千葉大学公正型社会研究主催 第2回国際温暖化対策研究会 2023年7月3日
もと理系の視点から見る地球温暖化問題とひとの対応

 千葉大学国際高等研究基幹の研究支援プログラム「公正社会研究の新展開-ポストコロナ時代の価値意識と公共的ビジョン」からお誘いがあり、標記の題目でオンライン講演しました。 地球温暖化(気候変動)は私の直接の研究テーマではないのですが、地球温暖化問題は地域における人、自然、社会の関係性に関わる問題と捉え、関心を持ち続けてきましたので、これまでに考えたことをまとめて発表しました。

 当初提案のあった題目を少し変えましたが、まず理系”を“もと理系”としました。地理学はその中に自然地理と人文地理を包含し、世の有り様を包括的に捉えようとする学問ですので、歳をとるにつれ、自分のなかから理系という意識は薄れてきました(若い頃は経験が足りないので、自分が自信を持って専門は地理学といえるようになったのは50歳過ぎです)。“元”理系という提案もあったのですが、漢字の“元”は規範的な意味を帯びるようになり、現在は理系ではないという意味になるように感じます。そこで、大和言葉の“もと”にしました。

 また、“ひとの対応”の部分は“対策”だったのですが、漢字の対策は厳密な計画を立て、実行しながらPDCAサイクルをまわすといったニュアンスが感じられます。自分のなかの地球温暖化問題は“ひと”の問題であり、生き様とも関わります。そこで、“ひとの対応”としました。“人”は規範的な人で、数字と属性で表され、科学の言葉で語ることができるようになります。しかし、目の前にいる人は顔が見え、名前があり、暮らしがある“ひと”です。そこで、“ひとの対応”としました。

 講演の内容は文字起こししてくださるということですので、まずは講演資料を発信します。YouTubeにもアップして頂きました。定年後は安心して強気の発言をしていますので、意見・異見がございましたらお寄せください。

講演資料(PDF) YouTube(Youtubeは新しいTAB、Windowで視聴してください)


総合討論から(チャットで寄せられた意見、コメント、質問に対する回答)

 理系に欠けているもの

 それは歴史認識ではないか、というコメントを頂きました。私も同感です。現在の科学の状況がどのような歴史的過程を経て成立したのか、どんな背景のもとでできあがったのか、について知ることにより、自分の研究を現社会のなかに位置づけることができます。“科学とは真理の探究だ”といった言説についても検討を加えることができるでしょう。千葉大学では科学史、科学論を必修として学ぶ場が少ない(ない?)のではないか。留学生の書類をみるときちんとカリキュラムに組み込まれていることに驚くこともありました。その遠因は欧米の科学の成果だけを取り入れた明治に遡ることができるかも知れません。低成長時代は哲学や思想が大切な時代だと思います。

 文系・理系のコミュニケーションにおける課題

 社会観、人間観、自然観、地球観といった考え方の違いに課題があるように思います。実際に、理系と共同研究の経験がある環境社会学者に、価値観の違いを理系になかなか認めてもらえないことがある、とのお話を伺ったことがあります。文理融合・文理協働のためには講演のなかで触れた意識世界を拡大して重なりを増やすことが必須だと思います。それが困難なのは、現在の学術の評価制度をはじめ、いろいろな要因がありそうです。そもそも環境(人、自然、社会の関係性)を論じる場合、理系、文系を超えた学術と社会の枠組みが必要なのは当然です。文理の融合、協働が達成できるかどうか、日本の社会が問われていると思います。

 文系・理系の融合は難しいのではないか?

