口は禍の門

 2021年も半分が過ぎ、6月も今日が最後。梅雨らしい曇り空。お寺さんから頂いた浄土宗カレンダーの6月の言葉は「善きことはゆっくり動く」であった。悪しきことは突然やってくるものだ。深く落ち込んだ心身を立ち直らせるのは容易ではない。ただただ耐えつつ、時間の経過が回復をもたらすのを待つばかりである。そして、ふりかえってみると千尋の谷だと思っていたものが緩やかな波丘地だったことがわかる。やるべきことを粛々とこなしながら、その時を待つ。それが人生というもんやな。(2021年6月30日)

 今日から新年度ですが、新型コロナ禍のもとで再び迎えた新年度となってしまいました。ふと高田渡の「トンネルの唄」が頭に浮かびます。「こんな長いトンネルってあるだろうか、...」。陽気はポカポカで、桜もまだ咲いている。新しいことを始める季節ですが、世の中はどんどん変わっていく。「ねえ、トンネルってため息なんだろ...」。たくさんのひとがため息をついている。このままじゃあかん、何とかしなければと思っている。でも、誰かが何とかしてくれるわけではない。みんなが協力して変えて行く、そんな時代がやってきたのではないかなぁ。(2021年4月1日)

 新型コロナ禍のもとで迎えた新年となりました。2021年にやるべきこと、始めるべきことは何だろうか。それは"変革"への道筋を明らかにすることではないか。社会の変革はSDGsの目標であり、時代が変革を要請している。新型コロナ禍前の旧い時代への復旧は単なる慣性に過ぎず、過去から至った現在を分析し、その上で展望した未来と現在をつなげることだと思う。ただし、低成長、縮退の時代は様々な考え方が錯綜する時代でもある。慎重に道を見極めて歩んでいかなくてはならない。今こそ、総合的・俯瞰的な観点の意味を正しく解釈し、実践に結びつけなければならない。しかし、過去からの慣性に囚われる思想は変革を妨げようとする。厳しい時代の始まりだが、新型コロナは"変革"を促す生態系からのメッセージではないだろうか。(2021年1月1日)

2020年12月までの書き込み


周辺からの変革

八街で飲酒運転により児童5人が死傷した事件は本当にやるせないが、失われた命は戻ってこない。菅首相は通学路を総点検し、緊急対策を実行するよう指示したというが、地域、地区によって事情が異なる問題に対して、具体的な指示は出せるものだろうか。人がいない、予算がない、縦割りのしがらみ、住民からのクレーム、等々に絡め取られている行政の現場は混乱するだけだろう。こういう時こそすべてのステークホルダーが協働して事態に対処することはできないだろうか。もちろん簡単なことではない。日本は低成長、人口減少の時代、世界ではSDGsや気候変動対策が進行中である今こそ、社会のあり方を変える方向でアクションを興すことはできないだろうか。都市化が進んだ地域では困難かも知れないが、八街だったらできるのではないか。人の顔が見える地域において、短期と長期の観点から、何ができるかをみんなで考える。何をやってもらえるかではなく、自分が何ができるか、みんなで何ができるか、協働することができるか、そういう場を創ることができるか、を考える。新しい時代の芽は周辺に現れ、育つものではないだろうか。(2021年6月30日)

ムラの定義に都市の論理

朝日朝刊、「私の視点」から田中一彦さんの意見。「オキテと同調圧力に縛られた村社会」とは昨今のメディアで否定的に使われる村社会の用法である。広辞苑が2008年の第六版から「村社会」を「旧習にこだわり排他的な同朋意識に基づいた社会や組織。伝統的な村の人間関係を、否定的な側面からとらえていう語」と記述したことにより、「村」が否定的な意味で抵抗なく使われるようになったという。確かに「村」に否定的な語感があることに違和感を感じていたが、田中さんはその背後に都市の論理があるという。これですっきりした。最近は社会学、計画学、民俗学にはまっているが、「村」とは共同体であり、持続可能な社会のあり方だという認識は深まるばかりである。「村」の否定的な用法は近代社会のもたらした偏見なのだと思う。それは都市を核とし、進歩・発展を是とする、いわば古いヨーロッパ思想的な考え方である。21世紀に入って20年が過ぎたが、確実に20世紀とは異なる時代に入りつつある。大きな社会ではなく、小さな社会が相互作用しながら、何となくやっていく、そんな社会に移行しつつあるのではないか。それは人間の名前、顔が見えてくる社会、(カネ、モノではなく)人間中心の社会である。(2021年6月29日)

南無阿弥陀仏

近藤家はお寺さんが浄土宗なので、通夜式、告別式は浄土宗の作法で行われる。何度も南無阿弥陀仏と唱えるのであるが、阿弥陀仏に帰依するとはどういうことなのだろうか。仏教を学びたいという気持ちは老いるごとに強まっているのだが、リタイヤ後に本格的に始めることにしている。絶対神が存在する宗教とは異なり、仏教は哲学であり、仏というのは思想だと認識している。仏教とは安寧に生きるための作法であり、南無阿弥陀仏とは、人生は運命に逆らわずに、ありのままに生きよ、ということと解釈している。死を一巻の終わりと捉えるより、死後には極楽浄土に行けると考えた方が、はるかに安心して暮らすことができるはず。ではどんな暮らしをすれば良いか。カネや地位、名誉を獲得することが人生の唯一の目的ではないことは明らか。さて、どうする。(2021年6月27日)

それぞれの人生

相次いで叔父と叔母が逝ってしまった。父が死んでからも13年経ち、いよいよ親の世代が残り少なくなっている。親の世代は青春時代を戦争で翻弄され、高度経済成長を経験し、低成長時代に老後を迎えた。私の世代は高度経済成長とともに育ち、低成長時代を生き抜いてきた。子どもの世代は最初から低成長時代であったが、十分豊かな時代でもあった。それぞれの世代で価値観が異なることは当然であろう。今、日本も世界も大きな変化の最中にいる。それぞれの世代の価値観を尊重しながら行く末を見極めていく必要がある。過去を知り、現在を分析し、そして未来を展望したい。(2021年6月26日)

学術の段階ー基礎・応用・公共

今日は学術会議の地球惑星科学委員会が主催する大型研究計画のヒアリングだったのですが、弔事があり、午前中しか参加できませんでした。コメントだけ記載しましたが、総合コメントにこんなことを書いてしまいました。「評者は環境学委員会がメインなので、少し異なる視座から課題を眺めていると思いますが、昨今の学術は基礎から応用を経て公共(Public)の段階に入ってきたように感じています。SDGs/FEがまさにそうです。同時に日本は縮退期に入っています。こういう状況の中では、基礎が重要と主張するだけではなく、なぜ重要かという点を地球社会の現状と未来の中にきちんと位置づける議論が必要だと思っています。政治、行政には科学の成果をEvidence-based Policy Makingの中に位置づけることを望むとともに、研究者自身も意識することが重要だと感じています」。科学のあり方、科学と社会の関係性については現状に違和感があり、長らく主張を続けているため、科学者集団の中では“おかしな人”、“あちらの人”になっている様な気がします。定年も近いので偉そうなことを臆面もなく書いていますが、何かしらの波及効果はあるだろうか。なお、基礎・応用・公共の段階というのは菅豊「新しい野の学問の時代へ」(岩波書店)からの引用。(2021年6月26日)

対話ができる社会

NHK「こころの時代」で森川すいめい氏のことを知り、さっそく新刊「感じるオープンダイアローグ」(講談社現代新書)を読んだ。哲学対話(「考えるとはどういうことか」、梶谷真司)、福島ダイアログ(「取っ手のないスーツケース」、安東量子)、と読み進んで来て、苦難の時代である現代を乗り越えるためのキーワードが「対話」ではないかと考えるようになった。「野の医者は笑う」(東畑開人)からも、心の治療は対話を通じて生まれる信頼が必要であることを学んだ。対話ができる社会こそがポストコロナ社会としてめざさなければいけない社会なのではないだろうか。そういう社会をめざす過程で、変革が起きるのではないだろうか。(2021年6月25日)

畑への愛着とふるさと感

この時期は草の勢いがすごいのだ。まさに生命の息吹を感じるのだが、畑を占領させるわけにはいかない。最低週一の草取りが必要なので、梅雨の晴れ間はありがたい。とはいえ鎌では追いつかないので、刈り払い機で通路部分を一気に払う。文明の利器の威力はすごい。その後、畝の間の草を手作業で除去。刈り取った草は畑の片隅に積んであるのだが、積んでしばらくすると山が低くなる。内部で堆肥化が進んでいるに違いない。しばらくしたら切り返しを行い、堆肥を畑に還元するつもり。畑も手をかけるとだんだん良くなってくる。こうなると畑を眺めているだけで心が安らぐのである。これは“ふるさと”感の深まりだろうか。畑への愛着は深まっているが、あまり“ふるさと”という感覚は湧いてこないのである。生まれ育った土地ではあるが、周辺は都市化が進み、コミュニティーとしての一体感はない。ふるさとになるためにはふるさとを共有する人々との交流がなければならないのだ。もちろん、コミュニティーは努力して形作っていくもので、与えられるものではない。ふるさとを形成するためには人々の生業が土地と結びついていなければならないように思う。それは東京郊外の住宅地では難しい。畑を眺めてホカっとしながら、何となくさみしさも感じるのである。(2021年6月20日)

のうのうと生きる恥ずかしさ

週末にNHKプラスで番組を見ていると、いろいろ考えさせられ、いたたまれなくなる。Nスペ「若者たちに死を選ばせない」。若者がひょんと死んでしまう。背景にある堅苦しい社会に理由はないか。生き様を自由に選べない、生き様を社会が強要しているように見える社会の中で、ステレオタイプ通りに生きないと不安になってしまう。こんなことはないだろうか。苦しんでいる若者がいたら教員としてどうしたらよいか。今までの自分は指導的になっていた。自分は正しいのだ、だからお前もそうしろ、といった捉えられ方に気が付いていなかった。ふんふんと話を聞く、聞いてもらえる、そんな場があれば若者は自分でよみがえっていくのではないか。「こころの時代~宗教・人生~『対話の旅に導かれて』」。世の中にはいろいろな苦しみがあるが、それを支援しようとする人もいる。その人も自らの苦しみを乗り越えてきた。なんじゃろ。自分は何をやったらよいのかの。のうのうと生きているだけでは恥ずかしい。いやいや、それが人生なのか。カントによれば「価値のないと思われる生を生きる行為こそ尊い」という(2018年11月17日参照)。でも社会における苦しみに無関心では尊いとは言えんだろう。恥ずかしさこそ人生なのか。(2021年6月19日)

水文学:全球の河川では間欠的な流れが一般的である

Natureダイジェストからメールが届き、その中で見つけた記事のヘッドラインがこのタイトルである(doi: 10.1038/d41586-021-01528-4)。気になって読んでみたが、意味がよく解らんのだ。当たり前のことを言っているような気がするが、Natureの記事なのだ。水文学、気候学を知っていれば当たり前といった感もある。旧センター試験の地理の問題にもなりそうである。著者は水文学の歴史と成果を知らない様にも思える。80年代頃のHillslope hydrology、90年代のIAHS/PUBプロジェクト(Prediction in Ungaged Basins)、IHP/FRIENDプロジェクト等の成果を知らないのだろうなと思う。著者はどんな自然観、自然認識そして研究観を持っているのだろうか。何か主題図を作れば、“重要なのだから”、自分ではない誰かが使うはずだという考え方。その“重要性”は世の中を徹底的に探索することによって十分検討されているか。こんなことを書いている最近の自分は尖っているな、やばいなとは感じているのだが、創った成果の意味するところを研究者自らが語らなければならないと思うのである。研究の本質的な重要性は、特に環境に関わる研究では、協働によって知ることができ、それではじめて連携ができるのだと思う。勝手にやっている研究じゃダメなのである。とはいえ、天下のNatureの記事である。ヨーロッパ人がアメリカ大陸を発見した!というのと同じなのか。研究の本質的な成果とは何だろうか。すでに生産されている科学の成果である“知識”を共有するにはどうすればよいのか。考え、主張せねばあかんなぁと思う。大量の知識の中で溺れながら、権威を掴もうとしているのが現代の科学の状況であり、権威は掴んでみたら藁であった、という笑い話が進行しているのではないか。(2021年6月18日)

大学運営の哲学

千葉大学の第4期中期計画の素案に対する意見聴取がきた。ざっと見たが、どうも違和感があるのである。最近はやりの、Evidence-based Policy Makingでは基本目標を定め、それを達成するためのKPI(Key Performance Indicators)を選定するが、基本目標(中期計画素案)とKPI(評価指標)の関係がはっきりしていないように感じる。大学運営の基本的哲学が良く見えないのだ。時代背景をどう理解しているの か、どこを見ているのか(文科省か、社会か)、学術の役割は何だと認識しているのか、...。基本目標とKPIの関係分析こそが大学運営の要だと思いますが、私の認識と違 うだけなのか。などとほざいていたら、認識不足を指摘されました。第4期中期目標は文科省が用意し、その中から大学がいくつかを選択して中期計画を記述するとのこと。そっか。研究で名を挙げたいのならば、それにあった項目を選ぶわけだ。そして文科省のお眼鏡にかなう計画を記述するわけだ。それでも基本目標とKPIの関係はしっかり主張せにゃあかんと思う。大学は文部科学行政のヒエラルキーの上位ではなく、社会の方向を向くことはできないものだろうか。今の大学運営は職員の総意で行われるのではなく、上層部の意思で行われる。法人化以降、大学内の分断が進行するばかりである。最近の自分は異なる複数の立場があるのだが、立場によって主張を変えることはできないので、脳ミソが混乱しつつあります。自分がますます尖ってきたようでちょっと不安でもあります。壊れないように用心せねば。 (2021年6月17日)

世間知と専門知

今朝の朝日「社会季評」欄は「野の医者は笑う」の著者の東畑開人氏。この人は研究者、大学人であるが、その主張は徹底的に現場、世間に入り込んで得た経験に基づいており、腑に落ちることが多いのだ。今回のタイトルは「心のケア 主役は素人-ささやかな毛を生やそう」であるが、主役は素人というところが良い。市民とか大衆といっても良いと思うが、決して高みにいる人々ではないということだ。素人たちが互いに援助しあうのはカントが言うところの「世間知」であり、専門知が世間知の限界を補う。しかし、両者の関係は微妙である。専門知が暴力になってしまうこともあるのだ。だから、世間知と専門知は相補的になっていなければならん。東畑さんは心の専門家だが、あらゆる社会的課題にこのことがいえるという。環境問題はまさに世間知と専門知が補い合って理解と解決、諒解を達成しなければならない問題だろう。公害や事故もそうだ。ところが、専門知を大衆に理解してもらうことが問題の解決だと考える人が多すぎる。そうではなく、世間知も取り込まなければならんのだが、専門知の暴走によってどうしようもなくなってしまった問題が多すぎる。どうやってもつれた糸をほぐせば良いのか。なお、「ささやかな毛」というのは厚労省の「心のサポーター養成事業」のことで、予算規模は3千万円弱のささやかな事業。やることは地域住民に2時間の研修を受講してもらうことで、素人に毛をはやす程度の話だが、このささやかな毛こそが大切という話。小さな行為は大きな力になるのだ。高みで主張しているだけではダメということでもある。(2021年6月17日)

