口は禍の門

2008年度が始まりました。桜も満開です。この2年ほどは研究、教育、人生、等々いろいろ思うことがあり、研究も滞っておりましたが、その代わり新しい分野にも踏み込み、これまでと異なるセンスを身につけることができたかとも感じています。これがいい方向なのか、良くない方向なのかはこれからのがんばり次第なのですが、今年は少しわがままになることをご容赦願いたい。今年の目標を再掲しておきます。

●リモートセンシング、地理情報システムによる地域研究の指針を公開すること
●蓄積されたリモートセンシング画像によるアジアの地域研究を推進すること
●地域、特に千葉県における人と自然の関係に関する研究の推進
●統合環境情報ベースのプロトタイプを作成すること

2007年の書き込みは実に文句が多かった。文句は大切なのですが、今年は提案も同時に考えていきたいと思います。正月用に山ほど本を買い込んだのですが、あまり読めませんでした。楽しみは先延ばしにして、少しずつ報告したいと思います。

2007年12月までの書き込み


豊かさの中の貧困

昨日からあたふたと平成19年度の実績報告書の修正に追われていました。大学の運営費交付金もだんだん減り、とにかく削れるところを削る風潮の中、何とか組織を維持するために“うまい”実績報告書にしておかねばなりません。何となくやるせない気分になったところでふと思い立ち、外務省のホームページを調べたのですが、日本のGDPは43401億ドル(2006年)で世界全体のGDPの9%です。世界の中での9%ですので、これは小さな値ではない。戦後、半世紀をかけて経済成長を遂げ、達成した誇るべき数字です。しかし、現在は緊縮財政で教育にかける予算も減らさなければならない。世界のGDPの9%という数字からは信じられない事態です。国民の生活も豊かさの実感が乏しくなっている。このような状況は飢饉と似ているように思う。アフリカのサヘルは20世紀に何度も旱魃と大飢饉を経験しています。降水量は10年スケールで変動していますので、降水量の多い時期に生活の質を上げ、人口が増えたので次の降水量が少ない時期に大飢饉となってしまうとも考えられます。もちろん、医療技術の進歩、貨幣経済の浸透、等々様々な要因はありますが、ひとつの考え方です。これを敷衍すると、今の豊かさの中の貧困は日本が経済成長を遂げ、豊かになったときの生活レベルが今となっては分不相応であったということになるのではないか。すると、温暖化とは関係なく、我々は無駄を省いた倫理的な生活をしなければならないことになる。大学はどうするか。やはり、やるべきこと、すなわち教育・研究の質を“深める”ということに尽きるのではないか。そうすると、昨今の評価における研究業績至上主義、新規事業主義はちょっと軌道がずれているのではないか、という気もしてきます。(2008年6月26日)

研究者の幸せ、組織の幸せ

どうも来年は国立大学法人全国共同利用施設としての我が環境リモートセンシング研究センター(CEReS)も正念場のようです。千葉大学に限ったことではありませんが、トップからすると研究所や研究センターは先鋭な目標に向かって予算、マンパワーを投資するような研究組織、そして“優れた成果”を出すものというイメージがあるように感じます。これもあり得るのですが、目的を達した後は組織替えをせざるを得ません。研究者はそれぞれ解くべき課題を持っており、他律的に行動する大学の研究者という存在が考えにくいからです。また、環境は様々な地域における人と自然の関係を扱う分野。小さな成果を積み上げる分野で、大きな“優れた”成果がどんと出る分野ではありません。環境とリモートセンシングを分離するという考え方もありますが、これはCEReS設立の理念からは後退ではないか。環境、すなわち時間的・空間的な総合的・包括的実在をリモートセンシングを使って研究してきたという実績を示せば良いのですが、モード2的な規範はモード1分野には理解されるかどうかが現実的な問題です。しかし、世界、アジアの問題を扱ってきた成果は十分ある。ホームページの“グローバルとローカルの理解”にリストしてあります(CEReS全体でリストすると相当量でしょう)。これが認められるかどうかにより自分の行く末が決まるのだろうと思います。自律的な研究者は他律的な組織にはそぐわない。しかし、最近は他律的に動かざるを得ない研究者、特に若手が増えているのは確か。彼ら若手が研究者として自立できるのかが、今一番気になっていることです。さて、研究者の幸せを求めるか、それとも組織の幸せを求めるか。組織と個人の幸せが一致するのがもっとも良いのですが、より深く考えるべき時期がやってきました。(2008年6月24日)

学生を育てる

今日は週に一度、近くの私立大学へ講義に行く日でした。もうすぐ試験が始まるのですが、ある学生が非常に心配そうにしています。彼は毎朝二時に起きて、中央区で新聞配達をしてからやってきますが、二限の講義はいつも眠そうにしています。夜も遅くまで仕事らしく、あまり勉強する時間が無いとのこと。でもがんばってほしい。去年の講義では高校をでてしばらく働いてから大学に入り直した学生がいて、講義がこんなにおもしろいとは知らなかった、と言って、社交辞令かも知れませんが私を良い気持ちにさせてくれたこともありました。この大学では、ちょうど私が行く時間によく門前の掃除をしている若い女性の職員がいて、たばこを吸っている学生に大声で注意している光景をみたこともあります。大学としてマナー向上キャンペーンもやっていたっけ。この大学は学生を社会人の卵として育てようとしている雰囲気が伝わってきます。一方、我が千葉大学はどうか。“優秀な研究者”を育てることももちろん結構だが、大学に対する社会のニーズはどこにあるか。まずやるべきことをやってから研究です。とはいえ、17日にも書きましたが学生に生き方を伝えることは難しいことでもあります。(2008年6月24日)

韓国、洛東江調査

韓国、釜山で開催されたAOGS(アジア太平洋地球科学協会)2008に参加し、その後、院生の郭君のフィールドである洛東江の現地視察に行きました。数字や図で説明されてもわからないことでも現場を見れば容易に理解できるし、新たな問題を発見することができるかもしれない。頭の中だけで考えることはせず、現場を見ることがフィールドサイエンスにおける重要な態度。時間の都合で中・下流部しか見ることはできませんでしたが、花崗岩特有のなだらかな地形、松が多いこと、山麓緩斜面の存在、等々流域のいろいろな特性を見ることができました。2002年の破堤地点に行くと、排水機場、遊水池等が整備されており、その場の土地条件にあわせた工学的適応の様子を観察することができました。押しかけてしまった大邱、啓明大学の裴先生、釜山大学の黄先生、実に久しぶりでした。いろいろご議論いただきありがとうございました。いろいろなものを見て、感じ、そして議論して韓国がますますおもしろくなってきました。(2008年6月22日)

「災害と空間情報」終了

コア科目の「災害と空間情報」終わりました。今回は講義期間中にミャンマー、四川、そして東北と災害が続きました。過去の災害を知っていただき、自分の経験の一部として役立てることが目的であり、講義の内容や報道をしっかり聞いていれば、災害に関する知識、心構えが少しは理解していただけたのではないかと思います。しかし、少し気になったことがあります。小テストが終わったら静かに退出して良いと言ってしまったのですが、若干うるさかった。話を始める者も。まだ記述している人がいることを“察する”ことが必要。また、外に出たらこりゃまたうるさいこと、喚声を上げている学生もいました。外に出て注意しましたが手遅れ。他の教室ではまだ講義をやっていることを“察する”必要がある。この基本的な“察する”ということが身に付いていれば、様々な困難を避けることができるかも知れないのに。講義の中では知識・経験に基づいて“関係性”を“察する”ことが災害を避けることにも繋がるし、人生においても役立つことを話してきましたが、伝わっていないことを最後で実感。体験によって気がつかなければなかなか身にはつかないということも確かにありますが、教員として忸怩たる思いがあります。いろいろ反省点は残りましたが次への糧にすることにしよう。明日から韓国出張。(2008年6月17日)

日本測地学会坪井賞

振興調整費「GPS気象学−GPS水蒸気情報システムの構築と気象学・測地学・水文学への応用に関する研究」の賞状のミニチュアが小司さんから届きました。全く意識していなかったのですが、団体賞ということでわざわざ作ってくださったそうです。思えば、このプロジェクトでは最初は興野君(卒・修論)がすばらしいWEBデータベースシステムを作ってくれました。これは私には技術的に高度すぎて維持できませんでしたので、単純なFTPによるダウンロードシステムを今も維持しています。次に、山本君(卒・修論)はGMS(ひまわり)とGPS水蒸気情報を組み合わせて、海域も含めた列島スケールの水蒸気移動を可視化しました。これは良い成果でジャーナル論文にできたのですが、私の力不足で残念なことにそのままになってしまいました。上原さん(卒論)はデータベースを使って冬型気圧配置時の水蒸気の移動を可視化しましたが、その成果が気象学会の「天気」に受理されたばかりです。1997年〜2001年のプロジェクトで第一回のワークショップはCEReSの最初の共同利用研究会でもありました。私などはあまり貢献していないのですが、思い出のたくさん詰まったプロジェクトでした。(2008年6月16日)

ヴァーチャルウオーター雑感

日曜日は本が読める貴重な日なので、頂いた地球研叢書「食卓から地球環境が見える」を読んでいます。その第三章で、佐藤先生はヴァーチャルウオーターに関して、「日本が多量の食材の輸入を通して世界の水問題に圧迫を与えていることの道義的責任はまぬかれないであろう」と述べています。この前段にあるのはオーストラリアとアメリカ、ハイプレーンズ地域の話なのですが、果たして日本はこれらの国の水問題に圧迫を与えているだろうか。オーストラリアもアメリカも自由主義経済の国です。市場経済の商習慣に則り双方合意のもとで食糧貿易を行っている。水不足問題は解決していませんが、今のところ、これらの国の民の生活が日本の食糧輸入により圧迫されている事実は無いのではないか。むしろ、圧迫が始まったら日本への輸出が止まり、日本が苦況にたたされるわけです。日本が考えなければならないのは、途上国、例えばミャンマーのような国です。ミャンマーでは米の輸出余力はあるが、現在輸出は行っていないと思います。それは、国内に極貧層を抱えており、米輸出により米価が上がると彼らの生活を圧迫することになるからという。このような国で政府が外貨獲得のため、日本が食糧確保のため、食糧取引が行われると、民の生活が圧迫されるようになる。水問題は背後にある経済原理、国の事情等を総合的に俯瞰した上でないと、真の問題、それは地域ごとの個別の問題、を指摘することは難しくなります。私は市場経済の負の側面を明らかにした上で、市場経済の枠の外側で農そして食を維持する方策を考えたい。(2008年6月15日)

群測群防−生活知による地震予知

中国四川大地震について調べていて出会いました。高橋博さんの1980年の地質ニュースにおける報告。中国はあまりに広大で、日本のような高密度観測網による地震予知は困難。そこで、地域の人々が協働で観測したり、地震に関わる様々な情報(それは動物や地象、気象の様々な異常現象を含みます)を集めて予知を行い、被害を最小限に食い止めるという。当初は空振りも多かったのですが、だんだん経験度を高め、実際に予知に成功しています。ここが重要。これは生活知による地震予知といって良いかも知れない。これに対して日本は世界知、すなわち物理による地震予知です。どちらが良いなどと言うつもりはない。どちらも重要なのですが、日本は世界知に頼りすぎてはいないか。それが日本の近代化を推し進めてきたとも言えるが、知性、経済発展、イノベーションにより問題解決をするという方針にもうそんなにこだわらなくても良いのではないか。研究者のサイエンス志向が人々の安全・安心を損なってはいけない。総合的に見て、様々な証拠が同じ方向を指していたら、物理がわからなくても判断して良いのではないだろうか。以前、中国国家気象局で衛星で地表面温度の異常を捉えて地震予測をするという現場を見学したことがあります。1995年の阪神大震災も予測したのですが、場所がずれていたとのこと。私もそんな試みをして「アカデミック変人」(2007年9月12日参照)になってもいいかな。でも今は評価の時代で論文を書けないと立場が危うい。ますますオモロー!な科学は難しくなってきました。(2008年6月14日)

ガソリン高と省エネ

ここ数週間ほど、車の燃費が上がり続けています。通勤で燃費は13km/l台だったのですが、徐々にあがり、今日は14.5lm/lに達しました。すごい。目に見えて車は減っているとは思えないのですが、確かに減ったような気はします。走る車も軽自動車が増えているような気もしないでもありません。今回の石油高は投機筋が原因との観測ですが、いずれ石油は無くなる。高くて乏しい石油の時代(石井吉徳先生受け売り)がやってくる。人は車を使うのを控えたり、私のように小さな車に換える。全体として消費量は減っていく。これはごく自然な省エネといえます。ただし、石油高が普段の暮らしや生業に大きな影響を与えてしまう人々には何らかの対策は必要だと思います。個人の判断で生活に必要ならば使う。全体としてCO2放出は減っていくのが自然です。首相は温暖化に対して福田ビジョンを出したそうですが、やはり経済発展、イノベーションにより問題を解決するというスタンスは変わっているわけではない。ほかにもっとやるべきことはあるのではないか。国土形成計画も策定中ですので、省エネ都市、多自然型郊外、良好な農山村を形成することにより、自然の力で今の時期だったら涼風を得る工夫ができる余地はまだまだあるのではないか。しかし、それには最低でも30年はかかるでしょう。その頃には石油は無くなり自然にCO2放出量も少なくなります(私は石油ピーク説を支持しています)。温暖化を思い、倫理的な生活をすることは大切です。しかし、生活が一番。安心して少し豊かで楽しく誇りを持って生きられる社会の仕組みを作れば自然にCO2放出は減るのではないだろうか。(2008年6月12日)

生活環境を背景に「学力格差」

朝日朝刊から。「検証委指摘、盛られず」と続きます。千葉県教委の依頼で全国学力調査の結果を独自に分析した第三者委員会は表記の指摘をし、「学校改善支援プラン」を提案したのですが、教委の施策には反映されなかったとのこと。この記事の解説では、「第三者の評価に耳傾けよ」とタイトルが付いています。私はこれも折り合いが必要な問題だと思います。5月13日に竹中平蔵さんは「学者は『あるべき論』には強いが、(実現するための)細かな制度は知らない」と述べています。これは「現場の実態がよくわかっていない」とすることも可能だと思います。この場合の現場は学校だけでなく、学校運営に関わる行財政、地域、等々すべての関係者を含めた現場です。べき論だけですと、現場は常にスーパーマン、聖人であることを求められ、疲弊するばかりです。ここで大切なことは各者の立場を明確にして、歩み寄れる点を探すこと。支援プランにあることですが、行財政はどこまで支援を担保できるか、経験豊富な教諭ばかりが困難の矢面に立たないような役割分担の仕組みはできるか、放課後の勤務を全体の負担を増やすことなく実施できる仕組みもできるか、を一緒になって考える場が必要。その役目が行政という言い方もできると思いますが、行政と財政が分離しているのも悩ましい問題。記事ではもう少しこの点に踏み込んで欲しかったと思います。(2008年6月12日)

新しいルール作り

昨日、“今の食糧、石油問題は市場経済のルールから外れたところで起きているようだ”、と書いてしまったが、市場経済のルールに則っているから許されている、という考え方の方が問題が顕在化してきた現状を正しく表しているかも知れないと思い、修正します。よって課題は新しいルールを作らなければならないということになります。自動車や電気製品はグローバル化を推進していいかもしれない。しかし、生存に関わる“食”の部分は市場経済の枠の外において良いのではないだろうか。韓国はEPAの柱であるFTAにおいて工業と農業を天秤にかけて前者を選択したようです。米国産牛肉は安くなるでしょうが、韓国の畜産の受ける打撃は大きい。しかし、アメリカではハイプレーンズ地域の水問題が解決している訳ではない。いずれ牛肉の価格は上がります。その時はバイオエタノールの需要ももっと高まっているかも知れません。その時に、市場経済は韓国の食糧安全保障を担保する方向に作用するだろうか。これは日本の問題でもあります。今の食は安すぎる。これは市場経済の恩恵でもあるのですが、他律的な構造による恩恵です。日本の食を維持する自律的な構造を持つことが将来の日本を救うことになるのではないか。高いお金を払っても。とはいえ、食を切りつめなければならない人もいる。負担できる人はお金を出して国産品を消費する態度が必要かなと思います。市場経済をうまく使いこなす、日本が不得手な面でもあります。(2008年6月11日)

競争にもいろいろある

昨晩、大学2年生の息子と話していてちょっとびっくり。すでに競争社会を意識して、勝たねばならん、なんてことを言っている。頼もしくもあり、将来の苦労も見え隠れして心配だったり。でも競争には三種類あることを忘れるな。切磋琢磨してお互いが伸びる競争、勝ち負けのある競争、そして相手を叩きのめす競争というか闘争。お互いが伸びる競争をしろ。お互いが高まるためにはルールを守らなければならない。それが安心な社会の礎を築く。ただし、最近はどうもそのルールがうまく機能していないようだ。今起きている食糧、石油問題は市場経済のルールから外れたところで起きているように思う。しかし、何を優先するか。国という単位が存在する意味を考えるとやはり市場経済のルールは頑健ではないような気がする。市場経済とは異なるシステム、あるいは新しいルールを世界は持たなければならないのではないかと思う。二番目、三番目の競争が激しくなると組織は衰退に向かいます。こんな競争は早めに気がついて処方しなければならないのですが。大学も同じ。競争より協調。(2008年6月10日)

共貧のシステム・共栄のシステム・緊張のシステム

松戸に向かう電車の中で読んだ環境科学会誌21(3)で見つけました。細見さんのコラムで、もとは絶版になった栗原康「有限の生態学−安定と共存のシステム」岩波書店とのこと。詳しくは学会誌を読んでください。さて、現在は石油を使った共栄のシステムのもとで人類は繁栄している。しかし、石油資源が持続可能でなくなった現在、共貧、緊張、どちらのシステムに移行するか、を考えなければならない。経済成長、イノベーションにより問題を解決するという現在の日本の政策は緊張のシステムへの移行を指向していると思われます。しかし、緊張は長続きしない。では、共貧のシステムが良いか。かつての人と自然の関係が良好だった農山漁村の生活を彷彿とさせます。これは個人的には理想的ですが、現実に“豊かな日本人”がこの路線を選択することは無いでしょう。ここで注意しなければならないのは共貧のシステムは不幸のシステムではないということ。尺度が違います。共貧のシステムと緊張のシステムを峻別しながら共存させることで、共栄のシステムが構築できないだろうか。4月5日に書いたような社会で実現できないだろうか。(2008年6月9日)

