国調査行を終えて

9日間にわたる中国行が終わりましたが、今回は3000kmに及ぶ車の旅で、歳のせいか非常に疲れました。しかし、いろいろなものを見て考えました。河北省最北部の県、康保県では「北方農牧交錯帯可持続発展検討会」として様々なセクターの方々の集まりに参加し、私も話をさせていただきました。これはまさに問題の解決を共有する具体的な行為なのではないだろうか。解くべき問題を前に、大学、研究所、行政、等々が集まって議論をする場でした。その後、シリンホトまで北上し、シリンゴル平原を抜けてフフホトに至りました。シリンホトはまるでSimCity(コンピューターゲームです)で作ったようなきれいな町で、夜の電飾がきらめいていましたが、平原に出るとポツンと牧民の煉瓦の家があるのが見える。さて、これは貧困だろうか。風土に適応した生活があり、それが生存の可能性を心配しなくてもよい生活ならば、貧困なのかどうかはよくわからない。しかし、都市の生活をスタンダードとして、教育や医療の心配をしなければならなくなるとやはり貧困といえるのだろうか。そして貧困を無くすために発展しなければならないのか。その他、いろいろなものを見てきましたが、少しずつ報告します。(2008年9月30日)

最新技術の「芽」つかめ 「覆面調査員」制度を新設へ

朝日の記事なのですが、総合科学技術会議は、国内外の学会にたえず参加しているような第一線の科学者や技術者を「覆面調査員」に指名する新制度を設けるそうです。学会参加が第一線の科学者の条件とは思えませんが。これで、世界の最新研究動向や有望な技術革新の「芽」について、いち早く報告を寄せてもらい、追加予算の重点配分に生かすなど、日本の国際競争力を高める狙いがある、とのことなのですが、私のセンスからはよくわかりませんな。こういうことをしてしのぎを削っている分野もあるのでしょう。 独創的な研究とはほとんどの場合、異質なものの新しい組み合わせで、それは研究者個人の知識、経験に裏打ちされたセンスから出てきます。また、優れた研究は誰でもそうだろうなと思っていることを圧倒的な集中力、予算、マンパワーで仕上げる場合がほとんど。恐らくこの制度は後者の研究が前提なのでしょう。それにしても覆面調査員から報告を受けて、その重要性を総合科学技術会議が的確に理解できるか。覆面調査員も研究者ならば、得たアイデアは自分で実現したいと思うでしょう。予算は覆面調査員に付けるのか。研究がますます研究ビジネスになっています。研究のための研究をやるようになると、それこそ税金の無駄遣いじゃあないのでしょうか。さて、明日から中国、内蒙古と河北です。解くべき課題をたくさん見つけて帰ってくるつもりですが、べつにそれで予算が頂ける訳ではありません。しかし、このような調査をきっかけに日本発のアイデア、発見が中国で役立てられるということになれば、こんな重要な国際貢献はないのではないか。経済に結びつかないとだめ?(2008年9月20日)

現場の知と科学

朝日に唐辛子に含まれるカプサイシンの殺菌効果が科学者により解明されたという記事がありました。しかし、これは現場では既に知られていることではないだろうか。最近の現代農業誌に唐辛子の焼酎漬けに酢を加えた液を薄めて作物に散布すると殺虫効果があるという記事がありました。この記事では酢を加えるところがみそでした。こういう地場の技術は業界紙を通じて、結構広まっているのではないだろうか。そんなことを言っても、メカニズムを解明して一般性を理解しないと普遍的な農業技術にはならないのではないかという意見もあるかも知れない。しかし、それは技術の市場化を目指すということではないか。市場原理が安全・安心に直結しないことは昨今の事件で皆さん痛いほどわかっているはず。一般性がわからないと、異なる地域に適用できる技術にならないのではないか、という意見もあるでしょう。でも、江戸時代の河川管理で“見試し”を行いながら少しずつ調整していったように、地域における試行錯誤で地域にあった技術ができるかも知れない。コストが安いですからね。現場の知、あるいは経験知や生活知を駆使した営みは、科学の知、世界知による管理と比較して劣るどころか、凌駕することもあるのではないか。科学者の役割も見直し、あるいは新しいパラダイムに移る時期に来ていると思う。(2008年9月19日)

大学院改組と学生

自然科学研究科が解体されて3年も経っていないのに、もう改組の議論が始まっている。自然科学は理学、工学、園芸、そして融合科学の4研究科に分割されたわけですが、その融合科学を改組しようという動きがある。自然科学が解体されてから工学部や園芸学部の先生方との協働の機会が減り、特に学位審査で工園の先生に副査になって頂けないのには困っています(私は理学研究科兼務)。当初から融合科学研究科の設立の理念がわからなかったが、中身がなぜ情報とナノなのかも未だよくわからない(所属する先生方には申し訳ないが)。本当に融合を目指すのならば、問題の解決を共有する場になるのが良い(問題の共有ではない)。例えば、環境問題の解決を共有することにより、異分野協働ができるようになるはず。そうすれば学生は問題に際してあらゆる知識を総動員し解決を志向する態度、解決のために異分野と協働する態度が醸成できる。組織の中身の私案は融合科学研究科、都市環境科学専攻・地域環境科学専攻・地球環境科学専攻。名称にインパクトがないという方もおられるかも知れないが、それは物事の表面しか見ない態度。中身が重要。そして重要なことは常に重要。一部の大学人の優秀病、研究至上主義、論文数競争が蛸壺を指向し、学生や教員を翻弄しているのではないか。権力と責任の関係にも齟齬が生じている。これは日本という国全体の問題なのだろう。(2008年9月18日)

着地型旅行

WEBを見ていて目に留まったのですが、発地、多くの場合都会、が企画する旅行ではなく、目的地である着地が企画する旅行で、その地を深く堪能することができ、地域にも利益がある。なるほどと思う。すると、発地型商品というのもあり得るだろうかとすぐ考える。発地と消費者をダイレクトに結ぶ商品で、地域と消費者の双方の利益になる。しかし、これは既にたくさんあるではないか。高級なもの、珍しいものは既にネットショップで何でも手に入る。問題は日用品であるが、“半商品”として地域の振興、環境保全に役立っているという意識があれば消費者はコスト負担できるようになるであろうか。日頃から都市と地方で人の交流があれば、可能になるかもしれない。石油がなくなりつつある現在、一番の問題は輸送のコストだろうか。地産地消で、おいしいものは時々地方に行って食す。都会では贅沢できないが、共貧のシステムで持続可能であることを皆が理解している世界。なんだか、江戸時代のような話になってきました。経済発展して、イノベーションで問題を解決するなんて未来は可能だろうか。緊張のシステム下では、何か一カ所不具合が起こるとすぐ全体に波及してしまう。昨今の食糧問題や、リーマン・ブラザーズの破綻もそうではないだろうか。心休まるシステムは、やはり共貧のシステムだろうか。(2008年9月17日)

授業と講義

教育実習のレポートを採点する機会がありました。現場体験を経て、学生たちは多くを得たと思います。その記述に関連して、私の考え、コメントを述べてみたいと思います。まず、高校までの授業と大学の講義の違いは、前者には学習指導要領があるということ。すなわち、教えるべきことが決められているのですが、大学では講義の内容は教員が自由に決めることができます。大学の教員は研究者ですが、教育者としては訓練されていないので、ここに問題が発生する余地も確かにあります。学生諸君は大学の講義で教員が何を伝えようとしているのか、理解に努め、講義の内容やカリキュラムの構成について疑義があったら是非とも質問してください。また、大学における講義の理解あるいは卒論の実施に必要な知識と、それまで学生が受動的に得てきた知識との間にギャップがあるということは現実にあります。これは高校までに得る知識が少なくなる一方、社会が求める知識レベルが高くなっていることもあり、大学の大きな悩みでもあります。ここは、必要な知識については自分で進んで学ぶという姿勢が大学では求められる、と言っておくしかありませんが、それは正しい姿勢だと思います。次に、なぜ高校で地学の履修者が少ないか。それは受験科目の問題なのですが、その背景には高校までの授業がディシプリン(理科では物理、化学、生物学といった科目)中心に組み立てられていることと関連しています。個々のディシプリンの背後には通常大きな組織(たとえば化学だったら化学会)があり、受験科目にも影響力を持ちますが、様々な分野の関連性を扱う学問領域(地学や地理が該当)は、やはり様々な分野に分かれ、教育行政上の大きなパワーにならなかったことが起因しています。でも、高校の先生方や、教育系の大学の先生方は教育指導要領のあり方については実に真摯な態度で検討しています。一週間のコマ数は決まっていますので、地学を増やしたら、その他の科目を減らさなければならない。変化には大変な努力を必要としますが、がんばっておられる先生方がいるということを意識しておいてください。また、学会レベルでも最近は連合体を作る動きが活発で、教育問題に対処するための組織作りも進んでいますので、そこに自律的に参加することもできるということを知ってください。最後に、理科離れですが、生徒が自分以外の物事との関連性を意識しなくなっていることが原因の一つではないだろうか。しかし、地学や地理では災害や環境を通じて、課題を自分の問題として考えることができます。ここに理科離れを食い止める策があり得るのではないだろうか。(2008年9月16日)

アメリカ人とデカルト主義

「トクヴィル 平等と不公平の理論家」(宇野重規、講談社)を読んでいますが、面白い記述に出会いました。「アメリカ人がそれと知らずに全員デカルト主義者になっている」。これは19世紀におけるトクヴィルの洞察ですが、今でもだいたい同じであり、グローバリズムのもとで、その影響は遙かに大きくなっているのではないだろうか。「...ものごとの理屈を自分のみで、自分のうちに探そうとし、手段にとらわれることなく結果に向かい...」という記述もあるのですが、これは現在でもデカルト・ニュートン型科学者の態度に通じるところがあるように思う。これもアメリカの影響なのだろうか。とはいえ、非デカルト的なるものとの相克も、おそらくゲーテやカント以来存在し続けているわけですが、現在は相克というよりも協調を考えねばならない時代が来たと考えています。それは“問題”を解かなければならない状況では、デカルト的な思考は単なる一つの考え方に過ぎなくなるからです。“人と自然の関係に関する問題”の解決を志向すると、個々のディシプリンの役割はどんどん相対化されていきます。研究の世界でも非デカルト的な考え方は、モード2科学、関係性探究型科学、現場学、等々いろいろな立場がありますが、その重要性はもっと認識されて良い。時代は過渡期だと思いますが、まだまだ放っておいても変わるという状況でもないように感じています。なお、アメリカ批判になってしまいましたが、私の好きなアメリカもたくさんあります。(2008年9月15日)