徒然草第211段 “ひとり”の生き方

この段はとてもいいのでメモしておきます(後半です)。長谷川法世版から。

始めから自分自身も人も頼らなければ、結果がよければ喜び、結果が悪くとも恨まずに済む。
左右が広ければぶつからないし、前後が遠ければ窮屈にならない。
緩くして柔らかな時には、髪の毛一本も損なわない。
人は天地の間で霊妙なもの。
天地は限るところがない。
人間の本性は天地と異なるはずがあろうか。
寛大にして限定しなければ、心は心を妨げず、外の動きに煩わされない。

他力本願は落ち着かない。とはいえ、我を通す勇気もない。もう歳をとった。死ぬまではユル~く生きていたい。これが大和言葉の“ひとり”の生き方ではないだろうか。次は伊勢物語を読みます。(2021年6月15日)

兼好法師と私

徒然草は出版を目的として書かれたわけではない。もともと寺の張り紙(反古)や写経の裏紙に書かれていた記述を今川了俊さん、命松丸さんが編集したのだという。そういえば内容もよく読むと愚痴であったり、年寄りの説教であったり、教訓めいたものも多い。まるで本欄の様である。本欄の記述も1000年くらい残れば、誰かが出版してくれるだろうか。ただし、デジタル文書はいずれ無に帰す。デジタル文書には永続性はないのだ。やはり記録は紙に書くに限る。とはいえ自分が特別というわけではない。世の中にはたくさんの兼好法師がおられるのだ。だからWEB上にある無名(私が知らないだけ)の方々の記述からは教えられることも多いのだ。(2021年6月15日)

自作自食で暮らすことの意味

昼食の自作自食、すなわち野菜生活もすでに3週間が過ぎ、習慣になりつつある。となると継続のために畑の整備、作物の栽培も計画的にやらにゃならなくなってくる。この週末は学会参加の予定だったが、直前に申し込みを忘れていたことが判明。梅雨入り直前の貴重な晴天なので畑作業に集中することにした。キュウリがおいしいので、エンドウの後にキュウリを追加。残っていたジャガイモの収穫を完了。男爵はおいしく頂いているが、“インカのひとみ”が楽しみ。ショウガもようやく芽が出てきた。サトイモも発芽した。これからインゲン、ナス、ピーマン、シシトウ、ニンジンが最盛期を迎える。一方、ダイコンが最後なのでさみしい。次の作業ではハツカダイコンを蒔いておこうと思う。葉物が少なくなったのでチンゲンサイを播種。先日新しく開墾した硬い土地に蒔いたホウレンソウ、チンゲンサイ、シュンギクは苦戦している。ズッキーニはそろそろ旬を迎える。下仁田ネギは最盛期である。落花生、枝豆は順調。自作自食を続けるためには野菜の収穫を持続させることが目標。となると収穫期には同じ野菜を調理法を工夫しながら食べることも課題になる。遊んでいるようだが、実は生きる、暮らすということの意味の問い直しにもなっている。(2021年6月14日)

頓珍漢-地球環境変化の人間的側面とはなんぞや

日本学術会議・環境学委員会主催の学術フォーラム(7月3日開催「気候変動等による地球環境の緊急事態に社会とどう立ち向かうか-環境学の新展開-」)の打ち合わせがあった。環境学委員会は分野横断の組織であるため、個々の分科会や委員会の活動を把握するのが難しいため、一度それぞれが何をやっているか、共有しときましょう、ということが目的と認識。自分の担当は「地球環境変化の人間的側面(HD)分科会」の活動内容の紹介である。この分科会は対応する国際組織がすでにない。というかFuture Earthに吸収されているのだが、その理念は重要なので分科会として活動を継続していると理解している。これまではシンポジウム開催や出版等でそれぞれの主張を行ってきたのだが、会員任命拒否問題、コロナ禍、頻発する事故や災害、縮退する社会等の最中にあって、具体的な発信をせにゃあかんのではないか、という考えからまずは委員長の独断で講演資料を準備しつつある。しかし、他の分科会の話を聞くと、自分は頓珍漢なことをしゃべってんじゃないの、という気もしてくる。個人の主張に過ぎないんじゃないの、エモーショナルじゃないの、といった声が幻聴で聞こえる。でも、学術の成果の社会や地域への実装あるいは実践をめざすのであれば、当然考察の対象に入れなければならないことを主張しているのではないか、という確信も頭の片隅にはある。とはいえ、もう一方には自信のなさ、迷いがあるのである。(2021年6月11日)

STEMとSHAPE

Natureダイジェストから時々届くメールからサイトを閲覧していたら、「コロナ禍からの復興:科学だけでは足りない」という記事を発見(Hetan Shah, Nature,2021-3-21)。要旨は「パンデミックと戦うには、政策立案者は、STEM分野だけでなく、人文科学や社会科学の学者の助言にも耳を傾ける必要がある」ということで、SHAPE分野は「人々と経済のための社会科学、人文科学、および芸術」ということ。そして政府は、SHAPEの研究対象である「現実」を直視する必要がある、という。当たり前のことですよね。ちょうど学術会議の環境学委員会主催のフォーラムで「地球環境変化の人間的側面」分科会の紹介をすることになっているのであるが、そこで主張したいのが「現実」である。正確には「現実の問題を解決したうえで未来を展望する」視線と、「望ましい未来から現在をバックキャストする」視線を交わらせなければいかん、ということ。なお、STEMはScince, Technology, Engineering and Mathsで、SHAPEはSocial science, Humanities and the Art for People and the Economyのこと。これも社会の変革に向かう底流だと思う。(2021年6月11日)

マグマの上昇-躺平と内巻

Yahooニュースで中国のネット上で広がりを見せているという「躺平(タンピン)」という言葉を知った。ニュースによると“あえて頑張らないライフスタイル”を意味し、社会現象となっているという。そこで留学生に聞いたらすでに古いという。今は“内巻”なのだと。競争が激化し、皆疲れてしまう状況だという。調べたら“不条理な内部競争”、“内部消耗”、“停滞”といった意味合いがあり、中国だけでなく韓国の若者とも共通する状況のようである。日本の若者も同様な状況だろうなと思うが、どうだろうか。世界は問題に満ちあふれている。すでにマグマは上昇を始めているのではないか。噴火に至る前に、何とかせにゃあかんと思うのだが、できることを粛々とやりながら、できることを探したいと思う。(2021年6月7日)

大人の事情-研究課題の裏側

ある学会連合のオンライン大会の高校生セッションに参加した。北は旭川、南は兵庫まで四つの高校の生徒たちと話をした。若者は元気だなぁ。私も少し元気を頂いた。ただし、老いが災いしてついつい課題の裏側にある事情や実用化の壁についてしゃべってしまった。大人の事情であるが、まあそれも良いと思う。高校生は夢を語れば良いというものではないだろう。私が少し関わったSPH(スーパー・プロフェッショナル・ハイスクール)事業では現実の中にある様々な壁にぶち当たって乗り越えていった高校生もいた。科学は科学だから尊いのではなく、人類を幸せにするから尊いのである。どう幸せにするのか、答えは一つではないが、柔らかい頭で考えながら、経験も積み上げていってほしいなと思う。(2021年6月6日)

躁鬱大学卒業

新潮社の中瀬ゆかりさんによる紹介をラジオで聞き、購入したのが坂口恭平著「躁鬱大学」。実は坂口恭吾と勘違いしていた。自分は躁鬱人というよりも鬱鬱人だが、坂口氏は躁鬱病は病気というより体質という。これは坂口氏が信奉する「神田橋語録」からの引用なのだが、私もそやな、と思う。性格といっても良く、それを病気にしてしまうのが現代社会を支配する精神的習慣なのだと思う。行き過ぎた資本主義、貨幣経済、評価社会、競争主義、都市中心の社会、いろいろな言い方ができると思うが、実はゆったりと暮らすことができる社会の運営方法もあると思うのだ。自分は農的世界を尊重し、都市的世界と共存させることを考えている。そんなことを考えている自分の今は普通と鬱のサイクルの中で、どうも鬱寄りにあるように思う。このサイクルの周期は結構長く、数ヶ月にわたるが10年スケールの周期もかぶっているようである。鬱状態の時どうするか、それは好きなことをやるということで、これは「躁鬱大学」にも書いてある。現在がんばっているのは畑で、先日以来「自作自食」を目指し、昼食は研究室で作っている。もう一つは観葉植物。アマゾンでアデニウム・アラビカムの種を見つけ、10粒購入し、育てているところ。この植物は40年以上前にイエメンに行ったときにどこかで写真を見て魅せられた植物。バオバブを小さくし、幹はサルスベリにしたような樹で、ピンクの花が咲く。今のところ発芽率90%を達成し、順調に生育している。樹の形になるまで1年くらいかかると思うが、楽しみ。その他にもいくつか取り組んでいることがあるが、過ぎると本務に影響が出るので、これも鬱の原因になる。人生と社会の関係性は複雑である。いろいろな個性がみんな普通に暮らして行ける社会を創りたいものだ。(2021年6月5日)

外の世界と内なる世界

大坂なおみ選手がちょっと心配。人の世界には外の世界と内なる世界がある。内なる世界は個人のもの。人の数だけ内なる世界がある。外の世界と内なる世界の調和が乱れると人は苦しくなる。しかし、外の世界もユニークなものではない。人が関係性を持ち、考え方を形成していく範囲の広がりは人それぞれだから。外の世界の習慣は普遍的なものでもない。その時代の空気に支配されたり、勘違いだったり、ある時ふとそれがおかしいことに気が付くこともる。その時が社会の変革の時だと思う。変革のきっかけを与える当事者はつらいこともあるだろう。スポーツとビジネスの関係性をうまくコントロールしなければならない。選手は商品ではないのだから。大衆も選手を商品として消費してはならない。選手は人間だから。アスリートは人に感動を与えてくれる。その感動は競技だけでなく、生き様からも感じることができるのだ。(2021年6月2日)

自分の分

長谷川法世版マンガ古典文学「徒然草」第131段。「自分の分を知って無理なことはすぐにやめる、というのが知恵だといえる」。そのとおりやな。「それを人が許さないというのなら、許さぬ人が間違っている」。そやけど、断れん性格やさかい。「身のほどを知らずに無理して努めるのは、自分の誤りである」。自分は間違っとるのやなぁ。自分の分はわかっとるつもりなんやけど...。滞っとる仕事にとうとう三行半が来てしもうた。感謝してありがたくお受けしておかなければあきまへんなぁ。 (2021年6月1日)

これから迎える時代における評価とは

ブルーマンデーであるが、ブルーにならないように〆切前に書類を提出。と、送信と入れ替えに新たな依頼が...。今月は評価関連の仕事が3件あり、書類の読み込みと判断の作業に衰えた脳みそがオーバーヒート気味になっていた。人や組織を評価する仕事は真面目にやろうとすると時間がかかる仕事である。人も組織も“意識世界”の中にいる。その世界が共有されていれば、評価も楽である。しかし、個人の意識世界が広がり、新たな世界が見えてくると、組織の意識世界からははみ出してしまい、評価に対する考え方も異なってくる。今、時代は低成長(あるいは縮退)社会にあり、現役人口は減り、税収も減る。そこを新型コロナが襲い、国家予算は火の車状態である。エリート研究の成果は投入できる予算規模に相関する。だとしたら日本はエリート研究の時代は過ぎたのではないか。それは近代文明を構築した一本道の科学であり、経済成長がそれを支えた。成熟社会をめざす日本は独自の思想に基づく新たな社会の構築に向かって邁進しなければならないのではないか。研究も同じ。人や組織が“優秀ということになったかどうか”に時間を費やすのではなく、未来を見据えた新たな研究を興すための議論をしなければならないのではないか。返信する書類にはその辺りのことも書き込んであるので、少しは意が伝わるだろうか。それとも、おかしな奴ということになってしまうだろうか。自分としては、“いとおかし”の感覚を大切にしたいのだが。(2021年5月31日)

「新しい野の学問」の時代へ

最近書籍の読破スピードが遅くなっているのですが、夜の酒量が増えていることと、買いすぎで“つまみ読み”が増えていることもありましょう。この本は「学術の動向」の2月号にあった菅豊さんの論考で知り、購入したもの。読み始めが5月10日でしたが3週間近くかかってしまった。自分はもともと“人と自然の関わり合いの現場”のある学問をやって来たので、科学と社会の関係についてはもともと関心があったのですが、福島における原子力災害に深く関わってからは、問題の現場における人と研究者の関わりについて深く考えるようになりました。福島では現場と関わる研究者のあり方について違和感を覚え、考え続けた結果を機会を見つけて主張するようになったのですが、どうやら菅さんも同じ思いを抱いてきたのかも知れません。菅さんは2004年の中越地震が契機でした。問題の現場において、問題を何とかしたいと思う研究者の立場とは何か、地域における営みとどんな関係性を結ぶことができるのか。私も福島において地域の人にはなれないさみしさを抱きながら考え続けてきました。その結果たどり着いた「共感(エンパシ-)、理念、科学的合理性の共有」、「問題の共有ではなく問題の解決の共有」、「普遍性をベースにした個別性の重視」、といった考え方に少しは自信が持てるようになったかな、そんな内容の書籍でした。科学は基礎から応用、そして公共の段階に進むという道筋には同意します。背景には時代もあるでしょう。世界は混沌としてきています。そんな世界の中で自分は「公共」の段階から「隠者」の段階へ移行したいとも考えているのです。それも「新しい野の学問」の姿ではないでしょうか。(2021年5月29日)

昼食自給率アップ計画

畑の野菜をもっと有効に活用したいと思い、昼食はなるべく野菜を食べることにした。今週は電子レンジで蒸し野菜に挑戦したが、試行錯誤を繰り返して感覚がつかめてきた。もう歳で、一汁一菜で十分なので結構満足できる。来週以降は米と麺に挑戦したい。1合炊きの炊飯器をいろいろチェックしているので、いよいよ注文の時がやってきた。玄米を食べたい。何より新型コロナ禍の影響で米価格下落を防ぐために買い支えたい(外食用需要が減退のため)。もちろん一人分はたいした量ではありませんが、まずは精神が重要。インスタントラーメンは確実にできますので、来週は生中華麺に挑戦しようと思う。野菜入り焼きそばもどきは簡単にできそうだ。軌道に乗ってきたらオーブントースターを導入し、グリルに挑戦したい。餃子の皮ピザは成功の可能性が高い。NHKニュースWEBでみたズボラハンバーグも可能性がありそう(挽肉だけのハンバーグ)。ビーパル5月号付録のグリルパンが役に立つだろう。何か楽しい。生きている間、生を楽しまずにいて、死ぬころになって死を恐れるのは矛盾しているということだ。徒然草第93段より。老いましたので。(2021年5月28日)