朝刊休刊日に事件を思う

今日は朝刊がありません。朝刊があれば秋葉原の写真が一面に掲載され、意識に刻まれるはずです。テレビでは報道されていますが、今朝も世の中はいつもの通り動き始めて、テレビや新聞の中の事件はいずれ忘れられていく。これでいいはずがないと皆さん思っているはずです。通勤途中に聞いたラジオで別所さんもそんなことを言っていましたが、ちょっとつまり気味。こういう事件に対する発言は下手すると攻撃の対象になりかねないからでしょうか。荒川沖でも事件がありました。かつてのつくばの玄関口で、私もよく知っている場所で事件が起きました。続いて秋葉原。過去にもたくさんの不幸の生産がありました。なぜ、こんな事件が起きるのか。事件の背景を理解し、問題の解決を共有する態度が今ほど必要な時期は無いのではないだろうか。食糧や石油が高騰し、庶民の生活が圧迫されている(その苦しさは我々先進国の住人が容易に想像できるものではない)。ここにも現在の世界システムのあり方の問題があるのではないか。同根な様な気がします。昨日は家族とダーウイン展に行ったのですが、進化とはより普遍的なもの、優れたものに向かう一方向の変化ではありません。進化の最終段階では既に滅びの道が見えている。アンモナイトも恐竜も。世界を動かす社会システムも普遍的で優れたものに向かって進化しているわけではない。だんだん市場経済や競争社会の負の側面が顕在化してきたように思います。新しい生き方を見つけなければ安全・安心社会は達成できないのではないか。(2008年6月9日)

秋葉原通り魔−犯人逮捕の先は

その時、秋葉原にも近い上野で家族と昼食をとっていましたが、こんな痛ましい出来事が起きていたなんて。突然、命が終わってしまった人がいる。こんなことは許されることではない。犯人は逮捕されたからいずれ処罰されることになります。しかし、それで終わって良いはずがない。通り魔事件だって今回だけではない。なぜこんな事件が起こるのか。その社会的背景の存在をみんなが感じているのではないか。求め続けている安心が手に入らないもどかしさ、焦り、そして怒り。社会の仕組みの中に犯行の誘引があるのではないか。そこを正さない限り、不幸は終わらない。現在起きている様々な問題に同じ背景があるような気がします。(2008年6月8日)

レジ袋有料化−ごみは本当に減るのか

今日は環境の日だそうで、こんな記事が朝日に載っていました。中野さんの言うように、私も“レジ袋をなくすことがごみ問題解決の特効薬であるかのように語られる社会的風潮”には違和感を持っています。私はレジ袋は様々な用途で再利用しています。特に犬の散歩で使うのですが、時々不足してわざわざ購入したこともあります。しかし、買い物後直ちにゴミ箱という方々も確かにおられると思います。必要な人は使って、必要な人はもらわない、で全体として使用量を減らしていけば良いではないか。一律の、一見倫理的な規範を一方的に不特定多数に押しつけるのは暴力に等しいと思います。 これも“環境言説”かも知れません。一見倫理的で正しいように見え、組織の規範として作用しますが、決して本質的ではなく、問題解決にはあまり貢献しないこと。富山県知事の石井さんとユニー環境社会貢献部長の百瀬さんは立場上有料化を容認せざるを得ないのかも知れません。世の中いろいろな場合があり、人には様々な事情がある。これを理解して尊重することのできる社会が本当にエコな社会になる条件なのではないだろうか。(2008年6月5日)

教育のプロであることと研究のプロであること

CHIBADAI Pressが発刊されたとのことで読んでいますが、その中に学長の話がありました。この題目は、両者は表裏一体と続きます。その通りなのですが、誤解も生みやすい言い方かも知れません。2月9日に原田津さん(「むらの原理 都市の原理」、(農文協)による「たくらまない教育、たくらむ教育」を引用しました。学長のおっしゃっているのは「たくらまない教育」ですね。再掲すると、「たくらまない教育」は、教育しているなんて少しも思っていないのに、いつの間にか、誰かが誰かを教育しているという教育。「たくらむ教育」は、やたらと教育の目的や方法、技術を問題にして、その方法や技術が目的を達成したかどうかを問うばかりの教育。研究のプロは「たくらまない教育」が得意です。しかし、「たくらむ教育」が教員に負荷を与えている実態はないか。研究のプロは「たくらむ教育」は苦手かも知れない。自分の考えを学生に伝える講義や演習・実験は楽しい。しかし、現実には大きな負担ともなり、評価社会では研究と講義は必ずしも表裏一体とはならない。講義は大学教員の本務ですので、教育言説が入り込む余地を与え、教員はスーパーマンであることを強要される。皆が安心して教育・研究に取り組むことができる仕組みは作れないものだろうか。ジレンマですが両者のウェィトは自分で決めなければなりません。(2008年6月3日)

エコってなんだ−自然を見る包括的な視点が必要では−

NHKの夜の番組「地球エコ2008 アース ウォッチャー 月から見た地球」を見ました。台湾の絵本作家ジミー・リャオさんの月をモチーフとした作品はすばらしい。この番組には日本の衛星「かぐや」の撮影した地球の映像から地球環境の未来について考えていくというコンセプトがあるそうです。私が気になったのは番組の冒頭の海岸のシーンで、多くのテトラポッドが見えたこと。ジミーさんのお宅の窓から見える海には離岸堤がありました。海岸侵食が起きていることを意味していますが、なぜ侵食が起きたのか。その場所で人と自然の関係に問題が生じていることを意味しています。人に恵みをもたらす海岸における港湾施設、河川における利水・治水施設の建設が漂砂の減少をもたらしているのかも知れません。美しく倫理的な番組の映像の中に大きな問題が隠されているのかも知れません。ここを考えてほしい。海岸にテトラポッドがあっても何も感じなくなってしまった人が一番の問題かも知れません。(2008年6月1日)

パーフェクト・チルドレンからの連想

朝日、日曜版から。また新しい言葉を覚えました。なるほど。モンスター・ペアレントやヘリコプター・ペアレントが目指しているのがパーフェクト・チルドレンなのかも知れません。ひとにパーフェクトなんてあり得ませんので、不満の矛先は教員へ向かう。難しい世の中になりましたが、ここでパーフェクト・スチューデントという語を連想しました。昨今の留学生獲得競争ではすぐに「優秀な留学生を海外から」という言葉が聞こえてきます。大学も最初からパーフェクトな学生を求めているのではないか。その先にあるのは研究者のプライド、大学のブランドの形成、維持。だんだん教育からボトムアップの思想が薄まって来ているように思いますが、やはり教育の本質はボトムアップにあるのではないだろうか。特に留学生の教育では日本の知識、経験を学んで頂き、母国の幸せに尽くして頂くことも大切だと考えます。“国際的に活躍する研究者”になることだけが目的ではないと思います。とはいえ就職してもらわなければなりませんので、ここで教員の力量が試されてしまうのはつらいことでもありますな。(2008年6月1日)

ジャーナリストの地理的感覚

5月8日にも触れた日本地理学会による高校生の地理的認識調査報告を公表した記者会見で、記者から「ニュースで国名が出てきても、いちいち地図で調べる子はいないでしょう」という質問があったそうです。地理月報の井田さんの記事より。報道に責任がある記者がこんなことを言うとは、ちょっと信じられない。ニュースを配信して、その場所に関心がないということは世界を点で捉える思考であり、地域性、すなわち地域の個性を顧みないということは、問題の理解、解決を指向しないことと同じです。このような態度が蔓延していることが、人と社会、都市と地方、日本と世界、の関係をうまく捉えられず、そのため問題を解決できない日本の実態なのではないか。TICADが終わったばかりですが、政治家の頭の中にアフリカの位置、地形、気候、民族、宗教、歴史、等々の地理的センスはあるだろうか。(2008年5月31日)

注意深く敵を選べ

朝日朝刊、U2のボノ氏の言葉。“敵こそがあなたの立場をはっきりさせ、敵との関係は親友より長続きする”。私にも教育に対する考え方の違いから勝手に敵になりさがっている輩がいるが、そんな小さなことではなく真の敵を相手にしなければいけない。評価社会のあり方、強すぎる研究志向、大学教員の優秀病、いろいろな観点から敵の行動の理由を考えることにより自分の立場、考え方がはっきりするという利点はあります。さて、ボノ氏の関心のアフリカにおける真の敵は何か。やはり、市場経済ではないか。食糧については安い輸入食糧(高い肥料や種も)が地域の農業を成り立たなくしている。とはいえ、市場経済もうまくつきあえば我々に利益を与えてくれる。市場経済のメリットを利用しながら、市場経済とは異なる仕組みに基づくアフリカの暮らしを考えるという視点も必要だと思うが、TICAD(アフリカ開発会議)の基軸はやはり経済だったか。アフリカは貧しいか、それゆえ不幸か。20年前にアフリカの大地で感じたこの疑問をそろそろ解かねばならない時期かも。(2008年5月31日)

「温暖化このままだと日本は」、「牛乳品薄の恐れ」

朝日朝刊のふたつの記事ですが、ヘッドラインはそれぞれ、「水害深刻・コメ減収」および「飼料高、酪農家減る」と続きます。どちらが深刻だろうか。 温暖化により災害が頻発し、コメも穫れなくなるなんて、こんな大変なことはありません。でも、このシナリオは変わる環境に人がなすすべもなくただオロオロするばかり、という状況が前提なのではないか。別のページでは、「イネ、猛暑に負けず 気温40度の昨夏・・・でも、収量平年並み」という農環研の研究も紹介されていましたし、人は危機に際してはきちんと対応する力を持っています。イノベーション25もありますし(ただし、技術にはどんな社会を作りたいのかという思想が必要だと思います)。むしろ後者の記事の方が我々の生活にとって重要な意味を持っていると思う。これは食糧を市場経済の枠組みの中で外部に依存していることから生じる問題。別のページでは、TICADでネリカ米の普及も提案されていますが、記事の中でネリカ米の普及が進まないのは、安い輸入米のせいで儲からないから、といった市場経済の負の側面も語られています。若林農水相は種子や肥料の援助を提案していますが、知的所有権がついている遺伝子だったり、先進国で生産される化学肥料だったりすると、アフリカの食糧安全保障を担保することになるとは限りません。市場経済とは別の仕組みで地域で食糧を確保する仕組みを作らなければ安心な社会にはならないのではないか。温暖化で未来を心配する必要もあるが、まず現在の問題を理解し、折り合いを付けることが優先されて良いと思います。 (2008年5月30日)

地球惑星科学連合大会関連セッションを終えて

何とか、「環境リモートセンシング」、および「水循環・水環境」セッションを終えることができました。研究成果を発表した方々はご苦労様でした。ただし、気を抜かないように。研究発表の場を体験することができましたが、研究としての完成度を高める努力を続けてください。私は学術大会は情報交換の場であり、業績を作ったり、権威付けをする場ではないと考えていますので、学生には積極的に参加を促します。様々な示唆や異なる意見を頂くことが新たな発想に繋がると思うからですが、現実には研究室の評価も受けていることになります。つらい部分もありますが、あまり気にせずがんばろう。それにしても昨日はちょっと飲み過ぎた様です。駆けつけてくれた卒業生の皆々もありがとう。(2008年5月29日)

「大丈夫」の声 元気をくれた

朝日朝刊、声欄の投書から。「大丈夫」の一言がどんなに人を元気づけるか。ミスにつけ込まれて足を引っ張られる競争社会でなく、人と人が励まし合う協調社会ではどんなに人が幸せになり、同時に仕事がはかどることか。私も学生には「大丈夫」とよく声をかけますが、私の頭の中にあるゴールまでの道筋が学生に伝われば「大丈夫」。でも、うまく伝わっているだろうか。苦しいときはその気持ちをぶつけてください。ここ数日、ニュースではアナウンサーの川田さんの自殺が話題になっていますが、どんなにつらかっただろうか。私は生きている者に対しては絶対死んではいけないと主張します。人生は最後の一瞬が良ければそれで報われると考えているから。その一瞬を目指して日々精進したい。しかし、死んでしまったものに対しては、どんなに苦しかったろうか、理解して認めてあげたい。こんなことを書くと狭量な成功者や優秀病にかかった学者から批判されるかも知れませんが、苦しさを体験したことの無い者にこの気持ちはわかるまい。様々な“問題”はきれい事で解決しないのは“環境問題”と同じ。“教育問題”もそうです。私は責任を伴う「大丈夫」を発信して行きたい。(2008年5月28日)

変わりゆく「第二外国語」−英語以外は縮小傾向

朝日朝刊から。英語以外の外国語教育が冬の時代を迎えつつある。千葉大学でも同様ですが、「むしろ法人化による合理化の要求に基づくところが大きい」とは言語教育センターの先生。忸怩たる思いがあると思いますが、私も千葉大学の教員として本当に残念です。英語が重視されるのは英語しか必要ない強い分野があり、それが全体の規範を作っていくからではないか。真理探究型科学では共通の言語があればよい。しかし、関係性探究型科学では、問題の発見、理解に現地の言葉が不可欠。中国語やマレー語が話せたらと何度思ったことか。英語教育偏重で残念に思うことは、英語しか解さない留学生に日本の知識、経験を伝えることが困難なこと。日本語の文献が読めないから(だから、近藤研は日本語必修)。物理、化学は英語ですべて網羅できるでしょうが、環境や現場に関わる科学は伝えるべき日本語の情報が多い。それが日本の価値を高めていく。大学が個性を発揮するためには、むしろ多言語化に進むべきでしょう。すでに実施している大学もありまので、千葉大も遅れを取りたくない。しかし、英語を使うことが優秀の証と勘違いし、自分の分野以外のことはわからない先生方が多いと前途は多難です。(2008年5月26日)

ひとの幸せとは何か

今朝NHKでUNDP親善大使として活躍している紺野美佐子さんの話を聞きました。カンボジアで紺野さんの息子と同じ12歳の少女にこれまで楽しかったことを聞いたら、何も無かったという。“先進国の市民として何かやらねば”という気持ちにさせ、実に美しいのですが、カンボジアでは互助によって成り立つ伝統的な村社会は無いのだろうか。一見、貧しくても幸せな暮らしは無いのだろうか。あの内戦からまだ復活していないのだろうか。先進国の規範をそのまま当てはめてはいないだろうか。すべての地球人が先進国と同じ快適な生活を送ることが幸せだと考えてはいないだろうか。市場経済の中で生き残ることが幸せとは限らないと思う。こういうことを確かめにカンボジアにも行ってみたい。私の家は戦後の開拓農家で、高度成長の時期は周りに“団地”ができて、我が家の暮らしは貧しく見えたに違いないが、けっして不幸だとは感じなかった。これまでにいろいろな国の農村を歩きながら、幸せとは何かについて考えていますが、まだまだ経験が足りないと思っています。(2008年5月25日)

公憤は私憤から始まる

朝日の落合恵子さんのコラムから。確かにその通り。自分にも完璧に思い当たることがあります。ここでも教育に関する記述が多いのは、教育に関して誹謗中傷を受けたことがあり、相手が権力を使って大学をバックにして屈辱を与えてきたこと、それを我慢したことに対する自分に対する憤りもあり、不調に陥ったままです。しかし、このことがきっかけとなり教育について専門家の著作を読んだり、自分でもいろいろ考えることができたのですが、結果は自分の考え方が正しいと確信したこと。もちろん、人は自分に有利な方向で自分を納得させる傾向があるので、これから検証して行かなければなりません。教育と同時に“ひと”の考え方の形成に興味を持ち、それが社会学分野への関心に繋がりました。水問題、食糧問題や地球環境問題は私の専門分野でもあり、これらの問題を“ひと”の立場から眺めることにより少しは個性的な視点を得ることができ、昨日の講演でも役に立ったかなとも思います。実は社会学については以前から興味があり、CEReSのシンポジウムに飯島信子先生を招待しようとしたことがあります。古巣の都立大の都市研ですので、簡単に連絡がつくと思ったら連絡先がわからない。実はお亡くなりになっており、ショックを受けたことがあります。その後、飯島先生編の講座「環境社会学」から始まり、環境社会学系の著作をだいぶ読むことになりました。思想系では内山節さんの著作が一番多いのですが、これは農文協の人間選書を読み始めたことが発端です。だいぶ前に農文協の営業の方が研究室にいらしてくださったことがあり、それからずいぶん農文協の出版物を購入するようになりました。どこかに私の感心に関する情報があって営業の方が来てくださったのだろうか。今では「現代農業」の購読も始め、貴重な情報源になっています。その他、鳥越皓之先生や嘉田由紀子さんらの著作もずいぶん読みました。これらの勉強は現実に起こっている“問題”の理解に大変役にたっていますが、別の問題もあります。それは、人と自然に関わる“問題”の解決を考えてしまうと、純粋科学やリモートセンシング技術の役割がどんどん相対化されていくということ。最近は真理の探究を錦の御旗にするサイエンティストが苦手になってしまいました。とはいえ、問題解決への道筋は一筋縄ではありません。日々不調ですが、いずれトンネルを抜け出すことを信じて毎日を過ごしています。(2008年5月24日)

問題対応型研究の学際性と個人の態度

日本リモートセンシング学会で「水資源・食糧資源とリモートセンシング」と題して講演をやってきました。それにしても、私には複数の顔があるかも知れない。ある分野からはリモートセンシング/GISの専門家と見られており、昔取った杵柄で地下水屋として見られている分野もあり、そして水問題の専門家という認識も巷にはあるようで、さらに今回、食糧問題、それから中国の専門家という認識が加わったようですが、これはうれしいことでもあります。包括的な視点から様々な要因の関連性を探究する“環境学”の立場からは当然で、重要だと思ったら深く入り込む態度は重要だと思います。こういう態度は一言で表すと地理屋ということになるのだと思いますが、大学の教員という立場から何とかしなければと思っていることは教育指導です。私が経てきた教育研究環境、すなわち大塚の地理の伝統を受け継ぐ筑波大学地球科学系、旧東京都立大学の地理学教室では異分野ごった煮の中で神社仏閣から地球環境まで学んで議論する場があり、自然と地理学的な態度が醸成されてきたように思います。だから筑波や都立の卒院生は実にしぶといと思う。各分野で活躍する方々が多いのは私の財産でもあります。しかし、昨今は学問の細分化が進み、学生に包括的な知識、視点が失われているように思う。研究志向の教員、優秀病に冒された大学、分野間の不毛な競争、勉強をしなくなった学生と背景にある豊かになった日本の社会、等々様々な要因が考えられます。学生が総合性を身につけるために私もさらにがんばるつもりですが、個人の努力でできるのか、組織としての取組が無ければ難しいのではないか、困難は多いのですがやるしかありません。(2008年5月23日)

地球温暖化と車通勤

車を小さくしたところ、最近の燃費はだいたい14km/l程度になっています。通勤だけですと、渋滞とアップダウンで11km台になることもありますが、遠出を挟むと瞬間値で18kmを超えたこともありました。昨晩は燃費計の指示が14.1から14.0に落ちたので、シフトをマニュアルに切り替えて、なるべく高いギアで走るようにしたところ、途中で14.1に回復しました。シフトに気をとられるのは危ないのですが、ガソリンの節約にはなりました。とはいえ、昨今の地球温暖化ブームで、車通勤は後ろめたい雰囲気もあります。しかし、車通勤が個人にとって大きなメリットとなるのならばこれはしょうがない。環境社会学の生活環境主義に通じるところがあると思います。環境問題に対して一律の“倫理的”な行為を全体に求めるのは暴力とも言えます。個人の事情にあわせて、個人がやれることをやれば良い。こういう個別性が重視されない社会は安心社会ではないと思います。教育も同じ。学生の個性、事情、現実が顧みられないで、教育言説が幅をきかせるようになると教育は滅びます。(2008年5月22日)