“環境”とは何か

この問題はこれからもずっと考え続けなければならない問題だと思います。今日は地球惑星科学連合の法人化準備会があったのですが、法人化に向けて作業をご担当されている方々の努力には頭が下がる思いです。さて、定款案によると、会員は6つの登録区分(セクション)の中から一つを選択することになっていますが、その中に「大気海洋・環境科学」があります。この環境科学とは何か、質問もしてみましたが、このセクション名ではほとんど自然と同じ意味で使われています。環境とは人あるいは生態系とそれを取り巻くものの総体ですが、今や人との関連性では捉えられなくなっているのも時代の流れなのだろうか(8月14日の書き込みとも関連)。でも本当は違うと私は思う。宇宙環境も人が行くから環境なのであり、この宇宙は英語では地球の近くを意味するspaceです。人間との関連では、もう一つのセクションである“地球人間圏科学”で扱うことになるのでよろしいのですが、私はここに大きな問題をはらんでいるような気がします。それは“環境科学”の持つ意味です。“環境科学”を巡っては公害問題に端を発し、70年代に始まった環境科学特別研究の実施、その後、環境科学会および複数の大学で環境冠学部、研究科の設立がありました。環境科学会では20周年シンポジウムがこの3月に開催され、環境関連学会の連携も呼びかけられている現状があります。この“環境科学”とセクション名にある“環境科学”は意味が異なるのではないか。環境問題の意味を考えてもわかります。言葉は歴史を持ちます。“環境科学”は一般的用語という見方もできますが、言葉の背後にある意味について自分の分野の価値観で判断するのではなく、俯瞰的な視点で世界を良く見て、自分とは異なる考え、そして歴史があることに気づき、それを尊重することが異分野融合の基本的態度だと思います。セクション名に戻りますと、大気海洋は物理であり、ギボンズ流にいうとモード1科学です(科研費細目の気象・海洋物理・陸水学の実態を見ればわかる)。しかし、“環境科学”はモード2科学です。モードの異なる科学が共存することにより、どのような効果を生むのか。セクション名についてはもはや議論すべき時期ではないと、一喝されてしまいましたが、“環境”に関しては今後も継続して考えていかなければならない重要な問題だと考えています。(2008年9月12日)

アメリカの農業

前の記事で、トクヴィルから学んだアメリカの農民の精神性について言及しましたが、春のリモセン学会で食糧問題について講演したときにふれたことを再掲します。日本はアメリカに多大な食糧を依存している。しかし、アメリカの農業は市場経済の中の産業としての農業。また、アメリカの穀物備蓄量は減っており、世界の食糧安全保障の番人としての機能はもはやない。私は市場社会というのは冷たいと思いますので、世界的な食糧危機が起きれば、日本への輸出が簡単に止まることもあり得るし、想定すべき。ヴァーチャルウォーターの問題もありますが、あくまでも市場経済のルールの中での取引ですので、アメリカに負担を与えていることはない。水不足が食糧生産を減退させたときに一番困るのは食糧をアメリカに依存している日本(6月15日の記事を参照)。アメリカとの関係で食糧安全保障を考えるときには需給バランスの数字だけでなく、アメリカの農民の精神性、アメリカ社会、経済の仕組み、についても検討を入れる必要があると思います。(2008年9月11日)

貴族と研究者

生協の本屋でトクヴィルに関する本を見つけたので速攻買いしました(宇野重規、「トクヴィル 平等と不平等の理論家」、講談社)。“デモクラシー”に関する本ですので、そのうち読むことにします。トクヴィル(19世紀のフランスの貴族であり、哲学者)といえば、アメリカの農民の精神性に関する記述が印象に残っているのですが(“アメリカに農民はいない。いるのは農業を舞台にした経営者だけ”)、もうひとつ、官僚に関する記述を覚えています。“官僚は貴族的な精神の持ち主によって担われるか、あるいは最低の仕事という風潮が作られているのが良い。それは、貴族ならば生まれたときから“偉い”のだから、そのことを確認する必要がなく、国や政治がどうあるべきか、ということで動くことができる”(内山節、「農の営みから」、農文協)。研究者(ここでは大学教員のことです)も貴族がいいのではないか。そうすれば、論文の数とか、獲得した外部資金の額とか、自分が偉いとか、...気にする必要はなく、研究のための研究ではない本質的な研究に没頭することができるから。それとも、研究者は最低の仕事という風潮が良いのかも知れない。貴族だと、(世間知らずの)幸せな大学人になってしまいがち。(2008年9月11日)

誰かに見られている

"Someone To Watch over Me"はガーシュイン兄弟による名作です。“誰かが私を見つめてる”と訳されることもあります。私も大好きで、趣味のギターのレパートリーの一つでもあります。実は世界にオープンされているWEBにいつの間にか自分の姿が映し出されているという状況に遭遇してしまいました(車の運転中で顔はぼやけていますが)。Google Earthのストリート・ビューです。別に悪いことをしているわけではないので、どうでもいいのですが、都会では“隠れて生きる”という生き方はできなくなってしまったのだな。そのうち、人はカメラだけではなく、自身にもICタグやGPSを装着されて、常に行動や状態をモニターされる時代が来るのだろうか。それが進歩だろうかと疑問に思いますが、世の中はそっちの方向に進んでいるようです。メリットもでかいですからね。人と自然とむらの無事を願い、“隠れて生きる”という生き方は最高の贅沢で、今は隠れてしまっては生きることが困難になってしまう時代です。まだ現役ですからね。さて、Googleで近藤を捜せ!これは難しいと思いますが、見つけた人に賞品を出したいと思います。(2008年9月10日)

相撲界と大学

朝青龍の一件のときに、相撲界のマーケットはどこかと考えたことがあります(2007年8月30日)。それが世界だとすると、相撲は開かれたスポーツにならなければならない。日本と捉えると、相撲は勝負だけでなく、伝統の様式美が重要になり、マーケットは小さくなるかもしれない。でも、協会の経済規模は維持したい。相撲界の苦悩はこの中途半端さにあるように感じます。相撲がオリンピックの種目になることは無いでしょうから、やはりマーケットは日本になるのかという気がしています。これからも外国から弟子が来るでしょうが、日本の伝統、様式美を弟子に教え込むことが協会や親方の重要な任務になるとすると、伝えるべきことは明確ですので、相撲界は何とか立ち直ってくれるでしょう。一方、大学はどうか。海外から優秀な留学生を取り込もうと躍起になっている。しかし、日本の大学で何を教えるか、日本の何を伝えるか。必ずしも明確になっていないように思う。個々の先生方は学生に伝えたい熱い思いを抱いていると思います。しかし、組織となるとうまく機能できない。そのためにリーダーシップを強化したという考え方もありますが、リーダーが替わると施策が変わるようでは、これからの時代、大学は持たない。やはり、草の根で、ボトムアップの小さな努力を続けていくことが一番大切なのではないか。毎年研究室から学生を送り出しているのだから。研究室と相撲部屋も何となく似ています。(2008年9月9日)

世界の水問題−その後

J-WAVEの放送日になりましたので、どなたが話すのだろうと思い聞いておりましたら(9月4日参照)、やはり沖さんでした。彼は話がうまい。私だったら個別の事情に入り込んで話が詰まってしまうおそれがあります。さて、こういう話では、“世界で10億人が衛生的な水にアクセスできない”、といった表現がよく出てきますが、その算定根拠がよくわからない。国連の文書に書いてあることも多いのですが、引用、算定方法が明確で無い場合も多いように思います。とはいえ、もう20年も前、タンザニアで、泥や家畜家畜の糞尿で汚れたダグウェル(素堀の井戸)の水を人々が汲んでいる現場を確かに見ました。そこは半乾燥地域ですが、人が生活するだけの水はけっこうあるのです。こういうところでも、きちんとケーシングを入れて手押しポンプを設置すれば、清浄な水は得られる。これにはそんなコストはかかりません。実際、海外青年協力隊やJICAの方々ががんばっておられました。問題は都市用水の取水にあり、当時、水収支からするとギリギリのバランスの地下水利用が行われていました。水問題は社会問題としての観点、地域の個別性の観点が解決には必要だと常に感じています。ヴァーチャルウオーターも市場経済の仕組みとセットで考えないと、問題としての重要性は見えてきません。(2008年9月8日)

遺伝子組み替え作物の普及と消費者の知恵

朝日の折り込みに、“バイオがにぎる種子市場”という記事があったのですが、国際バイオ企業による世界の穀物市場支配の実態がだんだん認識されてきた、ということでしょうか。記事の中にあるのですが、モンサント社が開発した大豆の新品種「ヴィスティブ」から作る食用油はトランス脂肪酸が少なく、メタボ対策に良いそうです。だからといって、それが需要の増加につながると考える食品大手の考え方は、何か違和感を感じます。問題の本質は“種”の支配による“農”の自立の侵害にあるのですが、メタボ対策に良いから売れる、買うというのは食品メーカーや消費者があまりにも愚かではないか。これまでの生活習慣を変えずにメタボ対策になるというのは進歩だろうか。食べる量を減らしたり、運動をすることのほうがはるかに大事ではないだろうか。分相応の生活をする、そして過度な贅沢は慎むことができなければ地球温暖化にも対処はできません。それとも、好きなときに好きなだけファストフードを食べることも、もはや犯すことのできない基本的人権になってしまったのだろうか。(2008年9月7日)