無常なり人生は

もう30年以上前から交流があった仲間の訃報が届いた。最初は研究、その後は学会や組織の運営に関わる交流がずっと続いてきた。研究は年を経るとともに守備範囲が拡大し、それ故、思想や哲学の側面も深まり、管理能力も遺憾なく発揮した男だったが、逝ってしまった。享年63歳、ずっとひとつ上だと思っていたが同年、あるいは享年が数えだとするとひとつ下かも。いずれにせよ同じ時代の流れの中を生きてきた。高度経済成長から低成長の時代の流れの中で、たくさんの災害、災禍を経験し、社会のあり方が変わっていくのを見ていた。その先も見据えていたはずである。人生は無常であり、人生は平等ではない。たいした力も無い自分はまだ生きているが、運命によって生かされていることを思う。もう何かを追い求めることはせずに、やるべきことをやりながらただ粛々と生きていきたいと思う。(2021年5月27日)

爆破予告の事情

12時29分に千葉大学を爆破するという予告があり、総員退避になりました。思いもかけず半ドン(これも死語か)になりましたが、夕方開催の会議はもともとオンラインで予定されていましたので、自宅で参加の運びとなりました。コロナのもたらしたニューノーマルのお陰です。それにしても、とんだ迷惑でしたが、こんなことを仕出かす事情は何なのだろうか。様々な仮説を立てることができますが、実は何てこと無い、単なる愉快犯で、自分の行為の責任に思いが至らない輩の仕業かも知れない。あるいは世の中の不条理、不公平、不公正、不平等といったものに対する憤りが理由か。背景には社会の現状があるのではないか。現代社会では人間はあくせく稼ぎ、貨幣を獲得しなければ全うに暮らしていくことは至難の業。生きることは苦難の道だ。そんな社会に対する不満が背景にあるのだろうか。一昔前だったら暮らしの基盤は地域のコミュニティーから得ることができ、平均から外れる性格も個性でしかなかった。そんなのどかな社会が懐かしい。そんな社会を取り戻し(もちろんバージョンアップした上で)、あくせく働く社会と共存させ、人が二つの社会を自由に行き来できる、そんな社会のあり方を実現させたいと思うのであります。(2021年5月24日)

クレーム社会をどうやって変えるか

昨日、日本社会の他人の足を引っ張る悪癖について述べました。これこそが日本社会の最大の問題点だと常々思っています。何度も述べていますが、日本は“良い国”になりすぎた。自分が享受する便益の背後にあるコストや努力に気付かず、便益が当然の権利だと思ってしまう。だからクレームしかやることがなくなる。でも、クレームは人、組織、そして社会を疲弊させます。何が欠けているかというと、エンパシー(共感)であり、それはわかっている。人がエンパシーを意識するにはどうすれば良いか。難しい課題ですが、まずは人の名前がわかり、顔が見えるコミュニティーを強くすることが大切だと思う。政治では地方分権を進め、“ふるさと”を意識できる地域を創ること。これだったら何とか自分でも少しの力を発揮できるかも知れないと思うのであります。(2021年5月20日)

大失態から考える日本社会の悪癖

やっちまいました。オンライン講義でマイクミュートのまま90分話し続けていました。前期15回の中でも一番大切な部分であり、喉を嗄らしながら話し続けてたのですが、無駄でした。“おしまい”と言っても誰も退室しないので気が付いたわけですが、チャットには2件の指摘がありました(画面共有しているとチャットに気付きにくいのだ)。でも音声による指摘はありませんでした。なぜだろうか。恥ずかしい、目立ちたくない、発言者がわかると批判されそう、そんな理由だろうか。90分も声のない画面を見続けていてくれたのはすごいと思います。この背景には現代社会の深刻な闇があるように感じます。オンラインですので双方向のコミュニケーションも楽だとは思いますが、発言を控える背景には日本社会の“他人の足を引っ張る悪癖”がないだろうか。学生は“事故”が怖くて発言できない、あるいは無難に過ごしたい。また、講義の内容より出席(単位)の方が大切ということだろうか。これこそ大学教育が乗り越えなければならない壁なのですが、何とかしたいと思っているところです。(2021年5月19日)

美しく裏切る

兵庫県立芸術文化専門職大学学長の平田オリザ氏による入学ガイダンスにおける学長挨拶から(岩波「世界」6月号)。「この大学は多くの人の願い、期待を込めて創られたけれども、君たちはその期待に必ずしも応える必要はないこと。若者の特権は大人の期待を美しく裏切ることだから」。歳をとると説教が多くなるが、若者にこう考えてほしい、こう行動してほしい、などと期待することはやめにしよう。説教している自分も、さて自分の考え方は適当だろうか、時代遅れになっていないだろうか、と常に自問している。発信はやめませんが、応答は期待せず、成り行きを見守ることが老人の務め。美しく裏切られることを心待ちにしています。でも、どうしようもなくなったら老人も立ち上がるかも知れない。その時が来ないように願っています。老いたら自分の生を愉しまなければならないから。(2021年5月8日)

仏教の神髄

どんよりと曇った空の下迎えたブルーマンデー。雨もぱらついているし、風も強い。このまま梅雨に突入してしまったら、農作物にも影響がでそう。ブルーな気持ちのなか、ふと思う。仏教の神髄は“しあわせは いつも自分のこころがきめる ”ではないか。これは相田みつをの書に書かれた言葉。外から客観的に自分の外面を観察すると、幸せいっぱいに見えるだろう。でも現実の心はブルーなのである。だから仏教では心を強くすることが神髄なのではないか。今のありのままを諒解することができたときが解脱の時である。でも世の中には諒解不可能な状況にある人もいる。だから利他が必要なのだ。釈迦の時代だったら林の中で暮らすこともで来たかも知れないが、貨幣に支配される現在の資本主義のもとでは人がどうしようもない状況に簡単に陥ってしまう。仏教の哲学が一番必要とされる時代が現在なのではないか。ヨーロッパの思想が駆動した資本主義のあり方を東洋の思想である仏教の考え方に基づき変革することがSDGsの方向性のひとつではないかな。日本は最近調子がすこぶる悪いが、こういう議論ができるようになると良い方向が見えてくるのではないだろうか。(2021年5月17日)

問題の所在-小さな農業の強さ

今日の水田における作業の目的はナガエツルノゲイトウの人手による駆除でした。ナガエツルノゲイトウは侵略的外来種に指定されており、稲作との関わりでは灌漑水を通じて圃場に侵入し、はびこってしまうのですが、コンバインを使った収穫時に効率が悪くなるのが問題とされています。しかし、佐倉の農家さんの小さな水田ではバインダーで収穫し、天日干しするのであまり大きな問題にはなりません。田んぼに侵入したナガエも人力で駆除し、ナガエ堆肥も作っています。大型の農業機械を導入し、大面積を耕作するような農業だとナガエは大問題ですが、小さな農業では何とか対処できるわけです。そして重要なことは、暮らすための必要は満たすことはできるということだと思います。決して貨幣を増殖させることが農業の目的ではないのです(お金はあれば便利ですが)。これは生業のあり方について考えさせられます。稼ぎとしての農業にとってナガエは敵ですが、仕事としての農業ではうまく共存することもできるのです。どんな暮らしを望むか。個々人が考え、意思を持つ時代がやってきたのではないかな。そんな風に感じています。 (2021年5月15日)

ワイルドな親子の創る未来

お世話になっている佐倉の農家さんの田んぼにお邪魔しました。いつものようにたくさんの人が集まっていましたが、水が張られた田んぼの中で作業する親子の姿はいいもんだと思う。いやワイルドだなぁ思わず声が出てしまった。こういう子どもたちはどんな未来を創るだろうか。自然と分断されて育った子どもたちといつか出会い、協働作業をするときに、いろいろな困難に直面することになると思うが、乗り越えていってほしいなと思う。自分たちの未来をどう創っていくのか。大人になって考える時に、泥だらけの体験が何かを生み出してくれるに違いないと思う。じいじは何かサポートできるだろうか。(2021年5月15日)

埋もれた隠者

最近、鴨長明の「方丈記」、兼好法師の「徒然草」に凝っているのだが、NHK+「先人たちの底力 知恵泉選▽兼好法師 ひとりを愉しむ自分の居場所を作る」を視聴。世の中でもブームになっているのか。方丈記や徒然草は隠者文学と呼ばれているそうだが、「隠者」が気に入っているところ。どうやったら隠者として暮らせるか。定年になったら可能な限り研究者の世界からは離れて暮らしたいと思っているのだが(そうもいかんところが悩ましい)、年金をもらってひっそり暮らすのが隠者だろうか。隠者というのは“ひとり”の世界で思想を深める存在であるように思う。社会との縁を絶つわけではない。長明さんも実朝に会いに行ったり(相手にされなかった様ですが)、兼好さんもたくさんの文人と交流をしている。その中で生み出された著述が後世に伝わり、有名人となったのですが、実は埋もれた隠者もたくさんいたのだろう。隠者にしてみれば埋もれて本望だろうが、そんな暮らしをしてみたいものだと思う。(2021年5月14日)

環境問題と文化

朝日朝刊「科学季評」から。地球研所長になった山極寿一さんの記事「環境問題は技術の成果 根幹は人間の『文化』に」を読んで考えた。地球研初代所長の日高敏隆さんの「地球環境の根幹的な問題は人間の文化にある」という言葉が研究所運営の基調になっており、山極さんもこれを踏襲している。ただ、私は“文化”を使うことについては何となく違和感を覚えていた。文化とは人間およびその集団(民族といって良いかも知れない)の精神の基調にあるもので、近代文明がその精神を蝕んでいる状況が環境問題を創り出しているのではないだろうか。文明はある時代の精神を創り出す。それに対して文化は歴史と場所が生み出した精神であり、人の深層に染み込み、永い時を経て持続してきたものである。だから、近代文明の精神が地球環境問題という災禍を生み出したとしても、文化は人の深層に留まり、再び湧き上がる日を待っているのではないか。その日が近づいてきたような気がするのである。内山節がいうように、世の中は伝統回帰に向かって進んでいるようだ。(2021年5月13日)

“能力”の再定義の必要性

朝日朝刊「明日へのLesson」より。ハーバード大のサンデルさんのメッセージとして「能力主義が生む競争・分断 変えよう」というタイトルに惹かれて、能力について考えた。能力主義が競争に結びつくとき、何のための能力か、何のための競争か、ということが忘れられてしまうと思う(大学や研究者の評価も同じ)。個人の背後には資本主義の原理である貨幣獲得競争、(数値による)業績評価主義の背景にある地位・名誉への欲求が拡大し、トップレベルにおける“何のため”、ということが忘れられてしまうのではないか。トップレベルには幸せ、平和、といった概念がこなければならないのではないか。そして誰のための幸せ、平和か、ということも考える必要がある。顔や名前の見えない平均的人ではなく、顔があり、名前があり、そして暮らしがある一人一人が幸せになることをトップレベルに持ってきて良い。そうすると、能力というものを再定義しなければならなくなる。人と交流する力、一人で生きていく力、世の中を俯瞰する力、いろいろあるが、けっして貨幣を増殖させる力、権力や名誉を得る力ではない。能力を再定義したら、世の中の仕組みも組み替えなければならないだろう。こう考えていると、大乗系の仏教の考え方に近いのではないかと気付く。ポスト近代社会は、20世紀までを駆動したヨーロッパ系の一神教的な考え方ではなく、日本の独自の考え方を発信していく必要があるのではないか。アジアと書かずに日本と書いたのは、大乗仏教がちゃんと定着したのは日本だけだったと聞いたからです(内山節による)。SDGsが進行中ですが、本来は日本が先導しなければならないのだと改めて思う。(2021年5月13日)

長明さんの“ひとり”

ネット通販の戦略に引っかかり、余計な出費をしてしまうことは良くあるが、これは良かった。まんが古典文学「方丈記」(水木しげる)。木村耕一版も良かったけれど、水木しげる版はさらにわかりやすい。漫画はアートだと思う。それにしても鴨長明さんの人生はいろいろあった。なりたかった職業には就けず、戦、天災、火災、疫病など、たくさんのつらい経験をした末にたどり着いたのが日野の山中、方丈庵であった。晩年は“ひとり”の世界に入り、穏やかに過ごしたに違いない。これこそ理想的な生き方だと常々思っているのですが、現代で“ひとり”を実現するには多くの壁がある。しかし、それは心の壁であって、決断してしまえばうまくいくのかも知れない。これまで様々な人生を探索してきたので可能性はたくさんあることはわかっている。この認識が心の安寧につながれば良いのですが、なかなかそこまで到達できません。兼好法師「徒然草」も深読みしなければあかんなぁと思っているところです。しばらく隠者文学を楽しもうと思う。(2021年5月12日)

おかしな人、あちらの人を継続

「取っ手のないスーツケース」(5月5日参照)では研究者と現場の視座の違いがはっきりしました。これまで感じていたことが確信に近づいてきたといえます。人はオブジェクト(対象)か、サブジェクト(主体)か。手柄が重要なのか、納得や諒解が重要なのか。ずしんと響く言葉に満ちています。次に読み始めた「新しい野(の)の学問」(菅豊著)では、冒頭からいきなり研究者批判が入っています。「俺たちは、学者のモルモットではない」が“はじめに”の章の副題です。中身はこれからですが、(理系の)研究者というのは、かなり特殊な世界で生きており、それが世界のすべてだと思っているのではないか。ここを乗り越えないと学術の健全な発展、社会との良好な関係性は構築できないのではないか。もうしばらく、理系の中で"おかしな人"、"あちらの人"を演じながら、文理融合について考えたい。(2021年5月10日)

瞑想と無意識の時間

最近の休日は畑仕事に費やす時間が増えてきた。積み残しの仕事は山ほどあるのだが、自宅ではどうしてもやる気になれないのだ。自分の精神世界の中にいたいと思うのです。畑仕事は私にとって瞑想の時間でもある。手元に集中しながらいろいろな事を思ったり、あるいは無意識の時間を過ごす。命を育てているという感覚が心に満足感を与えてくれる。花も少しずつ増やしているのだが、今年はコキアに挑戦している。苗床で発芽させたのだが、植えかえねばあかん。しかし、場所の確保ができていない。古屋の床下で60年近く経った地面はカチカチで、簡単には作土には復活してくれない。そこでコキアを苗床から紙製のポットに移す。これならばそのまま移植できる。でもコキアは直根性なので根を傷めそう。なんとか移し終える。あとは開墾を進めるのみ。最近は週末は休むことにしているので(当たり前なのですが若い頃はそれができていなかった)、畑も少しずつ良くなってきた。手をかけるだけ良くなるということだ。残る課題は消費で、自分で調理できるようにならなければあかんと思い始めているところ。(2021年5月9日)