安全基準とメーカーの責任

朝日朝刊から。玩具入りカプセルを誤飲し、後遺症が残った事故当時2歳の男児の両親がメーカーを訴えた訴訟で、日本玩具協会作成の安全基準を満たしているに関わらず、メーカーは損害賠償金の支払いを命じられたという。この場合、協会の責任は(基準見直しになりましょうが)、親の責任は(注意義務を果たしていないということでメーカー責任は3割だそうですが、根拠は?)、安全基準の対象はどう決めれば良いのか、3歳未満は対応しませんと書いてなかったからいかんのか、わからんことばかりですな。製造物責任法(PL法)の主旨を勉強しなければいけないと思いますが、どうも法曹界と世間の常識はかけ離れているように思います。“小桜セレナ‘巨乳’で無罪”の時にはたまたまラジオで本人の話を聞いていましたが、“裁判はゲームの様だった”というコメントが頭に残っています。実は、以前訴訟を考え、裁判について調べたことがあるのですが、まさにゲームのような裁判の実態に驚いたことがあります。弁護士とも相談して、その感を強くし、裁判というのは腹に据えかねることがあっても、心身とも限界ぎりぎりに達さないとできるものではないな、これが悪人が世に蔓延る原因の一つではないか、と思ったことがあります。世の中を平安に生きて行くためには、強くなると同時に、鈍感力も鍛えないといかんとは思うのですが、なかなか...我慢を抱えていると心身に影響が出てきます。いやなことはスパッと忘れたいものですな。とはいえ、本格的訴訟社会の到来を予感させる出来事で、我々は常に不測の事態に備えなければならず、ますます精神をすり減らすことになるのでしょう。(2008年5月21日)

電車内ベビーカーでマナー議論

Yahooニュース(J-CASTニュース)から。今日はこの話題が気になりました。賛否両論あるようですが、電車の中でベビーカーを畳むべきかについては、畳まなくて良いでしょう。都会で子どもを育てた経験がある方ならば、むずがる子どもをベビーカーから降ろして、かつ抱っこしながら畳むことは至難の業であることを知っています。私などは子どもも大きくなり、今は昔となりましたが、子どもを見るとかわいい。親の苦労もわかる。子どもがいる社会は健全で安心な社会です。だから、畳まなくても良い、と考えます。恐らく子どもを育てた経験の有無によって考え方は異なるのではないでしょうか。ベビーカー論争だけでなく、いろいろな問題が現場経験無くして議論されているところに、問題はないか。また、その場の状況によって判断は異なると思うが、一般論だけで議論するところに問題は無いか。(2008年5月19日)

中国四川省地震に想う

私にとってとても身近な国である中国で大地震があり、その被害がだんだんと大きくなって来ています。こんなことを書いている今現在も瓦礫の中に埋もれて助けを求めている人々が確実にいると思うといたたまれなくなりますが、被害者の冥福と、一刻も早い復旧を祈るほかありません。私は物質ではなく心の豊かさについて考え続けているのですが、中国の農村は確かに貧しい。しかし、中国各地の農村経験から、心の豊かさ、幸福度を基準とするとそんなに貧しいとは言えないのではないかと考えていました。これを3月の北京で話題にしたら、中国の仲間たちにたちまち反駁されてしまいました。やはり、私は幸せな異邦人か。一方で都市の便利な暮らしがあると、農村の暮らしは確かに貧しく見える。でも、と言いかけましたが、子どもの教育ができない、という話には親として納得せざるを得ませんでした。その子どもたちが被災している。親たちはどんなにがんばって子どもを学校に通わせていることだろう。子どもを失った親の悲しみは想像するに余りあります。中国はこれから近代化に邁進すると思いますが、それが幸せとは限らないとも思う。なぜ、狭い土地にビルを建てて住まなければならないか。その理由は市場経済に生活を支配されているところにあるのではないか。自然に適応した山村の暮らしもあり得るのではないかという気もする。先に近代化を達成した国の人間がこんなことを言うのは失礼極まりないが、今、日本は新しい道を探す時に来ているのではないかと思う。中国では、人はどのように生きるべきか、という問いの答えはすべて歴史の中にある。最近、しばらく遠ざかっていましたが、また中国の古典を読みたくなってきました。こんなことを考えながら、駅に向かっていたら機関銃の音がしてきました。近くに自衛隊の演習場があるので、珍しいことではありません。世の中いろいろだな。(2008年5月15日)

自分が傷ついてもやるんだという志

朝日朝刊「学者出身知事の強みは?」から。表記は竹中平蔵さんの言。政治家は肉食動物、その前ではすくむ。しかし、一番大事なのは自分が傷ついてもやるという志、と続きます。私などはちょっと攻撃されるだけで傷ついてしまう情けなくも弱い性格で、だめだなと思いながらも志はなんとか貫いているつもり(その志について議論する場が大学には必要と思うのですが)。それよりも自分が人を恐れさせるような存在にだけはなりたくない。熊本県知事の蒲島さんも同様で、怖さをひとに与えないことは弱点になっていた方が良いとのこと。私もこの線で行きたいと思いますが、“厳しさ”のない“優しさ”になってはいけないなと思っています。とはいえこの“厳しさ”が難しい。もう一つ、竹中さんが「学者は『あるべき論』には強いが、(実現するための)細かな制度は知らない」と述べています。その通りで、自分に敷衍すると、「環境問題」に関する格好の良い言説ではなく、どうすべきかということを主張しなければいけないと考えています。狭量で幸せな大学人にならないために。持ち上げられて、どすんと落とされる“学者”にならないためにも。(2008年5月13日)

食糧輸出規制―最低限の歯止めは必要か

朝日朝刊社説から。日本政府は、世界貿易機関(WTO)の貿易交渉で「輸出規制には国際ルールを設けるべきだ」と緊急に要請したわけですが、一方では経済のグローバル化を推し進め、FTO(自由貿易協定)を推進すれば地域の農業や畜産が崩壊するかもしれない。こんなグローバル化の弊害を容認するならば、市場経済を動かすルールとして輸出規制を制限するルールは確かに作らなければならない。自国の食糧不足が顕在化している状態であっても、市場経済の仕組みの中で共に経済活動をしている仲間の国々に食糧は供給すべきです。しかし、そんなことは可能だろうか。今までは食糧不足は世界の一部の地域で生じることを前提としており、かつてはアメリカは穀物備蓄を大量に持ち、どこかで食糧不足が起こったときは穀物を放出して価格を保つことができました。しかし、今は各国とも穀物備蓄量は減らしており、もはやアメリカといえども調整役を務めることはできない。地球人が初めて経験する世界同時食糧不足に際して、自国民への割り当てを減らして他国に食糧を供給することはできるだろうか。それができればこんな美しい話はなく、市場経済とは良心に基づいて成り立っているといえます。とはいえ昔の前提と異なる状況が顕れてきた現在、輸出規制をするなといっても各国は従うだろうか。というか、政治家が選挙に勝てるか。もちろん、するなと主張しながら、裏では対策を進める必要があるのですが、この点が日本という国の苦手部分でもあるわけで、さて、食糧不足がさらに進行したらいったい日本はどうなってしまうのだろう。私は市場経済のあり方とは別の「農」があるべきだと主張したい。(2008年5月12日)

「勇敢」強いた無策−「優秀」強いた愚策

朝日朝刊から。ノモンハン事件に関する記事のヘッドライン。この戦闘を生き残った川畑さんによると、日本兵は頑強で勇敢だったが、勇敢にならざるを得なかった。兵を死地に放り込んで絶体絶命の戦闘をやらせていたのが日本軍のやり方だったという。これは現在の競争社会におけるリーダーシップと通じるところがありはしないか。ソ連軍を指揮したジューコフ将軍も、「...高級将校は訓練が弱く、紋切り型の行動しかできない」と答えている。リーダーシップについては人のことは言えた義理ではないが、現在の大学の現状について将来『「優秀」強いた愚策』というヘッドラインがつくかもしれないことを危惧しています。総合大学は分野間の協調を前提として運営しなければならないと考えていますが、そうなっているか。学内が分野間のつまらん競争の場になってはいけないと切に思います。分野間の尊重がなければ大学は問題解決能力を持つことはとうていできない。論文しか興味ないようではこれからの大学は維持できないと思います。しかし、「優秀」と思っている分野は、論文数や獲得予算を後ろ盾にし、自己のディシプリンにとどまったまま、教育や組織運営を進めようとするところに問題はないか。(2008年5月11日)

自分で調べる習慣こそ大切

朝日朝刊から。「『宮崎どこ』正答率46%全国最下位」に対する主婦の声。その通りですな。県名などはすぐ調べることができる。新聞、書籍、ネット、等々、情報源は山ほどあり、記憶することが不可能な量の情報を我々は扱うことができる。情報を覚えることよりも、情報を検索するスキル、情報の確度を峻別する知性と感性、そして情報間の関連性を見いだし、新しい知識生産を行う能力こそが求められるべきものではないかな。大学で学生に伝えることはまさにこれだと思います。そういえば昨日のゼミでもこんなことを言いました。特に環境という分野は様々な要因が積分された結果から原因を探す問題。多様な分野に情報探索の触手を延ばす必要があります。私のこんなやり方は批判されたこともありますが、“環境問題”が顕在化している現在、“ディシプリンのゆりかご”に閉じこもることはできないのです。(2008年5月8日)

真に改善すべき点は

事務職員と教員の懇談会がありました。背景には仕事量が増えていることがあります。私などは事務の方々にお世話になりっぱなしで、改善すべき点があるとすると私のいい加減な性格か(“良い加減”という見方もあり)。真の問題は大学の運営の仕方、ひいては日本社会の運営の仕方にあることは皆さん感じておいででしょう。スナフキン型リーダーに導かれて知性で問題を解決し、より優れたもの、普遍的なものに向かって組織は進歩しなければならない、なんて欧米発の思想に囚われすぎているのではないか。これをとりあえずは“しょうがない”と認識しつつも末端では寅さん型リーダーシップで、あっちで話を聞き、こっちで話を聞き、いつの間にか折り合いがついている、なんて組織が私としては理想なのですが。重要なことは“ちょいと一杯”やることでしょうね。こんなことをいうと時代錯誤だなんていわれそうですが、若者へのアンケートでも上司との意思疎通には“一杯”が重要と考える者も増えているという記事を読んだことがあります。世の中、“優秀病”と“がんばらなきゃ病”に蝕まれています。個人の幸せを犠牲にした組織の幸せなんてあるわけない。(2008年5月7日)

空腹が世界乱す−ケニア肥料高、畑に草

朝日朝刊から。ケニアでは肥料の値上がりで、穀物価格が急騰し、人々の暮らしを脅かしているという。その肥料はアメリカからの輸入というが、なぜアメリカ製なのか。2007年12月9日の朝日の記事ではケニアで、「...化学肥料と高収量のトウモロコシの種が無料で配布され、普及員が指導に回った。...」とありました。このときのヘッドラインは「変わるアフリカ−脱貧困へ食糧増産」ですが、本当に脱貧困になったのだろうか。“市場経済”は最初は高収量品種と化学肥料を無償提供するが、これにより農家はグローバル経済に組み込まれ、農業は産業になり、種や肥料を買う資金が必要になる。この時、収量は増加するかもしれないが、地域の風土にあった伝統的な種は滅びるかもしれない。バイオ企業や肥料メーカーに利益は集中するが、一般の人々の暮らしは“他者”に支配されるようになる。昨今の食糧不足は“農と食”が“他者”に支配された結果といえるのではないか。“他者”とは冷たい“市場経済”。ケニアでも伝統的なトウモロコシの種があったはずだ。恐らく、その種は数種類が混ざっているように見え、播種すると、その年の雨の状態にあった種が芽を出す。そして大量の化学肥料は必要としないのではないか。脆弱ではあるが、安心な社会における暮らしを壊すのが市場経済であり、産業としての農業ではないだろうか。伝統的な農業を見直すべきだ。実際、アジアでは緑の革命の反省に基づく伝統種、伝統的農業の見直しは始まっているという。地域にあった伝統的な農業と、産業としての農業を峻別し、うまく共存していくやりかたを考え、普及させなければならない。今世界で起こっている食糧不足は絶好の機会と捉えることも可能ではないか。(2008年5月4日)

明大教授“アカハラ” 院生を威圧、停職1カ月

Yahooニュース(産経新聞)から。こういう記事を目にするたびに複雑な感情がわき起こってきます。記事に書いてある教授の行為が事実だとすると懲戒処分は正当かも知れません。しかし、教授を処分して問題は解決と考えて良いのだろうか。教育という行為に我々は誇りを持ち、学生の研究指導には公私の枠を越えた援助だって厭わないのが大学人だと思う。しかし、時には“がんばらない学生”もいるのは現実です。学生だけでなく親までもが教育指導に介入して、権力を使ったハラスメントを仕掛けてくる。これに対して大学の指導者は専門性を持たず、教員を責めることで権威を取り繕おうとする。これでは大学は弱体化するばかりだし、学生にとっても真の教育にはならない。情けないことであるが、大学が優秀病にかかっていることが一番の原因かも知れない。論文をたくさん書けることが、すべてにおいて秀でていると考える大きな勘違い。ここを乗り越えなければ大学は良くならない。そして問題が起きたときは、どうすれば良いのかを考え、経験としなければならない。それには個別の事情に深く入っていける専門性が必要。教育指導には専門家の助けが必要だと思う。自分の研究しかわからないディシプリン学者に何ができるか。(2008年5月4日)

バイオ燃料は悪者か-真の悪者は誰か

Yahoo(産経新聞)から。食糧高騰により各地で問題が発生しているようですが、バイオ燃料が悪者なのでしょうか。日本やアメリカでは政策はグローバル化を支持し、農業も市場経済の中の産業として位置づけられています。だから、より利潤が高いものへ穀物を割り当てるのは市場経済の中では当たり前の行為であり、バイオ燃料自体は再生可能な夢の燃料であることにかわりはありません。問題は農を市場経済の枠組みに組み込んでいることにあります。今こそ、市場経済とは別の枠組みで農をとらえ直す必要があると思います。生きるということの本質に関わる営みが農なのですから。だから、バイオ燃料増産を批判するということは、実は市場経済を批判するということになっていないか。そうだとするとおもしろい。私は市場経済の冷たさを批判する立場ですので。この議論が発展すると、自由貿易協定(FTA)のもたらす負の局面ももっと議論されるようになりましょう。我々はどういう国を作りたいのか、安全・安心社会とはどんな社会か、考えるきっかけを与えてくれる重要な出来事が今起こっているのだと思います。(2008年4月26日)

問題顕在化の時代−リモートセンシングは何を目指すか

昨日はJAXAの筑波宇宙センターで、CEReSの事業の紹介と将来展望について話をしてきました。宇宙センター長、地球観測センター長も見えておりましたが、私の主張はご理解いただけたろうか。展望については私見をまじえて述べましたが、今後のリモセンは政策対応型研究だけでなく、問題対応型研究における立場を築かなければならないということ。これからの時代、様々な問題が顕在化してきますが、“解決を共有”し、異分野の協働による知識生産を実現しなければ人の未来は危うい。しかし、“解決を共有”する中で、純粋科学や、技術の立場はどんどん相対化していくというジレンマもあるでしょう。“解決”は様々なセクターの間の“折り合い”とも考えられるからです。もともと、“解決を共有”する態度の中では競争などないのですからそれで良いのですが。これは私の理想であり、お人好しな性格から出てくる考え方かも知れません。実は、昨日は兼務する研究科の教授会をさぼって出かけたのですが、私の関わる案件の承認があったので、おしかりを受けてしまいました。これは当然で、私は猛省しなければなりません。しかし、やるべきことをやるべきという主張の後に来るものが、他分野に足を引っ張られないように、というのは寂しい。本来、異分野の立場、考え方は尊重して、協働して問題解決に当たらなければならないのに。ディシプリン科学の中でさらに先鋭化して、論文数や獲得予算で他分野と競争するのが理学なのかなぁ。(2008年4月26日)

食料輸出規制の規律強化を=WTOで日本が提案へ−若林農水相

Yahoo(時事通信)から。穀物不足を背景に農産物の輸出規制に踏み切る国が増加したことから、農水相はWTOドーハ・ラウンドの農業交渉で、食料輸出規制の規律強化策を提案する方針という。日本としては食糧安全保障の観点から提案せざるを得ないのだと思いますが、市場経済というのは情深いものなのだろうか。食糧が無くなれば、まず自国民を助けるのはあたりまえではないのか。とはいえ輸出規制が高値で売り抜けようという思惑ならば、抗議は正しい。しかし、輸出規制という動きからして、やはり市場経済は冷たそうな気はします。国民の安全・安心を考えるのならば、安全率を高くとり、冷たい市場を前提にした政策もありではないか。今回の提案でますます日本の農業は市場経済に翻弄されるようにならないか、それが心配です。(2008年4月23日)

食の自給外国人頼み

朝日朝刊から。日本の農と漁の現場では外国人の労働力が不可欠になっているという記事。しかし、いつまでも安い労働力が海外から得られるとは限らない。日本の食糧はどうなるのか。20年ほど前までは農繁期の村には若者があふれたという。なぜ若者が集まらなくなったか。ひとつの理由は農業が市場経済の中の産業の一つとなったことか。日本では効率的に収入を得る方法はいくらでもあり、稼ぐという目的にとって農は効率の良い仕事ではなくなった。豊かさの中で、農が“人と自然の関わりのあり方”である環境や心身に与える多面的な機能が顧みられなくなった。もうひとつの理由は農が重労働ということ。同じ紙面の声欄では、“団塊の世代、豊かさで子育て失敗”という投書があった。与えられることだけを知り、責任を果たすことを知らない者が重労働の意味を理解できる訳がない。こう思うと、日本の食の未来は危うい。しかし、世の中きちんと未来を考えている若者だってたくさんいる。定年を迎えた団塊の世代も農に回帰する人が多いという。人が働くことの意味を知れば、農の復活もあり得るだろう。すると、人と自然の分断、都市と農村の分断が修復され、安心社会が実現できるかも知れない。私の考える安心社会は“分断”が修復され、“関係性”で成り立つ社会。まずは私の知っていることを伝えることが大切。前期は6コマも伝える機会があると思うと、講義もまた楽しくなるか。いや、つらいか。明日は月曜日。(2008年4月20日)

パラサイト・ミドル

ヘ〜、こんなのもあるんだ。朝日朝刊から。組織に寄生する中年となりましょうか。私などはちょっとドキッとします。権力を持つ管理職と仕事バリバリの若手に挟まれて苦悩しながらも、組織にしがみついて家族を守っていかなければならない悲しくも哀れな存在、というイメージになりがちです。立派なお父さんかも知れませんし、実力を持っているのですが、発揮することができない存在なのかも知れません。想像ですが、これは組織のあり方に問題があるのではないか。バブル崩壊後の不況時に、一部の企業はそれまでの仲良しグループによるトップダウン構造、すなわちピラミッド型を廃止し、フラットな組織にした。これによって組織は活性を取り戻した。ミドルもがんばることができます。一方、ピラミッド型を温存した組織ではミドルの立場がなくなり、パラサイト化が進んでいると考えられないか。大学などは法人化後、世の流れと逆行して強固なピラミッドを構築してしまった。研究者は自分の世界を持っているから良いものの、大学全体としてミドルが力を発揮できるようになっているか。それにしても、こんな問題が出てくるのは競争で動く市場経済が念頭にあるからで、弱いモノは切り捨てるという態度が陰にないか。モード2的な態度で問題解決を共有すれば、ヒトが幸せになる解決法は見つかると思うのだが。モード2といえば、以前、世の中は自然にモード2になるのだ、と言われたことがあります(2007年3月2日)。世の中、全然そうなってないではないか。しかし、根っこの方で少しずつ変化は起きているような予感はします。(2008年4月19日)