半農半Xの生き方

昨日、兼業のあり方について意見を述べたのですが、朝日では“若者帰農−農ある暮らしを元に生きる”として、半農半Xの提唱者、塩見さんの意見が載っていました。まだ著書は読んでいないのですが、私もこの考え方には賛同できます。ただし、日本の社会は半Xの実現が難しいことが難点のような気がします。昨日はなじみのラーメン屋が無くなっていたことにびっくりしたのですが、日本というか自由主義社会は採算性が極めて悪い社会なのではないか。ラーメン一杯が700円前後で、安くは無いのですが、それでも店を普通に維持するには安すぎるのではないか。これは消費者にとっては市場経済、競争社会のメリットでもあるのですが、小規模事業者が普通に働いてやっていける限界ぎりぎりなのかな、という気もします。薄利多売をせざるを得ない状況。多売ができなければやっていけない。消費者が価格決定の仕組みを知り、社会や暮らしに対するインパクトを十分認識した上で必要な対価を払うという意識が広まれば、半農半Xは現実的な安心社会実現のための生き方になるのではないでしょうか。となると、やはり“半商品”という考え方が重要になってくるように思います。(2008年9月7日)

プロ農家と兼業農家の役割

近くの台湾料理店で昼食をとりながら産経新聞を読んでいましたら、東大の伊藤先生がこんなことを書いていました。“兼業農家はサラリーマンとしての収入に加えて農業収入があるのだから収入は多い。もし兼業農家 に対して農業支援を行うとすれば、それは相対的に所得の低い一般勤労世帯から税金をとってそれでより豊かな農家にお金を回すという行為である”。だから、農業支援策ではプロ農家の支援に限るべきとのことです。コラム名は「言葉が持つ恐ろしい魔力」で、農業という言葉に惑わされて農業なら何でも支援というばらまき政策に対する批判です。まず事実関係の確認、また兼業農家の収入がそんなに高いか検証する必要がありますが、それは置いておいて、私は兼業農家の役割を包括的な視点からきちんと検証する必要があると思います。今や地域の農業を支えるために兼業は不可欠であり、農業を維持することにより地域の人と自然の関係がうまく保たれるといったような多面的な機能はないだろうか。伊藤先生は農業を市場経済の中の産業として捉えているようですが、農業には人の暮らし、自然の保全、地域社会の維持、等々に関わる様々な機能があります。私はむしろ兼業農家を支援して、これらの機能を保つべきだと考えます。個人への支援がだめならば地域の取組に対して支援すればよい。少ない面積でも農地の取得ができるように法律を改正すべきだし、地方都市の活性化もはかり、農を維持しながら適当な収入を得る仕組みを作ることが安心社会に繋がる道なのではないかと思います。市場経済以外の視点も大切にしたい。農を巡る様々な地域の取組にも気がついてほしい。なんてことを定食を食べながら考えていたのですが、実は隣のラーメン屋に行く予定でした。しかし、店名が変わり、改修中。気に入っていたのに何でだろ。この台湾料理店の方がいつも客が少なく危ういように思うのに。でも味はグーです。(2008年9月6日)

水の豊富な地域における水不足問題−中国東北地方、三江平原

今日は日中科学技術交流協会の講演会に出席してきました。協会の会員歴は長いのですが、講演会は実は初めて。今回は中国黒竜江省の農業と水利に関する話題でしたので、足を運びました。講演者の司振江先生には日本語でわかりやすく説明していただき、大変ためになりました。感謝いたします。黒竜江省に興味があるのは、10年来通っている河北省の最近の都市化がすさまじく、一方、東北の農地開発が進んでいることが実感できるからです。中国は食糧生産基地を東北に移していることがわかります。しかし、東北ではいろいろな問題が起こっているようです。その一つは地下水位の低下。10年前に初めて東北、三江平原に行ったときは、なんて水が豊富なんだ、と思いました。降水量は少ないのですが、蒸発散量も少なく、損失が少ないので水が豊富であると考えています。湿地の排水、乾燥化を進めて畑を造成していました。やはり、東北人は小麦人なんだなと思ったものです(中国の方は小麦人と米人に分けられると思います。主食に必ず米を食べる人、必ず小麦製品を食べる人。私は小麦人です)。ところが、最近は稲作が増えています。これは米の買い取り価格が高くなり、収益性が高まったからと考えています。その灌漑用水源は地下水を使っています。もともと水が豊富であったのに、畑の造成で表流水は無くなり、地下水を使うようになる。その結果、地下水位は低下する。これは“水の豊富な地域における水不足問題”と考えることができます。さすがに地下水位低下の現状は認識され、対策としては水資源開発による表流水資源への転換が計画されているそうです。また、昨年は硝酸態窒素濃度の調査を行い、高濃度地点をたくさん見つけましたが、やはり汚染も深刻だそうです。こういう話は現地に行くか、現地の方々の話を聞かないとわからない。その後、お酒もたっぷり頂き、交流を深めることができました。1994年に初めて中国に行って以来、恐らく40回くらい行っていると思います。自分の研究者人生で中国は大きな存在となっていることを改めて認識しています。(2008年9月5日)

学生による授業評価に対するコメント

前期は1年生向けの講義で「災害と空間情報」をやりましたが、学生による授業評価の結果に対するコメントを書かなければなりません。そこで、こんなことを書いてみました。備忘録として書き留めておきます。

学生による評価としては平均点といえる。この講義は高校において地理・地学の履修の機会が少なく、災害に関する知識が十分身についていないことを前提に、極めて優しくしたつもりである。しかし、5)、12)の項目で、“わかりやすい、理解できた”、も多い反面、“わかりにくい、全く理解できなかった”、が少なからずいるという点の理解が難しい。無関心が最大の理由だとは思うが、学生の自然観、社会観との関連、初等・中等教育における環境系科目の減少との関連も考えられ、災害対策上の重要な問題点を提起しているように思える。 写真を多用したため板書はせず、プロジェクタを用い、講義資料と関連する災害情報はWEBで公開したが、評価は高い反面、適切でないとした割合も5分の1近くあるのはコンピューターへのアクセスの機会が均等でない可能性もあるのではないか。 展開科目選択の規準としての評価は悪くないが、千葉大学では災害を含む地理学や環境学を講義できる教員が減っており、カリキュラムの一貫性が担保できないという大学側の大問題がある。

学生による評価では判断基準は学生側にあるのですが、教員側の基準、考え方も打ち出した方が良いのではないだろうか。講義で何を伝えたいのか、それがどれだけ重要なのか、それを評価してほしいものです。学生にとって講義のテレビ化が進んでおり、私語には悩まされますが、受講態度の良い学生にはきちんと伝えていきたい。(2008年9月4日)

世界の水問題

J-WAVEから朝の番組への電話出演の依頼がありました。「世界の水不足問題」ということで話を聞きたいということでしたが、「水不足問題は世界各地で同時多発していますが、各地域の特徴によっていろいろな異なった現れ方をしている」、といったことを返事したら、今回は「全体的に見てみたい」ということで却下になりました。マスコミでは世界全体でじわじわと水不足が進行しており、人類が生存の危機にさらされている、といったイメージに誘導したいのだろうか。地球温暖化も同じですが、“問題”となると、それは世界全体で起きているのではなく、特定の地域で先行して現れており、その地域性に基づいた現れ方をしている。だから“特定地域の問題”の理解が重要。情緒的な応答だけでは問題は解決しないどころか理解もできない。神話や間違った言説に左右されない態度こそ、問題の解決に結びつくのだと思います。しかし、7月7日に述べたように、マスコミのような悲観論者は正しくは無いかもしれないが、問題解決の方向付けに役立つ有益な発言をすることもあります。ここが社会全体で問題解決を目指す時に研究者として悩ましい点でもあります。私は現場科学者ですので、地域性に基づき問題を理解する立場をとっています。すると、アメリカ、ハイプレーンズの地下水位低下問題と中国、華北平原の地下水位低下問題の背景や影響はそれぞれ異なることがわかるのですが、世の中は「世界を一つとして見たい」、という欧米型の思想に囚われているのではないかな、という気もします。それにしても、せっかく別所さんと話ができると思ったのに(私ではなく家族がミュージカルのファンです)。(2008年9月4日)

人間宣言

生協食堂に昼食に行き、ある先生と会ったのですが、競争に明け暮れ、テニュア(終身在職権)を得た後、”人間宣言”をした人がいる、という話を聞きました。お互いが伸びる競争ならば良いのですが、プライオリティー(先取権)、オリジナリティー(独創性)の獲得競争はなかなかきれい事ではすまない面もあります。プライド獲得競争と勘違いしている方もいますからね。私も改めて人間宣言をしたいと思います。その他、運営費交付金減少の話、COE獲得競争の話をしたのですが、その中で思ったことは我々の研究がやりづらくなっている、大規模プロジェクト志向が学生の人生観、自然観をゆがめていないか、ということです。自然を理解し、人の生活に役立てる研究は大きい必要はない。小さな研究をたくさん積み重ねることにより、より大きな世界を理解するセンスが醸成されていきます。世界各地を歩いていると、世界を幸せにする普遍的な方法はないということもわかります。大規模プロジェクト志向は、“普遍的な技術により、問題は解決できる”という欧米型の考え方、これを学生に植え付けることにならないだろうか。もちろん、間違いとはいえないのですが、このような思想が現在の日本や世界の停滞の根源にあるような気がします。多様性を認め、尊重すること、そして小さな世界を大切にしなければならない。ところで、生協第1食堂と第2食堂のカレーの値段も味も違うということに今頃気がつきました。カレーも多様でした。そして、どちらも美味しい。(2008年9月3日)