家族のあり方

介護施設に入っている母に面会してきました。新型コロナ禍に入り、もう一年以上も対面ができていませんでした。今の世の中、都市的世界の中で衰えた親と一緒に暮らすということは正直言って厳しい面もあります(頑張っている方も多いと思うので申し訳なく思います)。福島では三世代、時には四世代が一緒に暮らす家族をたくさん見てきました。もちろん個々の家族の事情が垣間見えることもありましたが、ふるさとにおいて世代を超えて継続的につながる暮らし(いのち)の営みを好ましい家族のあり方として認識することは総じて受け入れられているのではないかと感じられます。私は新型コロナ禍は社会の変革を加速してると主張しているのですが、どう変革したら良いか。やはり農的世界の復権を目指したいと思います。それは都市的世界と農的世界の共存・共栄でもあり、日本独自の世界観、社会観、自然観、人間観の発信になります。とはいえ、自分が残りの人生をどう生きるのか。口だけではなく、そろそろはっきりさせなければならない時期だなぁと思う。(2021年5月8日)

ああ人生やなぁ

NHK+を利用していると人生観や社会観が変わってしまう。最近視聴して切なくなったのは【ストーリーズ】事件の涙「たどりついたバス停で~ある女性ホームレスの死から」。昨年11月に都会のバス停で休んでいた女性が殴られて亡くなってしまうという事件があった。彼女の死が社会を動かしつつある。その問いかけを真摯に受け止めなければならないと思う。人生とはなんて不公平なものだろうか。若者が動き始めてることが変化の兆しを感じさせる。一方、インタビュー ここから「ボランティア 尾畠春夫」は元気出さにゃあかんな、と思わせてくれる。私が尾畠さんの歳になるまでまだ18年もある。黄昏れてはいられんな。あのとき、タクシーに乗って「2021年 春 東京」は、人生いろいろだけど人と交わっていられることはいいもんだなぁ、と思わせる。ああ人生、前を向いて歩かにゃと改めて思う。(2021年5月7日)

流域治水を実現するには

流域治水とは流域が一体となってみんなで治水に取り組もう、それは安全・安心な地域の創造につながっている、という風に解釈している。昨今の水害の頻発もあり、大きなうねりとなっているが、私もなんとかしたいなと思って画策しているところです。実現のためには技術的、制度的側面が重要ですが、それだけでは達成は困難だと思います。①思想、哲学的側面②自然に対する知性③連携のあり方、の三点を考えなければならないと思っています。①思想、哲学的側面では、国土形成のあり方や、人と自然の関係性に関する合意が必要です。②自然に対する知性というのは、土地の性質を知ることであり、これはESDや環境学習、あるいは必履修化される高校「地理総合」の支援、といった活動が含まれます。③連携のあり方では、超学際的な取り組みの実現、行政では縦割りから横つながりへの転換、が必要です。これらを個々の流域の単位で模索して行く過程で信頼が生まれ、その信頼が実現につながるのだと思います。(2021年5月6日)

科学技術が威力を発揮する状況とは

首都圏教育の必要性を感じます」。放射能と対峙しなければならない福島のひとびとが、放射能に対する首都圏の人々との認識レベルの差を眼前にして。「取っ手のないスーツケース」(安東量子著)から。福島のひとびとの悔しい思いがこの文章に込められている。原子力発電の仕組み、リスク、コスト等を知らずにベネフィットのみを貨幣を介して享受している首都圏の多くの人々は、オルテガ・小林の「文明社会の野蛮人」そのものである。もちろん自分もそのうちの一人であり、もはや文明社会は衰退せざるを得ない。高度な科学技術を駆使して生きるという状況はどういうことなのだろうか。それは生活を超えた生存を問題にしなければならない状況にあるということなのではないか。核戦争後の核の冬の時代に人類が地下都市に分かれて暮らす状況(手塚治虫「火の鳥」第2巻)、生存できる惑星をめざして飛行する惑星間航行宇宙船、といった状況では科学技術の仕組み、リスク、コストを理解していなければ安全は担保できない。あるいは、少数のエリートがその他の大多数を支配する社会も考えられる。そんな状況や社会はいやだ。原子力発電は有用な技術である。しかし、それが必要となるのは今ではないような気がする。経済戦争が原子力発電を欲するとしても、それは人類の叡智で乗り越えたい。(2021年5月5日) 

分断の存在

このところ読書量(+)と購入量(-)の収支はマイナスとなっている。大熊孝「洪水と水害をとらえなおす」を読み切り、ようやく「取っ手のないスーツケース」に取りかかる(宝物が入っているが、誰も持って行って自分のものにすることはできない、みんなのものということ))。この本はNPO法人福島ダイアログの安東量子さんの執筆で、ダイアログに少し関わった縁で送って頂いた本です。読み始めてさっそくこの文章に出会う。「あの頃は世界中の学者たちが『俺が』『俺が』『俺のやり方が一番いい』という感じで殺到していて、それに行政もみんな振り回されちゃいましたから」。現場のひとの声です。あの頃とは原子力災害の始まった2011年。実は私も一番気にしていたのが、このこと。自分も含まれる研究者と、現場の暮らしの実践者の方々の間に存在する意識の分断の存在とその理由を考えていた。数年間の福島との関わりの中で得た分断の修復の方法は、共感、理念、合理性を共有することだった。この三つの基準が共有されると、そこに信頼が生まれる。信頼があって初めて諒解が生まれる。原子力災害に完全な解決はあり得ない。だから人は諒解するしかないのだ。考え続けているうちに、科学と社会の関係もよく見えてきたような気がする。主張を続けているうちに、人生も大分変わってしまったようだ。自分の考え方に対する確信は深まるばかりなのだが、意識世界の分断が修復されない限り、諒解は生まれないのだ。意識世界の両極端には都市的世界と農的世界がある。だから農的世界を支援し、都市的世界と共生できる社会の構築を目指したいと思うのだ。(2021年5月3日)

この1年、本当にクソでした

NHKプラスの「セルフポートレート わたしの風景(1)『大学1年生×春 新学期』」。確かに新型コロナ禍の下では1年生にとってこの1年間はクソだっただろう。私は講義では偉そうに「新型コロナ禍の社会を見て学んでほしい」などと言っていが、一番つらい思いをしている当事者の1年生にとってはクソなんだろう。大学は何を伝えたら良いのか。私は学生が自らの意識世界を広げる手助けができれば教員としての役目は果たせると思っているのですが、つらい状況の最中にいる当事者にとっては、何を偉そうな、ということかもな、と思う。エンパシーを持て、とも言っているが、当事者の立場で考えることはそんなに簡単なことではない。では何が必要か。それは対話だと思う。語られた思いを静かに聞くこと。たくさんの1年生の思いをお互いに聞き続けることにより、だんだん諒解が生まれてくる。そんなものではないだろうか。対話の場を作らなければあかんな。なお、クソというのはクソッタレの意味で、自分を鼓舞するときに使う言葉だと思う。私も良く使う。(2021年5月2日)

ちょうどよいひととき

2月に訪問した佐倉の畑に行ってきた。杉の幹を輪切りにして庭で使おうと考えたのですが、チェーンソーを使いたかったというモチベーションがありました。集まったサポーターさんのお子さんたちはやんちゃで、私も時々、コラっとやってしまうのですが、おそらくそれが良いのではないだろか。大きくなって初めてコラッを経験するとやたら思い詰めてしまうなんてことがありそう。子どもの頃から免疫を付けておかねば。見ていると結構危ない遊びもするのですが(おとなも一緒になって)、お母さん方は気にする様子もなく、見守っている。種まきも子どもが自らやりたいと申し出て、土に手を突っ込んで楽しそうにやっている(おふざけしながら種を蒔いているのでちゃんと発芽するか心配)。いいなぁと思う。きっと健やかに育つだろう。農家さんも都会から帰農したと伺っているが、実に楽しそうに作業している。いろいろな暮らし方があるということを知ることは、子どもたちが大人になって壁に突き当たったときの力になるはず。人生なんて何通りもあるのだよ(私が胸張って言えることではないが)。10時から3時まで作業して帰る。ちょうどよい長さのひとときだった。(2021年5月1日)

共生と共死

休日のNHK+視聴は習慣になっているが、今日はクロ現+の「コロナ重傷者の家族・葛藤をカメラが記録・看取り」を見た。近代文明は死を意識の彼方に追いやってしまった。COVID-19で突然やってきた家族の死を人はなかなか受け入れることができない。それでも死は必ずやってくる。私は日に一度は必ず死を思うことにしている。それは宗教学者の山折哲雄の著書にあったのだと記憶している(2020年4月7日に記述発見)。それでも死をわがこと化できているわけではないが、番組を見て改めて死を思うことの大切さを自覚する。それは自分を、そして他者を、さらに今を大切にするこころに通じる。内山節によると近代化以前の社会では、先祖、すなわち死者とともに暮らすという意識があったという。それが生きることの尊さを感じさせることになったのではないか。そして老いて死ぬことは忌むべきことではなかった。新型コロナ禍で共生の大切さが見直されているが、共死も同時に意識することも大切なことだと改めて思う。(2021年4月29日)

そもそも論

千葉大学における科研の採択を増やすためにはどうすればよいか、について議論する非公式の会に参加した。もう少し採択を増やしたいという大学運営側の思いは当然であるが、“そもそも”の部分をもっと議論したいものだ。そもそも、なぜ科研の採択を増やさなければならないか。それは文科省が評価の指標にしているからであるが、明確な根拠は見当たらない。ここを議論したいものだ。そもそも千葉大では大型課題の申請が少ないのはなぜか。それは個人研究が:主体で、学界でリーダーシップをとりにくいのかも知れない。だったら、リーダーシップ経費として、教員が研究会等を開催しやすい予算や施設を大学が用意すれば良いのではないか。審査の対象者に面識はなくとも、学界で主張したり、リーダーシップを発揮していれば、書類以上の効果はあるものだ。審査者が提案の位置づけを理解しやすくなる。そもそも研究は何のためにやるのか。それは研究者によって異なるし、社会の状況によっても変わるものだ。そもそも研究者である大学の教員の意欲を高めるためにはどうすれば良いのか。研究者は皆研究をやりたいのだ。私はそもそも論が好きなのだが、突き詰めていくと科研の議論は社会と科学の関係性に突き当たる。良好な社会と科学の関係とは何か。少なくとも現状は社会と科学の関係性があまりよろしくないことだけは確かである。もちろん努力はしているのだが、社会全体としての意思まで高まっていないのだ。(2021年4月28日)

民主主義を機能させるには

昨日の朝日夕刊にあった記事が気になる。“にじいろの議”というコラムで成田さんは「民主主義こそ20年に(新型コロナ禍で)人命と経済を殺めた犯人だ」とまで言う。民主主義がコロナ失策を引き起こしているようなのだ、と。ちょっと違和感がある。民主主義の失敗というよりも、民主主義をゆがめているものが何なのか、という観点が必要だと私は思う。例えば、グローバル資本主義のあり方に問題があると考えた方が良いのではないか。米国の失敗と中国の成功を持って、民主主義が呪われているというのは、あまりにも単純化しすぎた思考である。もうひとつは世界観や社会観。成田さんが見ていない世界があるのではないか。例えば、農的世界。世界全体の有様を総合的、俯瞰的に理解する試みが必要だ。とはいえ、世界ではこれまでのあり方を修正する試みが始まっていることも事実。SDGsはそのひとつ。民主主義を機能させるための様々な試みを支援していきたい。(2021年4月15日)

処理水海洋放出の意味

とうとうトリチウムを含む処理水を海洋放出する方針が決定された。合理性の観点からは海洋放出が最も適しているという考え方は理解できる。しかし、合意形成には共感(エンパシー)と理念(この国のあり方)の共有が必要である。合理性、理念、共感の三つの基準を満たして初めて海洋放出が可能になるのだ。もっとも、これは理想である。現実はどうか。合理性のみを主張してきた結果、国および東電は国民(の大多数)の信頼を失ったと言える。泥沼に落ち込んでしまったわけだ。共感と理念が明示されないまま海洋放出が行われると、国民との間の分断が深まることになる。信頼を回復するためにはどうすれば良いか。国と東電はしっかり考えて、実践する必要がある。普通の人であればわかることではあるが。(2021年4月14日)

公共と新自由主義

公共ということを考えなきゃあかんということになったが、COVID-19を巡る対応において政府に公共という意識があったかということが、収束後に反省点として取り上げなければあかんと思う。なぜ日本はワクチンの生産で出遅れたのか、いぶかしく思っている方も多いのではないかと思う。実はmRNAによるワクチン開発は4年前まで日本は世界の先端を走っていた。しかし、開発の目処が付いたところで、ここから先は民間でやれという厚労省の判断があったのだという(岩波「世界」5月号より)。ワクチン開発は企業にとってはリスキーな事業なので、さらに進むことができなかったらしい。それは90年代後半から本格化する新自由主義政策(構造改革)の精神的習慣に政府が囚われており、公共という意識が欠如してしまったことを意味しているのではないか。企業や研究者もまたこの精神に流されてしまった。政府に公共という観点からワクチン開発を支援するという意識があったら、状況はだいぶ変わっていただろう。少々政府に対して批判的に書いたが、根本には日本人にありがちな権力に対して空気を読むとか、忖度する(悪い意味で)、といった習慣に遠因があるのだろう。ワクチンだけではなく、様々な領域でこの習慣が悪さを働いている。時代の雰囲気を読んで、必要ならば方針を変える力を日本人は持たなければこの国は危ういのではないか。何より権力のあり方が問われなければならない。権力は哲学を語って、行動してほしいものだ。(2021年4月11日)

公共ということ

どうもこのことを深く考えないといかん時期にきたようだ。共通テストの大学提供負担料を値上げする(せざるを得ない)というニュースがあった。これをどうとらえ、何を発信していくべきか。まず共通テスト(旧センター試験)は日本のために必要だという哲学(基本的な考え方)を発信しなければならないと私は考える。20世紀に経験した経済成長期には細分化され、先鋭化した科学が経済成長に大いに貢献したことは疑いない。それは一般性、普遍性を探求する科学であった。しかし、21世紀に入り、世界が混沌としてきた現在、求められているのは普遍性をベースにおいて様々な地域、人の個別性を理解し、個々の問題に対応しながら世界の中に位置づけることができる力である。その力の醸成の基盤は教育であり、その目的は細分化された専門性を高めることではない。様々な分野、領域の知識、経験を身につけ、問題を総合的、俯瞰的観点から認識することができる力である。高校までは総合的な知識を身につけ、それをベースに大学における専門に進むのがよい。専門性を強化しながら、個々の知識の関係性を認識する力も強化し、様々な経験を積むことが大学における学生の重要な目標である。個別の事情を理解しながら、世界の中に位置づけて、対応を考える力こそ地球社会の未来にとって必要な力なのである。それを保証するのが共通テストといえるのではないか。放っておけば専門性の落とし穴に落ち込んでいく。(2021年4月11日)