通勤苦を解消せよ

というわけで、鉄道各社はダイヤの工夫などで乗客を分散させようと懸命、というニュース(Yahooニュースから)。その中で、ある大学の先生が「運行間隔の短縮には、加速性能に優れた新車両の導入や信号システムの改善が有効。鉄道各社はハード面の整備にもっと真剣に向き合ってもいいのではないか」というコメントをしたという。報道では時には真意が伝わらないこともあるとは思いますが、このような対策は上策だろうか。チャップリンがモダンタイムスで批判した近代社会のあり方をさらに推し進めることにならないか。これでヒトは幸せになるだろうか。ヒトは輸送されるモノではありません。むしろ、未来の社会をどうするか、という方向に議論が進んだ方がよい。人の苦痛が、近代社会のあり方を変える方向に作用するにはまだまだ苦痛が足りないのだろうか。(2008年4月18日)

地球環境問題と国際環境問題

最近どうも地球環境問題という言い方に違和感を感じるようになってきました。地球環境問題は現場で検証しようとすると、地域における人と自然の関わり方の問題になるし、それは市場経済、グローバル経済のマイナスの側面として現れている場合が多いように感じる。地域はグローバル経済を通じて世界と繋がっているので、国際環境問題と呼んだ方が良いのかも知れない。うまい呼び方はないものだろうか。ふと思いついたので、備忘録として書き留めておきます。(2008年4月13日)

生きている人の数だけ「中心」がある

朝日朝刊「異見新言」欄の写真家の石川直樹さんの文章から。今日出会った良い言葉です。地球には60億の中心があり、60億の世界がある。その世界には優劣など無いはずですが、なぜ優劣をつけたがるのか。唯一の絶対者に導かれるという西洋思想(というかキリスト教、イスラム教的)思想に惑わされず、すべてのものに神が宿る東洋的な(ケルトもそうですが)思想に基づく世界は構築できないのだろうか。その神々には優劣はなく、すべて尊重すべき愛しい神々です。もちろんスピリチュアルなことを言っているのではなく、個々の考え方を尊重する社会のことです。個々の世界を尊重するということがなぜできないのか。欲と見栄がいかんのだな。大学でも優秀病にかかった方々は、“物理と文学どっちが偉いか(よくいうたとえです)”なんてことを思ってしまうようだ。個を大切にする社会は、地域を大切にする社会であり、グローカルの考え方を通じて、安心な地球社会とも繋がっていると思う。(2008年4月12日)

ものが高くて乏しい時代の到来

やはり、穀物価格の高騰の影響はだんだん顕在化してきたようです。ベトナムが米の輸出を停止し、フィリピンでは米が高騰し、不足している。日本でも食品の値段が上がりつつある。ものはいきなりなくなるというよりも、値段が高く、乏しい時代がやってきて、それが生活を締め付ける。石油も食糧も同じ。これは市場経済に依存している社会ですので、ある意味しょうがない。ものがいきなりなくなることもありますが、それも市場経済の仕組みの一つです。やはり、市場経済とはちょっと異なる地域経済のあり方を考える必要があるのではないか。都市と農村の関係に市場経済とは異なる関係を導入することにより、食糧不安を解消する仕組みを構築すること。例えば、地産地消がうまく機能している例もすでにあります。グローバルな市場経済はうまく働くこともあるが、マイナスに働くこともある。冷凍餃子事件をきっかけに中国の事情がだんだんわかってきました。すでに中国の食品企業は徹底的な農薬管理を行っています。日本が2006年にポジティブリスト制度を施行したから。これにより、中国では零細農家の経営が成り立たなくなっているという。仲買人には零細農家の農薬の使用状況がわからないからです。これによって、農業はますます産業化し、零細農家はますます苦しくなる。問題の実態を理解すると日本で何をすべきかが見えてきます。ただし、答えは一つではない。うまく折り合いを付けて、中国を日本の畑とする仕組みを維持するか。国内で新しい仕組みを作るか。これから市場経済の冷たさが露呈してくるようなことが多発すれば、新しい地域経済のあり方も具現化できるかも知れない。未来はわかりませんけれどね。。(2008年4月11日)

積み上げることの大切さ

まだ雨はぱらついていますが、愛犬の黒丸と夜の散歩に出ました。マラソン道路の桜はまだまだ見事で、これから遅咲きの桜も咲き始めます。黒丸と桜を見るのも5回目になりましたが、あっという間だなあ。ほとんど毎日散歩に出ていますが、少なめに見積もって1回に1km歩くとして、年間、これも少なめで300回歩くとする。すると、年間で300km歩くことになり、5年間では1500kmになります。実際には2000km以上黒丸と一緒に歩いているでしょう。なかなかの距離です。最近は評価に係わる仕事が多いのですが、変わらなくちゃだめ、新しくなくちゃだめ、といったことで、大学がやるべきことを地道にきっちりやっている、積み上げているということが評価される機会が少ないと思います。変わらないということは、“深める”ということであり、大学としてやるべきことが“深まったか”、ということを本当は評価しなければならない。とはいえ、評価の仕方が難しいことも事実。私はといえば、研究が深まったか。いろいろなことをやりすぎて、あまり深まっていないのではないかという思いも強くあります。しかし、環境について考えるときの拠り所としての世界観、自然観を得た、ということは言えるのではないか。しかし、それが欧米的な思想に基づく、すなわち日本の科学政策の主流となっている考え方とは異なることが悩みでもあります。自分の考えは自分で主張して流れを作っていくのが大学人の役目でもあるのですが。今は自分の過去を振り返り、積み上げるという行為の仕切り直しに最適な方向性を模索しています。それにしても柴犬はかわいいですな。特に黒巻きの柴は。(2008年4月10日)

水道管の老朽化

朝日朝刊から。日本の誇る広域水道ネットワークの危機かも知れません。高度経済成長時に敷設された水道管の老朽化が始まり、メンテナンス・更新が必要となりましたが、予算の壁に突き当たっているという。文明社会はハードウエアで成り立っており、ハードウエアは建設費用、維持・管理費用がかかり、いずれ老朽化すると更新費用がかかる。しかし、人口減少、高齢化社会を迎えた現在、大規模施設が未来永劫利用可能である保証はなくなってきました。むかしから言われていることですが、地域の水循環の中から水資源を取り出し、水収支で規定される上限を超えて利用しない社会のあり方が必要な時代がやってきたのかも知れません。しかし、地域の重要な水資源である地下水はどんどん汚染されている。このことに早く気がつき、地域循環型社会に移行していくことを考えなければなりません。広域水道は都市の問題ですが、農村の問題も深刻です。すなわち、硝酸態窒素の問題です。(2008年4月8日)

ドラエモン型社会とメイとさつき型社会

これも農村計画学会のシンポジウム、武内先生の言葉ですが、うとうとしながら聞いていたので前後のコンテクストがよくわからなくなってしまったのですが、これはわかりやすい呼び方だなと思いました。自分なりに解釈すると、ドラエモン型社会はイノベーションによって問題を解決していく都市型社会、メイとさつき型社会はご存じトトロの舞台となった昭和の人と自然の関係がうまくいっていた時代の社会。この両者の関係ですが、二者択一というわけにはいかず、共存を考えるべきでしょう。都市はコンパクトシティー化して都市機能を充実させる、すなわちドラエモン型にする一方、郊外は良好な自然環境と農村を残し、循環型社会の構築を目指す。ドラエモン型社会は市場経済型社会ですが、循環型社会の実現には市場経済とは異なる地域経済の導入が必要ではないか。環境に配慮することに負担をいとわない地域社会の構築が必要。例えば、減肥を奨励する代わりに形の良くない野菜を地域で引き受けるといったことで、けっして金銭の負担だけではありません。そして、このふたつの社会の関わりは兼業を通して結びつく。都市生活−兼業生活−農村生活の交代が人生の節目に置いて楽に実現できる社会が、安心社会のひとつのありかたではないだろうか。(2008年4月5日)

政策立案者とのチャンネル

農村計画学会のシンポジウム「農村からみた国土形成計画U」に行ってきました。その中で計画策定にも係わっている東大の武内先生が、「政策立案サイドとのチャンネルが必要、学会でいいこといってるだけではだめ」という意味の発言をなさっていました。その通りだと思います。研究、特に環境や国土に係わる研究は論文を書くことの先に、施策に反映されるという目標を持つべきだと思います。しかし、教え子も官庁にいて、協働で政策立案できるような環境はなかなか作ることは難しい。むしろ、学会でいいことを言ったら、それを吸い上げる仕組みがあればよい。例えば、省庁の方々には学位をとってもらう。研究という行為を通じて研究界からの情報を収集するスキルを身につけていただければ、良い考え方があれば施策に反映されやすくなるのではないか。とはいえ、地方大学の博士課程に通う霞ヶ関の役人はいないだろうな。学生にがんばってもらって官僚を目指してもらえばよいのですが。(2008年4月5日)

にがり規制一転して延期に現場感覚の無さを想う

めざましテレビを見ていてびっくりしました。3月14日にも書きましたが、厚生労働省の食品添加物規制強化によって特徴ある地域の産品であるこだわりの“にがり”が製造できなくなる可能性があり、こだわり豆腐が危機に瀕しているという件で、厚生労働省は規制延期を決めたとのことです。周知も徹底していないとのこと。役所の机の上で考えると、食品の安全を担保するためにはにがり製造業者も、添加物製造業の許可を受け、食品衛生管理者を置かなければならないという主張は、第三者として聞けばそんなもんかと思います。しかし、生業を営む現場の状況、影響、そして食の文化的側面まで考慮するとちょっとおかしいのではないかと思います。文化的と書いたのは、施策には思想、考え方が必要だと思うからです。安全のために、というか非常に小さな危険性のために何を我々は犠牲にすべきか、食の均質化が正しい方向なのか、食を“深める”ことは贅沢なのか、食文化の維持にかける安全コストは生活商品としての食材と同じでないといけないのか、考えることはたくさんあります。それはどのような社会を作りたいのかということとも関連しています。(2008年4月4日)

地球規模課題対応国際科学技術協力事業

この事業の公募が始まりましたが、その趣旨の本音は何だろうか。詳細はタイトルをキーにしてホームページで見てください。この事業が科学技術により問題を解決するという欧米の進歩発展志向に基づくとすると、趣旨の記述には矛盾点がたくさんあるように思える。しかし、地域環境主義あるいは地球的地域主義(glocalism)に基づくとすると、趣旨はよく理解できる。とはいえ、日本の政策は前者に基づいている。何か変わりつつあるか。今までのように矛盾を覆い隠して計画を立案し、運営で実質的な研究を行うという姿勢で対応するか、最初から実質的な計画を練るか、ここは実質的な計画を立案してみようか。世の中だんだん“問題の共有”から“問題の解決の共有”に変わりつつあると感じる。解決を共有となると、特定の地域における問題に関わらざるを得なくなる。すると、提案はマイナーなものとしてとらえられてしまう。とにかく提案をし続けることが研究者の仕事なのだなと思いつつ、アイデアを練ることにします。(2008年4月3日)

風力発電、6割以上が計画遅れ

朝日朝刊から。国土交通省による耐震基準の厳格化で、計画に遅れが出て、エネルギーを所轄する経産省が、何とかならんものかとぼやいている、という記事です。国交省は厳しいですが、厳しいということは、深く考えていないか、事なかれ主義、という場合も多いと思います。風車が倒れたら大変ですが、都会の超高層ビルと同じ基準である必要はあるか。柔軟な対応はできないのか。都市計画の線引きでも、最近は結構柔軟な(曖昧と言えるかも知れないが)基準が可能になっています。恐らく最大の問題は“エネルギー問題の解決”を両省で共有していないところにあるのだと思います。未来を考え、日本のエネルギー問題という観点から考えたらうまい折り合いの仕方が見えて来るのではないか。それにしても、ガソリンや食糧等々、最近の重要な問題について、政治や報道で“日本の水・食糧・エネルギー問題”という視点が見えてこないのはどういうわけか。様々な問題が関連しているという見方が国民や為政者から失われていないか。(2008年4月2日)

ガソリン値下げに思う

暫定税率が維持されず、ガソリン値下げが現実になりました。この是非については、主張するものが依って立つ時間・空間スケールによって変わってきます。地球温暖化の観点からは、価格低下が需要の増大に結びついたら、とんでもないことです。エネルギー問題の観点からは、いずれ石油が高くて乏しい時代が来るというのに、なんてことをやっているのだ、ということになります。しかし、現在の生活者の観点からはガソリンが安いのは大歓迎かも知れません。しかし、人はこれからもずっと生き続ける。長期的な視点を持たざるを得ません。未来のことを考えるのは地球温暖化問題も同じなのですが、なぜガソリンとなると同じ視点を持てないのか。これは地球温暖化も“問題を共有”しているだけで、“解決を共有”していないからと言えましょう。“解決を共有”すれば問題間の“関連性”を通じてうまい“折り合い”のあり方が見えてくるかも知れないのに。(2008年4月1日)

大学ランキング雑感

大学ランキングに対する記事が朝日にありました。各大学のとらえ方は各様ですが、大学のイメージに結びつくだけに看過できない問題ではあります。良い面も悪い面もありますが、こういうことは背後にある考え方、思想を明確にしておかないと万人が納得できるものにはならないと思う。この大学ランキングは欧米発ですが、その背後には各大学(文明を大学に読み替えています)は普遍的なもの、優秀なものに向かって進歩する過程にあるという欧米特有の考え方があるのではないか。ここをまず検証し、欧米とは違う考え方もあるという姿勢を強く打ち出しながら、ランキングとつきあって行く必要があるだろう。もはや、無視はできませんからね。でも、その前に学内で議論することがたくさんあります。大学の使命は何だろうか。研究することの真の意味は何か。教育はどうあるべきか。意外と大学ではこの点の議論が行われていないのではないか。もちろんリーダーの所信表明としてはありますが、学内でどれだけ議論されているだろうか。議論したら収拾がつかなくなるというおそれもありますが、大学を良くするためにはここから始めなければならないと思う。(2008年3月31日)

国とは何か

娘にチベット問題について質問され、冷や汗をかきながら説明しましたが、その中で言ってしまったことが、“国なんて歴史の流れの中でたまたまそうなっているだけなんや”。内山節によると、日本国という意識ができあがったのは明治になってから。それは欧米に互して競争、戦争をするために国という意識を民に植え付ける必要があったから。それまでは日本の民が意識するクニは藩であったり、村であったりしたわけです。その位の広がりの方が仕事や暮らしの中で協働していくのに都合がいいわけです。そんなクニの上位にあるナショナルって何だろう。千葉大学でもグローカルにナショナルを挟んで、グローナカルという語を作って旗印にしていますが、どうも違和感を感じます。そもそもグローカルという語が、世界が幸せになるためには、地域がまず幸せになること、そして世界は地域、ローカル社会がいっぱい集まってできているという世界観に基づいているように思います。けっしてグローバル社会に向かって地域が発展すべきである、なんてことではありません。グローカルという語が日本の公害問題や世界の地域問題に対して現場から取り組んできた社会学分野から生まれてきた実に重い語であることもあり、ナショナルを挟むのは軽いような気もします。チベットだけでなく、ウィグル、イラク、パレスチナ、ダルフール、カシミール、スリランカ、朝鮮、...国の中に問題を抱えている地域を挙げるときりがありませんが、国とは何のためにあるのか。誰のためにあるのか。よく考えると難しい問題でもあります。(2008年3月30日)

中山間地の現状

地理学会で本をたくさん買い込みました。その中の「ムラは問う−激動するアジアの食と農」(中国新聞取材班、農分協)を読み始めたところです。中山間地、特に中国地方の中山間地の衰退は昨年の農村計画学会で話を聞いてから意識するようになり、数字としてはある程度理解していたつもりでした。しかし、この本で人の生活の変化、窮乏の実態を知ると、改めて問題の深刻さが伝わってきます。都市域に住んで、本を読んで頭でっかちになっているだけではなかなか現状を実感できませんが、この本に書かれた個々の事例は現実感を持って迫ってきます。事例は大事です。今の日本の社会の中で忘れられているのは、地方、農山漁村、中山間地、...。どうも昨今の政治は都市生活者の視点による政治で、現場の実態の認識が弱いような感じがします。どうしたら良いか。大学の教員にできることは、知ったことを伝えることです。この機能を生かすしかないだろうか。(2008年3月30日)

食べる人は抽象的になり易く、作る人はいつも具体の事実に即して生きる

朝日天声人語より。2月25日にもここで書いた件に関連して、米を作る側と食べる側の違いとして引用された鈴木大拙の言葉です。これはまさに環境問題における“問題自体を共有する立場”と“問題の解決を共有する立場”と同じではないだろうか。問題を共有するだけでは抽象的な議論になりやすく、解決を共有すると具体的な事実に即さざるを得なくなる。すると、どうしても地域に軸足を置かざるを得なくなる。抽象的な議論をする立場からは、個別問題として見られがちになる。しかし、地域の問題をひとつひとつ解決していくことが、地球の安心に繋がるのだというのがグローカルの考え方だと思う。“問題”に対する世の中の立場にはどうもふたつあるように感じるが、前者はノイジー(ストロング)マイノリティーであり、後者はサイレントマジョリティーではないだろうか。環境問題に関しては、やはり、マジョリティーである生活者のことを中心に考えたい。(2008年3月28日)

豪雨被害―仕方ないでは済まない

朝日社説より。2000年の東海豪雨訴訟で、名古屋地裁が住民の訴えを退けたことに対して、行政はもっとやることがあったのではないかという意見でした。行政のやるべきことは何だろうか。ハード対策とソフト対策のふたつがありますが、私としては“仕方ない”という立場を消極的に支持したいと思います。都市化地域において、治水対策がコストの点から限界に近づきつつあるという意識は現場では広まってきており、東海豪雨でそれが一気に吹き出した。だから、水防法の改正に繋がった。人口減少、国力低下を迎えつつある現在の社会を今後どうしたいかを考えると、工学的適応だけではなく、低コストの環境適応型の社会に誘導する施策の考え方があっても良い。しかし、行政としては国民のコンセンサスがないと動けない。このコンセンサスを作るのが政治なのですが、それを動かすのが教育、アウトリーチの役目であり、それは大学教員の役目でもある。住民が土地の性質を知らないということが一番問題で、ソフト対策の遅れに繋がる。これは地理、地学が相対的に軽視されている教育政策にも問題があるのではないか。2005年のニューオーリンズ、ハリケーンカトリーナ災害ではいくつかの報告書に、住民が土地、すなわち沖積低地の性質を知らなかったのが問題であり、教訓とすべし、と書かれているとのことです。こういう風に考えると、教育機関としての大学にも責任はあります。(2008年3月28日)