番頭外交とドン・キホーテとリーダーシップ

福田さん退陣に関して、同志社大の浜さんが「番頭外交」で打って出ればよかったと述べていました(朝日朝刊)。それは、『大だんながむちゃなことを言ったら「まあまあ」となだめ、若だんなが遊びほうけていたらいさめる』。これは大熊孝流の「寅さん型リーダーシップ」に通じるものがありますな。問題があったら、あっちに行って話を聞き、「まあまあ」、こっちでも「まあまあ」、いつの間にか「折り合い」がついている。これが日本型リーダーシップにならないだろうか。今は皆さん欧米流しか頭になくて、スナフキン型リーダーシップをとろうとする。スナフキンは知性によりムーミン谷をより優れた方向に導く、欧米型のリーダーです。私は寅さん型が好きですが、やはりバックには知識、経験が必要だと思います。寅さんはいいこと言いますからね。浜さんも、「グローバル化の時代は賢さが必要だと感じる」と述べています。ただ、個人が優れた知識、経験を持つことも大切ですが、複数の方々が問題の解決を共有して、役割分担して協働すると、リーダーがいなくても組織の目的が共有され、運営がうまくいくこともあるそうです。NPOなどではあるのですが、国レベルでは難しいかも知れません。国民の皆さんがこのような基本的考え方を持つことが大切だと思います。もう一つ、浜さんはためになることを言っていました。ドン・キホーテは@「自分さえよければいい」という考えから非常に遠い、A他人依存が強い、B腕力が弱い、それでいて理念は高い。今は、「自分だけ生き残ろう」、「自分さえ良ければよい」と思うほど、みんなが一緒に奈落の底に落ちてしまう時代で、ドン・キホーテが新しい時代に相性のいいヒーロー像だということです。暇見てドン・キホーテを読まねば。私はもうひとつ「蛸壺に入らない」、という態度も大事だと思います。蛸壺にはまった大学人にあるのですが、自分が正しいと思うことで、異なる考え方は間違っている、という命題が導かれるという勘違い。自分の生き残り策は普遍的な策だ、自分がいいと思うことは人にとってもいいはずだ、などと思わないこと。多用な考え方を認め、関係性の中で生きることをモットーにした番頭的リーダーが早く出てきてくれないものですかね。(2008年9月3日)

福田さん退陣に思う

これには驚きましたが、本人はよほど疲れたのでしょう。私は弱い人間ですので、福田さんには同情します。でも、5月に竹中平蔵さんが、こう言っていました。“政治家は肉食動物、その前ではすくむ。しかし、一番大事なのは自分が傷ついてもやるという志”(5月13日朝日)。この志が保てなかったのはなぜか。今、日本や世界で起きていることに対する包括的な認識と理解が不足していたのではないか。既に閣議決定されてしまった国土形成計画でも、都市と世界の視点はあるが、地方の視点が弱かった。これは政治家だけでなく、官僚や識者も都会育ちの二世になっていることがあるのではないか。政治が解くべき問題はどこにあるのか。今、日本を、そして世界をどうしたら良いのか。経済成長だけが問題解決の方策か。包括的な立場から解くべき問題の本質を理解していれば、揺らぐことのない志を持てるのではないか。私は個人的には“成熟社会における共貧のシステム”への移行を考えても良いのではないかと思います。何じゃそりゃ、と言われる方もあると思いますが、経済的な勝者の力が圧倒的に強く、豊かさの慣性も残っている現在、そのシステムのあり方を声高に述べるには躊躇する雰囲気もあります。しかし、地方では確実に変化や新しい試みが行われているように感じます(私の情報源は農文協、農村計画学会、環境社会学会、などなど)。すべてを俯瞰して、国のあり方に対して確固たる考え方を持てば強くなれるのではないか。などと思っても、敵の攻撃にさらされるとやはり参ってしまうのですね。それでも味方がいれば耐えられるのですが、今回は味方が少なくなったことが背景にないか。(2008年9月2日)

防災の日

今日は防災の日ですが、各地で災害が発生し、今日も大雨が予報されています。被災を防ぐには予知や警報システムの構築が必要なのですが、土地の性質や自然現象の性質をよく知り、うまく対処するということも必要だと思います。例えば、沖積低地の後背湿地は浸水しやすい地形であり、大雨時には十分注意する必要がある、という当たり前の知識がどうも一般に十分浸透していないようです。こんなことを論文に書いてもリジェクトされますが、現場では理解されていない現実もある。実は役にたつ情報は山ほどあるのに、それが活かされていない。知識を活かすことも研究者、大学の仕事ではないだろうか。ただし、知識の伝え方についてもっと研究する必要があると思います。ただし、知識伝達の結果、災害に対して脆弱性のある地域に社会的弱者が集まってしまうということは避けたい。また、大雨時にも仕事に出なければならないという社会のあり方にも問題があるかも知れない。ここにも異分野融合、問題の解決を共有すべき課題があります。(2008年9月1日)

水害の時代−人と川の分断の修復−

昨日の昼間も強い降雨が時々ありましたが、朝目が覚めたら各地で水害が発生していました。降雨強度も大きく、これが地球温暖化と結びつけられてしまうと、現在の生活者の問題の解決からほど遠くなってしまうのですが、まあそうはならないでしょう。対策として、ハード対策、ソフト対策、いろいろ考えられるでしょうが、一番重要な対策は“人と川”の分断の修復だと思います。都市域の生活はコストをかけて守られているにも関わらず、それに気がついていないこと。川の本来の性質を人が知らないこと(これは戦後の教育政策の中で地理や地学が軽視されてきたこともあり、忸怩たる思いはあります)。ここを何とかしなければならない。ここに、学会や大学がやるべき重要な仕事があるのですが。人口減少社会に向けて、土地利用の誘導などは考え得る手段の一つですが、合意形成過程については狭義のサイエンスは経験がありません。ここにこそ、モード2科学、関係性探究型科学の立場で問題解決を共有できる場があると思います。水文学者はたくさんいるのですから、地域ごとに異分野融合の小さな輪を作ると共に、学会等を通じて経験の共有の仕組みを作ることはできないだろうか。(2008年8月28日)

学際、異分野融合、問題解決、社会貢献

水文・水資源学会の学術大会が終わりました。英文誌発刊、学会創立20周年や総務委員長ご指名もあり、何回か発言の機会があり、表記の課題について小難しいことを言ってしまいました。水水学会が学際学会であり、異分野融合に最も近い学会であるので、これを堅持していきたいということ。そのためには科学のふたつのあり方について理解しておくことを述べました。つまり、科学にはモード1科学、モード2科学、あるいは真理探究型科学、関係性探究型科学といったふたつの立場がある。ジャーナルのインパクトファクター、論文の数、サイテーションインデックスを気にするのは前者の態度であり、狭義のサイエンスのレベルを維持するために重要な態度であるのですが、もう一方で水文・水資源学は水問題に対処しなければならない。そのためには後者の立場が必要になってきます。モード2でいうと、異分野協働による新しい知識生産であり、問題の共有ではなく、問題の解決を共有する(これの引用元がわからなくなっているのですが、いすれ明らかにします)立場ですが、問題解決の中で個々のディシプリン、技術の役割はどんどん相対化される、すなわち小さくなってしまうという問題もあります。研究者の世界は論文至上主義ですので、苦しいかも知れない。。しかし、これが問題解決、そして社会貢献に繋がる本質的な態度だと思います。日本は人口減少の時代、経済的にも停滞期を迎え、成熟社会に向けた時代を先取りするために、今はふたつの態度を峻別し、うまく使い分けていかなければなりません。(2008年8月27日)

国際誌オープンフォーラムに想う

水文・水資源学会の初日に“国際誌オープンフォーラム「今後の国際誌のあり方を考える」”がありました。Hydrological Processes誌の最初の学会編集号(Vol.14, No.3, 2000)を担当したのが私でしたので、現国際誌編集委員長の山敷さんにずいぶん“よいしょ”されたのですが、道を付けてくれたのは私ではありません。私は単に実務を行っただけです。もう10年も前なので資料も無くなり、記憶が曖昧で今名前が出てこないのですが、神戸大学の農学の先生がアンダーソン編集長と相談してくださいまして、私が実務を引き受けただけなのです。その時の思い出を述べますと、当初、これは日本の成果を海外にアピールする良い機会ですので、総説を掲載したい、それから学会表彰を受けたような日本語の論文を英訳して出版したい、と考えていました。後者についてはアンダーソンさんと相談して、きちんと引用を明確にした上で採録するということで快諾を受けていたのですが、編集委員会での議論では倫理的な問題があるということで実現しませんでした。私は日本の成果を世界に広めるためには戦略が必要で、日本語論文の英訳もその戦略の一つであると今でも考えています。日本は明治以降、日本語でサイエンスができるようになったわけです。水文・水資源学は現場学でもあるわけで、貴重な現場の知識、経験は日本語の情報として蓄積されている。これを世界に出す仕組みを今こそ考えなければならないと思います。やはり、総説を書かねばならないか。(2008年8月26日)

世界の60億分の1になる

オリンピックも終わり、振り返ってみますといろいろ感動することがありました。実は私はコレに一番感銘しました。柔道の石井選手へのインタビューで、次の目標はとの問いに対して、“世界の60億分の1になる”、との答えだったように思います。いや、すばらしい話だと思います。現在の世界人口は約60億人、その60億分の1の役目を責任を持って担うという態度こそ、世界の人々との関係性を意識した中で生きることであり、様々な問題の解決を共有できる姿勢であり、人の無事、安心へ繋がる道だと思うのです。その他の感動はやはり、ソフトボール、そしてなでしこJapanでした。申し訳ないけれど、強い者が強いことに感動しないのは人の心理学的な真理ですかね(私の性格かも)。もちろん、見えない部分で血のにじむ努力があるわけですけれど。そう考えると、王者は孤独なんですね。(2008年8月25日)