 文系・理系にはそれぞれ思考の癖があるため分断が生じるのではないか、というコメントがありました。私もその通りだと思いますが、分断が生じているのは 講演のなかで触れた「ノーマル・サイエンス」の領域の内部に過ぎません。問題の現場、当事者から見たらアカデミア内部の分断であり、問題の外側における分断に過ぎません。問題の解決の達成を共有していれば、文理の分断なんて言っていられません。協働あるのみです。それが「問題解決型科学」のあり方だと思います。

 人社系がフォーキャストで理工系がバックキャストという考え方に対する異論

 もちろんアカデミアの現状は多様で一概に二分はできません。上記の考え方は近藤の実体験において感じたことであり、それは近藤の意識世界とも関係しているかもしれません。問題が生じている現場、現実を直視すると視線方向は現実にならざるをえないことは確かだと思います。 環境社会学者の故飯島信子先生は、問題の現場に、心がかすめ取られる直前まで深く入り込み、問題の理解を試みると述べています(インタビュー記事、現在はリンクなし)。現場と深く関わる分野では、まず現実をよくする、地域をよくするというアクションが優先されます。だから現在を理解した上で未来を展望することになります。一方、現在の暮らしに大きな問題がない方々はより強く未来を考えることができるでしょう。バックキャストの傾向が強くなるといえます。人々はけっして平等ではありません。運・不運もあります。それを乗り越えて公平な社会を構築するためには、個々の人の事情を見通す広い意識世界をもつ必要があると思います。

 バックキャスティング型政策が必要とのコメント

 確かにその通りです。 よりよい未来のあり方を想像することこそ、実現の第一歩です。近藤はこれまでに環境問題(公害)、事故、災害の現場を見てきましたが、そこには現在の暮らしを壊された多くの人々がいます。それらの人々にとって現在を立て直すことが最優先課題です。その先に未来があります。未来を語ることができるということは、現在の暮らしがうまくいっているということでもあると思います。①過去から現在(歴史認識)、②現在から未来、③未来から現在の三つの視線方向を合わせることが未来のデザインにおいて重要ではないでしょうか。

 人工衛星による地球観測は地球温暖化問題の解決にどのような貢献をしたか

 リモートセンシングで可能なことは、地球温暖化(気候変動)のメカニズム研究を支援することと、地球上で起きている事象のモニタリングです。この点の貢献は大きいと思います。しかし、地球温暖化問題に 対応するためには学術のあらゆる分野およびステークホルダーの協働が必要です。この点はほかの細分化された学術分野と事情は同じだと思います。ただし、リモートセンシングはコストがかかります。リオ+20で問題になったのは、コストに見合う成果が出ていないことだったと思います。この点は研究者として忸怩たる思いはあります。

 講演でお話しした“問題”の事例について

 私も結構踏み込んだ話をしたので質問、コメントをいくつか頂きました。各事例の背景には様々な地域ごとの事情があるということをご理解頂きたいと思います(そこが地理学者として重要だと考えるところです)。問題の理解と解決をめざす科学では、従来型のエビデンスと厳密な論理で結論を導く科学の方法では解くことが難しいのではないか。地域ごとに観察を深め、様々な関係性の探索と歴史軸への対置を通して仮説を導く必要があります。地域ごとの成果は比較研究、メタ解析を通して、より高位の課題にアプローチすることができるでしょう。

 大学の研究者は問題に対してどのようにアプローチしたらよいか

 議論を深めなければならない重要な課題だと思います。簡単に答えることは難しいのですが、まずは問題の現場に飛び込む必要があるでしょう。そして、スライドの11枚目にあるように、自分のステークホルダーは何なのか、誰なのかを認識する必要があると思います。ステークホルダーの階層性の全体像を見極めることによって、問題解決のなかにおける自身の研究の役割を位置づけることができると良いと思います。

補足

(スライド15枚目) 環境問題への関わりを深めるなか、だんだん学術のあり方について考えるようになりました。“科学は真理の探求だ”というのがノーマル・サイエンス、国の威信や経済成長のための科学が“課題探求型科学”、そして問題の解決を協働で達成しようとする“問題解決型科学”。現状ではこの科学の担い手は科学者だけでなく、市民でもあり、トランスディシプリナリティの場でもある。問題解決型科学は連帯につながっているが、連帯部分に市民が入り、4つの頂点を持つ四面体を構成するのが本来の姿だと思う。4つの科学がうまくつながっている状態が理想形なのである。