労多くして、論文少なし

今日開催された2008土壌水分ワークショップにおけるある東大の先生のお言葉。身にしみます。フィールドワークは労多くして、論文少なし。我々はフィールドワークの価値、フィールドワークにおける経験の価値は十分認識しています。一般性がわかっても、現場の問題の解決にはあまり役に立たない分野がここにある。けっしてステレオタイプで説明できない現実がフィールドにある。論文の数だけでは計れない成果がそこにあります。しかし、法人化後、分野間の競争に突入してしまった大学ではこの価値がわからない分野からの圧力もあることも確か。どのように発信して、理解を得ていったら良いか。モード2型科学、関係性探究型科学の分野ではいわゆる“論文”だけでなく、モノグラフも学会誌の中で価値を認め、どんどん採用していったらよいのではないか。学会でそれができるはず。(2008年3月26日)

卒業式・修了式を終えて

いつもの顔が見えなくなるのは寂しいものですな。特に今年は寂しさを感じます。毎年何人かが研究室から旅立っていく。これが大学教員の年度の締めくくりなのですが、この時期が桜と重なるようになってからまた、寂しさが増したような気もします。でも、桜と同時に新人もやって来る。新しい年度の始まりがもうすぐ。新しいことを始める時です。それは楽しいことでなければならない。どうも最近、研究の楽しさから遠ざかってしまった気がします。この感覚を取り戻さなければ。(2008年3月24日)

地下水の硝酸態窒素問題雑感

今日も八街方面へ採水に出かけました。今日は地元の方にお話を伺う機会がありましたが、自宅では一部補助金を受けて除去装置を導入し、使っているそうです。硝酸態窒素問題に関しては良く知っており、問題への関心は非常に高いのですが、農業は生業であるのでうまい解決策がないこと、行政に関しても不満な点があること、などを伺い大変参考になりました。問題の一つに市街化調整区域がでました。東京60km圏ですが、水道の給水がなく、過疎も始まっているとのこと。線引き区域については考え方がありますので、難しいのですが、制度の変更も視野に入れて、“地域で取り組み、地域で解決”をはかる取組の重要性が見えてきたように思います。3月13日に書いたように、この問題の解決方法はないわけではありませんが、理想的すぎます。理想的な策については長期的な視点で取り組むと共に、短期的な策も考えなければならないと思いますが、例えば、海外にあるような大型ペットボトルによる飲用水の供給などは水道行政がやっても良いかも知れません。それにしても、市街化区域に住み、水は遥か利根川上流から持ってくる水を飲んでいる都市住民が近隣の硝酸態窒素問題を知っているかどうかがまず問われるべきでしょう。その住民が形のそろった野菜の安定供給を望んでいるとすると、ここにも“文明社会の野蛮人”の陰を感じてしまいます。拡大解釈ですが、都市の快適な生活が地方の問題と関連しているということを意識することが重要だと思います。(2008年3月22日)

天ぷら油燃料の(株)ユーズ

通勤途中の車の中で廃食油を回収して燃料にしている会社の話を聞きました。90年代から取り組んでいるとのことで、その先見性にも驚きです。すばらしい取組だと思いますが、気になるのが天ぷら油の原料。様々な作物から作られていますが、カノーラ油で有名なナタネについてはこぼれたGMナタネの群生地が広がっていることが日本でも問題になっているようです。GMナタネといえば自然交雑で勝手に入ってきた種にも所有権を主張して農家と争っているモンサント社の話が思い出されます。廃油燃料が儲かるとなれば大企業が進出してきて経済合理性で取り組まれるとせっかくの回収システムが機能不全に陥る可能性はないだろうか。これは考えすぎですが、こういうシステムは地域の取組としてグローバルな市場経済とはある程度切り離したシステムとして運営するのが良いだろうなと思います。(株)ユーズには自分で送料を負担してでも廃食油を送ってくる方々がたくさんいるとのことですが、こういう経済合理性からは離れた活動が持続可能性を担保するのではないか。地域の中で人々が地域の環境を保全する目的意識を持って、経済合理性を超えた活動に参加することが一つのよりよい社会のあり方かなどと考えました。(2008年3月21日)

謝恩旅行、私が感謝です

学生の皆さんと箱根に一泊で出かけてきました。謝恩旅行ということで私は実は恥ずかしかったのですが、心からありがとうと言います。卒論、修論、博論、至らない点も多々ありましたがどうかご容赦願いたい。社会では様々な困難に出会うこともあると思いますが、そんなとき頼りになるのは人と人の関係性かなと思います。がんばれ、なんてきれい事は言いませんが、人や社会との関連性を大事にしていけば、自分のポジションは決まってくるのではないかと思います。ここ2年ほど教育・指導という点で大きな悩みを抱えていましたが、これでようやく答えは出つつあるかなという気がしています。私も大学の教員という職務に自信を持って取り組んでいきたいと思います。(2008年3月20日)

アウトリーチの目標は達成

公開講座等に関する調査が参りましたので、最近の実績を書いて提出しました。こんなことも統計値として残さなければいけないことに何となく割り切れ無さも感じますが、まあよしとしましょう。今年度は市民講座や模擬授業等、アウトリーチ活動は7回実施しました。新規講義の開講ともあわせて今年の目標は達成と考えて良いと思います。話を聞いていただく対象は高校生、一般の方々、環境問題に感心を持つ団体等多岐にわたりましたが、それぞれの分野で何を考えているか、何を求めているか、非常に勉強になりました。実質的な環境研究を行うための良い指針を得ることができたと考えています。次年度はできれば実践の年にしたい。(2008年3月18日)

家庭菜園の開始

父がいなくなり、主人を失った家庭菜園を復活することにしました。とりあえずジャガイモ“インカのしずく”を植えました。去年まではプランター菜園でしたが、市販の土を買ってきて使うので、まずまずの収穫を得ることができました。露地植えではまず土を作ることが大切だとは思うのですが、まだ何もわかっていないので、まずは耕して種芋を放り込みました。とにかく参考書を買ってきて読むことにします。今の世は情報が満ちあふれている。どのように使うか、どのように情報を峻別するか、に頭を使わなければなりません。これから週末は一つはフィールド調査、もう一つは畑作りが仕事になります。(2008年3月16日)

進歩・成長社会と地域の営みを重視する社会

NPO法人環境カウンセラー千葉県協議会主催の第7回環境公開講座で「アジア・太平洋サミットと開発途上国の水問題」と題して講演しました。この題目はリクエストによるものなのですが、サミットの内容をにわか勉強してストーリーを作りました。盛りだくさんだったにも関わらず、けっこう好評だったようで、またやることになりました。好評の理由は、世界の話をしながら“地域の営み”を重視した点にあるのではないか。一方で、進歩を重視する競争社会がある。どうも世の中には進歩、成長、そして市場経済を基調とした世界と、地域の営みを大事にする世界があるように感じる。前者は力はあるが、規模の上では後者がずっと大きいのではないだろうか。後者は“進歩”よりも“深める”ことを重視する社会。私は後者を大切にしたい。“深める”は内山節著「地域の作法から」よりの引用。(2008年3月15日)

勝ち負けとは関係ない世界の勝ち負け

日本地球惑星科学連合の拡大評議会に出てきました。法人化に関する話し合いが行われましたが、加盟学協会との共存共栄戦略が打ち出され、よい組織ができると思います。ただ、趣旨説明の中では、世界の中で主導権を取りたい(AGU、EGU、AOGSに互したい)、国内では分野間の競争に勝ちたい(物理、数学、化学、生物分野と互したい)、という意志が伝わって来ますが、これは“勝ち”ということにこだわる態度と考えて良いかと思います。そして、これは学問分野を真理探究型科学、モード1科学と考える態度であると考えられます。しかし、地球惑星科学は“環境”に対して責任ある分野でもあり、“問題解決”も視野に入れるべきだと考えます。この領域では問題が解決され(折り合いがつき)、人が幸せになるかどうかが重要な観点であり、分野間の勝ち負けは関係ありません。連合発足前の話し合い時に“地球惑星科学”とは何ぞやという質問をしたことがありますが、今後の加盟学会によりその定義は変わるという返事を得ました。とすると、問題解決型の学問分野、人文社会科学の分野も加盟している現在、関係性探求型科学、モード2型科学の視点があってよい。法人化後の組織案では分野を五つのセクションに分ける案が提示されましたが、これは従来のディシプリンに基づく分け方だと思います。ここにディシプリンを横断する問題解決型の横軸を入れることはできないだろうか。ただし、この軸は体系化されたディシプリン科学ではないので永続的ではないかも知れないし、多くの軸が立つことになるかも知れません。運営は難しくなるかも知れませんが、“問題解決”軸を取り入れることが地球惑星科学連合が世界に互して個性を発揮し、存在の意義を明らかにできる方策だと思います。(2008年3月14日)

こだわり豆腐の危機

豆腐の製造に欠かせない“にがり”が食品添加物になり、地方のこだわり豆腐が存続の危機にあるというニュースがありました。食の安全は大切ですが、食を“深める”という行為が制限を受けてしまうところに何か割り切れなさを感じます。市場経済の中ではすべてが均質化され、単純なプロトコルによって物事がコントロールされる。誰でも一定レベルのメリットを享受できるが、個性が失われていく社会に物足りなさも感じる。確かに子供の頃と比較して豆腐の味が淡泊になっているように思います。たまに大豆の香りの強い豆腐に出会うと本当にうれしいが、その機会が減ってしまうのか。以前、京都(観光ではなく京大です)に足繁く通っていたときのおみやげに必ず湯葉がありました。店を探して個性的な湯葉に出会うことが楽しかったのですが、地域の個性あるものを探す楽しみが少なくなる(かも知れない)のはちょっと問題だと思う。(2008年3月14日)

低負荷農業のあり方

昨日は後期試験でした。学生も大学から閉め出されているので午前中は八街方面に採水に行きました。10地点の河川水の採水を行いましたが、硝酸態窒素濃度の環境基準値10mg/lオーバーは一カ所、とはいえ半分が5mg/lオーバーで十分高い。その原因は施肥にあると思われますが、農業は生業ですのでどうすれば良いか。郊外を巡りながらこんなことを考え続けていますが、根本的な原因は農業が市場経済に取り込まれた産業になっているということ。それが肥料の多用を招いていないだろうか。とすると、地域の都市生活者と農民の間で地産地消の枠組みを作る、そして形にこだわらない、安さにこだわらない作物の流通を確立し、地域の環境作りに対する住民の一体感が醸成できれば省肥料に繋がるのではないか。今日の新聞ではバターの値上がりに関する記事がありました。一方、現地では休耕田をたくさん見ます。畜産では飼料の自給率は10%程度という。そこで、休耕田には飼料用の米を作付けすれば良いのではないか。すると、飼料の自給率もあがり、水田では脱窒の効果も期待できる。様々な要素の関連性を見ることによって低負荷農業、低負荷社会の構築ができそうな気がします。下総台地がモデル地域になり得るような気がしますが、もう少し暖めて提案したいですね。(2008年3月13日)

成功基準を自分で持とう

朝日朝刊の「私の視点」より。資格学校講師の三好さんの投稿。なぜまわりの評価や基準が気になるのか。それは人の中で成功の基準を持っていない、意識していない人が多くなっているからではないか、という指摘はまさにその通りだと思います。ただ、多くの人が抱えている悩みはもう一つあるのではないかと思います。それは組織と個人の関係。自分で成功基準を持っていたとしても、所属する組織の成功基準と乖離してしまうと自分の存在意義が問われてしまう。個人と組織の成功基準が乖離してしまうのは、やはり近代化を推進してきたモード1的な発想にまだ社会が囚われているからではないだろうか。近代化は組織の中で個人を部品にすることによって成し遂げられてきた。しかし、近代化の流れに限界が見え始めた昨今、個人を尊重し、個人同士の関係性の中で新しい知識の生産、問題の解決を行うモード2的な態度で運営される社会の実現が喫緊の課題なのではないだろうか。大学は社会の流れに先駆けて新しい時代を作っていかなければならないと思うのですが、大学評価にさらされていると逆に世の中の後を追っている感じですね。(2008年3月12日)

大学の環境科学技術分野への取り組み

「大学における環境科学技術分野への取組に係わる調査について(依頼)」というのが来たので、総合科学技術会議の「分野別推進戦略」という文書をざっと読んでみました。いいことが書いてあります。ただし、(モード論が便利なので使いますが)モード1的な部分とモード2的な部分が考え方として十分峻別されておらず、混在しているように感じました。国の政策はイノベーション25にもあるように、成長、発展によって問題を解決するモード1的な立場に立っています。しかし、文書の中にある「流域圏」研究は様々な要素の関連性を重視するモード2的な態度が必要な分野です。また、「人文社会科学との融合」という文言が良く出てきますが、社会学と融合し、問題解決を目指そうとすると、科学技術の役割はどんどん相対化して行かざるをえない。その他にもいくつか指摘できますが、背後には世界を均質的なものとしてとらえようとする近代社会のパラダイムが前提としてあることを感じます。本来、モード1科学とモード2科学は並列ではなく、モード2の中のごく一部にモード1があるのではないだろうか。世の中は決して普遍性で動いているのではなく、地域の事情によって動いている。グローバリズム、市場経済もアメリカあるいはヨーロッパのローカルな思想に過ぎない。こんな観点から世界を見直し、日本の行く末を考える態度も必要なのではないか。(2008年3月11日)

父の四十九日法要

昨日は父の納骨に行ってきました。墓地を散策し、古い墓石を見ると天保、安政、慶応といった年号を所々に見つけることができます。江戸町与力の墓などもあり、ここでは時間の継続性を感じることができます。今日はほかにも法要の檀家がありましたが、こういう営みが何百年も繰り返し行われている。そこには時代が経ても変わらない営み、時間の均質化がある。今は変わらないと評価されない時代になってしまいましたが、変わらないものの中にこそ“安心”があるのではないだろうか。周りは高層ビルばかりになってしまいましたが、周りとは異なる時間を持つ空間がそこにある。変わらない営みの中に“安心”を見つける、こんな主張に基づいた安心社会の構築は提案できないだろうか。(2008年3月10日)

鰻の蒲焼きと牛丼

北京ではかねてからの私の主張が実現した感動を味わってきました。中国でも鰻は良く出るのですが、調理法はブツ切りの煮込みでした。味は良いのですが骨が多くて食べにくい。そこで、蒲焼きにすべきとこの10年来主張してきたのですが、とうとう地理研のランチボックスで蒲焼きに出会いました。とはいえ美味しい蒲焼きが中国に普及すると日本への輸出量が減るかも知れません。これは悩みの種になりますな。また、二日目のランチボックスは牛丼だったのですが、牛丼は日本が発祥だと思っています(一応、神戸という説を何となく支持していますが)。日本の食文化が中国にもどんどん広まっています。一方でおかしな事件も起こっていますが、中国にはそんなことは全然関係ない部分もあります。中国の社会には二面性がありますね。(2008年3月9日)

そろそろ水問題の解決を共有する時期

中国は北京に行ってきました。最初は日本学術振興会北京事務所主催の日中科学フォーラムとアカデミアサミット。これは儀式みたいなもので千葉大が参加することに意味があるといったところでしょうか。私はPowerPointのユーザーではないので、いつものひねくれでVISTAのマシンを液晶プロジェクタに繋いだら、案の定トラブルが発生し、こんなことなら素直にPPTに変換して使えば良かったと反省。その後、地理科学与資源研究所で催されたIAP(International Academy Panel)のアジア太平洋ワークショップに参加しました。中国の水問題については十分わかってきており、対策案もいくつかあることは承知しています。今までは中国の水問題は世界の関心事であり、“問題を共有する”段階でしたが、そろそろ“解決を共有すべき”時期が来たように思います。そうなると様々なセクター間の利害関係の折り合いを付けなければなりません。ディシプリン科学では解決できない領域に踏み込まなければなりません。研究者としてここは思案のしどころです。地理研では大変お世話になりましたが、タダほど高いものはない。やはり論文の提出を約束させられてしまいました。いい機会ですので、下総台地の硝酸態窒素問題について纏めておこうと思います。(2008年3月9日)

ゴミも地元で

福井県敦賀市で経営破綻した民間最終処理場の環境対策工事費用を巡り、そこに搬入していた全国60の自治体や組合に敦賀市が費用負担を求めたところ、ほとんどが支払い拒否・保留という記事です(朝日朝刊から)。当然という見方も、倫理的に問題という見方もできるでしょう。我が千葉県では松戸市が費用を新年度予算に計上したとのこと、これは控えめに拍手。千葉県もかつてはゴミを東北方面に搬出し、マスコミにたたかれたこともありました。都市の発展は地方の何かを犠牲にしていますが、一般にはそれが見えない。水、エネルギー、食糧、建材、そしてゴミ、等々、遠くから持ってきたり、遠くに持って行ったり。その結果、“文明社会の野蛮人”が増えていく。都市は廃棄物は自前で処理し、限界を超えたらそれが都市の拡大を抑制するように働くべきだと思う。少なくとも自分の快適な生活がどのようなコスト負担で支えられているか、外部にどのような影響を与えているか、を知ることが大切。衛生工学の丹保先生は、“都市に環境湖を作り、そこに処理済みの下水を流入させ、都市が自分でモニタリングをしたらよい”、と述べています(「水文大循環と地域水代謝」、技法堂出版)。こういう仕組みがあれば人は自分の行為の結果を簡単に知ることができる。人は関連性の中で生きている。この関連性を意識したうえで、どのような社会を築くかを考える。それが安心社会に繋がると思います。それは地産地消、地域循環を生かす社会ですが、都市的社会も共存させる仕組みも考えたい。これができると日本は強くなると思うのですが。(2008年3月3日)

寄り回り波

今週もいろいろなことがありましたが、週の初めに富山で発生した高波では「寄り回り波」という言葉を久しぶりに耳にしました。もう15年も前になってしまいましたが、富山のグループと一緒にERS1衛星のSAR(合成開口レーダー)の検証実験をやっていました。富山商船の石森先生が船を出して、波の観測を行い、私が画像解析をやりました。レーダー画像には波の様子がとらえられ、海底地形図と重ねると、波が海底谷の部分で屈折している様子がはっきりわかりました。石森先生によると、これが衛星でとらえた初めての寄り回り波であったということでした。この成果はIGARSSという国際学会に発表しただけで纏めていないのですが、衛星リモセンはオペレーショナルな運用に結びつけないと研究者が勝手にやっているだけで、人の安全・安心に結びつけることはできません。被害に遭われた方々は大変お辛い思いをされたと思いますが、研究者として何とかせねば。(2008年3月1日)

関係が繋がるうれしさ

そろそろ来週の北京行きが近づいてきたので中国にメールして空港までの手配を頼みました。卒業生の沈君からさっそく返事があり、これで準備万端、安心して出発できます。もちろん共同研究の材料を持って行き、新しい仕事の相談を始めるというミッションもありますので。それにしても、“関係”が“繋がる”というのはうれしいものです。人は関係性の中で生きている。環境は関係性によって成り立っている。関係を見つけ出すためには包括的な視点が必要。最近こんなことばかり書いていますが、やはり関係性は重要。そして持続性を大切にしたい。(2008年2月29日)