大学教員評価と個別の事情

今日も朝日に大学教員評価の記事がありました。どこでも中期計画に書いてしまったからやらざるを得なくなり、大変なロードになっているようです。もちろん、もはや評価を避けて通る訳にはいかないので、実りある評価を実施しなければなりません。しかし、万人が納得できる評価を行うためには、評価者がスーパーマンであり、個別の事情を十分勘案して評価を下さなければなりません。私は個別の事情にこそ本来評価されるべき内容を含んでいるのではないかと考えています。いちいち事例を挙げることはここではできませんが、個別の事情は教員の研究に対する姿勢、教育に対する姿勢、社会に対する姿勢と関わってきます。そこを評価して頂けばよい。大学の教員は研究、教育、管理の仕事を持っており、教育は講義と個別指導(卒論、修論、博論)のふたつの側面があり、管理は大学、学会、そして行政の仕事があります。しかし、1日は24時間しかありませんので、教員はその時ごとに判断し、重みを変えているわけです。それぞれの仕事の価値を認めるということは、個別の事情を十分考慮するということであり、評価は時間軸まで含めて“総合的に”判断しなければならないのですが、それが困難であるから点数主義が蔓延ることになります。すると、個人の努力は報われず、大学全体のモチベーションが下がることになりやしないか。私は大学教員の三大業務について各人の意見を単文で纏め、WEBで公開し、パブリックコメントを頂いたらどうかと思う。評価を大学の中で閉じずに、世間一般に委ねる。おかしな意見に対しては毅然と反論すればよい。それでこそ大学。こうすれば大学のあり方、教育のあり方、社会のあり方について自分の考えを持たざるを得なくなり、大学のあり方に関する問題の解決が構成員によって共有されることにならないだろうか。評価の中で問題を発見し、問題の共有ではなく問題の解決を共有する。これが達成できれば大学は良くなるのではないか。(2008年8月25日)

「消費者がやかましい」発言−雑感

太田農水相が言っちゃった件ですが、政治家たるもの、きちんとした理由があってもおかしくないはず。そこで、穿った見方をします。米国産牛肉の輸入についてはあんなに厳しくしたくなかった。輸入制限をしないことで食糧輸出国である米国に恩を売って、日本の食糧安全保障を担保したかった。でも消費者がやかましいから... 中国餃子事件も、うやむやにしたかった。事件には日本のポジティブリスト制によって中国の農村の疲弊を引き起こしている背景がある。国際世論に叩かれると大変。でも消費者がやかましいから...なんてこともあるかも知れない。あくまでスペキュレーションですが、地球温暖化、エネルギー問題、食糧問題、水問題、等々、問題の本質を見極める姿勢がますます求められているように思います。大学の役割は大きいはずですが。ところで、野菜価格が低くなっており、農水省でも原因特定ができないそうです。これはひょっとしたら直売所かもしれない。公式統計には入らないグローバル市場経済とは違う仕組みによる野菜の流通が機能し始めているのではないか。価格以外の価値を消費者が野菜に求めた結果、野菜が“半商品”になりつつあることを示唆しているのか。そうだとすると実におもしろい。(2008年8月20日)

目先の問題と、将来の問題との調和−地球温暖化にどう立ち向かうか

環境科学会誌21巻4号の住明正先生の記事より。地球温暖化の課題(将来の問題)だけでなく、貧困、高齢化社会、医療などの緊急の問題(目先の問題)、との調和が必要と述べています。その通りです。しかし、日本語では目先の問題とは、取るに足らない、本質的でない、というニュアンスを持ちます。私は、現在起きている問題と将来起こるかも知れない問題を峻別し、その関係を明らかにした上で、人の生活の立場から本質的な解くべき問題の優先順位を付けるべきだと思います。そのためにも神話や誤った言説を議論から排除しなければなりません。すると、地球温暖化と関連づけられている問題も多くは、誤っていたり、現在の社会システム、すなわち自由主義社会、市場経済の仕組みに由来している事例がたくさん出てきます。エネルギー不足、水不足、食糧不足の懸念、長期的には氷期到来の懸念(ちょうどラディマン仮説の論文を読んでいるところです)、日本では人口減少社会の到来、こういった問題、現象がある現在、実は“目先の問題”を解くことが、未来のためにも、喫緊の課題であるように思えます。(2008年8月17日)

鳥瞰型人間の育成−異分野融合を達成するには

環境科学会誌21巻4号の安井至先生の記事から。ちょうどCOE申請で文理融合、異分野融合、といった課題について議論していますが、その実現は簡単ではありません。異分野協力だけでは異分野融合人材は育成不能だからですが、こういう見方は環境分野では試行錯誤を繰り返した結果、十分認識されてきたと思います。ここを打ち破るには、まず個人の頭脳の中で融合が実現され、そしてそのような人間が集合して初めて本当の意味の異分野融合になる、という安井先生の考え方も実は各所で聞くようになっています。とはいえ、そうすることも難しい。ではどうしたら良いか。やはり、“問題の共有”ではなく、“問題の解決の共有”を目指す態度から異分野融合が生まれてくると思います。COE申請の議論では、まず解くべき問題を認識し、問題の解決を目指す姿勢から協働が生まれてくるはずですが、言うは易しで、これが結構難しいわけです。(2008年8月16日)

「科学技術の智」プロジェクト宇宙・地球・環境専門部会報告書における“環境”の不在

日本地球惑星科学連合NLで表記の報告書を知り、さっと見てみましたが、内容は“自然”に関するものがほとんどで、“人間と生態系を取り巻くものの総体”としての“環境”に関する記述はほとんどありませんでした。これはゆゆしき事態であるといえますが、ここにモード2科学、関係性探究型科学としての“環境学”の特徴が顕れているのではないだろうか。環境学はその特徴故にまだ体系が確立していませんが、体系がないということは、こういう報告書に取り上げる人がいないということでもあります。現場学としての環境学は個別の問題に深く入り込む学問でありますが、個別の問題に取り組む時の方法論は、対象の多様性故に簡単に体系化できるものではない。強いて言えば、俯瞰的、包括的、総合的な視点、関係性を重視する態度、学際性、といった言葉で説明できるかも知れないが、基本的に個別の成果を積み上げていくタイプの科学です。先にゆゆしき事態といってしまいましたが、実はこういう科学は「科学技術の智」と同格、あるいはそれを包含する位置にあると考えた方が良いかも知れない。問題解決の中で、個々の科学や技術はどんどん相対化されていくのが現実ですから。環境問題解決は科学技術をツールとした社会科学の分野の課題と考えたほうが現実的かも知れない。(2008年8月14日)

本のおもしろさとは

伊東乾著「バカと東大は使いよう」を読み終わりました。おもしろくて一気に読みましたが、おもしろさを感じる最大の理由は日頃から自分が感じていることを代弁しているからといえましょう。そのひとつ、“東大モンスターペアレント”というのがおり、大学生の子どもの成績にクレームをつける親のことだそうです。それでも出てくるだけましで、千葉大モンスターペアレントは陰でこそこそ権力を使って誹謗、中傷を仕掛けてきます。卑怯者といえます。“同一の委員会が検察官と裁判官の二役を演じ、弁護士は存在しない”という記述は全く同じことを私も以前書いたことがあります。昔は何とか長、何とか担当理事などという肩書きを持つ方は権威があり、偉いもんだと漠然と思っていましたが、そんなことは全くなく、権力と人物とは全く別物だと思い知りました。こんな人物が検察官と裁判官を兼ねたら大学は弱体化するばかりです。その他、大学教育に関する批判は小気味よく、“大学では、仕事で出会う、初めて見る問題状況を、持てる経験と能力を総動員して解決する人間を育てたい”、という主張については120%の共感を持ちます。私もエネルギー充填120%で、波動砲発射といきたいもので、今日はモチベーションを高めて、休み明けのゼミの企画と、新規開講の演習の準備をすることにします。(2008年8月14日)

千葉モデルの構築

いろいろ所用があり、(自民党に無駄と指摘された)COEの申請の議論に乗り遅れていますが、メールで述べたことを備忘録として残しておきたいと思います。大きなタイトルは“安心の科学”なのですが、ここ数年は社会系、農村系の学会に入り、それらの分野の考え方の現状を知ることに勤めており、視点もだんだん定まってきたように思います。

 まず、インパクトのある提案にするためには背後に、どのような人間環境を作りたいのかという思想、考え方があると良いと思います。

 巷では「安心」に関する議論も煮詰まってきたと思いますが、それによると現在の日本人が求めている安心の一番目は災害でもテロでもなく、暮らしの安心、すなわち衣食住に経済的な不安がないこと、ではないかと感じています。(二番目は健康)

 暮らしの安心は市場経済の仕組みと関わっていることが認識されてきましたので、提案では従来の市場経済の仕組みと異なる「地域経済」とでも呼べるものの構築と、市場経済との共存が課題になるのではないかと考えています。
→ここで経済分野の協働が必要
→「地域経済」の構築の中にフロー消費型社会、循環型社会を構築する仕組みを実現できるのではないかと考えています。

 そのための次世代人間環境作りのプランとしては、衛星都市、コンパクトシティー構想+良好な農村の構築、といった考え方があると思います。
→国土形成計画を理解しておく要あり

 そして都市と農村の分断の修復により、フロー消費型社会社会を実現させると同時に、都市域ではグローバル社会に対応する生き方も選択でき、農村では地域社会、自然との良好な関係を復活させ、兼業が両者を繋ぐ、といったモデル(一例です)の提案が可能ではないだろうか。

 千葉県は、特に下総台地では都市域と農村域がパッチ状に分布しており、まさに上記の考え方に基づく、千葉モデルの提案が可能なのではないかと考えています。千葉モデルに基づいた上で、安全な都市域の設計、災害対応、汚染対策、経済モデル、等々の個別課題を設定できるのではないだろうか。
→市町村と組んで千葉大学プロジェクトの構築が今すぐ可能だと思います。既に様々な問題がありますので、千葉大の諸分野が参画する余地はあると思います。

 次に、海外ですが、この千葉モデルはむしろアジアの諸地域に適応可能なのではないか、と考えています。この考え方に基づき、アジア戦略を記述すると具体性が増し、インパクトが強くなるのではないでしょうか。
→アジアでは、環境社会学、環境人類学分野との協働が重要。