ビジネスモデルの変更

ユニクロの製品に新彊綿が使われているか、との記者の質問に対する柳井会長の応答はノーコメントだったという。もはや新疆綿に対する依存が大きすぎて、新疆綿を使わないという選択はビジネスモデルの再考につながる大問題であることはわかる。綿製品を扱うユニクロにとっては答えにくい質問だったと思うが、企業は経営哲学を明らかにしなければ信頼が得られない時代になったのではないか。以前、こんなことがあった。ウィグル人の学生が、近くのスーパーで新彊綿のタオルを見つけ、プレゼントしてくれた。うれしそうだった。ウィグル人の学生は何人も育ててきたが、いずれふるさとに帰り、学んだ知識を活かしたいという学生が多かった。一方で、ふるさとに帰ることをあきらめた学生もいた。権力による差別、人権侵害、自由の束縛には断固反対する。新彊綿生産の実態はどうなっているのか。綿の生産は現場の民のためになっているのか、それとも搾取なのか。貨幣で原料となる綿を仕入れたのだから、その先にある事情とは関係ないということであれば、それは資本主義、新自由主義の思想であり、世界がその修正に向かっている中でユニクロの未来はない。企業は生産の現場の実態を精査しなければ持続が危うい時代になった。いずれ、何らかのステートメントがあることを期待したい。今や安いものを使い捨てる時代ではなくなったということでもある。多くの企業が時代の流れの中でビジネスモデルの変更を迫られているが、貨幣の支配から逃れられないのならば、企業にとっては茨の道である。第三の道があるような気がするのだが。(2021年4月10日)

新緑とこころ

桜の季節は終わってしまった。印旛沼流域の桜の名所を訪問しなければならん、と焦っていたが、結局どこにも行かなかった(新川千本桜の河津桜は満開の一週間遅れで見たのですが)。でも、桜は居所の近くで見るものかも知れない。自宅裏のマラソン道路の桜並木は隠れ名所だと思う。しばらく堪能できた(夜桜が多かったが)。その桜も散り、葉桜になっていますが、一部では八重桜が満開となっているところです。今職場にいますが、駐車許可証の更新のため、生協に向かう。キャンパスではケヤキとクスノキの新緑がまぶしい。気温もちょうど良く、こころが和む。こころは心ではなく、こころだろう。大和言葉のこころ。山折哲雄が書いていた。「『こころ』という柔らかな響き、それは和語であり、『こころ』の岸辺には、われわれの日常的な喜怒哀楽のすべての姿が変幻きわまりない枝葉を茂らせ、花を咲かせているという」。人生はいろいろありますが、こころがあれば、そして自然と交歓することができれば、日々を諒解しながら生きていくことができるのではないか。(2021年4月9日)

探究学習とゼロカーボン

「文科省の『探究学習』は必ず失敗する」という記事を見つけました。それに特化した教員の能力養成などが行われていない(ママ)、というのが主な理由です。著者は東大の伊東乾氏。彼の著書「バカと東大は使いよう」 (朝日新書)は面白おかしく読んだことがあったので、なるほどね、と思う。探究学習の失敗はあり得ることだと私も想いますが、そうありたいという理想を掲げ、学術界では失敗しないように努力が行われているところ。自分も関係者ですので、なんとか成功させたいと思う。ふと気候変動に対する施策を思い出します。2050年ゼロカーボンは達成困難な理想なのですが、達成できるように各界が努力を始めたところです。もちろん、達成のために必要な技術はまだ闇の中です。伊東さんはゼロカーボンも理想だし、技術がないので失敗するというお考えだろうか。それとも、理想を追い求めるのはヨーロッパ思想であるので、地道に努力を重ね、いずれ達成するようにすべきであるというアジア的な考え方なのだろうか。そうであるならはっきり主張してほしい。私はアジア思考の人間なのであるが、理想を求めるマインドは忘れないようにしたい。同時に現実的な思考も大切にして、未来を創っていきたい。未来は誰もわからない。ひょっとしたらどちらも成功するかもしれない。そうなったらすごい。(2021年4月5日)

関係性と場

今日から新年度が始まる。奮起せにゃならんタイミングであるが、どうも最近は心が弱くなってしまっていることが気がかり。老いて定年が近づいてきたこと、世代間の考え方の違いも顕在化してきたこと、といったこともあるだろうと思うが、自分が所属している場、それは関係性がつくる場であり、複数あるのであるが、それらの場の間で価値観や哲学の違いが生じていることもあるような気がする。人生の過渡期であるのでしょうがないのですが、しばらくは落ち着かない状況が続きそうです。(2021年4月1日)

大人の決断として尊重

朝のNHKニュースで新型コロナ禍のもと、退学を決断した学生の報道があった。かわいそう、と思うのは安全側からの“上から目線”だと思う。あらゆる可能性を探り、考え抜いた末に至った結論を私は尊重する。新たな人生を切り拓いていってほしいと思う。一方、大学として何かできなかったのかという思いもある。大学における教育は本当に機能しているか。千葉大学は研究大学なので、研究者の論理だけを伝えていないか。社会の有様を伝えることはできているか。社会で生きる力を醸成できているか。それを伝えたいと思い、講義では脱線しながらいろいろな話をしている。ただし、学生に伝わっているかどうかは不明。学生側からの応答がもっとあって良い。自分で考え、教員に意見をぶつけ、化学反応を起こしながら、修正していくことができるのが大学という場だ。その上での決断なら尊重できる。そして援助が得られる可能性も高まるはず。世の中の不公平や不運に文句を言うだけでは未来を自律的に切り拓くことは困難だ。とはいえ、普通にやっていれば人生を全うできる社会を創りたいものだ。 (2021年3月31日)

本当の高齢化問題とは

それは“サラリーマン高齢者”と内山節はいう(「民主主義を問い直す」より)。会社というシステムの中で人生を過ごし、高齢者になった人々が社会に溶け込めないで孤立していく問題。ステレオタイプかも知れないが、そやなと思う。農村では高齢になってもやることはあるのでそんな大きな問題ではない。もちろん定年後に生き方を変えることができるサラリーマンも増えている。しかし、多くの方々は今まで生きてきた社会システムの中でやっていきたいと思う。現状ではそれが老後の生き辛さを生む。人が生き方を歳とともに変えることができる社会にならなきゃあかん。その芽は出ているので、育てていかなければと思う。(2021年3月30日)

強い社会とは

朝日朝刊の“ひと”欄で、朱戸アオさん曰く、“~多様な価値観がある社会は強い”。その通りやな、と思う。ちょうど読み始めた内山節の新刊「民主主義を問い直す」にはこうある。「~もし強い国家があるとすれば、それは持続する国家と思っています」、「持続性があるということは強いことです」。江戸時代は分権型の国家だから、それぞれの藩や村、町が自立性を持っていた。まさに多様な社会だったわけです。それが太平の世が持続した一因ではなかったかと。明治以降の富国強兵策は結局“弱い国”を作ってしまった。戦争で一回リセットされたが、政府はまた“強い国”を目指しているように見える。それは強いものと肩を並べていなければ不安でたまらん、負けたら一巻の終わりじゃ、という脅迫概念に過ぎないのではないか。軍事、経済の支配に怯えて恐々としている社会は強いとはいえないだろうな。多様性を強さに変換できる社会を創らにゃあかん。たそがれながらつぶやいているだけではダメなのだけれど。(2021年3月30日)

心の治療とはなんじゃいな

看護の先生から本を頂いた。東畑開人著「野の医者は笑う:心の治療とは何か?」。おもしろくて一気に読んでしまった。だから十分に咀嚼していないかもしれませんが、こう受け取りました。心の治療とは、まず医者と患者の間の信頼が必要であり、それがあれば治療は何でもありで、患者が生き様を語ることができるようになれば、それが成果なのだなぁと思う。治療の理論などというものはない、というか多様である。世の中は結構お気軽で何とかなるもの。そんな感覚が人を幸せに導くのではないかなぁ。この本が出版された後、世の中は新型コロナ禍に巻き込まれてしまった。私もいろいろあるが、生き様を語っているので、何とかなるかなぁ。(2021年3月28日)

訴訟という感覚の背景

COVID-19の感染者を出した福祉施設に対して、家族は訴訟を起こせるのではないか、という話を聞いた。こういう発想を誘引する現代社会の精神的習慣があるように思う。それは、資本主義の思想であり、資本主義を駆動する貨幣経済の精神なのだろう。価値を貨幣に変えて、その先にあったはずの関係性を捨象するという感覚である。貨幣でサービスを購入したのだから、サービスに瑕疵があった場合は責任を問わねばならないという考え方。理論的には成り立つかもしれないが、背景にある事情は顧みられることはなく、共感(エンパシー)が発揮されることもない。このような習慣が現代社会を生きづらくしていると考えられるが、そのことに気付くことがまず必要だ。(2021年3月28日)

老いの加速からジャンプへ

地理学会から「永年会員功労賞」を頂いた。入会が大学院1年生の時だったので、私は23歳。40を足すと63になるので、なるほど自動選択された訳だ。それにしても40年は長い時間だ。この間、自分は何をしてきたのか。雑ぱくな性格なので、いろいろなコトに取り組み、意識世界は大分広がったと思う。一つの分野を深めてきたわけではないので、シャープな研究者にはなれなかったが、人より先に気付くということは結構あったかなという気もする。でも、英語で論文は書かなかったので研究の世界でイニシアティブをとるということにはならなかった。そういう状況をよしとする感覚もあり、納得はしているところ。この先どれだけ生きるのか。老いがどんどん加速されている気がするが、このままシュリンクということにはならないような気がする。というのは、自分は重要だと考えた方向に気兼ねなく進路変更できる性格だから。老いというのは、新たな生へのジャンプ台なのかも知れない。着地点は天国か、地獄か。82021年3月26日)

偽善者という感覚

初めて自前でオンラインシンポジウムを開催した。50人超の参加者があったが、結構うまくいったと思う。こんな時代が来るとは、ちょっと前には考えられなかった。シンポジウムのタイトルは「コロナ禍が加速する持続可能な社会の実現に向けた地球環境変化の人間的側面研究の推進」。環境研究における“人間的側面”を、どのようにして可視化していくのか、重要な課題だと認識している。私は、「ポストコロナ社会を創る人間的側面研究」と題して、福島の原発事故を通して語ったつもり。しかし、どうしても“偽善”という思いが頭をよぎる。自分が関わった人がそこにいて、まだ苦しみは終わっていないのに、今の自分は何もやっていないではないか。楽なことだけ自分のためにやっているのだ、といわれても返す言葉がない。自分の発言を実質化しなければならない、と思っても小心者が疲労困憊しているだけ。なかなか諒解できないまま、この思いを一生持ち続けるのだろうか。(2021年3月24日)

「黒子」になる

今日は学術会議のある分科会を開催したのだが、勉強会を兼ねることにした。この分科会は理工系、人社系、農林系の混成チームで、勉強会は互いの理解を深めるのに非常に役立ったと思う。今日は社会系の発表でしたが、私にはほぼ100%同意できる内容であり、協働への第一歩になったと思う。その中で出てきたのが「黒子」。課題解決型の超学際研究では研究者は黒子にならなきゃあかん。これまで私も「目的の共有」ではなく「目的の達成を共有」する枠組みの中で、研究者の役割は相対化されるが、それが論文で評価される研究者の超学際の取組へのネックになっていると主張してきました。ここを乗り越えるためには研究という行為の評価基準を変えなければならないのですが、私は案外楽観しています。人のマインドはある時、ふと変わることがある。その時を待ちつつ、少しずつ種を蒔いていけば良いのだと思う。今、世の中は大変な状況ですが、ここを乗り越えたときには変革が起きる、いや起こさなければいけないのだなと思っています。(2021年3月18日)、

終着駅はどこか

昨年から学会の整理をしていますが、この度二つの学会を辞めました。これで年間1万8千円の経費削減になります。今日は資源ゴミの日ですので古い学会誌も大分捨てました。やめようか迷っている学会、それは若い頃の活動の中心だった学会であり、慣性で会員を継続している学会はまだありますが、来年また考えたいと思っています。歳をとるにつれて関心の対象がだんだん変わってきます。それは人と自然の関係性に関わる学問をやってきたので当然ではないかなと感じています。定年後も研究もどきはやろうと思っていますが、それはカネのかからない研究であり、研究というより探究、創造といった方がよい営みにしたいと考えています。人生は遷り変わりゆくもの。定年を過ぎてもシャープな科学者というのは純粋な理学を深めてきたのならばあり得るかも知れない。でも人と自然の関係性を突き詰めてきたのであれば、その深みは歳をとるにつれて広がるばかり。行動や考え方の変容は必然的なのですが、人の道は一本筋。どこに向かうか、たどり着くところはひとつなのです。どこに向かうのか。終着駅はどこか。(2021年3月17日)

老いを感じさせる件

地理学会から封書が届いた。あけると永年会員功労賞が頂けるとのこと。はは~ん、と思う。地理学会の入会は大学院に入った年で、私は23歳。それに40を加えると63となり、今の齢になる。入会年度+40が機械的に決まる受賞の時期というわけだな。それにしても40年も会員をやってたのか。老いるわけだ。もっと働けということでしょうか。定年後は違う世界に入りたいと思ってるのですが。普段の私だったら、賞なんかいらんよ、と言い放つのですが、複雑な思いです。(2021年3月15日)

あれから10年

今日がその日。福一から北西方向に流れた放射性物質が春の雪とともに阿武隈の山里に沈着した。前日に福島県庁からモニタリングポストが飯舘村役場前に運び込まれ、村の職員が目視で読み取っていた。15時頃から空間線量率が上がり始め、その後20時頃に45μSv/hを記録した。あり得ない値である。この日を境に阿武隈の民は津波被災者の支援者から、原子力災害の被災者へと変わっていった。その時の思いはどんなものだったのか。現実をどのように受け入れていったのか。現実の受け入れを拒む心に、現実が否応なく入り込んでくる。ここから長い苦難の道が始まり、その道はまだ終着地へは到達していない。同じ時間に全く異なる世界があることをしっかり心に受け止めて生きていかねばなるまい。(2021年3月15日)