(附録のスライドから) 問題を地域における人、自然、社会の関係性に関わる問題とすると、研究の場は地域となる。20世紀までの科学の場では、普遍性の探究をトップレベルの目的に置いたため、地域における研究は格下の事例研究と見なされることが多かった。しかし、地域を扱わなければ問題は理解することさえ難しい。 日本の公害を思い起こしてほしい。まず地域で問題の解決の達成を共有した研究を推進すること。次に、比較研究やメタ解析を行うことによって、より高レベルの課題に接近することができる。これがローカルとグローバルを繋ぐ道である。最終的には価値や哲学の領域に到達する。世界が低成長の基調に入っている現在、これはめざすべき道である。

(附録のスライドから) 社会の変革は、社会のルールの変革つまり政策の実施ではないか、とのコメントを頂きました。確かにそうだと私も思いますが、政策が定着していく背景には人の精神的習慣の変容があり、思想や哲学が先行している事例が多いのではないだろうか。大衆が問題を抱え、どうしようもなくなったときにその底流を加速させる役割が科学(学術)にはあるのではないか。だから、現実を見つめることが大切になります。
科学者と政策の関係についてはPielke(2007)の類型が参考になります。現場に入り込んでいる科学者は③論点主義者(Issue Advocate)の立場で政策と関わっているのではないでしょうか(普通の科学者は①か②)。地球温暖化問題については論点が普遍的なのかどうか、地域ごとの特徴に応じてしっかり吟味しておかなければならないと考えています。欧米主導の考え方の背後には宗教に基づく価値観がないか、それは日本で受け入れられるものなのか、受け入れるとしても日本が世界で尊敬されるためにできることがほかにあるのではないか。こんなことを④誠実な仲介者と③論点主義者の間を行き来しながら考える必要があると思います。

(附録のスライドから) 環境問題や世の中の有り様に関する議論、討論や対話を見聞きしていると、人および、人の世代による意識世界の違いを強く感じます。私は昭和33年、高度経済成長が始まった頃に生まれ、経済成長の果実を享受した世代といえます。現首相をはじめ、同世代の政治家もたくさんいますが、この世代の意識世界は経済成長期に形成され、それが現在まで継続している人も多いと思います。経済成長によって問題を解決しよう、世界のなかのエリート国家になろうという方々です。しかし、この世代はバブル経済崩壊後の低成長時代あるいは縮退社会も経験しています。現実を直視すると成長以外の未来もあり得るのではないかと思わざるをえません。現在は様々な考え方が錯綜する時代だといえます。だからこそ、未来に対する哲学をしっかりもつと同時に、ほかの主張をする方々の意識世界を想像し、なるべく尊重し、協働して未来を創り上げる必要があると考えています。その協働を阻むものが研究者の評価基準ではないかと思います。アカデミアが社会の変革に参加するために、乗り越えなければならない壁です。

(附録のスライドから) 2011年春季の学術大会は多くの学会が中止とするなか、農村計画学会は4月7日に開催をしました。その際、会員のコメントを集めて出版したのですが、私が思い出したのは栗原康著「有限の生態学」でした。生態学者の栗原は3つの生態系を認識しました。共栄のシステムは牛の胃袋の中の微生物の生態系で、牛が死ねば終わりです。これは石油文明に敷衍できるので持続可能性はありません。残るは共貧のシステムと緊張のシステムですが、それぞれ農村的世界、都市的世界に敷衍できます。でちらを選択すべきか。私は両方の世界が共存し、人が2つの世界を行き来できる精神的習慣も持つことが大切だと述べました。これは原子力災害を念頭に置いて書いたのですが、地球温暖化問題でも同じだと思います。日本は高度経済成長から低成長あるいは縮退のステージに入った現在、様々な価値観が錯綜する時代に入りました。今こそ、未来を見つめる哲学が必要な時代になったと思います。