米と麦

日本はもっと米を大事にするべきで、まずは米を食べよう、と25日に書いたばかりですが、今日の昼はパンにしました。コンビニではなく、専門店のパン。というのも、父が入院していたときに毎朝病院でサンドイッチとパンを買っていたのですが、これがうまかったのでほとんど毎日昼はパン系でした。病院通いがなくなり、最近は米の消費が増えていましたが、今日は突然パンが食べたくなってしまいました。やはり、美味しかった。癖になるかも知れません。あまり主義主張に囚われず、“自在”に生きるということも大事です。(2008年2月29日)

長生きの秘訣

朝日天声人語から。『長生きの秘訣はウソをつかないことと、人の話をあまり聞かないこと』。女子高生による瀬戸内のお年寄りからの聞き取りの報告とのことですが、人の話をあまり聞かなくとも、それでもうまく折り合いを付けて暮らしていける海辺ののどかな暮らしが想像できて、いいですな。でも、こういう世界の前提には“自由自在”があるのではないだろうか。“自在”があるから、人の話を聞かなくても、お互い尊重し合い、地域社会のルールを守りながらもうまくやっていける。一方、我々は“自在”を失った状況にある。我々の生活の基本的な部分は外部に依存している。労働の対価として給料をもらい、その金で食糧や衣服、燃料を外部から購入する、等々。外部に問題が起こると生存が脅かされるというのは26日の話題でした。大学の仕事は人の話をあまり聞かなくてもやっていけそうなところですが、“評価”が待っており、評価者は同じディシプリン、同じパラダイムを共有しているわけではない。自分の信じるもの、重要だと考えるものが理解されるとは限らない。それでも自分をしっかり保ち、人の話をあまり聞かずに教育・研究に邁進できる人は幸せだと思います。私などは組織と個人の狭間でいつも悩みを抱えてしまいます。達観にはまだまだ至りませんが、自在の部分を自分の人生に組み込むことができれば。しかしこれもなかなか難しく、勇気もいりますね。長生きできるだろうか。(2008年2月29日)

世界の陸域の多様性にどのように向き合うか

昨日は日本学術会議のGLP小委員会でした。GLPとはGlobal Land Projectの略で、国際科学会議(ICSU)傘下の国際プロジェクトです。主目的は、”人間・環境結合システムを観測、モデル化し、理解すること”、となっていますが、国内ではまだ具体的な課題設定までは至っていません。とはいえ、これは当然のことで、極めて多様な陸域における自然と人間の関係が対象であり、対象を認識するだけでも思想や世界観が必要と思うからです。事例を積み重ねることにより一般性が出てくるのか、世界とは個別性の集積に過ぎないのではないか、個別性の集積から一般性が出てくるとすると、それはある特定の要素に限られてくる、一般性がわかって論文は書けても個別性のある地域の問題には対応できなくなる、等々。真理探究型科学者では理解できないかも知れませんが、GLPは関係性探究型科学です。この思想、世界観をはっきりさせて事例研究を尊重しながら、成果を積み上げる仕組みを構築することが今求められていることです。昨日の会議では概ねこんな合意は得られたかと思いますが、まだまだ分野間のギャップがある。特に他分野から地理分野の成果が見えないという指摘がありましたが、それは一般性を期待しているからだと思います。成果は基本的には学術誌を読めば良い。とはいえ、地理学の中から成果としての個別事例を集積し、他分野との融合を図る仕組みを考えなければならない時期が迫ったと考えています。(2008年2月27日)

生活と生存と市場経済

「生活が豊かになればなるほど、生存の基盤が危うくなる」。冷凍餃子事件からの発想ですが、なるほど。CM天気図の天野さんもいいことを言う(朝日朝刊より)。今の日本の“豊かな”生活は、市場経済のシステムを通じてどこか遠いところの誰かによって支えられています。このシステムがほころぶとあっという間に生存が危うくなる。生活と生存の関係については、1987年にブラジルで開かれた「環境と開発に関する世界委員会」を傍聴していた地元のブラジルの方からの発言が有名です。2007年1月9日にも書いていますが、もう一度引用すると、

「あなた方は生活(life)についてほとんど議論をしないで、生存(survival)について多くを語りすぎています。生活の可能性がなくなったときに、生存の可能性(生き残れるかということ)が始まるということを忘れないでおくことが大変重要なのです。.....」(鳥越皓之著「環境社会学」、東大出版会より)

ところが、近代社会ではどうも事情が違ってきたようです。生活と生存を同時に考えなければならないなんて。我々は近代になって“自由”を手に入れましたが、実は“自在”を失った。生活の中で自分で作る、賄うという部分を再び強化すれば、生活と生存を同時に考えなければいけないというおかしなことは避けられるのではないか。自由自在に生きたいなあ。“自由自在”の部分は内山節の著作から(どの本に書いてあったか...)。(2008年2月26日)

環境言説とツバルの珊瑚礁

環境社会学会のニューズレターが届きましたが、龍谷大学はちょっと遠いので行けなかった第36回セミナーの報告がありました。首都大の院生、小林誠さんの講演「ツバルにおける海面上昇に対する認識形成−環境言説の受容と体験知の意味づけ−」が気になっています。最近、地球温暖化に関する講演を頼まれることが多いのですが、ツバルもコンテンツの一つになっています。“温暖化→海面上昇→侵食→人が土地を失う”、というのはまさに“環境言説”だと思っていました。“教育言説”という言葉はありますが、やはり“環境言説”もあったわけです。この二つはけっこう似ている。環境に関する格好良い言説で、真の問題の発見、問題の解決を遅らせるかも知れない言説といえると思います。ニューズレターで講演の詳細な内容はわかりませんが、ツバルの問題も環境言説というとらえ方もあり得るということでいいかな。ツバルをはじめ、南太平洋の島々にいつか行ってみたい。そして現場の問題から始めたいですね。ところで、福田首相の約束した調査団はどうなっているのでしょう。(2008年2月25日)

「米の作りすぎは、もったいない!」のポスターに農家反発

Yahoo,毎日から。これは気になるニュースです。東北農政局が作った「米の作りすぎは、もったいない!」「米の過剰作付けは、資源のムダづかい」というポスターに対し、地元の農家が「一生懸命米作りをしている農家の誇りを逆なでしている」と激しく反発したとのこと。当然ですね。役人の考える農業は市場経済のための農業ではないか。そうではない農の営みもある。農業に対しては人の生き方、誇りに関する配慮がもっとあって良いのではないか。フォードのベルトコンベアの登場以降、人はパーツとなり仕事から生き甲斐を奪われましたが、農という営みはそれが大規模経営でもちょっと違う。農業は技能であり、農業者は自分にしかできない米に誇りを持っているでしょう。農は生と直接関わる業であり、国が最も大事にしなければならない生業だと思うのです。零細でも、兼業でもまずは農の維持を考えることから始めなければならないのではないか。余剰米のうまい利用法はないだろうか。まずは米を食べよう。(2008年2月25日)

火山灰台地の風物詩−土埃

昨日は煙霧が観測されたそうです。八街方面に出かけていましたが、台地の上に出現した新興住宅地は実に凄まじい土埃の攻撃を受けていました。帰りは佐倉インターから高速で帰途につきましたが、そこから見えた空を覆う褐色のダストドームは壮観だった。習志野の自宅に戻ると強風でも埃はたいしたことはなくなったのですが、これは都市化の功であり、裸地面が少なくなったということ。子供の頃は冬といったら土埃でした。郊外に一戸建てを求めて移り住んだ人は土埃とどのようにつきあっているのだろうか。こればかりは文句の言いようがないとは思いますが、隣接する畑の地主との関係はうまくいっているだろうか。問題は起こっていないだろうか。解くべき課題がここにあるかもしれない。一つは将来の土地利用に対する検討と誘導。現時点での具体的な対策としては防風林があるように思います。そして直売所を通じたローカルな経済による農村と都市の交流、こんな都市と農村の共存のあり方が考えられますが、机上の空論ではなく実践を通じて確かめてみたい。地域の営みを知らずに社会のあり方を論じることはできません。(2008年2月24日)

東大に財界が基金−120億円、世界に対抗

朝日朝刊から。東大総長はやり手ですね。ますます資金が東大に流れ込む状況で、地方大学はどんな将来方針を持てば良いか。資金は基本的には真理探究型科学、モード1科学に向かうでしょう。それが最も効率がよいから。関係性探究型科学、モード2科学に資金が流れ込みすぎると“研究のための研究”、“市場経済のための研究”、になりがちであり、見かけの成果はあがるが(申請時から成果を書かなければならないのですから)、真の問題が隠される傾向はないだろうか。もちろん私の主観です。後者の科学は莫大な資金はいらないが、問題の現場で時間をかけてじっくり取り組む必要のある科学です。花形研究プロジェクトが結果として現場における問題の解決を遅らせていたなどということがあってはいけない。千葉大学は関係性探究型科学、モード2科学を目指すことはできないだろうか。モード2科学は多分野協働による新しい知識生産です。折しも文科省は複数大学で共同学部、共同大学院を設置する検討に入りました。千葉大はまず部局横断型の共同学部、共同専攻を作ることはできないだろうか。それは(“環境”ではなく)“環境問題”を扱う学部、専攻が良いのではないか。自然系、工学系、さらに社会学系、心理学系、教育系、その他たくさんの分野の教員が集まり、“問題解決を共有する”組織とする。千葉大には人材はたくさんおります。ただし、経営陣がモード2科学を字面だけでなく中身を理解しているかどうかにかかってきますが。(2008年2月24日)

組織と個人

朝日朝刊から。中国に拘束されて仮釈放された香港の記者の程さんの言葉。「逮捕後、自分が守り続けてきた愛国や正直といった価値観がすべて信じられなくなった」。自分の愛するもの、それは国家という組織、から苦しみを与えられているのか、それとも自分を苦しめるのは権力者という個人なのか。時間が経過した後、「中国の民主や開放のために尽くすという信念を徐々に取り戻した」。自己矛盾の苦しさ、そして徐々に自分を取り戻していった過程が私には良く理解できるように思います。こんなことは会社でもあるだろうし、大学でも。大学は学生と教職員のもので、権力者のものではない。千葉大は私の母校でもあり、しっかりしてもらわなければ困る。千葉に軸足をおいてこれからもがんばろうと思う。(2008年2月23日)

油そばとスープ餃子と市場経済

最近よく行く龍神ラーメンにスープ餃子というメニューがありますが、今日の昼はそれを試すことにしました。スープは出ますので麺は油そばにしたのですが、実は油そばは1.5玉、出てきたスープ餃子がでかい。一瞬ひるみましたが、食べ物は残さない主義ですのでがんばって食べました。実はヴァーチャルウォーター(VW)に絡めた食糧問題に関する講演を頼まれて準備をしているのですが、飽食の極みの状態で、腹一杯の苦しみを味わいながら、様々な問題について勉強しつつ食糧がある幸せをかみしめています。それにしても小麦粉がまた値上がりするとラーメン店も大変だろうと思います。ラーメン一杯に水は何トン必要か。さて、VWについて復習していますが、VWの専門家となった沖さんとは異なる視点を打ち出さなければなりませんので、いろいろ考えています。こういう概念には必ずそれを発想させる背景がありますが、ヴァーチャルウォーターの場合は市場経済と経済合理主義があります。正当な経済行為が行われているならば、何も問題はないはずですが、ステレオタイプとして“途上国の水を搾取している”といった連想が巷にはあるようです。市場経済のマイナスの側面として生産地の住民が苦しんでいるということがあるとすれば、それが問題であり、それは単純な図式では理解できない、これも典型的な環境問題と言えるでしょう。恐らくそんな話を期待して講演を依頼されたのだと思いますが、市場経済とは相容れない農の営みのあり方を取り込みながらストーリーを構成したい。もう少し時間をかけて頭の中で熟成させる必要があります。(2008年2月22日)

劇場型科学の終焉

博士の学位を持っていれば教員免許がいらないという秋田県の小・中・高校教員の公募に申し込みが殺到しているそうです(朝日朝刊から)。ポスドク(PD)問題は実に深刻であり、やる気と力のみなぎる若手に対して十分な研究者ポストを用意することはできない現状では、PDの方々にとっては朗報だと思います。とはいえPDの方々の目指す職が大学、研究機関の研究者であれば、挫折と感じることもあるかも知れない。しかし、“科学する”という行為がそれだけで崇高で価値があった時代は過ぎたという見方もできるのではないか。特に“環境”という分野は“問題”まで踏み込んで、その実態を知る、特に生活レベルにおける現状を知り、解決を目指すと“科学”の役割がどんどん相対化していってしまう。時代にマッチした“実質的な科学”を確立させるために、“環境”の実態を知らせる、すなわち教育、アウトリーチと、“新しい科学”のあり方を確立することがこれからは重要な仕事になると思います。こんなことを考えながら、今は“劇場型科学の終焉”の時と言えるのではないかと感じました。もちろん、世の中は劇場型科学の真っ盛りですが、“問題”の実態が理解されたその次に来るべき時代に“科学”も備えておかなければならないと思っています。(2008年2月21日)

衛星によるアマゾンの熱帯雨林の監視

朝日朝刊から。アマゾンの森林衛星監視システムを作り上げたブラジル国立宇宙研究所のヨシオ・シマブクロさんの記事がありました。衛星で森林を監視し、怪しい動きがあれば連邦警察が駆けつけるとのことです。熱帯雨林伐採は05年から減少に転じたそうですが、このシステムが功を奏しているのかも知れません。しかし、森林を違法に伐採しなければならない理由は何か、ここに踏み込まなければ真の問題解決にはならず、力で押さえても憎しみだけが残ってしまうかも知れません。もちろん、ブラジル政府はこのシステムの成果を利用して政策誘導し、熱帯雨林の伐採を減らしているに違いありません。記事にはありませんが、そう信じたい。とはいえ、そうだとすると環境問題の解決において科学技術の役割はどんどん相対化されていくことになります。人が“環境問題の共有”ではなく、“環境問題の解決を共有”したとき、科学技術は今までの圧倒的優位な立場を維持することはできなくなります。“解決を共有する態度”が“環境学”のあり方のひとつだと思いますが、様々な“関係者”の立場を尊重して、“折り合い”を付けることが問題の解決だとすると(もちろん、別の考え方もある)、科学技術のあり方を再考する必要があるかも知れません。技術には思想が必要であり、環境研究は自由にできるのですから。(2008年2月20日)

ふたつの種類の教育

土曜日に採ってきたサンプルの分析をやっていますが、硝酸の濃度が高いため前処理に時間がかかり、焦っています。やることいろいろあるのですが...数分ごとに作業があるので、その間に原田津著「むらの原理 都市の原理」(農文協)を読んでいます。その中で心に引っかかったことを書き留めておきます。教育にはどうもふたつあるということ。一つは、教育しているなんて少しも思っていないのに、いつの間にか、誰かが誰かを教育しているという教育。もう一つは、やたらと教育の目的や方法、技術を問題にして、その方法や技術が目的を達成したかどうかを問うばかりの教育。前者がたくらまない教育、後者がたくらむ教育。なるほど、と思う。初等・中等教育は言うに及ばず、高等教育までが“たくらむ教育”になっている。教育言説が幅をきかせており、教員もちょっと失敗すると叩かれてしまう。こんな中でも卒論、修論、博論は“たくらむ教育”になってはいけないだろう。論文は自分で考えて結論を出さなければならないから。しかし、“たくらむ教育”を受けてきた学生の中には答えが与えられないことを不服とするものも中にはいる。そのような学生に対処する能力は大学にはなく、教員が責めを負わされる。そうならないために“たくらまない教育”も技術が必要となってきたなんておかしなことになってやしないか。(2008年2月19日)

“減肥に揺れる静岡茶”−その後

1月10日に"環境のために減肥か、それとも売れる農産物か"と題して一文を書きましたが、その時は硝酸態窒素問題の新しい側面を見つけたように思いました。この問題は重要ですので、農文協が引き続いて全国の茶農家にアンケートをした結果が現代農業3月号に載っています。その結果は、減肥で茶葉の品質が落ちるという実感を持っている人が60%以上(“部分的にそう思う”も含む、以下同様)、でも減肥している人が約70%おり、一方、多肥に品質向上効果がないという人も40%以上で、この問題はかなり複雑なようです。中には、厳しい経営を迫られている茶商の口実ではないかという意見も。戦前の栽培では畑ごとに異なる管理をしており、野ダメにより施肥していたということも興味深い。ほかにもいろいろ指摘がありましたが、重要なことは土地の地形、地質、土、品種、農家、社会情勢、政策、等々により畑ごとに事情は異なる問題である、という点を認識することではないだろうか。いくら一般論や原理を振りかざしても解けない環境問題の典型がここにもあります。もちろん、現場ではわかっているのでしょうが、研究者や政策決定者はどうか。昔は野ダメを使っていたということは窒素が地域で循環していたということですが、今は肥料の窒素はどこから来るのだろうか。ひょっとして外国か。施肥の結果として公共用水域の硝酸態窒素濃度が増えていることは確か。我が下総台地でもどんどん環境基準を超える地点が発見されています。例えば硝酸態窒素濃度10mg/lの水が環境中にあるということはどういう意味を持つのだろうか。10mg/lという数字はかなり厳しい基準だそうですが、どんどん水域に流入している。総量はどう効いてくるか。一部は脱窒で大気に返るが、それ以外は最終的には海へ流入することになる。途中には県水の取水口も。このことのもたらすものを考えなければなりません。社会のあり方と関係してくると思います。(2008年2月18日)

リサイクルのありかた

朝日の耕論から。いろいろ勉強にはなりますが、結局リサイクルはかくあるべしといった一般論は出てこない。これは当然のことで、地域や個別事例ごとに一番良い方法が異なるから。市場経済、グローバル経済の中で流通システムが複雑になっていることも理由の一つ。多様なものを多様なものとして受け止め、地域ごとに個別の解決策を打ち出し、その経験を積み上げていくのが結局は近道。もちろん難しいことはわかりますが、地域固有の問題が明らかになるだけでも有益だと思う。とはいえ、各地域では努力はなされているはずです。そのような経験を共有する仕組みがもっともっと機能すれば良い。根本的な問題は“問題解決の一般策がある”という思いこみではないだろうか。ディシプリン学者の視点ではなく、包括的に人間を含めたシステム全体を俯瞰するセンスが必要。人がこのセンスを身につけたときはすでに資源は無くなっているということにならなければよいが。(2008年2月17日)