原子力発電は社会技術になるか

日本原子力学会誌63巻3号の特集“福島原発事故とその後”に水文・水資源学会からのメッセージ(実際には個人的見解も含む)を寄稿したことからシンポジウムの案内があったので参加した。今日は“学会事故調提言のフォローの報告”を視聴していたが、講演者の意識世界の範囲が垣間見えることもあった。そこは私自身のバイアスもあるかも知れない。しかし、その意識世界を乗り越えようとする姿勢も伺え、全体として好感度は高かった。パネリストが原子力発電は社会技術にならなければいけない、ということを主張していたが、その通りである。緊張のシステム(故栗原康)の下で運営しなければならない技術は、その技術の仕組みとリスクを受益者すべてが理解し、リスクとベネフィットを分離させてはいけない、というのが私の主張なのだが、それが社会技術たれということだと思う。もっとも私の考えでは緊張のシステムのもとにおける技術は生存のための技術で、ギリギリの技術でもある。現時点では原子力発電は日本の社会技術にはなっていない。だから新設、再稼働はできないというのが私の主張である。しかし、日本の未来を考えると、原子力発電はあると役に立つ。カーボンニュートラルのためにも必要になりそうである(例えば鉄の水素還元にSMR)。とはいえ、まずは社会技術にならなければならない。それには廃棄物処理も含む。原子力発電利用にはまず哲学が必要なのである。原子力発電を採用した諸外国に負けることを恐れるだけでは情けない。プランAがイノベーションに期待する経済大国への道筋だとすると、プランBとして低収入、低コスト、低負荷で運営できる新しい社会を実現し、諸外国に尊敬される国創りという道筋も考えなければならないのではないか。(2021年3月11日)

生の国有化

朝日朝刊オピニオン欄、経済学者の猪木武德氏の記事より。オルテガの「大衆の反逆」は日本語訳を2冊持っているが(佐々木孝訳、寺田和夫訳)、拾い読みしかしていないことがばれたようだ。早く気が付くべきだったなぁ。「大衆の反逆」の中で述べられている「生の国有化」とは猪木によると「人々が自らの生をすべて国家に委ねてしまい、社会的自発性を国家に吸収されてしまうこと」であり、「オルテガはそれを自由の喪失とみなし」、「現実に20世紀を通じて『生の国有化』は世界中で進行した」ということ。鷲田清一が「しんがりの思想」の中で指摘したように、日本人が安全・安心を国に付託してしまい、クレームを付けるしかやることがなくなった状態と同じと思われる。今は東日本大震災を経て「自立」が必要であることが意識された時代である。この「自立」は菅首相のいう「自助」とは異なるものだろう。首相のいうところの自助は順番に過ぎず、政治の責任を個人や地域に押しつけるものだと思う。自助、共助、公助は、あらゆるレベルで人の安全・安心を確保するということ。それを機能させるには自立した主体における自助“も”なければならないということである。「脱『生の国有化』」はあらゆるレベルで生きること、すなわち暮らしの安寧を確保するということに必要なアクションだと思う。それを可能にする社会とは。地域が自立した社会であり、都市的世界と農村的世界が相補の関係にある社会であろう。(2021年3月9日)

現場中心主義でいきたい

普段テレビを見る余裕がない自分としてはNHK+はありがたい。東日本大震災から10年とのことで震災関連のNスペがたくさんある。今日は「原発メルトダウン 危機の88時間」を見た。やるべきことは現場にあるのだ。SR弁開放の場面における故吉田所長の本店に対する「ディスターブしないでください」という現場の叫びは心の雄叫びだ。本店も何とかしなければならないという気持ちの表れではあるが、現場の状況、現場の努力、現場の気持ちがわからないまま頭で考えた上意下達の指示。エンパシーの欠如。それは現在の新型コロナ禍においても既視感となって顕れる。あの事故で東日本壊滅とならなかったのは偶然に過ぎない。東日本壊滅は土地と人の壊滅、それは国としての日本壊滅と同義だろう。トップというものの資質を問わなければならない時代。吉田所長も吉田所長役の大杉漣も死んでしまったが、それぞれの時代を生き抜いた。良い国を後世に残したいものよ。(2021年3月7日)

定年フラグ立つ!

今日の会議では来年度実施の入試の募集要項の承認があったが、教員紹介のページで私の名前の横に定年フラグを発見。もう時間がないので主任指導教員にはなれませんよ、という意味。いよいよ大学人生も残すところ2年となった。他の人を確認すると、ずっと年上だと思っていた方が同い年だったり、年下だったり。すっかり年寄りになってしまった。定年後は狭いエリート研究の世界には留まりたくはない。今から助走を始めておかねば間に合わん。新しい世界へ。その世界は研究ではなく、探究の世界になるはず。(2021年3月4日)

生きづらさの訳

そんなこと誰でもわかっている。でも、動く勇気が無い、といったところだろう。今日の朝日でも、原発事故の国会事故調査委員会の委員長を務めた黒川清氏が縦割りを指摘していた。同じ組織で勤め上げる社会では、組織の内部に心身共に取り組まれてしまう。勇気を持って進言しても、組織から外れてしまえば生きていくことが困難になってしまうのだ(と思い込んでいる)。やり直しができる社会、一転びアウトではなく、何度もやり直しができる社会になれば、人はもっと自由になることができる。日本は良い国になるだろう。ちょうど、NHK+で番組「逆転人生」を見た。もと東電社員の物語だ。福島に派遣されて苦難を経験したが、勇気ある彼らは心の安寧を得ることができたのだと思う。誠意を持って地域に対峙した。地域の方々は会社よりも人を見てくれた。実は生き方を変えることは勇気は必要だが、やってみると以外に簡単なのかも知れない。自分は常々、農村の強さを主張し、都市的世界と農村的世界のどちらにも身を置くことができることを理想と掲げているが、最近は言行不一致が悩みの種である。昨日、農村計画学会MLで上田にある長野大学の公募の案内があった。のぞいてみたらぴったりではないか。千曲ワインバレーは気になっている地域のひとつで、考えちゃおうかと思ったが、〆切まで時間がない。講義計画も立てなければならん。せめて一月あったら応募したかも知れん。人生最終コーナーは生き方をすっぱりと変えて、安寧を得たいものだ。(2021年3月2日)

エンパシー(共感、共有性)による日本の変革

週末はNHK+で番組チェックをするのだが、今日は「こころの時代~宗教・人生」の「私にとっての3.11『福島を語る言葉を探して』」。登場人物は安東量子さん。彼女とは2017年11月26日に山木屋で開催した福島ダイアログセミナーの主催者としてお会いしたのが最初だった。2019年10月に山木屋のお祭りと双葉から移植した彼岸花を見に行ったときにもお会いしたのだが、NHKが取材していた。この番組は2019年11月放送分の再放送だったが、ひょっとしたらその時の映像が収録されているのかも知れない。その時お会いした双葉の田中信一さんたちも画面で再会することができた。中間貯蔵施設の用地となった双葉のご自宅の状況は伺っていたが、映像で知ることができた。彼岸花を引き受けた菅野源勝さんは、“お互いに避難生活をしてきたのだが、双葉町の方々の思いを知ることができて大人になった”、と語った。自分はふるさとに帰ることができたが、双葉町は変わってしまった。そのことを知ることができて大人になったと。安東さんも震災の後は人によって置かれた状況が分かれてしまった、それが生きづらさを生んでるが、それをわかり合うことができればいいなと語った。それこそがエンパシーだと思う。原子力災害の被災地では暮らしの再建はまだまだこれからだが、エンパシーの感覚が被災者の間だけではなく、日本の社会の中で共有できれば日本は変わることができるはず。安東さんは、お互い大変だったね、くらいでもいいと言うが、それが"ひと"というものではないだろうか。ひらがなの“ひと”は大和言葉。“こころ”の中に怒り、苦しさ、辛さといったものは押し込めてしまうのだ。被災と関係なく日本の社会は営みを続けるかも知れないが、お互いわかりあおうとするエンパシーの心が人を、社会を変えていくはず。(2021年2月28日)

学術フォーラム「危機の時代におけるアカデミーと未来」を聴講して

自分も関係者に違いないので、聴講しました。各界の講演者の話を聞いて頷く部分もあるのですが、ちょっと~と感じる点も多い。異分野融合について、特に文理融合について努力が見えていないんだな、というもどかしさがある。学術会議の活動に対する誤解がいまだあり、どう対峙したらよいのか考え込んでしまう。でも、提言するなら行動せよという言葉は、その通りだと思う。行動、実践が鍵だと思う。我が国の一般意志(ルソー)とは何か、という問いかけも心に響く。私は都市-農村関係に解があると思っている。平田オリザ氏が強調したエンパシーは、やはり時代のキーワードなのではないだろうか。日本人は対話(異なる価値観のすりあわせ)が下手。確かにそうだ。パリ講和会議では対話ができなかったドイツ(不参加)、イタリア(切れた)、日本(発言しなかった)が次の対戦を引き起こしたという。なるほどと感じ入る。シンパシーからエンパシーは、同情から共感へ、同一性から共有性へ、と言い換えることができるとのこと。日本では会話があっても対話がない。コロナ禍の中で大臣が言った"家族と一緒に過ごしてください"という言葉の中に、HOUSEはあってもHOMEがないのではないかと指摘する。命のつぎに大切なものを理解するのがエンパシーという言葉も納得できる。若手からは、提言については複数の考え方を提示すべきという案はその通り。私は”~べきである”という表現がきらいである。複数の提案はPielke(2007)のHonest Brokerの態度でもある。複数の考え方の間の対話こそが新しい時代を創るだろう。そのほか、博士の学生のキャリア形成のあり方など、考えるべき課題を頂きました。学位取得者がもっと他分野、特に行政に出ていける雰囲気を作らなければあかんなと思う。最後に、パネル討論から出てきたことですが、科学者も社会を構成する一員ということ。科学者と社会は分断されているわけではない。私は科学者は"ひとり"なのではないかと思う。普段は普通のひとであり、社会のなかのひとなのだが、科学者の時は大和言葉の"ひとり"になるということ。ひとりのときは社会を外から眺める立ち位置に身を置いているのではないか。もう科学者は研究界という小さな世界に閉じこもっている存在であってはならない。(2021年2月27日)

人生とは

苦しさ、つらさ、悩み、後悔、悔しさ、悲しみ、...こんなもんでできあがっているのが人生ではないか。それが普通の状態だ。だから、少し安寧な時期が続くと、ひとは弱くなってしまう。それが現在の状況ではないか。だから、こんな時こそ利他ということが必要になってくる。でも、利他を行為とするには勇気が必要だ。せめて利他を思うこころだけは持ち続けたいと思う。手塚治虫「ブッダ」全13巻を読み終えて。(2021年2月27日)

問題の解き方

どうもこれが変わってきたのではないか。以前は個別の課題ごとに解を探索するやり方であったが、それは資金があった時代の話。今は事象を個別の要素ではなく、要素同士が相互作用するシステムとしてとらえ、全体を最適化する中で個別の課題を解決するやり方でなければ課題解決はできない時代になった。印旛沼流域水循環健全化会議の行動連携推進委員会の議論を聞いていてその思いを強くする。その方法の一つが流域治水だと考えているのだが、治水となると水害対策という意味合いが強くなりすぎるようだ。その心は地域創りにあり、地域を良くする営みの中に水質の改善も入ってくるのだが。別の呼称を考えた方がよいかもしれない。流域一貫計画、地域形成計画、治山治水計画、景観計画、...どうもしっくりこないがまだ考える時間はある。(2021年2月26日)

真の解決力

NHK+でTVシンポジウム「グローバルコモンズ」を見ました。でも、何となく違和感があります。登場人物同士で褒めあっているような感じで、中村雄二郎「臨床の知とは何か」の冒頭にあるチェホフの話を思い出します。時々これはという意見も聞きましたが踏み込みが足らない。表面を眺め回すだけで、内側をみようとしていないようです。都市的世界観に基づく議論のように感じ、都市の外側の世界、生業の現場を見ていないようにも思います。世界を良くしようとするのなら、現場に入り込み、様々な事情を理解した上でなければ、真の解決力は生まれないのではないだろうか。番組のつくりとしてしょうがないのかも知れませんが、自分は環境問題に対してはエリートとは異なる側で関わりたいと思う。(2021年2月23日)

仕事と哲学

今日は佐倉の農家さんの手伝いに出かけました。2019年の台風で倒れた杉を皆で撤去するのが主要任務です。私にとってはチェーンソー本格デビューであり、不安もありましたが、冷蔵庫くらいの杉を輪切りにすることができました。輪切りになったことを見た近所の農家さんが巨大な丸太を整理するためにユンボを出してくれましたが、チェーンソー効果はでかかった。雑木も数本切り倒すことができ、一気に林業技術の経験値が上がりました(思い上がりが危ないのですが)。台地の斜面林は荒れているところが多いので、整備して落葉広葉樹の里山にしたいというのが定年後の夢です。クヌギ林にして佐倉炭を復活させたい、なんてことも妄想しています。手伝いにはいろいろな人が集まってきますが、皆さん明るく、オープンで、話しているといろいろな人生が垣間見えるのが良い。お昼は農家さんがつくった玄米餅、黒米や緑米の餅と味噌汁。もちろん味噌と醤油は手作り。なんて豊かなのだろうか。皆さんいろいろな経験を積んでいるので、その意識世界も広い。翻って研究者の意識世界はと考えると、かなり狭いのではないか。ちっちゃな世界の中で見栄を張り合っているという感じ(もちろん、そうでない分野もあります)。今日は職場の期末評価のための書類づくりに参加しなければならないのですが、何のための評価、誰のための評価、なんて考え始めると空しくなります。文科省の覚えめでたくなり、お取り潰しをなんとか免れるための作業だろうか。もちろん、税金で仕事をしているのだから説明責任があるという考え方もあろう。しかし、イギリス発祥のアカウンタビリティーとは、設定された仕事が達成されたかどうかを説明するということです。まず管理者が仕事というものを、その哲学(基本的な考え方)も含めて定義しなければならないものなのですが、自分で仕事を考えて説明せい、というのが今の大学評価です。哲学が示されることもなく、評価基準も数値指標に偏っていますが、実はその背後には意識しない哲学があるように思います。何を重要と考えるのか、という哲学であり、強者の中で肩肘張って、勝利することを至高の目的と考える哲学と言ってよいかもしれない。そんなのは上位の職階にある人が安心したいだけであり、西洋に追いつきたい時代の古い思想に過ぎないのではないだろうか。現代の研究、特に環境(人と自然の関係)に関わる研究は独自の哲学の存在が前提になければならないと思うのです。なぜなら、日本は低成長時代に入り、これまでとは異なる社会のあり方を考えなければならないからです。青空の下、汗を流しながら、この社会のあり方を考え続けています。定年も近くなり、組織からの逸脱が進行しているようですが、仕事に哲学がなかったら、それは単なる稼ぎです。大学も稼ぎの場になってしまったのか。(2021年2月21日)