 提案に際して、「人口が減少する社会」がキーワードになると思います。この千載一遇のチャンスを生かして、次世代人間環境を再設計するというスタンスがインパクトを持つかも知れません。

 以上、まだ少し抽象的な表現が含まれていますが、具体性を考えました。具体性も提案には重要かと思います。

 なお、文理融合については評価は大分出てきたように思います。すなわち、異分野を集めただけでは文理融合は達成できず、個人の頭の中に文理融合の思想、態度があることが必要であるという主張を各所で見るようになりました。基本的な思想を共有することが提案成功のキーだと思います。

書き下ろしで、まだ説明が足りませんが、少しずつ中身を作っていきたい。それにしても、どのような国、社会を作りたいか、という思想にはふたつの大きな潮流があり、両者はなかなか理解し得ないという実感も強くなっています。(2008年8月13日)

アジアの文化と欧米の文化

イー・モバイルが猿を登場させたCMを中止したという記事が朝日にありました。アメリカ大統領選をイメージさせ、人種差別の可能性があるからとのこと。猿はアジアでは守護神であり、よき隣人ですが(たとえば、猿王ハヌマンや孫悟空)、猿が分布しない欧米では軽蔑や増悪の対象になっています。日本国内向けのCMに対してアメリカからクレームがついたわけですが、日本が欧米の価値観を知らないことが問題であるのなら、欧米もアジアの価値観を知るべきです。欧米の思想は、それがグローバルと呼ばれようとも、あくまで欧米ローカルな思想であり、ローカルな思想は互いに尊重しあうべきです。この件の真の問題点はアジアの文化を日本人が知らないことにあるのではないか。尊重しあうためには知らなければならない。ここに勉強して教養を身につける価値があるのですが。(2008年8月11日)

卒業定員の考え方

8月は修士課程と博士課程の入試があります。博士課程は定員割れを心配しなければならないくらいのですが、修士課程は倍率1.4倍程度でだいぶ落ちる学生が出てきます。この倍率の値自体はたいしたことないのですが、私の場合、地球生命圏科学専攻地球科学コースに所属しているので、試験問題は地質、岩石・鉱物、地球物理、地理・水文から出題されます。中からの進学は問題ないのですが、外からの進学者、特に環境問題を志向する留学生には極めて重い負担になっています。入学定員のしばりがありますので、全員合格というわけにはいかないので、ここでふと思いつきました。入学定員は決めずに、卒業定員を決めればよい。筆記試験の結果が悪くても、面接でやる気を示してくれれば合格とする。後はがんばって卒業資格を得る。こうすれば大学院の教育も活性化するのではないかと思うのですが。教育に対する教員の責任も重くなりますが、こうやって研究至上主義を粉砕するのもいいんじゃないですか。(2008年8月8日)

若手研究者就職問題

今日の朝日朝刊に、博士研究員(ポスドク)の就職難を訴える投稿がありました。私も何とかならないかと常に思い悩んではいるのですが、一方でポスドクの方々は教育研究業界の現状の中に自分を位置づけ、“マーケット”の状況を俯瞰し、必要な手を打っているだろうか。人のことを批判するのはたやすいので、自分がどうやってきたかということを述べてみたいと思います。私も課程博士で学位を取得後、直ちにパーマネントの就職先は無かったのですが、筑波大学の準研究員制度に助けられました。これはラッキーといえます。3年でやめるという誓約書を書いて技官として働くことができました。私の学位論文の研究対象は地下水でしたが、継続にはこだわらず、そのころパソコンで衛星画像解析ができるようになったリモートセンシングに取り組んだことが縁で、都立大学地理学教室の情報地理学研究室の助手になることができました。PCの処理能力は遅かったのですが、吉野正敏先生の“できるんだったらやるべき”というお言葉が頭に残っていますが、新しい、おもしろいもの、可能性を感じたものにすぐに取り込むという姿勢は正しかったと思います。都立大の地理では助手はそのままプロモートすることは原則ありませんので、数年たつと腰が浮いてきます。このころはグローバル研究が一つのトレンドでしたので、アジアのフラックス研究に取り組みました。GAME(GEWEX アジアモンスーン観測計画)が始まる前で、この時期にこんな研究をやっていたのはすごい、とずっと後である大先生に言われたことがうれしい思い出であります。恐らく、これが効いて筑波大学の「地球環境変化特別プロジェクト」に講師として採用していただくことができなのではないかと思っています。筑波は研究所を作らない代わりに、5年単位の特プロを実施しています。これも任期付きですが、そのころは自分の課題の一つがリモートセンシングであることは十分認識していましたので、写真測量学会誌に大陸スケールの植生およびフラックス解析に関する論文を出しておこうと考えました。この頃はすでに英語論文がプロモートの条件の一つになっていましたので英語で書きました。二年もたたないうちに現職場の公募があったのですが、採用にはこの論文が効いたのではないかと思っています。実は、初代センター長が恩師でもあったので頂いた話を一度はお断りしてしまいました(若かった!)。しかし、別のルートから外部推薦を頂いたので応募し、採用していただくことになりました。このとき推薦してくださった先生方には十分報いておりませんが、心より感謝しております。環境リモートセンシング研究センターに入ってからは、自分なりにやるべきことをやり、恐らくそれが認められてプロモートできたと考えています。その時、教授の条件として論文50編を自分に課していました。その条件をクリアし、公募のチャンスが巡ってきたので応募したわけです。自分で言うのも何ですが、世の中のニーズを理解し、その時重要なことをやってきたことが現在に繋がっているのだと思います。専門にこだわり、狭い世界で生きようとしたら現在は無かったでしょう。社会にとって、自分にとって重要か、重要でないか良く考え、重要ならば踏み込む。いろいろな分野に入っていけるのは、“関連性”を常に意識しているからだと思います。“様々な要因の関連性を意識すること”は、フィールド科学における基本的な姿勢です。これがチャンスを掴む一つの方法かなと思います。(2008年8月7日)

無駄遣いプロジェクト

朝日朝刊から。自民党の「無駄遣い撲滅プロジェクトチーム」が文部科学省に対してヒアリングを実施し、その結果「不要」とされたプロジェクトの中に、「21世紀COE」も入っていました。理由はまだわからないのですが、大学人としては理解できる部分もあります。COEプロジェクトはいまや大学の権威付けの手段になってしまっており、採択数に一喜一憂するだけでは大学の持つ教育・研究の長期的な役割に貢献することは困難なのではないか。提案課題は研究者個人やグループの永年の取組から出てきた貴重なアイデアがもとになっているはず。しかし、大学から提案されるときには様々な修正が入り、最終的には提案大学と評価者の化かし合いになっている感もあります。COEに限らずGP等の大きなプログラムでも大学の支援が得られるわけではなく、継続性は担保できていない。その結果、COEは研究・教育を深める手段にはなり得なくなっている、という現状もあるかも知れない。教員側もモチベーションの維持が難しくなる。自民党の分析は鋭かったのか、もうちょっと中身を詳しく見て検証してみたい。(2008年8月6日)

千葉大学の目指すところと重点課題

学長・理事との懇談会がありました。その議題の一つが表記の第一次案に対する意見聴取だったのですが、ほとんど触れられず、拍子抜けしたので思うところを書き留めておきます。まず文書の最初、“教育の目指すところ”における「・自己を知り他人を知り他人を思いやるこころを持つ、そして本質に迫ることのできる人材の育成」において本質の主語が無いので、“問題の本質”とすることを提案します。それは、前半は“関係性の中で生きる”ことを意味しており、その場合の本質はけっして真理の探究”といったものではなく“関係性の中から問題の本質を見抜くこと”だと思うからです。例えば、水俣病はメカニズムを明らかにすることが本質の理解ではなく、時代背景、差別の問題、加害企業から収入を得る矛盾、等々様々な問題の総合として水俣病問題があるという視点が本質へ迫る道筋であるということ。こういう視点を学生に伝えたい。こう考えると、研究の重点課題にある「・臨床研究の充実」を「・臨床の知、フィールドの知を活かした研究の充実」とすることにより意味が繋がるのではないか。臨床は医学用語ですが、フィールド、現場を重視するサイエンスに繋がります。患者の症状はあらゆる要因が積分されて現れている。結果から原因、それも複数の原因を考慮しながら探るアプローチはフィールドサイエンスの考え方に通じるものがあります。「臨床の知」は実は中村雄二郎著 「臨床の知とは何か」(岩波新書)からの引用ですが、京大、信州大の教育学部/研究科のプログラムにも使われていました。総合大学として複数の学部に関わるキーワードとして適切だと思います。その他、留学生の日本語教育の充実を提案すると共に、留学生の枕詞の“優秀な”を“志の高い”に変更したい。優秀であることが担保されて出てくる留学生はほんの一握り。多くの私費留学生は志を拠り所として日本にチャレンジにやってくる。“優秀な留学生”は旧帝大に任せて、千葉大学は“志の高い留学生”を受け入れるという姿勢を明確にしたら良い。(2008年8月5日)

博士課程の進学者へ−補遺−

若い学生は技術志向になりがちです。それでも良いのですが、技術にはどんな社会を作りたいのか、という思想が伴うことに気づいてください。格好いいシステムを作って論文を書いたが、社会の現状とマッチングせず、いつの間にか旬が終わるような研究では、一生流行を追いながら、研究競争を繰り広げ、最後に何も残らなかったなんていうことになってしまうかも知れません。そうならないためにも様々な分野の考え方を勉強しておくと良いでしょう。例えば、災害という課題であったら、工学、地理学、社会学、等々それぞれの分野でどのような考えに基づいて取組が行われているか。それぞれの主張のバックにある時間、空間、意識の広さはどれくらいか、見極める努力をしてみてください。(2008年8月5日)