現場感覚を養う

総務しか知らない社長が営業を馬鹿にしたら、その会社は持続可能なわけがない。大学人はどうだろうか。論文数で見栄を張ったり、他分野のやり方を批判したり、...これは総合大学の大学人としての現場感覚のなさと言えるのではないか。そこで今日は現場感覚を養いにフィールドに出かけました。八街、富里方面で採水をしながらいろいろなところに入り込むと、いろいろなものが見えます。堆肥あるいは畜産廃棄物の野積み、大量に投棄された人参、都市と農村のせめぎ合い、等々、それぞれに関連する問題と個別の事情が想像できます。大学に戻り、分析を始めると5倍希釈でも測器のレンジを越えてしまうサンプルがありました。相当高い硝酸態窒素濃度が出そうですが、時間切れで来週へ。ちょうど崔さんが帰省から戻り、フフホト周辺の水を持って帰ってくれました。ノラさんからはボゴール周辺の地下水の測定結果が届き、来月は北京で沈君に硝酸態窒素測定キットを渡す予定です。アジア各地の現場の個別の事情が少しずつ理解できると思います。頭で考えることも大切ですが、身体で体験することが問題理解にとって重要なことを知っている、そして常に総合的、包括的な視点から物事を捉える態度で臨むのが環境学のやり方なのですが、総合大学の運営も同じなのではないか。分野間の競争は、まず分野間の尊重が無ければならない。何か勘違いがあるような気がします。(2008年2月16日)

長いタイトルとふたつの科学

今日は既に存在しない自然科学研究科の教授会、組織は無くなっても学生はおりますので修了判定が行われました。その中で、白木君の論文タイトルが長すぎるという指摘がありました。その理由は、文部科学省のシステムが40字までしか受け付けない、タイトルは抽象的なものが優れていて具体的なものはだめである。そんなことはありません。ここにもふたつの科学に対する無理解があると思います。真理探究型科学では短いタイトルが良いかも知れませんが、関係性探究型科学は多様な要因の効果が積分されて現れる結果としての現象から多様な原因を探す逆問題。真理探究型科学とは全く逆で、タイトルが短くなり、抽象的になるほど、その包含する範囲は広くなり、個人の能力を超えます。そのような現象を扱うには思想がまた必要となる。全体を扱えないので副題も必要となる。ほかにもありますが、主要な理由はこんなところです。環境は典型的な関係性探究型科学であり、自然科学研究科を分割した千葉大学ではますます環境問題解決能力が損なわれている実感を強くしました。一方では学際だの融合などといっているが、根本的な部分での科学思想を問い直す必要があるように思う。(2008年2月15日)

農業は技術だろうか

引き続き卒論発表会の話題です。農業リモセンの専門家の本郷先生の指導による卒論発表を聞きました。卒論としては十分だと思いますが、聞いていて感じたことは“農業は技術だろうか”、ということです。農業とはローカルな営みであり(内山節さんの言い方)、単なる技術では割り切れない地域の特徴に根ざした行為ではないか。技能といった方が近く、農業者は職人といってもよいかも知れない。地域ごとの技能、経験がある。生きるということの本質が関わっている行為でもあり、人が自立して生きるための根本的な行為でもある。技術というと市場経済との関係が想像でき、作物は商品となる。都市的世界のために農業があるというニュアンスも感じるが、そうではない農の営みも当然ある。やはり、“農”もふたつあるということになるだろうか。“ふたつの世界”が現在を理解するキーワードかもしれない。(2008年2月12日)

技術には思想が必要

卒論発表会の一日目が終わりました。今年度からCEReSの一部は地球科学コースに正式に参加し、卒論生もたくさん所属しましたので、研究内容にはどうしても技術的なものが増えています。環境問題に関してはサイエンスだけで問題解決できる時代では無くなったと思いますので、それは良いのですが、どうも技術には思想が必要なのではないかと思っています。技術は必ず時代背景を持っている、すなわち、その技術で支えられる社会のあり方が技術の背景にはあります。高度経済成長期からバブル崩壊の頃まではイノベーションが生活を豊かにする時代でしたが、現在は人々が新しい社会のあり方を模索している時期であり、その社会を支える技術のあり方を考えなければならないのではないか。どうもふたつの社会のあり方が相克しているように感じています。それは市場経済社会と地域の営みを大切にする社会かも知れません。本来はふたつの社会のあり方が協調でき、相互に行き来できる社会が良いのだと思います。ふたつの科学も同じ。(2008年2月12日)

誤謬の訂正

朝日を購読しているので、朝日からの引用が多くなりますが、今日も声欄の江口さんの投書にあった「誤謬(ごびゅう)の訂正」が心に残りました。もとはフロイトとのことですが、そのまま引用すると「人はある誤りを犯したら、その誤りを素直に訂正するのではなく、無意識にもう一度おなじような誤りを犯すことによって、最初の誤りを正当化することがある」ということです。人は自分の発言、行為を正当化する方向に無意識に自分を誘導していく傾向があるのですが、誤りを正当化することにより誤りが誤りでなくなるのは多くの不幸を生むことになります。日本もだんだん訴訟社会になり、法曹人口を増やしていこうという政策もありますが、訴訟社会では“正しい”ということは如何に自分の行為を正当化する論理を構築することができたか、ということになり、訴訟という行為に疲れた段階で真実とは関係なく“不正”とされてしまうことがあり得ます。勢いのあるものが正当とされてしまうことは訴訟だけでなく組織の中でもあります。誤謬の訂正に陥らないためには、自分やものごとを包括的、総合的そして客観的にとらえることができる態度が必要です。大学は本来そのような態度を身につける場所でなければならないはずです。特に“総合”大学では。(2008年2月8日)

敵の名に恥じない者を敵にせよ

朝日天声人語から。ちょっと心に引っかかりましたので備忘録として引用しておきます。“敵の多いことを恥じる必要はない。だが敵の名に恥じない者を敵にせよ、と言ったのは明治の文人国木田独歩だ。「卑しき敵は持ちたるだけにて此方(こちら)の敗北なり」と言葉をつないでいる”。確かに確固たる自分の考えを持っていれば、敵がいても恥じる必要はない。ただし、卑しき敵を持ったら敗北というのはちょっと違うかもしれない。自分が正しいから相手は間違っている、議論する必要など無い、という考えの人間も実際にいます。現実の社会では“自分も正しい、相手も正しい、その間で折り合いをつける”、が日本的なよいやり方だと思いますが。勝手に敵になってしまう人間に出会ったときどう対処すればよいのか。自分の信念を強く保ち、放っておくというのが正しい行為だと思いますが、いろいろつらいこともあります。(2008年2月7日)

幸せな大学人

昨日の書き込みでも使った“幸せな大学人”が、どうもずっと気になっています。自分は自己批判が強すぎるのかも知れない。それがかえって自分を苦しめることになると感じてはいるのですが、性格を変えることは難しいですね。フォードのベルトコンベア以降、人はパーツとなって仕事に生き甲斐を求めることが困難になり、市場経済の発展が個人の豊かさを奪うようなことがたくさん起き、世の中閉塞感が漂う中でも、大学人は研究ができるので幸せ、給料は低くてもしょうがない、と思っている教員がほとんどだと思います(ちょっと前の“地方の私立大学の教員の給料が低い”という記事で、私より高いのでびっくりしたのですが)。年度末の行事が終わり、さてこれからというときに今日はまたどっさり大学の仕事をいただきました。給料をもらっているので仕事は当然なのですが、もうまとまった研究時間をとることは不可能なのか。焦燥感は募ります。評価の仕事は、評価される方も疲れますが、評価する方も大変だと思います。恐らく大学一般の一部に改善を要する部分があり、それをどうにかするために全体のロードが増えている。こんな状況なのか。競争社会の必然として受け止める態度と、これではいかんと思う態度の両方が必要なのでしょうが、とりあえずは前者の態度で仕事をしなければなりません。(2008年2月7日)

雪国にごめん都の3センチ

朝日天声人語、朝日川柳から。まあ、べつにごめんというほどのことではないでしょう。めったに大雪の降らない地域では3cmに備えるコストは高くつきますから。雪国で都市機能を維持できる基盤設備があるということは日本が誇るべきことだと思います。本来は雪が降ったら休めばいいのですが、それができない社会になっていることが問題かもしれません。心情的にごめんといいたくなってしまうのは、常にがんばっていないと申し訳ないような気になる、“心の都市化”が理由なのかもしれません。少し前の朝日の記事で、終電まで仕事をすることを誇らしく思う風潮を批判する投稿がありました。その通りですね。時間通り仕事が終わらないのは、その人の力不足、労務管理がなっていない、競争社会の必然、恐らく後ろのふたつが最大の理由で、誇るべきことではありません。市場経済に翻弄される“心の都市化”から自由になり、ゆとりを取り戻さないといけません。こんなことを言えるのも幸せな大学人だからという批判も聞こえてきそうですが。今日も雪がちらついています。(2008年2月6日)

シミュレーションは生きがいを創出できるか

地球シミュレーターのヘッドの佐藤哲也さんの記事が朝日にありました。シミュレーションにより未来への道筋が見えれば人は未来へ歩む意欲が湧いてくるというが、私はそれだけではだめだと思う。コンピューターによる未来予測は考えられる一つのシナリオにすぎません。未来を決める要因は多様で、相互に関連しあっている。それをすべて認識して、モデル化し、コンピューターに入力する能力は人にあるだろうか。モデル開発者に見えていない世界は再現できない。コンピューターで未来を予測することは人の夢であり、チャレンジですが、現実から離れて夢を語れる時代は20世紀で終わったのではないだろうか。エネルギー問題、水問題、食糧問題、その他諸々の実態をステレオタイプではなく現場の視点から理解し、市場経済、グローバル経済の功罪を冷静に把握し、生活レベルから問題の原因を探ることによって、演繹的な手法の限界と21世紀型の問題解決の方策が見えてくるのではないか。あるべき未来を想定し、現在の生活を修正していく方法はその一つだと思う。世界を単純に捉える見方と、複雑なものとして捉えるふたつの見方があると思いますが、実際にはシミュレーションの結果をよりよく使うためにも、ふたつの考え方の協調が必要。(2008年2月4日)

餃子を応援します

冷凍餃子問題で餃子が苦戦していますが、餃子は悪くありません。そこで、今日の昼は近くのラーメン店で餃子を食べて応援しました。中国産食品に対する忌避意識も高まっており、Yahooにあったアンケート調査(買おうとした食品が中国産だったらどうする?)では私が投票した時点で67%が中国製品を買わないとのことです(私は“値段による”に投票)。この問題は国対国の問題か、企業対消費者の問題か。今の段階で中国を悪者にしてしまうのは拙速であり、問題をはき違えているのではないかと思います。調査が進むに連れ新しい事実もでてきており、今後の展開は予断を許しません。今後、真実が明らかにされれば人は豹変することもあるかも知れません。“北の恋人”の場合は販売再開と同時に売り切れが続出しました。環境社会学の教科書で、“人は豹変する”、という文章に出会ったことがあります。社会調査の経験から出てきた現場の実態です。一般大衆とはこんなものでしょうか。平成の民に対して日本版の魯迅が現れてもおかしくはないかもしれません。(2008年2月4日)

ガザの水源は地下水

朝日「ひと」欄で、ガザでろう学校長を勤めるジェラルディン・シャワさんの記事の中で、「ガザの水源は地下水、電気が止まれば水も止まる」という記述がありました。ということは、ガザの都市機能は持続可能ではないかも知れない。地下水位の低下問題は生じていないだろうか。一般的に乾燥地域では地下水涵養量は少なく、涵養量を上回る利用があれば地下水位は下がり、水利用は持続可能ではなくなる。問題が協調によって解決されるのではなく、水不足やエネルギー・食糧不足に際して、経済的に強いものが圧倒的に有利になる時がガザではすでに来ているのかもしれない。これから世界各地で地下水位低下問題、水不足問題が顕在化してくると思う。問題は身に迫らなければなかなか意識することができない。わかっちゃいるけどやめられないのが経済発展なのでしょう。ただ、世界各地の水問題では対立もあるが、協調も数多くあります。何とかパレスチナ問題も協調策はでないものだろうか。(2008年2月3日)

問題解決「科学技術で」急増62%

朝日朝刊から。環境や食糧などの問題が科学技術で解決されると考えている人が62%にのぼるという内閣府の調査結果。4年前の調査の35%から大幅に伸びているが、「科学技術」の中身について知っている人はどれだけ増えたのだろうか。一方で理科ばなれが進んでいる状況では、単に「科学技術」に対する「期待度」が高まっているだけではないか。誰かが何とかしてくれるだろうという意識はないか。もしそうだとしたらオルテガ、小林信一のいう「文明社会の野蛮人」が増えているということを意味してはいないだろうか。文明社会の野蛮人とは、「我々の生活は科学技術の恩恵を受けて成り立っているが、その背景を知らず、誰のどのような努力、援助、犠牲、投資、等の上に成り立っているかに気がついていない人」と解釈していますが、このような人が増えると文明は衰退に向かうという。現在起こっている環境問題、食糧・エネルギー問題の実態を知ると、「科学技術」による問題解決はチャレンジであり、楽観的な見方に過ぎないのではないかという懸念を私は持っています。人間社会の将来については経済成長、イノベーションだけではなく基本的な価値観を見直すことにより考える時期が来ているのではないだろうか。(2008年2月3日)

教育再生会議−安倍氏とともに去りぬ

朝日朝刊社説から。教育再生会議の提言が心を打たないのはなぜだろうか。その理由の一つは現場感覚のなさではないか。座長の野依さんは成功した研究者ではあるが、教育者としての力量はわからない。成功した企業人、成功したスポーツ選手、等々皆さん成功者です。一方、教育は成功者として名を馳せることは無いかも知れない地道な行為です。学生、生徒一人一人に個別の事情があり、個別の事情に深く関わらないと問題を理解することさえできない。一人の教育指導には数年かかることもある積み上げ型の行為で、成功が保証されているわけではない。成功の陰で真の問題は隠されてしまう。現場の声を大切にし、経験を共有する仕組みが必要。もう一つの理由は根本的なもので、目指す日本の社会のあり方に関わるもの。経済成長、イノベーションにより問題を解決できる人材育成が目的なのだろうか、そうではない方向も選択肢に入っているのか。日本は経済成長でしか安心社会は築けなくなってしまったのだろうか。そろそろ“成長”の呪縛を解かなければならない時代が来ているのではないだろうか。(2008年2月1日)

東大論文、1本1845万円 国立大でコスト最大級

朝日の朝刊から。東大はすごいですね。ただし、この数字だけでは何もわかりません。コスト最大級という新聞の副題からは、無駄があるんじゃないの、といったニュアンスも感じられますが、そんなことはありません。東大は世界の誰もがそう思っている、その分野の研究者の誰もが目指している課題を圧倒的な資金力とマンパワーで解決することを役目とすると、このことは当然です。国際政治の場、国際学会の場、国際世論の中で日本の存在感をアピールできるコンテンツを提供することが東大はじめ旧帝大の役目なのではないか。地方大学で同じことを目指しても良いが、国力低下の時代は選択と集中が必要であることは私も認めます。分野、課題によりますが。地方大学はアイデアで勝負しなければなりません。強い個性を持ち、低コストで良い研究を継続しなければなりません。そして、このことの価値を国民に知らせる必要がある。だから、教育、アウトリーチはますます重要であると考えています。それにしても、私に1845万円あれば...。(2008年1月31日)

黒いクッション

うちに黒い三角形の小さなクッションが転がっています。これは父の腰の下に入ったり、泊まりがけで介護するかみさんや母の腰の下で大活躍をしたクッションです。ハイテク素材だそうな。今はぼろぼろになって病院から戻り、役目を終えたという感じで静かに転がっています。このクッションは数年前に私が腰を痛めたときに研究室の学生の皆さんが贈ってくれたものです。この一年半の緊張も解けて、何となく気が抜けているのですが、がんばってくれたクッションにどう報いたらよいか。思案中です。(2008年1月28日)

父の葬儀を終えて

あっという間に父の葬儀が終わりました。もっと長く生きていて欲しかったと思いますが、日本人の男子の平均寿命でしたので宿命と思うしかありません。父は昭和3年に新橋のガラス問屋の長男として生まれ、そのまま何の不自由もない一生を送るはずでした。芝中から東京高校に進学し、恐らく戦争が無ければ父は“学者”になっていたと思います(これが私の人生に影響を与えたと思います)。しかし、戦争が人生を変えました。戦後の混乱期でしたが、習志野原に入植するという決断は並大抵のものではなかったはずです。習志野における暮らしは当初は厳しいものであり、その日の食材を買う金が無かったこともあったという話を聞いたこともありました。そんな中でも良く勉強をしており、世の中の流れを正しく見極めていたと思います。そして、重要な決断を何回もしています。私の記憶に残っている最初の生業は養鶏業で、その後は畜犬業を営みました。チワワのブームを先取りしていましたが、これは早すぎたようです。その後は航空貨物の運送業に関わりました。50歳で引退し、悠々自適の生活に入るという計画は、私が大学院に進学したため、遅れてしまいましたが、計画通りの人生を送ったといえます。世の流れを読み、要所要所で決断をする、こういう父の生き方は私が尊敬するところですが、なかなか超えることができません。ただ、父は“自分は癌にはならない”といっておりましたが、これだけは読み間違えたと思います。近代社会で暮らすには、そして50歳を超えて生きるには人間ドックはもはや不可欠です。皆さん、どうか健康管理は怠らないよう。(2008年1月26日)

霊的な世界との関わりと安心

今日は私の50回目の誕生日でした。そして、今日が父の命日になりました。近代科学や医学の進歩で人の寿命は延びましたが、その最期は安らかなものではなくなってしまったのかも知れません。まだ人と自然の関係が良好だった時代は死は恐怖ではなく、安らかに死を迎えることができたようです。上野村に暮らす哲学者の内山節の著作からの受け売りですが、人は自然との関係を修復し、霊的な世界との関わりを取り戻すことによって安心を得られるのではないか。祖母の命日は私の息子の誕生日です。娘は母方の祖母の命日に生まれました。先祖たちのコントロールがあるのかもしれません。そんなことあり得ないと考える方が大半だとは思いますが、先祖や様々な霊が見守る中で暮らすという意識が安心に繋がるのではないか。経済成長、イノベーションにより問題を解決しようとする現在の日本のあり方は真の安心社会に結びつくのか。ほんの半世紀前までの寿命であった50歳を迎えて、新しい社会のあり方について考えていきたいという思いを新たにしています。(2008年1月23日)

ノラさん来日に想う

卒業生のノラさんはインドネシア、ボゴールの農業気象・水文研究所に勤めていますが、共同研究の打ち合わせのため今日から一週間研究室に滞在します。ボゴール周辺の河川水、井戸水を持ってきて頂き、これから分析を始めますが、、研究すべき課題が見つかると思います。中国の沈君からは"ちいさいアジアワークグループが見えてきますね"とメールがありました。この“ちいさい”というのが私は好きです。“望小達大”は野口英世の書にある言葉ですが、私はこうありたいと常々思っています。博士課程3年の白木君は今日が審査会、何とかOKになりました。博士の学位も8人目となる予定で、オマーン(アスラム君)、中国(沈君、デリヌルさん)、インドネシア(アグン君、ノラさん)に拠点ができつつあります。ヨルダン(アハマド君)ももう少し。郭君(韓国)もがんばって欲しい。もちろん原田君も。相互の連携がこれからは重要になってきますが、核にならなければあかんな、と気を引き締めています。(2008年1月21日)

