隠者のつぶやき

自由人になってから時間の進み方がどんどん早くなっている。“直線的な時間”の中に身をおいたままでは、歳をとるばかりだ。今年は“循環する時間”を意識して暮らしていきたい。それは、自然(じねん)に生きるということ。自然(nature)と一体となって、互いに交わりながら暮らしていきたい。(2025年1月1日)

2024年のつぶやき


中空均衡型と中心統合型

日本人と欧米人の違いを神話を通して知ることができる。これはおもしろい。河合隼雄は「古事記」における重要な神「三貴子」、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの関係では、アマテラスとスサノヲが対立するが、抹殺といった決定的な対立には至らない。一方、ツクヨミはアマテラスとスサノヲの行為についてはひたすら無為を保ち続ける。この構造は、タカミムスヒ、アメノミナカヌシ、カミムスヒの関係、およびホデリ(海)、ホスセリ、ホヲリ(山)の関係においても同様である。「古事記」の神話では中心を空として、それをめぐる神々が微妙なバランスをとりつつ、決定的な対立に至ることなく共存している。これを河合は中空均衡型と呼んだ。これに対して、旧約聖書では唯一至高のの神が世界 の全てを創造し、中心にある絶対的な力によって統合される。神に反抗するものは追放されるのである。これを河合は中心統合型と呼んだ。この違いが日本と欧米の意思決定の差を生み出すという。日本人特有の曖昧さもはこの中空構造に起因しているようだ。曖昧さを日本の“悪しき”習慣として中心統合型を導入しようとすると組織は崩れてしまうかも知れない。どちらが良いか悪いかということより、より包括的な世界観、歴史観(すなわち、コスモロジー)に基づいて、長所、短所を見極めることが大切なのだろう。今の日本、特に政治にとって重要な観点であるように思う。河合隼雄「生と死」の「日本神話にみる意思決定」より。(2025年1月7日)

司馬遼太郎の明治観

司馬史観というと明治を礼賛するものだと思っていた。それは「坂の上の雲」のもたらすイメージによるものだが、生前、司馬は「坂の上の雲」の映像化を断っていた。それは司馬が誤解を恐れていたからだという。司馬は明治が「暗い時代」であることはわかっており、映像化によって昭和の軍部の問題がかき消されてしまうことを懸念した(朝日朝刊『百年 未来への歴史 デモクラシーと戦争』より)。私も誤解していたようだ。明治維新では国民国家を成立させるための手段として日本の伝統的思想、宗教を抑圧した。当時としては列強と対抗するために富国強兵をめざすという決断はやむを得なかったと思うが、それは結局1945年の敗戦に至る道であった。明治政府には心豊かな小国をめざす道もあったはずだ。しかし、諸外国の状況が富国強兵への道に誘った。これは現在と状況が非常に似ているように思う。違うのは少子高齢化、人口減少、低成長社会、あるいは縮退社会に突入していることだ。明治、大正、昭和を再評価した上で、改めて心豊かな小国をめざすということになっても良いのではないか。必要なことはコスモロジーを明確にすることだ。地球社会の有り様を歴史、空間の中で的確に解釈することだ。思想、哲学の成り立ちと、その歴史的、地理的背景を明らかにする必要がある。これを達成するのは誰か。アカデミア、政治家、大衆か。コスモロジーを巡る対話が必要とされる時代がやってきた。(2025年1月6日)

「信じる」こと、「知る」こと

「信じる」(I beleive)と「知る」(I know)の違いは何だろう。「信じる」は宗教で、「知る」は科学とはよく言われるが、その違いは曖昧だ。あるジャーナリストがユングに「あなたは神を信じますか」と聞いたところ、ユングは「知っている(I know)」と答えたそうです。この回答は批判を浴びたそうですが、ユングは“神の働きというものを毎日知らされているのだ、単純に信じているわけではない”と答えたそうです。「神は存在する」という仮説を立てて、世の中の事象を神の働きとして認識することにより、仮説は正しいと考えることは、それを反駁する新しい仮説が出てくるまでは科学の論法としては“正しい”わけだ。でも、神の働きということも「信じる」という領域にはいるのではないか。科学が進歩するにつれ、神の働きは否定される。一方、科学者が「知っている」と思っていたことも、実は「信じる」に規則づけられていることもあるだろう。複雑な対象、例えば地球システムに関する科学的な理解もある地球観に支えられていることもよくある。そこで二つをコンバインした形でコスモロジーとかパラダイムという言葉が出てきたという。難しいが表層のみを見るか、表層と深層の総体を見るか、ということと関係しているのかも知れない。まだまだ勉強する必要あり。河合隼雄「生と死」の「近代合理主義を超えたコスモロジー」より。(2025年1月6日)   