森さんと寅さん

東京オリンピックはどうなっちゃうかなぁ。橋本さんは大変だろうが、がんばってください。森さんもとんだことでしたが、いろいろ事情がわかってくると残念だったなぁと思います。森さんは調整型リーダーで、元総理ということもあり利害も絡むIOCに対する交渉力は抜群だったとのこと。調整型リーダーというと寅さんを思い出す。あっちいって話を聴き、こっちで話を聴き、ふんふんと頷いているうちに何となく治まっちゃう。時には失言をしてハチャメチャになるが、“バカね”といわれて収まっちゃう。それは寅さんのいる世界がローカルコミュニティーだから。森さんはグローバルコミュニティーの中にいる。思想、価値観、哲学、等の異なる集団の中で言ってはいけないことを言ってしまったのだな。森さんも齢80を超えてる。生きてきた時代の慣性から抜け出すのは大変。それは私も同じ。新しい時代の雰囲気を理解する努力を怠らないようにせねば。(2021年2月19日)

カネのかからない研究

「公的研究費用の使用ルールに関する理解度テスト」eラーニングの未受講者の最後のひとりになってしまい、観念して受講しました。文章を読んで、クイズに答えるという形式でしたが、書かれていることはすべて正しい。いや、もうほんとにその通りなのですが、何でこんなことやらにゃあかんのか、モヤモヤっとした思いがわき上がる。私はシニアなので、もう予算なんかとってくるもんか、などと思ってしまうのだが、若手はそんなこと言ってはおれんだろう。でも、こういうことで若手研究者のマインドがだんだん変わっていってしまうのではないか。権力の存在を常に上方に感じ、ルール通りに実行する習慣は研究という知識の生産の行為において新しいコトを生むだろうか。ある委員会で某大先生が、これからはカネのかからない研究をやろうよ、といったことを思い出す。心底から同感である。そういう時代になったのである。新しい学術を創る必要がある。いや、底流にあるものを奔流にせねばならぬ。それはブダペスト宣言の“知識のための科学”以外の3つの科学の実践である。やっぱり、自分はひねくれているなぁ。(2021年2月16日)

未来の見立て

最近自分はひねくれてばかりいるなぁ。今日は成田空港株式会社NAAの地域環境委員会があったのだが、委員会終了後に頂いたメールにまた余計な返信をしてしまいました。

 最初にゼロカーボンの話題がありましたが、現実にはイノベーション頼みで達成はかなり困難だと感じています。しかし、国際的な(正義と悪を分断する一神 教の精神に依拠した)潮流の中で言わざるを得ないという状況にあると思います (NAAだけでなく世界が)。/ そこで、プランBとして「地域の環境回復」があるのではないかと思っています。成田周辺は縄文時代から人が住んでおり、斜面林や谷津は里山としての利用 が人と自然の良好な関係を保ってきました。/ 里山に人が関わり、資源を循環させる試みの中でカーボンオフセットも考えら れるのではないか。例えば、木材の資材としての利用、チップや薪の燃料として の利用はCO2の放出を押さえることができるのではないか。 ⇒佐倉炭復活の運動もあります。/ 2050年には人口数、人口構成、都市-農村関係、といったものが大きく変わり ます。現在でも田園回帰の潮流は確実にあり、人の意識も変わりつつあります。 コロナ禍がそれを加速しています。/ 時代の流れの中で空港の役割は変わってくるのではないか。なにより社会からの信頼を得ることが大切です(ESGの流れの中で金融界の信頼も大事)。信頼を 醸成するプランBは大切ではないか。羽田にはない良好な環境が成田の周りにはあります。/ スターウォーズではジェダイの騎士たちは隠遁生活時にプリミティブな暮らしをしていますが、その中に科学技術は取り入れられている。いざとなったら空港から宇宙に向けて飛び立つことができる。都市的世界と農村的世界を行き来できる近代文明人の姿がジェダイの騎士なのではないか、成田周辺がそんな世界になればなんてことを妄想しています。

こんなことを言われても迷惑だと思いますが、さて、私の見立ては正しかったということになるだろうか。2050年は私は生きていないが、2030年の状況は見ることができる可能性はある。(2021年2月15日)

時代と科学

「新たな地球観への挑戦-地球惑星科学の国際学術組織の活動と日本の貢献-」という学術フォーラム(学術会議主催)を聴講した。地球観という言葉が気になったのだが、地球観に関する議論はなかった。あるいは私が考える地球観と科学者の地球観が乖離してしまったのかも知れない。このフォーラムは誰に向けて発信したものか。それが為政者ならば外交のリソースとして科学力が必要なのだ、という主張が重要ではないか。主催者の視線の先に”国際”があるのであれば。また、対象が大衆ならば、暮らしの安寧に関わる科学としての主張が大切だと思う。日本は縮退社会に入り、為政者、大衆、科学者の視線が交わらなくなった。20世紀の経済成長期ならば同じ方向を見ることができたのだが。科学のあり方も時代のコンテクストで考える必要がある。(2021年2月15日)

チック・コリア逝く

また自分の生きた時代が過去になっていく。高校まではフォーク少年だった自分が、大学に入ってからはジャズを聴こうと思い、まずLPを買うことにして入手したのがオスカ・ーピーターソン・トリオだった。オスカーの名前は何となく知っていたから。当時は大学生協でLPを売っていた。その次くらいに買ったのがreturn to foreverだったように思う。チック・コリアの名前も知らない大学1年生の時。なぜかというと青い海原をカモメが低く飛ぶジャケットの写真に魅せられたから。聴いてみたら素晴らしい。完全にチック・コリアにはまってしまった。浪漫の騎士はベースのレベルが高く、普通のプレーヤーだと再生できないということでしたが、自宅の周りが竹藪でしたので大音量で聴いて家族には迷惑をかけた。腹に響く低音は住宅が増えた今では出せなくなってしまった。ジャケットのイラストがファンタスティックなフレンズ、妖精、マッドハッターはお気に入りのアルバムだった。大学院の時、街頭に照らされた夜のペデストリアンを自転車で帰る時、マッドハッターのジャケットの世界がよみがえった。リターン・トゥ・フォーエヴァーに続くクリスタルサイエンスではフローラ・プリムのボーカルに大人の世界の魅力を感じたものだ。私のチック・コリアは70年代の思い出で、その後のチックは知らない。チックは逝ってしまったが、チックを聴くという私の老後の楽しみは増えた。(2021年2月14日)

学問、学術、科学

今日の地球研セミナーで谷口さんから聞いた話。学問、学術、科学の順でその営みは専門家のものになっていく。なるほど、その通りだと思う。学問は一般大衆を含む皆のもの。科学というと専門化された科学者の営みという感じがする。学術は科学の集合体といった意味合いがあるように思う。ただし、ちょっと待てよ。オープン・サイエンス、シチズン・サイエンスの時代、市民みんなが知識生産の担い手になれるのではないか。知識の価値も、先鋭化された最先端の知識だけではなく、平和や社会のための知識に拡張されているように思う。科学技術が創り上げた近代社会において、文明が発展し続けなければならないという束縛から解放されたならば、新しい学問、学術、科学の関係も考えられるのではないか。(2021年2月14日)

存在の意味

今日のNHK「所さん!大変ですよ」では新型コロナ禍における大学生の窮状に関する話題があった。アルバイトが途絶えた学生の大変さは想像するに余りある。職場では期末評価用の書類作成が山場を迎え、如何に素晴らしい業績を上げたか、という作文に四苦八苦しているが、本来ならばこんなことやっている場合ではないのではないだろうか。研究費を削ってでも授業料を減額してもよいと思う。大学は何のために存在するのか。それは教育と研究なのであるが、研究ばかりが優先され、教育が疎かになっていないか。千葉大は第3群大学、いわゆる研究大学だからしょうがないのか。だったら、高校生諸君、これからの時代は研究大学以外の大学へ進学した方が人生のために良いかもしれないよ。(2021年2月11日)

競争より共創

ドローン農業に関する研究会を開催しました。参加者は60名、登録者は74名もありました。初めてドローンを知ってから、何とか農業に役立てたいと思っていましたが、若者たちが頑張ってくれました。これで安心して引退できます。その冒頭の挨拶をメモしておきます。

 本日は「スマート農業のためのリモートセンシング技術に関する研究会」にお集まり頂きありがとうございました。この研究会も2回目を開催することができましたが、そこには縁というものを感じます。
 千葉大学は工学部で国産ドローンの開発を進めていましたが、原子力災害の現場におけるデモフライトの仲介をしたときに、ドローンを初めて知りました。
 福島では国の仕事もしていましたが、規制庁の委員会で地図センターから出向していた田中圭さんに再開し、ドローン談義で盛り上がりました。
 その後、自分でもドローンを購入し、農業へ応用したいと考えていた時に参加した農環研主催のシンポジウムで千葉県農林総研の鶴岡さん、望月さんに出会いました。
 その頃、濱さんが大学院に入ってきてドローンに取り組む中で、田中さん、濱さん中心に築くことがで来た縁が今日お集まり頂いた皆様です。
 皆様と新しい時代の農業を拓いていきたいと思っていますが、私は農業には二つの側面があると思います。
 それは①稼ぎ(ビジネス)としての農業と、②地域や暮らしを造る農の営み、の二つです。私は後者に軸足を置き、前者も見据えたドローン農業を創っていきたいと考えています。
 地産地消、地域でカネや資源を循環させる地域経済、といった時代の流れは地方創生の政策の中で確実な潮流となっていると思います。そして、それをコロナ禍が加速しているともいえます。
 技術というものは生産の現場で農家さんに活用されて、初めて意味を持ちます。ドローンはその段階に近づいてると思います。
 ポストコロナの、これまでと違う社会を創る営みの中にドローン農業もしっかり位置づけたいと思っています。
 本日は長丁場ですが、よろしくお願い申し上げます。

ドローンの農業への応用は競争より共創で実現したい。一番強靱な生業は農業であり、兼業がその安定性を増すと思っているからです。地域経済圏を強化することによって、強い地方を生み出し、都市と農村の関係をこれまでとは違う形にしなければならないと思っています。なんといってもドローンはおもしろい。農の営みをさらに楽しくすることができる。もちろん、ドローンが無くても農業はできるが、楽しんで、自慢の作物を生産することができれば、それが生きがいの実現でもある。もう、ドローン技術はそんな段階に到達していると思う。もう一歩である。まず農村を強くしたい。そして都市と農村を対等にして、人が相互に行き来できる社会こそ、私が想う未来の社会である。この考え方は10年前に原発事故に際して農村計画学会に提出したステートメントと変わっていない。社会の底流と同じ方向を見つめているような気がしているのだが、最近その想いはますます強まっている。せっかく成長した技術を競争の弊害で埋もれさせたくはない。そんな兆候もあることが心配でもある。(2021年2月6日)

EquityとFairness

この二つの言葉の意味の違いは気になっていましたが、今日参加していたワークショップでも議論になりました。話を聞きながら思いついたことをメモしておきます。Equityの判断基準は合理性(rationality)ではないだろうか。合理性は定量的に求めることもできるが、現場では合理的ということになったかどうか、という思考が入る場合もあり、それが問題の要因にもなる。一方、Fairnessは合理性に加えて、共感(empathy)と理念ないし原則(philosophy)が入ってくる。よって共感と理念を共有するコミュニティーの存在が重要になる。よって、Equityは普遍性、Fairnessは個別性を重視することになるだろう。地域ごとに異なるFairnessが存在することになる。それはグローバルとローカルの関係の考え方にも通じる。グローバルは多くのローカルから成り立っているから。このEquityとFairnessを包摂する基本的考え方を確立することが大切だと思う。(2021年2月4日)

不幸へ至る道~3H~

最近世の中が重苦しくなっており、こんなことばかり考えていますが、ふと思いついたことを書いておきます。否定(Hitei)、悲観(Hikan)、人のせい(Hitono...)の3Hは不幸に至る道だと思います。3Hは何も生み出さない。この裏返し、すなわち、肯定、楽観、自律が幸せに至る道となるのだと思います。なぜ人は3Hに陥ってしまうのか。それは、誰かに助けてほしいという心の叫びの裏返しなのだろう。3Hに出会っても怒らないことが大切だと思います。(2021年2月4日)

アメリカ型とヨーロッパ型、そして日本型

今日のある評価委員会で興味深いことがあった。Transdisciplinarity(TD)研究の方法論に関するプロジェクトの評価が一部の外国人評価委員には評判が悪いのである。外国人といってもアジア系なのですが、アメリカ、オーストラリア在住です。それはアメリカ型の学際型TDの考え方ではないだろうか。あるいは論文の業績を重視するタイプの研究者なのか。課題解決型、社会運動型のTDの考え方を持つヨーロッパ系の委員がいたら別の考え方も出たのではないか。日本の学術会議系の研究者はブダペスト宣言以降"社会のための学術(science)"を模索しており、この研究機関のミッションでもある。20世紀型のscienceからは脱却しているともいえる。TDの基本的考え方の模索はこの研究機関においては避けられない課題であろう。日本型のTDのあり方があってもよい。私は、といえば日本人型の態度で逡巡して発言できませんでした。英語を捨てた身の上にはつらい。同時通訳もあったのですが、英語を使うべき、という外国の大先生の発言があり、気後れしていました。ここは日本なんだから日本語でいいやんけ。エリートにはなりたくないもの。(2021年2月3日)

評価の哲学

歳をとったせいか、最近は評価の仕事が多い。今日は二つの仕事がバッティング。一つはある研究機関の外部研究者による当該機関の研究プログラムの評価。これは徹底的に研究という行為の本質が問われる厳しい評価である。もう一つは財務省-文科省-大学-部局というヒエラルキーの中、そして文科省と他省庁とのせめぎ合いの中での評価に対する準備のためのヒアリング。こちらの評価は何が評価されるのかよくわからないのである。いや、外形的な部分が評価の主体ということは実は自明で、誰が幸せになるのかというと、評価を実施する主体側である。そして、評価される側は膨大な作業に疲弊するのである。評価の理念があり、それが共有されていれば作業の苦労はいとわないのであるが、評価の哲学がないということが暗黙の了解なのである。これでは日本の学術の力は損なわれるばかりである。なぜか。それは文科省に哲学がないから。学術の真の価値が理解されていない。だから、経済重視の政治に流される。日本の屋台骨を支えているのは教育・研究の力なのに、文科省に哲学、気概がないのである。一方、評価される側もこんな状況に適応してしまっているのである。学術会議の件でわかったように多くの大衆も学術の価値を理解していないのである。日本の力が削がれつつあるというのに、我々は何をしているのだろうか。(2021年2月3日)

知らない世界

やんなきゃならんことがたくさんあるのに、ついNHK+を見てしまう。Nスペ「“夜の街”で生きる~歌舞伎町 試練の冬」。歌舞伎町は飲みに行ったことはあるが、ディープな部分は未知の領域である。新型コロナ禍で苦労されていることは聞いていたが、映像で見ると現実が伝わってくる。夜の店も生業であり、職業に貴賎はないのである。ただ為政者の知らない世界であるために、政策が現場とマッチせず、現場にしわ寄せが行ってしまう。政治家こそ総合的・俯瞰的な観点から現場に対処しなければならないはず。そうおっしゃっているでしょう。政治と現場が分断されていることと、政治がエリートの仕事になってしまっていることをコロナ禍では強く感じる。知らない世界を知ることに努め、公平な社会を築くことこそ政治家の仕事である。このことは科学者にとっても同じである。(2021年1月31日)