博士課程の進学者へ

そろそろ夏の第一回の博士課程入試が近づいてきました。そこで、環境分野で博士課程に進学する心構えを書いておこうと思う。博士課程でまず重要なことは、●孤独に打ち勝つこと。研究というのは自己実現(自分の主張が認められ、それが分野の進歩に貢献していることが承認されること)のための戦いですから孤独に耐える態度が必要。グループ研究しかできなくなった一部の分野に惑わされないこと。孤独があるということは、自分独自の主張ができる可能性があるということ。こんな楽しいことはありません。●自分なりの自然観、世界観、社会観を持つこと。環境問題とは人と自然の関わりの問題ですので、最終的にはどういう未来、どういう社会、どういう地球を作りたいのかという考え方が自分の研究の意義の拠り所になってきます。自分の考え方がはっきりすれば、自分の研究の意義が明確になりますし、自分の課題を補う形でほかの研究者と協働が可能になり、研究がまた楽しくなります。●研究の仕組みを知り、自分の立場を研究室や研究界の全体の中に位置づけること。博士課程の学生はおとなであるべき。自分の研究の予算、リソースは誰のどんな努力によって得られているのか。他の学生が十分なサポートを受けている場合、それによってその学生が負ったものは何か、察する力が必要です。博士課程の学生は教員ではありませんが、学生以上の存在です。研究を推進するメンバーであることを心がけてください。現実に教育予算はほとんどありません。教員は成果に対して責任のある競争的資金で学生の研究を支え、その成果で責任を果たしているのです。●研究は論文を書かなければ何もやらなかったことと同じです。査読論文により知識、経験を共有することが科学のルールです。そして、論文が学生の将来を担保します。常に論文を書く心構えが必要。そのためには自分の研究の到達段階を十分なレビューにより位置づけていることが必要。●狭い専門領域に閉じこもらないこと。先端は深化させるとともに、裾は大きく広げ、重要な課題が生じたときはすぐに対応できるようにしておくこと。これがチャンスを招き寄せることになります。●異分野交流を心がけること。創造とは多くの場合、新しい組み合わせです。蛸壺の中で解決できないことでも、蛸壺から出ると新しい解決法が見えてきます。とはいえ、自信の持てる専門分野は最低ひとつは持っておくこと。●最後に、研究・教育職はそのポジションを得るために冒険する価値があるということを強調しておきたい。ただし、ポジション獲得のためには何をしておくべきか、よく考えておくこと。(2008年8月4日)

自分の思想を伝えるためには

明日からの集中講義のために来てくださっている東北公益文科大学の白先生はいつも私を“よいしょ”しすぎなのですが、今日は、“私の考え方が学生に伝わっていない”、と言われてしまいました。その通りで、私も日頃から感じていることでもあります。私の考え方は常日頃話していますし、論文や書き物、ホームページを見てもわかるはずと思うのですが、なかなか伝わらない。それは、若い学生が生きるために思想、考え方を必要としていないからではないだろうか。これはうがった見方をすれば近代技術主義が目指した一つの人間像であったのではないか。日本が繁栄している時期はそれで何も問題は無かったと思われます。終身雇用、年功序列で誰でも定年まで勤め上げることができた時代。しかし、既に時代は変わっています。自分の仕事に価値を見いださなければやっていけない時代。だからこそ、自然や社会の仕組みをよく知り、思想、すなわち自分なりの自然観、価値観、社会観、等々が必要になってくる。勉強が必要な理由もそこにある。もうひとつは、学生が関係性の中で生きていない、社会や世界との関わりの中に自分を位置づけず、直近の目標だけを見て暮らしている、なんてこともあるのだろうか。自分の思想を何とか学生に伝えたいが、話だけでは伝わらない。教育指導における私の最大の悩みであります。(2008年8月4日)

理解が深まるということ

頭ではわかっているつもりのことが、ある時突然、身に付いたというか、理解が深まったように感じることがあります。今日は、考え事をしていて突然、“ストックとフロー”がポンと頭に出てきて、悟ったような気分になりました。ストック消費型社会とフロー消費型社会は、松井孝典先生だったろうか。現在の共栄システムである近代化社会は石油というストックを利用しているので持続可能ではない。乾燥地域の地下水は涵養量が極めて少ないのでストック、よって地下水依存型農業は持続可能ではない。こんな風に社会の将来が展望できるようになります。都市と農村もそうかも知れない。これまで都市は農村のストックを消費して繁栄してきた。これからは都市と農村のフローを重視しなければならない、なんて。識者からすると、そんなこといまさら、ということになるのかも知れない。しかし、この感覚は何だろう。“ストックとフロー”もそのうち古くなってしまうかも知れない。“環境”も古くなるときが来るのでしょう。しかし、重要なことはいつでも重要です。新しいキーワードを求め続けるのではなく、考え方を深めていくという態度を大切にしたい。研究のための研究、予算のための予算ではなく、問題解決を共有する研究にするためにも。(2008年8月1日)

品格のある人生を楽しもう

これは理学研究科・理学部ニュースの研究科長による巻頭言。文章は、「皆さんが、高潔で、思慮深く、互いに尊重し、品格ある研究教育を通して、社会に貢献すべきとき...」、と続きます。その通りであり、読んでいてほっとした気分になります。私もそうありたいと思う。とはいえ、ふと思う。自然科学研究科改組の時に蛸壺という言葉を良く聞きましたが、改組後も蛸壺はあまり解消されていないのではないか。蛸壺(ディシプリンといっても良い)の中にいれば、自分が正しいと思うことから、話し合いをしなくとも、異なる意見が間違っているということが導かれる。しかし、蛸壺の外に出れば、様々な考え方が存在し、どれももっともということがわかる。そして問題解決は折り合いとなる。“分野によって違うとは思いますが”、といった言もよく聞きますが、その後に暗に続くのは、“認めませんよ”、という場合が多い。分野によって違うのならば、そこには尊重がなければならない。互いを尊重する、こういう科学もあっていい。それがモード2科学であり、環境学であり、関係性探究型科学なのだと思う。社会貢献ってなんでしょう。いずれ役にたつと主張しながら終わってもいいが、問題解決を共有して折り合いを見つける科学もあっていい。(2008年7月29日)

暑さを楽しむ

インドネシアに行ってきました。ボゴールは朝夕は涼しく、快適だったのですが、帰国後、暑さにやられて週末はダウンしてしまいました。日本は本当に蒸し暑い。どうも最近暑さ、特に湿気に弱くなっているようです。昔、筑波大学水理実験センターの技官をやっていた頃、水文分野の大御所のブルツァート先生が滞在した夏がありました。大先生ながらTシャツ、短パン、サンダル姿で汗だくになりながら自転車で宿舎から通勤しており、“日本の暑さはどうですか”、と尋ねたところ、“楽しんでいるよ”、と答えが返ってきたことを思い出しました。なるほど、と思い、以後なるべく状況を楽しむように心がけていますが、なかなか思うようにはいきません。修行がまだまだ足りないようです。(2008年7月28日)

時間の消費、時間の蓄積

これももとは大熊孝さんの著述にあったと思います。まだ前期セメスターの仕事で成績付けを残していますが、だいたい終わり、明日から一週間インドネシアに行きます。最近ずっと心身のバランスが悪く、不調が続いていますが、夏ばてもあるだろうな。日々の時間がどうも単なる消費のように感じています。時間は蓄積していかねばばらぬなどと思っていますが、一日の終わりに充実感がある日が少ない。しかし、異文化に身を置いているときは何もしなくても経験が蓄積されて行くように思います。普段と違う時間の中で蓄積を試みてきます。(2008年7月18日)

共同利用研の行く末

全国共同利用施設のあり方が問われていますが、文科省の考え方の一端がわかりました。共同利用・共同研究には別途予算を出すが、学際的、学術融合的研究や唯一の研究機関というものは大学が面倒みるということ。となると、共同利用するためのリソース、共同研究のための課題が重要になってきます。私の課題は学際領域で、(姿勢としては)唯一を目指してやってきましたので共同利用研向きではないということになります。文科省の考え方は共同利用研ではモード1科学、ディシプリン科学をやりなさい、モード2科学、関連性探究型科学は大学でやりなさいということか。モード2科学は異分野協働科学ですので、“司会者”が必要という考え方もありえるが、問題解決を共有する姿勢では、明確なリーダーがいなくてもメンバーがやるべきことを心得、協働がうまくいくという報告を読んだこともある。自分の立場をどう作るか、難しい場面になってきました。(2008年7月17日)

半商品という考え方

燃料代の高騰で漁業者の憂鬱は限界を超え、一斉休業ということになりました。コストがあがっても商品に転嫁することができない。商品の価格は流通により決まる。どうすれば良いか。ここで半商品ということを思い出しました。これは経済社会学者の故渡植彦太郎さんが、「商品として流通してはいるけれど、商品経済の論理だけでは動いていかないもの、つまり、文化とか経済的なものだけではない価値に支えられて動くもの」を半製品と呼んだことから哲学者の内山節さんが考えたもので、我々は商品を購入することで、その背後にある文化、社会、自然、生活、等々を支えているという概念。正しく解釈しているか後で確認する必要があるかも知れませんが、商品は必ずどこかの社会と繋がっている。近海物の魚を買うことで、その背後にある漁村社会を支えており、そこで人間と自然の関係が良好ならば我々は良好な国土を維持し続けることができる。また、減肥野菜を買うことで地下水や河川の富栄養化を防止している(硝酸態窒素汚染問題です)、米を買うことで水田が維持でき、地域社会の維持や環境保全に貢献している、あるいは日本の食糧安全保障を担保している、等々。我々は高い商品を買わなければなりませんが、日本のGDPは世界2位、このくらいのコスト負担ができるように政治が何とかして欲しい。それにしても価格というものに我々はもっと敏感にならなければならない。まず日本の米は安すぎます。生活実感からすると中国よりも遙かに安いそうです。もっと我々は食糧にお金を払っても良い。そして食糧生産地で起きていることを知り、その解決に若干のコスト負担をするという意識が都市と地方の分断を解消させ、安心社会の構築に繋がるのではないかと思っています。ただし、実現のためには、現場で起きていることを正しく理解する研究、その成果を社会に発信する活動が必要ですが、大学はその一環を担うことができるのではないか。最大の障害はやはりグローバル市場経済か。(2008年7月16日)