不安の原因

図書館で借りてきた河合隼雄「対話する生と死」を読み終えた。たくさんの重要なことが書かれていたので、備忘録として少しずつメモしていきたい。心理療法家である故河合隼雄は患者の不安の原因は易々とわかるもんじゃないという。自分も不安に苛まされる日々を送っており、その原因について日々思考を巡らせているが、思い当たることはあっても、原因と結果としてぴったりマッチするものではない。表層だけ眺めていてもだめで、深層をのぞき込むことができないと見えてこないものだと思う。毎晩、眠る前に自分の末那識、阿頼耶識をのぞき込もうと集中するが、そのうち寝入ってしまう。深層に至るためには人生全般を俯瞰し、あらゆる関係性を認識する必要があるのかも知れない。ひょっとしたら前世、あるいは未来まで見通して始めて不安の原因がわかるのかもしれないなぁ。こんなことを書いていると近藤はおかしくなったと思われるかも知れないが、深層まで扱う科学はすでに底流として着実に流れ始めていることは様々な本を読んでいるとわかってくる。これは新しい科学なのかも知れんな。(2025年1月5日)

ミシェル・ペトルチアーニのジャズ

定年後は多様な音楽を聴くことにしているのだが、やはりジャズが好きだ。文春文庫の「ジャズCDの名盤」から適当に演奏者を選んでYoutubeで聴くのが楽しみなのだが、今日はフランスのピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニを聴いてみる。彼は一メートル足らずの身長のため椅子に座らせてもらってから演奏が始まるのだが、突然、美しい旋律が響き渡る。ビル・エバンスと雰囲気が似たところがあるが、ちょっと違うクール・ジャズ系の音楽といってもよいだろうか。自分の好みである。37歳で早世してしまうが、彼の人生は充実したものだったに違いない。「名盤」の著者の一人の稲岡邦弥氏が終演後の楽屋を訪ねたとき、奥さんの膝をなでながら魅せた子供のような笑顔が忘れられない、と書いている。背後にいろいろな人生が見え隠れする音楽がいい。(2025年1月3日)

里山の風景

大晦日にかみさんの買い物に付き合った際に、トトロのジグソーパズルを見つけて買ってきた。題名は「ひなたぼっこ」。良い感じの里山の風景のなかに、大トトロ、小トトロ、メイとサツキがいる。モンキチョウも飛んでいる。春やなぁ。108ピースなのですぐにできあがり、部屋の壁に飾る。眺めているといろいろなことが見えてくる。レンゲの花が咲き誇る中にトトロたちはいるのだが、もうすぐすき込んで田植えが始まるのだな。でも、一段上がった圃場はススキが生い茂っているようだ。耕作放棄田かもしれない。左側に奥山に向かう農道があるようだが、樹木が覆い被さってきている。斜面は美しい新緑の中に山桜も咲いているが、樹冠が鬱閉し、樹高も高いようだ。里山に手が入らなくなっている。この里では過疎化が進み、人手も足りなくなっているが、丁寧に稲作をやろうという意気込みが見える。若い人も残っており、まだまだ里はやっていける。トトロもいるし。こんなことを妄想しました。(2025年1月1日)

新年の挨拶

もうずいぶん長いこと年賀状は書いておりませんが、どうも最近は世の中が追いついてきたようです。ネットに移行しているということかも知れませんが、“ひとり”の生き様が意識されてきたということだろうか。“ひとり”といえば親鸞ですが、鴨長明や兼好法師も“ひとり”仲間でしょうね。でも、“ひとり”の意味を取り違えてはいけません。“ひとり”とは自立した生き方であり、実はまわりに支援者がいたのです。良寛さまには貞心尼が有名ですが、地域に支えられていた。コミュニティーによって支えられた生き方といっても良いかも知れません。これからの時代は自立した個人が、自律的に行動しながらも、コミュティーの中で暮らすという時代なのではないか。かつて篭山京がスイスを訪れて感じた社会のありかたかもしれません(「怠けのすすめ」、農文協現代選書39)。ひとりを意識し、自覚するからこそ、連帯が生まれるのかもしれない、互いに助け合うしかないということが実感になってくるのかもしれない、こんな風に篭山氏は書いています。でも、スイスには社会のあり方に対する共通の理念があるのではないか。それはキリスト教を背景とした生じる理念かも知れない。日本は理念を失ったままですが、いまこそ取り戻さなければいけない。日本人が持っていた東洋的な思想、それは仏教あるいは神道、儒教かも知れませんが、大切にしなければいけませんな。東洋の思想をもっと深めたいものだ。それが今年の課題です。挨拶のつもりがじじいの戯言になりました。(2025年1月1日)

2024年のつぶやき