人生を一言で言い表すと

私の場合は「中途半端」。いろいろなことに関心があり、それなりにやってきたがみんな中途半端。総合力はある程度身に付いたかも知れないが、使い物にならない。半藤一利は「漕」。ひたすら漕いできた一生だった。半藤一利の著作は読まねばならんと常々思っているが、まだ達成していない。やるべきこと、考えなくちゃあかんことが多すぎて、中途半端が仕事のパフォーマンスを下げている。いつになったら乗り越えることができるのか。ETV特集「一所懸命に漕いできた~“歴史探偵”半藤一利の遺言から」を見て。(2021年1月31日)

言行不一致

今日はもう一つETV特集の「エリザベス この世界に愛を」が忘れられない番組になった。入管施設に収容されている外国人の問題は気にはなっていたが、これまでは人は生まれ育った故郷で暮らすのが幸せであり、日本は紛争や貧困の解決のための外交努力をすべきだと考えていた。その多くが難民である収容者の心の支えとなる活動を行っていたエリザベスさんのことを知ってしまった今は、高みからの視点だったなと思う。映像の力は強烈である。日本は難民に対してどうしてこうも冷たいのだろうか。欧米のエリートは好きなのに、非欧米系の大衆には優しくない。難民以外にも技能実習生、出稼ぎ、留学生の就労問題等、問題は山積である。世界に開かれたグローバル国家をめざすのであれば、普通の外国人に対して優しくなり、受け入れる態度が必要なのではないか。日本は言行不一致である。日本社会のあり方について総合的・俯瞰的観点から哲学(基本的な考え方)を聞きたいものだ。世界がグローバル化した現在、外国の方々との共存、共栄を受け入れなければならないのではないか。皆さん、良い人ばかりなのに。(2021年1月30日)

永遠のいのち

週末はNHK+で番組をチェックすることにしているのだが、先週の「こころの時代~宗教・人生~」は飛騨千光寺の住職大下大圓さんの話だった。良い番組を見ることができた。この方は看護学研究科の災害看護専門職連携実習に参加して頂き、私もお会いしたことがあった。今回のテーマは「生死を物語る」。その冒頭、歴史・人文学的には 「死は敗北ではなく、光に導かれて苦しみから解放されること」というお話があった。これが宗教的な死である。近代科学は死を一巻の終わりにしてしまったが、私自身は昔から命の永遠性があるような気がしてならなかった。もちろん、科学的な死を頭では理解しているが、永遠性を思うことが“こころ”の穏やかさを生み出すのではないか。この場合の命は“こころ”と同様に大和言葉として“いのち”と書くべきだろう。現実世界では人生は公平ではない。いろいろな人生がある。でも、永遠の“いのち”を想えば何とかやっていけるのではないか。そんな気がするのである。 (2021年1月30日)

まるごといんばぬまWEBシンポジウム開催

新型コロナ禍で規模を縮小しての開催になってしまいましたが、表記のシンポジウムが開催されました。とにかく、みなさん明るい!それが幸せの秘訣だと思います。基調講演を偉そうにやった後に、パネラーとの対話があり、その総括をしなければならなかったのですが、ちょっと勘違いして自分の感想を話してしまいました。ここで改めて、記載しておきます。みなさんの様々な活動を知りましたが、それらの営みを共有できる場として「まるごと印旛沼」はすばらしい存在だと思います。話を伺ってると、皆さんの思いは共通なのではないかという気がしてきます。社会を変えたいということを私はお話ししましたが、そんな思いの底流あるいは潮流といったものが確実にあるように感じます。その変化は“地方の時代”という流れの中にあるような気がします。その流れの中で実践するということが大切なのだと思いますが、その実践をボトムアップで行政に伝え、行政の縦割りを横つながりに変え、そこに市民がつながることにより、印旛沼流域を“ふるさと”に変えて行くことができるのではないか。そんな未来を期待しています。なお、時間が無くて話せなかったスター・ウォーズの引用はこういうことです。画像はオビワン、ヨーダ、レンの住処でした。みなプリミティブな暮らしをしている様ですが、科学技術の成果は暮らしの中に取り入れられており、それらの道具を自分たちで修理することもできる。いざという時がきたら惑星間を航行できる宇宙船を自分たちで整備して飛び立つこともできる。これこそ近代文明ではないか。振り返って我々現代人は文明の利器の仕組みを理解して、時には自ら修理もして、ベネフィットとリスクの関係を分断させずに使うことができるか。自動車、飛行機、原発、...。できそうもありませんが、この状況はオルテガの文明論によると、近代文明は衰退に向かっているということになる。スタインベックの「怒りの葡萄」の中では、西海岸に自動車で向かう家族が、時にはエンジンのシリンダーまで分解して修理して使っている。それこそ文明と人のよい関係なのではないか。我々の暮らしと文明のあり方を再考してみる必要がある、ということでした。(2021年1月24日)

議論するより実践しなさい

老いた。満63歳になってしもた。プレゼントはあつ森でケーキをもらった。気持ちを頂いておきます。ギターの弦を巻いたら3弦が切れた。これは新しい弦にしてGENKIを出せということか。3弦はGですので。手塚治虫「火の鳥」全13巻(角川版)を読み終えた。火の鳥に象徴される根源的な宇宙の意思といったものが確かにあると思う。運命を信じ、人生をいじくり回さず、ありのままに、穏やかに暮らしていきたいものだと思う。こんなことを思っていたら、緒方貞子さんの言葉に出会った。「議論するより実践しなさい/アクションを起こしなさい/しかも今すぐに」(NHK+、「緒方貞子さんが遺したもの」)。世の中は危機の真っ最中である。なにすべ。それは目の前にある“こと”に取り組むことだろうな。小さい、大きいは関係ない。このところずっと“こころ”が弱っているが、また起き上がろう。(2021年1月23日)

研究における社会貢献とは

今日は職場の外部評価委員会だった。社会貢献はこれからの研究者における重要な課題であるが、研究者間で大きな認識の断絶がある。なかなか合意が得られないのだが、そんな時は誰が、何がステークホルダーか、ということを考えると良いと思う。国がステークホルダーでも良いし、問題の現場における当事者がステークホルダーでも良い。ただし、そのことを意識するとともに、ステークホルダー全体の構造を俯瞰する必要がある。しかし、ここが達成されていないのである。ステークホルダーには階層構造があり、ステークホルダー間の対立もあり得る。関係性が分断されたステークホルダーがあり、一方が顧みられないこともある。これは社会全体の問題でもあり、研究者も含む市民全体が自らの社会を俯瞰できるようになるには時間がかかりすぎるだろう。難しい問題でもあるが、トリクルダウンがないということは認識しておくべきだと思う。すなわち、論文を書けば、自然と社会に還元されるという仮説である。社会に研究の成果を実装するには研究以上の行為が必要なのである。現在の評価システムではそこを評価する仕組みがない。(2021年1月22日)

やってみなはれ

どんどん自分が“ふるいひと”になっていくようだ。職場の将来計画に関する打ち合わせで、若手にとっての研究の価値が数値指標や権威への参加であることが図らずも確認されてしまった。自分は"わがままな大学人"の最後の生き残りかも知れない。自分の研究人生では周りの研究者とは違う方向を常に目指し、それなりにうまくやってきたと思う。プロジェクト制が主流になる前に運良く職を得て、この世界をうまく乗り切ってきたと思う。そんな自分が若い世代を見ていると、研究者のマインドが変わってしまうのではないかとの懸念を抱いていたが、すでにそれは実現してしまったようだ。同時に自分は"ふるいひと"になっていく。若手もそれなりに楽しくやっているのだからもう何も言うまい。“やってみなはれ”はサントリーの創業者である鳥井信治郎の言葉。失敗を恐れず、行動し、学びながら改善していけばいいということ。その通りなのだが、環境に関わる研究は理念、哲学を持たにゃあかんと思う。応用を語るのならば、問題の現場で営まれている様々な行為を知らなければならないのである。論文を出版すれば、自分ではない誰かが、それを役立てるわけではないのである。いっそ、基礎研究であるという立場を明確にした方が潔い。でも人は自分で実践し、その中から学んでいかなければならないのだろう。結局、“やってみなはれ”だ。私は“ふるいひと”になっていく。(2021年1月20日)

当世若者気質

オンデマンドとオンラインのハイブリッドでやっている講義の補講を行った。参加者が6人だったのでビデオをオンにして討論しようと提案したのですが、誰もオンにしてくれない。なぜだろうか。意見を言って批判されることを恐れているのだろうか。SNSにおける昨今の誹謗中傷は度を超している状況の中、若者は殻に閉じこもっているのだろうか。未来を担うのは若者である。しかし、現在を仕切っているのは過去の慣性から逃れられないシニア。右肩上がりの時代だったらそれで良いのかも知れない。しかし、現在は縮退の時代である。若者自身が考えて、実行しなければ未来は築けない。でも、若者に意見を無理矢理求めると、ナイスなアイデアも時々返ってくる。今は雌伏の時で、反転の機を伺っているのか。そうであってほしいなと思うが、今がその時ではないのかなぁ。(2021年1月16日)

科学と社会の関係

同じく朝日朝刊科学欄から。えのきさんによると、「科学と社会の関係は、いま構造の組み替え時期じゃないかなと感じています」と。私もそう思っている。また、「選ばれた少数の科学者がやっている研究を『すごいね』と見ていた時代から、人々が当事者として科学に関わる時代になってきたのがこの10年」という。その通りである。私は人々自身がプレイヤーとして実践する科学の分野と、直接実践できなくても人々が科学の意味を知ることが大切な分野があると思う。前者は環境に関わる科学。環境を良くするということは地域をよくするということであり、その営みに人々が参加する時代になった。さらに、地域の成果をグローバルの営みの中に位置づけて理解する必要が出てきた時代で、それは後者になる。「はやぶさ2」では人々は「すごいね」の科学の成果を堪能したが、その背後にある科学技術外交のあり方まで理解する必要があるのだろう。科学がエリートによるエリートのための科学である時代は終わった。 (2021年1月14日)

「エンパシー」を出発点に

この欄でエンパシーについて初めて取り上げたのが昨年の正月だった。ブレイディーみかこ氏と福岡伸一氏の対談記事であったが、その後、いろいろな場面で耳にするようになった。今日は朝日朝刊の連載「憲法季評」の松尾陽氏の表記のタイトルのコラムで発見。内容はハラスメントに関するものである。松尾氏はエンパシーをこのように説明している。「シンパシーと同様に、感情と共振する力のことである。ただし、シンパシーが自己の経験の延長上で他人の感情に共振する作用であるのに対して、エンパシーは、経験や価値感が異なる他人の感情と共振する作用である」。なるほど、いいね、と思う。ただし、エンパシーは「偏り」をもたらし、「公平さ」を害するという批判もあるそうだ。確かに一理あるが、私が扱っている環境問題や事故を巡る課題においては考え方の枠組みはできているかも知れない。Pielke(2007)による科学者の4類型に当てはめると(2020年12月18日参照)、バイアスがあるのが「論点主義者」であろう。しかし、科学者が「誠実な仲介者」の立場も同時にとることができ、そしてエンパシーを持っていれば「誠実な仲介者」の見方は「論点主義者」を包摂することができる。(2021年1月14日)

何かをなすべき、何かをしている

今日の"折々のことば"(朝日朝刊)はいい。鷲田さんが引用したチェコの作家の文章がこれ。歴史は「誰かが何かをなすべきである」と提案するよりも、むしろ「何かをしている人」を必要とするのです(カレル・チャペック)。学術会議の仕事を3年やってきて、いくつかの提言にも関わったが、やはり提言をどう実践するかの方が大変だし、大切であることを常に感じていた。鷲田さんは言う。「必要なのはそれぞれの生きる場所で、課題を一つ一つ具体的に解決していく覚悟だろう」。研究者の中にはこのことを意識している人もいるが、具体的な現場とのつながりが得られないのだろう。私は行政や地域の中に実践の場を持つことができたので、幸せだと思う。しかし、現場を強調しすぎると、(理工系の)研究者との距離は大きくなりがちである。解決のひとつの方向性は文理融合であり、社会との協働の枠組みを作ることであるが、結局それはSDGsやFuture Earthの精神ということになる。やるべきことはもう見えている。(2021年1月5日)

競争環境の中でめざすもの

新年の学長挨拶がライブ配信されるとのことで、聞いてみた。話の大半は指定国立大学法人になりたいということだったので、この際と思い、文科省のサイトで調べてみた。指定国立大学法人とは、国内の競争環境の枠組みから出て、国際的な競争環境の中で、世界の有力大学と伍していく必要があるため、「研究力」、「社会との連携」、「国際協働」の3つの領域において、既に国内最高水準に位置していることを申請の要件として設定したものであるという。世界の中で競争に勝ちたい、その重点項目として3点を挙げているわけだが、その先に何を達成しようとしているのかが見えない。3つの領域を評価する数値基準も示されているが、それが達成目標をさらに不明確にしている。このように何を目指すかがわからなくなっているというのが日本の現状なのではないか。日本を運営しているのが20世紀を生きたシニアであるので、20世紀の慣性がとまっていない、あるいはノスタルジーから逃れられないというのが日本の精神的習慣になってしまっている。一方で若手の大半も現状に満足してしまっているのではないだろうか。問題はあるとはいえ、十分充足している現状の中で、未来は語るが、現実からは逃避する。新型コロナ禍はそんな満足が突然破られる実態をあからさまにしている。もう少し未来をわがこと化して考える必要があるのではないか。何を目指すのかを自分で考えてほしい。(2021年1月4日)

年賀状

新年を迎えましたが、昨年から続く新型コロナ禍のもと、不安の中でお過ごしのこととと拝察いたします。もう何年も年賀状を書いていませんが、欠礼につきましてはご容赦ください。年末にこころのゆとりを取り戻せないこと、インターネット時代の年賀状は本来の役割に戻らなければあかんのではないかという念い、いろいろあって年賀状を欠いてしまいましたが、本当に必要な方々に届けることができなかったことは慚愧に堪えません。皆様のご無事をこころよりお祈り申し上げます。歳をとるにつれ"事も無し"という言葉が好きになっています。それは幸せのあり方のひとつだと思うからです。発展とか、進歩とは違う定常な時間が人生の終盤には訪れるものではないかと思っています。若い頃は高みを目指して頑張ることもありましたが、ある程度の高みに至ると、いろいろなことが見えてきます。人生の意味も変わってくるものだと思います。このような変化を受け入れることができる社会になれば良いと思っています。(2021年1月1日)


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