変わること、変わらないこと

変わらないことは深めること(内山節の著作から)、大学も研究・教育を深めることを考えるべき。大学運営の新規主義、変化主義に辟易してこんなことを言っていましたが、社会主義国のキューバでも仕事に応じた収入を担保する政策を打ち出すとのこと。キューバは貧しいながらも平等な社会で、食糧や医療政策は学ぶところが多いと感じていました。一方で、昨今の石油、食糧価格の高騰、自由主義経済は限界が近づいているように感じます。人間社会は平衡状態を維持することは苦手なのかも知れない。動的平衡を保つにも常にパワーを投入していなければなりませんからね。変化、あるいは振動することが自然や社会の摂理。とはいえ、どう生きたいか、どういう社会を作りたいのか、明確な思想を国民が共有することによる安全・安心な社会づくりというのはできないか。キューバの変化を目の当たりにすると、やはり現実味がないか。結局変化の過程で誰かが苦しむことになるのは宿命なのだろうか。変化しつつもみんなが納得する社会の構築は可能だろうか。キューバのやり方はこれからも注目していきたい。(2008年7月15日)

森林は雨を増やすか

朝日朝刊「内モンゴルとわたし、地下足袋姿で植林31万本」から。もとお笑い芸人のてんつくマンさんは中国内モンゴルシリンホトの小学校を訪れ、苗木を植えたそうです。日中友好の草の根活動として評価できます。でも、そのきっかけはアフガニスタンで“地球温暖化の影響で干上がった湖”を見たからという。科学的には地球温暖化の影響かどうか判断することは難しいと思います。中国における植林活動も“木を植えて雨を増やさないと”と考えたからというが、森林は雨を増やすとは限らない。増やす場合もあるがそれは良好な条件が整った場合。森林はその生育段階でむしろ水を消費し、地域の水資源の減少に結びつくこともある。植林の成果がどうなるか、単純な予測はできません。さて、我々は科学の成果を広めることはできる。しかし、現場に対して何ができるか。シリンホトでは、自然状態における生態学的な平衡状態を見極め、次に人の生業も考慮に入れて、新しい生態学的平衡のあり方を考えることになるでしょう。一方、NGOは事業の持続性に責任を持ち、今後のモニタリングを怠らないことが重要だと思います。一昨日の「悲観主義者と楽観主義者の発言」を超えて真実に到達するには、勉強、現場、継続、協働が大切で、大人の立場で判断することも必要になってきます。(2008年7月8日)

洞爺湖サミット、温暖化問題ではアフリカの関心低迷

さっそく、こんな報道が聞こえてきますが、アフリカとしては当然だと思います。現在の生活を脅かしているのは温暖化ではなく、食糧や肥料、種の高騰です。それは温暖化というよりも市場経済の仕組みに起因するもの。まず、食糧の安定供給、できれば自給を考えたいのはアフリカ諸国の本音でしょう。生活に不安の無い人々は温暖化を心配すればよい。共栄のシステムを担保する新エネルギーが無い現在、世界は共貧のシステムか緊張のシステムに移行せざるを得ない(6月9日参照)。しかし、人の幸福を基軸に考えると、共貧のシステムが唯一の選択肢ということもあり得るかも知れない。(2008年7月7日)

悲観主義者は間違っているが有益な発言をし、楽観主義者は正しいが危険な発言をする

サミットが始まりましたが、地球温暖化も重要な議題です。タイトルはヴァーチャル・ウォーターで有名なトニー・アラン氏の言葉。地球温暖化に関してはサミットは前者の立場をとり、私は後者の立場になるように思います。両者ともステレオタイプにとらわれて表面的な議論しかできないようだと、間違ったり、危険な発言をしたりするのですが、問題の本質を包括的、総合的に捉えることができれば、結局は同じ結論に至るではないでしょうか。それは分を知ること、贅沢は慎むべきだが少し豊かな生活は目指して良いと思います、環境適応を心がける、様々な関係性の中で生きて、“分断”を修復すること。都市と地方、人と自然、その他、様々な立場の分断を修復する。すると生活に誇りがでてくる。私は理想的すぎるだろうか。実現のためには市場経済の仕組みの組み替えも必要と思いますが、理想は市場経済社会の成功者のパワーにかなわないだろうか。(2008年7月7日)

ダーチャと食糧問題

今日は先週が雨でできなかったジャガイモの収穫をしたのですが、“インカのしずく”は少々、“男爵”は段ボール箱ひと箱分たっぷり収穫しました。北海道は洞爺湖サミットで盛り上がっていましたが、食糧問題も重要な課題です。世界各地で食糧危機が起きていますが、ソ連邦の崩壊の時は食糧危機は起きなかったという。それはダーチャがあったから、と聞いたことがあります。ダーチャは希望者に政府が貸与した郊外の農地です。週末になると都市生活者はダーチャに出かけ、農作業をします。別荘ですが、電気も水道もないところがほとんどとのこと。これこそ、国土形成計画でも謳われている二地域居住ですね。もっとも日本人は電気、水道なしには耐えられないかも知れませんが。それでも少々の土地があれば自給用の野菜は生産することができ、“生存”を気にせずに“生活”ができる。これこそ安心社会のひとつのあり方ではないだろうか。日本でもクラインガルテンが普及しつつあるようですし、アグリス成城も結構な人気だそうです。経済成長ばかりを気にせずに、農を中心とした新しい規範による社会は形成できないものだろうか。(2008年7月6日)

子どもルール、大人ルール

羽田からの帰りに品川で入院している息子を見舞いました。部活のコンパの悪ふざけで怪我を負わされてしまったのですが、過失致傷ということになるでしょう。相手は成人しているので、責任は相手にあることは明確なのですが、大学の責任が気になります。法曹界の考え方では責任の順番は、相手、部活の顧問、大学となるそうです。今のところ大学からは何の連絡もないので、大学は学生の行為には“大人ルール”で対処するということになるのでしょう。しかし、大学の本務である教育指導においてはどこでも大学は学生を“子どもルール”で扱う傾向があるようです。学生の不満は指導教員の力不足に帰結され、教員が一方的に批判されることになる。本来、教育指導にこそ大人ルールを摘要すべきなのですが、そうはなっていない。本務以外ではある線を境に急に子どもルールから大人ルールに変わるようです。さて、大人ルールに適用上の問題は見いだせないのですが、問題の解決は折り合いです。そして“こころ”の問題でもあります。どんな問題も機械的なルールの適用では解決しない。最近は大学だけでなく、社会全般で“こころ”が忘れられているような気がする。さて、サミットが始まりますが、“問題”は議論されても、“こころ”は議論されるだろうか。世界の人々のこころ、生き方に対する考え方、これが顧みられないと折り合いは付けられず、問題は解決しない。問題の共有でなく、解決の共有が必要なのですが。(2008年7月4日)

研究の目的化

札幌もそうですが、北大もG8サミットに向けて昂揚している感じです。GLPのミーティングに出てきましたが、ブレインストーミングの主な課題は本を出版することでした。ふつうは研究成果に基づいて本を書くのですが、まずは本を出版したいというのが札幌GLP Nodal Officeの考え方です。“Land System Vulnerability”はまさに私の想うところでもあり、皆さんの考え方を聞くことができてよかったのですが、“解きたい”という想いの成果を積み上げて、集大成としての本を書くというやり方はすでに古くなってしまったのかもしれません。それでは間に合わないということなのでしょう。本の出版は結構なことなのですが、研究の世界を振り返ると最近は“研究する”、あるいはそれ以前に“予算を取る”ということが目的化され、“何を解くか”という点が曖昧になっているように感じます。問題の本質は何か、解決するためにはどうすれば良いか、様々な分野が協働して解く、これがモード2であり、関係性探究型科学なのですが、G8サミットの経過を見ていてもモード1科学、真理探究型科学のセンスに基づいているように感じます。ビックプロジェクトはその計画段階で何が明らかになるかを明記しなければなりません(書式がそうなっている)。モード1科学でなければ予算申請書の作成は困難です。G8サミットも研究の提案書を書くための素材を提供するということでは研究者として歓迎すべきことかも知れません。しかし、環境の“問題”に踏み込むと、単純なステレオタイプでは説明できない真の問題が浮かび上がってきたり、解決を目指すと科学の役割が小さくなったり、いろいろな側面が見えてきます。さて、サミット後はどうなるか。国民は相変わらずステレオタイプに踊らされることになるのか。答えが一つではない問題の本質を理解して苦しい判断を迫られるのか。私も文句を言っているだけではなく行動が必要なのですが。明確な主張を持っているNGOの方々は偉いと思います。(2008年7月4日)

生態系サービス雑感

今日は夕方札幌に出かけます。明日はGLP(Global Land Project)の実施に関するブレーンストーミングをやる予定。その重要課題は“生態系サービス”ということになるのですが、プロジェクトの立案のためにはどのように考えれば良いか。研究者の個々の分野における未解明の部分に取り組む、未知の機能を探す、という方向性ならば議論に参加することがしんどくなりそうです。生態系サービスとは、つまるところ人と自然の関係のことではないか。すると、日本でも50年くらい前の農山漁村では人と自然の良好な関係があった。生態系サービスを受けながら、自然を慈しみ、今様に言うなら保全を行っていた。この関係をきちんと理解し記述することが研究の要ではないだろうか。それはローカル・オリエンテッドであるのだが、それら多数の事例を集積し、個々の事例をきちんと理解し、そして比較し、一般性があればそれを峻別し、そうでない部分は知識ベースとして蓄積し、空間(地図)の中に位置づける、という作業をやることになるのではないだろうか。もちろん、アジアというフレームの中で。これができれば実質的な科学の成果を社会に還すことができると思う。環境社会学の方々がやっている社会調査の手法と、観測・解析を基本とする“科学”の手法の融合が必要なのだと思う。もっともこんなことは科学者よりもずっと先に“現場”では行われているのだとは思いますが。(2008年7月2日)


2008年6月までの書き込み