大学の教員は研究者ではあるが、教育者ではない

教育実習の成績を付けることになり資料を読んでいますが、教育者になるためのステップを垣間見ることができ大変勉強になりました。読みながら表記の書き込みを思い出しました。これは山梨大学の“ちゃん付け減給”の件に関するブログで見つけたものですが、まさにその通りです。大学の教員は研究者としての訓練は受けるが、教育者としては何も訓練されていない。しかし、今の大学には豊かな時代に育った若者が入ってくる。価値観の相違を意識し、間違った価値観を見極める能力が教員に求められる。しかし、総合大学では分野ごとの様々な価値観を包含する教育理念を打ち出すことができずにいる。権力は“言説”にとらわれて、権威を取り繕うことしかできない。大学にも教育指導に関する様々な経験を共有する仕組みが必要なのですが、研究者のプライドが邪魔をしているように見えます。少なくとも自分の研究室では学生に何かが残るような指導をしたいと思いますが、もうすぐ卒論、修論の締め切り。今年も多くをやり残したことを悔いつつ、追い込みに入ります。(2008年1月20日)

東大、留学生向け新拠点

朝日朝刊から。東大がアジアを調査分析する大学院の新コースを設けるとのこと。我が千葉大学もアジアは重要なターゲットであり、多数の留学生を受け入れている。さてどうするか。まず、留学生の卒業生を輩出している実績ある分野を支援する必要があろう。足の引っ張り合いをしている場合ではないのである。それはさておいて、東大では博士課程だけではなく、修士課程も重視している点が手強いと思いますが、千葉大ではさらに修士課程を重視したらどうだろうか。そのために、留学生の入学試験を日本語のみにして、英語は課さない。日本留学への強い希望を持っている学生、具体的な解くべき課題を持っている学生、故郷に貢献したいと思っている学生を千葉大では受け入れる。日本に留学したくて一生懸命日本語を勉強し、そして日本で学んだ知識で故郷に貢献したくて入試にチャレンジしたが英語で不調に終わった学生、英語が理由で進学をあきらめた学生は私の知る限りでも複数おります。彼らがチャンスをつかむ場を千葉大学で創れないだろうか。こういう施策が必要なのは私の分野が環境学、現場学、いわゆるモード2科学でディシプリン科学ではない分野だからですが、学問分野、学部・研究科を越えた留学生のための枠組みを千葉大学で何とか作れないものだろうか。そして“研究”の世界だけでなく、生活レベルからアジアに貢献する。これが何者にも負けない強い千葉大学を創り出すと思うのですが。(2008年1月20日)

ローカルな営みとグローバル市場経済

農文協の「市場経済を組み替える」を読み始めましたが、その序で内山節さんは「ローカルな営みと世界市場を前提とする市場経済との間に、いかなる関係を作り出したらよいのか」と問題提起しています。まだ、読み始めたばかりなのですが、これこそが地球環境問題と対峙するときの最も根本的な態度でもあると思います。問題は地域における人と自然の関係の問題としてローカル性、地域性を持って生じますが、様々な事例はそれがグローバル経済と関連していることを示しています。珊瑚礁の都市化と観光、プランテーションによる森林伐採・森林火災と製品輸出、開発と災害、等々。ここを見ずして問題解決はあり得ない。うちのセンターでは大学経営陣から地球温暖化をやったらどうか、と言われ続けているのですが、地球温暖化研究はけっして格好の良いエリート研究課題ではない。“地球温暖化問題”としての本質を知ったらどう思うだろうか。地球温暖化も問題として捉え、現場検証を行うと別の側面が見えてくる。研究は研究者が自由にやれば良い。(2008年1月19日)

空間の都市化、時間の都市化、人間の都市化

もう15年以上も前にヒートアイランドの研究をやったことが一つの発端で、近藤研では都市が重要な課題となっています。今年も白木君が都市に関する研究で学位をとりますが、来週が本審査会ですので最後の発表練習をやりました。彼の論文では“都市化”を扱っていますが、たまたま読んでいる「都市にとって自然とはなにか」(農文協、(財)余暇開発センターの渡会さんの章)で“空間、時間、人間の都市化”という考え方に出会いました。今までは“空間の都市化”を中心に考えていましたが、人の時間の使い方の都市化、人間のライフスタイルの都市化、複数の観点が考えられます。今まで何となく感じていたことに関して具体的な文章に出会った時の“あ、これだ”、という感覚をまた体験しました。(2008年1月18日)

全国共同利用研究施設の役割−CEReSの場合は−

学術審議会では国立大学附置全国共同利用研究所・研究センターのあり方について議論されていますが、共同利用施設側の協議会から出された要望書が回覧されてきたので思うまま書いています。その重要な部分は、全国共同利用研究所・研究センターとして国際的な信頼関係を保つために長期的な財政措置が必要ということです。確かに、ビッグプロジェクトや国際関係の中での立場を強化することも必要ですが、別の目的を持つ共同利用研究センターもあって良いのではないか。莫大な国家予算をかけて取得される衛星データはもっともっと利用されたほうが良い。そして、それを必要とする方々、使えるのだけれどもリモートセンシングの存在を知らない方々がたくさんいる。一方、リモートセンシング分野でも自らの扱う画像がさらなる価値を持っていることに気がついていない。リモートセンシング画像と潜在的なユーザーを繋ぐ機能を強化できないだろうか。12月16日にも書きましたが、1970年代に故大矢先生はランドサット画像を頼りに水系網から地盤変動を推定し、バングラディシュの道路建設における渡河地点を決定した。画像と各分野の知識の総合により新しい知識を生産する、まさにモード2科学の典型的な成果です。しかし、為政者はモード1的志向が強い。時代は変わりつつあるのに。(2008年1月17日)

阪神大震災から13年

習志野に住んでいますが、あの日の明け方、地震で一端目が覚めました。その後、再び眠りに落ち、起床後テレビで大きな地震が発生したことがわかりましたが、時間が経つにつれ被害の大きさが明らかになっていった。あれから13年が経ちました。この間、大地震は何回も起きましたが、体験の記憶を共有することはなかなか困難です。常に思い出させるような刺激を得ることによって防災意識も高まるかと思い、始めた防災に関する講義や講演ですが、この一年で500人くらいに話を聞いていただきました。役に立つかどうか、検証のしようもありませんが、地道な活動が重要だと思っています。数日前の朝日の記事で、新しく神戸に来た住民が防災訓練を嫌がるという記事がありました。もうしばらく地震は起こらないので、訓練など必要ないと(そんなことないのですが)。一部では防災意識は高まっているのですが、どんどん記憶は薄れており、正しい知識も伝わらなくなっている。人間とはそういうものなのでしょうが、あきらめず個人ができることをやることが大切。私の場合は教育を通じて記憶がとぎれないようにするということでしょうか。(2008年1月17日)

八千代高校模擬講義の感想文が届きました

昨年12月14日に八千代高校で開催された「上級学校模擬講義会」では「衛星から見た環境変動」と「土地の性質を知り、暮らしを守る」というタイトルで講義を二つ行いましたが、生徒さんによる感想文が届きました。それを読んでいますが、私の意図がけっこう伝わったかなと思います。うれしいと同時にちょっと以外でもありました。私の話は難しいとよく言われますので、練習も兼ねてここ1,2年は積極的にアウトリーチ活動に励んでいたのですが、私も経験値が上がってきたのか。これまでの経験では、大人に難しいと言われることが多く、若いほどすんなりと受け入れてもらえるような気がします。なぜか。ひょっとしたら高等教育ではディシプリン教育を偏重しがちで、歳が行くほど関係性探究型科学、モード2的な科学は受け入れにくくなるのか。不明ですが、興味ある課題です。また、大学教員の一言が頭に残るということは良くあるのですが、今回の感想文では複数の生徒さんが以下の二つに強い印象を受けたようです。地形変化について「人がいれば災害、いなければ自然現象」、また都会の生活が十分なコストをかけることによって守られているというコンテクストの中で使った「文明社会の野蛮人」という話。自分の生活は人とは無関係ではなく、誰かによって守られている、という意識は安心社会構築のために大切なことだと思います。『「人間が住んでいる地球ではなく、地球に人間が住んでいるんだ」と感じた。』と書いてくれた生徒さんがいましたが、これはいい表現です。私の話の核心が伝わったということでとてもうれしく感じています。これは教員冥利に尽きますね。(2008年1月13日)

ターミナルケアについて考える

これはいくら考えても結論はでそうにありません。人が死ぬということは決して格好の良いものではなく、悲しくつらいもので、最後は朽ち果てる。これはしょうがない。また、倫理的、道徳的な美しい行為を生きている者に強制してもいけない。そういう覚悟を持って私は余生を送りたい。病院に父を見舞って思いました。しかし、安らかな死を迎えられないのは近代社会の帰結ではないか。やはり分断がキーワード。家庭と職場の分断、人と自然の分断、等々。人は自然の持つ霊的世界とともに生きることで安心を得られるのではないだろうか。私は都会(に近い郊外か)に住んでいますが、国土形成計画で議論されている二地域居住という考え方もまんざらではないな、と思っています。内容はもっと議論しなければなりませんが。(2008年1月12日)

シュマイザーさん夫妻の「ライト・ライブリフッド賞」受賞

同じく現代農業2月号の「自家増殖の規制は作物の遺伝的多様性を貧困化させる」という生井先生の記事から。カナダのシュマイザーさんは全く身に覚えがないにもかかわらず、モンサント社のGMナタネを違法栽培しているとして同社から告訴され、有罪とされたとのこと。これは1998年。故意ではなく自然交雑でGMナタネ遺伝子が混入しても、長年自家採種してきた種を使えなくなってしまった。超巨大バイオ企業は一面では緑の革命に貢献し、世界の食糧増産に貢献してきたことは確かだと思いますが、この裁判結果は理解に苦しみます。なぜ、混入したGMナタネの管理責任は問われないのだろうか。畑でこっそり遺伝子混入操作をすればモンサント社は世界の農業を支配することが簡単にできてしまいます。しかし、10年間にわたりモンサント社との裁判で戦った勇気に対してシュマイザーさん夫妻は「もう一つのノーベル賞」と呼ばれる「ライト・ライブリフッド賞」を2007年に受賞したとのこと。「もったいない」で有名なノーベル平和賞受賞者のマータイさんも受賞しています。なお、この件について“新庄水田トラスト”のホームページに詳しい説明がありました。もっと深く調べなければと思いますが、ここに記して備忘録とします。(2008年1月11日)

環境適応型、地域適応型農業の危機かもしれない

現代農業2月号に「自家増殖の規制は作物の遺伝的多様性を貧困化させる」という生井先生の記事がありました。そこに記述されている事実は日本の食糧安全保障を脅かしかねない重要な出来事であるように思います。それは、2007年に農水省は大きく舵取りをして、近い将来には農家の自家増殖を原則禁止する方針が明確になったということです。これは種苗業者の知的財産権を重視するということですが、モンサント社のような超巨大バイオ企業に農業を支配されることに繋がりかねないことを危惧します。日本の種苗業者もますます厳しい競争にさらされ、日本の農業者や地域との分断が進まなければ良いが、と思います。この政策には現場の感覚は感じれらず、グローバル経済への眼差しのみが伝わってきます。20世紀後半の緑の革命から何を学んだのか。人口減少、高齢化社会、国力の低下する時代を迎えようとしている日本が選択すべき正しい道なのか。フィリピンの国際稲研究所でも最近は在来種の研究に力を入れているという記述を読んだことがあります。地域の風土に合った地域の種を守り、育成することが気候変動にも対応できる食糧の安全保障に繋がると私は考えます。将来の安心社会は人と自然の分断を修復することによって作る。農業は安心してできる大切な生業にならなければならないと思います。(2008年1月11日)

環境のために減肥か、それとも売れる農産物か

現代農業1月号に『「減肥」に揺れる静岡茶−あなたはどう考える』という記事がありました。お茶は窒素が多いほど品質が良くなるそうで、お茶の栽培地域の地下水や河川水の硝酸態窒素汚染は結構有名です。近年は環境に優しいということで、減肥に取り組む農家も増えてきたのですが、「減肥が茶の品質を悪くしている」との評価が出てきて値段に響くようになってきたようです。減肥のお茶は味は問題ないのですが、香気と水色の青さが弱くなり、評価されなくなる、すなわち消費者の好みに合わなくなるとのこと。いろいろ議論はあるようですが、増肥が必要と考える農家も出てきたそうです。増肥は“環境”には悪いですが、農家の収入増に繋がるかも知れない。ここにも典型的な環境問題を見ることができます。“環境”を重視するならば農家だけでなく、消費者も巻き込んだ運動、香気がなくとも味が良ければ購入する消費者を増やさなければなりませんが、そんな簡単なことではない。環境問題の解決を個人の倫理観に頼っても問題解決はほど遠いでしょう。困難ですが、“環境”の見方、ここでは地域の環境−農家−消費者の関連性を理解する見方を教育を通じて醸成していくことが私にできることでしょうか。(2008年1月10日)

農水省食糧安全保障課を設置

朝日の記事から。小麦の輸出規制をしている国はロシアをはじめ7カ国あるそうです。小麦の価格も高いどころか、現物の確保も難しくなっているとのこと。そこで、農水省では新しく表記の課を設置することになりました。日本の食糧自給率はカロリーベースで40%が続いていましたが、45%に引き上げる目標を設定したにもかかわらず平成18年度はとうとう39%まで落ち込んでいます。これは結構深刻な事態だと思います。日本は穀物の大半をアメリカから輸入していますが、アメリカではバイオ燃料への転用が進んでいます。これはアメリカの食糧自給率が100%を超えているから可能なのであり、穀物の輸出よりバイオ燃料の方が儲かるとなれば日本は危うい。アメリカの農業自体、ハイプレーン地域では水不足により減退する可能性があります。石油が高くなれば農業コストも上がります。アメリカから牛肉輸入を停止したときに、うまくアメリカに感謝されるような再開の仕方はできなかったものか、悔やまれます。日本は飽食にうかれている場合では無いのです。現在95%の米の自給率を何とか保つこと、できれば100%超、これ以上農地を潰さずに野菜を収穫できる土地を確保しておくこと。ソ連邦崩壊後のキューバの経験が参考になります(都市園芸で野菜を自給した)。食糧を確保することが国を保つ要でしょう。まずは我々が食べ物を粗末にしないことから始めなければなりません。(2008年1月8日)

現代農業定期購読開始

農文協はおもしろい出版社でずいぶん本を買い込んでいますが、とうとう月刊「現代農業」の定期購読を始めました。昨年はベランダ園芸をはじめ、まあまあの収穫がありました。今年は畑を始めるつもりです。そんなことも定期購読の理由のひとつですが、農村ではどんなことが考えられ、実践されているのか、知りたいと思ったことも重要な理由です。最近は研究室では都市に関する研究がひとつの柱になりましたが、都市は農村あるいは地方と一体として考えなければならない、と思っておりますので情報源の一つとして読み始めたわけです。住みやすい社会の構築は分断の修復から、そして都市と農村もその対象と考えています。なんてまじめなことを書いてしまいましたが、現代農業は読み始めると内容は多様で非常におもしろい。少しずつ紹介していきたいと思います。(2008年1月7日)

カナダのオイルサンド

石井吉徳先生の「オイルピークが来た」を読んでいますが、カナダのオイルサンド開発の現場を見たくなりGoogleEarthで探してみましたら、ありました。北緯57度、西経111度30分あたりを見てください。UNEPのATLAS OF OUR CHANGING ENVIRONMENTのアイコンにAthabasca Oil Sandsとあります。オイルサンドは石油のなり損ないといってもいいもので、生産には大量の天然ガスと水を使います。さらに、景観の破壊が著しい。現在はコストの面では成り立っているようですが、環境コストも含めて考えるとEPR(Energy Profit Ratio、生産に必要なエネルギーと取り出されるエネルギーの比、出力エネルギー/入力エネルギー)は決して高くありません。持続可能ではないということ。詳しくは石井先生の著作やホームページを参照してください。私はGoogleEarthにあるこういう機能を自分で作ってみたかった。ImageWebServerを使ったシステムはおぼろげながら形が見えてきましたが、まだまだ資金もマンパワーも投入不足です。そこに入れる情報はWEB2.0の考え方でユーザーとのコミュニケーションに基づいて増やしていくのが良い。まだ間に合うと思うのですが、自分の力に限界も感じています。こういうことは絶対に重要なので、覚悟を決めて取り組まなければならないのですが、やりたいこと、やらなければならないことがたくさんあり、なかなか進みません。何でも一人で抱えるところが私の性格上のネックなのでしょう。なお、カナダではボレアル林の伐採地をたくさん見つけることができました。これも重要な認識です。(2008年1月6日)

バックキャストーその2

原田君が都市緑化技術という小冊子に研究室の紹介記事を書いてくれました。その冊子の巻頭言で京大の森本幸裕先生(前は府大ではなかったかな)が、バックキャストについて書かれていました。私も2007年8月19日のコラムではバックキャスティングとして紹介しました。これは、森本先生の文章によると、まず大まかな条件をもとに望ましい未来を想定し、それと現在のギャップを把握し、その未来像に至るシナリオを想定し、その実現可能性や計画を検討していく方法論、です。この考え方は1997年にスウェーデンの“Sustainable Sweden 2001”レポートをまとめる際に使用されて知られる様になったということです。私も同様な考え方を未来を展望する三つの方法の一つとして以前から講義で使っています。そのもとは恩師である榧根勇先生が1997年のさらに10年以上前から言っておられたことです。榧根先生もどこからかの引用なのかも知れませんが、話を伺った当時は、多様な価値観のもとでは望ましい未来など想定できない、という考え方が大半であったとのこと。時代が変わると前の時代で困難とされていたことも一躍表舞台に出てきて、最初に思いついた人は忘れられてしまうのは寂しいですが、時代は変わりつつあるという実感がますます強くなってきています。この流れを一過性のものにしてはいけません。(2008年1月5日)

2008年を迎えて

正月は普段と変わらない生活をしたので特に感慨はないのですが、今日は一応初仕事になります。今年は今までいろいろ考えたことの実践の年にしたいと思っています。それにしても千葉の冬の青空は良い。気温も“さむあったかい”という感じがいい。この風土が私の中に染みついています。今年はもっと千葉について理解を深めたいと思います。(2008年1月4日)

寒中お見舞い申し上げます

 ご丁寧な年賀状を頂き、ありがとうございました。ご挨拶が遅れましたことをお詫びいたします。
 今年は私もとうとう50歳になります。まだ生き様を模索している未熟者ですが、そろそろ死に様も考えておかなければと考えるこの頃です。
 安心して死ぬために必要なことは、自然との関係をうまく保つことではないだろうか。大学人生後半は人と自然の無事について考えてみたい。
 今は地球温暖化が世の中の関心事ですが、防止を唱える前に、問題の現場で人と自然の関係がどうなっているか、近代化やグローバル経済との関係がどうなっているか、見極めなくてはなりません。
 環境問題と環境研究、結構違いますね。問題解決は結局折り合い。サイエンスはけっして万能ではなく、ここに文理融合の実践の可能性を見ています。
 環境と教育は似ている。どちらも多様な対象の個別性を扱います。教育は大学の本務なのですが、うまく機能していないように感じます。
 真理探究型科学と関係性探求型科学、環境や教育は後者の考え方が重要。小さな成果を積み上げる科学。こういう科学のパラダイム確立が必要。
 こんなことを考えているこの頃です。(2008年正月休みに)